【時間がないならそっちに遊びに行ってもいい?】
そう陵二が送ってきたメールに、思わずダメだと書いてしまった。
夜に逢えるときにしっかり逢おうとフォローは入れたが、なんとなくそれから彼の送ってくるメールは機嫌が悪い。
「……いや、なんでもないです」
皐の頑なな空気を察したのか、修也はなんでもないような声を出し、すぐに在庫に集中し出した。
朝の配達を片付け、夕方用の在庫を確認している彼は、皐に背を向け、受注書とにらめっこしつつ鉢やアレンジ作品を数えている。
修也の視線から逃れ、皐はホッとしながら再ど外へ視線を移す。
店近くの信号機の下、まだ彼は居る。
さっき信号が変わっていたから本当ならもうそこにいないはずなのに、ぽつんと横断歩道の前で佇んでいる。
責めているのか?
弱気で尻込みしてしまう自分を、まだ知られている訳ではないのに、渡れるはずの青信号を見送りこちらを見ている彼を見ると、責められているようで身が竦む。
「おれだって、逢いたいは逢いたいさ」
ポソッと呟きがこぼれ、ハッとすると修也がこちらを眺めていた。
なんらかの言葉を吐きたそうで、それを我慢しているような顔をしている。
「なに? 在庫の確認は終わった? 大丈夫だったろう?」
ひどく早口になった。
たぶん頬もほんのり紅潮しているかもしれない。
そんな皐を修也は眺め、小さく嘆息したあとに、なんとなく申し訳なさそうに頭を掻いた。
「パキラが無いみたいなんですけど」
「えっ!」
座っていたイスから思わずワッと立ち上がる。
「パキラがない?」
パキラは物によっては幹が三つ編み状になっていたりする可愛らしい観葉植物だ。
大ぶりの葉や、独特な幹がカフェや雑貨店の空気によく似合うため用意することが多かった。
「いくつ?」
「一本です。バーのリリカルに今日卸す予定になってます」
「一本……一本なら」
仕入れたはずだと思考を働かせ、昨日ふらりとやってきた一見さんが買って行ったのを思い出した。
パキラは人の腰ほどもあったりする観葉植物ゆえ、あまりこの店では売れない。
大学や病院の程近くと言うこともあり、皐の店は立花用の切り花やアレンジしてある籠花などがよく売れる。あとは契約した飲食店などに前もって卸す作業で食べている。
「売っちゃったんスか……」
驚く修也に苦笑した。
「うん」
お客さんに欲しいと願われれば拒めない。
また仕入れようと思っていて、うっかり忘れていた。
「なんか不思議なお客さんだったんだよ。花を買いに来たと言うより偵察に来た感じで、ぐるぐる店内を見回して、人の名前を訪ねて、んでパキラを指してこれ下さいって」
「……ライバル店でも出来るんですかね?」
「ああ。……って、それ困るなぁ」
くしゃりと苦笑いをしながら皐はジーンズのパンツから財布を取り出すと、残金を確認する。
「悪いけどショップ回っていいパキラを探して来るから、すこしのあいだ店番頼んでいいかな?」
「あ、はい。お願いします」
パキラなら何でもいいから配達がてら買って行ってとは思考回路すら働かない皐は、きちんと自分の目で見て触って、好みの植物を購入してくるのが常だ。
店で購入しては粗利など取れないが、そんな程度で信用を守れるなら安いものだ。
ホームセンターに隣接しているような大型のフラワーショップを思いつくだけ頭に浮かべると、夕方までの時間を逆算しつつ、皐は急いで花束を完成させ店を出た。
チカチカと変わる信号に足早になる人々がそこに佇む陵二を追い越していく。
学園祭が終わり、頓《とみ》に肌寒くなってきた。
陵二はジャケットの襟を立てて風をやり過ごし、後方に建つ彼の店に視線を送った。
このまま踵を返して歩を進め、彼の店に押し入ってしまいたい。そんな衝動が常に湧きあがっている。
