一
そこはまえにもいったとおり、日本間にして四畳半ほどの容積をもつ|洞《ほら》|穴《あな》なのだが、もちろん正確に直方形をしているわけではない。|花《か》|崗《こう》|岩《がん》の|亀《き》|裂《れつ》から生じた空間だから、わりに直線的ではあるが、それでも四方の壁にも床にも天井にも無数の裂け目が縦横に走っており、壁も床も天井も大きく傾斜している。それらの壁や床や天井に、星のごとくキラキラ光っているのは|雲《うん》|母《ぼ》なのだろうか。
越智竜平は金田一耕助が床から拾い上げた、黒いリボンの喪章に目をやって、
「それじゃ、金田一先生、|真《ま》|帆《ほ》という娘はここへやってきたんですね」
と、あたりを見回しながら息をのみ、
「すると、やっぱり先生のご推察どおり、この『星の御殿』の奥にいまでも紅蓮洞が現存すると……」
竜平の語尾は興奮のためにふるえていて、空間の|闇《やみ》のなかに消えていった。竜平は左|脇《わき》に黒い革の|鞄《かばん》をかかえている。
「そうとしか思えませんねえ。ここに姿が見えない以上。真帆ちゃんはどうやら紅蓮洞のなかにまぎれ込んだものの、|路《みち》に迷って出られなくなったんじゃありませんか」
「そういえば、幼いころ私の聞いた話では、紅蓮洞のなかは昔の伝説にもある、|八《や》|幡《わた》の|藪《やぶ》|知《し》らずみたいに複雑な迷路をなしていて、うっかり路に迷うとなかなか出られなかったということです」
「それだ! それですよ。真帆ちゃんはきっと紅蓮洞のなかに閉じ込められてしまったにちがいない。大至急その入口を探し出さなきゃ……」
ふたりはシーンと洞穴の奥に耳をすましたが、聞こえるものといえば雨の音ばかり。五輪の塔の外はあいかわらず大土砂降りで、雨の|飛沫《し ぶ き》がこの洞穴のなかまで|跳《は》ね返ってくる。二人は大急ぎで三方の壁を懐中電灯の光りで|撫《な》でまわした。縦横に亀裂のはいった花崗岩の壁には、ふたりの影法師が屈折した形となって映し出されて、それがかえってこうした細かい探検ごとには邪魔になっている。
「越智さん、あなたの懐中電灯は消してください。とにかく急がなければならないのです。墓掘りの連中がぼくの姿の見えないことに気がついて、いつなんどきこっちへやって来ないものでもありません。それまでになんとしてでも入口を発見しなきゃ……」
越智竜平はただちに懐中電灯のスイッチを切った。
金田一耕助は表面落ち着き払って、一本になった懐中電灯の光りを頼りに、入念に壁の亀裂を調べていたが、内心はワクワク、ドキドキしているのである。もしだれかが自分の挙動に不審を抱いて、こっちのほうを探りにきたら、なにもかも、おしまいになってしまうかもしれないのである。そのだれかは、もう相当デスペレートになっているにちがいない。
「越智さん、ちょっとこの懐中電灯を持って、ここを照らしていてください」
「金田一先生、ど、どうするんですか」
「いえ、ちょっと……」
縦横に入った花崗岩の亀裂には、濃い緑色の|苔《こけ》がビッシリと生えていて、亀裂から生じる|隙《すき》|間《ま》を埋めている。そういえば苔は洞穴のなかをいちめんに埋めつくしているのである。
金田一耕助がここと竜平に指さしたのは、洞穴の奥の壁の腰のあたりである。竜平が命じられたとおりそこを照射していると、金田一耕助は二重回しのポケットから、ライターを取り出して火をつけて、亀裂に添って|這《は》わせていった。ライターの火ははじめはただふつうのまたたきしかみせなかったが、床から五〇センチほどあがった水平の亀裂のところで、急にはげしくまたたきはじめた。
「金田一先生」
越智竜平の握った懐中電灯の光りが、|痙《けい》|攣《れん》するようにピクリと揺れた。
「あきらかに空気が通っていますね。もう少し調べてみましょう」
亀裂に添ってライターの火をすべらせていくと、縦の亀裂と横の亀裂と交錯しながら、それは非常に不規則な形とはいえ、ほぼアーチ形をなしていることがわかった。押してみると少しぐらつくようである。
「金田一先生、これですね、入口は……」
