どんな服を着ていけばいいかとひーちゃんに尋ねたとき、「ゆっこの好きな格好でいいと思うけど」と彼女は困ったように笑いながらも、「でもやっぱり、スカートがいいんじゃないかな」なんて真面目に答えてくれたので、私はその助言どおり白いフレアスカートを着てきている。それと合わせたパンプスの高い踵を鳴らしながら西村くんのもとまで歩いていくと、彼はしばしぼうっとした表情でこちらを見つめていたので
「どうかした?」
顔を覗き込めば、西村くんはようやく我に返ったように、ああ、と声を上げた。それから、ごめん、と早口に謝る。
「北城さんの私服見るの初めてだったから……」
赤い顔で呟いて、頬を掻く。元々童顔な彼だけれど、今日のTシャツにジーンズという出で立ちは、いつもの制服姿より一段と幼く見えた。
私が「おかしくない?」と尋ねれば、西村くんはすぐに大きく首を振る。
「いや、えっと、すごく似合うよ」
もごもごと付け加えられた言葉に、私は、ありがとう、と笑ってから
「西村くんも似合ってるよ」
と返しておいた。西村くんは、そうかな、と呟きながら自分の身体を眺めたあとで、ようやく思い出したように「あ、おはよう」と挨拶をした。私も笑って同じ言葉を返す。それから、「じゃあ行こっか」なんてお互いにぎこちなく促し合い、駅を出た。
前日に立てておいた今日の計画では、まず近所のショッピングモール内にある映画館で映画を観て、そのあとに最近新しく出来たケーキバイキングの店に行くことになっている。どちらも私の希望だったけれど、西村くんはとくに迷うこともなく了承してくれていた。
日曜日の映画館は、やはりそれなりの混み具合だった。
映画の途中にトイレに立つのは嫌なので、私は先に用を済ませておくことにする。トイレから戻ったときには、すでに西村くんが二人分のチケットを買ってくれていた。一つ渡されたチケットを礼を言って受け取ってから、ふと喉の渇きを感じ、何気なく売店のほうへ目をやったとき
「なにか飲む?」
え、と西村くんのほうへ視線を戻せば、彼はにこりと笑った。
「買ってくるよ。なにがいい?」
「あ、えっと」
私はあわてて壁に並ぶメニューに目を走らせる。
「じゃあ……アイスティー」
西村くんは頷いてから、「ちょっと待っててね」と言い置いて売店のほうへ歩いていった。私はその背中を眺めながら、少しだけ、こういうのも悪くないかもしれないとぼんやり思った。
喉を心地よく滑り落ちるアイスティーの冷たさを味わいながら、スクリーンを見つめる。この映画を観たいと提案したのも私だった。ストーリー自体はありふれていてそこまで興味が湧くものではなかったけれど、主演女優の知的な雰囲気や清潔感のある美しさが前から好きだった。それに、以前ひーちゃんがこの映画が気になると話していたので、良い映画だったらあとで彼女に勧めてあげようと思ったのだ。
そんなわけであまり期待はせずに見始めた映画だったけれど、内容は思いのほかよかった。中盤あたりからはすっかり引き込まれてしまって、先にトイレに行っておいてよかった、なんて頭の隅で考えながらじっとスクリーンを眺めていると、ふと隣から鼻をすする音が聞こえた。見ると、西村くんが泣いていた。隠すように服の裾で忙しなく目元を拭っている。しかし次から次に溢れる涙が、すぐに頬へ落ちていった。私はなにも気づかなかった振りをして、視線を前へ戻す。また隣からぐすっという小さな音が聞こえてきたけれど、今度は聞こえなかった振りをしておいた。
映画はよっぽど西村くんの琴線に触れるものだったらしい。映画が終わるまで隣が静かになることはなく、やがてエンドロールが流れ始めると、そろそろ涙を止めなければと思ったのか、あわてたように俯いて目元を押さえだした。結局、館内が明るくなり観客が続々と席を立ち始めた頃になっても彼はそんな調子だった。どうやら涙を止めるのは間に合わなかったらしい。
「西村くん」
館内の残るのは私たちの他にあと数人となったところで、そっと名前を呼んでみれば、彼は顔を伏せたまま困ったように笑って
「うわー……ごめん。なんか恥ずかしいな。僕ばっかり泣いて」
「そんなことないよ」
私は首を振って微笑む。それから
「いい映画だったね」
と言えば、西村くんはまだ涙目のままで頷いた。
