「でも、それによって犯人が判らないんじゃ仕方がないわ。それより、みんなの血液型を調べた方が、推理のたし[#「たし」に傍点]になるんじゃないかしら。……あの鏡についてた血が、本当に真沼さんのものかどうかは判らないんでしょ。屍体も一緒に消え去っていれば、みんな今度の事件を警察に知らせる筈がない。犯人にその計算があったのなら、そうして殺人方法の都合であれが真沼さんの血液じゃないとしたら、犯人は自分の血液をあそこに振り撒いたのかも知れなくってよ。……実際に倉野さんが血液型を調べるなんて、犯人側の盲点にはいってたってことも、充分に考えられると思うんだけど」
「ふうむ。それにもまた一理あるね。……それでは御参考までに。僕はO型だよ」
倉野が言うと、次に羽仁が、
「僕はB型だ。根戸もそうだったね」
「ふむ。吾輩はAB型だ。AB型がひとりくらいいないと面白くないだろう」
皮肉っぼく布瀬が言うと、
「ふむ。俺は残念ながらO型だ」
甲斐がやり返して、
「おっと、忘れちゃいけない。雛ちゃん、『鏡の国のアリス』にもあっただろう。『わたし達のほうから始めるのは礼儀じゃない』と、薔薇の花に言われた筈だぜ」
言われて雛子は、
「あら、御免なさい。あたしもAB型なの」
「よしよし、それではほかの者だが、俺が知ってるのは曳間がA型というだけだがね」
「血液型の話をした時、みんなに訊いてみたことがある。杏子さんもO型だった。あと、ナイルズとホランドはA型。影山は知らないが……」
倉野が言い澱むと、布瀬がそれに代わって、
「B型だ」
と、ぶっきらぼうに答えた。そうすると甲斐が、
「よろしい。これで全員だな。結局、AB型は布瀬と雛ちゃんだけか。……ふむ。しかし血液型の話はこれくらいで打ちきろうぜ。そのうち倉野が、血液学の知識を披露し始めるに決まってるからな。全く、|街学《げんがく》趣味のやつはこれだから始末におえん。推理の筋道を辿ることもせず、ただその周りを賑やかに飾りたてるだけなんだからな」
背中をぐいと伸ばし、部屋のなかを歩きまわりながら、|鷹揚《おうよう》な口調で言い続けようとするのを、その時布瀬は、吸い終わったパイプの灰をぽんと灰皿に落としながらさし止めた。
「ははん。しかし、実際のところ、偉そうな口を叩く割には、お前がいちばん何の推理も口に出しとらんだろう」
甲斐はぴたりと足を止めると、布瀬の方を振り返って、
「ふん。俺は軽がるしく推理を口に出さないのさ。俺の灰色の脳細胞では、着々と事件の謎が解剖されつつある」
そこで布瀬は、|怺《こらら》えきれぬように小さく吹き出した。
「本当かね」
そのひとことは、見事に甲斐の表情を一変させた。見る間に顔が紅潮し、逆に青筋がくっきりと浮かびあがる。
「どういう意味だ」
|痰《たん》を|咽《のど》にひっかけたような、低い声だった。雛子は一瞬いけない、と思った。しかし布瀬は皮肉っぽいにやにや笑いを浮かべたまま、飽くまで甲斐の自尊心を逆撫でするように言葉を続けた。
「どういう意味もこういう意味も。一体お前さんには何らかの推理がついとるのかね。言っちゃ悪いが、どうもその糸口さえ見つからんのが本音ではないかな。……あっはっは、ホラホラ、いかんいかん。それそのように怒るのが、まさにそのことを証明しているぜ。推理ができてるなら、何もそれほど怒らずともよかろう。……ふふん。別に正直に言ったっていいだろうよ。そのくせ、他人の推理にいちゃもんばかりつけるのは、ちょいとお|門《かど》違いではないかね」
皺の多い額に、さらに深い皺がいくつも刻みこまれた。眼をいっぱいに見開いて、甲斐は微かに顫えている。ほかの者は呆れた顔で、この突如の展開を眺めるばかりだった。雛子は甲斐のぎらぎら血走った眼のなかで、理性が急速に失なわれてゆく様を見たような気がした。
「な、な、何だと」