あまり自律とは無縁に生きてきたためか、その衝動を抑えるだけでキツかった。
彼へ――高畑皐へと近づくためにはどうしたらいいのか、熟慮していたら何がいいのかわからなくなった。
パッタリと閉じてしまっているから、その開け方がわからない。
通常なら、こんなときは無理やりごり押しで抉じ開ける。
たとえ壊れようと構わない。けれど今回は壊れてしまっては困るのだ。
下手を打てば彼を失くす。
その危惧が何より陵二の行動を制限する。
どうにか横断歩道を渡り、学生で溢れかえる構内を途中まで進んだが、ふいに足が止まる。
ムラムラと上がってくる色情と憧憬。
店を切り盛りする高畑皐は目眩がするほど魅力的だった。
あれは陵二を甘やかすサツキではない。
おいそれとは近寄れない大人の男だ。
やわらかい物腰や、作業をする真剣な顔。
来客があると甘く笑い、客の頬を染めさせる。
すでにストーカーの域なのではないかと思うほど彼を眺め、何度も彼の肌を反芻した。
あんなふうに淫れるなんて微塵も感じさせない克己的なところがものすごくそそるのだ。
「あれ? 陵二じゃん。おはよ、って時間でもねーか、メシ喰い行く?」
構内の大路で立ち止まっていた陵二へと、平《ひょう》が声をかけてくる。
「平……」
「どした? 欲求不満か?」
冗談かもしれないが、確信をつかれた気がしてグッとつまる。
「んな顔してるとまた女が寄ってくんぞ? 彼女んとこ行ってくれば?」
「んな顔ってどんな顔だよ」
「説明して欲しいのか?」
「……いや、いい」
小さく息をつきながら、陵二はスッと踵をかえした。
「陵二?」
「……忘れ物」
そう言っただけで通じたらしい。
頑張れよと見送られ、十五分後には彼《か》の店の前にいた。
フラワーショップ【ガーデン】の外観は年配層が好みそうな木目造りの汪洋とした雰囲気で、ドアの閉じられた店先には、軒下いっぱいに小さな鉢植えが置いてある。
内観を覗けるガラス張りのドアと窓にはところどころに草が生い茂り、カーテンの代わりをしていた。
中を窺うとき、この草がとても邪魔だった。
そう思いながら店内を窓から覗くと、中はすっきりと落ち着いていて、スポットライトが当てられているのかどれも花が綺麗に見える。
陵二はごくりと生唾を嚥下して、店のドアをそっと開けた。
カランとドアに付いたベルが鳴ると、奥でもさもさと働いていた男がハッと顔をあげる。
「い、…いらっしゃい、ませ」
小さな店内だ。ザッと見回すだけでサツキの姿がないことを確認できる。
(やべぇ……居ないのは想定してなかった)
花屋なんて普段来ないから、どうしたら良いかわからず、いきなり気詰まりになる。
店の男はもっさりとした大男で、髪さえすっきり切れば多少見られるようになるのだろうが、印象はハッキリ言って野暮ったい。
「あの……」
背中を向け作業に戻ってしまった大男へ、そっと声をかけると、男は飛び上がるほど驚いてこちらを振り返った。
「な、なんでしょう?」
「ここの店主は?」
「あ……え~っと、ちょっと出てまして」
さっきまで居たじゃないか。と、来る時に見た真剣な顔のサツキを思い浮かべたが、それは言えず、そうですかと黙り込む。
そのままチラリと男を覗く。
(まさか、これもサツキの男とか言わないよな?)
実際、サツキが自分以外といるとき何をしているのか、どんなふうに誰と過ごしているのか、陵二はまったく知らない。
好きな人が居ると、絵梨に向かってあの唇からこぼれおちた気持ちが、誰へ向けられたものなのかも知らないのだ。
当然、その矛先が自分ではない可能性もある。
「あの……」
なんの準備もなく声をかけ、何も言えずに黙り込む。
自分は何をやっているのだろう?
