饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

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作者:日-竹本健治 当前章节:15449 字 更新时间:2026-6-23 02:20

「ここで当然、ある反論が起こるだろう。一個の光子が、どちらの穴も通るなんて、そんな馬鹿な。それではスリットに光子を捕える装置でも備えつけておけば、それぞれ半分ずつの光子[#「半分ずつの光子」に傍点]を検出することができるというのか。素粒子とは、それ以上分割できないものという意味ではなかったのか、とね。うん、これは全くの正論なんだ。実際そうやって験してみると、半分ずつの光子なんて検出されることはない。光子はいつも、どちらかのスリットで捕えられるんであってね、結局そうやって調べる限りは、やはり光子はどちらかの穴を通ってやって来る、としか見えない。――しかしだよ、そういう具合に穴の処で光子を捕える場合は、そうでない場合とは条件が違ってるとも考えられるだろ。つまり、本当は途中で光子を捕えない限り、それは一度に両方の穴を通るのだけれども、光子はどこかで捕えられると[#「光子はどこかで捕えられると」に傍点]、ぱっと一瞬のうちに一個の光子に戻ってしまうという性質を本来持っているがために[#「ぱっと一瞬のうちに一個の光子に戻ってしまうという性質を本来持っているがために」に傍点]、そういう装置を施す以上、光子はどちらかの穴で見つかってしまわざるを得ない、と言うこともできる。そんな屁理屈を、と言われるかも知れないけど、実際、それが本当のところなんだ。光子、というより総ての素粒子は、いったん解き放たれると、次にそれがどこかで捕獲されるまでは、その位置というのは、常に確率的にしか表わされないものなのさ。この光子の奇妙な振舞いに関しては、かの|朝永《ともなが》振一郎博士が『光子の裁判』という法廷もののような面白い短編を著しているから、是非一読を勧めるよ。――さて、ここでもう一度さっきの板の問題に立ち還ると、現代物理学が認める限り、光子はふたつの穴を同時に通り抜けるというのは掛値なしの事実なんだよ。〝どちらか_ではないんだ。……」

 身振り手振り豊かに熱心に語っていた根戸は、そこでしばらく息を切って、反応を確かめるように十人の顔色を窺った。それらが果たして根戸にとって満足のゆく類いのものであるのかは、もとより彼らの知るところではなかったのだが。

「うん、〝どちらか_ではない。……あはは、もうみんな、どうして俺がながながとこんな喩え話をしたのか判ってるだろうな。つまり、この事件の真相そのものが、この光子の奇妙な振舞いによく似ている――俺にはそう思えて仕方がないんだ。杏子さんの証言が虚偽のものなのか、それとも雛ちゃんと布瀬のふたりの証言が虚偽だったのか、まあ、常識的に言えばふたつにひとつ、つまり〝どちらか_の問題だ。しかし、それがどちらであれ、殺人なんて起こっていない以上、そんなものはどちらでもいい、敢えていうなら、どちらも半々の確率を持っているということで、ひとつの終結を見てもいいじゃないかという、これは俺からの提言だよ。うん、それは勿論、いずれどちらかはっきりするだろうさ。それならそれで結構なことだ。いずれにしても、|目角《めくじら》立てて総てを暴き出すような問題じゃないね」

 ようやくそう言葉を結んだ根戸の長話に今ひとつ割り切れないものを感じながら、一同は反論の言葉を持てなかった。そしてそのしばらくの沈黙をさらに深めるかのように、

「雛ちゃん、本当なの」

 と、ぽつりと杏子は呟いた。

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6 プルキニエ現象

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 それから一日たち、二日たち、そうして三日という日が過ぎ去っても、真沼は依然、|杳《よう》として姿を現わさなかった。

 七月二十八日、土曜。関東から中部にかけての上空は、異常透明という現象に覆われた。大気の透明度が並はずれて大きくなるという、この一見目立たぬ奇現象は、この日、数十年に一度のものであったが、あるいは真沼までもが、その透明な大気もろともに澄みきった夏の上空へと溶けこんでしまったというのだろうか。赤坂にある真沼のアパートにも、二十四日の朝以来、彼の戻った形跡はなく、仙台の実家の方に問い合わせてみてもその行方は虚しかった。

 再び、この事件は考え直さなければならない。

 やきもきする十一人は、しかし自分達の頭の上でそんな不思議な現象が起こっているのも知らぬまま、その日の夜を迎えた。

「だいたい俺は最初っから納得できなかったんだ。影山の眼鏡猿がいらぬことを言いだすものだから、みんな寄って|集《たか》って物理談義なんぞに|現《うつつ》をぬかして、その挙句がこれだぜ。なっちゃないったら」

