「サツキ、今日の予定は? 逢う?」
『ん~……今、出先なんだ。こっから帰っていろいろあるから今日はムリ。明日なら昼間から逢えるけど、どうする?』
「木曜休みだっけ? つか、サツキって仕事なにしてんの?」
さっき平に言われたいろいろ不詳という言葉を払拭したくて、最初の質問から二度目の問いを投げてみる。
そう二度目だ。
教えてもらえないのではなく、聞かなかっただけで、適当にされている訳ではない。
『ほんとに知りたいの?』
「知りたい。本名も、年齢も、職業もちゃんと知りたい」
まじめに答えると、向こうも驚いたらしい。すこし間を開けてから戸惑う声を出した。
『なら明日、まずは職場に案内するよ』
「え? 明日って休みじゃねーの? てか、休みだからか」
『うん、そうだね』
「や~…別に行きたい訳じゃ無ぇんだけど」
店の名前や種類を教えてくれるだけで十分だ。
風俗関係の店はあまり興味ないし、通うのは社会人になってから付き合い程度でいい。
『そう』
でもその返事はサツキに不快感をもたらしたらしい。
彼の戸惑う空気がころりと変わる。
『それじゃ明日は夕方くらいにいつもの所で』
有無を言わせずそう言ったら、伺いもせずに電話は切れた。
声は穏やかで笑んでさえいるだろうに、態度が冷たい。
サツキはたまにこんなことがある。
ただ距離だけを感じて、話したあとなのに焦燥感だけがうちに残る。
自分は本当に彼が好きなんだろうか?
本来ならこのくらいの時期になれば女の子の態度も軟化してきて、蜜月に入る手前くらいにはなっているはずなのに、サツキは躯を開いても心はくれない。
もちろんそれを想定してのチャンレンジだった訳だけど、たまに見失って迷いが出る。
「楽しく無ぇんだよ。ちっとも……」
そびえ立つ大学の校舎を眺め、高畑皐《たかはたこう》はため息をつく。
「やっぱり断れば良かった」
大学の学園祭までの一ヶ月強、週一でいいからフラワーアレンジメントの手ほどきをして欲しい。
絵梨からそう頼まれたのはまだ皐が陵二と付き合う前だ。
彼の通う学校。そう思えばこそ二つ返事で引き受けてしまった。
あれだけ即決で快諾しておいて、今さらムリとは言いにくい。
「高畑さ~ん」
学内の駐車スペースに停めた車から出て、棟をボケっと眺めていたら、迎えに来たらしい絵梨が笑顔でこちらへ駆けて来る。
「うわ~ピンクの百合だ!」
「うん。あんまり色が可愛いから今日は奮発して来ちゃったよ。勝手に持って来たからこれはサービス」
車内を覗く絵梨に笑いかけながら、皐はドアを開けて花々を下ろす。
絵梨の顔が花に彩られ、興奮で色づく。
そんな姿を眺め、皐はしみじみと自分は花が好きだと思った。
アレンジも好きだし、こうやって同じ趣味を持つ者と過ごすのも大好きだ。
「さぁ、行こう?」
腕を取られ、ふらりと引き摺られながら、小さな声で「今日、菖蒲《あやめ》ちゃんは?」と問う。
「菖蒲? もちろん居るよ。――てか、菖蒲はダメよ! 今は失恋中なんだから!」
ムッとされ慌てて首を振る。
「違うよ。そうじゃなくて……えっと、あの菖蒲ちゃんの元カレ? そう言ってたよね。彼って今日も来るのかな?」
「え~……知らなーい。気が向いたら行くって言ってたけど陵二のそれは来ないのと一緒だから来ないんじゃない?」
なんとも心許無い返事にしおしおとうな垂れる。
一度、ここでニアミスのあった陵二は、高畑皐をサツキだとは認識しなかった。
当たり前だ。
ちょっとやそっとじゃ気づかれないくらいの変身はしている。
本来自分の持っている弱虫で生真面目な人格を払拭したくてサツキという人格を演じ始めたのだ。
弱くて融通のきかない自分では、恋愛で受けるダメージに対応しきれない。でも弱くて孤独だから、誰かと一緒にいないと生きられない。
