――それにしても。
と、根戸は思った。ほんの、短い時間。
――ナイルズのやつ。妙なことを書いたな。孟宗竹の|檻《おり》だって……?
脈絡もない、そんな小さな疑問だった。
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8 見えない棺桶
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闇は、さらに深い闇のなかに呑みこまれ、そうして時間とともに、夜は静かにその変容を続けてゆくのだろう。五人の集まる部屋はそんななかで、ぽつんとひとつ点った誘蛾灯のように、総ての思考が留まってしまったこの世界の宙空に、ひっそりと懸かっているのかも知れなかった。|咳《しわぶき》のひとつもあれば、もうあとは一切合財、何もかもが悠久の沈黙のなかに沈みこんでしまうようにも思われた。
時刻は既に九時になろうとしていたが、雛子を迎えに来る筈だった杏子は一向に訪れる様子もない。しかし、羽仁の話はまだまだ先まで続く気配だった。
「これがひとつの結論だよ」
落着いた口調に戻って、再び煙草に火をつけると、
「反論は少し待って貰うことにして、話を続けるよ。虱潰し法によれば、まだ(2)の『真沼が殺されたのは雛ちゃんが書斎を覗く前である』が残されている。つまり、雛ちゃんの見た人物が真沼でなかった場合だね。そうするとほかでもない。この人物こそが犯人だということになるようだけど……いや、その前にもう一度雛ちゃんに確かめておこう。君の話では、真沼――らしき人物――は雑誌を読んでいたということだったけど、顔が見えなかったからには、何を読んでいたかも判らなかった筈だよね。恐らく布瀬から聞いた話によって、それが『新青年』だと考えたんだろうけど、それにしても本を読んでいたのだと思わせるからには、その人物は多分、身動きもせずに俯いたままだったんじゃないのかな」
「確かに、そうよ」
「うん、では、こういうことも考えられやしないかな。つまり、雛ちゃんの見たのは真沼や犯人どころか、そもそも人間ですらなかったんじゃないかとね。小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』のなかには、ほかの登場人物よりよっぽど生き生きして見えるテレーズ人形が出て来るけど、今度の密室殺人事件――ナイルズの思惑によれば『さかさまの密室』だけど――とにかくそのなかにも、不意に人間そっくりの人形が登場して悪い訳がない」
「駄目だぜ、そりゃあ」
苦虫を噛み潰したような顔をして、甲斐が話をさし止めた。
「それは俺も考えてみた。お前さんが〈緋色の研究〉を披露している間にね。しかし、考えてもみろ。三時半から三時五十五分までは、確かに誰かがレコードをかけ換えていなくちゃならないんだぜ。おまえの言いたいのは、殺人から屍体消失はずっと前に行なわれ、犯人もとっくの昔に逃げ出していたということだろうが、はん、レコードをかけ換えるくらい朝飯前なほどの精巧な機械人形ででもない限り、そんなことは不可能だ。しかも百ら歩譲ってそんな人形が存在したとしても、それくらい精巧なものなら、風船玉のように空気を抜いて折り畳むごともできやしない。……ノコノコ歩きまわったあげく、人形自ら密室脱出トリックを講じてみせるなんてことだけは、こりゃどうしたって承服できないね。……結局犯人は、少なくとも『悪魔のトリル』がかかり、羽虫の音ってのが聞こえ終わるまではあの部屋に居たんだ。ふん、しかしそういうことになると、殺人の起こったのが雛ちゃんが書斎を覗いた前だろうが後だろうが、たいした問題ではなくなるぜ。それこそ屍体を細切れにでもしない限り、『黒い部屋』に居る者の眼を盗んで屍体を運び去ることなんかできっこないし、それに犯人自身がその時まで書斎に居たのなら、それは結局、犯人にとってもその時まで屍体を運び去るのが不可能だったからとしか考えられん。とすれば、単に時間的余裕という点以外、雛ちゃんの覗く前だろうが後だろうが、条件は同じだということだぜ。……そもそも俺は、雛ちゃんの見た人物が真沼ではないかも知れないという仮定から、納得できないね。……いいか。その仮定に従えばこういうことになる。犯人はわざと自分の後ろ姿を雛ちゃんに見せて、真沼だと思わせるようにした。何故なら倉野がノブに手をかけた時には鍵がかかっていた癖に、雛ちゃんの場合はそうではなかったというのだからな。しかしだ、一体犯人は、何故そんなことをしなくちゃならなかったんたね?」