 癇癪持ちの甲斐が三日の間我慢していたというのも珍しいことだったが、とうとう業を煮やしたように声をはりあげたのが、夜の八時。白山の根戸のマンションに甲斐、布瀬、倉野、羽仁、雛子の五人が集まった時のことだった。

「まあまあ、そういきり立つなって。で、どうだったんだ、倉野。結果の方は」

 羽仁が|宥《なだ》めると、甲斐は急に疲れたように椅子のなかに沈みこんだ。

 呼びかけられた倉野は、これまたうっそりと寝呆けたような瞼をあげると、

「ああ、意外と時間がかかってしまった。血液学関係の奴に頼んだんだが、そいつがまた極めつきの怠け者でね。仕事まで徹夜で手伝わされて、おかげで睡くて睡くて。……事件の真相が根戸、君の言った通りだとすると、鏡にぶちまけられていたのは、犬か猫の血ということになるけど、間違いない、あれは正真正銘、人間の血液だった。血液型はAB型でね、うん、これも真沼のものと一致しているが……」

「人問の!? ……すると、倉野。あれは本当に真沼の血で、行なわれたのはやっぱり殺人だったっていうのか。……しかし、そんな……」

 少し|蹌跟《よろめ》いて、根戸は途切れ途切れに|呻《うめ》いた。自分の言い出したことで総てを滞らせてしまったのだから、それも当然なのだろう。額に脂汗を滲ませながらも顔色は蒼く、普段の陽気さはあとかたもなく消えうせて、彼の表情を色濃く占めているのは後悔のふた文字だった。

 その様子をじっと|瞶《みつ》めていた雛子は、

「これではっきり情勢が変わったと言っていいのね。……あの時言いかけてやめちゃったんだけど、だいたいあたしの証言がまるで嘘だったとしても、現にあの部屋ではちゃんと誰かがレコードをかけ換えたりしてるんですもの。少なくとも布瀬さんとあたしの証言くらいは信用して貰わなくっちゃ。……でも、そうなると真沼さんと杏子姉さんがうちあわせてやったことになるけど、ベッドの下に隠れててみんなをやり過ごすというトリック自体が、どう考えてもあの時に可能だったとは思えないの。ううん、そればかりじゃないわ。あの日に集まる人数やら、その人達がとる行動だって、誰にも予想できない筈でしょ。あの時書斎に雪崩れこんだのが九人も十人も居たとしたらどうかしら。あるいは数は少なくても、杏子姉さんと同じように書斎の方に行かない人がいたとしたら」

 ほう、という顔をした羽仁の方をちらりと見て、

「でしょ。そんな危険性の高い、たまたま都合のいい情況になるのを狙ったトリックなんて、誰が実行に移すかしら。それにあの時の情況を振り返ってみても、杏子姉さんが『黒い部屋』に残らなくちゃならない理由そのものがないのよ。そうなると、真沼さんが籠抜けを演じてみせるのに、ふたりがぐる[#「ぐる」に傍点]である必要性がまるで見あたらないわ。まして、ふたりはそれほど探偵小説狂じゃないでしょ。探偵小説など読んでなくっても、マニアの眼の前で密室からの脱出を演じてみせて、あッとひと泡吹かせることができるんだゾ、っていう趣向にしては、ちょっとねえ。……どうなの、羽仁さん。密室の専門家としては」

「うーん、専門家は参ったね。ナイルズの奴が小説のなかでそんなことを書くものだから、どうもやりにくいな」

 そんなことを呟きながら、時間繋ぎのようにゆっくり煙草に火をつけると、

「だいたいからして密室なんてものは綿密に、|虱潰《しらみつぶ》しに検討してゆけば、たいがいのものは解けることになってるんだ。〈前提要求の問題〉って言葉を知ってる?」

 四日前の『黒い部屋』での席上で突然に襲われた発作も、今はすっかり影をひそめ、|更紗《さらさ》のテーブル·クロスをかけた小卓に片肘をついて、羽仁は声をかけた。

 その質問をぼんやりした顔で受けとめた根戸は、

「ああ。推論を行なう前に、まず正しい前提が要求されるという……」

「そうそう、それなんだ。つまり君の推理の土台となるいくつかの前提。そこにこそ問題があったんだよ。根戸ホームズの、|所謂《いわゆる》算術的推理法の前提は、この事件には我々ファミリーの一員以外の犯人は存在しないということだった。果たしてそうか?……いやいや、馬鹿にしちゃいけないよ。これで案外、この虱潰し法も馬鹿にできないんだ。……次には、僕と曳問、ナイルズ、ホランドの四人が犯人である筈はない。……これも、果たしてそうなのだろうか?……現場に居た五人の者は犯人ではない。……果たしてそうか?……おまけに君の推理では、君自身と甲斐を、五人の眼に触れずに密室から出られる訳がないという理由で犯人の可能性を|零《ゼロ》と|看做《みな》しているけど、これまた果たしてそうなのだろうか……?」

