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匣の中の失楽
竹本健治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)|総《すべ》てが
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|鎖《とざ》され
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「角+力」、第3水準1-91-90]
ぶな[#「ぶな」に傍点]
[#ここから1字下げ][#改ページ][#ここで字下げ終わり]
※[#「身+區」、第3水準1-92-42]→躯で代用
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序章に代わる四つの光景
1 霧の迷宮
2 黄昏れる街の底で
3 三劫
4 いかにして密室はつくられたか
一章
1 第一の屍体
2 密室ならぬ密室
3 靴と悪戯
4 理想的な殺人
5 白昼夢の目撃者
6 通り過ぎる影
7 非能率なアリバイ
8 鍵と風鈴
9 殺人者への荊冠
10 さかさまの殺人
二章
1 死者の講義
2 ブラック·ホールのなかで
3 第四の扉
4 羽虫の正体
5 二者択一の問題
6 プルキニエ現象
7 仲のよくない共犯者
8 見えない棺桶
9 犯罪の構造式
10 牙を剥く悪意
三章
1 扉の影の魔
2 推理競技の夕べ
3 愚者の指摘
4 歩き出す仮説
5 扉の向こうには
6 カタストロフィーの罠
7 殺人狂想曲
8 もうひとつの空席
9 五黄殺殺人事件
10 正反対の密室
四章
1 現実と架空の間
2 ※[#「角+力」、第3水準1-91-90]斗雲に乗って
3 おもちゃ箱の坂で
4 予定された不在
5 屍体のある殺人
6 死の手触り
7 不必要な密室
8 用意されていた方法
9 闇の傀儡師
10 架空に至る終結
五章
1 降三世の秘法
2 闇のなかの対話
3 大き過ぎた死角
4 ユダの罪業
5 逆転された密室
6 ラプラスの悪魔
7 撫でてゆくのは風
8 遡行する謎解き
9 キングの不在
10 匣のなかの失楽
終章に代わる四つの光景
1 九星と血液
2 青い炎
3 解決のない解決
4 不連続の闇
あとがき
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登場人物
|曳間《ひくま》 |了《りょう》――F*大学。心理学専攻。金沢生まれ。『黒魔術師』。
|根戸《ねど》|真理夫《まりお》――F*大学。数学専攻。
|真沼《まぬま》 |寛《ひろし》――Q*大学。国文学専攻。
|影山《かげやま》|敏郎《としろう》――S*大学。物理学専攻。最も新しい一員。
|甲斐《かい》|良惟《よしただ》――N*美大。油絵専攻。曳間とは同郷。兄が『黄色い部屋』を経営。
|倉野《くらの》|貴訓《たかよむ》――F*大学。薬学専攻。神戸生まれ。
|久藤《くどう》|雛子《ひなこ》――グループのアイドル。十五歳。
|久藤《くどう》|杏子《きょうこ》――N*美大卒。雛子の年若い叔母。
|羽仁《はに》|和久《かずひさ》――K*大学。国文学専攻。倉野とは同郷。『白い部屋』の住人。
|布瀬《ふせ》|呈二《ていじ》――K*大学。仏文学専攻。『黒い部屋』の住人。
|片城《かたじょう》 |成《なる》――一卵性双生児のひとり。ナイルズ。
|片城《かたじょう》 |蘭《らん》――一卵性双生児のひとり。ホランド。
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序章に代わる四つの光景
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1 霧の迷宮
[#ここで字下げ終わり]