指を立て、薄気味悪く笑いながらそう問いかけたが、誰も答えようとしないのを確かめて、甲斐は満足そうに後を続けた。
「ふむ! 殺人の起こったのが、それより後だと思いこませるために? それが違ってるのは、もうみんな判ったらしいな。そう、まさに間違っている。何故ならそう思いこませることに意味がない[#「そう思いこませることに意味がない」に傍点]からだ。誰かが部屋を覗きこんだ時間より後で殺人が起こったと思いこませたとしても、その時以前に犯人が脱出していなければ、思いこませること自体に意味がない。……それだけじゃないぜ。犯人が真沼を装ったという仮定の決定的な弱点は、鍵を開けっ放しにしておいたところで、覗く者が必ずいるという確証がないこと、及び、鍵を開けておけば覗くだけでなく、部屋のなかまではいって来る者がいるかも知れないということ、このふたつだ。いいかね、部屋のなかにズカズカ踏みこんでくる者がいれば、それで総てがおじゃん[#「おじゃん」に傍点]なんだぜ。人を殺しておいて、なおかつ犯人がそんな危険性の高い手段を選ぶと思うか。よって、人形どころじゃない、雛ちゃんの見たのは犯人でも何でもなく、やはり真沼だったと言わねばならないんだぜ」
意気揚々と羽仁の方を見返すと、こちらは擽ったいような笑みを洩らしながら、
「うん、見事。……僕も結局はそこを言いたかったんだけど、なかなか要領よく纏めてくれたね。それなら話は早い。尤も僕の虱潰し法では、飽くまでその可能性というものを否定はしないけど、結局のところ、雛ちゃんの見たのが真沼であろうとなかろうと、屍体消失のトリックと密室脱出のトリックは変わらないということなんだ。……では、もう一度纏めてみようか。今度の事件を場合場合に細かく分類すると次のようになる。即ち、
A殺人は起こっていない
(1) 真沼の狂言
(2) 真沼以外の者の狂言
B 殺人は起こった
① 真沼は雛ちゃんが書斎を覗いた後で殺された
② 真沼は雛ちゃんが書斎を覗く前に殺された
i 雛ちゃんの見たのは犯人
ii 雛ちゃんの見たのは人形の類い
で、それとは別に、
Ⅰ 犯人は現場に出入りした
Ⅱ 犯人は現場に出入りしていない
のふたつがあって、Aは除外するとしてBの方は、①にⅠ、Ⅱ両方の考え方があり、②にはⅠだけがあてはまる。②の方は甲斐の言った理由で可能性は薄い。……そうして犯人は真沼の躯をバラバラに斬り刻んだのだという、いかにも非現実的、非人間的方法を考えたくないのなら、あとにはたったひとつの方法しか残されていないんだ。……それがさっきも言った、百科事典の箱を隠れ蓑にする方法だよ。……どうも|迂遠《うえん》|冗長《じょうちょう》になって、まだるっこしかっただろうけど、結論はこれさ。ではこの、名づけて〈見えない棺桶〉方式の犯行という線を、もっと詳しく説明しよう。犯人の正体も、そのうち明らかになって来るだろうから。
「……さてと、それではこれからみんなの頭のなかの時間の目盛を戻して、四日前の二十四日の昼に合わせて貰おうかな。犯人が書斎に侵入したのは、この間雛ちゃんが指摘した通り、この頃だったのは間違いないだろうけど、可能性としてはふた通りが考えられるんだ。第一は、布瀬が食事に出た十一時から十二時半までの間に忍びこむ。そしてもうひとつはトイレに出た一時頃に、真沼と一緒に訪れる。今の時点ではどちらとも言えないけど、とにかくこの頃に犯人が侵入して、書斎のベッドの下に潜りこんだ訳だ。……そして二時頃に真沼が書斎にはいり、すぐチューナーをかける。さて、問題はその後、倉野がノブに手をかけた時には、鍵がかかっていたという点だ。犯人が鍵をかけたのなら、真沼と犯人は顔を合わせたことになる。真沼がかけたのなら、これは犯人が見つからないようにという意味にとれるね。……どちらにしろ、真沼は犯人が書斎に隠れていたことをよく知っていたと考えた方が自然のようだ。多分、誰もいない筈の書斎から突然別の人物が出現するという悪戯を、ふたりの間でうちあわせてあったんだろうね。だけど犯人の方には、その裏にもうひとつの謀みがあった訳で、それがほかならぬ真沼の殺害だったんだ。可哀想な真沼はその犯人の計画表通り、『新青年』を読むという口実のもとに書斎にはいる。