 椅子のなかに凭れこんで、もうそんなことはどうでもいいといったていの根戸に、

「あまり気を悪くしないでほしいな。別に君の推理のあら[#「あら」に傍点]捜しをしてる訳じゃないんだ。ただもっと厳密な態度が必要だという|喩《たと》えに過ぎないんだから。……さてこのあたりで、そろそろ僕自身の推理法を披露しなくちゃならないんだろうけど、それにはまず、事件の真相を、あらゆる仮定の場合に分類してみなくっちゃね。今度の事件の場合だと、大きく分けて、

 A 殺人は起こっていない

 B 殺人は起こった

この二つの場合が仮定されるよね。まず、このAの方を検討すると、さらに次の、

 (1)真沼の狂言

 (2)真沼以外の者の狂言

このふたつに分類される。根戸の提唱した〝両方の成分を含んだ解答_のうちの、『杏子さんの証言が虚偽』というのが(1)、『布瀬と雛ちゃんの証言が虚偽』というのが(2)に該当するようだね。(2)の方は簡単なんだけど、(1)の真沼の狂言っていう奴は、根戸の考えた、『発見者が部屋のなかに闖入して来る時に、扉の陰に隠れておいてやりすごす』という方法のほかにも再考の余地があるようだね。これは密室トリックというより、密室脱出トリック[#「密室脱出トリック」に傍点]と、限定されて呼ばれなくちゃならないものだろうけど、――だけどとにかく、これらのもの全部ひっくるめて、Aの『殺人は起こっていない』というのをとりあえず除外してしまおう。この今急務なのは、最悪の場合――つまり殺人事件である場合の、その真相の解明なんだから、うん、この前提なら、たとえ間違っていたとしても、少なくともばち[#「ばち」に傍点]はあたらないよね。どう、僕は何かおかしいことを言ってるかい」

「いやいや、全く御立派なものだあね」

 ふてくされたような根戸の返事に羽仁は、

「それでは一応安心して先を続けるよ。さて、さっき言ったBの項目、つまり『殺人は起こった』は、さらに次のように分けられる。つまり、

 (1)真沼は雛ちゃんが書斎を覗いた後で殺された

 (2)②真沼は雛ちゃんが書斎を覗く前に殺された

というふうに……」

「ちょ、ちょっと待って」

 慌てて口を挿んだのは雛子だった。

「あたしが部屋を覗く前に、ですって。それじゃ、あたしの言うこと、やっぱり半分信用されてないの? ちょっとひどいんじゃないかしら。そりゃあ、真沼さんの服の色が変わっていたなんて、自分でも不思議で仕方がないけど、でも、本当。絶対の本当なのよ」

 それだけは譲歩できないとばかりに言いつのる彼女に羽仁は飽くまでも微かな笑みを浮かべながら、

「いや、別に信用しない訳じゃないよ。ただ、僕にはひとつの疑問があって」

「疑問があって?」

 |鸚鵡《おうむ》返しに聞き返す雛子に、羽仁は意外な質問を向けた。

「ほら、雛ちゃん自身がはっきりと証言したじゃないか。真沼はあっちを向いて[#「あっちを向いて」に傍点]雑誌を読んでたって。そいつは果たして、本当に真沼だったの?」

「あ」

 ぽかんとした顔つきになって、雛子はその小さな首を斜めにつき出した。前方の空間に眼に見えない扉があって、そこからさらに向こう側を覗きこむとでもいったふうに。

 人間の脳のある部分を、針のような電極で、ほんの僅か刺激を与えると、過去に体験した事柄がそのまま――といって、忘れ去られていた記憶が呼び醒まされるといったものでもなく――その時の視覚、聴覚、匂いからその手触りが、ありありと眼の前に繰り展げられる、つまり、過去の出来事が再体験されるというけれども、この時の彼女もまた、そこにありありと姿を現わした扉から例の部屋を垣間見ているらしく、何もない宙空のそのまた何もない一点に向けられた視線を、じっと凝らしていて不意に、

