一
金田一耕助はこの島へきてから、きょうでちょうど一週間になるが、まだいちどもいま吉太郎が眼下に|俯《ふ》|瞰《かん》している、この方面へ足を踏み入れたことがない。
この島におけるかれの行動半径といえば、|新《しん》|在《ざい》|家《け》と|刑部《おさかべ》神社の存在する、|兜山《かぶとやま》を結ぶ一線上に限られていた。すなわち人家のあるところに限定されているのである。人間と人間とのあいだにかもし出される|物凄《ものすさま》じい|軋《あつ》|轢《れき》なり、血で血を洗うような|葛《かっ》|藤《とう》なりだけが、金田一耕助を必要とする。金田一耕助はしぜん人間臭い俗世間にだけ興味をむけることを強いられて、それがいつか習慣となり、大自然の|創《つく》り出す驚異に目をむけることを忘れていた。
いや、この島に生まれて育った人びとは、|隠《おん》|亡《ぼう》|谷《だに》の景観に慣れつくしているので、事新しく、その驚異的な景観を口にして語ったりはしなかった。いまこの島で進行しつつある、この恐ろしい一連の事件とは、まったく無縁のものと思われていたので、だれも金田一耕助に、その谷について注意を促すものがいなかったのである。
しかし、いま吉太郎が立っている丘に身をおいて、その足下に広がる景色を望観したら、いかに俗臭に|揉《も》まれもまれてきた金田一耕助といえども、大自然の描き出すこの驚異に、圧倒されずにはいられないであろう。その谷を見れば、この島全体が|花《か》|崗《こう》|岩《がん》から成立していることがよくわかる。そこはまるで花崗岩の墓場のようであった。
ゆうに貨車一|輛《りょう》はあろうかと思われるほどの花崗岩が、いま吉太郎の立っている丘のはるか|麓《ふもと》から、|累《るい》|々《るい》層々と重なりあい、揉みあい、|絡《から》みあいながら、二キロほど南方までつづいているのである。この島は南へいくほど高いので、谷もむこうへいくほど床が高くなっていて、その谷のいちばん奥は、いま丘のうえに立っている吉太郎が、水平に放った目線とちょうどおなじ水準になっている。それが吉太郎の足下では八〇メートルほど落下している。つまりこの谷は二キロほどのあいだに八〇メートルの傾斜をつくりながら|展《ひろ》がっているのである。幅員は約二〇〇メートルもあるだろうか。そのあいだを奇岩巨石が、何百何千となく累々層々とつながっている。
その巨石と巨石のあいだをつづるものといえば、ところどころに背の高い、ひねくれたかっこうの赤松も点在しているけれど、多くは|矮《わい》|性《せい》の|這《は》い松である。一昨夜すなわち五日の夜|烈《はげ》しい雷雨があり、そのあと真夜中ごろまで降りつづいたので、谷の底には流れというより、|水《みず》|溜《た》まりがところどころにできており、その水かさがますと小川となって、|大《おお》|磯《いそ》と小磯の境界となって海へ注ぐのである。人びとはこの小川を|千《ち》|々《ぢ》|岩《いわ》|川《がわ》と、ゆうにやさしい名でよんでいる。
それは鬼気迫るがごとき荒涼たる展望だが、しかし、吉太郎はこういう景観にはなれている。いたって無感動である。かれの気にしているのはいまその谷のうえを舞っている、おびただしい|烏《からす》の群である。さっきもいったとおり、その数、百羽を超えるであろうが、あるものはひねくれた松の|梢《こずえ》に羽根をやすめて、谷底をうかがっている。まるでそこにある|獲《え》|物《もの》をねらうかのように。それらは谷のいちばん奥あたりに集中していた。
吉太郎は汗をぬぐい、呼吸をととのえながら|瞳《ひとみ》をすぼめて、谷の奥を|凝視《ぎょうし》していたが、やがて猟銃をひっさげたまま丘の尾根づたいに道を右へとった。その丘はいったん千々岩川の岸辺までくだっているが、そこにかかっている板橋をわたると、また|険《けん》|阻《そ》な登り坂となっていて、その頂上がすなわちこの島の西に位する|鋸山《のこぎりやま》である。
吉太郎は鋸山の中腹を走っている|岨《そば》|道《みち》を南へいそいだ。左手の眼下にみえる隠亡谷の景観に注意しながら、いくこと三十分にして鋸山とこの島の南にそびえる、兜山が合流している|狭《はざ》|間《ま》に達する。そこに左へくだる小道があり、花崗岩が風化した小石がゴロゴロと小道を埋めている。步きにくい道だが、長靴をはいた吉太郎は平気である。