「てかさ、高畑さん。陵二と何かあるの?」
ぽつんと聞かれドキッとする。
「いや、……華道サークルに男の子が来るのは珍しいと思って」
「あ、仲間意識? 止めたほうがいいよ。あいつ厭きっぽいから」
「そっか。そうなんだ」
納得するよう声を出しながら、焦燥が強くなる。
両手の空いている絵梨がガラス張りのドアを開けると、皐は抱えた花や材料を持って棟内へ入る。
階段を上がって華道サークルと掲げられた部屋のドアを開けると、そこには先週よりも多くの女の子たちが皐の登場を待っていた。
皐の持つ、大ぶりの百合の花にワッと視線が集まって、作業のしやすい環境が整う。
定位置と決められた奥の長テーブルに材料を並べると、皐は今日の講義に入った。
さすが花を愛するお嬢さん方だけあって、講義は滞りなく進み、皆が熱心に皐の声に耳を傾けてくれる。それが皐は何にも代えがたいほど嬉しかった。
ピンク色の百合は見栄えもいいが、サイズも大きく、講義をしながら仕上がった作品は女の子ひとりでは抱えられないほど大きな物になった。
それを花が連なる棚に並べ、片付けたテーブルにお茶とお菓子が用意される。
「このあいだは途中で帰っちゃったけど、今回はちゃんとゆっくりして行って下さいよ」
「あ……いや、ごめん。今日も仕事が……」
「ええ~だって配達の人が店番代わってくれるって言ってたじゃない」
さすがに常連だけある絵梨にそう言われ、すごすごとお茶の席についた。
皐を取り囲む面々の中には、陵二の元カノである菖蒲の姿もある。
長テーブルの真ん中に座る皐のちょうど前に座って、菖蒲はにこにこと笑っている。
――陵二は別れた女の子にも優しいらしい。
遠目ではなく、直接的に眺めた彼らは別れたのがふしぎなくらい、自然な空気だった。
それに嫉妬はない。
彼は見つけた時からひとりで居ることの方が少なかったから、自分と付き合っていたとしても、きっと好みの相手にはそれ相応の態度を取っているのだろうと予想していた。
「あたしの話はいーよ。せっかくだもん。高畑さんの話が聞きたいなぁ~」
キャッキャと楽しそうな彼女らの会話は、いつの間にやら徐々に恋愛話に移行していく。
皐の好みのタイプや、恋愛歴を聞きたがる彼女たちに皐はほとほと弱りながら、高畑皐の恋愛歴を語って聞かせた。
「初めて付き合ったのは高校生の時にアルバイトしていた花屋の店長さんだったんだよ」
「え~~年上?」
「うん。当時十七歳だったおれの十以上は上だったから三十歳近かったんじゃないかな」
「すっご~い。いきなり大人の恋だったんだぁ~」
キャッキャとはしゃぐ黄色い声が、「それでそれで?」と続きを催促する。
「え~……高校生だもん。軽くあしらわれて終わったよ。バイトを辞める頃には結婚が決まっていたしね」
「うっわ、切ない!」
「ねぇ」
当時の自分は花にも彼にも盲目的に夢中になっていて、彼と共に花屋でずっと働くことだけが自分の全てだった。
進路も勉強もそれだけのために頑張り、専門知識を身につけ、いざ就職する時期が来ると、なんの迷いもなく皐は彼の花屋を希望した。
彼は『嬉しい』と笑った。
笑って、言った。
『即戦力の皐が就職してくれたら百人力だよ。結婚する予定の僕の奥さんとも、皐ならきっと上手くやれると思う。よろしくね』
これからも変わらぬ付き合いを。
そう笑った彼についてゆけず、逃げるようにアルバイトを辞めた。
皐の変貌に彼は焦って、結婚はやめるから職場を辞めないで欲しいと願った。願ってくれた。けれど、ダメだった。
『待ってくれ!』
縋る声が耳に残り、その後、噂で彼が自分を探していると聞いた。
彼はまだ自分を探しているだろうか?