その時まで彼は、こんなに深い霧を経験したことがなかった。周囲のもの|総《すべ》てが、厚くたれこめたミルク色に|鎖《とざ》され、深海の光景のようにどんよりと沈みこんでいる、こんな霧を。
街はもう眠りについていて、無論、自動車などは、この濃霧のなかに走りゆく|筈《はず》もなく、ひろびろとした車道は、ただ霧、霧、霧のなかに|呑《の》みこまれ、|処《ところ》どころに信号機が意味もなく点滅しているばかり。それも、水彩を水に|滲《にじ》ませたかの如く、ぼーっと浮かびあがっているところは、さながら深海魚の発光器のようでもある。
――さしずめあれは、マクロファリンクス。それからあちらが、キャスモドン。いや、……キャスモドンには発光器があったかしら。
歩き続けるうち、|纒《まと》わりつく霧は、|睫毛《まつげ》に細かい水滴をいくつもつくり、そしてそれは街灯の光を|攪拌《かくはん》して、視界に虹色の膜を|巡《めぐ》らせる。髪の毛も皮膚も|外套《がいとう》も、汗をかいたようにじっとりと濡れてくる。彼はぐるりと顔を撫でまわした。
霧はますます深くなり、もう、四、五メートル先も判然としない。こうなってくると、もう|殆《ほとん》ど眼隠しされたも同然で、たよりにする家並も、何やら見知らぬ街のもののように思われてくる。大きな道はまだしも、横丁に折れ、迷路のような小路を何度も曲がって進むうちに、いよいよ見憶えのない光景となった。
|仄暗《ほのぐら》い|渾沌《こんとん》のなかから、不意にその形を現わして、再び背後に溶けこんでゆく。まるで記憶の断片のようだ、と彼は思う。いつもは全体として見ている光景が、部分部分だけしか見られないことによって、これほど印象が違ってしまうものなのだろうか。
――霧の迷宮か……あはあ、何かの題にありそうだな。
耳を|欹《そばだ》てても、聞こえるのは砂利を踏む自分の|跫音《あしおと》だけで、街は完全に静寂のなかに沈みこんでいた。時折り想い出したように響いてくる犬の遠吠えが、|却《かえ》って彼を安心させたりもするのだった。
いつしか彼は、折れ曲がっているくせに|岐《わか》れ道のない、ながいながい小路にいた。左右を手も届かぬ高い塀に|遮《さえぎ》られて、その道はどこまでも|蜿蜒《えんえん》と続いていた。
――やはり迷ってしまったようだ。……それにしても……
彼、|曳間《ひくま》|了《りょう》には、幼い頃からの小さな疑問があった。
なぜ、こうも世界というものは連続しているのか。
それは、まだ|初々《ういうい》しく、驚きやすい感覚器官しか持たぬ幼少時の彼にとっては、|担《にな》いきれないほどの、痛々しい疑問だっただろう。彼は、田舎から訪ねてくる叔父に、よく、『おじさんは、いなかからずうーっと[#「ずうーっと」に傍点]、ここまで来たの?』という質問をしたものだった。叔父は、しばしば繰り返されるこの質問の意味がよく呑みこめずに、ただ、『ああ、そうだよ』と答えるばかりだった。
そしてその質問は、遠方から不意に訪れる来客に対して、なお熱心に向けられるのだが、少年を満足させるような否定形の答えは返ってきたこともなく、あるいは、その質問の意味を|訊《き》き返そうとする者さえ、ひとりとして現われることがなかった。
それは少年を|苛立《いらだ》たせた。
道を連れて歩いている時、ふと、|雑沓《ざっとう》の喧噪のなかに、何かを聞きとるかのように眼を閉じる癖を、両親が発見したのはその頃だったろうか。
また、夜中に、応接室にかかった大きな鏡に向かって、何事かを|呟《つぶや》いている少年の姿を、思いがけなく見てしまったのは。
夜霧は|飽《あ》くまで深く、そして、総てのものは、向こう側に沈みこんでしまっているようでもある。依然、細ながい小路は、いつ果てるともなく続いていたが、これがたとえどんな処へ彼を案内しているにしても、曳間には、ひとつの予感めいた確信があった。
――この先には、巨人が眠っている。何か、とてつもない馬鹿でかい奴が、この先で|蹲《うずくま》るようにして、俺を待っているに違いないぞ。……俺には確かに、その気配がする。……それにしても……