映画館を出たあとは、近くにあるケーキバイキングの店へ向かった。ここも、ひーちゃんが前に行ってみたいと話していた店だった。いつか一緒に行こうと彼女と約束していたので、今日はどのケーキがおいしいかなどしっかり下見をしておくつもりだった。
用意してあるのは三口ほどで食べ終わるくらいの小さなケーキばかりだったため、とりあえず五つ皿に選んで席に戻る。向かいの西村くんの皿には三つのケーキが並んでいた。西村くんは私の皿を見て「そんなに食べるの」と驚いていたが、私が「もう五つは食べる予定だけど」とさらっと返せば一瞬絶句していた。
「北城さんって意外と食べるんだね。そんな細いのに」
彼がチーズケーキを半分食べ終わる間にチョコレートケーキを一切れ平らげてしまった私を見て、西村くんが不思議そうに呟いた。ひーちゃんにもよく同じようなことを言われる。ひーちゃんだって別に太っているわけではないのに、そんなに食べてもどうして太らないのと彼女はしきりに羨ましがった。
食べ終わるなり二つめの苺タルトに手を付ける私と違い、西村くんは一つケーキを食べ終わっただけで疲れたようにしばらくコーヒーをすすっていた。私が四つ目のケーキに手を伸ばしたところで、ようやく二つ目のケーキに手を付けた西村くんは
「そういえば今週から、劇の練習が始まるね」
ふと顔を上げ、思い出したように言った。私は相槌を打ってから
「面倒くさいな」
と思わず呟いてしまい、西村くんがおかしそうに笑った。それから彼は、「僕も」と柔らかい声で続け
「最初は劇なんて面倒くさいって思ってたけど、今はちょっと楽しみだな。北城さんの白雪姫、絶対に綺麗だし」
さらりとそこまで言ったあとで、遅れて自分の発言に恥ずかしさがこみ上げたのか、途端に顔を赤くする。彼が後悔するような表情で顔を伏せているので、ここは聞き流したほうがいいのだろうかと思い
「衣装って、いつまでに作ればいいの?」
尋ねると、西村くんはなんだかほっとしたような表情で顔を上げた。
「たしか再来週までには完成させてくださいってことだったよ」
「じゃあ、あんまり日にちないね」
「うん。頑張らないと」
だったら今週と来週の放課後は、ひーちゃんはずっと西村くんと二人で過ごすことになるのだろうか。ひーちゃんは一体どんな気分で、彼との時間を過ごすのだろう。どんな話をするのだろう。どんなふうに笑うのだろう。
ぼんやり考えていると、西村くんはまるで私の考えていることを読み取ったかのようなタイミングで
「もう一人の衣装係って、南さんなんだったよね」
と軽い調子で口にした。私が頷くと、「ああ、そういえば」と彼は思い出したように言葉を続ける。
「北城さんと南さんって、いつからの付き合いなの?」
「小学五年生の頃から」
向けられた質問に、とくに考える間もなくはっきりと答えられた自分に少し驚く。西村くんは、へえ、と呟いてから
「なんで仲良くなったの?」
と重ねて尋ねた。私は答えようとして、ふっと口を噤む。なんで。西村くんの言葉を頭の中で繰り返す。なんで仲良くなったの。
――なんで、だっけ。
私がなかなか答えられずにいたら、西村くんは困ったように笑って
「あ、ごめん。言いたくないならいいよ」
と首を振った。私もあわてて曖昧に笑い、そういうわけじゃないんだけど、と呟く。
別に言いたくないようなことではない。親友との馴れ初めなんて、話したところでなにか問題があるわけがない。思うのに、結局私は答えられなかった。
ひーちゃんと仲良くなったのは、小学五年生の頃。それははっきりと覚えている。忘れるわけがなかった。ひーちゃんと出会って、私の世界は変わったのだ。たった一つ、なにを捨ててでも守りたいと思うものが出来たのだから。
けれどその少し前に記憶を遡ろうとしたら、途端にそれは曖昧なものになって、触れることができなくなる。ただ気づいたら、ひーちゃんが隣にいた。あの、ひだまりみたいに明るく暖かい笑顔で。そして気づけば、私はどうしようもなくその笑顔を求めていた。あの笑顔さえあれば生きていけると、そんなことすら思うくらいに。
「ごめん」
私が視線をテーブルに落としたまま黙っていると、西村くんがもう一度言った。
「本当に、言いたくないならいいから」
早口に言ってから、急いで話題を変えるように
「あ、北城さん、もう一回ケーキ取りに行くんだったよね」