ペースが狂ってほとほと参る。でも気になるのだ。彼とサツキの関係が。
窺うような店員の視線から逃れるように頭を数回ボリボリ掻くと、誤魔化すよう笑う。
「店主、居ないならいいです。また来ます」
小さい会釈をすると陵二はサッと踵をかえした。
ドアを開けるために把手《とって》を握り、カランと音が鳴ったところで、件《くだん》の店員に「あのっ!」と声をかけられた。
はい? と振り返るが、男はもじもじと言葉を紡がず、余計になんとなく愚考じみた思考が頭をめぐる。
「なんですか?」
問う声に知らず緊張が混じった。
そんな陵二を知ってか知らずか、声をかけておきながら、店員は苦笑いで会釈をする。
「すみません……なんでもありません」
「なんでもなくないだろ」
ムッとしたら焦ったらしい。
「ほんとになんでも……いや、出すぎました。夕方には戻ってくると思うので、また来てください」
焦る男は怯えたように一歩下がる。けれど、怯えているのはたぶん自分だ。
「……また来ていいんですか?」
もしこの男がサツキと関係を持っているなら、高畑皐の本命はこの男だ。
ふしぎとそんな確信がある。
窺う口調に敵意を感じたのか、店員は焦ったように両手を眼前でパタパタ振った。
「いえいえ、もちろんです。店主はあなたを待っているみたいでしたし」
「……へ?」
「皐《こう》さんは……うちの店主は、店内を覗かれているお客様に気づいていました。気にして待っているように見えました」
斟酌《しんしゃく》するよう微笑まれて、むぁっと獰猛な気分が陵二を支配した。
「日を改めますんで、来たことは言わないで下さい」
すげなく頭を下げて店を出る。
往来を早足で歩きながら、自分が何に対して憤っているのか特定できずイライラした。
ただサツキを『皐《こう》』と呼んだあの男が気に入らない。
彼が大事にするあの店に居て、そこを任されているのも気に入らない。
「関係者風、吹かせてんじゃねーぞ」
ぼそりと出た本音にギョッとした。
自分はやきもちを妬いているのだ。
接した感じ、たぶんサツキとは何もない男なのに、ただ傍にいるというだけで妬けるなんて、どうかしている。
四件目のフラワーショップでやっと、皐《こう》は理想のパキラに出逢った。
背が高く、葉がつやつやとしているパキラがバー、リリカルの玄関口に飾られるビジョンがありありと頭に浮かび、即座に購入した。
その足で店に戻ると、修也から陵二がここへ来た旨を聞き、面食らう。
「言うなとは言われたんですけど……」
言いづらそうにでも、教えてくれた彼に感謝して、もしやと携帯電話を確認する。が、それらしいメールは入っていない。
【明日の予定は?】
と笑顔の絵文字つきメールを二日前に受信したのが最後だ。
それに皐は【明日は仕事。ごめん】とこれまた笑顔の絵文字をつけて返している。
絵文字は便利だが、もしかしたら相手を隔てる壁にもなるのかもしれない。
にこにこと楽しそうに笑うマークが本音を隠してしまっている気がする。
逢いたいと、なるべく負担をかけないように意思表示しているような彼のメールを見ると、皐だって彼に逢いたいと思う。
けれど、次に逢うとき、自分は何者であればいいのか?
そう思うほど足が竦む。
次に逢うとき、自分は何者であればいい?