曳間が続けて想い出したのは、あの問いを、周りの大人達に繰り返していた頃から、既に一、二年たった頃の、ある情景だった。
毎朝届けられてくる新聞に、〈天気図〉と称する奇妙な一角が置かれていて、そこには|羽子《はね》突きの羽子を|肖《かたど》ったような形象が、暗号めいて配置されてあり、そうかと思うと、恐竜の背中を模したと思われる不思議な曲線が、その図をうねりながら横切っていたりする。
記号の方は、これが天気を表わしていることは察せられるのだが、線の方は判らない。少年は父親をつかまえて訊いてみた。
「ねえ、この線、何なの」
その問いに返ってきたのは、今まで聞いたこともない言葉だった。
「ああ、それはね、〈不連続線〉っていうんだよ」
「フレンゾクセン? 何それ。そんなものが空にあるの」
「いやいや、そうじゃなくてね、この線の上と下では、空気の温度が違うんだよ」
「この線のところで、急に違うの」
「そうだよ」
あの時、俺は何を聞いたのだろうか。曳間は何度も|反《はん》|芻《すう》してみた。
霧は、髪に、皮膚に、服に、|凝《こ》り、水滴になり、流れて、|俯《うつむ》いて歩くたびに鼻から顎から|滴《したた》り落ちた。
――ひょっとしたら、この濃霧のなかでなら、不連続線を越えることだって、できるんじゃないだろうか。そうだ。俺はもう既に、越えてしまっているのかも知れないぞ。
不意に両脇の塀が姿を消し、曳間は|茫漠《ぼうばく》たる霧海のなかに|抛《ほう》り出された。そのまま何歩か進んで振り返ってみると、もう細ながい小路は、仄青い闇のなかに溶けこんでしまっていた。
曳間は、もう一度、前方の|晦冥《かいめい》を見やった。闇のなかにひそむ者の姿を探るように。
果てしもない霧海。そのなかをさらに|辿《たど》り続けるうち、黒い影は、不意に、伸びあがるようにしてその姿を現わした。それはまさしく、眠れる巨人だった。深い金網の向こうに、予感の何倍、何十倍もの巨大な影を落とした、
それは変電所であった。
闇に|懸《か》かる高圧鉄塔。白く立ち並ぶ絶縁|碍子《がいし》。|杳《はる》かにのびる架空線。そしてその向こうには、ぽつりと赤い灯が滲んでいる。
曳問は、|濡《ぬ》れ|鼠《ねずみ》のまま|竚《たたず》みつくした。俺は一体何を見たのか。これは一体何なのだろう。水滴は後から後から滴り続け、もう眼をあけているのもつらい。そして、それだからこそ、俺は立ちつくすのだ。
――それにしても……
しかし、曳間には、その想いを辿り続けることができなかった。霧はいよいよ深く、そしてそれは、曳間の想いに|拘《かかわ》りなく沈みこんでゆく。その底にあるのは、始まりとも終わりともつかぬ、がらんどうの時間だけなのだろう。
だから、曳間は竚みつくした。霧に濡れ、|顫《ふる》えながら竚みつくした。ミルク色のなかに、やがて自身の姿までもがかき消されながら、まるでそれは、何事かを待ち続けているとでもいうように。
[#ここから3字下げ]
2 黄昏れる街の底で
[#ここで字下げ終わり]
突然に空は|黄昏《たそが》れたようだった。|鋸型《のこぎり》の雲が、恐ろしい速さで走ってゆく。
――|疾風《はやて》だな。
|根戸《ねど》|真理夫《まりお》は、瞬く間に|棘々《とげとげ》しい|翳《かげ》に包まれてゆく空を見あげた。|硝子《ガラス》の壁のこちら側にいるのだが、吹きとばされてゆくはぐれ雲を眺めているうち、根戸の|躯《からだ》も、思わず|微《かす》かに|傾《かし》ぐのだった。
「何見てるのさ」
テーブルの向かいで、|真沼《まぬま》|寛《ひろし》は|睡《ねむ》そうに小首を傾げながら、口を開いた、木造りの椅子に腕を絡みつかせるようにして、深ぶかと|凭《もた》れかかっている|様《さま》は、さながら月桂樹に変身するダフネを予感させる。|尤《もっと》も、ギリシャ神話中のダフネは、女性だったのだが。
「別に、何も」
その根戸の答を待つまでもなく、真沼の|瞼《まぶた》は再び静かに閉じられた。根戸は、そっと、真沼の方に視線を移した。
