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    第十九章 もしも|烏《からす》が騒がなかったら

作者:日-横沟正史 当前章节:15405 字 更新时间:2026-6-23 02:19

   一

 多少なりとも空想力のある人間なら、つぎのような場面を想像することができるだろう。

 なにかを|怖《おそ》れて島を出ていく決心をした片帆は、いま村長の足下にころがっている、大きなビニール製のバッグに、着更えや当座の身のまわりのものを詰め、引き止める真帆の手を振り払って、うえの刑部神社の境内を出た。

 その時分、あたりはもうすっかり暗くなっていたことだろうから、片帆は懐中電灯を持っていたにちがいない。ひとめを避けて隠れ道をいくつもりなら、なおさらその必要があったろう。地蔵峠や地蔵坂には、適当の間隔をおいて街灯がついているけれど、隠れ道にはそれがないからである。

 片帆が家をとび出してからまもなく、あの大雷雨が襲来したというから、片帆もその雨に打たれたにちがいない。彼女は傘を用意していただろうか。たとえ用意していなくても、いまさら取りにかえるわけにはいかなかったろう。

 彼女は地蔵峠の頂上にある、あの隠れ道との分岐点までやってきた。そこには目印のようにひねくれた赤松が一本そびえ、電柱には街灯がともっている。片帆はその街灯の光りと、携えてきた懐中電灯の光りで足下を照らしながら、|膝《ひざ》をも没する雑草をわけて進んだにちがいない。

 片帆は猛犬|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》のことをしらなかったのだろうか。全然しらなかったとは思えないが、この春倉敷の高校を出て、この島へ送りかえされてきたばかりの彼女は、阿修羅の|獰《どう》|猛《もう》さを、それほど切実には感じとっていなかったのかもしれない。いや、それを感じとっていたとしても、彼女を島から追い立てる、恐怖のほうが大きかったのかもしれぬ。なにがそのように彼女を怖れさせたのか。

 それはしばらく|措《お》くとして、片帆が神社をとび出してからまもなく、だれかがそれに気がついた。そのだれかとは男女の性別不明の人物である。そのものは片帆のあとを追って出ようとしたが、そのときは大雷雨がすでに島全体をおおうていた。そいつはとっさの思いつきで、社務所の玄関にかかっている|蓑《みの》を身につけ、|菅《すげ》|笠《がさ》を頭にかぶった。菅笠は顔をかくすにもかっこうの代物である。

 かくてそいつは片帆のあとを追って神社を出た。ひっきりなしに紫電ひらめき、雷鳴は刑部島の峰から峰へととどろき渡った。しかし、性別不明のそのものは、稲妻も雷鳴ももののかずではなかったろう。それよりも片帆の口を封じることが、より以上にさしせまった緊急事であったにちがいない。

 ひとめを避けて島を出ようとする、片帆の決意をしっているそいつは、人に会う危険性の多い地蔵坂より、隠れ道をえらぶであろうことを、察知していたにちがいない。あるいは隠れ道へおりていく片帆の、うしろ姿を|瞥《べっ》|見《けん》したのかもしれぬ。

 蓑と笠に身をやつした性別不明のそのものも、隠れ道との分岐点まで駆け着けた。一步そっちの道へ足を踏み入れ、雑草が腰まで埋めたところで、紫電ひらめき、そのへんいったい一瞬パッと明るくなった。そこを三津木五郎と荒木定吉に目撃されたのであろう。

 性別不明のそのものは、ふたりに見られたことに気がついていただろうか。それはあとでふたりに聞いて見なければならないが、あるいはそいつは片帆を追うに急なあまり、ふたりの存在に気がつかなかったのではないか。

 いずれにしても、そいつは膝も没する雑草をかきわけて、坂をかけおり、いま目のまえに見える隠れ道へ|辿《たど》りついたにちがいない。そのあいだも、ひっきりなしに稲妻がひらめいていたことだろうから、まえをいく片帆の姿を認めたにちがいない。

 まもなくそいつは片帆に追いついた。そして、その結果はどうであったろうか。

 そいつが片帆を|紐《ひも》様のもので絞め殺したのである。どのような紐であったろうか。そんなことはどうでもいい。和服を着ることの多い日本の家庭なら、首を絞めるにかっこうの紐の類ならいくらでもある。ただ、性別不明のそのものが、あらかじめ|手《て》|頃《ごろ》の紐を用意していたとしたら、そいつははじめから、殺意を抱いていたことになる。