そんな強迫観念が和らぐのに四年も年月が掛かった。
「なんかその場だけで良い顔ができるような人に惹かれるみたいで、嫌になっちゃうよね」
そのあともろくな恋愛してないなぁ。と、サツキとしてやってきた遍歴を振り返り、苦笑いがこぼれる。
けっきょく気に入る系統はあの人なんだ。
「違うところを見ているのに、優しくされるとほだされちゃうのかな」
だからこんな男はやめておけ。そう絵梨にアピールするつもりが、菖蒲の琴線に触れたらしい。
「わかる!」
菖蒲が会話に割って来る。
「口が上手いだけとか、本気じゃないとか、わかっているのに、つい騙されちゃうのよね」
バカよね。と深いため息をつく菖蒲の背中を、絵梨がそっと撫でる。
「また言ってる。終われて良かったんだって言ったでしょ。どんなに口が巧くても、明日の約束しか出来ない男なんてクソよ」
「明日の約束?」
キョトンとすると、絵梨は口の悪さを恥じたらしい。
「や、ははは。えっと、陵二……菖蒲の元カレがそうだったの。無意識らしいとか言ってたけど、次に逢う約束しかしなかったんだって」
言われ、ハタっと気づいた。
確かにそうだ。
陵二は次に逢う約束はしても、来月はどこに行こうとか、旅行に行きたいとか、未来を語ったことがない。
こんなに学生に浸透しつつある学園祭にさえ誘われていない。
「高畑さん?」
「あ、いや、なんでもない」
四角い皿に乗ったクッキーをほお張り、冷め始めた紅茶で流し込む。
ズズッと最後まで飲み終わったら席を立った。
「ごめん。やっぱ店が心配だからもう行くよ」
陵二が来るのも心配だけど、ここで菖蒲と同じダメになる接点を知るのもキツイ。
残念がる女の子たちに頭を下げて、皐は足早に建物を飛び出す。
小走りで駐車場まで来ると、車に乗ってエンジンをかけた。
ブルルンと鳴るエンジン音を聞きながら、視線に陵二の姿が映る。
「なんだ。心配することなんかなかったじゃないか」
友人らしき男と笑いながら陵二は校門に向かっている。
――本名も、年齢も、職業もちゃんと知りたい。
なんて、珍しく真面目な声を出すから、グラリと揺れて欲が出た。
陵二はサツキに軽くあしらわれることで、自分の無力さにやきもきしている。
一緒に居てそれは手に取るようにわかる。
落としたがっているのも知っている。
そんな彼だから、高畑皐は晒せない。
きっと弱い皐にガッカリして、交際期間が短くなるだけだ。
****
学園祭当日。
観客が五十名弱入る大部屋にスクリーンを張って、映像研究会の面々が学園祭準備に追われている。
「陵二! それはあっち」
「それってどれだよ」
急きょ手伝い要因として昼休みの準備に参加した陵二は、気さくにサクサクこき使って来る友人の平《ひょう》に、悪態をつきつつ体を動かしていた。
「それだよ! その機材」
「あぁ、これか」
パソコン大くらいの黒い機材を持ちあげると、陵二は平の指示通りに動いた。
『どうせ学祭は新しい彼女が来るんだろ』
平にそう言われたとき、陵二はちょうどサツキに誘いを断られたあとだった。
仕事があるから行けない。もっと早く言ってよ。
そう言ってサツキにはあっさりぶった切られた。
「一週間前ってそんなに遅くねーだろ」
別に一日一緒にとは言わない。
時間のある出勤前とかにちょろっとでも出て来てくれたらいいのにと、そう思っただけだ。
「陵二? なんか言った?」
忙しそうな平に突っ込まれ、「いや」と首をふる。
「これから最終チェックで映像流すけど、観る?」
「お~観る観る」
あらかた終わった準備にひと息つきながら、映画研究会の面々が会場の席に座りだす。
