一
昭和四十二年七月九日の午前一時半ごろからはじまった、二つの墓の発掘作業が、完全に終了したのは二時を少し過ぎたころだった。
さして広くも大きくもない墓、しかもたったふたつの墓を掘り起こすのに、半時間以上もかかったというのは、その間、間断なく降りそそいだ|篠《しの》つくような雨のせいである。この季節によくある集中豪雨というやつであろう。あとでわかったところでは、この雨のために関西地方、だいぶあちこちに大きな被害が出たそうだが、刑部島でも|鋸山《のこぎりやま》の|麓《ふもと》や|隠《おん》|亡《ぼう》|谷《だに》のほとりに、そうとう数の|崖《がけ》崩れや土砂崩れがあった。
そういう集中豪雨のさなかの墓掘りだから、その作業が難渋をきわめたのもむりはない。掘られた穴はすぐ水びたしになった。その水をかい出すだけでも厄介な作業だのに、掘り起こされて穴の周囲に積み上げられた土砂が、豪雨のためにまたもとの穴のなかに崩れ込み、そいつをまた掘り起こさなければならないのだから、二重手間、三重手間もいいところであった。
それでも半時間ほどかかってふたつの墓穴から、ふたつの|柩《ひつぎ》が取り出されたのはもう二時を過ぎていた。それらの柩の|蓋《ふた》に|釘《くぎ》を打ったのは吉太郎である。吉太郎は釘抜きを用意していた。衆目の|視《み》|守《まも》るなかで吉太郎は、一本一本釘を抜いていった。投光器が|煌《こう》|々《こう》としてその柩を照らしている。
吉太郎がまず暴いたのは守衛の柩であった。釘は全部取り去られた。柩の蓋が取りのぞかれた。真昼をあざむく投光器の明りのなかで、柩を取りまく人びとの熱い視線が、いっせいにそのなかに注ぎこまれた。
べつに変わったことはなさそうであった。
柩の底には白衣にくるまった守衛の遺体が、|仰《あお》|向《む》けに横たわっているだけである。雨に打たれて|汐《しお》|垂《た》れた天神ヒゲがあわれであった。そのうえをおびただしい花が覆うている。花はまだ香ぐわしかった。それらの花々を投げ入れた人びとは、真帆をのぞいて全部いまそこにいるのだが、みないっせいに食い入るような視線を、花に覆われた遺体のうえに投げかけた。
「広瀬くん、べつに変わったことはなさそうじゃないけ。真帆はここにはおらん」
村長が怒ったように鼻を鳴らしていきまいた。広瀬警部補はしかしそれを|歯《し》|牙《が》にもかけぬ顔色で、
「吉太郎くん、きみ、すまんがその遺体をちょっと棺の外に取り出してくれんか。ひょっとするとその遺体の下に……」
「そげえなバカなことが……」
村長の|辰《たつ》|馬《ま》がまたいきまいたが、吉太郎はなにを考えているのか、うわ目づかいに警部補の顔色をうかがっただけで、いわれるままに守衛の遺体を抱き起こし、両手にかかえてそっと柩の外へ運び出した。あとに残ったのはおびただしい花だけで、怪しいものはなにもなかった。
「藤田くん、よく見ておけ。この墓の発掘のいい出しべえはきみじゃけんな」
警部補の背後から、目を皿のようにして|覗《のぞ》き込んでいた藤田刑事は、熱い息をのみくだしながら、
「へえ、ですけえど、まだもうひとつ|棺《かん》|桶《おけ》が残っとおりますけん」
と、あくまでも|執《しつ》|拗《よう》である。
広瀬警部補もすぐそれに同調して、
「そういえばそうじゃな。そいじゃ吉太郎くん、|神《かん》|主《ぬし》さんの棺桶はそれくらいにして、片帆ちゃんの棺桶を開いてみてくれんか」
そういいながら警部補が、人知れず腕時計の針の進行状態に目を走らせているのは、出来るだけここで時を|稼《かせ》ごうとしているのであろう。
吉太郎はまたうわ目づかいに警部補の顔色をうかがいながら、胸に抱いていた白衣の遺体を、柩のなかにそっとおろした。柩のなかにはもうそうとう水が|溜《た》まっており、そのなかに寝かされた遺体のうえにも集中豪雨が|叩《たた》きつけている。
「吉太郎、はよう蓋をしてやってくれ。なんぼ悪いやつでもこれじゃあんまり可哀そうじゃ。死んでも浮かばれんちゅうのはこのこっちゃな」
大膳じさまが鼻をすすったのは、必ずしも守衛に対して|憐《れん》|愍《びん》の情を催したのではなく、雨に|濡《ぬ》れそぼれた体が冷えて、風邪でも引きそうになっているのであろう。この老人が天神ヒゲの神主のことを、悪いやつとはっきりいってのけたのは、このときがはじめてだったが、それはおそらく守衛の生前の行状をさすだけではなく、死後においても|遺《のこ》された厄介な問題に対する|憤《ふん》|懣《まん》の表れであったろう。