竜平の声はしゃがれている。懐中電灯の光りの反射を受けたその顔面は、緊張のために異様に|強《こわ》|張《ば》り、|瞳《ひとみ》に|炎《ほのお》がもえている。
「そう、ちょっと押してみましょう。真帆ちゃんのようなか弱い娘にでも開けられたとしたら、そう重くはないはずです」
しかし、予想に反してそれはなかなか重かった。
「越智さん、力を貸してください。これはなかなか重い。真帆ちゃん、どうしてこれを開いたのかな」
「なるほど、これは重い」
竜平が肩で、金田一耕助が両手で力一杯押していると、花崗岩の壁は左|把《とっ》|手《て》のドアのようなひらきかたで、徐々に右奥へとひらいていく。呼吸がわかるとあとはわりに簡単だった。まもなく花崗岩のドアはピッタリと垂直に開いて、まっ暗な穴の奥から冷たい風がドッと吹き出してきた。
金田一耕助は思わず二つ、三つ大きくくさめをすると、
「おお、寒い」
と、合いの二重回しの肩をすぼめた。
「金田一先生、大丈夫ですか」
「わたしは大丈夫。ありったけの下着を着込んできましたから。それより越智さん、ここをごらんなさい。ほら」
金田一耕助は越智竜平から取り戻した懐中電灯の光りで、いま開いた穴のすぐ内側を照らしてみせた。そこは「星の御殿」の床より五センチほど下がったところだが、花崗岩の床が水平に張り出していて、その表面に四分の一の円形の|溝《みぞ》が掘られている。それは自然に出来た溝ではなく、あきらかに何者かの手によって、人工的に|抉《えぐ》られたものである。
金田一耕助はいま開いた穴にむかって|腹《はら》|這《ば》いになりながら、花崗岩のドアの下部を|撫《な》でまわしていたが、
「越智さん、あなたも触ってごらんなさい。このドアの下部に金属製の玉のようなものが、ほら、一つ、二つ、三つはめこんでありますよ」
そのドアの下部もこちらの床より三、四センチほど下がっているのだが、なるほど竜平が触ってみると、金田一耕助のいうとおりである。
竜平は深い|驚愕《きょうがく》に瞳を光らせて、
「だれが……こんな細工を……?」
「さあ、だれかがこの壁の一部が動くことに気がついた。そして、その奥にいまでも紅蓮洞が存在していることを発見したんでしょう。しかし、この岩のドアを開くのは容易じゃなかった。そこでよりたやすく、少しでも軽く、開くことができるようにこういう細工をしておいたんでしょうねえ。越智さん、はいってみますか」
「もちろん」
越智竜平は断固といった。
ふたりが懐中電灯の光りで穴の奥を照射してみると、岩のドアのレールになっている水平の岩の奥から、とつぜん洞窟は落下していて、そこに縦穴が出来ているようである。縦穴の深さは二メートルちかくもあるだろうか。大きさは人ひとり|呑《の》み込むのには十分である。
金田一耕助と越智竜平は、まず水平の張り出し岩までもぐり込むと、
「越智さん、このドアはどうしたもんでしょう。このままにしておきますか。それとももとどおり締めておきましょうか」
「それはもちろん締めておくべきでしょう。うっかり開いているところをだれかに見られたら……」
締めるのはわりに楽だった。これなら真帆のような小娘にも、|渾《こん》|身《しん》の力をこめてやれば可能であったろう。しかし、開くのはどうして出来たのであろう。金田一耕助はそれが|腑《ふ》に落ちなかった。
「それじゃ、金田一先生、わたしからさきに下りますよ」
「はあ、どうぞ。気をつけていってくださいよ。わたしがうえから懐中電灯の光りで照らしておりますから」
「お願いします」
越智竜平は左手にかかえていた黒い革のバッグを、まず下に投げ落としておいて、ひと呼吸はかると、岩に武者振りつくようにして下へ滑りおりたが、すぐ、
「おや」
と、いうような声が下から聞こえた。
「越智さん、どうかしましたか」
「いや、ちょっと待ってください」
竜平はいま滑りおりた|崖《がけ》の途中を、懐中電灯の光りで調べていたが、
「金田一先生、あなたもはやく下りていらっしやい。わりに簡単ですよ、ここまでは」
「はあ、いまいきます」