重い猟銃を右手にひっさげた吉太郎は、体をうしろに反らせるようにしながら、調子をとってその坂道をくだっていった。と、まもなく畳百畳も敷けるかと思われるばかりの、大きな花崗岩の一枚板のうえに出た。この一枚板にはあきらかに人間の手がくわえられている。
この一枚板の背後には、|衝《つい》|立《た》てのような部厚い大きな花崗岩が突っ立っているが、その一部が人間ひとり潜れるくらい彫りぬかれていて、その奥に仏像のようなものが安置してある。|薬《やく》|師《し》|如《にょ》|来《らい》なのである。薬師如来は眼病に効くといういいつたえが諸国にのこっている。この島でもおなじ信仰がつたえられていて、以前はここによく目の疾病になやむ善男善女が、お|籠《こも》りにきたものだそうで、花崗岩の衝立てには大きなお籠り堂がくりぬいてある。これは天然にできた|窪《くぼ》みを、人間の手をくわえて彫り抜いたものらしい。そのくりぬいた穴の壁や床には、まえには板が張ってあったらしいのだが、ちかごろは健康保険の普及で、だれでも簡単に医師の診療を受けられるものだから、こういう信仰もおいおいすたれるものらしく、お籠り堂の壁や床の張り板も、いまや見るかげもなく立ちぐされている。
島の人びとはこの岩を薬師岩とよび、その前面の一枚板をお薬師さんの舞台とよんでいる。
吉太郎はお薬師さんの舞台に立って、すかすように北のほうに視線をはなった。
ここはあきらかに谷のどんづまりになっており、いま吉太郎の立っている舞台の足下から、あの荒涼たる谷の景観が長さ二キロ、幅二〇〇メートルにわたって、北へむかって傾斜しながらひろがっているのである。さっき丘のうえから遠望したときにくらべると、目近に見るその谷の風景は、よりいっそう怪奇で驚異的だった。
この薬師岩の背後はすぐ兜山につらなっていて、そのてっぺんに刑部神社がまつられている。刑部神社の石段をくだって、地蔵峠までくる途中に左へおりるわき道があり、そこをくだるとこの薬師岩の東へ出ることになっている。そこからさらに地蔵坂の麓をとおって、大磯と小磯の境を流れる千々岩川のほとりへ出る道が、谷に沿って細くうねりながら|蜿《えん》|々《えん》としてつづいている。
|陽《ひ》はもうだいぶん高く昇っているはずだけれど、東にそびえる地蔵峠や地蔵坂のかげになっているので、谷は片かげりになっている。薬師岩の舞台に立った吉太郎は、眼下にひろがる累々たる巨石のあちこちに目をくばりながら、口に手を当て、
「|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》! 阿修羅! おぬしはどこにいるぞ!」
吉太郎が塩辛声を振りしぼって、大声にわめくと、その声は陰々たる|谺《こだま》となってはねかえってきた。
「阿修羅! 阿修羅! おぬしはどこにいるぞ!……」
阿修羅というのが飼いぬしに置き去りにされて、野生化した猛犬の名である。
いま吉太郎の立っている舞台から、二〇〇メートルほどしもの巨石と巨石のあいだに、ひねくれたかっこうの赤松が一本|亭《てい》|々《てい》として空にそびえている。土地の人がじじいの松とよんでいる老木である。じじいの松というのはかならずしも尊敬の意味ではない。そのひねくれたかっこうが気むつかしくてクソ意地の悪い、じじいに似ているというほどの意味である。
いま吉太郎が塩辛声を振りしぼり、大声で叫んだとき、そのじじいの松の梢から数十羽の烏が飛び立って、ギャーギャーと騒がしい声をあげながら、谷の空を舞いはじめた。その騒ぎに驚いたのか、西側にみえる鋸山の中腹や、背後にそびえる兜山の|崖《がけ》っぷちにとまっていた烏どもも、いっせいに飛び立って、じじいの松から飛び立った烏と合流したからたまらない。いまや谷の上空は|胡《ご》|麻《ま》をまいたように、烏の黒点によっておおわれた。
烏どもはいっとき気が狂ったように空を舞っていたが、しばらくすると、それぞれの位置にかえって鳴りをしずめた。それでもまだ二十羽ぐらいの烏が空を舞っている。
吉太郎は空に舞っている烏や、じじいの松の梢にかえった烏の挙動を、注意深くうかがっている。それらの烏どもはみないちように、谷のある一点を凝視しているようである。