その厄介な問題であるところの澄子や玉江は、巴御寮人とともにことのいちぶしじゅうを|視《み》|守《まも》っているのだけれど、この三人の表情にも恐怖の色はあったとしても、|惻《そく》|隠《いん》の情はどこにもなかった。守衛の遺体がまるで荷物のごとく扱われているのを見ても、だれも異議を申し立てるものはいなかった。
やがて守衛の棺に蓋がされ、つぎに片帆の柩におなじようなことが行なわれた。吉太郎によって釘が一本一本引き抜かれ、吉太郎の手によって蓋が取りのぞかれたが、そのとたん三人の女性はいっせいに顔をそむけた。そこから出てくる遺体の、世にも無残な|毀《き》|損《そん》状態をしっているからであろう。
幸い片帆の遺体の顔の部分は花によって覆われていた。しかし、吉太郎は広瀬警部補の命令を待つまでもなく、その花々を払いのけ、柩のなかにたくましい両腕をつっ込むと、かるがると片帆の遺体を抱き上げた。さすがにかれも心得ていて、片帆の顔を強烈な投光器の光線から、そむけるようにしていたけれど、それでもその|惨《むご》たらしさは覆うべくもなかった。守衛の遺体が取り出されたときもそうであったが、こんどもマスコミのカメラマンたちが、鋭い音をさせてシャッターを切っている。
柩のなかにはおびただしい花々が散っているだけで、こんども怪しい|痕《こん》|跡《せき》はなにひとつ認められなかった。
「どうじゃな、広瀬くん、そちらのデカさんも。これで疑いは晴れたじゃろうな。骨折れ損のくたびれ|儲《もう》けとはこのことじゃ。この責任は取ってもらえるじゃろうな」
村長は勝ち誇ったようにうそぶいている。しかし、広瀬警部補は案外平然として、
「もちろん、この責任はぼくがとる。藤田くん、きみは心配せんでもええ。この件の責任者はぼくじゃけんな。いや、吉太郎くん、ご苦労さんでした。では、ふたつの棺桶はもとどおり、埋葬しといてつかあさい」
「そうですけえど、主任さん」
藤田刑事はまだ未練たっぷりで、
「ぼくは必ずしも真帆ちゃんの死体は、棺桶のなかにあるいうたんとちがいます。真帆ちゃん、棺桶といっしょに埋められとるんじゃないけ、そう思うたもんですけん……」
藤田刑事は|喘《あえ》ぎながらも必死となって抗弁している。そして未練たらしく大きく掘られたふたつの墓穴を覗いていたが、そこから死体が出てきそうな可能性はまず考えられなかった。
「デカさんよ。そんじゃあんたはこの穴を、もっともっと掘り広げろというのかい。バカも休み休みにおしんさいよ」
村長の毒舌のあとにつづいて、大膳も口を開いた。
「それはそうと、主任さん、金田一さんはどげえおしんさった。お姿が見えんようじゃけえど」
「いや、あの人は……」
と、広瀬警部補はこともなげに、
「きょうは……いや、もうきのうですな、きのうは|宵《よい》の口から下っ腹がシクシク痛むいうておいでんさったけえど、この雨に打たれてそれが急に激しうなったけん、あとは万事きみに……つまりこのわたしにですな、まかすちゅうて、さっき地蔵平の越智さんとこへお引き取りんさったとおみんさい」
「それはまた無責任な」
鼻を鳴らしていきまいたのは例によって村長の辰馬である。
「あの男にも、今夜のことについちゃ責任とって|貰《もら》わにゃ。こんだけの騒ぎを起こしといて、じぶんは腹が痛いもないもんじゃ」
「いや、あの人には責任はありますまい。金田一さんはあくまで民間人でおいでんさるし、今度のこの発掘にはあたまから消極的でおいでんさったんじゃけんな」
それ以上は問答無用とばかりに警部補は、マスコミの連中のほうを振り返って、
「諸君、諸君もごらんのとおり、今度の試みはどうやら空振りに終わったようじゃ。じゃけえど捜査陣ちゅうもんは、可能性のあるところへは、あらゆる手を尽すもんじゃちゅうことぐらいは諸君もしっとるじゃろ。|無《む》|駄《だ》|骨《ぼね》折らせて申し訳なかったけえど、今夜はこのまま引き取ってくれたまえ。もうこれ以上、なんの進展もないけんな」