 金田一耕助はそこまで考えてきて、思わず身ぶるいせずにはいられなかった。

 すべてはあの大雷雨のさなかに演じられたのである。紫電はひっきりなしに隠亡谷を掃き、この荒涼たる景観を紫色に浮き上がらせ、雷鳴は間断なく谷から谷へととどろき渡り、|谺《こだま》していたことだろう。片帆は悲鳴をあげ、助けを求めたにちがいないが、それらの悲鳴も助けを呼ぶ声も、すべて雷鳴にかき消されたにちがいない。それを聞いたものがあるとすれば、猛犬阿修羅といまじじいの松に群がっている、烏どもだけだったろう。

 烏といえば犯人は、片帆の死体がこんなに早く、発見されるとは思わなかったのではないか。きのうの昼間|鋸山《のこぎりやま》の上空で、あんなに烏が騒がなかったら、大膳も吉太郎にこの谷を調査するように命じなかったであろう。大膳の命令がなかったら、吉太郎もこの谷へ降りてこなかったであろう。吉太郎がここへ降りてこなかったら、片帆の死体はいまだに発見されなかったにちがいない。そして、日が経るままに肉は食らわれ、|啄《ついば》まれ、のこるは骨と衣類の切れ端だけとなったであろう。その時分になってそれらのものが発見されても、すべては猛犬阿修羅の責任に帰せられたのではないか。そして、その間片帆は人しれず、島を抜け出したものと思いなされ、本土のほうで労して益なき捜索がつづけられ、やがて蒸発ということばで片付けられていたかもしれない。

 蒸発……?

 蒸発ということばで金田一耕助は、夢から覚めたようにわれにかえった。

 かれはまず荒木定吉に目をやり、その視線を三津木五郎に移した。と、同時にさっきの質問事項を思い出した。

「荒木くん、三津木くんにも聞くがね。その蓑と笠に身をやつした、正体不明の人物だがね、そいつはきみたちに見られたということに気がついていたろうかね」

「いえ、それについてさっきも三津木さんと話し合うていたんですけえど、むこうでは気イつかなんだんじゃないじゃろうかというとるんです」

「われわれ、懐中電灯を持ってましたが、懐中電灯というものは、はるか前方を照らすもんじゃないでしょう。照準を足下に合わせるでしょう。げんにむこうも懐中電灯を持っていたにちがいないんですが、われわれ全然気がつきませんでしたからね。稲妻の光りでそいつの姿が浮かびあがるまで」

「それで、きみたちどうしたの」

「急いであの一本松の分岐点まで坂をあがってきたんですん。さっきのやつここを降りていったにちがいないちゅうてな。ぼくそのときまで、そげえなとこに道があるとはしらなんだのですけえど、ぐっしりょ雨に|濡《ぬ》れた草がゆれてましたけんな」

「それで、ここを降りたらどこへ行くんだろうと、荒木くんが聞くもんですから、隠亡谷へ出るんじゃないかとぼくがいったんです。ところが荒木くんは隠亡谷のこと、まだしらなかったもんですから、ぼくが説明したんです。猛犬がいてとても危険なところだって。それじゃそんな危険なところへ、このような大雷雨のさなかに降りていくのはだれだろう、よっぽど豪胆な人間にちがいないと……」

「で、それをだれだと思ったの」

 三津木五郎と荒木定吉は、しばらく顔を見合わせていたが、やがて荒木定吉がオズオズと吉太郎を指さしながら、

「その人じゃないけと思うんです。その人なら刑部神社へ奉仕するじいやさんじゃそうですし、蓑や菅笠のありかも、ようしっておいでんさるでしょうけんな」

「違う」

 と、言下に村長がいきまいた。

「この吉やんならあの晚|錨屋《いかりや》へ来とったわい。なにか用事があるちゅうて、錨屋のおじさんが呼び寄せておいでんさったんじゃ」

 大膳も口もとを|綻《ほころ》ばせて、

「それはあんたがたの目違いじゃったな。おとといの晚なら吉太郎はうちにいました。金田一さんをな、オチョロ舟にお乗せして、島のぐるりをご案内しょ思うて、そのことで吉太郎にうちへ来てもろうとったんです。あしたの午前中にオチョロ舟をよう洗うて、乾かしておくようにと吉太郎に頼んでおいたんです。吉太郎は|宵《よい》のうちにうちへ来て、うちを出たのはあの大夕立が納まってからのことでしたぞな」

