第二十六章 |女《じょ》|郎《ろう》|蜘蛛《ぐも》.2
巴は|石《いし》|垣《がき》に背をもたらせたまま、一段二段三段と、|蟹《かに》のように|横《よこ》|這《ば》いに石段をおりていったが、そのとき聞きおぼえのある声が、ハッキリ彼女の耳にとらえた。
「刑事さん、あんたもわからぬおかたじゃな」
それはあきらかに神楽太夫の頭領四郎兵衛老人の声である。太い、よく|鍛《きた》えぬかれた声であるが、それと同時に総入れ歯から|洩《も》れる声でもある。
「わしの孫がふたりもう十二時間、いや、もう十三時間以上もかえってこんのじゃ。ここにいるこの|弥《や》|之《の》|助《すけ》は、兄の誠がこの洞穴から、こっそり出てくるのを見たというとる。この洞穴にはもっと奥があって、誠はそれを探り当て、そこへ潜り込んだにちがいないと、この弥之助はいうちょります。さあ、そこをどいてつかあさい。わしもその入口を捜し当て、孫のところへいかねばならん」
それに対してそれを制止しているらしいのは、見張りに立った刑事であろう。
もし巴がそこを覗いてみたら、|隘《せま》い「星の御殿」のなかで、二人の刑事と五人の神楽太夫が揉みあいながら、押し問答をつづけている場面を見たであろう。
ふたりの刑事は広瀬警部補の密命をうけて、墓掘り作業の現場を抜け出し、そっとそこへやってきて見張りに立っているのである。警部補の命令では、だれもそこへ近づけてはならぬ。場合によっては|拳銃《けんじゅう》を使用するも可ということになっていた。かれらがここへ到着したのは、金田一耕助と越智竜平が、秘密の抜け穴からなかへ潜り込んでからまもなくのことであった。
かれらは忠実に上司の命令を守って、見張りに立っていたのだが、そこへ押し込んできたのが、思いがけなくも神楽太夫の五人である。
かれらはてんでに仲間のふたりが消えてしまった、もう十二時間以上も待ったが帰って来ない、この洞穴にはもっと奥があって、そこへ潜り込んだにちがいない、その入口を捜させてほしいというのである。
ふたりの刑事はもちろんそれを|挑《は》ねつけたが、五人の神楽太夫はなかなかそれに承服しない。
「あんたもわからぬおかたじゃな。この洞穴の奥にもっと深い洞窟があるかどうかは、わしもハッキリしらんのじゃ。そうじゃけえど、仲間がふたり消えてしもうたということはほんとうじゃ。この洞穴をわしらにとっくり調べさせてくれてもええじゃないけ」
平作が辞を低うして懇願し、徳右衛門や嘉六もそれに和した。しかし、ふたりの若い刑事は|頑《がん》としてそれを|肯《き》かなかった。かれらはこの五人にここへ押し込んで来られただけでも、じぶんたちの失策ではなかったかと懸念している。押し問答はだんだん険悪になってきた。ことに孫の身を案ずる四郎兵衛の|激《げっ》|昂《こう》はひどかった。いちばん若い弥之助は、面白がってそれをけしかけているふうである。
「おお、みなの衆、みんなでこのふたりを取りおさえておいてつかあさい。そのまにわしが抜け穴の入口を捜してみるけん」
「ようし」
日頃はおだやかな神楽太夫も、今夜は妙に気が立っている。ひとりの刑事に神楽太夫がふたりずつ躍りかかった。
「おい、無茶すんな。乱暴するとぶっ放すぞ」
と、|脅《おど》してみても警部補が、こととしだいによっては拳銃を使用しても可といった相手が、これらの神楽太夫とは思えなかった。五人が五人ともなぜか非常に興奮しているふうだが、それほど凶暴な人種とは思えなかった。だいいち腕力以外の武器を持っているふうもない。
こうして隘い洞穴のなかで七人の男が、口々にののしり、わめきながら揉み苦茶になっていたのだから、龕の外をひとりの女が、風のごとく通りすぎていったのに、だれひとり気がついたものがなかったのもむりはない。
巴は千畳敷きを抜けると石垣の下をまわって、刑部神社の石段の下へ出た。彼女もよっぽど用心しているのだけれど、さいわいあたりに人影はない。彼女はそこからまっすぐに地蔵平の墓地へむかった。雨はもうとっくにあがっていた。
墓地にはまだ、三基の投光器が置きっぱなしになっていたが、その灯は消えてあたりは真っ暗になっている。だれもそこにいなかったことはもちろんである。巴は絶望的な目なざしで、しばらく墓地のほとりに|佇《たたず》んでいた。呼んでもむだとしりながら、小声で呼ばずにはいられなかった。
「吉やん、吉やん」
むろん答えのあろうはずはない。吉太郎はそれより半時間もまえに、そこを立ち去っているのである。
こういうときの巴はいかにも心細そうに見える。刑部神社の御寮人さんで収まっているときは、神々しいばかりに美しく見え、体の線にも色気があり、ボリュウムもたっぷり感じられるのに、こうして肩の線を落として|悄然《しょうぜん》としているところを見ると、女としての格が一段も二段も下がってみえるというのはどういうことか。
「どうしよう、どうしよう、さてどうしよう」