マスコミの連中は村長に負けず劣らずブーブーいいながら、それでも|諦《あきら》めて引き揚げにかかっている。かれらはみんな真帆の死体が発見される決定的瞬間を、カメラに収め、記事にしようと張り切っていただけに、その拍子抜けは大きかったが、正確な報道を旨とするだけに、ないものねだりは禁物なのである。
さいわい集中豪雨ももう峠を越したかして、雨もだいぶん小降りになっている。吉太郎と作業員たちの手によって、ふたつの柩がそれぞれの墓穴のなかに下ろされ、そのうえに土がかけられるところまで見とどけると、かれらは傘をすぼめ、カメラをぶらさげ、三々五々墓地を出て地蔵坂を下りはじめた。かれらはみんな新在家の|錨屋《いかりや》に泊まっているのである。
マスコミの連中のほかに、物好きな見物もそうとう多かったが、かれらもてんでに引き揚げていく。
それを見とどけておいて広瀬警部補は、部下の刑事や警官を呼び集めた。全部で六人いたが数が少ないようである。
「諸君、ご苦労であった。今夜のわれらの任務は失敗に終わったけえど、捜査の過程においてはこういうことはしばしばある。落胆することはない。さあ、みんな引き揚げよう。藤田くん、おまえとおれとはもうひと晚刑部神社へ泊めてもらおう」
かくて広瀬警部補が、部下とともに引き揚げていったあとで、
「おじさん、錨屋のおじさん、新在家の兄さんも」
と、巴御寮人が呼びかけたのは大膳と村長の辰馬である。
「あなたがたももう引き取ってつかあさい。このおふたりもご一緒に」
「このふたりをつれていけちゅうて、御寮人、そなたどげえする気じゃ」
「わたしもいろいろ考えました。いま太夫さんのお|亡《なき》|骸《がら》を見ているうちに、つくづくとじぶんの罪の深さを思いしりました。おじさんはさっきこれじゃ死んでも浮かばれんおいいんさったけえど、それもこれもあとに遺った三人、澄子はんや玉江さん、それにわたしの三人が、遺産がどうのこうのと角目だっておるもんじゃけん、太夫さんも神になり切れんのじゃと思いしりました。それについて今晚ひとりでとっくりと、考えとうございますけん、おじさん、このおふたりを新在家まで、つれてかえってつかあさい」
「それじゃ、御寮人は、遺産分けのことについて考えなおすとおいいんさるんで」
村長の辰馬もそばから口を出した。かれも女たちのいざこざにはうんざりしているのである。かれが村長の地位にすわっていられるのも、錨屋という大きなバックがひかえているからである。しかし、その錨屋の財力も、守衛のいままでの極道のおかげで、底をつきかけているということを、かれはうすうすしっている。これ以上錨屋に負担はかけたくないのである。おのれの地位を保存するためにも。
「はい、新在家の兄さん、さっきは気が立っておりましたもんですけん、さんざん悪態をついて、われながら恥ずかしゅうてなりません。いま太夫さんのお亡骸に改めてお目にかかっておりますうちに、澄子はんや玉江さんに、いろいろお世話になったことを思い出しました。なんとかしてあげてほしいと、太夫さんが語りかけておいでんさったような気がしてなりませんでした。それでふっと思いついたんですけえど……」
「御寮人、なにを思いつきんさった」
「あの矢ですわなあ」
「矢ちゅうと、あの黄金の矢のことかな」
大膳がそばから口を挟んだ。
「はい、おじさん、あれいま警察に取り上げられておりますけえど、いずれわたしどもに下げ渡されるんでございましょう」
「それやそうじゃ。あれはそなたの財産じゃけんな」
「あれでなんとか澄子はんや玉江さんの、満足がいくようにしてあげたらどうかと、いま太夫さんのお亡骸を見ているうちに思いつきました。太夫さんの命を奪うたあの矢、わたしは二度と見とうはございませんけん」
黄金の矢のことは澄子も玉江もしっている。三等分してもずいぶん金目になるはずと、欲に目のない玉江はもう胸算用をしている。さっそく玉江がおべんちゃらの百万遍をまくし立てようとするのを、巴御寮人はやんわりおさえて、
「それですけん、今夜は錨屋へいんでゆっくり休んでつかあさい。澄子はんもな」
「はい、ありがとうございます」
「わたしもいろいろ考えて、われとわが身を反省したいと思うとります」
「じゃけえど、御寮人、ひとりで大丈夫かな」
「ひとりいうても真帆がおりますけん。あの子はもう帰っとるやもしれません。それに、刑事さんもおいでんさりますけん。それはそうと、吉やん」