あらわな首筋を、青白い雲の影が、ゆっくりと|匍《は》ってゆく。ながい髪が睫毛のあたりまでかかっているせいか、少し|蒼褪《あおぎ》めて見えなくもないが、ゆったりとした感じの|吐息《といき》は、確かに満ち足りた眠りのようでもある。
しあわせな眠り。
いつか見たことのある光景だと根戸は思う。体験したという訳ではない。ずっと昔に抱き続けていた筈の光景に、よく似ている。そして、その時、どういう想いと共に抱き続けていたのかは忘れてしまったのだけれども、確かにこれは終わりの光景だ。
雲は青黒く|展《ひろ》がり、ささくれて、幾重もの層をつくっていた。通りを駆け抜ける突風に、街路樹の|梢《こずえ》は弓なりに|撓《たわ》み、|瘧《おこり》のように|顫《ふる》えている。根戸には、その悲鳴が聞こえてくるような気がした。砂塵が驚くほどの勢いで走り過ぎるのは、それに合唱しているのだろうか。
硝子一枚隔てたこちらでは、時はこんなにも|懶《ものう》く降り積もっているというのに。
――問題は、だ。
根戸は、飲み残していたコピーに口をつけた。
――卒業研究に何をやるか、そろそろ考えなきゃならないことだ。整数論でいくことは決まってるにしても、さて、何をとりあげるか。
真沼の首が、突然ぴくりと顫える。何か夢でも見ているのだろうか。一瞬戸惑ったような寝息が、しばらくすると、再び安らかさをとり戻す。
――どうせなら、友愛数が非実用的でいいんじゃないかな。いくつかのストックのなかから適当に見つくろって、もう少し掘り下げるとするか。……それはそうと、遅いな、|影山《かげやま》の奴。おかげで真沼がいい気持ちになっちまってる。これじゃ、まるで俺は眠り番じゃないか。
赤黒い|煉瓦《れんが》の仕切りを避けて扉の方を眺めても、影山|敏郎《としろう》の訪れる気配はない。
――美少年を眼の前に眠らせておくというのは、どうもいかん。
|擽《くすぐ》ったい気持ちで眺める店内には殆ど客もなく、そんななかで根戸はふと、まだ小学生くらいのカップルに気がついた。
こんな喫茶店で、デートと|洒落《しゃれ》こんでいるのだろうか。ぼんやりとその方を眺めていると、男の子が、|頬杖《ほおづえ》していた手をテーブルの上におろして、口を開いた。
「君はどこにいるの」
「どこにもいないわ」
「じゃ、行こうか」
ふたりは、つと席を立った。
と、殆ど同時に、真沼が突然とび起きた。根戸はびっくりして、扉の方へ立ち去る子供達と、真沼の表情とを、|迭《かわるがわ》る見返した。真沼の顔からは、全く血の気が失せていた。半開きになった|脣《くちびる》から、今にも洩れるかと思われた言葉は、そのまま彼の|咽《のど》の奥に呑みこまれ、それにつれて深い憂鬱の色が表情を覆いつくしていった。
「どうしたんだ」
根戸が、やっとそう訊いた時、真沼は沈みこんだように頭を垂れていた。一体、何がこのように真沼を|撲《う》ちのめしたのか、見当もつかなかった。
しばらく|躇《ためら》って、真沼の呟いた声は、老人のもののように|嗄《しわが》れていた。
「……さっきの子供の話、聞いてたか」
「ああ、それがどうした」
「よく判らなかったんだが、ひょっとしてこうじゃなかったのか。……『君はどこにいるの』『どこにもいないわ』『じゃ、行こうか』……と」
「そう、その通りだ」
真沼はゆっくり顔をあげた。ようやく頬に紅味が戻ってきていたが、幽愁の翳は依然重く|被《かぶ》された睫毛の上に落ちている。もしかすると、それは笑いだったのだろうか。
「おかしいんだよ。最近、どうも……ここがね」
真沼はこつこつと
自分の|額《ひたい》を叩いた。
「頭のなかで考えていることが、盗まれてゆくみたいなんだ。それだけじゃない。ある期間の記憶が、抜け落ちたりもするんだよ、僕の頭、どうにかなっちまったんじゃないんだろうか」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。そいつは曳間の方の専門だ」