「判んない」

 と呟いた。

 羽仁はしたり顔に、

「ね。人間の証言なんて、あてにはできないんだ。そりゃあ、シャツの色に関しては間違いないだろう。だけど、人間ってのは一方のことに気を取られると、もう一方のことはお留守になってしまうものだからね。甲斐、きみは油絵専門の方だから、色彩学についても詳しいんだろう。〈プルキニエ現象〉って言葉を知ってるかい」

 その時、なぜか布瀬が、ほう、と呟いた。

 羽仁によって、渾沌としていた事実の全貌が、少しずつ真相に近い方向へと整理されてゆくらしいのに興味を覚えたのだろう。眼をぎらぎら輝かせながら甲斐も頷いて、

「そうすると、ははあん、あの時の情況が、まさにそうだったというんだな」

「そう。……説明しておくと、〈プルキニエ現象〉ってのは、明るい処では赤や黄、暗い処では逆に青や緑の方がめだって見えるということをいうんだけど、これは一体どういうしくみに由来するのか。そもそも我々の視覚細胞には、細い|桿状《かんじょう》体と太い|錐状《すいじょう》体の二種類があって、人間の場合、前者は一億二千万個、後者は七百万個ほどあるといわれてる。そうしてその役柄は、数の多い桿状体が|薄明視《スコトピック·ヴイジョン》、つまり薄暗がりのなかで活躍し、数の少ない錐状体が|昼間視《フォトピック·ヴィジョン》、つまり明るい処で活躍するんだ。色彩を|司《つかさど》るのは錐状体の方なんだけど、あまり暗くなるとこの錐状体は働かなくなってしまうので、そうすると色彩は判別つかず、桿状体による〝ものの明暗_しか判らなくなってしまう。しかも桿状体の方は網膜全体にまんべんなく拡がっているのに対し、錐状体の方は中央部ほど多くなっていて、殊に瞳孔の対称点にある黄斑部という最も敏感な部分には、錐状体だけが密集してるんだよ。ところが人間以外の動物にはもっと極端なのがいて、鳥類の殆どは人間が一メートルくらいでやっと見分けのつくほど小さな餌 e百メートルも離れた処で確認できるすぐれた眼をもっているんだけど、錐状体だけしか持っていないので暗くなると盲目になってしまう。それと逆なのが|梟《ふくろう》や|木菟《みみずく》、|蝙蝠《こうもり》といった類いで、こちらは桿状体だけしか持っていないので、昼間は眩しすぎて駄目だけど、夜になると眼が見え始めるんだね……。

「錐状体と桿状体からはそれぞれ、|視紫《アイオドブシン》と|視紅《ロドブシン》という物質が抽出されるんだけど、これらは光をあてると退色する性質を持っている。つまり、これこそが光を視覚細胞の昂奮に換える引き金、|視物質《ヴイジュアル·ピグメント》なんだ。さて、この視物質の構造を調べてみると、レチナールとオプシンという部分とに分けられることが判った。つまり、アイオドプシンはレチナールと錐状体オプシン、ロドプシンはレチナールと桿状体オプシンが、それぞれ結合したものなんだ。レチナールというのはビタミンAにそっくりの物質で、ちなみにその構造式を示せば、

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で、このRの部分がCH2OHならビタミンA、そしてCHOならレチナールになる。このことから考えても、ビタミンAがいかに眼と深い繋がりがあるか判るよね。

 これが不足すると、まず桿状体が働かなくなって、夜盲症に|罹《かか》る。もっとひどければ失明してしまう。一方、オプシンというのはヘモグロビンに似た蛋白質で、分子量は約四万。何百個というアミノ酸によって構成されてるんだよ。ともあれ、色覚を司るのは錐状体だから、色覚の秘密はアイオドプシンにある筈だね。

「ここで敢えて、やや脇道に逸れるけど、色覚機構の研究の指導的学説には、大雑把に言ってふたつのものがあったんだ。ひとつはヤングとヘルムホルツの三原色説、もうひとつはヘリングの二元補色説だよ。前者は色覚の単位として、赤·青·緑にそれぞれ感応する三種のものが存在するという説。後者は赤と緑を司るものと、青と黄を司るものの二種が存在するという説さ。研究が進むにつれて、基本的には三原色説の正しさが立証されたんだけど、ヘリングの説の理念にも否定しきれない部分があって、現在では、光化学的段階で三原色説うその後の情報処理段階で二原補色説的な機構が働くという、段階説が考えられているというんだ。いずれにせよ、光化学的な段階ですら、その過程の完全な解明は、ひと筋縄でいくものじゃないらしいからね。