巴御寮人は墓穴に土をかい込んでいる吉太郎に、うえのほうから声をかけた。
「へえ、御寮人さん」
巴御寮人が人前で、吉太郎に声をかけるのは珍しいことである。吉太郎はちょっとドギマギしたようだが、御寮人はいっこう平気で、
「あんた今夜どうおしんさる。お社のほうへ戻っておいでんさるか」
「いえ、わたしは|小《こ》|磯《いそ》のほうへ戻らせていただきとうございます。なんぼわたしが不死身でも、今度ばかりはほとほと疲れてしまいましたけん。錨屋の|旦《だん》|那《な》、新在家までお送りすればよろしいんですけえど、ここにまだ用事が残っとおりますけん」
「ああ、いいとも。わしには村長がついとるけん大丈夫じゃよ。さあ、倉敷も玉島も一緒にいこう。巴御寮人、そなたこそ気イつけておいでんさい」
「はあ、わたしはすぐそこですけん」
かくて一同は三方に別れた。大膳と村長は澄子と玉江をつれて地蔵坂を下っていく。そこで|袂《たもと》をわかった巴御寮人はただひとり、地蔵峠へのぼっていった。吉太郎だけがあとに残って、数人の作業員とともに墓の埋め立てに余念がない。
雨はもうすっかりあがっていて、西のほうから晴れてくる気配だったが、その日はあたかも旧暦の六月二日に当たっていた。|晦日《み そ か》の闇もおなじである。
ふたつの墓の修復が完了したのは、九日の午前三時のことだった。
「ご苦労さん」
「ご苦労さんでした」
「お休み」
「お休みんさい」
三基の投光器が消されて、真っ暗がりになった墓地のなかには、数個の懐中電灯の灯がまたたいている。
墓地を出て少し下ると地蔵平への別れ道である。そこで作業員たちと別れると、なに思ったのか吉太郎は|踵《きびす》を返して、また地蔵坂を登りはじめた。地蔵坂から地蔵峠を登りつめると、右側に一本松の街灯がついている。吉太郎は懐中電灯で足下を照らしながら、隠亡谷のほうへ下りていった。
かれはなぜかたいそう急いでいるようである。地蔵坂を下っていくと、女の足弱づれの大膳や村長に、追いつくかもしれないと思ったのであろう。それでは都合が悪いらしい。まもなく吉太郎は五日の晚、片帆が絞殺された隠れ道へ|辿《たどり》りついた。
いつもは、ほとんど水のない隠亡谷も、きょうはごうごうたる水音である。兜山から鋸山、さては薬師岩から流れ込んだ、さっきの集中豪雨の水量を集めて、いまや隠亡谷は|溢《あふ》れんばかりなのである。
吉太郎はその水音を左に聞きながら、隠れ道を下流にむかってひた走りに走った。その隠れ道にもいたるところに|崖《がけ》崩れや土砂崩れがあるのだけれど、吉太郎は意にも介さずそこを乗り越え、踏み越え下流へ走った。かれがいかにはやく走ったかは、手に持つ懐中電灯の|光《こう》|芒《ぼう》が、|暗《くら》|闇《やみ》のなかに一直線をえがいていることでもうかがわれるのである。
さっき墓掘り作業に従事していたときの吉太郎は、全然無表情で、なにを考えているのか、心のうちはうかがうべくもなかったが、いまや爆発しそうな怒りの色が、まっ黒々とかれの顔をひんまげている。
「本家のやつ! 竜平のやつ!」
歯を食いしばり、熱い息とともに吐き出す言葉のはしばしには、いまにも血が滴りそうなひびきがあった。吉太郎が竜平に対して、これほど露骨に憎悪と反感の情を、たぎらせることはめったになかった。しかし、その思いはつねにかれの心の底に煮えたぎっているのである。
勝利者はどっちか……と、かれはときどき自問自答することがある。それはもちろんおれのほうさとかれは答える。もう二十年以上も巴を抱いて、自由にしてきたんだからなと心にうそぶく。しかし、すぐその下から果たしてそうであろうかと、黒い疑惑が頭をもたげる。おれはただ竜平の代用品ではないのかと、|呪《のろ》わしい|挫《ざ》|折《せつ》|感《かん》におそわれることがある。それは幼時から|培《つちか》われたいとこに対する劣等感からきているのだが、必ずしもそうとばかりいえない場合もあった。
巴とねんごろになってまもなくのころ、彼女と抱き合って|歓《よろこ》びの絶頂をきわめようとする瞬間、彼女の口をついて出る|喘《あえ》ぎや絶叫が、「竜平さまあ……」であったり、「ご本家さまあ……」であることがしばしばあった。そんなとき吉太郎は急速に気力の|萎《な》えを覚えることもあったが、反対にある残忍な歓びにふるい立ち、|炎《も》えあがり、彼女が「吉やん……吉やん……」と、叫ぶまで抱いて離さぬように努めた。