「いいさ、聞いてくれ。……そうだな。僕は詩を書いてるだろう。だから時どき、ある言葉がふっと頭のなかに浮かんでくることがあるんだよ。その言葉は、すぐに詩となって書かれることもあるけど、まれに、詩にもならず頭のなかを宙ぶらりんになって、そのまま漂い続けることもある。で、さっきの、あの会話もそうなんだ」
「偶然じゃないのか」
「だといいけど。……いや、多分、偶然なんだろうね。だけど、最近、こんなことがしょっちゅうなんだ」
「で、その言葉を思いついたのはいつ?」
「うん。もう、一年くらい前になるかな」
「そんなに?」
|砂埃《すなぼこり》が硝子にぶつかって、ざあっ、という音をたてた。空は黒く濁って、今にも雨を降らせそうに|澱《よど》んでいた。根戸が腕時計を|※[#「目偏+瓜」、Unicode:U+773D]《ぬすみみ》ると、影山はもう二時間も遅れている。
「この間もそうだ。道を歩きながら、ぼんやり考えごとをしてた時、何気なく想い浮かべた言葉そのままを、すれ違った男が|喋《しゃべ》ったり。それも一度や二度じゃないんだよ」
「馬鹿馬鹿しい。気のせいさ。仮にそれがもし偶然でなかったとしても、それはそれで別に気に病むことなんかないよ。予知能力があるってのは、ちょいと悪くないぜ」
「……ひとごとだと思って」
「いやいや、本当だよ。超能力ってのは、絶対、あるにこしたことはないさ」
「参ったな」
真沼は苦笑して、砂埃の舞う窓の外を見やった。それでも人に話をしたことで、幾分心が軽くなったのだろう。あるいは、根戸に混ぜっ返されて、自分自身馬鹿馬鹿しくなったのかも知れない。
街は、急速に|宵闇《よいやみ》を迎えようとしていた。そしてこの日、とうとう影山は現われなかったのである。
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3 三劫
[#ここで字下げ終わり]
「曳間? 知らないよ」
盤面を見据えたまま、|倉野《くらの》|貴訓《たかよむ》は答えた。倉野も|雛子《ひなこ》も、暑くはないのかしら。|甲斐《かい》|良惟《よしただ》は、そんなことを考えながら振り返った。窓から眺めていた太陽の残像が、黒い影となって甲斐の視界を追いかけた。
|碁笥《ごけ》のなかで石を鳴らしているのは|久藤《くどう》雛子の方だろう。ふとその音がやんで、黒石を|抓《つま》みあげると、器用に石と石を滑らせて音をたてる。向かいあう倉野は、|胡座《あぐら》の足を組み直し、頬杖をついて再び考えこんだ。傾いた日差しが碁盤の足元近くまでのびて、畳の照り返しでさえ、相当に|眩《まぶ》しい筈である。何よりも、この|茹《うだ》るような暑さ。しかし、倉野は殆ど一分間、身動きひとつ見せなかった。
「どうしたんだ、今日はいやに真剣じゃないか」
甲斐の声に、倉野は初めて気がついたように笑ってみせた。
「|目碁《めご》を打ってるんだよ」
「何だい、それ」
「賭碁のひとつさ。|一目《いちもく》百円賭けてるんだよ。十目差で千円。百目ぽっくりいくと、一万円という仕掛けさ」
「へへえ、面白いな、それは。で、どうだい、形勢は」
「何しろ|四子《よんし》置かせてるからね、楽じゃないよ。雛ちゃんは力が強いしね」
雛子は、ちょっと舌を出してみせた。十五歳らしく、まだ幼さの残った|仕種《しぐさ》や容姿は、愛くるしい人形を連想させる。
「これでいくか」
独語めいて呟くと、倉野は白石を取りあげた。鋭い石音と共に打ち据えると、ほっと溜息をついて、なまぬるくなったお茶に手をやる。
「雛ちゃん、倉野なんかに負けるなよ。ホラ、そこの白石を殺してしまえ」
「ああん、プレッシャーかけないで。そんなこと言われると、よけい|判《わか》んなくなっちゃう」
|弄《もてあそ》んでいた石を碁笥に戻し、頬に手をあてたまま時どき首を振るのは、いくつかある着手の選択に迷っているのだろう。甲斐の見たところ、局面は中盤戦にさしかかるあたりらしかった。甲斐自身は囲碁を打たないのだが、倉野とのつきあいで、簡単なルールくらいは覚えている。
「倉野、そういえばお前、何段だっけ」