じじいの松からさらに二〇メートルほど下ったところに、貨車一輛の容積はゆうに超えるであろうと思われる、花崗岩の奇岩巨石が五つ六つ、累々として重なりあったところがある。烏どもがねらっているのはその陰なのだ。そこに烏どもの食欲をそそるような、なにものかが横たわっているらしい。
吉太郎は猟銃をいつでも発射できるように|装《そう》|填《てん》すると、また塩辛声をふりしぼって大声にわめいた。
「阿修羅! 出てこい! おまえの隠れているところはわかったぞオ。おまえはいったいなにを|咥《くわ》え込んだんじゃ。いや、なにを咥え出したんじゃ」
吉太郎はわめいたあとで、その反響をたしかめるように、じっときき耳を立てている。しかし、かれの望んでいるような反響はなく、
「阿修羅! 出てこい!……」
と、いう谺が、むなしく陰々としてかえってくるばかりである。まるでかれの|迂《う》|愚《ぐ》を|嘲《あざけ》るかのように。
吉太郎は薬師岩の舞台を左へまわると、三メートルほど下の巨石のひとつに跳びおりた。巨大な容積をもつ花崗岩は、吉太郎がひとりとび乗ったくらいで、ぐらつくような心配はない。吉太郎はあたりに心を配りながら、またつぎの巨石へとびうつった。安定した重量をもつ巨石は累々として重なり合っているので、巨石から巨石へとびうつるのになんの危険もなかった。
それにもかかわらず吉太郎が、極度にまで神経を|尖《とが》らせているのは、いまかれが相手にしようとしている、阿修羅なる猛犬の性質をよくしっているからである。
吉太郎の|唯《ゆい》|一《いつ》の道楽は狩猟である。猟期になると吉太郎は、猟銃をひっさげて近隣近在の島から島へと駆けめぐる。それが吉太郎の唯一つの道楽である。それには猟犬がほしかった。よく訓練すれば阿修羅は、理想的な猟犬になるのではないかと思われた。かれはなんどか阿修羅に接触を試みた。相手の歓心を買い、手なずけて飼い|馴《な》らそうと心を砕いた。しかし、そのつどみごとに失敗した。
いちど飼いぬしから見捨てられ、部落の人びとに手ひどい迫害をうけたあげく、谷へ逃げ込んで野生化した犬は、ひどい人間不信に陥っていた。人間不信というよりは人間憎悪であろう。吉太郎が接触しようとすればするほど、阿修羅は吉太郎を|忌《い》み|嫌《きら》い、かつ憎んだ。元来犬というものは利口な動物である。それが野生化してから、ひどく警戒心が強くなり、用心深くなっていた。つまり悪知恵が発達し、|狡《こう》|猾《かつ》になっているのである。
しかもきょうの吉太郎は、相手を手なずけようなどという好意はみじんも持っていない。大膳の命令どおり、この島のもてあましものを、一発のもとに撃ち殺してもいいという決意を胸に秘めている。こういう悪意がわからぬ相手ではないということを、吉太郎は百も承知である。かれが用心に用心を重ねるゆえんもそこにある。
吉太郎がいつどこから、飛び出してくるともわからぬ猛犬を警戒しながら、巨石から巨石へと跳びうつり、あのひねくれたじじいの松の麓から五、六メートル手前までやってきたときである。じじいの松の梢にいた烏どもがいっせいにギャーギャー騒ぎ出した。それは猛犬に注意をうながしているのか、それとも吉太郎に警戒せよとの信号なのか、吉太郎はいずれともわからぬままに、
「しっ、しっ!」
と、軽く舌打ちしながら、じじいの松の梢を|睨《にら》んだが、その瞬間、背後からとびかかってきた強烈な圧力に、|俯《うつ》|向《む》きざまに巨石のうえに倒れて転んだ。
「し、しまった!」
|肝《はら》のなかで叫んだ吉太郎は、恐怖のために舌がこわばり、全身の筋肉が硬直していた。背後からとびかかってきたのはいうまでもなく阿修羅である。この狡猾な猛犬は、吉太郎の目をかすめて石の陰から陰へと伝い、いつのまにか吉太郎の背後にまわっていたのである。猛犬は吉太郎を巨石のうえに押しころがすと、いったんうしろへとびじさった。その一瞬の余裕が吉太郎に立ち直らせる機会をあたえたのである。