暗くなる部屋と共に始まったのは、スーツの人間が大学の学食で必死に働くコメディーで、流れは大学のマドンナとスーツ男が結ばれるまでを描いているらしい。
ヒロインが出てくるたびにバックの映像に花が舞う。まるで少女漫画のような手法だ。コメディーらしくつい笑ってしまう。
「あれが華道サークルで撮った花?」
となりに座る平にこっそり聞くと、「そう」と返事が来た。
ざっくばらんに映像を取りまくっていた理由を納得しながら中盤まで来ると、ふいに華道サークルそのものが映る。
どうやらフラワーアレンジメントの講義を受けている場面らしく、あの眼鏡の講師がそのまま出演していた。
人の良さそうな丸眼鏡の花屋さん。
「これ、了解取ってあんの?」
アングルが隠し撮りのように見える。
「あは、気づいた?」
「……まさか」
「うん。絵梨ちゃん撮っただけの映像を勝手に編集が使ったみたい」
あは。と笑う平に頭が痛くなった。
「華道サークル、けっこう頭、硬いんだぜ」
「いいよ。喧嘩になったら話せるし」
お気楽な平に苦笑すると、ふいに画面がフラワーアレンジメントの講師をアップで捉える。
サラサラな髪と丸眼鏡。
女の子に話しかけられ、目を瞠るほど鮮やかに、ふわりとはにかんでいる。
紅く染まる頬が、なんともキュンとするほど可愛いらしい。
「あれ?」
陵二はふいに違和感を覚え、口許を抑えた。
デート中もベッドでも、常に振る舞いが大胆な恋人だが、時おり、――そう、陵二が積極的に動いたほんの一瞬だけ、戸惑うように頬を赤らめることがある。
その仕草が陵二は凄く好きだった。
「……サツキ?」
呟きながらも、違うと頭が否定する。
漂う空気がまず違う。
笑顔も、格好も、ぜんぜん違うのに、否定する先から何か酷く違和がある。
「なに? 昔の女でも居たか?」
「や、違……あの講師」
「あぁ、絵梨ちゃんが連れて来た花屋? あれ綺麗だけど、男だぜ?」
「……知ってる」
画面に映っている、あの細くてスタイルのいい躯を知っている。
そう思うのは気のせいだろうか?
「ふ~ん。顔は好きだけど、俺は気に入らんね。今日だってせっかく意を決して絵梨ちゃん誘ったのに、あいつと回るからって断られたし」
「え? あの花屋、今日ここに来てんの?」
俺の誘いは断ったのに? と、確認もしていない内から、つい不満が声に籠もる。
「……らしいけど?」
「……準備終わったし、離脱していいか?」
画面の男を見つめたまま言うと、気後れしたよう平が肯き、陵二はその場を静かに立った。
絵梨たちを探して、まずはと華道サークルの会場へ走り込んだが、そこにふたりの姿は無かった。
ただ、驚くほど大きな百合の花のアレンジ作品が威風堂々とそびえている。
陵二にはどれがどの花という知識はないが、南国のようにアレンジされた作品は葉がふんだんに使われていて、見た瞬間に目を奪われた。
「すげぇな……」
「これ、うちにアレンジを教えに来てくれていた先生の作品なんですよ」
圧倒されているのを嬉しく思ったのか、顔も合わせたことのない女が話しかけて来る。
「へぇ。その先生ってどんな人?」
たぶん講師が来ているという噂で入って来た新しいメンバーだろう。
丁度いいとばかりに陵二は彼女から情報を引き出しにかかった。
高畑皐、三十代前半。大学近くの花屋で店主をしている優男で、初恋の人の影響で花屋を始めたらしい。
年上の優しい包容力と傷を抱えているみたいな寂しげな部分がサークルメンバーにヒットしていて、大変人気のある先生なのだと、女はペラペラとよく語った。
「たぶん一時間も掛からず帰って来ると思うので、あっちで待ってませんか?」
女はお菓子の並んだテーブルを指し示す。
「いや、いいよ。ありがとう」