と、空っぽになった私の皿を指して言った。対して彼の皿には、未だケーキが一切れ残っている。代わりにコーヒーはすでに三杯目だった。私は、うん、と頷いてから立ち上がろうとして、ふと彼の顔を見つめる。
「ねえ西村くん」
「ん?」
「もしかして、ケーキ嫌い?」
え、と彼は不意を衝かれたように声を上げる。それから自分の皿に残るケーキに目をやり、やがて困ったように笑った。「ああ、うん、ちょっと」とひどく言いにくそうに答える彼に
「言ってくれればよかったのに。じゃあケーキバイキングなんて、一番駄目だったでしょう」
「いや、そんなことないよ」
今度は思いのほかきっぱりとした口調で返された。どうして、と聞き返せば
「だって北城さん、ケーキがすごく好きだって言ってたから」
しばしの間のあとで、彼は落ち着きなく頬を掻きながら
「おいしそうにケーキ食べる北城さんが見られるんなら、それだけでいいなあって思って」
もごもごとそこまで言うと、これ以上なく顔を赤くして視線を逸らした。それが本当に何の嘘もない言葉だったから、私は思わず噴き出してしまった。ありがとう、と笑いの混じる声で言ってから
「じゃあいっぱい食べなきゃね。おかわりしてこよっと」
言って、皿を手に立ち上がると、西村くんも笑って頷いた。
家はどこなのかと聞かれ答えると、西村くんの家とそれほど離れていないらしいことがわかった。すると家まで送っていくと言い出した彼に、まだ明るいし大丈夫だと首を振ったけれど
「いや、もうちょっと話していたいから……」
と耳まで赤くなって言われ、結局こちらが折れた。
夕日に照らされた道を並んで歩きながら、西村くんは「今日はありがとう」と柔らかく笑った。私も笑って「こちらこそ」と返すと
「僕、女の子と出かけるのなんて初めてだったから、ものすごく緊張しちゃってたけど」
「そうなの? すごく楽しかったよ」
言うと、西村くんは「ならよかった」とほっとしたように息を吐く。
「それに、緊張しちゃってたのは私も一緒だよ。私も初めてだったもん。男の子と出かけるの」
「え、そうなの?」
何気なく口にしたら、心底意外そうに聞き返された。
「不思議だなあ、北城さん、人気あるのに」
ぽつりと呟く彼に、男の子が好きじゃないから、なんてうっかり口にしそうになってあわてて呑み込む。代わりに
「今まではずっと、ひーちゃんと遊んでばっかりだったから」
と返せば、西村くんは「たしかに仲良いもんね、北城さんと南さん」と笑った。私は、うん、と頷いてから
「ね、西村くん、明日からひーちゃんのことよろしくね」
「え?」
「衣装係、ひーちゃんと二人でなんでしょう。仲良くしてあげてね」
うん、と西村くんはちょっと照れたように笑って頷くと
「南さんなら話しやすいから、大丈夫だと思うよ」
「そっか。そういえば前にも話したことあるって言ってたね」
近所の児童公園に差しかかったところで、私は足を止めた。
「ここでいいよ」と言えば、西村くんは今度はもなにも言わずに頷いた。その後もなんとなくお互いに別れの言葉を探しあぐねていたとき、ふっと西村くんが真剣な表情になってこちらを見つめてきた。
一歩、私のほうに近づく。黙って彼の顔を見つめ返せば、彼は今日一番の緊張した気配を見せたあとで、そっとこちらへ手を伸ばした。肩に触れたその手を少しだけ見つめて、至近距離にある彼の顔へまた視線を戻す。そうしてゆっくりと近づいてくるまっすぐな視線に、私は目を閉じた。
唇に触れた感触は、体温が移る間もないほどすぐに離れた。
そっと目を開ける。彼の顔はもういくぶん離れたところにあった。私と目が合うと、途端にその顔は真っ赤に染まり、これでもかというほど逸らされる。それから「ああっ、えっと」と思い切り上擦った声が上がった。
「じゃあ、また明日っ。今日は本当にありがとう」
意味もなく髪を掻きながら、彼は早口に告げる。私は頷いて、送ってくれてありがとう、と礼を言おうとしたのだけれど、それより先に西村くんは踵を返していた。
まるで逃げるように早足にしばらく歩いたところで、ふいに足を止め、こちらを振り向く。それから、離れてもはっきりわかる赤い顔のまま手を振った。私も笑顔で手を振り返す。西村くんがちょっとだけ目を細めるのが見えた。彼はしばしそこから私の姿を見つめたあとで、くるりと背を向け、赤みを帯びた住宅街の中を歩いていく。そうしてだんだんと小さくなる彼の背中を、私はその場に突っ立ったまま眺めていた。