 これでは吉太郎のアリバイは明々白々である。

 それにしてもこの吉太郎という男、思うことがおよそ顔色に表われぬ性格だと、まえにも書いておいたが、このときがやっぱりそうだった。定吉に指さされ|弾《だん》|劾《がい》されたときでも、かれの表情は微動だにしなかった。|傲《ごう》|岸《がん》というのでもない。ひょっとするとこの男、思うことがただちに表情となって、外へ表われないように、じぶんでじぶんを訓練してきたのではあるまいか。そして、いまやそれが習い性となっているのではないか。もしそれだとするとこの男、そうとう危険な人物であると、金田一耕助は内心考えている。

「それはそうと、きみたちそれからお宮のほうへいったの」

 金田一耕助は五郎と定吉のほうへむきなおった。

「いいえ、お宮へはいきませんでした。こんなに濡れ|鼠《ねずみ》になっていっちゃ、かえってご迷惑じゃないかと、荒木くんがいうもんですから」

 五郎がいうのをいちはやく定吉が|遮《さえぎ》って、

「あれ、そういい出したんは、三津木さん、あんたじゃないけ。ぼくはむしろお宮へいって、傘でも借りて来よう思うとったんですけえど」

「あっはっは、そうだったの。でも、きみもすぐぼくの説に賛成したじゃないか。とにかくわれわれはお宮へいかず、一本松からズブ濡れになって引き返したんです。そうそう、|新《しん》|在《ざい》|家《け》のトバッ口まで来た時分、雷もやみ、雨も小降りになっていたんですが、そこで宮司さんに会いましたよ」

 三津木五郎がそこでかすかに身震いしたのは、その宮司もすでに亡き人であることを思い出したからであろう。

「きみたち、そのとき宮司さんとなにか話をした?」

「いいえ、別に……宮司さんのほうからこの雨のなかを、どこへいったというような質問がありましたから、お宮へ手伝いにいこうかと思って出かけたんですが、この大雷雨に|辟《へき》|易《えき》して、途中から引き返して来ました……と、ただそれだけの応対だったなあ、荒木くん」

「きみたちに、手伝うてもらうことはなにもあれやせんと、|神《かん》|主《ぬし》さん、だいぶ|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》のようでしたよ」

「そのとききみたち、一本松のところで蓑と笠を着た人物が、隠れ道のほうへ降りていくのを見たと、神主さんにいわなかった?」

「そげえなことはいいませんよ。だって、そのことがこげえに重大な意味を持っているとは、まだ気イついとりませんでしたけんな」

 今度は荒木定吉が激しく身震いをした。かれは努めてあのむごたらしい片帆の|残《ざん》|骸《がい》から、目をそむけるようにしているのである。

 あの隠れ道のある一点から、広瀬警部補が磯川警部を呼んだのは、ちょうどそのときだった。

   二

 そこは薬師岩の舞台から、六〇メートルほど|下《しも》にくだった狭い小道で、幅一メートルあるかなしの道の東側は、雑草の生い茂った傾斜になっており、その傾斜のはるかうえを地蔵坂が走っているのである。

 西側も突き落としたような傾斜が、二〇メートルほど足下に落下しており、その落下の底から隠亡谷の巨石が、|累《るい》|々《るい》層々として南北にひろがっている。こちらのほうにも雑草が生い茂っているが、それより岩と岩とを|点《てん》|綴《てい》する|這《は》い松の群落が印象的だった。

 道の西にも東にもところどころ、ひねくれたかっこうの赤松がそびえていて、この細道を隠すように枝をさしのべている。そういうところから、隠れ道という名がついたのかもしれない。さっきもいったとおりこの細道はくねくねと、地蔵坂の|麓《ふもと》をうねりながら、|大《おお》|磯《いそ》と小磯をへだてる|千《ち》|々《ぢ》|岩《いわ》|川《がわ》のほとりまで、つづいているのである。

「広瀬くん、なにか見つかったかね」

 磯川警部が尋ねると、

「いや、警部さん、こっちもこっちですけえど、そっちのほうにもなにかあったんじゃありませんか。あのふたりの若もんが、身振り手振りで、なにかしきりに説明しとったようですけえど」

 と、警部補のほうが逆に反問してきた。

「いや、これはこういうことじゃけえど」

 警部が五郎と定吉の話を取り次ぐと、広瀬警部補はたちまち興奮して、

「じゃ、あのふたりおとといの晚、一本松のところで、犯人の姿を目撃したとおいいんさるんで?」

「まだ、犯人とハッキリ断定はできんけえどな」

「そして、そいつ蓑と笠で身をやつしとったもんじゃけん、どこのだれともわからなんだというとるんですね」

「どこのだれだかどころじゃない。男じゃったか、女じゃったか、それさえわからなんだというちょる」

 広瀬警部補はいよいよ興奮して、

「なるほど、昔から隠れ蓑いいますけんな。そうすると、犯人は女じゃっという可能性も出てきたわけですね」

「まさか、女がね。だいいちゆうべの神主|串《くし》|刺《ざ》しは、とうてい女の細腕では考えられんこっちゃ。あれは村長もいうとったとおり、よほどの大力でないとやれんこっちゃけんな。もっともあれとこれとは別の事件で、犯人もちごうとると解釈すれば話は別じゃけえど」