ただ高畑皐であればいい。そう思えるなら、すぐにでも連絡し、逢えただろう。
でもこのままの自分を彼に晒し、すこしの期間でも愛されてしまうのが怖い。
「そ、れで、その彼はなんか言ってた?」
ようやく戻って来た配達車に修也が植木を積み込むのを手伝いながら、皐はそれとなく会話を続ける。
「いえ、……日を改めてまた来るとだけ」
「そっか」
すこしホッとしている。
けれどどこかで残念にも思っているのか、ざわざわと胸が揺れる。
逢いたい。
逢って、彼に触れ、彼を感じたい。
できることなら永遠に――。
空が茜色に染まる。
修也が配達へ行くのを見送り、店へ戻る。
そうしてポツリ残った店内に、カランと陵二が現れたのは空が藍にとける頃だった。
お客さんかと顔をあげ、陵二を確認するなり息を呑む。
「陵二……」
彼はちょっと見たこともないような気まずい顔をして、店の入り口に立っていた。
「久しぶり……」
「ん。そうだね。――こっち、入りなよ」
皐は陵二に店の中にあるテーブルスペースに来るよう促す。
絵梨や他のお客さんの接客をしたり、作品を仕上げたりするために、狭い店内だが、そこそこ広いテーブルスペースを確保している。
「……昼間にいた店員は?」
四角い木のテーブルに備え付けられた丸い木のスツールのひとつに陵二は腰かけ、店内を見回す。
「配達に行ったよ」
「ふーん」
聞いたわりに反応は薄い。
けれどそれを不審に思うよりも強く、動揺と鼓動が皐を支配している。
店に常備してあるポットを手に取り紅茶をカップに注ぎながら、久しぶりに在る彼に胸が高鳴った。
「あの男もさ、サツキのイイ人のひとりだったりすんの?」
揶揄するよう言われた言葉に「なにそれ」と鼻で笑ったけれど、けっこうショックだった。
皐自身、遊んでいるような挙動を心がけていたのだから、そんなふうに認識されていても仕方ないのはわかるのに、身勝手だけど悲しい。
「だってでかい男、サツキの好みっしょ。前に一緒にいた男もでかくてむさかったし」
「別に、でかくてむさい男が好みな訳じゃないよ」
「ふーん」
話は振るくせに、やはり反応は鈍い。
「どうした? なにか用があって来たの?」
「別に」
白いティーカップを陵二の前に置きながら、彼の違和にようやく気付いた。
「別に、じゃないだろ。わざわざここまで来ておいて。 何? 聞くから言ってみな?」
文句でもいいよ。と続け、彼と視線を合わせるために皐もスツールに座る。すると当然視線が絡み、スッとそれを逸らされる。
「陵二?」
「その格好……」
ボソッと言われ、「格好?」と自分を見る。
皐は今、高畑皐として花屋の店主の格好をしている。
しっかりボタンを留めた白いシャツにロゴの入ったエプロン。
ズボンは汚れても支障ないジーンズで、眼鏡をかけ、頭は櫛でとかした程度。
とてもセンスが良いとは言い難い。
「あぁ……ごめん。てか、店に来る方が悪いだろ」
「だってサツキ、逢ってくれねーし」
「あ……そっか」
ごめん。と再度あやまり口を噤んだ。
どうしたものかと途方に暮れる。
彼の前で何者であればいいのかと悩んだが、皐は彼の前ではサツキだった。
彼を前にしたら、とうぜん自分は夜の姿をしている。そんな気分になっていた。この店で。
(ふしぎなもんだな)
「てか、別にそういう落ち着いた格好も嫌いじゃない」
照れたような仕草で言われ、咄嗟にドキンとときめいて、同時に防衛本能が働いた。
「はは、なにそれ。それを言うなら女の子なら。だろ?」
女の子なら、陵二はミニスカを穿く女の子よりも清楚なひざ丈スカートを穿いているような子を好む。
「なんだよ。今は女の話なんかしてないじゃん」
「ん。……そうだけど」
もごもご口ごもりながら、皐は空気を変えようとポットを傾け自分のお茶を淹れる。
「その格好さ、……どっちが本当?」
ふわっと立つ湯気の向こうで、陵二が嫌に真剣な顔で聞いた。
「どっちって……」
「大学でさ、皐《こう》って呼ぶなって言ったじゃん? あれって、なんとなくで呼び名を使い分けている訳じゃなくて、意識して線引きしているってことだよな」