吉太郎が寝ながら体を一回転させて|仰《あお》|向《む》きになったとき、文字どおり|仔《こ》|牛《うし》ほどもあろうかという|獰《どう》|猛《もう》な土佐犬が、吉太郎のノド仏めがけて躍りかかってきた。その目の色といい、|唸《うな》り声といい、決して吉太郎に好意を示すものではない。おそらく吉太郎のノド仏を|咬《か》み裂くつもりだったのだろう。吉太郎の心臓は恐怖のためにノドのところまでふくれあがっていたが、自己防衛の本能がとっさにかれの命を救った。
吉太郎は左手に猟銃を握っていたが、それを両手に持ちかえると、跳びかかってきた猛犬のくわっと開いた口をとっさに防いだ。すなわち阿修羅が咬みついたのは吉太郎のノド仏ではなく、堅固な猟銃の銃身だった。当てがはずれた猛犬は怒り狂って、その猟銃を吉太郎の手からもぎとろうと、首をはげしく左右に振り、|前《まえ》|肢《あし》でバリバリと吉太郎の胸から腹をひっかいた。さいわい吉太郎は|鞣革《なめしがわ》でできた、上下つなぎのオーバーオールを着ているので、そのほうの衝撃は少なかったが、それでもなおかつ吉太郎は、いま目のまえに迫っている猛犬の顔を見たとき、また改めて総毛立つような恐怖を覚えずにはいられなかった。
いままでなにをしゃぶっていたのか、阿修羅の鼻面から口から|顎《あご》から、真っ赤な血に染まっている。|兎《うさぎ》でもしゃぶっていたのだろうか。この不毛の谷にも兎や|鼬《いたち》が|棲《せい》|息《そく》していて、それが阿修羅の|餌《え》|食《じき》になっていることを吉太郎もよくしっている。
阿修羅はいまや|名詮自性《みょうせんじしょう》、文字どおり阿修羅であり、悪鬼であり、鬼神であった。仰向きになった吉太郎の体のうえに馬乗りになり、横に|咥《くわ》えた堅固な銃身をバリバリと咬み、それを吉太郎の手からもぎとろうとして、|怒《ど》|濤《とう》のごとく、全身をうねらせ、くねらせ、猛烈に首を左右に振っている。その鼻息と唸り声が物凄まじい。
しかし、これこそ吉太郎にとっては思う|壺《つぼ》であった。かれは両手に|捧《ささ》げた銃身をいよいよ強く阿修羅の口に押し込むと、まをはかって右手をはなして腰へずらせた。腰に巻いた弾帯には剣袋がぶらさがっている。あいにくその剣袋は倒れたひょうしに|尻《しり》の下になっていたが、阿修羅と格闘しているうちに尻をくねらせ、うねらせて、その剣袋はいま腰の側面にきているのである。吉太郎の右手が剣の|柄《つか》へとどいた。それをしっかと握りしめるとやにわに剣を抜き、下から力いっぱい阿修羅の腹を突き刺した。
まったくそれは文字どおり危機一髪の瞬間だった。吉太郎はそれまで左手だけで銃を支えていた。左|肘《ひじ》を曲げ、それを銃身と平行にして、|手《て》|頸《くび》と肘で阿修羅の口へ、銃身を横に押し込んでいたのだが、それだけではとうてい相手の力にはおよぶべくもなかった。銃はとうとう阿修羅の口にもぎとられた。猛犬ははげしく首を左右に振って、それを口からふりほどくと、改めて吉太郎のノド仏めがけて咬みつこうとしているその瞬間だった。
鋭い犬の悲鳴がこの荒涼たる谷にとどろき渡って、谺となってはねかえってきた。吉太郎は委細かまわずふた突き、三突き、四突き、五つ突き、抜いては刺し、刺しては|抉《えぐ》った。そのつど犬の悲鳴がほとばしったが、さすがにそれはしだいに弱々しいものに変わっていた。
吉太郎の顔にのしかかっていた阿修羅の目も、はじめは凶暴な怒りと敵意にもえていたが、それが驚きにかわり、|呆《あっ》|気《け》にとられたような色となり、さいごは生気なき悲しみと絶望の表情となったかと思うと、やがて|千《せん》|鈞《きん》の重みとなってぐったりと、吉太郎のうえにのしかかってきた。
吉太郎はやれ助かったとばかりにひと呼吸いれると、腹のうえにのしかかっている、その重いものを横に押しのけた。体をずらせるようにして、やっと下から|這《は》い出した。吉太郎のオーバーオールの胸から腹へかけて、ぐっしょりと血で|濡《ぬ》れている。刃物を握った右の手も、真っ赤な液体にヌラヌラ|濡《ぬ》れて気持ちが悪い。しかし、吉太郎はそんなこと意にも介しなかった。鞣革だから洗えば落ちる。あれだけの大格闘にもかかわらず、ふしぎに吉太郎には大したケガはなかった。左肘を咬まれたとみえ、そこがチクチク痛むくらいのものである。