そうして鍵をかけ、皆が集まるのを待ち続ける。……その間に犯人には大きな仕事があった。百科事典を取り出して箱をはずし、人間ひとりがはいれるだけの大きさに並べて、内側をホチキスで綴じ合わせる。そうしておいてなかをカッターででも|刳《く》り抜いて、ひとつの棺桶をつくるんだ。恐らく、ふたりで諜んだ悪戯に棺桶を使う予定だったんだろう。自分の屍体がそのなかにはいることも知らず、真沼は面白がってその作業らを眺め、事典のなかみ[#「なかみ」に傍点]は全部机の抽斗の奥に詰めこんで、そうして時刻は三時四十分頃になった。犯人はドアの鍵をあけ、ベッドの下に潜りこむ。……雛ちゃんが部屋にはいって来ても、それはそれでよかったんだろうね。どちらの方がより都合がよかったのかは判らないけど、ともかく雛ちゃんは部屋を覗いただけだった。さて、そこで再び部屋の鍵をかけ、犯人は真沼を殺害する。これには刺殺なんかより、鉄棒か何かで撲殺する方がいいだろう。いや、それとも速効性の毒物かな。なるたけ血を流さず、一瞬に命を奪うのが理想だね。血は注射器ででも抜き取って、鏡の上に
そう問いかけられて布瀬は、ふと奇妙な表情を浮かべて、それに答えようとした。その矢先、吐き出すような口調で喋り出したのは根戸だった。
「俺だ。俺だよ」
倉野はもう眠りこんでしまったのか、椅子のなかに沈みこんだままだったが、甲斐と雛子がはっと振り返ると、根戸は疲れきったような表情で顔を上げた。
「判ってるさ、羽仁の言いたいことは。犯人はお前の推理によれば、電話で呼び出された四人は駄目。『黒い部屋』にいた五人も駄目。甲斐も書斎に雪崩れこんだ時点で『黒い部屋』にいたんだから駄目。そうすると我々ファミリーのなかで可能性があるのは俺しかいない。……といって、十三人目の〈ユダ〉とやらを持ち出せば、杏子さんの証言が問題になる。しかし俺が犯人だということになれば、それも旨く説明がつく。杏子さんは俺が抜け出して来るのを見たが、あとでそのことを黙っていた。――いや、最初っから俺と杏子さんが共犯だったとしたら、尚更都合がいいな。――そうとも、そうすれば例の羽虫の音にしたって、この間ナイルズが言ったように〈準備完了〉の合図だと|看做《みな》せるし、そもそも彼女が書斎の方に行かなかったというのも俺の口から出たことで、その実みんなに気づかれないよう積極的に犯人の隠れ蓑の役割らを果たしたとすれば、籠抜けのトリックももっと実現可能なものになるだろうしね。――しかも俺は、翌日の午前中に布瀬の処を訪ねてる。とくれば、もう犯人はほかの誰でもない、この俺に間違いないことになる。……しかし、俺は……」
根戸がそこまで喋って言い澱んだ時、いきなり布瀬が笑い始めた。それがあまりにも唐突で、またあまりにも愉快そうな高笑いなので、皆、一瞬呆気に取られてしまった。
「いや、失敬失敬。しかし、あっははは、全くもっておかしいのだから仕方がない。ながながと説明をして貰ったが、羽仁よ、肝腎の推理よりは、眼球譚の方が余程面白かったぜ。あっは、根戸、心配しなくてもいい。〈見えない棺桶〉は見えないどころじゃない、最初っから存在などしていないんだからな」
「……というと」
羽仁が少しばかり不安そうな表情で訊くと、布瀬はますます喜色満面といったていで、
「お前の推理を覆すには、たったひとつの事実でもって足りる。吾輩はあの夜、あの百科事典で調べものをしたんだ。何という言葉を調べたか判るかね。……ふふ、この言葉がお前の口から出た時には吾輩もびっくりしたが、〈プルキニエ現象〉――まさにこれだったのだよ」
あっ、という小さな叫びが一斉に洩れた。それに続けて布瀬は、
「さて、吾輩は記憶を辿ってみた。〈ブルキニエ現象〉という言葉はあの百科事典の何冊目にはいっていたかをね。そして吾輩は自分でもちょいと驚いたのだが、日頃使い慣れてる事典は、案外無意識のうちに何という言葉から何という言葉までかを憶えているものだね。吾輩のあの事典の場合、あ=あら、あり=いた、いち=うむ、と続いて、全二十五巻。〈プルキニエ現象〉が収録されているのはそのうちの十九巻目だ。で、一巻から十八巻までの箱だけを使って、そのなかに人間がはいれるかというと、真沼が普通よりちょいと小柄だということを考慮に入れても、これは不可能だね。恐らく、二十五巻全部を使って、やっとというところだろうよ」