それが功を奏したのか巴の口から「竜平さまあ……」や「ご本家さまあ……」が絶えてから久しくなるが、それがちかごろまたぶり返してきたのは、越智竜平の名が刑部島の救世主として、近隣近在に|喧《けん》|伝《でん》されるようになってからである。
けっきょくおれは本家の代用品でしかなかったのだと、吉太郎はちかごろ敗北感を|噛《か》みしめている。そういえば顔かたちこそ月とすっぽんだが、肩幅の広さ、胸板の厚さ、胴回りの太さ、腰のバネの|強靱《きょうじん》さ、そこいらは本家とおれは酷似している。抱かれて目をつむってしまえば、|摺《す》り合わす|膚《はだ》と膚の感触は、本家もおれもおなじだったのではないか。
あいつが浮気した男たちもみんなおなじだった。顔かたちこそそれぞれちがえ、体つきにはみんな共通したものがあった。あの神楽太夫にしろ、置き薬の行商人にしろ、淡路の人形遣いにしろ、みんな広い肩幅を持っていた。厚い胸板を自慢にしていた。太い胴回りと、強靱な腰のバネを誇りとし、|阿鼻叫喚《あびきょうかん》の叫びをあげて、乱れに乱れるあの女に恩にきせていたという。
あいつは|女《じょ》|郎《ろう》|蜘蛛《ぐも》のように男たちを食い散らし、あげくのはてにはあの世へ送り込んだ。あの最中に舌を|咬《か》み切られて死んだのは神楽太夫であった。心を許して事後の陶酔境に前後を忘れているところを、ノド笛|咬《か》み裂かれて死んだのは置き薬の行商人であった。淡路の人形遣いはさんざんお役に立てた下腹部を、御用ずみとばかり切り落とされて死んでいった。みんなみんなあの|紅《ぐ》|蓮《れん》|洞《どう》のなかでのことである。そして、おれが万事後始末をしてやった。あの女郎蜘蛛の歓心をあがなうために。
この春やってきた青木という男もおなじであった。あいつも広い肩幅、厚い胸板、太い胴回りを自慢にしていた。女郎蜘蛛が食指を動かすに、十分すぎるほどの肉体的条件をそなえていた。
女郎蜘蛛は例によってあいつを|貪《むさぼ》り食らった。本家が命名したというあの「星の御殿」でである。そのあと|止《よ》せばよいのにあの女は、神聖な奥の院まであの男をつれていき、過去の罪業のかずかずを誇りがおに語って聞かせた。あの女はもちろんこのおれが、ことのいちぶしじゅうを物陰から、|窺《うかが》っていることを知っていたからである。
青木は恐怖にかられて逃げようとした。それをこのおれが躍り出て、わしづかみにした岩のかけらで後頭部をぶん殴って|昏《こん》|倒《とう》させた。失神しているあいつの体を紅蓮洞から千畳敷きまで引きずり出し、|落《おち》|人《うど》の|淵《ふち》へ投げ落としたのはこのおれだが、よかれと思ってやったこの処置に、あとから|執《しつ》|拗《よう》に抗議が出たのにはおれも弱った。なぜあの男も骨にして、太郎丸様、次郎丸様のお|伽衆《とぎしゅう》にしなかったのかと、あの女に詰め寄られたときには、さすがのこのおれも身の毛がよだつような恐ろしさを、あの女に対して覚えずにはいられなかった。
太郎丸。
次郎丸。
そこだ、万事はあの体のくっついたふたごに端を発しているのだ。
竜平よ、よっく聞け。きさまがあの女に産ました子どもは、世にも|異形《いぎょう》な体と体がくっついたふたごだったのだ。それとわかったときあの女は逆上した。血が頭にのぼってしまったのだ。付き添いのものがつい目を離しているうちに、あの女はふたごの鼻孔に|枕《まくら》を押し当て殺してしまった。それ以来あの女のふるまいには、常軌を逸することが多くなった。
さいわいこの秘密は付き添うていた産婆がうまく立ちまわったので、闇から闇へと葬られたが、やがて女の産後の肥立ちも順調で、終戦後島へかえってきたとき、疎開先で人知れず葬ってきたはずのふたごの遺体を、荷物のなかに隠し持っていたのにはおれも驚いた。
女はそのふたごに太郎丸、次郎丸と命名していた。ふたごの体はもう腐乱しつくして、たいした臭気も放たなかったので、女もそのような大胆なまねができたのだ。その太郎丸、次郎丸をいまある姿に変形して、永遠に保存するように細工したのはもちろんこのおれである。その代償はむろん女の体であった。
それから……? それから……?