「さて、問題のプルキニエ現象だけど、これの正確な説明も、まだつけられないのが現状のようだね。ただ、赤を感じる錐状体は黄斑部に集中しているのに対し、青を感じる錐状体は網膜全体に拡がっているのは確からしい。つまり、赤い光は網膜の中心で、青い光は網膜の周辺部でよく感じるという具合になってるんだ。プルキニエ現象を、もう少し専門的に言い換えると、視感度の極大な部分が、視界の明度の増大につれて、短波長から長波長の方向に移動することなんだけど、さっきも言った通り、色覚の単位細胞が分化していて、しかも網膜での位置的な差異まであることを考えれば、その原因の見当くらいはつくよね。薄暗がりで働く桿状体の作用が関係しているかどうかは言えないにしても、青を感じる錐状体の方が、赤を感じる錐状体よりも、光が少なくても感度が高くなるようになっていると考えられる。

「で、雛ちゃんがあの書斎を覗いた時のことを言えば、今まで『黒い部屋』のなかで暗さに慣らされていた眼に、明るい書斎のなかを覗きこむことによって、一瞬、そこに居た真沼か、あるいはほかの何者かの着ていた鮮やかな赤が、ぱっと燃えるように焼きつくことになった。……そうしてまた、陥穽もそこにあったんだよ。おかげで、その人物が本当に真沼かどうかという点は、はっきりとした考察もなされずにすんでしまったんだね。これは巧妙な色彩のトリックだともとれるけど、――まあしかし、実際には、雛ちゃんの目撃した人物が真沼であったのか、それとも真沼ではない誰か他の人間だったのかは、まだどちらとも決定できないのだから、やはりそこは両方の場合について考えなきゃならない……」

 羽仁はそう言って、取り出した煙草に火をつけた。

 しばらく、ぼんやりとした顔で羽仁の話を聞いていた根戸は、はっと気づいたように、

「ちょ、ちょっと待てよ。最後のそのひとことを言うために、そうやってながながと訳の判らんことをひきあいに出したのか?」

 そう叫ぶと、組んでいた腕を抛り出して、背凭れにぐったりと躯を倒してみせた。

 ただひとり、薬学専攻の倉野だけが、睡そうな眼を擦りながらも、半ば感心したように興味深げな笑みを浮かべていた。

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7 仲のよくない共犯者

[#ここで字下げ終わり]

「どいつもこいつもまあ、よくもこれだけ余計なお喋りをしたがるもんだ。俺は眼科医のところへ来てるんじゃないぜ、全く」

 根戸の不平に重ねて、またしても甲斐がそう口を出して、

「ビタミンAもヘモグロビンも、今度の犯人にゃ何の関係もない。雛ちゃんの証言に疑問があることは認めてやるから、早く先を続けろ」

「ああ、そうするよ」

 一服吸っただけの煙草を、惜しげもなく揉み消しながら、羽仁は、彼のいう〈虱潰し法〉の推理を続けた。

「ええと、結局どうなったのかな。……そうだ。つまり、考察すべき

 B 殺人は起こった

の項目は、真沼が殺されたのは雛ちゃんが書斎を覗いた、

 (1)後である

 (2)前である

の、ふたつに分けられる、というところだね。順序として、まず(1)から考えてゆこう。雛ちゃんの見たのが、やはり真沼だった場合だ。この場合、困難なことはいろいろある。……十分間という限られた時間内に真沼を殺し、その屍体を消失させなければならないという、大仕事がね。そして、常に密室殺人の場合考えなくてはならない、

 Ⅰ 犯人は現場に出入りした

 Ⅱ 犯人は現場に出入りしていない

のふたつを考えると、Ⅱの、つまり遠隔殺人では、どうしても説明がつかないことが判るだろう。〈第四の扉〉などといってみたって、結局少しでもあの部屋と外界との出入りが可能な部分は、扉と、そして斜めに開く窓しかないんだから。……扉を隔てて、つまり、『黒い部屋』から遠隔的に真沼を殺し、そしてその屍体を消し去るなんて、超能力者でもない限り不可能だし、窓を使うにしても、あの二十センチそこそこの隙間から、一体どんな奇術が可能だろうか。たったひとつの可能性といえば、もう、ひどく腕の長いマジックハンドを使うしかないね。殺すのは弓矢でも槍でも鉄鎚でもいい。そのあと躯をバラバラに切り離し、その肉の塊りになった真沼をひとつひとつ、そう、まるで刺身をつまむように運び出したとでも考えるしかないよ。……むしろ、そう考えた方が辻褄が合う点もあって、あの羽虫の音、あれはステレオのハウリングでなんかなく、回転式の電気鋸を使ったとすれば、その振動音こそが……」