ジリジリするような焦燥の思いが、また腹の底からこみあげてくる。いても立ってもいられぬような不安感から、巴は墓地のそばを離れ、足ばやに地蔵峠を登りつめると、さっき吉太郎がおりていった一本松の分かれ道から、隠亡谷のほうへおりていった。その道はまもなく隠れ道に合流する。五日の夜の大雷雨のさなかに彼女はその道を、片帆の後を追って走ったのだ。|蓑《みの》と|笠《かさ》に身をかためて。
ふつうの女なら怖くて二度と近よれぬところだけれど、巴はそういうことはいっこう平気らしい。過去の悪業は|刹《せつ》|那《な》の夢として雲散霧消し、心の底になんのかげりも残らないのが、この女のいちばん大きな特質であったろうと、のちになってさる高名な精神医学の権威が分析している。
巴はしかし、隠れ道を下流へはいかなかった。彼女は逆に道を左へとって、お薬師さんの舞台へと|這《は》い上がった。
お薬師さんの舞台の北側には、|衝《つい》|立《た》てのような部厚い大きな|花《か》|崗《こう》|岩《がん》が突っ立っており、その一部が人間ひとり|潜《くぐ》れるくらい彫りぬかれていて、そこに薬師如来の像が安置してあることはまえにもいっておいた。それとは別にこの花崗岩の巨大な衝立てには、大きなお|籠《こも》り堂が、くりぬいてあることもまえに記述しておいた。これは天然にできた岩の|窪《くぼ》みを、人間の手をくわえて彫り抜いたものらしく、そのくりぬいた穴の壁や床には、まえには板が張ってあったのだけれど、ちかごろはお籠りをする人もたえてないままに、壁や床の張り板も、見るかげもなく立ちぐされている。
注意ぶかくあとさきのようすに気を配りながら、巴がまぎれ込んだのはそのお籠り堂である。彼女はそこに散乱している板ぎれを取り片付けていたが、すぐ根気を失ったように、板ぎれの|屑《くず》の山に腰を落とした。
「どうすればええのン、吉やん、どうすればええのン」
巴は泣きはしなかったけれど、両手で肩を抱いたその体は、寒々としてふるえている。気温も降下していたけれど、この|稀《き》|代《だい》の悪女がふるえているのは、寒さのためではない。追いつめられた絶望感と生命に対する恐怖が、彼女の体をゆすぶってやまないのである。
「吉やん、うち死ぬのン、いややわ、いややわ。うち死ぬのン、絶対いや。吉やん、あんたならなんとか出来るでしょ。吉やん、はよ来て。肝心のときに逃げるなんてあんた|卑怯《ひきょう》よ。吉やんの役立たず」
そこで巴ははじめて泣いた。さめざめと泣きながら役立たずの吉やんを|呪《のろ》いに呪った。
しかし、いまは泣いている場合でないと気がついたのか、それとも腹の底からこみあげてくる不安と恐怖に突き上げられたのか、巴は|板《いた》|屑《くず》の山からピョコンと立ち上がった。そして身も世もあらぬ思いに|地《じ》|団《だん》|駄《だ》を踏んでいたが、急に、お籠り堂から外へとび出した。
とたんに、
「あら、吉やん!」
彼女はぶつかりそうになった吉太郎の、たくましい体にしがみついていた。
「やっぱり来てつかあさったンね。やっぱり来て……」
吉太郎は武者振りついてくる巴の腕を、あらあらしく振りほどくと、
「御寮人、あっちの入口はどげえした。見つかったんじゃないけ」
「見つかったわ。おまわりが|視《み》|張《は》っとおるとおみんさい。みんなこの洞穴のなかにいるのンよ」
巴御寮人はそこではじめて吉太郎の武装に気がつくと、
「吉やんもそのつもりでおいでんさったんじゃな。そうじゃ、そうじゃ、みんなみんな殺しておしまいんさい。その鉄砲でどいつもこいつも撃ち殺しておしまいんさい。澄子も玉江もみな殺しにしてつかあさい」
「みんな殺して御寮人はどげえする気じゃ」
吉太郎は陰うつな目で巴の顔を凝視している。巴はしかしそれに気がつかず、
「この島から出ていくのンよ。うちもうこの島いやんなってしもうたけんな。そうじゃ、あそこへいこう。うちが太郎丸や次郎丸を生んだ|播州《ばんしゅう》山崎、あそこの近くの温泉へいこう。吉やん、連れていってつかあさるでしょう」
「それでこの洞穴のなかにいる、太郎丸や次郎丸はどげえおしんさる」
「連れていくのンよ、もちろん連れていくのンよ。この洞穴のなかにいる連中、みんな殺して、太郎丸と次郎丸を連れていくのンよ。吉やんならそれがおできんさる。その代りうちこれから吉やんに、あんじょうサービスしてあげる。好きなようになってあげる」
巴御寮人は持ちまえの|驕慢《きょうまん》さを取り戻していた。その淫らで|奢《おご》りにみちた笑顔には、さすがの吉太郎でさえ、鬼気|膚《はだ》に迫るものを覚えずにはいられなかった。
「よし、じゃ、そうするか」
吉太郎は巴の体を押しのけると、そこに|堆《うず》|高《たか》く盛りあがっている木片の類を取りかたづけた。お籠り堂の奥は堅牢な花崗岩の袋の底である。吉太郎は|渾《こん》|身《しん》の力をこめてこの|堅《けん》|牢《ろう》な袋の底を押したり引いたりしていたが、やがて|手力男命《たじからおのみこと》が天の岩戸を開いたように、そこに真っ暗な、人ひとりやっと潜れるかどうかの穴があき、冷たい風が吹き上げてきた。