吉太郎の頭は混乱して、もうそれ以上のことは考えられなくなっていた。
「本家のやつ! 竜平のやつ!」
かれはただ夢遊病者のように叫びつづけている。そしてただ|闇《やみ》|雲《くも》に走っているのである。
かれも今夜のあの無意味な墓掘り作業が、なんのために決行されたのか気がついている。
かれの胸中は恐怖と怒りが|錯《さく》|綜《そう》して、|沸《ふっ》|騰《とう》するようであった。
「本家のやつ! 竜平のやつ!」
三十分ののち吉太郎は小磯のわが家へかえってきた。しかし、かれは五分とは家のなかにいなかった。まもなく裏口から忍び出した吉太郎の姿を見ると、全身重装備をしている。弾帯を腹に巻きつけ、|剣《けん》|袋《たい》を腰にぶら下げているのみならず、左手に猟銃をかかえている。その猟銃には抜かりなく|装《そう》|填《てん》してあるのである。
かれはその足で七日の朝と同様に小屋の背後にある山によじ登りはじめた。
「本家のやつ! 竜平のやつ!」
と、熱い息とともに吐きすてるようにうめきながら。
二
一同にわかれた巴御寮人が、ただひとり刑部神社へかえってみると、そこは当然のことながらシーンと静まりかえって、人の気配はさらにない。巴御寮人は社務所からなかへはいっていくと、あたりのようすをうかがうように、式台のうえに立ってしばらく耳を傾けていたが、思い出したように、
「|真《ま》|帆《ほ》……真帆ちゃんはもうかえってるウ……?」
しかし、その声は低くて小さくて、とても返事を期待しているとは受け取れなかった。
巴御寮人はしばらく式台のうえに立ったまま、なにかを打ち案じているらしかったが、なにか目に見えぬものに引きずられるように、ふらふらと廊下を左へいった。そこには拝殿へのぼる七段の階段がある。彼女はよろめくような足どりで、その階段をのぼっていった。
拝殿のなかは真っ暗である。しかし、巴御寮人は懐中電灯を持っている。懐中電灯によって照らし出されたそこにはなにものもなく、ただ森閑と静まりかえっているばかりである。しかし、巴御寮人には見えるのである。内陣をへだてる|粗《あら》い格子に、黄金の矢によって|串《くし》|剌《ざ》しにされたおのれの夫が、もたれかかっている醜い姿が。あのもったいぶった天神ヒゲが、いまではかえって|滑《こっ》|稽《けい》だった。
憎い男であった。八つ裂きにしても飽き足らぬほど憎悪すべき男であった。じぶんの過去のあやまちを口実にして、さんざん浮気をしてじぶんを苦しめたのみならず、神社の財産を|蕩《とう》|尽《じん》したうえ、頼りに思う錨屋の財産まで食いつぶしていった男。じぶんは澄子や玉江の存在に、どれほど自尊心を傷つけられたことか。
さんざん|放《ほう》|蕩《とう》の限りをつくしたうえ、じぶんを越智竜平に売り渡そうとした男。あのときあの男はこういった。
「な、それでおまえもほんとうに仕合わせになれるというもんじゃ。越智の本家はいまじゃ大金持ちじゃ。この矢をよう見ておみんさい。これだけでも何百万円、いや、何千万円するかもしれん。それを惜し気ものう寄進するちゅうのンも、みんなおまえが欲しいばっかりじゃ。おまえにしてからがそうじゃろうが。初恋の人は生涯忘れられんちゅうけえど、おまえいまでもあの男に|惚《ほ》れとるんじゃろ。吉太郎はただあの男の身代わりに過ぎんちゅうことは、わしはまえからようしっとったけんな」
吉太郎の名前が出た瞬間、巴の心中には名状することの出来ない怒りがこみあげてきた。それは一種の|嫌《けん》|悪《お》|感《かん》に通ずる怒りであった。しかし、守衛はこの微妙な女ごころの動揺に気がつかなかった。かれはありとあらゆる|淫《みだ》らな言葉をつかって、彼女と吉太郎の関係をはやし立てた。しかも、それは彼女と吉太郎が抱き合っているところを、じっさいに目撃していたのではないかと思われるほどの正確さであった。巴の心中の怒りはますます|熾《し》|烈《れつ》にもえさかった。
「さ、さ、代用品で我慢している時期はもう終わったんじゃ。今度は本物がおまえを抱いていろいろかわいがってやろうと、舌なめずりをしておいでんさる」