「ところで……」

 広瀬警部補は、そこで、いやに声を低くして、

「その蓑と笠ちゅうのは、うえの神社の社務所の壁にかかっとる、あの蓑と笠なんでしょうな」

「さあ、それもハッキリ断定できんな。この島には少なくとも、もうふた組蓑と笠があるけんな」

 と、磯川警部がきのうの昼間、金田一耕助と錨屋の大膳が、それぞれ蓑と菅笠を着用に及んで、島の周囲を回遊したことを説明して聞かせたが、広瀬警部補は承服せず、

「そうじゃけえど、警部さん、いまうえの社務所にある蓑と笠は、どっちもぐっしょり濡れとおりますけえど」

「いや、あれはそじゃない」

 磯川警部は|憶《おぼ》えている。ゆうべ刑部神社でボヤ騒ぎがあったとき、吉太郎がその消火に大活躍したことを。吉太郎は消火活動に取りかかるまえ、蓑と笠をどっぷり用水|桶《おけ》の水の中に浸し、それから着用していたことを、磯川警部は記憶している。

 磯川警部がそのことを語って聞かせると、金田一耕助も驚いたように警部のほうを振り返って、

「ゆうべそんなことがあったんですか」

「ああ、これは金田一先生がおいでんさるまえのことじゃけんな。じゃけえど、これがこげえな重大問題と、関連してこようとはわしも思うとらなんだもんじゃけんな。吉太郎が着用するまえ、あの蓑と笠が濡れておったか、乾いておったか……」

「さっきなぜそれをあの男に、聞いてごらんにならなかったんですか」

「いや、聞こうと思うとったところへ、広瀬くんが呼んだもんじゃけん。いや、これはわしの大きな|縮《しく》|尻《じり》じゃ」

「と、おっしゃると……?」

「わしはあのボヤ騒ぎが起こるまえ、|神楽《か ぐ ら》|殿《でん》のうしろの楽屋で、神楽太夫を相手にとぐろを巻いておったんです。それには二度社務所を|通《と》おっとります。はいるときと出るときと。そのときあそこに蓑と笠が、飾りもんのようにかかっていたことにゃ、気がついとったんですけえど、それが濡れとったか、それとも乾いておったか……」

「記憶にないんですか」

「面目ない話ですけえど……」

「色やなんかで思い出せませんか」

「それが……」

 警部は面目なさそうに、太い指で|胡麻塩頭《ごましおあたま》をひっかいている。

「警部さん、そげえなこと造作ありませんや。あとで吉太郎を絞め上げてやります。吉太郎が言を左右にシラを切ったら、ほかの連中に聞いてみますよ。あの蓑と笠、ボヤ騒ぎが起こるまえ、濡れておったか、乾いとったか……」

 しかし、それを正直にいうものはないのではないかと、金田一耕助には危ぶまれた。気がつかなかったといえばそれですむことである。その気持ちが感染したのか、広瀬警部補もふっと不安な目の色になったが、すぐそれを打ち消すように、

「なあに」

 と、舌打ちすると、急にまた声をひそめて、

「そうするとおとといの晚、うえの神社には、だれとだれがいたんです。神主と吉太郎は錨屋にいたとすると、あとだれとだれ……?」

 だれもすぐには答えなかった。答えることが怖かったのかもしれない。やっと磯川警部がノドの奥で、|痰《たん》を切るような音をさせながら、

「巴御寮人と真帆と片帆じゃけえど、そのうちの片帆がとび出したとすると……」

 警部の語尾はふるえていたが、すぐその忌わしき想念をはふり落とそうとするかのように、頭を強く左右にふると、

「それはそうと、こっちのほうはどげえじゃな。犯行の現場はつかめたかな」

「ああ、それそれ……」

 広瀬警部補も急にいきいきとした声になり、

「わたしがいま立っているこの地点から、一〇メートルほど下に突出した岩があるでしょう。あの岩に○印が白墨で書いてございますね。あそこにいまむこうにある、片帆の|鞄《かばん》がころがっていたんじゃそうです」