やがて彼が交差点を右に折れ、その背中が見えなくなる。それを見送ってから、私は右手を持ち上げ、手の甲を唇に押し当てた。
ぎゅっと拳を握る。そして数回、強く拭った。
帰ったらちゃんと水で口をすすいで、それから、ひーちゃんに電話をしよう。うまくいった、すごく楽しいデートだった、って。ぼんやりと考えながら、私も踵を返した。
...06
「ぶっちゃけ王子様って、そんなに台詞ねえんだよなあ」
机を挟んだ向かいの席に座っている安東くんが、先ほど渡された台本を見ながら呟く。
裏方の仕事がない私たちは、皆が衣装やら小道具の準備に汗を流している間、台詞を覚えるよう委員長から言われていた。しかし皆が忙しく作業をしている教室で、二人だけ椅子に座り台本を眺めているのもなんとなく居心地が悪かったため、安東くんの提案でちょうど空いていた理科室に移動したところだった。
私もぱらぱらと台本を捲り、たしかに、と彼の言葉に相槌を打つと
「前半は出番ないもんね」
「そうそう。もしかしたら妃とかこびとのほうが台詞多いんじゃねえのって気がしてきた」
なんか悪いなあ、と苦笑する彼に
「でも安東くん、部活のほうの出し物もあるから忙しいんでしょう」
「いや、バスケ部は人数多いし、クラスの劇で王子役やることになったって言ったら、じゃあこっちは手伝わなくていいって言われてさ。なんか逆に暇になったかも」
そうなんだ、と私も苦笑すると、安東くんはおもむろに台本を閉じた。もう台詞を覚えるのは飽きたのか、彼は閉じた冊子を片手に持ち替え、顔を扇ぎ始める。それからふとこちらを見て
「昨日、デートだったん?」
唐突にそんなことを尋ねてきた。私が驚いて、え、と声を上げると、彼はからかうような笑顔で
「昨日さ、西村と一緒に歩いてるとこ見たんだよ。邪魔しないほうがいいかと思って声は掛けなかったけど」
私はなんと返せばいいのか迷って、ただ曖昧に笑っておく。すると安東くんはちょっと目を細めて
「つーかマジで付き合ってんだな、西村と北城」
と独り言のような調子で呟いた。私がきょとんとしていると、安東くんは「いや、だってさ」と軽い口調のまま口を開いたが、途中で思い直したように言葉を切った。それから、なにか考えるような表情になって視線を外す。少しだけ、迷うような間が空いた。やがて彼は顔を扇いでいた手も止め、私の顔へ視線を戻すと、「北城さ」と呟く。
「西村のこと、マジで好きなの?」
質問の意図を図りかね、私は黙って安東くんの顔を見た。
「……どうして?」
静かに聞き返せば、彼はいつものようにへらりと笑う。「や、別に」とまた台本で顔を扇ぎながら
「北城と西村って今まで全然接点なさそうだったし、ちょっと不思議で」
「そうかな。今までも結構喋ってたけど」
軽い口調で返せば、ふうん、と安東くんも軽い調子で相槌を打った。私は手元の台本へ視線を戻す。文芸部に所属しているクラスの女子が書いたというその脚本を、白雪姫の台詞だけ探しながら読んでいると
「――由季子って」
ふいに飛んできた声に、私は思わず顔を上げた。机に頬杖をついてこちらを見つめる安東くんと目が合う。相変わらず台本を団扇代わりにしたままの彼は、ちょっと首を傾げ
「呼んでもいい?」
と続けた。え、と私は露骨に戸惑った声を出してしまったけれど、安東くんは気にした様子もなく
「北城の下の名前、由季子だろ」
言って、万人に好かれそうな人懐こい笑顔を浮かべてみせた。そうだけど、と私が頷けば
「南とかさ、みんな、ゆっこって呼んでるよな」
「うん」
「なんでみんなそう呼ぶの?」
「なんでって」私は困惑して彼の言葉を繰り返す。
別に、ただのよくあるあだ名だ。最初にひーちゃんが私をそう呼んだのだ。私は彼女の柔らかい声で形作られるその響きがすごく気に入って、だから他の子にもそう呼んでほしいとそれとなく言ってみたら、すぐにその呼び名が広まった。そのうち、由季子と呼ばれるよりその呼び名のほうが心地良く響くようになって、ついには家族にまでそう呼んでくれるよう頼んだ。だから自然に広まったというより私が率先して広めたあだ名だったけれど、そこまでしてそう呼ばれたかった理由なんて、そんなの。