「電気鋸の!?」

 怯えたように雛子が叫んだ。布瀬や根戸もぴくりと眉をあげたが、こちらはひとことも口をきかず、ただ睨むように羽仁の話を聞き続けている。そんななかで羽仁は、少し間を置いたのち、

「そうなんだ。殺人といっても、これくらい非人間的な方法はちょっとないよ。そのバラバラの肉の塊りは、大きな袋にでも無雑作につめこまれて持ち去られることになるんだろうけど、いやはや、このような犯行を十分以内に無事にやりおおせる精神ってのは、一体どんなものなんだろう。……僕は最初、布瀬の話のなかで、例の羽虫の唸りという|件《くだり》を聞いた時は、何万何億という虫が、瞬く間に真沼の躯を喰い潰してゆく様を想像して、ぞっとしたんだけど、さて、こういう具合に、真沼の驅をバラバラの肉塊にして持ち去る殺人者というものを仮定すると、一体どちらが、より現実的にあるべきなのか、僕には何とも判断つかないんだ。……といって、しかし、幸か不幸か、この考え方では不都合な点はある。それはほかでもない、窓はしっかりと、内側から|閂《かんぬき》――というのか――掛金というのかアルミ·サッシに普通使われる頑丈な回転式のロックがかけられていたという点だ。無論隙間は一ミリとてなく、回転に使う力も糸なんかで操作できる生半可なものではないからには、これだけは窓の外側からはどうにもできない筈なんだ。――という訳で、我々はこのあまりにも非人間的な犯行方法を除去できる。だけどまあ、万が一、我々の考えつかない閂トリックがあるかも知れないという点も考慮して、ひとつの可能性として残しておいてもいいだろう。……さて、今度はⅠの、犯人が現場に出入りした場合だけど、こちらはもっと話が難しい。なぜなら、真沼だけでなく、犯人自身が消え去らなければならないからだけど、これは一体、どのようにして可能だろう。……犯人だけが部屋を脱け出すなら、根戸の言うように、ベッドに隠れていてやりすごすという方法を使って、何とか旨くいくかも知れないね。だけど、屍体はどうしたのかな。まさか皆が鏡の凶々しい血模様に気を取られている隙に、屍体を担いでエッチラオッチラ逃げ出した訳でもなさそうだ。自分ひとりだけでも、かなりの冒険なんだからね。……え? さっきの方法を応用すればいいって。あはあ、そうすると、やはり犯人は屍体を細切れにして、あの窓から外に出したっていうの。……どうもみんな、|酸鼻《さんぴ》を極めた殺人というのをお好みらしいね。だけどその場合、窓の外で肉塊を受け取る共犯者が要るよ。そんなことをたやすくやってのけるような畸型な精神の持ち主がふたりも存在してるなんて、考えただけでもぞっとする」

「しかし、例えば、ナイルズとホランドなら……」

 急ににやにや顔になって布瀬が呟くと、

「ああ、それなら一理あるかも知れない。……でも」

 と、屈んだ羽仁は布瀬の耳許でわざと囁くように、

「これは最初に言っとかなくちゃいけなかったかも知れないけど、真沼が殺されたのが雛ちゃんが書斎を覗いた時刻、つまり三時五十分より後だとすると、僕と曳間、それにナイルズとホランドの四人には、完全なアリバイがあることになるんだよ」

「あっはっはあ。馬鹿にするなよ。それくらいは判っておる。こと犯行時間をその十分間に限定すると、犯人を我がファミリー内に求める以上、そこには甲斐と根戸だけしか残されておらん。ここにはそのふたりが、ちゃあんと揃っとるが」

 そう言って意地悪くふたりを眺め渡すと、いち迅く癇癪玉を破裂させた甲斐が、

「俺が!? 馬鹿野郎。窓からの遠隔操作なんてのは話にもならんが、ましてや俺が根戸と組む訳がないだろう。俺が殺人を犯す場合は、はん、間違いなく俺ひとりでやってのけてみせるぜ」

 青筋さえ浮かびあがらせてそう大見得を切ると、布瀬の方は依然、にやにや笑いを崩そうともしないで、

「ふふん、まあ、そりゃそうかも知れんな。少なくとも、お前と根戸が共犯者であるとは、吾輩にもちょいと考えられんことではある。……言わばこいつは、仲のよくない共犯者というところだな」