「そうすると、ここが犯行の現場かな」

「いや、犯行の現場はもう少し下らしいんですけえど、ここで片帆はあと追いかけてきた犯人にとっつかまった。そこで、思わず鞄を取り落としたちゅうわけじゃないでしょうかね」

「なるほど、それじゃもう少し下へいってみよう」

 なにしろ、そこは幅一メートルあるかなしかの狭い道である。とうてい二人並んでは步けない。いきおい広瀬警部補を先頭に、磯川警部、金田一耕助とつづいて步く、その前後に制服の警官や私服の刑事が、|蟻《あり》の行列のようにつづいていることはいうまでもないが、藤田刑事や駐在の山崎さんの姿は見えなかった。

 隠れ道をいきながら金田一耕助が、足下の隠亡谷の河原を見ると、荒涼たるそこにはいっぱい人が散らばっている。犯人の遺留品を物色しているのだろうが、この広大な河原からなにかを探し出そうとするのは、容易なことではなかろうと思われた。

 さっき鞄の落ちていた地点から、二〇メートルほど下へさがった地点に刑事がひとり立っていた。刑事はズタズタにこわれた傘を持っている。明らかに若い女性の傘らしく、派手な色合いをしているが、骨は折れ、布はズタズタに裂けている。

「それ、ここに落ちていたんかね」

 磯川警部が尋ねると、

「いえ、七、八メートル下の岩と岩とのあいだの小石のうえに、白墨で大きなマルが書いてございましょう。あそこに引っかかるように落ちていたんです。これ、こげえに派手な色合いをしとりますでしょう。それですけん、目についたようなもんの、そうでなかったらだれも気イつかなんだかもしれません」

「この傘そうとう傷んどるけえど、これで見ると被害者は、犯人にむかって、かなり抵抗しよったんじゃろうな」

「いまどきの娘ですけんな。ムザムザ絞め殺されたりはしますまいよ。ことに片帆ちゅう娘は、そうとう気性のはげしい娘じゃったようですけん。たとえ相手がだれじゃったにしろ」

 広瀬警部補は歯をむき出してせせら笑った。この警部補の|脳《のう》|裡《り》には、もはや犯人像がくっきりとえがかれているのかもしれない。

「被害者が傘をふりまわして抵抗したとしたら、犯人もどこかにケガをしとるかもしれんな」

「ケガをしとってもしとらいでも、きっと犯人は挙げて見せますよ。あんまり|惨《むご》いやりくちですけんな」

 そこからまた一〇メートルほど下へさがったところに、また刑事がひとり立っていた。刑事は手にこわれた懐中電灯と、女物の靴の片っぽをぶら下げている。

「この道のうえを見てつかあさい。ガラスの破片が落ちとるでしょう。それで気がついて下の谷を探したところ、この懐中電灯と女物の靴の片っぽが出てきたんです。被害者の足は両方ともはだしでしょう。それですけん、ここからあの猛犬のねぐらを結ぶ一直線上に、靴のもう片っぽがあると思うんです」

 この隠れ道は下へさがるにつれて、隠亡谷に接近している。さいしょ鞄が発見された地点では、道から谷底まで二〇メートルはあったのに、もうこのへんでは三、四メートルの落差で、傾斜もだいぶん緩くなっている。だから、もしここに死体が横たわっていたとしたら、猛犬は容易に傾斜をよじのぼることができたであろう。

「そうすると、犯行のほんとうの現場はここちゅうことになるのけ」

「だいたい、そういうところでしょう。懐中電灯なしには、一步も步けなんだでしょうけんな。ここで絞め殺して谷へ突き落としとけば、あの猛犬……阿修羅とかいいましたな、あいつの餌食になることは必至ですけん。犯人はそこまで読んでおったのかもしれません」

 金田一耕助はそれを聞いて、内心深い恐怖を覚えずにはいられなかった。

 もし、この谷の烏どもが騒がなかったら、どういうことになっていただろう。烏が騒がなかったら、大膳も吉太郎にこの谷の調査を命じはしなかったであろう。吉太郎がこの谷を調査しなかったら、片帆の死体は発見されなかったにちがいない。片帆の死体が発見されなかったら、彼女はひそかに島を脱出し、本土へ渡ったものと信じられたであろう。かくて捜査の手は本土へ伸びたであろうが、この島でひそかに殺されている片帆の消息が、本土でつかめるはずがない。そこで彼女は蒸発したということになるのではあるまいか。

 蒸発……?