吉太郎がそこを舌で|舐《な》めながら足下を見ると、横倒しになった巨大な犬が、まだ手脚をヒクヒク|痙《けい》|攣《れん》させている。腹部から|臓《ぞう》|腑《ふ》がはみ出し血だらけである。かつては手なずけて飼い犬にしたいと思ったくらいの犬である。吉太郎は|惻《そく》|隠《いん》の情をもよおしたのか、
「おまえもかわいそうなやつじゃのう。おまえを見捨てて島を出ていったやつがいちばん悪い。そうか、そうか。そいじゃ一息に成仏させてやるけんな」
吉太郎は滴り落ちる汗を|拭《ぬぐ》いながら、そこに転がっている銃をとりあげ、銃口を阿修羅の頭部にしっかり当てがうと、呼吸をはかってズドンと一発引き金をひいた。と、そのとたんじじいの松から二〇メートルほどしもの巨石と巨石のあいだから、おびただしい烏が舞いあがるのが吉太郎の注意をひいた。どうせ烏どもはさっきから、阿修羅の|残《ざん》|肴《こう》をねらっているのだということは、吉太郎にもわかっていた。
しかし、それにしてはその数が多すぎる。野兎や鼬の|屍《し》|骸《がい》では、あれだけ多くの烏がその残肴にありつけるわけはない。よほど大きな獲物でなければならぬ。この島にはもう牛も馬もいないはずなのだが……吉太郎がその獲物なるものに不審を抱き、それを確かめてみる気になったのもふしぎではあるまい。
阿修羅の死体をあとに残して、吉太郎はつぎの巨石へ跳びうつった。巨石の表面の長さは四メートルくらいもあるだろうか。吉太郎は三つ四つそれを伝っていくと、さいわいひとつの巨石に大きな|窪《くぼ》みがあり、そこに水がタップリ|溜《た》まっている。吉太郎はそこで手を洗い、|手《て》|拭《ぬぐ》いを水でしめすと、オーバーオールのまえをゴシゴシこすった。水溜まりの水はたちまちにして真っ赤になった。さらにそこから二つほど巨石を渡ると、そこがいま烏の飛び立ったところである。吉太郎がその岩のうえに立ったとき、じじいの松の梢のうえでおびただしい烏が、ギャーギャー鳴いて騒いだ。吉太郎はいまおのれの立っている巨石と、重なり合うように横たわっている巨石の下をのぞいた。
そしてそれがなんであるかがわかったとき、およそ思うことが表情に出ない吉太郎であるにもかかわらず、その顔面には大きな|驚愕《きょうがく》と恐怖の色がひっつった。それはふつうの人間には目もあてられぬ|観《み》|物《もの》のはずだが、吉太郎は目じろぎもせずそのものを凝視していた。
立って見ているだけではあきたらなかったのか、岩のうえにしゃがみこんで、四つん這いになり、巨石と巨石のあいだの下を|覗《のぞ》いた。
なぜこんなことになったのか、回転の鈍い吉太郎の|脳《のう》|味《み》|噌《そ》では会得できなかったが、たいへんだという意識はあった。すぐみんなに|報《し》らせなければならぬとも思った。かれはそこを離れてもと来た岩から岩へと渡って、急ぎ足に步きはじめた。しかし、五つ六つ岩を渡ると背後に当たって、バサバサと烏の羽根の音がきこえたので、ふりかえってみるといま見てきたあのものへ、烏が群がってくるようすである。
吉太郎は困った。当惑した。もうこれ以上あのものを、むごたらしゅう烏の|啄《ついば》みにまかせておくには忍びなかった。かれはまたもとの巨石へ引き返した。そして、空にむかって猟銃を一発、二発、三発とつづけさまにぶっ放した。
烏をおっぱらうためではない。いや、それもあったろうけれど、それ以上に人を呼ぶのが目的であった。
二
刑部神社の社務所の受付けにしつらえられた、急ごしらえの取り調べ室へ、吉太郎の放った最初の銃声が聞こえてきたのは、七月七日の午前七時五十分のことであった。
そのとき聞き取りに応じていたのは三津木五郎であったが、それはまえにもいったとおり、文字どおり辛気臭い応対の連続であった。この聞き取りの一番手は越智竜平だったが、かれがこの惨劇のさいしょの発見者だったから、これは当然の措置というべきであったろう。越智竜平の聞き取りがはじまったのは、七月七日の午前一時をとっくに過ぎて、午前二時になんなんとしていたとまえに書いておいたが、正確にいうと午前一時五十分のことであった。
この聞き取りに直接当たったのは広瀬警部補で、書き取り役は藤田刑事であった。磯川警部はさっき、金田一耕助にむかって|居《い》|丈《たけ》|高《だか》になって、
「さっきわしは岡山の県警と電話で打ち合わせをして、この事件はいっさいわしが一任されたんです。つまり、この事件の責任者はこのわしじゃ」