「あっは。聞こえなかったかね。……いいかね。お前さんは気に喰わないらしいが、今度の犯罪は卑しくも探偵小説狂揃いのまっただなかで行なわれたものなんだぜ。結論を急いで五里霧中になるよりは、じっくり腰をおろして、事件の外貌に表われた暗合でもひとつひとつ検討してゆく方が、よっぽど得策だとは思わんかね。……お前さんは違うのだろうが、犯人が洒落好き、暗合好きたという可能性の方が、余程大きいのだぜ。……まあ、尤もお前さんが犯人ならば、何もこんなに七面倒な推理較べなどすることもないんだがね。ふふ、そう言えばさっき、犯罪の原因は真沼の美貌だったという話が出たが、その線で行けば、お前さんが犯人である可能性も、これまた大きいと言わねばなるまいな」
「何を! お、俺にはそんな趣味はないッ」
唾を散らして|喚《わめ》く甲斐に、しかし布瀬は笑いながらとどめを刺した。
「そんな趣味はなくともね、逆のことが考えられるのだよ。つまり、犯人は真沼の美貌を|妬《ねた》んでいたんだとね。類い稀な美をその身に生まれながらにして持つ者を、彼は赦すことができなかったんだな。だとすると、その場合、犯人に該当するのは、甲斐、まさにお前さん以上にぴったりした人物はほかに存在しないのではないかね」
甲斐の青筋は恐ろしいほどにムクムクと膨れあがった。躯全体が宙空に伸びあがったかと思うと、何度も細かい|震顫《しんせん》が走り抜ける。なす術もなく瞶めていた残りの四人にも、はっきりと甲斐の歯を噛み鳴らす音が聞こえた。
空気が微かに揺らめくほどの数瞬の後、甲斐は突然、びんと弾けとんだかと思うと、あっという間に扉の方に突進した。ガーンという凄まじい音をたてて扉が鎖されると、もうそこに甲斐の姿はなかった。
「どうしたっていうんだい。言い過ぎだよ。あれは」
ややあってようやく根戸がそう口を開くと、布瀬は一向に構わない様子で、
「いいんだ、いいんだ。あいつにはあれくらい言っておいても」
「ねえ布瀬」
遮るように倉野が口を出した。
「君は何かを知ってるんじゃないか」
布瀬はここに至って初めて、大きく眼を見開くと、
「へえ! 知ってるって、何をだね。吾輩は何も知らないんだぜ」
「しかし、それにしても妙だな。……例えばあのナイルズの小説にしたってそうだけど、あのなかの甲斐の描写がどうも解せないんだよ」
「ああ、それは吾輩もそう思うね。なぜあいつに関してだけ、まるで違った人格のように描いているのか」
「うん。それから描写も勿論だけど、僕がいちばん気になるのは、ナイルズが甲斐から『花言葉全集』を受け取るという場面だね。あそこはどうもひっかかって仕方がないんだ。あの小説には現実の出来事も、ちょこちょこ使用されてて、あの本を甲斐が見つけてナイルズに買ってやったのも実際のことだと聞いたんだけど、あのあたりの描写の何か……こう、奥歯にものの挟まったような言いまわしは、何かを仄めかしているとしか思えないんだけどね」
「ああ、あれか」
意味ありげに頷いた布瀬は、
「あそこの暗示は、だいたい見当がつく。……ふむ。ごくつまらないことだがね。そうか。お前は気がついてなかったのか」
倉野は、これにはやや驚かされた様子で、
「何だい。それは一体」
「実は甲斐の奴、万引の常習犯なんだぜ」
こう言うと布瀬はぐいと躯を乗り出して、
「吾輩も一度目撃したよ。恐らく曳問は昔から知ってると思うね。……あの小説のなかにあっただろう。裏表紙の見返しに、古本屋の価格用紙がはぎとるのも忘れられたように糊づけされたままだったと。吾輩は現場を見ておったから、すぐにピンと来たね。ナイルズも判って書いたに違いないのだよ。あっは、とすると、あいつもなかなかに|眼敏《めざと》いところがあると言わねばならんだろうな。……つまりナイルズとしては、古本屋で買ってきた本に、価格用紙がついている筈がない。