金田一耕助も竜平の|故《こ》|智《ち》に|倣《なら》って、まず身にまとうていた二重回しを、ふわりと縦穴のなかに投げおろすと、崖に武者振りつくようにして下へ滑りおりた。竜平とちがって着物に|袴《はかま》という金田一耕助は、こんな場合まことに不便にできているのだが、さいわい、崖の途中に足がかりになるような、小さな|窪《くぼ》みがあったので、それほど醜態もさらさずに、縦穴の底へ下り立つことができた。そのかわり着物と袴に二、三か所|鉤《かぎ》|裂《ざ》きが出来たようである。
「金田一先生、ちょっとこれ……」
「なんですか、それは?」
「いや、この崖の途中にひっかかっていたんですよ。これ、布の切れ端ですね。セーラー服じゃありませんか」
竜平の声はささやくように低くふるえている。金田一耕助が手にとってみると、あきらかにそれはセーラー服の切れ端だった。
「真帆ちゃんのですね」
金田一耕助の声もノドにひっかかってささやくようである。
ふたりはしばらく懐中電灯の光りのなかで、たがいの顔を|視《み》|詰《つ》め合っていた。ふたり並んで立つとせまい縦穴の底なのである、くっつくように向き合って立ったふたりの顔は、懐中電灯の光りのなかで、奇妙な陰影をつくって無気味であった。
「これでいよいよ真帆という娘が、この洞窟のなかへ潜り込んだということは、たしかなようですね」
「ところが、越智さん、ぼくにはそれがふしぎでしようがないんですよ」
「どうして?」
「いや、ぼくの推理によると真帆という娘は、きょうまでこの洞窟の存在はしらなかったはずなんです。あの『星の御殿』までは島のものならだれでもしっているんでしょう」
「それはしっているでしょう。いや、みんなしっているはずです、島のものなら」
「だから、真帆もあそこまではしっていた。そして、ちかごろ起こったいろんな事件から、あの場所にひとつの疑惑を持ちはじめた。そこできょう……じゃなかった、きのう葬式がえりのドサクサまぎれに、こっそりあの『星の御殿』まで下りてきた。あそこまで|辿《たど》りつくには、表を張っている刑事やマスコミの連中の、目につかずに出来るでしょう」
「それは出来ます。裏へ出て納屋の横の石段を下りれば、五輪の塔を祭ってあるあの龕のそばへ出られますから」
「真帆ちゃんはそうしてあの『星の御殿』へ潜り込んだ。しかし、彼女はどうしてあの岩のドアを発見したのでしょう。いや、非常な|僥倖《ぎょうこう》にめぐまれて、あのドアの秘密を探り当てたとしても、か弱い小娘の力でどうしてあれを開くことができたのでしょう。われわれ大の男がふたりがかりでも、なかなか開かなかったあのドアを。締めるのは彼女ひとりでも出来たかもしれませんけれどね」
「じゃ、金田一先生は真帆という娘に、だれか連れでもあったんじゃないかとおっしゃるんですか」
「いや、その連れとして思い当たる人物がないからふしぎなんです。この島の人間関係からして、真帆のこういう冒険に、協力しそうな人物は思い当たらないですからねえ。だからぼくは不安なんです。いや、不安というより恐ろしいんです。真帆は|罠《わな》にはめられたんじゃないかと……」
「罠とおっしゃいますと……?」
「真帆がここへやってきたとき、岩のドアは開いていたんじゃないか。それで真帆はつい誘い込まれたんじゃないかと思うんです。しかも……」
「しかも……?」
「岩のドアを開いておいた相手が、誘い込もうとした人物は、真帆じゃなくこのぼくじゃなかったか、いや、ひょっとしたらあなただったかもしれない。いずれはあなたとぼくがこの場所へ、目をつけることを相手はしっていた。そこでドアを開いてわれわれを誘い込もうとしたのを、ひと足さきに真帆がひっかかって、誘い込まれたんじゃないでしょうかね。それがぼくには怖いんです。恐ろしいんです」
「それで、金田一先生はどうしようとおっしゃるんですか。ここから引き返そうとでもおっしゃるんですか」
「いいえ、それは出来ません。真帆ちゃんがここにいるとわかった以上、なんとかして救い出さなきゃ……それにわれわれがここへ潜り込んだ、最初の目的も果たさなきゃなりません。こんな機会はめったにないことですから」