と、いっていたが、部下を使うことの上手なこの警部は、こまかい手続きはいっさい広瀬警部補に一任することにして、じぶんは後見格としてこの聞き取りの席に臨んでいた。金田一耕助はさしずめオブザーバーというところだろう。しかし、これが単なるオブザーバーでない証拠に、藤田刑事とは別に、かれもまた証人たちの申し立てを、要領よくノートにメモしていた。
午前一時五十分ごろ|神楽《か ぐ ら》|殿《でん》から、イの一番にこの席へ呼び出された越智竜平は、一夜にしてすっかり|憔悴《しょうすい》したようにみえた。両の|頬《ほお》にきざまれたふたつの|縦《たて》|皺《じわ》が、よりいっそう深くなり、目のふちにくろい|隈《くま》さえできているようにみえる。
社務所の受付けにはカウンターがある。聞き取り役の四人はそのカウンターのなかのソファにいて、カウンターの外のたたきの土間に腰掛けをおき、そこが証人の|坐《すわ》るところにもなっている。午前一時五十分そこへきて腰をおろしたとき、越智竜平はじっさい|悄然《しょうぜん》とみえ、これがこの島に大土木工事を興して、いま話題の中心となっている人物とはどうしても思えなかった。なにかしら悔恨に胸をかまれているらしく、この人の持っているべきはずの高揚の気は、ひじょうに影が薄くなっていた。
広瀬警部補はその顔色から、なにか読みとろうとするかのように、鋭く目を光らせながら、夏物の黒紋付きの|羽織袴《はおりはかま》で正装している相手の姿を、頭のてっぺんから足の先まで見回していたが、それでも言葉つきはいたって丁重であった。
「越智竜平さんですね」
「はあ」
「年齢は?」
四十四歳であると竜平は答えた。
「おところは?」
それに対して竜平はアメリカで繁栄している、西部の主要都市の名を挙げ、自分の居住している地区の名を述べた。
「ああ、あなたはアメリカの市民権を持っていらっしゃるんですね」
広瀬警部補も開き直っているので、できるだけお|国《くに》|訛《なま》りをひかえるようにしている。
そうであると竜平も標準語で答えた。
「ところで日本におけるお住まいは?」
それに対して竜平は東京.丸の内にある高名なホテルの名を挙げた。日本人ならだれでもしっているホテルである。
「つまりあなたは日本とアメリカを|股《また》にかけて、活躍していらっしゃるわけですね」
「まあ、そういうことです」
藤田刑事は熱心に筆を走らせていたが、ここいらのことは金田一耕助は熟知の事実なので、手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》そうに目をショボショボさせている。
「では、今夜……いや、もう昨夜になりますが、昭和四十二年七月六日の夜、当刑部神社の拝殿で起こった事件についておうかがいいたします」
「さあ、どうぞ」
竜平は腰掛けのうえで居住まいをなおすと、いくらか声がしゃがれていた。かれはまだじぶんがどういう目で、捜査員たちに見られているかしらないのである。
「今夜……じゃなかった、昨夜当神社で起こった殺人事件を、さいしょに発見なさったのはあなたでしたね」
「はあ、そうです」
「では、そこまでいくいきさつと申しますか、手順といいますか、どうしてそんなことになったのか、それからまずお|伺《うかが》いいたしましょうか」
「はあ、それはこうです」
そこでまた竜平は居住まいをなおすと、ちらっと金田一耕助のほうへ視線を走らせて、
「わたしが当神社の祭礼に立ち合うために、地蔵平のわが家を出たのは、たぶん八時半ごろのことだったと思う。いくらか|酩《めい》|酊《てい》していたので、正確には記憶しておりませんが……それから……」
「ああ、ちょっと待って……」
と、警部補がいそいでさえぎると、
「あなたはそのまえに当神社へやってこられた……と、いうようなことはありませんか。昨夜日が暮れてから……?」
「いいえ、そういう事実はありません。昨夜この神社へきたのは、あとにもさきにも一度きりで、そのままここへ足止めをくらっていることは、主任さんもよくご存じのとおりです。そのことは、そこにいらっしゃる金田一先生もよくご存じのはずですが……」