つまり、店の者が見ていない隙に、ちょいと拝借|仕《つかまつ》ったものである、ということを仄めかすつもりで、あんな描写の仕方をした訳だ。その前にも、甲斐の部屋にあるふたつの木椅子は、近くの小学校から失敬してきた戦利品だと書かれてあったが、要するにあの|件《くだり》は、ナイルズから甲斐への、一種の忠告文の役割も果たしていたのだよ。……ふふん、何とも奥床しく、心優しい忠告だが、いかんせん、相手があの甲斐ときた日には、そんなものが通用する筈がないと言って間違いなかろう。尤もうあいつにとってこのことは、さほど不幸なこととは言えんだろうな。だいたい、こそこそと万引などで適当にスリル e磨Bわっとる奴に、今度のように玄妙不可思議な犯罪を計画し遂行することなんぞ、できる筈がないのだからね。……あっは。奴さん、えらく激怒して帰っちまったが、むしろ今度の事件に関する嫌疑が晴れたことについては、喜ばなくてはならんのだがな」
布瀬は愉快そうに言って、二服目のパイプに火をつけた。
「はあ、そういうことだったのか。まるで気がつかなかったな」
面目なさそうに倉野は頭を掻いた。
「そうすると、あの『いかにして密室はつくられたか』には、そんな感じで、各人へひそかなメッセージが織りこまれてるのかも知れないね。……あはは、これはどうも心配になってきた。あの最後の一節のなかで、ナイルズが僕に、倉野さんのことだから、もうとっくの昔に真相を見破っていただろうと語りかけるシーンがあったけど、僕は勝手に、僕の探偵としての能力を高く買ってくれてるんだろうと、自分に都合よく考えてたんだ。あれもひょっとすると、お前さんは小説を読んだ上で犯人を当てるのはお得意のようだが、いざ現実の事件となると、まるで手も足も出ない人間だという皮肉だったのかな。だとすると、僕はナイルズの|炯眼《けいがん》に感心せざるを得ないね。実際にこの今、僕はやっぱり五里霧中もいいところだから」
倉野が言うと、根戸も鼻の頭を指で掻いて、
「あはあ、そう言うなよ。こっちが厭になる。なあ、羽仁」
「全く」
羽仁は苦笑を浮かべながら、
「とにかく、こうなったらただひたすら、今度のことが総て、真沼の狂言であってくれることを願うだけだよ」
「本当ね。でも」
雛子がようやくそう言いかけた時、突然扉の方でカチャリとノブをまわす音が聞こえた。
五人は同時に、それが真沼であってくれればという想いを抱いたようだった。それとも、さっき席を蹴った甲斐が、再び戻って来たのかとも思われたのだが、案に|違《たが》って扉から現われたのは杏子だった。
「やあ、杏子さん。遅かったねえ、もう十時に近いじゃないか」
根戸はそう呼びかけて、手を挙げようとした。
しかし、杏子はにこりともせず、じっとこちらに視線を送るだけだった。
「どうしたの。ああ、そこで甲斐に遇わなかった?」
その言葉にも無言のうちに首を振っただけで、杏子はゆっくり雛子の方に近づいてゆく。
杏子のただならぬ様子は、今や誰の眼にも明らかだった。頬も蒼褪め、風に乱されたのだろうながい髪にも気を遣わず、杏子はゆっくり雛子の前に立った。ほんの二、三秒の間だったが、一同は訳の判らない不安にかられて、そっと互いの顔を見合わせた。
「雛ちゃん」
「なあに」
恐る恐る雛子が尋ねると、
「いいわね。気を|鎮《しず》めて、落着いて聞いて頂戴。……姉さん達……いえ、あなたのお父さんとお母さんが、今日、あちらで亡くなったという連絡がはいったのよ」
不意に、死んだような沈黙が降りた。
おとなしさを装らいながら機を窺っていた現実が、いきなり牙を剥いて襲いかかってきた。彼らは確かに、そのヴィジョンをありありと見た。白っぽい部屋が、瞬く間に赤黒く変色し、軟体動物のような|悍《おぞま》しい形状を露わにして、ゆるゆると雪崩れ落ちてくる。彼らはしかし、それを眼の前にして、ただ凍りつくしかなかった。現実の血を見るよりも、それは彼らの前に、鮮やかな殺人劇として映ったのである。