どうも金田一耕助のいうことには、矛盾があるようである。それだけ地底のこの洞窟に潜りこんでみて、動揺しているということなのだろう。
竜平は複雑な陰影をつくっている相手の顔を、懐中電灯の光りのなかできっと|視《み》|詰《つ》めて、
「金田一先生、あなたのおっしゃりたいことは、こういうことじゃないんですか。つまりわれわれはこの洞窟のなかで、だれかに襲撃されるかもしれない。その場合、相手はこの洞窟の勝手をよくしっているのに、われわれは全然しっていない。だからわれわれはいま非常に危険な立場に立っている……と、そういうことじゃないんですか」
「そうです。そうです。ぼくのいいたいのはそのことです。それを|予《あらかじ》めわかっていただければと思ったものですから……」
「金田一先生」
竜平は|莞《かん》|爾《じ》としてわらうと、
「わたしはそれほど|臆病者《おくびょうもの》ではありません。それにこういう冒険には危険はつきものだということは、予め覚悟はしております。金田一先生、わたしこういうものを持っているんですよ」
竜平はピッタリ身についた黒い革の服の内ポケットから、小型のピストルを出してみせた。
「ご心配はいりません。ちゃんと届けるべき筋へは届けてありますから。金田一先生は武器の類いはお持ちにならないようですね」
「はあ、ぼくはそういうものにはいっこう無関心なほうで……」
「わかっております。先生の武器はおツムですからね」
竜平はわらって、
「しかし、こういうものを持っているからといって、必ずしも安全というわけにはいきますまい。こういう洞窟へ潜り込んだ以上、敵は必ずしも人間とばかり限りません。落盤という大きな危険もありますからね。しかし、相手が人間ならば、及ばずながらわたしが護って差し上げましょう」
ここに及んで竜平は金田一耕助にとって、非常に頼もしい存在になってきた。
竜平は小型のピストルをもとの内ポケットにしまうと、身をこごめてさきに投げ落としておいたバッグを開いて、なかからなにか取り出している。金田一耕助が懐中電灯の光りで見ていると、なかから取りだされたのは一本の棒である。棒の周囲にはおびただしい量の白い|紐《ひも》が巻きついている。
「なんですか、それは……?」
「いいえね、ここが八幡の藪知らずみたいに、複雑な迷路をなしていると幼いころ聞いた記憶を思い出しましてね、路に迷っちゃいけないと建築現場から借り出してきたんですよ」
竜平はその棒をこれまたバッグのなかから取り出した|金《かな》|鎚《づち》で、いま滑りおりた崖の根元に打ち込むと、巻きついた白い紐の端をとって|手《た》|繰《ぐ》りはじめた。棒はカラカラと音を立てて回転すると、白い紐はすぐ数メートルの長さに延びた。
「さあ、金田一先生、いきましょう。この紐さえ放さなきゃ、帰り路に迷うようなことはありませんよ」
この周到な用意に金田一耕助は、舌を巻いて驚嘆せずにいられなかった。いよいよもって竜平は、金田一耕助にとって頼もしい存在になってくる。
やがて竜平はバッグ片手に、金田一耕助は二重回しを肩にひっかけ、まっ暗な未知の世界にと踏み出していった。
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二
この洞窟は島全体を形成している、花崗岩の断層と断層の食いちがいから出来た|間《かん》|隙《げき》らしく、カーブはすべて鋭角的である。あるところではふたりが並んで、ゆうに立って步けるくらいの空間が広がっているかと思うと、あるところでは、人ひとり這っていかなければならないような、|隘《せま》い窮屈な場所もある。
またあるところでは路がふたつに分かれているので、ふたり協議の結果、いっぽうの路を選んで步んでいくと、まもなくそれが|袋小路《ふくろこうじ》になっていることに気がついて、もとの分かれ路まで引き返さねばならぬ場合もあった。そんなときなによりも頼りになるのは、竜平の引っ張ってきた白い紐である。この紐がなければふたりはとっくに迷い子になっていたかもしれない。
「なるほど、これは八幡の藪知らずですね」