 この言葉に、またぞろ口を出しそうな甲斐をさし止めて、羽仁は慌てて推理の続きを喋り始めた。

「根戸が屍体を切り離し、甲斐がそれを受け取って持ち去る、……あるいはその逆か。〈仲のよくない共犯者〉って言葉は面白いけど、まあ、結論を急がないことにしよう。犯人が我々ファミリーの十二人以外にいることだって考えられるんだからね。仮に十三番目に|因《ちな》んで、〈ユダ〉と名づけようか。ナイルズの小説のおかげで、何となく同じように、犯人が我々の間にいるような先入観を植えつけられているかも知れないけど、〈ユダ〉のいる可能性は決して否定できないんだ。……本題に戻るけど、犯人があの書斎に出入りして、しかも共犯者などいないとしたら、さて、どういう方法が可能だろう。……そういえば雛ちゃんはパズルがお得意だそうだけど、ここまで来ると、あとはパズルとして解けないかな」

「ええ?」

 と眼を丸くして首を傾げた雛子は、

「……そうねえ、共犯者がいないんだから、窓からは駄目。……屍体を担いでみんなをやりすごすのも駄目だとしたら、どうしても屍体だけが残ってしまうわね。……まさかあの部屋のなかで、硫酸か何かを使って、真沼さんの躯を溶かしてしまったなんてこともできないでしょうし、だいいちその時間もない。……とすると、どうしてもあとに残る方法といったら、どこかに隠してしまうしかないんじゃないかしら」

「ふむふむ、いやなかなか面白い。……で、隠すとすれば、一体どこだろう。あの部屋で寝起きしている布瀬自身が、隈なく部屋のなかを調べたんだよ。彼にさえ気づかれないような、そうしてしかも人間ひとりを隠せるような旨い場所が、果たしてあの部屋のなかにあったろうか……」

「ちょっと待って。想い出すわ」

 そう言って頬杖をつくと、雛子はたいした意味もなく、右手の指をひとつひとつ折り始めた。

「あの部屋にあったのは、ベッド、ステレオ、キャビネット、机、それくらいのものだわ。あたしだって、あれから何度も吟味してみたのよ。……ベッドの下は何もなかったし、あれは板金の上にマットレスを置いてあるだけのものだから、よく探偵小説にある、スプリングの部分に人ひとりはいれるだけの隙間があるという訳でもなし。ステレオのスピーカーも、あたし、ちょっと持ちあげてみたんだけど、人間がはいってるだけの重さはなかったわ。キャビネットも、抽斗をひっぱり出してなかを覗いてみたけど駄目。机の抽斗なんて、人間がはいる余裕さえないわ。……それともやっぱり、どこか見逃してるのかしら」

 独り言のようにそう言うと、布瀬までが、ふと不安げな顔つきになったが、

「そうだわ!」

 いきなりそう叫んで、まじまじと羽仁の顔を|瞶《みつ》めるように雛子は、

「そうだわ……そうよ、あの部屋には、勿論、本棚があったのよ。でも、本の後ろに隠せる筈がない。……その筈だったの。……だけど、本の後ろじゃない。本のなか[#「本のなか」に傍点]だったら……」

「旨い! 雛ちゃん」

 羽仁は指を鳴らして、息ごんであとを続けた。

「唯一考えられる隠し場所、そうなんだ。本のなか。……つまり、あの本棚はかなりの横幅があったから、人間ひとり横たえても充分だったんだよ。といって、勿論普通の単行本程度の大きさじゃ駄目だね。しかし、あそこにある四つの本棚のひとつには、ちゃんと百科事典というものが揃えてあった。あれはいちばん下の段だったね。しかもお誂え向きに、百科事典という奴は、立派な箱にはいってるものなんだよ。……この意味が判るかい。箱を束ねてなかを|刳《く》り抜けば……どうだい。立派過ぎるくらい立派な棺桶になるじゃないか。そうして雛ちゃん。君は今、机の抽斗の奥には人間がはいるだけの余裕もないと言ったけど、箱を取った事典なら、ぎっちり詰めこめばかなりの量がはいると思うんだけどね」

 静寂は不意に来るものだ、と、根戸はその時考えていた。何故か、ひどく|懶《ものう》い気分だった。

 ――そうなのか? でも、そんなこと、どうでもいいじゃないか。

 ひそかに心の底で呟くと、根戸はそっと窓の外に眼をやった。疲労がマリン·スノウのように降り積もってゆく。根戸はそんな深海での光景を夢見たのだったが、窓の外に展がっているのは、やはり濃密な闇ばかりだった。俺は、どうしてこんなに疲れてしまっているのか。

 瞼の奥が熱っぽく、微かに血の匂いさえ感じられた。

 根戸には時どき、現実の出来事がどうでもよく思える時間があった。何気なく訪れるその時間帯を、根戸はナイルズとはまた別に、ひそかに〈逢魔ヶ刻〉と名づけていた。

 恐らく、そのような瞬間は、多かれ少なかれ、この世に住む人間なら誰でも持っているのだろう。真沼の|既視感《デジヤ·ヴュ》や羽仁の発作などは、その甚だしいものといえるだろうか。