そうとどめを刺して、布瀬は再びクックッと笑ってみせた。こうして再び事件の全貌は、外の世界と同じ、深い闇のなかに鎖されてしまったようだった。闇はひとつの|匣《はこ》のなかに封じこめられ、匣は決して暴かれることなく、ますます堅く口を鎖してそこにあった。
総ての解決は、裏切られ、覆されるためにのみ生産されているようでもあった。
「惜しい。全く惜しいよ。あんな調べものなどしていなければ、恐らくお前の推理を信じてしまって、屍体と共にひと晩過ごしていたのかと、ぞっとさせられるところだったな。……あっは、全く申し分のない推理だが、肝腎要の、事実との|雌齬《そご》があるという点で、残念ながらその推理にもお蔵入りして頂くしかなかろう。……はてさて、ではどうするね。仕方なく、残りの遠隔殺人説でも蒸し返すかね。一体どんな装置を使用したのかという点は不問に付すとしても、あの隙間も何もない頑丈な窓の掛金を、いかにして外側から締めたかという疑問は残っとるだろう。それともその点に関しても、やはりちゃんとした推理を用意しておるのかな?」
意地の悪い問いに、羽仁が、
「参った! 降参だよ」
両掌を頭上にさし挙げるのを確認すると、布瀬は悠々と椅子に凭れこんだ。
「誰かさんの小説には、〈さかさまの密室〉とか称して、何のことはない、密室にも何にもなっていない、出はいり自由の建物で殺人が起こるというような内容が書かれてあったと記憶するのだが、あっは、全く『事実は小説より奇なり』という|諺《ことわざ》そのままだね。せめてもの話、架空の小説なのだから、今度の事件と同じ程度に不思議なものを書いておいてほしかったな。……しかしまあ、本人のいない処で文句を言っても仕方がないか。いやはや、何も吾輩はあの小説に対して不満がある訳ではないのだ。むしろ、それだけ今度の事件が不可思議な謎に包まれているということたね。正直言って、吾輩らも全く途方に暮れているのが現状だ。しかしながら、根戸や羽仁の推理のおかげで、徐々に闇の部分が切り捨てられてゆく予感だけはするね」
布瀬はそこで言葉を切ると、ゆっくりジャケットのポケットから、|琥珀《こはく》色のパイプを取り出した。気が向くとパイプに替えるために、いつも持ち歩いているのだ。自家製のブレンドという葉を詰めこみ、パイプ用のライターで火をつけると、忽ち甘い薫りが漂い始める。
「吾輩のブレンドの秘密はね、ほんのすこうしコカの葉を混ぜることにあるのだよ」
嘘か本当か判らないことを言ってみせて、布瀬はいかにも|美味《うま》そうに煙を|燻《くゆ》らせるのだった。
根戸はその時ふと、布瀬を見上げる雛子の表情に、微かな翳がさすのを見逃さなかった。
――パイプの薫りは嫌いじゃないって言ってたのにな。
根戸は考えるともなく、そんなことを頭の片隅にのぼらせていた。
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9 犯罪の構造式
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――ずっとあたしが小さかった頃
と、雛子は考えていた。
そう、もっとずっと小さかった頃、あたしがパパとママの問で、よちよち歩く愛玩動物だった頃、いつも日差しが深く斜めにはいって来る薄闇のなかで遊んでいた。
それはいちばん古い記憶からそうであって、眩しい輝きはいつもあちら側に追いやられていて、あれはミシンの下だったのか、あるいは今はもうないパパの机の片隅だったのか、縦の影と横の影が竹細工のように組合わされた檻のなかで、あたしは仄暗い闇に浮かぶ可愛らしい光のスポットを相手に遊んでいた。だけど、それはとても不安な遊戯だったわ。そう。
あたしは黒ずんだ床板の上に落ちた光の玉をつかまえようと懸命だった。それはゆらゆらと不思議な揺らめきを繰り返していて、きっと裏庭の|金木犀《きんもくせい》からの木洩れ日だったに違いない。けれども決して手のなかに留まることなく、するりするりと逃げてゆくのだった。幼いあたしを小馬鹿にするみたいに、するり、するりと。