金田一耕助が|呟《つぶや》いた。
「私が想像していたよりはるかに複雑なようです。しかし、わたしは希望を持っていますよ」
「と、おっしゃると……?」
「われわれはいま未知の世界に|挑《いど》んでいる。いわばこれわれわれにとって初体験です。しかも、あたりはこのとおり|漆《しっ》|黒《こく》の|闇《やみ》です。だからわれわれは神経質になっている。必要以上に神経質になってるんです。しかし……」
「しかし……?」
「あの入口のドアにコマをつけ、あのレールを掘った人物と、その相棒とがときどきこの洞窟へ出入りしているとすれば、ここ、それほど複雑な地形でもなく、危険な場所でもないんじゃないですか。われわれはまだなにもしらないものだから、袋小路へ突き当たったり、堂々巡りをしたりしては肝を冷やしていますが、そんなこと予めしっていれば、もっと簡単に目的の場所へ、いきつくことが出来るんじゃないんですか」
なるほど、この楽天的根性があるからこそ、無一物同様でアメリカへ渡り、今日の産をなしたのであろうと、金田一耕助は内心深く感心している。と、同時にかれもまた大いに勇気づけられているのである。
「それにしてもずいぶん広い洞窟ですね。われわれが潜り込んでから、もう十分以上もたつんですよ。もっともわれわれ步くというより這ってるようなものですけれどね」
「金田一先生、わたしはこの洞窟、広ければ広いほどよいと思ってるんですよ。伝説どおり、下の|水《すい》|蓮《れん》|洞《どう》までつづいていると、どんなによかろうと思ってるんです」
「どうしてですか」
「いやあ、いずれ事件が片付いたら、この洞窟、観光地になりはせんかと思うとるんです」
「あなたこの際、そんなことまで考えていらっしゃるんですか」
「ショウバイにかけては、抜け目のない男じゃと思うてつかあさい。わっはっは!」
入口から奥へ進むにつれて竜平は、かえって大胆になってくる。腹をゆすって笑いあげれば、その声は|殷《いん》|々《いん》としてこだまとなってかえってくる。
竜平はさっきからときどき金鎚で、周囲の壁や天井をコツコツ|叩《たた》いてみながら、
「このとおり、全部花崗岩でできておりますから、落盤の危険はないようです。したがって、観光客にも危険はなさそうですからな」
そこまでいってから急に気がついたように、
「金田一先生、あなた寒くはありませんか。だいぶん気温が下がってきたようですが」
「はあ、あの入口の『星の御殿』からくらべると、そうとう地下深く潜りこんでいるんでしょうねえ。ぼくはさっきから寒くてしようがありません」
「八寒地獄の第七地獄、紅蓮地獄の名をとって、紅蓮洞と命名してあるくらいですから、そうとう寒いだろうとは覚悟していましたが、これはこたえますね」
地下深く潜り込むにつれて温度は急降下して、金田一耕助も越智竜平も皮膚がカサカサになり、|唇《くちびる》が紫色に|朽《く》ちている。懐中電灯の光りのなかで、ふたりの吐く息が白く凍っている。
「真帆はどうしてるでしょうねえ。おそらく路に迷ってしまったのでしょうが、まさかこの程度の気温じゃ、凍死はしないでしょうがねえ」
「それでもセーラー服一枚では、そうとう寒がっているでしょう。メシは昼メシまで食べているんですね」
「そのはずです」
「夕食を抜いただけでは|餓《が》|死《し》もしますまい。金田一先生、ひとつ呼んでみましょうか」
「そうしてください。もうここまで来たら、外部へ|洩《も》れるようなことはないでしょうから」
「ようし」
竜平は息を深く吸い込むと、前方の闇にむかって大声で叫んだ。
「真帆ちゃあん」
肺活量の強そうな、深いひびきのある声だったが、返ってきたのはこだまだけ、真帆の返事は聞こえなかった。それでも竜平は|諦《あきら》めずに、前進しながら二度三度、
「真帆ちゃあん、真帆ちゃんはどこにいるんだ。いるなら返事をおし。真帆ちゃあん、やあい」
竜平は寒いのである。せめて大声を振りしぼっていると、寒さを忘れることが出来るのである。だがそれが幸いした。返事もないのに|諦《あきら》めず、真帆の名前を連呼しながら、闇のなかを前進していると、やっと行く手に当たって反応が起こった。