 例えば、中学や高校の休み時間、あちこち勝手に分かれて、てんでにわいわい騒いでいる最中に、全く不意に全員の会話が途切れてしまうことがある。そんな時は決まってクラスじゅうが、|雁首《がんくび》揃えて、教師でもやって来たのかと扉の方を振り返るのが常なのだが、それが何でもない、ただの偶然の静寂だと判ると、どっと全員の照れたような笑い声が洩れる。それは根戸にとって、何とも|擽《くすぐ》ったい瞬間だったが、あのような現象がたびたび起こるくらいなら、それぞれの人が持つ〈逢魔ヶ刻〉が偶然に重なって、全く予想もされない奇妙な事件が勃発するくらいのことは、ある意味で必然的な成行きなのかも知れない。

 そのようなかたちで起こった事件は、人間の推理によって解決され得るものなのだろうか。この世のなかには、決して解決されない事件というのもまた存在する筈だという確信が、根戸には以前から強く根づいており、だから、ある意味で事件当日に彼の提唱した解決は、そういった理念の実践と言えなくもなかった。

 それは、歪んだ論理なのかも知れない。例の推理も量子力学にこじつけて話を進めただけで、その論法はやはり純粋に合理的なものではない。しかし根戸にとって合理性だけに支配される世界などというものは、殆ど現実とは無縁にしか思えなかった。恐らく、この現実という見知らぬ世界においては、事実でしかないもの[#「事実でしかないもの」に傍点]は必要とされないのではないか。――根戸には確かにそんな気がした。

 根戸が、だから安心して合理性にひたれるのは数学の世界だけだった。いったん現実の世界に立ち戻る時、彼はそれを支配している原理がどういうものか判らずに、ただ戸惑うばかりの自分を発見する。あるいはそれはうすうす根戸が気づいているように、ただそれがそうあるようにある、ということでしかないとすれば。

 ――そうなんだ。ただ、それだけのことなんだ。

 根戸はふと、チェス研究会に入部した当時のことを想い返していた。その頃はまだ曳問は入部前だったが、何人かいた新入会員のなかには倉野がいた。根戸の方は中学の頃からやっていたので相当の腕前だったが、倉野の方は全くの初心者だったために、ふたりの対戦は最初のうちは勝負にならなかった。殊に最初の対戦で、倉野が二手の|馬鹿詰み《フールズ·メイト》で敗退したのは、今でも彼らの問の語り種となっている。倉野が最初の一勝を入れるまでの成績は、恐らく破竹の百連敗くらいになるだろう。さすがに初白星の喜びは大きかったらしく、倉野は今でもその対局の内容をはっきりと憶えている。

 それ以来、倉野の勝率は徐々にあがって、今では三七の割合にまでなっていた。もともと囲碁の方では五段格の腕前を誇っているだけにゲームに対する感覚は抜群で、殊に終盤の読みに関しては、根戸にもひけを取らないものを持っている。

 遅れて入部してきた曳問の方は、ほんの少しやったことがある程度だった。三人は互いによく対戦したものだったが、最近の成績は根戸に対して四六くらいの割合だろう。こちらは倉野の逆で、序盤の感覚に卓抜したものを持っていた。

 曳間とのいちばん最近の対載は、ふた月ほど前で、確か、根戸の負け|戦《いくさ》となった筈である。

 ――そうだ。はっきり想い出したぞ。あの時は、試みにニムゾ·インディアン·ディフェンスのルビンシュタイン·バリエーションを|採《と》ったのが間違いだったな。曳問の奴、かなり研究していたに違いない。やはり俺には、ルイ·ロペスやカロ·カン·ディフェンスなんかがいちばん性に合う。最近流行のシシリアン·ディフェンスも悪くはないが。

 根戸の脳裡を、幾つかの定跡が横切った。

 だいたい彼も、倉野や『ルーデンス』のマスターほどの確固とした主張ではないが、偶然性のはいりこむ種類のゲームは好きになれなかった。原理的にはただ実力だけに左右されるゲーム。つまり、チェス、将棋、囲碁などの方が性に合っている。

 そのように片方に合理性への嗜好を持ちながら、もう片方では非合理なものに傾倒し続けているのはどういうことなのだろうか。根戸は、自分でもよく判らなかった。多分、彼自身がそれほど合理的な人間ではないからなのだろう。根戸は諦めたようにそんな理由を思い浮かべるしかなかった。

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