あたしにはその時の記憶しか残っていない。|憤《むずか》って泣き出したのか、それともあっさり諦めてしまったのか、とにかくあの遊びをやめたという部分は、あたしの記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっている。とすれば、あたしは今だって、あの光の玉をつかまえようとし続けているのかも知れない。それをやめた憶えがない以上、あの時のあたしであるちっちゃな女の子は、今でもずっと、実体のない光の像を手のなかにつかまえようとして、虚しい努力を繰り返しているのかも知れないわ。
そうだとしたら、これがまさにそうなのかしら。
雛子はふと倉野の方に頭を向けた。さっきからひとことも口をきかずにいた倉野は、呆れたことにすっかりいい気持ちで眠りについてしまっている。自分の推理を覆されて、渋い顔の羽仁がその肩を揺するのだが、一向に反応もなく、楽しい夢路を|彷徨《さまょ》い続けているらしい。
「ちえっ、僕の話なんて、最初っから聞いてないんだから」
「あっはは、その方がよかったのかも知れないぜ」
そう憎まれ口をきいて布瀬は、
「さて、それにしても、闇の部分が切り捨てられてゆくほど、事件の真相の方はますます深い謎に包まれてゆくね。結局は真相を言いあてることは出来なかったが、羽仁の〈虱潰し法〉はかなり正統なやり方だとは吾輩も思う。しかし、それでいてなおかつ駄目だということは、よほど我々の盲点をついたトリックが仕組まれたと言わねばなるまい。……おや、甲斐、何か言うことがあるのかね」
背の低い躯にちょこんと乗っかった大きな頭を気|忙《ぜわ》しそうに動かしていた甲斐は、そう呼ばれてぴたりと頭を据えると、
「ふむ。トリックという奴に関しては、まだちょいと発言権を後の方までとっておくが。……俺の考えているのは動機のことさ」
「ふむ、動機ね」
「そうとも。何にせよ、俺にはこの我々ファミリー以外の人間の仕業だとは考えられん。つまり、羽仁のいう十三番目の〈ユダ〉など存在する筈がないってことだ。……しかし、犯人を我々のなかに求めるとなると、却って殺害の動機というものが不透明になっちまう。となると、俺達ゃ、最初っから振り返って考えなくちゃならないんだぜ。このファミリーの内部の人間関係をな」
「ふむ。そりゃあ一理あるね。よろしい。それでは我々の歴史を再検討してみるかな。確かに、今のファミリーの上っ面の現状だけを見ていたのでは、到底真沼を殺害するだけの深刻な動機は見つかりそうにないからな。……尤も、ひとつだけ、ちょいとしたいざこざはあるが」
と、甲斐と根戸を等分に見較べると、こちらは即座に百も承知という口調で、
「へん、判ってるさ。だが、こいつは生憎真沼の殺害とは関係ないぜ。……さてと、まず十二人全部を郷里別に分けてみると、だいたい六ヵ所になるな。俺と曳間が金沢。倉野と羽仁が神戸。真沼が仙台。根戸が札幌。影山が宮崎で、残りの五人、つまり布瀬、ナイルズ、ホランド、それに杏子さんと雛ちゃんが東京という訳だ。……はてさて、三年前の春の時点で、既に互いに知り合ってたのは、ナイルズとホランド、杏子さんと雛ちゃんは勿論として、幼馴染だという倉野と羽仁、中学の時からのつきあいの俺と曳間だな。……それから倉野が根戸と、次に曳間と、同じF*大のチェス研究会で知り合い、羽仁と布瀬がK*大の探偵小説研究会で知り合った。それが三年前の春から夏にかけての間だ。……夏から秋にかけて、羽仁とナイルズ。根戸は確か、東北の方へ旅行した時に真沼と知り合ったんだっけ。どちらから話しかけたんだ?」
「真沼の方からだ。東北へ行くなら|恐山《おそれざん》にも行かなきゃと思ってね。|麓《ふもと》の店の婆さんに聞いたら、変な方向に行くと道に迷って、二度と降りて来られないなんて|嚇《おど》かすもんだから、心細いままたらたら登ってゆくと、やっぱり同じようにうろうろしていたやつに声をかけられて、それが真沼だったのさ。聞けばあいつも同じ婆さんに嚇かされたんだって、笑っちまったよ」
根戸は懐かしむようにそう言った。
「話を続けるが、これからまたまた時がたち、去年の春に俺がN*美大で杏子さんと知り合った。雛ちゃんもこのファミリーに加わるようになり、驚いたことには、雛ちゃんとこの布瀬が、十年近く前には隣どうしの遊び友達だったんだから世の中判らん。そうして最後の影山だが、布瀬。あいつとはいつ頃だ」
「影山か? 確か去年の秋だったな。同好会どうしの交流で、S*大の影山と知り合ったんだよ。あの時吾輩は『シャーロック·ホームズの探偵法は果たして演繹法であったのか』という話をしたんだが、どういう訳か、あいつはそれを非常に気に入ったらしいんだな。それからだ」