と、守衛はさらに、露骨で|淫《いん》|猥《わい》な言葉の限りをつくして、竜平と巴の|閨《けい》|房《ぼう》における未来図を、えがいてみせて悦に入っていた。
「そうじゃけん、そなたがこの離婚届けに署名|捺《なつ》|印《いん》さえすれば、万事はまるう収まる。そなたもわしも仕合わせになれるというもんじゃ」
守衛は巴がその書類に署名するものと、信じて疑わぬふうであった。それがいっそう巴の怒りをかき立てた。
「そうじゃけえど、太夫さん、その矢をいちどわたしに持たせてつかあさい。どのくれえ重みがあるもんぞな」
「おお、おお、持っておみんさい。これはそなたの身のしろ金じゃけんな。ずっしりと持ち|重《お》もりがするぞな」
じっさいそれはずっしりと持ち|重《お》もりがした。巴はその重みを鑑賞するように、逆手に持って二、三度上下させていたが、
「あ、太夫さん、あれはなんでござりましょう」
「な、な、なんじゃな」
「ほら、あれ、あれ、なにやらひょんなげなもんが……」
「ひょんなげなもん……?」
守衛がうしろを振り返ったとたん、巴の右手がその背後に振りおろされた。守衛は声も立てずに|俯《うつ》|伏《ぶ》せに、内陣の床にどうと倒れた。巴はそのうえに馬乗りになり、両手で黄金の矢の矢羽根を握ると、まるで|錐《きり》を|揉《も》み込むようにして守衛の体内へ打ち込んだ。やがて矢はふかぶかと守衛の体内に突き刺さり、バリバリと、床を|掻《か》いていた守衛の両手の運動がやんだかと思うと、その体がながながと床のうえに伸びていた。血もほんのちょっぴりしか|滲《にじ》んでいなかった。
巴はさすがに満面に朱を注ぎ、呼吸も多少荒くなっていたけれど、それほど取り乱してはいなかった。彼女は冷然として夫の死体を|視《み》|守《まも》りながら、ハンケチを出して黄金の矢を|拭《ふ》き取った。こういう古風な島に生まれて育った女でも、そこは現代人である。指紋の知識くらいあったらしい。それからそこに落ちている離婚届けをふところに|捻《ね》じ込むと、|頬《ほお》の|火《ほ》|照《て》りのおさまるのを待って、平然として内陣から出ていった。外は火事騒ぎのまっ最中であった。
この女はいつもこうなのであろう。神楽太夫の松若の舌を咬み切ったときも、置き薬の行商人、荒木清吉のノド笛を咬み裂いたときも、さては淡路の人形遣いの下腹部を切り取ったときも、この女はいつもこのとおり冷静であったのかもしれぬ。そして、いつの場合でも吉太郎が要領よく、彼女の意に添うように、善後処理をしてくれるのだ。彼女はいつか吉太郎を神格化していた。いや、神格化しているといっても、決して尊敬しているわけではない。むしろ相手を|軽《けい》|蔑《べつ》していた。|奴《ど》|隷《れい》を遇するごとく鼻のさきであしらっていた。相手はなんといっても代用食なのだから。
今度の場合もそうであった。彼女はただ守衛の背中に矢を突っ立てて、相手を死にいたらしめただけなのである。しかし、事件が発見されたとき守衛の体は|串《くし》|刺《ざ》しになっていた。それによってじぶんが容疑者の圏外におかれたとしったとき、彼女は吉太郎がじぶんをかばうために、やったことだと信じて疑わなかった。それでいて、彼女はそれに対してみじんも感謝の気持ちは持たなかった。奴隷として、当然のことをやったまでだと思っている。刑部神社という大家に生まれ、|掌中《しょうちゅう》の|珠《たま》とはぐくまれてきたこの女は、他からほどこされる|恩寵《おんちょう》を、当然のこととして受け止め、それに対して感謝するということを知らなかった。これがこの女のいちばん大きな特質なのである。それはおのれの|美《び》|貌《ぼう》に対する自信からもきているらしい。
昭和四十二年七月九日の午前三時、拝殿を|覗《のぞ》いてみた巴の胸にはさまざまな思いが去来していた。しかし、彼女はそれほど長くそこに|佇《たたず》んでいたわけではない。彼女の胸にもいまジリジリするような、焦燥の思いがくすぶっているのである。
あの無意味な墓の発掘がなんのために行なわれたか、吉太郎にもその真意が読めたくらいだから、彼女に読めぬはずはない。巴は越智竜平よりも金田一耕助が、途中で姿を消したのが気になっていた。