「…………」
「だったら、どっちが本物?」
それを聞いてどうする? 真面目に皐を見つめてくる陵二に問いたかったが、やめた。
「……わからない」
主人格はとうぜん高畑皐だ。
サツキでいるときの自分はすこし背伸びをしてムリをしている自覚はある。けれどあの奔放とも言える時間は、翌日ドッと疲れるけれど皐の安らぎで幸福だった。
あの時間がなければ今の皐はいない。
素直な思いを言葉にすると、「ならばどちらでいる自分が好きだ?」と問われた。
それなら答えられる。
「この店に。ここで花に囲まれている自分が一番好きだ」
皐はふわりと口許を綻ばせて店内に視線をくゆらせる。
誰かと肌を合わせる安らぎを得られるのがサツキならば、この店は皐に生きる活力をくれる。向上心を与え、喜びを与え、自信までくれるのだ。
生きていてもいいと。
「俺も」
ぽつんと同意され、キョトンと首をかしげた。
「なにが?」
皐として陵二に会うのは今日が二度目だ。サツキとしてならもう二ヶ月以上は共にいるけれど。
「なにって、そのままだけど? サツキは綺麗で華やかだけど、俺も今のあんたの方が好きだ。なんか、凛としていて心服させられそうになる」
「な、なに言って……――そんなこと言われたことないよ。弱そうだとか、独りで生きていけなそうとか、そんなことは言われるけど」
最近なら、ぽやんとしていて幼気《いたいけ》だと絵梨に言われた。十も離れた女の子にだ。
「へぇ、意外。俺はサツキの姿の方が弱く感じたけどなぁ。根無し草みたいでどうとでもなりそうなのに、根がないからどうにもならない」
もどかしくてイライラしたよ。と陵二は笑う。
「でも今のあんたは根がしっかりおりてる。その姿のまま抱かせる相手はきっと一人だけなんだろうな」
眩しそうに目を細め、そっと陵二が皐に手を伸ばす。
それを咄嗟に避けてしまい、「ほらな」と揶揄する声に返事もできず下を向いた。
「俺さ、今のあんたがいい」
そっと落とされる声に、グッと感情が詰まる。
ひざの上で無意識に作っていた握りこぶしを、これでもかと握った。
「次はその姿で逢いに来てよ。まだ抱かせてくれなくてもいいから」
ねっ。と爽やかに笑い、陵二はスツールを立った。
また連絡するからと声をかけて彼が店を出て行くあいだ、皐は身動きもできず俯いたままだった。
躯が小刻みに震え、呼吸がし辛い。
怖い。
背中から恐怖が襲いかかってくる。
『僕の奥さんとも、皐《こう》ならきっと上手くやれる』
「忘れたはずなのに……」
もう思いだすこともなかった記憶が、なぜか今、鮮明に蘇る。
陵二《かれ》が好きだ。
外見ばかりを想っていた頃よりもずっと強く、その勝手さも、明るさも、浅慮に見えて実はけっこう考えているところも、彼なりの配慮を受けるたび、想いは強くなった。
だから余計に怖いのだ。
弱さの塊だったサツキを見つけてくれた彼に、弱さを切り離した皐《じぶん》ごと根こそぎ奪い取られてしまったら、もうきっと芽吹くことは出来ないだろう。
【大学の学祭で作品を見てくれたお客さんから依頼が来て、顧客が増えたよ】
ニコニコとした絵文字にピースマークまで付けて、昨日サツキが陵二へ送ってよこしたメールがこれだ。
「知るかよ……」
花屋が定休の木曜日、逢えるかとメールをしたら、こんな返事をよこして来た。
イメージをふくらますために、休日だが顧客の店を訪ねるのだと言う。
「いつんなったら抱けんだぁ~…?」
そろそろ限界だ。こんなに禁欲したことはない。
まだ抱かせてくれなくていいから、次は眼鏡で逢いに来て欲しい。
そうゆっくり宣言をした翌日にはサツキを抱く夢を見ている始末で、自分がまったく信用ならない。
でも出来るなら、次は眼鏡の彼と逢いたい。
遠くで眺めていたときは凛と強かった彼だが、直接逢ったあのときは、驚くほどあえかに見えて、正直つけ入る隙だらけだった。
無理強いすれば手に入れられたかもしれないチャンスを前に、その弱さに陵二はつけ込めず、指先ひとつ触れずに離れてしまった。