「助けてえ……」
絶え入りそうな声はたしかに若い娘のものである。
「あっ、真帆ちゃんか。きみいまどこにいるんだ」
しかし、これは愚問であろう。真帆もいまじぶんがどこにいるかわからないのにちがいない。
「助けてえ……」
「真帆ちゃん!」
「助けてえ……」
「真帆ちゃん!」
|彼《ひ》|我《が》の声はしだいに接近してその間数メートル。金田一耕助も越智竜平も、懐中電灯を前方にむけて立っている。
「助けてえ……」
「真帆ちゃん!」
声と声の距離はますます接近して、その間二、三メートルと思われるのに、懐中電灯の光りのなかに真帆の姿は現われない。金田一耕助は思わず背筋がゾーッと総毛立った。考えてみると真帆だって、この洞窟へ忍び込む以上、懐中電灯の用意をしているにちがいない。それにもかかわらずその光りが、全然見えないのはどういうわけだ。その|謎《なぞ》はまもなく解明された。
「真帆ちゃん」
「助けて……」
その声はなにかに|怯《おび》えて、シクシク泣いているようである。
「こちら金田一耕助だ。越智竜平さんもここにいる。きみ、いまどこにいるの」
「ここにいるわ」
「ここにってどこ?」
「ここはここよ。洞窟のなかにいるのよ」
真帆の|地《じ》|団《だん》|駄《だ》を踏むような声は、すぐそばに聞こえていながら、それでいてその姿は見えないのである。ここにおいて金田一耕助ははじめてハッと気づいた。真帆のいる洞窟とじぶんたちのいる洞窟がちがっているらしいことに。真帆のいる洞窟とじぶんたちのいる洞窟とのあいだには、なお強固な花崗岩の壁が立ちはだかっているらしいことに。それでいて、声がこんなに間近に聞こえるのはどういうのであろうか。どこかに声を運んでくる空間があるのではないか。
ここにおいて金田一耕助と越智竜平は、懐中電灯の光りで洞窟のなかを撫でまわした。そこは鋭角的に裁断されたような花崗岩からなる空洞だが、天井は意外に高く四、五メートルもあるだろうか。大きなお|椀《わん》を伏せたような|恰《かっ》|好《こう》になっていて、その下に隣の洞窟へ通ずる空間があるらしい。それもかなり大きな空間である。
「真帆ちゃん、きみ、懐中電灯を持ってるウ?」
「ええ、持ってます」
「じゃ、天井を照らしてごらん。声のするほうへ光りをむけるんだよ。越智さん、こちらの懐中電灯は消しておきましょう」
やがてまっ暗な天井に光りが差しはじめ、ふたつの空洞をへだてる岩壁のあいだに、人間ひとり、ゆうに|潜《くぐ》れるくらいの空間があることが判明した。
「金田一先生、この懐中電灯と紐の端を持っていてください。わたしがやってみます。下から懐中電灯を照らしておいてください」
洞窟と洞窟をへだてる岩壁の高さは四メートルくらい。その花崗岩の壁には縦に横に亀裂がいっぱいあるので、手がかり足がかりに不自由はなかった。しかも、その岩壁はいくらかむこうへ傾斜している。竜平はまたたくまにそのてっぺんまで登りつめると、むこうを|覗《のぞ》いて、
「真帆ちゃん、懐中電灯をこちらへ照らしなさい」
真帆がいわれたとおりしたとみえ、竜平の上半身が影となって、お椀を伏せたような天井に映った。竜平はしばらくむこうの洞窟を観察したが、
「金田一先生、こいつはいい」
「どうかしましたか」
「こっちの壁も|裾《すそ》のほうが広がって傾斜してます。だから真帆ちゃんみたいな娘でも、這い登るにはそれほど困難ではないでしょう。少し手伝ってやればね」
竜平の姿は空間のむこうに消えたが、まもなく真帆の顔が岩壁のうえに現われた。彼女の吐く息が金田一耕助の照射する懐中電灯の光りのなかで、白く、せわしげである。
「真帆ちゃん、大丈夫……?」
「ええ、大丈夫、金田一先生、ありがとう」
「真帆ちゃん、そこからひとりで降りられるかい」
真帆の|尻《しり》を押しているらしい竜平の声が、天井の空間から落ちてきた。金田一耕助が懐中電灯でこちらの壁を照らしてやると、真帆はうえから傾斜を目測していたが、
「ええ、大丈夫、これならひとりで降りられます」