それじゃあね。と、女を残し、陵二は部室をあとにした。
ついでに両隣りの会場も確認しながら歩を進め、喫茶店や模擬店をめぐり、ミスコン会場の熱気にあてられながら人ごみをかき分けると、遠目に見える遊歩道に華道サークルの面々を見つけた。
「おい!」
菖蒲と数人の華道メンバーを捕まえて、絵梨のいどころを聞くと、ものすごく意外な顔をされる。
まぁ当然だろう。
絵梨と陵二は誰もがドン引きするほどあからさまに仲が悪い。
「絵梨になんの用?」
「いや、ちょっと、……居場所、知ってんの?」
詰め寄ると、菖蒲が戸惑ったように口を開く。
「向こうの花壇、わかる? 前々から花たちに元気がないって学校側が専門の人を呼んでるって話をしたら高畑さんが行きたがって」
「花の様子を見に?」
「そう」
大学の花壇周辺は、この学祭最中は特にイベントを行っていないため、人が少ない。わざわざそこへ行く意図がさっぱりわからない。
「まぁ、……んじゃあ、とりあえず行ってみるか」
「ちょっと待って!」
踵を返したら、いきなりシャツの裾を掴まれた。
「菖蒲?」
「すぐ戻って来るから待ってて!」
「なんで?」
「お願い」
菖蒲の強い瞳に射ぬかれて、なんとなくわかった。
ひと気のない場所へ想い人を誘導したなら、やることはひとつだろう。
「邪魔はしない。花屋を近くで見たいだけだ」
「ちょ、陵二!」
するりと菖蒲の手を逃れ、陵二は駆けだした。
どうして菖蒲の願うその数十分が待てないのか?
なんでこんなに走っているのか、自分でも不思議だった。
ただ知りたかった。
あの瞬間に感じた違和が正しいのかそうではないのか、確認できるなら知りたい。
だって本人だったら、その変わりっぷりはなんなのだ?
大学内の遊歩道からすこし外れた花壇には、サルビアの花が植えてあった。
サルビアはシソ科の多年草で、緋色の花が穂上に咲く、甘い蜜のある花だ。
揺れる緋色がみごとに美しい。
高畑皐はそんな花壇を眺め、首をかしげた。
「絵梨ちゃん? サルビア、ものすっごく綺麗だよ?」
花壇の花全体が枯れたように元気がなく、専門の人間を呼ぶほどだと、皐は確かにそう聞いた。
そりゃあ専門の人が来るなら自分などお呼びじゃない。それでも見たかったのだ。自分で何かできるなら、すぐさま動いてあげたかった。
しかし、眼前の花壇は眩しいほど綺麗に咲き誇っている。
「ごめんなさい。本当はもう専門の人は仕事を終わらせたの。学祭までに治療するようにってお願いしたらしいから」
「あぁ、そっか。そうだよね。良かった」
なぜ絵梨が嘘をついたのかはわからないが、花が元気で良かった。
皐がのんびりとそんなことを思っているうちに絵梨の準備はできたらしい。
さわさわと揺れる緋色の花の前で、絵梨はまっすぐ皐を見つめ、
「高畑さん」
と真摯な声を響かせる。
緊張感の籠もる独特の空気に、皐は瞬時にこれからを悟る。
迂闊だったと思ったが、もう遅い。
彼女の想いを皐は知っている。
学祭を通して、たぶん陵二より絵梨との関係の方が濃くなった。
「高畑さん。あたしね」
「……うん」
サァァァと肌寒い風がサルビアとふたりを撫でてゆく。
綺麗だと思う。
この景色も、絵梨も。
「ずっと、あたし高畑さんが好きだったの。この前とか昔の話も聞けて、もっと好きになった。あたしなら裏切らないのにって思った」
短慮に過去の恋を語ったことで、幻滅されるより庇護欲のようなものを刺激してしまったらしい。
花のように可憐な少女が、自分を求めて見つめている。
「絵梨ちゃん。おれは……」
どうして自分は、こんなにも自分を想ってくれる女の子を好きになれないのだろう?