 ちかごろ世間でよく伝えられる、蒸発ということばの裏面には、こういう|凄《せい》|惨《さん》な犯罪事件が、秘められているのであろうか。すべての蒸発事件がそうであるとは思えないが、なかにはこのような凄惨な犯罪事件が、潜在している場合もありうるということを、この事件がなによりも有力に、証言しているのではあるまいか。

 そうすると、昭和三十三年の六月に蒸発したという、荒木定吉の父の荒木清吉や、いまから二十年ほどまえに、この島で蒸発したという疑いを持たれている、神楽太夫の場合はどうであろうか。かれらの蒸発事件の背後にも、片帆の事件の場合のように、世にも凄惨な犯罪が伏在しているのであろうか。

 もう一度片帆の場合を考えてみよう。もしも烏が騒がなかったら、片帆の死体はこうもはやく発見されなかったであろう。もしも烏が騒がなかったら、片帆の肉は犬にしゃぶられ、烏に啄まれて、骨ばかりがあとに残ったのではないか。いや、犬や烏が存在しなくとも、片帆の肉は腐乱しつくし、やがて骨ばかりになったであろう。腐臭も刑部神社や新在家、大磯小磯にまではとどかなかったであろうから、彼女の死体は人しれず、白骨と化してしまったにちがいない。そこで犯人がやってきて、その白骨をどこかへ埋め、身につけていた衣類や持ちものを、ひそかに処分してしまったら、どういうことになったであろう。人間の死体を人しれず、始末するということは容易ではないが、白骨ならわりに簡単ではないか。女、子どもにでも可能であるかもしれない。そういう場合、片帆は永遠に、蒸発ということばで片付けられたのではないか。

 荒木清吉も神楽太夫も、やはりおなじ運命に、おちいったのではないか。白骨として人しれず、どこかに埋められてしまったのではないか。しかも、この島のどこかに。

 金田一耕助は卒然として、青木修三が|知《ち》|死《し》|期《ご》の際、あとに|遺《のこ》したことばの一部を思い出していた。

 ……あの島には悪霊がとりついている、悪霊が……悪霊が……

 青木修三はなんらかの形で、荒木清吉や神楽太夫の骨を見たのではないか。それが青木修三に非常に大きなショックを与えた。そこから青木修三は悪霊を連想したのではないか。

 骨……? 骨……? 骨……?

 金田一耕助は卒然としてまた、青木修三の遺言の一部を思い出していた。

 ……あいつは体のくっついたふたごなんだ……

 ……あいつは腰のところで骨と骨とがくっついたふたごなんだ……

 金田一耕助はだいぶんまえ、さる産婦人科の先生から、日本でもちょくちょくシャム双生児……すなわち体と体のくっついた双生児が、産まれることがあるんですよと聞かされて、驚いたことがある。しかし、そういう|畸《き》|型《けい》な|嬰《えい》|児《じ》は、育たないのがふつうだそうである。産まれてもすぐ死んでしまうということであった。

 いまかりに、この刑部島に体と体のくっついた、シャム双生児が存在するとして、それを青木修三が目撃したとしても、どうして腰のところで骨と骨とがくっついた[#「腰のところで骨と骨とがくっついた」に傍点]……と、いうことがわかったのであろう。青木修三は医者でもなければ人体生理学者でもない。ズブの素人である。それにもかかわらず、腰のところで骨と骨とがくっついたふたごなんだ[#「腰のところで骨と骨とがくっついたふたごなんだ」に傍点]……と、ハッキリ指摘できたのは、そのシャム双生児がすでに死んでおり、白骨と化しているのではあるまいか。青木修三の目撃したのは、シャム双生児そのものではなく、白骨と化したシャム双生児ではなかったか。

 しかし、そのことと荒木清吉や神楽太夫の蒸発とは、いったいどういう関係があるのだろう。金田一耕助にもまだそこまではわからなかった。

 金田一耕助はこうして|妄《もう》|想《そう》を|逞《たくま》しゅうしながらも、一方ではけっこう、磯川警部と広瀬警部補の会話も耳にしているのである。

「こここういう場所ですけんな、指紋の採集ちゅうようなこと、ちと無理ですね」

「その傘に犯人の指紋が遺っとりゃせんか」

「さあ、あるいは犯人もその傘にさわったかもしれませんけえど、なにしろ大雷雨の最中のことですけんな。雨で流れてしもうとるんじゃないかと思うんです。いちおうやってみることはやってみますけえど」