それでも得意らしく布瀬は言って、甲斐の方に視線を返した。
「ふむ。これでファミリーの骨格ができあがったな。図に書いて見ると……」
そこまで甲斐が喋った時、今まで深い眠りのなかにいた筈の倉野が、突如として躯を跳ねあげて叫んだ。
「エクゴニン!」
あまりに突然のことだったので、四人が眼をぱちくりさせていると、倉野は本当に今、眼を醒ましたところらしく、しきりに瞼を擦りながら、少し照れたように弁解し始めた。
「いやあ、御免御免。ちょっと夢を見てたんだよ。……妙な夢。……僕達ファミリーのみんながいてね。僕を交えてお互いに手を繋ぎ、不思議な円陣のようなものをつくって、ぐるぐるまわってるんだ。僕はそれをまた空の上から|瞰《み》おろしてもいるんだけど。……その陣形を、僕はどこかで見たような気がして仕方がなかった。いや、どうやらかなり見慣れたものらしいんだ。……耳許では『はて、これは何でしょう』と、底意地の悪い声さえ聞こえてくる。僕は苛々しながら、その魅惑的な模様を眺めていた。みんなこちらを見あげながら、薄笑いを浮かべているんだよ。……どうしてこんな夢を見たのかな」
倉野が首を傾げると、羽仁がくすりと笑って説明した。
「驚いたね。君の夢には、今僕達が喋っていたことがそのまま反映されてる。僕の推理がコテンパンにやっつけられちゃったので、今度は動機の面から探ることにして、僕達ファミリーの歴史を洗い直してたところなんだよ」
「……そうだったのか。僕って、もう少し自主性があると思ってたんだけど」
「あはあ自主性はよかったね。――で、さっきの言葉は何なの」
「ああ、あれね。いや、判ったんだよ。今考えればあの模様は、僕らが知り合った関係そのままを表わしていたんだけど、それがエクゴニンの構造式に極めてよく似ていることに気がついたんだ」
「何だね、そのエクゴニンってのは」
甲斐が訝しそうに尋ねるのに答えて、
「ふふ。羽仁が視物質の話を始めて、アイオドプシンやロドプシンを持ち出してきたのにはびっくりさせられたけど、その影響もあったのかな。エクゴニンというのはアルカロイドの一種なんだ。アルカロイドという名称は知ってるだろう。天然には植物の体内でのみ生産される、窒素を含む塩基性化合物の総称で、カフェインやニコチン、モルヒネ、コカインなどがこれに含まれる。……こう言えば判りやすいかな。麻薬法によれば、コカイン族の麻薬はエクゴニン、及びその塩、エステル、エステルの塩と明記されている。つまり、コカイン族の最も基本的な物質なんだ。ちなみに構造式を示せば、
<img src="img/hako_08.jpg">
で、このR1,R2の部分がそれぞれHとOHならエクゴニン、COC6H5とCOH3ならコカイン、さらにまた、COCHOHC6H5とOCH3ならシナミールコカインになる。ほかにもこの誘導体として、トロバコカイン、トルクシリン、ヒグニン、クスコヒグニンなどがあり、これらはいずれもコカインの葉に含まれる、昂奮性及び麻痺性の強い物質だけど、そのチャンピオンは何といってもコカインだね。かのシャーロック·ホームズも愛飲したというコカインは非常に強烈な麻薬で、幻覚性が強く、慢性中毒症状はアヘンのそれより|劇《はげ》しいと言われる。極めて微量で特殊な薬理作用を発揮するアルカロイドは、薬理学のなかでもまた、非常に興味ある対象でね。僕は今、その研究をやってるからエクゴニンの構造式などは、しょっちゅうお目にかかっていたという訳だ。……さて、エクゴニンが僕達の関係とよく似てるというのは、図に示せば一目瞭然だよ」
そう言いながら倉野は、先程甲斐が描こうとしていた人物の関係図を、エクゴニンの構造式の横に書いてみせた。
<img src="img/hako_09.jpg">
あッという小さな叫びが、一斉に皆の口からついて出た。
「なあるほど。これは妙だね。するとさしずめ我々は、〝アルカロイドの一族_ってことになるのかな」
自分の推理が否定されてしまったことなどもうどうでもいいらしく、羽仁は愉快そうに言って、