「五段くらい、じゃないかな」
「すると、雛ちゃんは初段くらいあるってことか」
「そうだろうね」
「へへえ、俺はまた、せいぜい四、五級くらいのものだろうと思ってたけど、こりゃあとんだ見込み違いだったな。いやあ、お|見逸《みそ》れしました」
膝を正して仰々しく頭を下げてみせたが、雛子の方はそれどころではないらしい。再び真剣な表情になって石の|帰趨《きすう》を読み耽ると、首を|傾《かし》げながら着点を選んだ。
その黒の着手に対して、今度の白の応手は殆どノー·タイムだった。雛子はちょっと意外そうな顔をしたが、どうやら予想もしていなかった手を打たれたと見えて、ぽつりと、困ったわ、と呟いた。
倉野はゆっくり甲斐の方を振り返ると、|拇指《おやゆび》を立てて|※[#「目偏+旬」、第3水準1-88-80]《ウインク》してみせる。
「何だい、起死回生の妙手でも放ったか」
甲斐が言うと、倉野は|皓《しろ》い歯を覗かせた。そして取り出した煙草に火をつけると、一服煙を細ながく吐き出して、
「そういえば、さっき曳問のことを訊いてたけど」
「あ、そうそう。それなんだけど、奴さん、最近全然姿を見せないんだ。昨日もあいつの下宿へ行ってみたけど留守だったし、ほかの奴に聞いても見かけないっていうし、どうしてるのかと思ってね」
「へえ、そうか。それでみんなが曳間を見かけなくなって、どれくらいになるの」
「もう二ヵ月になるんじゃないのかな」
「二ヵ月か。……今日は、と、七月一日になったんだから、五月からか。……五月……五月と……。あれは、いつのことだったのかなあ」
甲斐が|迦楼羅《かるら》の面さながらに口を|窄《すぼ》めると、倉野は、
「いや、最後に曳間を見かけた時のことさ。確かに、二ヵ月も前じゃなかったような気がするんだけど」
「へえ。で、それは」
「いや、本当のところ、ただ見かけただけなんだ。そうだ、確かに五月の終わり頃のことだよ。ナイルズの古本屋巡りにつきあわされた時のことだから」
「というと、|神保町《じんぼうちょう》かい」
「そう、|靖国《やすくに》通りの向かいで、ちらっと見ただけなんだけど、何だか深刻そうな様子だったから、声もかけずに通り過ぎたんだ」
「ふうん。とすると、行方不明の期間は、一ヵ月ちょっとに短縮された訳だな。それにしても、どうして姿を見せないのかなあ」
「ひょっとして、金沢へ帰ったんじゃないの」
そう言うと、倉野は想い出したように二服目を吸った。
その時、雛子が石を打ちおろした。再び倉野の眼は盤上に戻され、そのままふたりは無言のうちに、一段落つくまで石の応酬を繰り返した。戦いは見る間に拡大され、結局白は隅の何目かを捨てて、厚い外勢を築くこととなった。
「さすがに巧いものねえ。だいぶ追いつかれちゃった」
大きな瞳をぱちくりさせながら言って、|大袈裟《おおげさ》に肩を|竦《すく》める。その|仕種《しぐさ》はルイ·ド·フュネスさながらで、倉野は思わず吹き出してしまった。
「あはは、何せ、現|金《なま》がかかってるからねえ」
「まあ、このか弱い|乙女《おとめ》から、飽くまで賞金を奪い取ろうっていうの。ほんとににくったらしいんだから。いいわよ。そっちがその気なら、あたしも黙っちゃいないわ。ギュウの目にあわせてやるんだから」
「あはは、甲斐、助けてくれ。雛ちゃんの剛力に|捩《ねじ》伏せられそうだ」
「勝手にしろよ」
盤外の戦いは冗談まじりだが、石の争いの方はのっぴきならぬ様相を呈していた。厚みにものをいわせた白の打ち込みから、斬った張ったの乱戦が続き、石の帰結は渾沌としてきた。
「何だか訳が判らなくなってしまったな」
倉野でさえそう洩らすくらいだから雛子の|苦吟《くぎん》はたいへんなもので、しきりに、困った、とか、どう打てばいいのかしら、とか、果ては、だから目碁なんか打つんじゃなかった、誘った倉野さんが悪いのよ、などとぼやき始める。何しろ|大石《たいせき》どうしの攻めあいになる可能性が大きくなり、もしもどちらかがぼっこりと|頓死《とんし》することにでもなれば、まさに何千円かの勝負になってしまうらしいというくらいは、甲斐にも見当がつくのである。