ハァと小さく息をつくと、陵二は目の前の昼食に視線を落とす。
サツキの店が定休日の木曜日。
天気のいいお昼時だと言うのに、陵二はバイト先のファミレスで日替わりランチをつついている。
もちろん、客席ではなく店奥の休憩室でだ。
【今、珍しくランチ時間にバイト中。お昼まだなら食べにくれば?】
ダラダラと食事を取りつつ、ダメもとでメールを送り、フォークで皿の上のコロッケを突き刺す。
交替制の休憩は話し相手がいなくてつまらない。
もそもそと味気ないランチを咀嚼していると、メールの受信を携帯が知らせる。
【仕事終わったから、三時近くになると思うけど行くよ。今日は何時に上がれるの?】
思わずガタリと前のめりになった。
昼食そっちのけでサツキにメールを返す。
【上がりは四時。どっか行く?】
【四時ならそっちでお昼を食べている時間はありそうだね。どこに行くか考えといてよ】
「よっし!」
思わずガッツポーズになって、ハタっと冷静になったらだいぶ恥ずかしかった。
しかも二時で仕事を終えてきた主婦がちょうど居合わせ、ものすごく意外な顔で陵二を見ている。
「今井くんでもそんなふうにはしゃいだりするのねぇ」
母親みたいに微笑ましがられ、余計にグッと羞恥度があがる。
高尾というネームプレートをしている彼女は幼稚園のお子さんを持つまだ三十歳そこそこの主婦で、たぶんサツキと同世代くらいなのだろう。
両親と同居らしく休日も昼間は勤務しているため、休日の昼間出ることのある陵二とはそこそこ話せる間柄だ。
恋人? と、携帯の相手を聞くから同意すると、「ならデートね」と楽しそうな声を出す。
「そうだ、高尾さん。どっかデートにいい場所知らない?」
着替え終わった彼女に問うてみると、高尾は「デートなんてずいぶんしてないからなぁ」と唸りながらも考え、アッとバックからパンフレットらしきものを取りだした。
「フラワーパーク?」
デートスポットと言うより、ファミリー向けのテーマパークらしい。子供ランドやバラ園、熱帯植物館と地図に明記されているのをサッと見とめる。
「このあいだ家族で行って来たの。さすがにもう冬支度だから花は少なかったけど、紅葉がちょうど見ごろで良かったわよ」
「へぇ……」
植物関連ならサツキも喜びそうだと、陵二は高尾から話を聞くことにした。
「ここね、好きでけっこう行くんだけど、本当のお勧めはやっぱ春から夏になるくらいがちょうどいいのよ。六月ごろ行くと、もう園内皐月だらけ。すっごく綺麗よ」
「サツキ?」
「ええ、皐月。つつじみたいな花なんだけど知らない?」
「皐月は知ってる。意識してみたことないけど。つつじとの差もわかんないし」
「男の子はそうよね。簡単に言えば皐月はつつじより一ヶ月くらい開花が遅いのよ」
「へぇ……だから六月か。ならその頃に行ってみようかな」
「今の彼女と?」
「うん。花が好きな人なんだ。特に皐月なら思い入れ深いと思う。このパンフ貰っていいかな?」
もちろんと彼女は笑い、そうして眩しそうに瞳を細めた。
「今井くん、すこし変わったね」
しみじみ言われて眉根を寄せる。
「私、前に言われたことあるんだ。一ヶ月も二ヶ月も先のイベントなんて行けるかどうかわからないし、今聞いても仕方ない。って」
「……そうだっけ?」
「そうよ。私あれで君のこと遊び人だって認識したんだもの」
うふっと笑われ、笑顔が引き攣った。
「遊び人って」
死語じゃないか? てか嫌な言い方だ。
結果的に交際期間は短くなっているが、いつだってちゃんと本気で向き合っているのに。
「相手との先が見えてない。相手との未来を望んでいない。そういう人を遊び人って言うの。本気で好きなら相手との老後も楽しみに出来るものよ」
主婦らしいどっしりとした愛情を見せられ、陵二は目からウロコだった。
「あらやだ。もう行かなきゃ」
子供のお迎えがあると陵二に手を振り慌てて帰った高尾を、陵二は呆然と見送った。
手には彼女がくれたパンフレット。
なんだかそれが気恥ずかしく感じる。
「そうか……」