果てしない沈黙。
そしてそれは、決して回復されないもののように思われた。微かな耳鳴りの続く、ながいながい沈黙。
しかし実際は、雛子が、嘘! と叫んで激しく泣き出すには、それほどの時間はかからなかった。
杏子の足元にしゃがみこむようにして、いつまでも泣き続ける雛子は、最早アリスでも何でもない、ただの十五歳の少女としか映らなかった。
* *
そして再び、瞬く間に一週間の時が流れた。依然として真沼は姿を現わさず、悪意はまたぞろ|静謐《せいひつ》さを取り戻した世界の片隅に滑りこんでしまい、一向にその正体を見せないでいる。事故で亡くなったという雛子の両親の葬儀も滞りなく終わり、今は残されたふたりして喪に服しているということだった。謎は謎として残されたまま、そのような情況を噛みしめるほかない彼らの上には、笑うように、|蔑《さげす》むように、ぽっかりと歯の抜けたような時間が流れていた。
ながい、さかしまの時間のようでもあった。
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三章
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1 扉の影の魔
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「しかし、まさかなあ」
溜息まじりに呟く倉野の方に首を曲げると、ただそれだけでその言葉の意味を察知したらしく、ナイルズは少し眉根を寄せた。
「まさか、あれが起こるべくして起こった事件だとは思えないし。とすると、ただただ単純に、あれはマックスウェルの悪魔の成せる|業《わざ》だったというのかな」
走り過ぎる街並を、結晶とイオンの|拉《ひさ》ぎ合いのように眺めながら、ナイルズは答える言葉を持てなかった。小さな雛子の背中が、ちらりと脳裡に浮かんだが、それも瞬く間に、外の景色と同じ速度で流れ去った。
そんな馬鹿な。
ただそれだけの言葉すら、もう口にのぼらせる気もしない。効力を失った呪文と言えば聞こえはいいが、しかしなおかつ、それに|縋《すが》らずにはいられない自分が情なかった。今はただ、座席の温もりが有難い。いや、それは温もりという程度を越えたものだったが、ナイルズはまだ微かに|顫《ふる》えてさえいた。
真沼があれっきり姿を見せないことは、まあいいだろう。しかし、雛子の両親の悲報は、どうあっても、偶然のひとことではすませられない。そういえば、この事件は最初から暗合のようなものが多すぎた。そしてその疑いは、ナイルズの隣に力なく腰かけている倉野にしても同じ筈である。まして、当の本人でない立場からすれば。
「君の小説が書きあげられた日は別としても、僕が読んだのは、確かに、報せのあった前の日だったものね。これは一体何だろう。デルポイの神託だね。何だか僕には、今度の事件のいちばん奥底にある部分は、永久に解決されないで終わってしまうのではないかと……」
「それは」
と、反射的に答えて、ナイルズは片頬を擦った。
「僕にしても同じだよ。時どき変な強迫観念に襲われちゃうんだ。今度のことは、総て僕、いや、僕の|分身《ドッペル·ゲンゲル》の仕業じゃないかって。僕の頭のなかには、もの凄い殺人狂的な部分があって、そいつが突然、ひょいと抜け出して、曳間さんを|殪《たお》し、今度はひととびにヨーロッパまで|赴《おもむ》いて、雛ちゃんの両親の乗る車に、事故を起こさせた……」
「いや。そんなふうに考えるのも無理ないかも知れないね。確かに、不幸な偶然が重なり過ぎたよ。まあ、あまり気に病まないことだね。今度のことで、筆を折ったりしないように。期待してるんだから」
「うん。それは勿論だけど」