専ら盤外の戦いを楽しんでいる甲斐は、少しでも雛子の肩をもっために、倉野の手番の時を狙って話しかけた。
「そういやナイルズ、その時、何買ったんだ」
「さて、よく憶えてないな」
「何だか知らんが、探偵小説に限らず、いろんな分野の本を恐ろしい勢いで読破してるそうだな――」
その言葉に倉野は|額《ひたい》に手をやって、
「そうか、想い出した。お目当ては花言葉の本だったらしい。結局それは見つからずじまいで、別の本をいろいろ買ってたけど」
「花言葉? ……そりゃまた風雅なこった」
下脣をつき出してみせて、窓枠に腰かける。|灼《や》けた窓のレールを尻の下に感じて、甲斐は再び七月を意識していた。太陽神ボイポスの荒れ狂う季節は、既に始まっているのだ。
甲斐は右肩ごしに振り返ってみる。向かいの二階屋の|瓦《かわら》が白光を反射して、一瞬鋭い|稜線《りょうせん》がけに見える。甲斐は思わず眼を細めた。
同時に、甲斐は思いがけなく、雛子の年若い叔母である|杏子《きょうこ》の顔を想い浮かべていた。
――夏は、嫌いだ。
それはしかし言葉にならずに、甲斐の奥に棒のように呑みこまれた。どうせならこの街を|肖《かたど》る描線までをも灼きつくし、かき消してしまえばいい。それもできぬ夏なんて、まっぴら御免だ。
「変だな」
ぽつりと呟かれた倉野の言葉に、甲斐は|弾《はじ》かれたように向き直った。なぜか、微かな|羞恥《しゅうち》が甲斐の胸に残った。
「読み違ったのかな」
眉根に皺を寄せ、首を傾げている様は、けれども読み違えたことだけを|訝《いぶか》しんでいるのではなさそうだった。
「どうかしたの」
「いや、何だか変なんだ。……雛ちゃんの番だね。うん、そう。その一手だよね。で、僕はこれが最善だろ。あとはもう一本道だ。……伸びて、当てて、取って、取って、取り返した時に、また当てて、こっちを取ると……やっぱりそうだ。雛ちゃん。これは|三劫《さんこう》だよ」
「まあ、本当!? 話には聞いたことはあるけど、これがそうなの」
一瞬盤を中心にして、すべてがしんとなったようだった、心底驚いた様子の雛子は、じっと躯を堅くしたまま、不可思議な感動を確かめているのだろう。頬が次第に紅潮してくるのが判る。倉野は腕時計に眼をやった。
「何だい、さっぱり訳が判んないよ。勝負を途中で抛り出してさ。一体そのサンコウ[#「サンコウ」に傍点]ってのは何だよ」
「つまり、将棋でいえば千日手みたいなものさ。このまま勝負を続けると、同じことの繰り返しになってしまうんだ」
「へえ、じゃ、勝敗は」
「無勝負になる」
倉野の眼は、何か厳粛なものを|瞶《みつ》めるかのように、複雑に絡みあった盤上の黒白に注がれていた。
「ふむ、つまり麻雀でいやあ、流局ってことか」
「というよりも、純正の|九連宝灯《チユウレンパオトウ》みたいなもんだろうなあ。何しろ三劫って奴は、プロの碁打ちでさえ、一生経験なく終わるのが殆どなんだ。何しろ、ほんとに、これは|物凄《ものすご》いことだよ」
昂奮を抑えきれない倉野の声につられて、甲斐は自分のことのように、妙に胸が|昂《たか》まるのを覚えた。
「ちゅ、九連宝灯だって。そりゃ凄い。いや、これは何かお祝いでもしなくっちゃいけないな。ね。雛ちゃん」
呼びかけられた雛子は、まだぼーっとしている様子で、脣の端をきゅっとつりあげ、やたらにこにこしている。
「もう、これから一生できることはないだろうって思うと、さすがに何とも言えない気持ちね」
甲斐はもう一度碁盤の上を見直した。白と黒の無作為な模様のように見えるこの形象が、それほど|稀有《けう》で、意味深いものなのか。甲斐はふと、何の脈絡もなく、魔法陣に向かっているような気持ちになった。
その時、甲斐は倉野の表情に、皮肉めいた|微笑《ほほえ》みを読みとった。
「喜んでばかりもいられないよ」
「え。それはどういうこと」
「今、想い出したんだ。三劫ってのは、昔から凶兆だと言われているんだよ」