好きって、そういうことのなのか。
今さら初めて知ったような気がして落ち着かず、陵二はパンフを自分のロッカーに仕舞うと休憩を切りあげ業務に戻った。
黄葉したイチョウがさわさわと揺れる小春日和。皐は陵二の働くファミレスを訪れた。
車通りの多い沿道に位置する店は駐車場も込み入っていてなかなか繁盛しているらしい。
ここへ来るのは彼に声をかけられたあの夜以来だ。
店のドアノブに手をかけると、三十代くらいの女性店員がメニューを持って待機する。
なんとなく懐かしい想いにとらわれて口許を綻ばせると、スッと奥から現れた陵二が女性店員に何やら耳打ちし、その手からメニューを受け取った。
メニューを構えたイケメン店員がこちらを見て笑う。
眼鏡にシャツという地味な格好で現れた皐を見つめ、この上なく嬉しそうにはにかむ。
オーバーラップするのは最初にここへ来た時に見た、無関心なよそいきの顔だ。
グッと胸をわしづかみにされたように、心臓が痛い。
「いらっしゃいませ」
なんとなく照れ笑いする陵二に連れられて、皐はカウンター席についた。
「お勧めは日替わりだよ。俺もさっき食った」
「じゃ、同じもので」
「了解~」
白いシャツに絞めた細長いネクタイが揺れ、季節がら仕舞われている二の腕が半そでの制服から覗く。
ドキリとする。
彼とここで顔を合わせたときは半そでなど見慣れた夏だった。
深夜ではのったりと眠そうに働いていた彼も、今日は一緒に働くスタッフたちと談笑しながらくるくるとよく動く。
そんな姿を眺めながら、皐の胸は早鐘を打っていた。
――今のあんたがいい。
陵二から高畑皐がいいと言われ、とっさに恐怖に震えたあの日から、幾日かをくり返すうちに皐の中で変化が起こった。
バカみたいに何度も何度も彼の言葉を反芻していたら、じわじわと恐ろしさよりも幸福感が先にたつようになってきてしまった。
だって、不本意だけど惚れている相手だ。
グッと懸命に気持ちを抑えているけれど、それを開放したいと願う自分だって存在している。それがたった数ヶ月、いや数日で終わりをむかえるのだとしても構わない。
彼に好きだと伝えて甘え、幸福に浸りきってしまいたい。
けれどその願いを実行するにはトラウマが邪魔をする。
簡単に捨てられる傷ならそもそもサツキなどという便宜者など作り出してはいないのだ。
陵二からの連絡を前に、どっちつかずに立ち往生しているとき、店の電話が鳴った。
『学園祭で見かけた貴方の作品を見て、そちらのショップに是非依頼したいと思いました』
新しい客がそう言ってフラワーショップガーデンへ連絡をして来るのはこれが初めてではない。
すでに立て続けに数件、同じような依頼があったあとだった。
いくら学園祭とは言え、そこまで影響力があるものかと疑ってみたら、案の定ウラがあった。
顧客はある農産業者に紹介されていた。
それは彼の大学の花壇をよみがえらせた人物であり、いきなりパキラを購入した者の関係者でもあり、遠い過去に皐を苦しめた、たったひとつ恋を捧げた人でもあった。
花坂祐理《はなさかゆうり》。今年で確か四十三歳。
遠い過去に恋をして、終わった過去の人。今さら皐の人生にしゃしゃり出てくる権利のない男だ。
「今さら何だよ……」
トラウマを植え付けた男だが、もうすでに過去の恋。疑問と意外がふくれあがったが、あえて聞かなかったことにした。
その間にも、陵二からの連絡は来る。
当たり障りない文章の中に逢いたいを織り交ぜてくる彼に、皐も当たり障りなく返事を書く。
このままではいけない。それだけはわかっていた。
そんなとき、花坂祐理が皐の店、フラワーショップガーデンへ現れた。
客とし現れた彼は小さな子供をふたり連れ、驚くほどガタイがよく、小麦色に日焼けしていた。
「は……なさか、さん?」
ちょっと見、彼だとわからないくらいだ。
「久しぶりだな。皐《こう》」
花坂は白い歯を見せニィっと笑う。
どうもと返事をしながら、正直途方に暮れた。
「今日はまたどうして?」
ここが自分の店だとわかって来たのだろうか?