ぽっと明るい表情に還ると、ナイルズは細い髪を掻きまわして、視線を車内に泳がせた。それでも、微かな膚寒さは、まだナイルズに|纏《まと》わりついていたのだが。
「それで、倉野さんはどうなの。事件の解決はまだつかない?」
「うん、推理較べはいよいよ明日だね。どうも自信はないけど、一応、考えつくした結果の、ひとつの説は持つことができたよ。同時に、犯人の頭のよさにもほとほと感心している。全くのところ、今度の殺人に使われたトリックは、ほかの情況では殆ど意味をなさないものだけど、これが探偵小説狂である我々の眼の前で行なわれた途端、恐ろしい威力を発揮する仕組みになってたんだ。……おっと、いけない。詳細は明日だ。……尤も、推理較べは多分、延期になるだろうけど」
ひとり頷いた倉野は、
「そういえば、『黄色い部屋』にも、新しく鬼の人形が仲間いりすることになったそうだね。事件そのものには関係がないくせに、どうもやけに最近鬼ついているのはどういう訳なんだろうな。……あはは、いっそ、総て鬼の仕業だった、なんてことにした方が面白いかも知れないね。易術の方では、百鬼夜行日などというのがあるらしいけど、ひょっとして、調べてみたら、あの七月十四日がまさにそうだったかも知れないよ。今度根戸に確かめさせておこうか」
「百鬼夜行ねえ。……でも、あれは白昼の凶行だったじゃない。真昼間にのこのこ地上に姿を現わす鬼なんているかなあ」
「それもそうか」
半分気の抜けた笑いを笑うと、倉野は再び黙りこんだ。
沈黙がくると、ナイルズの脳裡にはまたぞろ雛子の背中が浮かんだ。遺体は送られて来るのだろうか。葬儀は一体いつになるのだろう。いや、それよりも先に、雛子はこれからどうなってしまうのだろうか。様ざまな疑問が不安と一体になって、ナイルズの頭のなかを駆け過ぎてゆく。|悼《いた》みの言葉も満足にかけてやれなかったのは、あの背中のせいだったのだろうか。静かな、ながい溜息を吐くと、ナイルズは少し、脣の端を噛んだ。
「でも、……そうだね。この事件は、鬼とは言わなくても、何か人間ではない魔性のものの仕業かも知れないな。そうだよ。勿論、今度のことは曳間さんが殺された事件とは関係ないことは判ってるけど。……とにかく、たったひとりの人間のために、総てがなし崩しになるなんて、僕は我慢できないよ。今頃になって、真沼さんの言った言葉の重さが身に沁みるなんて、全く迂閥な話だけどさ。本当に、この上連続殺人なんかが起こっちゃたまらないな。真沼さんもあれ以来、二週間近く姿を見せていないけど、一体どうしてるんだろう。……もし真沼さんが、どこかで屍体となって発見されでもしたら、僕はどうすればいいのかな。そのときは本当に、小説なんて、もう書けないよ」
「ナイルズ」
倉野は少年の首の後ろに手をまわして、頭を自分の方に抱き寄せた。顔は正面を向いたまま、そうやって頭に腕を巻きつけていると、微かに躯の顫えが伝わってくる。
「ナイルズ。お前、泣いてるのか」
囁くように言うと、
「ばか、泣いてなんか、いないよ」
ただ寒いだけなんだ、と、それだけは言葉にならず、ナイルズは倉野に|凭《もた》れかかったまま眼を閉じた。
乗客は停まる駅ごとに少しずついれ換わり、そして彼らの眼には、ただでさえ暑い夏の昼日中に、電車のなかで肩を寄せあっているこの青年と少年が、幾分奇異な存在に映ったかも知れない。
時間はゆっくりと、糸車のまわるように流れていった。その向こう側で、牙を|剥《む》き始めた何物かが、息を殺してこちらの気配を窺っているのだろう。その想いは、既に皆の間に共通のものとなっている筈だった。
悲報は、二十八日の午後にはいった。ギリシャのとある街道で、その交通事故は起こったのだった。