自責の念に駆られても、だからって気持ちは転換できない。
頭の中にはただひとり。
たったひとりの男が小憎たらしく笑っている。
「そういうふうに想ってくれるのは、すごく嬉しいよ」
本当に心から、感謝する。
他者から向けられる好意は自分の支えになるものだ。
「でも、応えられない」
好きな人がいるんだ。
そこまで言うと、絵梨の顔が諦観したように微笑む。
「なんとなく知ってたよ」
ただ言いたかったの。と、絵梨は続け、
「でもせっかく言ったんだから覚えていてね。それであたしでも良いと思ったら教えて?」
と、優しく笑んだ。
「……うん、ありがとう」
そんな日は来ないと、自分はゲイなのだと言ったほうが親切なのだろうか?
チラリと思ったが言えず、胸がギシッと軋んで痛む。
彼女の顔が見られなくなる。目を逸らすのは失礼だろうか。
そんなふうに思いながらも宙を舞う視線がゆらめき、皐は木陰でこちらを見つめる陵二を眼に捉えた。
「陵二……」
あまりのことに無防備になりすぎて、つい名前が口をつく。
賑やかな学内とは対照的にとても静かなここの空気が、ふたりにその呟きを届けたらしい。
「あ……」
慌てて口を覆ったが、ときすでに遅い。
ずかずかと近づいてきた陵二に腕を取られ、「やっぱり」と勘付かれた。
「ちょ、陵二? 高畑さんに何?」
「佐藤、悪いな。話が終わったんならこの人借りていいか?」
「はぁ?」
なに言ってんのよあんた。と、絵梨は断りの態度に打って出る。
「ごめ……絵梨ちゃん」
「高畑さん?」
とっさのことに頭がパニックで、とても正常に機能させる自信はなかった。けれど、なんとか働くどこかで、絵梨を遠ざけようと、それだけは働く。
まさか告白をしてくれた女の子の前で修羅場をくり広げるわけにはいかない。
「ごめん。言い忘れていたけど、陵二のこと知っているんだ。ごめんね」
絵梨との会話中、特に学際の準備が始まってからは、絵梨と陵二の話をする機会は多々あった。
そのたびに知らぬふりを続けた。
だからここでそれを暴露することは正直怖くもあった。
「ん。……高畑さんがそう言うならわかった。……事情、聞きたいけど」
「うん。あとで教えるよ。また店には顔を出してくれるんだろう?」
微笑むと、絵梨は安堵したように笑い、踵を返した。
遠ざかる小さな背中を見送りながら、隣りにスッと陵二が並ぶ。
咲き誇るサルビア。
出来る事なら、どうにか誤魔化したい。
「その格好、なに?」
けれど彼の声はそれを許してくれそうもなかった。
大学の花壇は園芸部の領域だ。
陵二はあの花壇が今や綺麗に命を吹きかえしていることを知っている。
遊歩道から花壇まではそう離れていない。
走れば五分足らずで到着するから、遠目に見えてきた男女の影から声が聞こえるようになるまでは、そうかからなかった。
好きな人がいる。
と、そう彼は言った。
半信半疑でサツキの疑いをかけた男は、陵二のよく知る声で、好き、と声を出す。
サツキは決して好きなんて言わない。
『浮気? 別に。されても痛くも痒くもない』
小馬鹿にしたようにそう笑われたのはつい最近のことだ。
むかついて空気が険悪になった。
どうしたら手が届くのか?
どうしたらサツキの心を掻き乱せるのか?
あまりに考え過ぎて、そのわりに成果も出なくて、そろそろ厭きていた。
ただ躯はものすごく好きだ。
重なれば重なるほど、彼との相性はよくなる。
木陰から覗くふたりは、まるでカップルのように爽やかで、あれが自然なのだと見せつけられるようだった。
おっとりした感じの彼氏と、気が強そうな彼女。
とても似合いなのに、どうしたことかイライラする。
あれがサツキっぽいからか?
それとも花屋の店主としてなのか?