「……好きだから。そう呼ばれるの」
安東くんは、ふうん、と相変わらず軽い調子で相槌を打つ。私は台本に視線を戻そうとしたけれど、「じゃあさ」と安東くんがまた言葉を続けたので、下げかけた視線を止めた。
「俺は由季子って呼びたい」
やたらきっぱりと宣言されて、私はますます困惑する。どうして、と聞き返せば
「自分だけみんなと違う呼び名とかさ、なんかいいじゃん」
あっけらかんと笑って、そう返された。「な、いい?」ともう一度聞かれ、断るにも理由が思いつかなかったため曖昧に頷くと
「やった。じゃあそう呼ぶ」
安東くんは明るく笑うと、ようやく台本で顔を扇ぐのを止め、再び中に書かれた文字を目で追い始めた。
――ゆきこ。
久しぶりに聞いた気のするその響きに、奇妙な冷たさが巡る。
台本を掴む手に、かすかに汗が滲んだ。やがてじわりと後悔がこみ上げてきて、やはりさっきの提案は断ろうかと口を開きかけたけれど、たかが呼び名にそこまで過敏になるのもおかしい気がして結局なにも言えなかった。
そうだ、そもそもゆっこというあだ名だって、ひーちゃんが口にしたからあんなにも心地良く響いただけで、気に入ってみんなに広めていくうちに、こっちのほうがしっくりくるようになったのだ。ただ、それだけのことなのだから。他の呼ばれ方をしようと、なにも問題はないはずだ。思うのに、身体の奥に湧いた正体の掴めない嫌悪感は、なかなか消えてくれなかった。
けれどそんな気持ち悪さも、すべて一瞬で拭い去ってくれる声が耳に届いたのは、ちょうどその直後。
「ゆっこー」
振り向くと、ひーちゃんが教室に入り口のところに立っていた。
「ひーちゃん」呟いて、私はすぐに立ち上がる。彼女のもとに歩いていき「どうしたの」と尋ねれば、ひーちゃんはひどく申し訳なさそうな顔をして
「ごめん、今日一緒に帰れない」
と顔の前で両手を合わせた。私はちょっと首を傾げる。今日どころか、最近の私はずっと西村くんと二人で帰っていたからひーちゃんとは全然一緒に帰れていない。だから今更私と一緒に帰れないということを、彼女がそこまで気に病む必要はないような気がしたけれど
「あのね、今日から放課後に残って衣装作ることになったんだ。だから」
ひーちゃんが早口に続けた言葉に、ようやく思い当たる。ああ、と私はすぐに了解して呟くと
「だから西村くんと一緒に残らないといけないんだね」
彼女の言葉を引き取って言った。ひーちゃんはますます申し訳なさそうに項垂れる。それから、うん、と小さく頷き、ごめんね、と謝罪の言葉を繰り返した。
「そんな、いいよ全然」
私は笑って首を振り、それに、と続ける。
「ひーちゃんが謝るようなことじゃないでしょう。係なんだから」
「うん……でもなんか悪いなって」
まるで自分が西村くんを横取りしたかのようにひーちゃんが表情を曇らせているから、私は思わず苦笑してしまう。ちょっと考えてから、「ね、ひーちゃん」とできるだけ柔らかい声で呼ぶと
「西村くんって、ちょっとぼうっとしてるところあるから」
え、と一瞬だけ困惑したような目をした彼女に、私はにこりと笑みを向ける。
「よろしくね、ひーちゃん」
束の間、ひーちゃんは表情の消えた目で私を見つめた。しかしそれもほんの一瞬で、彼女はすぐに強張った笑みを浮かべ、うん、と頷く。それから
「ゆっこは優しいね」
と呟くように言った。私はなにも言わずに、笑顔だけ返しておく。それから、「ひーちゃん」ともう一度呼んだ。顔を上げ、うん、と聞き返す彼女に
「ひーちゃんが西村くんと仲良くなってくれたらいいのにな」
言うと、ひーちゃんはなんだか困ったように眉尻を下げた。それでも穏やかに笑ったまま、なんで、と聞き返す。
優しい。さっき彼女の言った言葉を頭の中で繰り返しながら、私は「だってね」と続ける。
「自分の好きな人同士が仲良くなってくれたら、なんか嬉しいもん」
ね、だから。優しく笑って、言う。
「何にも気にしないで。可愛いドレス作ってね」
ひーちゃんは少しだけ力を抜いたように笑うと、まかせてよ、と大きく頷いてみせた。
私も軽く目を伏せて笑い、心の中でだけ呟いてみる。――そう、優しい。ゆっこは優しいから。
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