「はあ、よく存じております。ついでに付け加えておきましょう。あなたが地蔵平のお屋敷を、自動車で出られたのは八時半ジャストでした。わたし何気なく時計を見たんです」
金田一耕助がそばからくちばしを入れると、
「越智さんはよい証人を持っておいでんさる」
と、広瀬警部補はついお国言葉を出して皮肉ったが、すぐ、
「いや、失礼しました」
と、軽く頭をさげると、
「地蔵平のお宅を八時半ジャストに、自動車で出られたとすると、当神社へお着きになったのは……?」
「さあ、わたしはいちいち時計を見ながら、行動をしとるわけではありませんけん、正確なところはわかりませんが、たぶん八時三十五分ごろのことじゃないですか。地蔵平からここまでは五分ちゅうところでしょうからな」
「あなたが石段をのぼって、当神社の境内へ足を踏み入れられたのは、八時三十六分でした。わたしが時計を見たんです。顔を出されるのが、少し遅いんじゃないかと思うたもんですけんな」
こんどは磯川警部がくちばしをはさんだ。
「あっはっは、越智さん、あなたはいろいろよい証人を持っておいでんさる。金田一先生といい、警部さんといい……」
広瀬警部補はまたちょっと、皮肉っぽくいって頭をさげたが、すぐきまじめな表情にもどると、
「それで、八時三十六分にこの神社の境内へあがってこられると……? それからどうなさいました」
「はあ、社務所のまえから神楽殿へかけて、水びたしになっているのでびっくりしました。それにみんな神楽殿の下へ集まって、なにやらワイワイ騒いでいる。すぐ火事があったんだと気がつき、急いで社務所のなかへとび込みました」
「そのときこの社務所の戸は開いていましたか」
竜平はちょっと小首をかしげて考えて、
「開いていたんでしょう、じぶんでひらいた記憶がありませんから。いや、たしかに開けっぱなしになっていました」
「それから……? それからどうしましたか」
「それから、まっすぐに宮司の住居のほうへ駆け込みました。わたしはこの神社内の勝手は、わりとよくしってるもんですけんな」
「それはそうでしょう。これはあなたが新しく建て替えて、寄進なさったんじゃそうですけん」
「はあ、まあ、そういうことです」
竜平はいくらか鼻白んで、
「わたしはだれかいたら、何事が起こったのか尋ねてみるつもりでいたんです。だれもいませんでした。そこでそこを出ると……」
「拝殿のほうへいかれたんですか」
「はあ……」
いままで明快に答えていた竜平だのに、そこへくると急に歯切れが悪くなってきた。なにか居心地が悪そうに、腰掛けのうえのお|尻《しり》をもじもじさせている。金田一耕助も磯川警部も、おやというふうに竜平の顔を|視《み》|直《なお》した。藤田刑事もつぎの言葉を待つように、ボールペンを持つ手をやすめている。
広瀬警部補は改めて、するどく相手を視すえながら、語気を強めて、
「どうして拝殿のほうへいかれたんですか。警部さんの話によると、そのとき拝殿のなかは|灯《ひ》が消えていて、暗かったということです。それだのになぜあなたは、そっちのほうへ出向いていかれる気になったんですか」
「それが、そのう……」
竜平はいよいよお尻のすわりがよろしくないふうである。
「越智さん」
広瀬主任はそこでわざと言葉を切って、真正面から竜平の顔を注視しながら、
「拝殿のほうのこと、あれはあなたがおやりになったとまでは申しませんが、あなたはすでにああいうことが、行なわれているということをしっていて、出向いていかれたんではありませんか」
「と、とんでもない!」
「じゃ、なぜあっちのほうへいかれたんですか。|灯《あか》りが消えて、おそらく|人《ひと》|気《け》も感じられなかったであろう、あの拝殿のほうへ……?」
「さあ、それは……」
竜平は窮地に立ったように口ごもったが、そのとき、そばから助け舟を出したのは金田一耕助であった。
「越智さん、あなたそのとき拝殿から、だれかが出てくるのをごらんになったんじゃありませんか。あなたその人物に迷惑をかけたくないというので、それがジレンマになっていらっしゃるのではありませんか」
「はあ、それが……」
金田一耕助の言葉はたしかに急所をついたにちがいない。竜平はほっとしたような表情をうかべると、うっすら浮いた額の汗を、そっとハンケチでおさえている。あきらかに心の重荷から解放されたふうである。