拝殿を滑りおりると巴は社務所のほうへ戻ったが、廊下の正面に見える階段に目をとめると、ふとそこに立ちどまった。廊下の正面には七段の階段があり、そのうえに拝殿とおなじ高さに会議室がある。神楽殿の背後に当たっていて、神楽太夫たちの楽屋になっているところである。
いま階段のうえの|扉《とびら》は細めに開いていて、そこから灯の色が|洩《も》れているが、人の気配はさらにない。そういえばこの人たちはお墓の発掘にも立ち合わなかったが、いったいなにをしているのだろうと巴は耳をすました。神楽太夫は七人いるはずだが、人の話し声は全然聞こえない。しわぶきの音はおろか、|衣《きぬ》|擦《ず》れの音さえきこえなかった。
巴はいまから二十年ほどまえ、松若という神楽太夫と、がっちり四つに取り組んで、のたうちまわっているうちに、むらむらとこみ上げてきた魔性から、相手の舌を咬み切って死にいたらしめたことがある。しかし、そのことに対する罪業感はほとんどなかった。それだけの代償は払ってやったのだ。相手は法悦のうちに昇天したはずだと、じぶんで勝手に決めている。しかし、そのことが露見すればどうなるかという恐怖は、人一倍強烈なのである。
巴は足音を盗んで階段をのぼっていった。細目に開いている扉の|隙《すき》から、そっとなかを|覗《のぞ》いてみた。広い部屋のなかには|煌《こう》|々《こう》と灯りがついている。しかし、だれもそこにはいなかった。いつでも出発できるように、厳重に綱でからげた|葛籠《つ づ ら》が二つ、置きっ放しにしてあるだけで、人影はさらになかった。明るい部屋のシーンとした静けさが、彼女にとってこのうえもなく無気味でもあり、不安でもあった。
ジリジリするような焦燥の思いが、また胸の底からこみあげてくる。
「どうしよう、どうしよう、さてどうしよう」
巴はいてもたってもいられぬ思いで、階段をかけおりると、じぶんの住居へかえってきた。南に面する雨戸は全部締まっているのだけれど、電気は|点《つ》けっぱなしで出掛けたので、そこも煌々として明るい。それでいて無人の家のなかはシーンとしている。そのことがかえって、彼女の不安と恐怖をジリジリと、心の底からかき立てるのである。
「真帆ちゃん、あんたまだ帰っていないの、あんたいったいどこへいったン……?」
巴はお義理のように|呟《つぶや》いたが、そのときふと、どこからか聞こえてくる人の話し声が、|尖《とが》りきった彼女の|耳《じ》|朶《だ》をとらえた。|弾《はじ》かれたように彼女はあたりを見まわしたが、家のなかに人のいるべきはずはない。しかも人の話し声はまだつづいている。なにか声高にののしりあっているようだが、言葉の意味はわからない。
巴はそれが雨戸の外からだと気がついて、そうっと一枚、音のしないように雨戸を開いた。雨戸を開くまえに室内の電灯を消すことも忘れなかった。言葉の意味は依然として分明しなかったが、声はだいぶん高くなってきた。
裏の千畳敷きからだと気がついたとき、巴の全身は|錐《きり》を|揉《も》み込まれたように|痙《けい》|攣《れん》した。あわてて雨戸をしめると、しばらくそれに背をもたらせて、はげしい胸の|動《どう》|悸《き》を両手でおさえていたが、やがて、なにか決心したように社務所のほうへ出ていった。巴が社務所から持ってきたのは|草《ぞう》|履《り》である。
彼女は台所の勝手口から裏庭へ出た。裏庭を右へいくと納屋がある。吉太郎が刑部神社へ泊るとき、いつも詰めるあの納屋である。納屋のすぐそばに、裏の千畳敷きへおりる|隘《せま》い石段があることはまえにもいっておいた。巴は懐中電灯を持っていたが、その石段のうえまできたとき、あわててスイッチを切って灯を消した。
石段にそった左側の石垣のふもとに|龕《がん》が彫ってあって、その龕のなかに、五輪の塔が祭ってあることは読者諸賢もしっている。そしてその五輪の塔の奥に「星の御殿」があることも、諸君はすでにしっていられるはずである。そこから|灯《あか》りが洩れていた。人の話し声もそこから聞こえてくるのである。ここまで来るとだいぶん声も高くなってくる。なにかいい争っているふうであるが、それもふたりや三人ではない。数人の声ががやがやと入りまじって聞こえてくる。