雛子も思いあたったように、はっとした。
「どういう訳だい、そりゃあ」
「ちょっと待った」
倉野は伸びあがって、後ろにある机の上に、文庫本やら|万華鏡《まんげきょう》やらフラスコやらが雑然と置かれているなかから、緑色の小冊子を取り出した。最初の方のページを急いで|捲《めく》ると、|忽《たちま》ち目的の箇所を見つけたらしく、ふたりに差し示した。
「ほら、ここにある。歴史に残った最初の三劫局は、織田信長が碁を師事した|本因坊算砂《ほんいんぼうさんさ》が打っているんだ。信長は対局の観戦も好んだらしく、算砂のほかに、彼に次ぐ打ち手の|鹿塩利玄《かしおりげん》もよく|伺候《しこう》したそうだ。そしてある時、このふたりの対局に三劫が現われて、その夜半、本能寺は明智光秀に襲われることになるんだよ。それ以来、三劫は不吉なものとされることになるんだが……。ここに、後の林|元美《げんび》の『|爛柯《らんか》堂棋話』からの抜粋がある。いいかい。『京都本能寺に御前より、六月|朔日《ついたち》、本因坊と利玄坊との囲碁を御覧あるに、其の碁に三劫といふもの出来て止む、拝見の衆奇異のことに思ひける。|子《ね》の刻過ぐる頃、両僧辞して半里許り行くに金鼓の響起こるを聞き驚く、これ光秀が謀反して本能寺を囲むにぞありける。後に囲碁のことを思ひ出し、前兆といふこともあるものかなと皆いひあへりとぞ』……とね。なお、この時、算砂は二十四歳。利玄は十八歳だったそうだ。天正十年、つまり、一五八二年のことだね」
「迷信にしても、気持ち悪い」
さっきまでのにこやかな表情もどこへやら、雛子も割合こういうことを気にする|質《たち》とみえて、梅雨あけの蒸し暑さのなかで、小柄な躯をぶるっと揺すらせた。
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4 いかにして密室はつくられたか
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闇のなかにぼーっと赤い光が浮かびあがり、しばらく瞬いていたかと思うと、不意に輝きを増した。照らし出されたその周囲の影達は、船底を|匍《は》いまわる如く揺らぎ始める。それは見る者の平衡感覚を狂わせるために踊られる、影達の舞踊のようでもあった。そして赤い光のなかで、次第に影達はそのかたちを現わしていった。
そして今、影達のなかのひとつが大きく揺らぎ出し、その|灯《ひ》をさし出す|恰好《かっこう》で輪郭を宙に結んだ。
「少し暗すぎるかな。もうふたつくらいつけてくれる?」
そう呼びかけたのは|羽仁《はに》|和久《かずひさ》だった。
しばらくして再び赤い灯が|点《とも》り、そしてそれに遅れて、もうひとつの光が加わった。それによって、ようやく闇を鎖していた部屋の内部が、|朧《おぼろ》げながら見てとれるまでになった。
人影は全部で四つあった。
「さて、いよいよ四人委員会の始まりか」
そう言ったのは、ふたつ目の|蝋燭《ろうそく》をつけた|布瀬《ふせ》|呈二《ふせていじ》である。
鼻の下に蓄えた|髭《ひげ》を軽く撫でつけながら眼鏡ごしに|冷笑的《シニカル》な笑みを向けているその素振りには、少々|気障《きざ》ったらしいところがないでもない。
それに続いて、三番目の蝋燭を持った人物――これは今までの者より五つは年下と思われる、まだ十五くらいの少年だった――が、この部屋の主である布瀬に応酬した。
「どうせなら、気違いお茶会とでも言って貰いたいねえ。まあ、今日は偶然四人になったんだけどさ」
薄明かりに照らされて、その頬は|殊更《ことさら》|薔薇《ばら》色に上気して見える。少年の名は|片城《かたじょう》|成《なる》。尤も、普段は皆から、ナイルズというニック·ネームで呼ばれている。同じ|仲間うち《ファミリー》の|真沼を、繊細で、透明な美しさの所有者というなら、こちらは|犇《ひしめ》きあう渾沌が、一瞬の結晶を見せたような、もっと輝き|煌《きらめ》くそれと言えるだろう。