「しかし、ねえ、越智さん」
金田一耕助はちょっと体を乗り出すようにして、
「あなたがひとさまに、迷惑をかけたくないというお気持ちはよくわかります。しかし、あなたが目撃した人物が、必ずしも犯人とは限らない場合だって、ありうるとは考えられませんか。あなたがいい例ですよ。あなたは事件のさいしょの発見者です。しかし、われわれ……いや、少なくともわたしはあなたを犯人とは思っておりません。時間的に不合理ですからね。と、おなじようにあなたよりひと足さきに、あの事件を発見したものがあったとしても、そのものが必ずしも、犯人とは限らないという場合だってありうるわけです。そのものはじぶんに疑いがかかるのを|惧《おそ》れてか、あるいはこういう厄介な事件にかかりあうのを|嫌《いや》がってか、どちらかの理由で無言でいるのかもしれません。ねえ、越智さん、これは殺人事件ですよ、人間が人間を殺害するには、いろいろ|錯《さく》|綜《そう》した動機なり、理由なりがあると考えられます。われわれはその薄皮を一枚一枚、ほぐしていかなければならないのです。ご協力願えませんか」
|諄々《じゅんじゅん》と説く金田一耕助の言葉には説得力があった。その言葉がおだやかであればあるほど、相手を納得させるのである。竜平はいまはもう心の重荷からすっかり解放されたかして、打ちくつろいだ顔色になって、
「いや、ありがとうございました」
竜平は扇子をパチリとひとつ鳴らして、深々とこうべをたれると、
「考えてみればわたしもそのものが、犯人であろうとは思うとらなんだようです」
「それじゃ、やっぱりあなたあの現場から、だれかが出てくるのを見たとでもおっしゃるんですか」
警部補の言葉にはまだたぶんに、疑惑のひびきがこもっていたが、しかし、大いに興味を催したらしいことはたしかであった。
「はあ、それはこういうことです」
いまはもうすっかり落ち着きを取り戻した竜平は、扇子で社務所の奥を示しながら、
「そこに廊下が左右に走っておりましょう。それを左へいくと、七段の階段をあがって拝殿になります。右へいくとこれまた七段の階段をあがって、神楽殿の背後にある会議室になっております。ゆうべはそこが|神楽《か ぐ ら》|太《だ》|夫《ゆう》の楽屋になっていたようですが、社務所の入口からとび込んできたとき、私はまだそこまでは気がついていなかった。会議室が神楽太夫の楽屋になっているということですね。私はこの社務所の式台から上へあがると、すぐ廊下を突っ切って、その半間の|襖《ふすま》からなかへとび込みました。その半間の襖はあけっぱなしになっていました。その奥が宮司の一家の住居になっていることはご存じでしょう。わたしは急いでひと間、ひと間をのぞいてみました。もちろん声をかけながらですよ。越智ですが、なにかあったんですかなどといいながらですね。返事もなく、だれの姿も見えませんでした。わたしはまたその廊下へとってかえすつもりでした。すでにお調べになっているかとも思いますが、その半間の襖のおくは、幅半間、長さ一間の廊下になっています。片側が押し入れ、片側が壁ですね。わたしがその廊下へさしかかったとき、あけっぱなした襖の外……つまりその廊下を風のように通りすぎたものがあったんです。そのときのわたしの位置からすると、右から左へですね」
「と、いうことは拝殿のほうから、会議室……ゆうべの状態でいえば、神楽太夫の楽屋のほうへですね」
広瀬警部補が念を押すと、竜平は無言のまま点頭した。
「それ、だれだったんですか」
広瀬警部補の声はいやに低かった。
竜平はゆっくり首を左右にふると、
「わかりません、顔は見えなかったんですから。でも、服装をいうとどういう種類の人間だか、みなさんにもおわかりになりましょう」
「どういう服装をしていたんですか」
「白い着物に黒っぽい袴をはいていました。着物が白だったから、ほんのちらっと|瞥《べっ》|見《けん》しただけのわたしにも、ハッキリ印象にのこったんです」
「神楽太夫ですね」
広瀬警部補はキラリと目を光らせて、
「顔は見えなかったとおっしゃったが、年かっこうくらいは……?」
「主任さん、わたしにどうして顔が見えなかったかと申しますと、そのものは……まあ、男でしょうな、その男はこういうふうに……」