そんな皐の疑問を感じとった花坂はやわらかく笑い、委細を語る。
すると彼は現在、花屋を廃業し、畑を育てる農家へ転職したことを明かした。
「農家……?」
出逢ったころのこの男では考えられない決断だ。あのころの彼は気障で、甘く笑う優男だった。
「フラワーショップの経営がうまくいかなくなってから暫らくして、女房に土地があるから農家をやろうと言われたんだ。支えるからって、そう言われて、それからは必死になって働いた。したらいつの間にか子供にも恵まれて、顧客も増えて、幸せになっていた」
九年ぶりの彼。
九年と言う歳月はこんなにも人を変えるものなのかと皐は感心する。
花坂は連れて来ていた三歳と五歳くらいの子供を愛おしそうに眺めながら、子供たちを皐へ紹介する。もしもあのとき皐が彼から離れていなければ産まれなかったかもしれない命を。
「そう。――良かった」
お父さんと一緒で嬉しいね。と、子供の頭を撫でながら、あのとき離れておいて良かったと、心の底から実感した。
「でも、なんでここが?」
子供と視線を合わせるためひざを折っていた体勢で、視線だけ彼へと向ける。
「ここの近くの大学祭で皐の作品を見かけたんだ」
どうやら大学の花壇を蘇生させたのはこの人だったらしい。そのときに園芸部の面々と交流ができ、学祭に誘われたのだと言う。
嗜好から華道部を覗き、そこで皐の名前を見つけた。
懐かしくてその人物の人となりを尋ね、皐だと確信を得た。
「それでも半信半疑だったから、とりあえずこの店にうちの従業員をやって確認も取ったけどな。んでいきなりパキラ買って帰ってきたから驚いた」
クックと花坂はおかしそうに笑う。
「え、あのパキラ買った一見さん、花坂さんとこの従業員だったの?」
皐の問いに「そうだ」と同意し、学園祭で華道部にいた女学生が語った『高畑皐の憂いの過去』に、自分がしでかした罪を思い出し、罪悪感がよみがえったのだと続けた。
「……ごめん」
話を聞き、皐は謝るよりない。
過去を語って聞かせたのは、特に大きな理由もなく、ほんの軽い気持ちからだった。ただ絵梨を牽制できたら良かった。
それだけの思いで語れるほど、皐の中では整理できていたはずの過去だった。
「謝ることない。むしろ謝るのは僕だ。僕はただ償いたかっただけなんだ。幸いなことに僕には妻と一緒に築いてきた農家としての人脈がある。あれだけの花を生けられる皐になら、それを渡しても問題ないと思ったし、働く皐の助けになるなら、それを渡して勝手に償いにしたかったんだ」
「花坂さん……」
祐理と彼の名前を呼び、その腕にまとわりついていた日々が、まるでシャボン玉が割れるかのように、パチンパチンと幸福に弾ける。
お父さ~んとひざに乗る子供を、ゴツゴツとした彼の手が愛おしそうに撫でる。
「花坂さん、まるで別人みたいだね」
そう笑うと「だろう」と彼は胸を張る。
「ありがとう。顧客、全力で大切にします」
まっすぐに顔を見て礼が言えた。
つきものがこそげ落ちるようポロポロと何かが剥がれおちる。
幸せな彼。別人みたいで家族があって、自分の過ちを認めて人を思いやる。
「あのとき別れて、良かったね」
からかうように言ったら、彼も申し訳なさそうに同意する。
それじゃあと店を去って行く彼のうしろ姿を眺めながら、自分の背を押された気がした
ランチと一緒に頼んだホットコーヒーに口をつけるサツキを、一緒に働く主婦がこっそりのぞき見てはキャッキャと騒ぐ。