まもなく真帆が洞窟の床に降り立ち、それからつづいて竜平も戻ってきた。
このちょっとした冒険に、真帆はいくらか汗ばんでいたが、それが冷えるとガタガタとふるえ出した。
「かわいそうに、さぞ寒かったろう」
金田一耕助が二重回しを着せてやっても、真帆のふるえは止まらなかった。
「腹が減ってるんだろう。だからいっそう寒さがこたえるんだ。さあ、さあ、これでもおあがり」
竜平は用意周到である。黒革の鞄のなかにはサンドウィッチが用意されていた。
「おじさん、ありがとう。でもうちそれほどお腹がすかないの。うちそれより怖くて、怖くて……」
「そうそう、真帆ちゃんにちょっと聞きたいんだが、この洞窟の入口の岩の扉ね、あれ真帆ちゃんじぶんで開いたの。それともはじめから開いていたんじゃないの」
「ええ、はじめから開いていたわ」
「で、締めたのは真帆ちゃん?」
「そうよ。うちが締めたの。こんなとこへはいってきたこと、人にしられると困ると思って締めておいたの、ずいぶん重かったけど、どうやら締まったわ」
金田一耕助と越智竜平は、懐中電灯の光りのなかで、ハッとばかりに顔見合わせた。やっぱり罠だったのか。
しかし、真帆はこともなげに、
「そうじゃけえど、あの岩の扉が開いていてもふしぎはないのよ。だれかうちよりさきへここへはいってきた人があるのンよ。その人いまでもこの奥にいるわ。うちそれが怖うて、怖うて……」
真帆は腹はすいていないといっていたが、いまこうして金田一耕助と越智竜平の保護下におかれると、急に空腹をおぼえたのか、シクシクとすすり泣いたり、はげしく身震いしたりしながら、サンドウィッチをパクついている。しかし、いま真帆の洩らした言葉は聞き捨てにはならなかった。
「なんだって? 真帆ちゃんよりさきにこの洞窟のなかへはいったものがあるんだって」
「ええ」
「だれ、それ……?」
「そんなことわかんないわ。こげえな暗がりのなかですけん。でもうちたしかに足音も聞いたし、話し声も聞いたわ。なに話てんのンか、サッパリわからなかったけえど」
「話し声を聞いたとすると、それ複数の人間なんだね」
「ええ、二人だったようよ」
「男? 女?」
「もちろん男の人です。男の人が二人だったようですん」
金田一耕助と越智竜平はまたハッと顔見合わせた。
「金田一先生、なにかお心当たりがありますか。島のものでこの洞窟へ潜り込みそうな男二人……?」
金田一耕助にも心当たりはなかった。渋面をつくって真帆の顔を覗き込みながら、
「それで、そのふたりの男、真帆ちゃんになにか危害でも加えるようなふうだった」
「そんなことわかりません。うち怖うて、怖うてつかまらんように逃げまわっていたんですけん」
なるほど、それは怖かったろう。この漆黒の闇に包まれた洞窟のなかで、正体不明の男に出会えば、若い娘たるもの恐怖のどん底に叩き込まれて、逃げまわるのもむりはない。それこそ暗闇の鬼ごっこなのだ。生と死を|賭《か》けた鬼ごっこだったのである。
「だけど、真帆ちゃん、あんたさっき助けてえ……と大きな声を挙げて走ってたね。あの声を聞きつけてふたり連れの男、あと追っかけて来ないかしら」
「来るかもしれないわ。でも、もう大丈夫ね。金田一先生やおじさんといっしょですけん」
そのとき金田一耕助が小さな声で、|叱《しっ》|咤《た》するように叫んだ。
「越智さん、真帆ちゃん、懐中電灯を消して……」
三人がいちように懐中電灯の灯を消して、漆黒の闇の底にうずくまり、ピーンと耳をすましていると、果たしてさっき真帆がやってきた方角から、ヒソヒソ話が聞こえてきた。ヒソヒソ話だから話の内容はわからないが、男であることはたしかである。天井を見ていると、あの空間にボーッと明かりがさしてきた。やがて二人の男は洞窟の壁のすぐむこう側までさしかかった。なにやら話をしているのだけれど、声が低いのであいかわらず、話の内容はわからない。しかし、暗闇のなかで息をひそめていた金田一耕助の唇に、とつぜん微笑が|湧《わ》きあがったのは、ヒソヒソ話のなかからただひと言、
「お兄ちゃん」
と、いう言葉が耳をとらえたからである。