「……それにしても不思議だね。さっきコカの葉の話題も出たんだよ。そうして、このなかに今度の犯罪の秘密が残さず|録《しる》されているというのなら最高なんだけど。……全くもって面白いのは、この構造式には十年も前の布瀬と雛ちゃんの関係までがはっきりと示されてるっていう点だね。因果は巡るっていうのか、杏子さんを通じて雛ちゃんがファミリーに加わって、そうして布瀬と雛ちゃんが十年前には一緒に遊んでいた近所どうしの遊び友達だったと判った時には、僕も全く世間は狭いと痛感したものたったけど。……あはあ。その頃は布瀬もさぞ可愛らしい少年だったんだろうね。想像がつくよ……」
雛子はふと、胸の奥にひっそりと飼い馴らしてきた蜜蜂のような小さな虫が、急に脅かされたように騒ぎたてるのを感じていた。
そうだ。その頃のことは、今でもはっきりと憶えている。今はもうすっかり変わってしまったけれど、布瀬さん――ではない、あの頃のテイちゃんという名の少年は、確かにあたしのお兄さんでもあり、また王子様でもあったのだから。
その時既に、この世界のかたちは異様に|捩《ねじ》れ、時間と空間はたやすく分離し、その繋がりを逆転させてゆこうとしていたのだろうか。雛子の眼の前で、時間はからからと十年前にまで逆行してゆくように思われた。それは後ろから髪の毛をひっぱるようにして、|否応《いやおう》もなく雛子を呑みこんでいった。きっとあの蜜蜂のせいだわ、と雛子は考えた。
それはほんの、半年足らずの間だった。後から考えあわせてみれば、それは年若い叔母の杏子が下目黒に来ることになった、ほんの少し前の頃だった。引越して来て半年間だけ隣に住んでいた家の子供。それが布瀬呈二だった。
その頃、彼は色の白い、背の高い少年だった。雛子がまだ小学校の一年の時だったから、特に背が高く思われたのかも知れなかったが、確かにそのテイちゃんと呼ばれる少年は、雛子にとって、高い処から手をさしのべてくれる[#「高い処から手をさしのべてくれる」に傍点]存在だった。半ズボンから伸びる硬さと敏捷さの融けあわされた不思議な曲線も、決して雛子の周囲にいるほかの者にはないものだったし、あどけないようでいて、やはりどこかしらおとなびた匂いのするその笑顔も、それまでの雛子の世界には見出だすことができぬものであり、ましてそのまねなど、幼い少女には到底できる筈がなかったのである。少年は、そういう不思議な、新しい、手に届かないものをいっぱい身につけていて、少女の眼の前で惜しげもなくそれらを振り撒いてみせるのだった。少年がその頃から興味を持っていて、いろいろひとりで調べていた〈魔法〉という言葉を、少女はしょっちゅう聞かされていたが、少女にとっては少年の存在そのものこそが、ほかならぬ〈魔法〉だったのかも知れなかった。
少年は様ざまのことを教えてくれた。虫はその足で音を聞いているのだということ。世界じゅうどこを捜しても緑色の花だけはないのだということ。ダイヤモンドと石炭は、実は同じものでできているのだということ。犬は人間の耳に聞こえないくらい高い音でもちゃんと聞こえ、蜜蜂は人間の眼に見えない光でもちゃんと見えるのだということ。悪魔はもともと天使の仲間だったということ。深い海のなかでも地上と同じように雪が降るのだということ。舞踏病という、二日じゅう踊り狂う病気があるのだということ。その昔、ムウと呼ばれた大きな国が海の底に沈んでいったということ。月からの光は地球まで一秒と少しかかってやって来るのだということ。太陽からは八分と十九秒、北極星は千年前の光を我々に見せているのだということ。望遠鏡で見られる星のなかには、それどころでない、何万年、何百万年、何億年の昔の姿しか見せないものがあるということ。
そうして、その数限りない星ぼしのうちには、必ず地球と同じように人びとが住んでいるものがあるのだということ。
少年の話はどれもこれも、少女の胸をときめかせるに充分の魅力を持っていた。そして少女に探偵小説の魅力を教えたのもまた、少年だった。ふたりがよくした〈探偵ごっこ〉という遊びは一種の隠れんぼで、この時も少年は、瞬く間に魅惑的な探偵に、そして犯人になりおおせてみせた。
少女はいつも少年を追いかけていた。|黄楊《つげ》の|生籬《いけがき》を抜け、|枹《こなら》の林のなかへ。そのあたりはふたりの秘密の場所で、少年の星図表も様ざまな色のまるい硝子の破片も、ちゃんとある処に隠してあった。|欅《けやき》から|楓《かえで》、そうして