わからない。
ただ、花屋の店主がサツキかもしれないと思ったとき、胸が期待に鳴った。
ため息が出るほどに立派だった百合をモチーフにしたアレンジ作品。
菖蒲と一緒に眺めた数々の作品は唸るように美しく、『華道ってすげぇな』と陵二の心に刻みつけた。
無意識に憧れていた。
どんくさいと思った眼鏡の男が、あの作品らを手掛けたというだけで、そのギャップすら可愛げがあると思った。
別にそれらは恋愛感情じゃない。でも恋愛になってもきっと良かったんだ。
だって華道サークルの面々からあんなにも慕われている彼が、見惚れるほど可愛く赤らむ彼が、『サツキ』だと言うだけで、自分のものかもしれない。
そんな可能性に心が躍っている。
そうしてその期待は現実だった。
木陰に目を留めた花屋の店主が、驚愕に見開いた瞳のまま「陵二」と唇を象ったのだ。
衝動のように近づいて、思わず腕を取っていた。
「やっぱり」
呟きにサツキは諦めたよう瞳を閉じた。
遠くからミスコン開催を知らせるアップテンポな曲が流れてくる。
陵二の周りの予想では水泳部の伊野あたりが取るんじゃないかと言われていた。
本当は陵二も観客のひとりになる予定だった。けれど現在、陵二はここに居て、サツキの腕を取っている。
掴んだ腕は細くて熱い。
二人になれるまでに交わした絵梨との会話など耳にも入らず、いつも垂れ流しているエロい空気がピタリと閉じている恋人を見つめた。
どうしたことだろう?
いつも触りやすくて、抱きやすくて、気安い空気を放っているくせに、今日は触ることすら躊躇われる。
彼がこちらを見ないからか、閉じた空気は拒否を表しているようで、掴んだ腕はそうそうに放してしまった。
なぜだか胸が高鳴ってうるさかったから。
「その格好、なに?」
鎖骨の見えない服を着ている彼など初めて見る。
カッチリとシャツのボタンが留まった外見には隙がない。
「はは。そんなに違うかな? こんな格好も悪くないだろ?」
丸眼鏡がスッとこちらへ向いて、からかうように笑いたかったのだろうが、失敗して酷く不格好になった。
「悪くはないけど、……意外すぎ」
「ん。……そうだよね」
はは。っと笑う声が弱々しい。
「サツキ?」
「悪いけど、今日は帰る」
「は?」
「仕事があるんだ。店番を任せて出て来ちゃったから帰らなきゃ」
サツキは焦ったようにその場を離れようとする。
その態度は逃げようと言うのがあからさまで、つい腕をもう一度取っていた。
「待てよ。ちゃんと説明しろよ!」
「説明って? なにを?」
問い返されて怯む。
「だって俺は、サツキは夜のひとだと……」
「勝手に思っていただけだろ? 実際のおれは陵二の大学の近くで花屋をやっている普通のオッサンだよ。夜の街を飛び交う華やかさとなんか本当に無縁なんだ」
投げやりに言ったら腕を払われた。
「ちょ、なに? なんで怒ってんの?」
「怒ってないよ。驚いて、すこし動揺しているのかも。落ち着きたいから、もう帰らせて」
確かにパニクっているのはわかる。
こんなに感情的になっているサツキは初めて見る。
初めて見るから、帰したくないと思った。
「まだここに居てよ」
そっと肩に手をおいて、瀬踏みするようゆっくり唇をちかづける。
いつもなら気配を察したら向こうから寄って来るくらいなのだが、今日はぴくりとも動かず、硬い唇は舐めても突いても、柔らかく開かれることはなかった。
「高畑皐《たかはたこう》は俺を受け入れてくれないの?」
「…………」
ぬくい唇から離れてそっと聞いてみる。
「サツキって書いて、皐《こう》って読むんだってな」
「…………」
口は真一文字で返答をしないくせに、彼の瞳が雄弁に動揺を語っている。
「サツキって呼びも似合うけど、――皐《こう》って呼んでもいい?」
「っ…」
「皐?」
「ダメ。――呼ぶな」
眉間に深く溝ができ、スッと顔が逸らされる。
無防備に半開きになった唇を見つめ、やっと開いたそこへ深くくちづけて、甘い空気へ持っていこう。と、頭ではそんな計算式が瞬時に広がっているのに、躯が動かない。
どうやら自分は彼の態度にショックを受けているらしい。
「どうして? なんでダメなんだ?」
「…………」
「また、黙りか」
長嘆することで彼に圧力をかけ、今度はいくらか強引に唇をふさいだ。
細い指先が陵二の頭を撫で、髪の毛をすく。
舌先がいやらしくもぐり込み絡み合う。
そう、いつもの彼ならそうする。
けれど今日の彼の唇は硬く閉じ、甘い唇をいくら味わっても弛緩せず、そっと腕にその身をおさめても、戸惑うよう彼は身動ぐだけだ。
――誰だ? これ。
同じ人物を手に抱いているはずなのに、まるで別人を抱いているよう錯覚する。
まるでマネキンのように身を固くする、恋人……?