「この調子では足跡なんかも無理じゃろな」

 磯川警部は慨嘆するように、隠れ道の前後を見渡したが、警部が嘆くのもむりはない。隠れ道のいたるところに、土砂崩れが起こっていて、一メートルあるかなしの細道は、あちこちで土砂に埋まっている。それに土質の関係上、足跡が遺りにくい場所とも思われた。

 そのとき足下の河原へ、藤田刑事と駐在の山崎巡査が近づいてきた。

「主任さん、やっぱりあの猛犬はこの地点から被害者の死体を、じぶんのねぐらまで|咥《くわ》えて、引きずっていったにちがいありませんぜ。ところどころ血の筋がついとりますし、こげえなもんがあちこちに散らばっとおりましたけん」

 藤田刑事は河原から岩をのぼって、隠れ道まであがってきたが、手にしているのは靴の片っぽと、衣類の切れ端の類である。

「ひどいことをしやあがったもんで、これじゃ犬に食われるまえに被害者の体は、滅茶滅茶に傷ついていたにちがいありませんぜ」

 しかし、藤田刑事の手にしているものは、かくべつ目新しいものではなく、ただ阿修羅が被害者の死体を咥えて、引きずっていった道程を示すだけのものに過ぎなかった。しかし、刑事の背後から|這《は》いあがってきた、山崎駐在の手にしているものは、ちょっと一同の目をひいた。

 それはビーズでできたかわいいハンドバッグで、いかにも片帆のような女の子の、持っていそうな代物である。

「これ、むこうの岩の陰に落ちていたもんですけえど……」

「どれどれ」

 広瀬警部補が手にとって、パチッと口金を開くと、なかから出てきたのはコンパクト、棒紅、|眉《まゆ》|墨《ずみ》、ハンケチ、ティッシュ等々々、いかにも若い女の、身につけていそうなものばかりだったが、なかにひとつ小さい|鍵《かぎ》があった。

「警部さん、これむこうにあるあの鞄の鍵じゃありませんか」

「うむ、そうかもしれんな。いや、きっとそうにちがいない」

「山崎くん、いや、これはきみより藤さん、おまえのほうがええ。むこうへいてあの鞄こっちへもってこい。村長のやつがなんかいうかもしれんけえど、そげえなこと構うな」

「おっと、承知」

 藤田刑事はすぐビニールの大きな鞄をぶらさげて、隠れ道へ引き返してきた。鍵はやっぱりこの鞄のものだった。

 鞄のなかには|着《き》|更《が》えだの洗面道具だの、当座の身のまわりのものだのがいっぱい詰まっていたが、なかにひとつ、手作りの財布のようなものがはいっていた。

 広瀬警部補はなにげなく、それを|鷲《わし》|掴《づか》みにして取り上げたが、とたんにハッとしたように、磯川警部と金田一耕助のほうをふりかえった。

「警部さん、金田一先生、これ……」

 財布を振ってみせるとチャリン、チャリンと金属性の音がする。磯川警部もハッとしたように目をすぼめて、

「広瀬くん、早くなかみを……」

 磯川警部のことばを待つまでもなく、広瀬警部補は財布の口を開いて、なかみを左の|掌《てのひら》にぶちまけたが、まさしくそれは一銭銅貨、二銭銅貨、穴あきの文久銭に五銭白銅、十銭、二十銭の銀貨が数個。

 広瀬警部補はふるえる指で、一枚一枚の鋳造年号を調べていたが、

「やっぱりそうです。これみんな明治二十六年よりまえのもんばっかりですぜ」

「そうすると、金田一先生のおいいんさったとおり、やっぱりこの島のどこかに、昔の刑部神社の|賽《さい》|銭《せん》|箱《ばこ》が、|埋《う》まっとるちゅうことになるのか」

「そうそう、警部さん、報告が遅れましたが、荒木定吉の持っておった、おやじの荒木清吉の写真ですけえど、あれ、|下《しも》|津《つ》|井《い》の浅井はるの家に出入りしていた、酒屋や魚屋のもんに見せると、みんな昭和三十三年ごろ、浅井はるの家へ出入りしていた、清さんちゅう男に間違いないいうとおります」

 金田一耕助は、そのとたん、胴ぶるいみたようなものを、自制することができなかった。かくてすべてはこの刑部島を指しているのである。

 そのとき隠亡谷の河原のほうで、ざわめきのようなものが起こったので、金田一耕助もその視線を|辿《たど》って、薬師岩の舞台のほうへ目をやった。そこにはもう越智竜平一味のものも、神楽太夫の七人もいなかった。