|公孫樹《いちょう》の下。少女は少年を追いかけていた。しかしやはり少年は、やさしく手をさしのべることも忘れなかった。めくるめく夏の光のなかで、給水塔から倉庫の裏、そうして材木の山を通り越して、ふたりはどこまでも走ってゆき、駆けてゆき。
そうして夏も終わろうとしていたある日、突然に少年はいなくなった。
それはやはり、ひとつの〈魔法〉のように思われた。あれほど|目映《まばゆ》く繰り展げられた〈魔法〉はそこで終わりを告げ、入れ違いに年若い叔母が下目黒の家にやって来ることになった。雛子の母の妹である杏子は、富山の方にある実家で両親を亡くし、姉の家に引きとられることになったのだった。そうして雛子にとって、叔母というより姉に近い存在の杏子の出現によって、もうひとつの新しい季節が始まることになる。
時間はゆっくりと十年の昼と夜を刻み、そうして雛子は、ひょんなことから布瀬に再会したのだった。布瀬はすっかり変わっていた。面影はどこかしら残ってはいるものの、気障っぽい髭や気取った口調は、決してテイちゃんと呼ばれる少年からは想像できるものではなかったし、あのまねのできなかった不思議な笑みは、神経質で皮肉なそれに、見事に置き換えられてしまっていた。魔法に関する知識はあの時とは較べものにならないほど蓄えられたことは判っているが、雛子にはどうしても布瀬の躯から、あの頃の少年の持っていた|芳《かぐわ》しい香りを感じ取ることができなかった。
しかしこの見事な変身を、雛子は決して〈魔法〉だとは思わなかった。
雛子にとっての〈魔法〉は、やはり既にあの晩夏の一日を境として、終わりを告げてしまっていたのである。
[#ここから3字下げ]
10 牙を剥く悪意
[#ここで字下げ終わり]
「しかし一体、そのエクゴニンとやらと、今度の犯罪とは、どういう関係があるんだ」
溜息さえつくようにして、甲斐が切り出した。
「ナイルズの小説に|倣《なら》って、今度の事件もやはり連続殺人で、第二の殺人は、そのエクゴニンを使った毒殺という趣向で行なわれる訳でもあるまい。俺達にゃ、到底そんな薬品は手にはいらないし、もし手にはいるとすれば薬学部にいるお前くらいのもんだぜ。あまり意味もないこじつけはよして、人物関係だけに視点を絞らんとな。問題は真沼を巡っての、裏の人間関係なんだから」
これには倉野も反論の余地などなく、
「そう言われれば全くその通りさ。夢のなかでの大発見も、結局意味のない暗合にしか過ぎなかったか。……しかし、真沼が殺される理由なんて、僕にはたったひとつしか考えられないよ。……おや、意外そうな顔をしたね。判ってるんだろう。真沼が殺されるとすれば、それは真沼自身の美貌と拘ってこない筈がないじゃないか」
倉野が言うと、羽仁もそれに加わって、
「それは僕もそう思うな。だいたいからして、金銭関係のいざこざなんてのがある訳がないんだから、動機はやはり精神的、あるいは形而上的なものでなくっちゃいけない。倉野が考えてるのは〈美少年ゆえの悲劇〉ということなんだろうけど、それは確かにあり得ないことじゃないよ。……犯人はひそかに真沼に恋焦がれていた。ある日ぷっつりと糸が切れたように、犯人は逆に真沼の殺害という方向に熱情を傾けるようになる。真沼を自らのものにするために。……舞台は密室。しかし真沼の醜い|骸《むくろ》を皆の眼の前に晒したくはない。そうするといっそのこと、犯人自身だけでなく、真沼の躯も現場に残さない方がいい。……真沼を完全に自分のものとする儀式として、それは行なわれた。……そうだよ。これならまさにぴったり説明がつく。真沼の屍体を何故持ち去らなければならなかったかもね」
そうひと息置いて、
「しかし、持ち去った躯をどうしたのかという点になると、これはどう考えればいいのかな。……まさか乱歩の『虫』のように、なんて考えると、ちょいとぞっとさせられるけど」
「しかしそう考えても、やはり何も判らないね。犯人が男であるか女であるかさえ判らない」
妖しい空想を振っきるように倉野は言って、
「ただ動機や犯行方法が何であるにせよ、雛ちゃんが犯人だとはまず考えられないね。……どうしたの、雛ちゃん。さっきからいやに黙りこくってるけど」
雛子は慌てて、
「別にどうって。……面白く聞いてるわ」
そう言って、愛くるしい微笑みを浮かべてみせた。そういえば、少しふさぎこんでいるように見られたのかしらと、何故かひやりとさせられたのだが、意外に自分でも陽気らしい言葉がするすると口からついて出、それは雛子をほっと安堵させた。