「どうして本名で呼ばれたくない? 源氏名を名乗ったのは、俺とはあくまでも逸楽のあいだがらで居たいと思ったからか?」
問いながら、そうだという確信はあった。
落としたいと躍起にはなっていたが、陵二自身、彼との関係が長く続くだろうとは微塵も思っていなかった。
ふたりのバランスはそんな軽薄の上で成り立っていたように思う。
そこを超えようとルール違反を犯しているのは陵二だ。
今さら気づいたが、遅かった。
二十三歳から歳を取っていないと嘯く、若々しく華やかなサツキではなく、三十代の花屋店主として陵二の前に立つ彼が、――この彼に抱き返されたい。
それを望んでしまっている自分を自覚する。
「サツキ……」
呼び名は戻したけれど、もはや求める姿は違っていた。
するりと陵二の腕から彼が逃れる。
「ごめん。こんな姿を晒して、動揺させたね。……また、…連絡するから」
陵二の質問にはなにひとつ答えず、サツキは陵二の前から消えた。
そうだと言っても、違うと答えても、ふたりのバランスが狂うことをサツキは知っていたのだろう。
このまま。
このまま日々を重ね、飽きを迎えて新しい道をゆく。
それで良かったはずの道が二股に割れ、陵二を別の道が誘っている。
彼が欲しい。
そう思ったら、簡単に動けるはずの人間なのだ。陵二は――。
***
花屋の朝は忙しい。
目まぐるしく動き回る中で、それでも皐《こう》は店先の沿道をチラチラと眺める癖がある。
店内のガラス窓から信号機付近に気を散らしつつ作業を進めていたら、気づけばお昼近くなっていた。
今日、彼は休みだろうか?
ひと息ついて仏花の花束を作りつつ、そんなことを考えていたら、ちょうど陵二が店の前を通った。
知らない時はまるで視界に入らなかったこの店も、知られてしまえば無視はできないのか、彼もまた皐の店を眺める。
たった数十メートル離れただけの距離で視線が絡み合う。
ただそこにジッとして、彼は皐の店に近寄ってこない。それは皐がそう願ったからだ。
彼からの連絡に曖昧な返事をし続けて、気づけば一週間が経過してしまった。
逢うようになってから、一週間逢わないのは初めてのことだ。
「皐《こう》さん、あいつとなんかあるんスか?」
店の奥で在庫の確認をしていたはずの深水修也が、いつの間にか陵二ばかりを気にする皐を眺めていたらしい。
意を決したと言わんばかりの空気で話しかけてくる。
この一週間、陵二が店の前を通るたびに張り詰めてしまう自分の空気と、不審者のようにこちらを見る男の姿に修也も気づき、きっとずっと問うてみたかったのだろう。
けれど皐は「あいつって?」と、鼻で笑いながら大ぶりに花開いた菊花を徒に数えた。
修也のことは信頼しているし、自分がゲイだということを何がなんでも隠しておきたいとは思っていない。けれど今は、そういうのとはまた別で、説明しきれる自信がない。