誠と勇の兄弟なのだ。そして、あの兄弟ならこの洞窟に関心を持っていてもふしぎではない。かれらは昭和二十三年この島で蒸発したという、父松若の消息を求めてやまないのだ。
「おい、そこにいるのは誠くんと勇くんじゃないか」
壁一重むこうのヒソヒソ話はピッタリやんで、ただひたすら、こちらのようすに耳を傾けているふうである。
「なにも心配することはない。こちら金田一耕助だ。越智竜平さんもここにいる」
「あっ、金田一先生!」
そう叫んだのは誠らしい。歓喜に声がはずんでいた。
「ぼくたち路に迷うて困っているんです。金田一先生はいまどこにいるんですか」
「きみたち、懐中電灯を消したまえ。そしてぼくの声がする天井のほうを見ていたまえ。越智さん、真帆ちゃん」
金田一耕助に促がされて、三人いっせいに懐中電灯の灯をつけて、天井のほうに差しむけると、岩壁のむこうでかすかな歓声があがった。
「金田一先生、この洞窟はつながっているんですね」
「そうだ。さっき真帆ちゃんもその天井の空間をくぐって、こっちの洞窟へやってきたんだ。きみたちもこっちへ来ないか」
「承知しました。勇、いこう」
「うん」
洞窟のむこうで、ふたりの声は|弾《はず》んでいた。まもなく勇を先頭に誠もそのあとにつづいて、ふたりもこちらの洞窟に合流した。ふたりともスポーツ.シャツにズボンという軽装だから、寒さにかじけていることはいうまでもない。くちびるが紫色に朽ちていて哀れであった。それでもこちらの洞窟へとび込んできた勇は、すぐ懐中電灯の光りであちこちを調べていたが、満面に喜色をうかべて、
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、ここさっきぼくたちがとおってきた路だよ。ほら、ここにぼくのつけた矢印が残っとおります」
なるほど花崗岩の壁の腰の高さに、五寸|釘《くぎ》ででも掘ったような矢印がついている。それはよくよく注意しなければわからないような跡だった。
「ああ、きみたち帰り路に困らないように、矢印をつけながら奥へ進んでいったんだね」
「へえ」
「それにもかかわらず、どうして路に迷ってしまったの」
「この人が……」
と、誠は真帆を指さしながら、
「いえ、たぶんこの人じゃと思うんですけえど、だれかの足音や息遣いが聞こえたもんですけん、あちこち隠れまわっとるうちに……」
「つい、ぼくが矢印をつけ忘れてしもうたんです」
「ここいったん迷うときりがないくらい、複雑怪奇な迷路になっとおりますけん」
「それで、きみたち目的のものを発見したの。蒸発したお父さんの|痕《こん》|跡《せき》かなんかを……?」
誠と勇は顔見合わせると、しばらく目顔で話をしていたが、やがて誠が決然として、
「はい、発見しました。勇、金田一先生にあれ見ていただこうじゃないけ」
「お兄ちゃんのええと思うようにしてつかあさい。ぼく父ちゃんが|可《か》|哀《わい》そうで、可哀そうで……」
勇は真っ|蒼《さお》になって声をしめらせている。なにかよほど異状なことがあるにちがいないと、金田一耕助は越智竜平と顔を見合わせながら、
「よし、それじゃそこへ案内してくれたまえ。ここからまだ遠いの」
「遠いのか近いのかぼくら夢中でしたけん、サッパリわからんのですけえど」
「よし、それじゃここで腹ごしらえをしていこう。きみたちきのう昼メシを食ったきりだろう」
ここにおいて越智竜平の用意してきた、サンドウィッチがものをいった。誠と勇はそれに武者振りつくと、
「金田一先生、いま何時ごろです。ぼくの時計は二時半を差してますけえど」
「はあ、ぼくの時計も二時三十五分だよ。ただしいまは七月九日の午前二時三十五分だ。きみたちがここへ潜りこんだのは……?」
「八日の午後二時ごろのことでしたん。ほんならあれから、まだ十二時間しかたっとらんのですか。ぼくなんじゃら、一年くらいもたったような気がしますけえど」
漆黒の闇の迷路を、当てもなく|彷《ほう》|徨《こう》していた十二時間は、なるほどこの若いふたりにとっても、一年間にそうとうする苦患だったにちがいない。それだけ疲労|困《こん》|憊《ぱい》しているということなのだろう。