 そのかわり四人の女性が立っていた。巴御寮人を中心にその左右にいるのは、倉敷の御寮人の澄子と、玉島の御寮人の玉江であろう。巴御寮人は和服だけれど、あとのふたりは洋装である。玉江がケバケバしい派手な服装をしているのに反して、澄子のほうが黒い喪服を着用しているのは、ふたりの人柄を示しているのであろう。

 もうひとりは真帆だけれど、彼女は澄子の胸に顔を埋めて、しきりにいやいやをするように、頭を左右にふっている。木の葉のようにふるえるというのはこのことだろうか、澄子に取り|縋《すが》った真帆の体は、間断なくおののいていた。

 巴御寮人は正面切って、|毅《き》|然《ぜん》として、あいかわらず美しかったが、金田一耕助はなぜか胴ぶるいのようなものを禁ずることができなかった。

  第二十章 |鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]《ぬえ》のなく夜に気をつけろ

   一

 金田一耕助はいま恐ろしい悪魔に襲われている。

 そこがどこだかわからないのだけれど、細い道がどこまでも、どこまでもつづいている。まるで天までとどくように。あたりは|漆《しっ》|黒《こく》の|闇《やみ》なのだけれど、その細道だけはふしぎに白く浮きあがっていて、遠くはるかかなたまで、うねうねとつづいていることがわかるのである。

 その細道をいま奇妙なものがむこうをむいて走っている。|蓑《みの》と|笠《かさ》である。いや、頭に|菅《すげ》|笠《がさ》をいただいた蓑がひとつ、むこうのほうへ走っていくのである。その蓑には足がなかった。菅笠をかぶった蓑だけが走っているのである。それでいてその逃げ足のはやいこと。

 金田一耕助はいくたびか、|右《め》|手《て》をのばしてその蓑の|襟《えり》|髪《がみ》をつかもうとするのだけれど、そのつど相手はするりとすりぬけて、金田一耕助を引き離していく。

 天地|晦《かい》|冥《めい》とはまさにそのとき金田一耕助をくるんでいる、周囲の状況をいうのだろう。あたりはすべて漆に塗りつぶされたような闇なのだ。それでいて細いうねうねした道だの、まえを走っていく蓑と笠だのがハッキリ見えるのは、間断なくひらめく紫電、稲妻のせいだった。稲妻は小休みもなくひらめき、雷鳴はあとからあとからとどろき渡った。

 雨もひどかった。まるで、天の底がぬけたのではないかと思われるような土砂降りだった。金田一耕助も頭からぐしょ|濡《ぬ》れになっているのだけれど、それでいて冷たいとも寒いとも思わなかった。そのときかれの|脳《のう》|裡《り》にあるものは、蓑と笠のなかにある顔を、一刻もはやく見なければという、|焦《あせ》りの思いだけだった。その顔を見ることが一刻遅れれば遅れるだけ、大変なことが起こるのだという焦りが、金田一耕助を駆り立てるのである。

 紫電ひらめき雷鳴はためくなかを、金田一耕助がズブ濡れになりながらも、必死となって走っているゆえんもそこにある。

 金田一耕助はなんどか蓑の襟首に手がとどきそうになった。蓑も笠もズブ濡れになっている。紫電ひらめくごとに蓑や笠が濡れて紫色に光るのが、手にとるようにうかがわれるのである。だが、そのつど蓑はひょいと身をかわし、金田一耕助の手からのがれた。

 |自《じ》|烈《れっ》|体《たい》、|歯《は》|痒《がゆ》い、もどかしい! 金田一耕助は|切《せっ》|歯《し》|扼《やく》|腕《わん》する思いで、このはてしなき追跡をつづけている。

 だが、とつぜん金田一耕助の行く手に当たって幸運が訪れた。逃げいく蓑と笠の前方数メートルのところで、だしぬけに大きな土砂崩れが起こったのだ。それがあまりだしぬけだったので、蓑と笠はその土砂崩れを避けることができなかった。フルスピードで走っていた蓑と笠は、それに突き当たってつんのめって、転んで、|俯《うつ》|伏《ぶ》せに倒れた。

「しめた!」

 と、叫んだ金田一耕助は、一瞬ののち蓑と笠を体の下へかかえこんだ。蓑の下にはたしかに人間の体温がある。蓑と笠は金田一耕助の束縛からのがれようとして、さかんに|身《み》|悶《もだ》えをし、首を左右に振っている。ちょっとした格闘ののち、金田一耕助は蓑の体をひっくり返し、すばやくそのうえに馬乗りになると、いやいやをするように、さかんに首を振っているその頭から、やにわに菅笠をひっぺがした。

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