運転手は即死。雛子の母親は打撲傷と擦り傷ですんだのだが、父親の方は重体のまま病院に運びこまれた。早急に手術がとり行なわれ、その輸血には夫人の血液も使われるなどうできる限りの手はつくしたということだったが、何せ内臓破裂の上に、砕けた骨盤の破片が大動脈をつき破るという事態が重なり、血管|結紮《けっさつ》が万全に施せないままの何時間かの手術中に、甲斐虚しく息をひきとったのだった。夫人の方はさらにその数時間後、病院のバルコニーから墜落死するという、事故だか自殺だか不明のままの最期を迎え、そうして結局ふたりは、文字通り不帰の客となったのである。
何物かが牙を剥き始めたことは知れても、遠い海の向こうの出来事とあっては、その正体をひとりの人間に託すこともならず、彼らのなし得ることは、ただ泣きじゃくる雛子を|宥《なだ》めることでしかなかった。着実に襲いかかってくる姿なき怪物の前では、彼らはあまりに無力なのだ。だから、その悲報の伝わる前に、既にナイルズの『いかにして密室はつくられたか』の二章の末尾までを読みあげていた者にとって、今度の事故は、ナイルズがあの小説を書いたせいで起こったとする方が、余程納得がいっただろう。いや、実際彼らの心情は、ややもするとそちらに傾きそうになる。荒唐無稽なこじつけ[#「こじつけ」に傍点]だとは判ってはいても、突然に降って湧いたこの悲惨な出来事は、そのこじつけ[#「こじつけ」に傍点]以上に非現実的なこととしか思、尾ないのだ。まして、曳間の死の場合と違って、それにただひとつの〈理由〉もつけることが|適《かな》わぬ類いの死であるからには。
――そうだ。何かに似てると思ってたけど、真沼さんのあれ[#「あれ」に傍点]なんだ。他人に思考を盗まれるという妄想にそっくりじゃないか。
しかも、とナイルズは考えていた。
――あれは、何の本で読んだんだっけ。精神分裂病者の典型的な妄想のひとつが、まさに他人に思考を盗まれるというものだった。そうすると、これは一体、どういうことになるのだろう。真沼さんは少しずつ分裂病に冒されていて、時どきああやって、その徴候が現われているとでもいうのだろうか。羽仁さんの発作も|癲癇《てんかん》の一種かヒステリー性のものだろうし、そもそも探偵小説狂であれ何であれ、マニアと名付けられるものは、文字通り狂気の現われに違いない。あるいはひょっとすると、雛ちゃんの両親が亡くなったこと自体、僕の妄想だったとしたら。ああ、そうだ。何もかも一切合財、僕の妄想に過ぎないとしたら。――そんなふうに考えてゆくと、僕らファミリー自体が、精神病患者の集まりのようにも思えてくる。そしてそのなかの、たったひとりの正常者を、僕達は追い求めているのだとすれば。
ふと何かが判りかけたような気がした途端、|忽《たちま》ちもとの不可解な渾沌が、頭のなかを覆いつくしてゆく。そのもどかしい繰り返しを、ナイルズは忌々しく意識していた。
倉野は、眼を|瞑《つむ》ったままそんなことを考えているナイルズの顔を覗きこむと、再び窓の外に視線を戻した。電車は、目白駅のプラット·ホームに滑りこみつつあった。
もうここ一ヵ月近く、雨は一滴も降ったことがない。
そしてこの先も当分降雨の気配のない晴天が、雲ひとつなく、どこまでもからんと展がっていた。空だけを眺めていると、そのなかへまっさかさまに落ちこんでゆきそうな、あの青空だった。しかし、その晴天の続き具合からして、それほどの猛暑でもないのが奇妙といえば奇妙だった。気温はあの事件の起こった七月十四日に突発的にあがり、それ以降はまた、気象庁の長期予報通りの冷夏が続いている。とすれば尚更、あの大きく逸脱した十四日の猛暑は何だったのか。ナイルズは倉野の住居までの道のりを歩きながら、そんなことを考えていた。
「ねえ、倉野さん。あれは何の話だったっけ。気温がどんどんあがっていって、ある温度に達した時、人間は最も殺人を犯し易くなる。だけど、その温度を越えると、今度は逆にその気力も失せてしまうという……」
半歩ほど前を歩いている倉野に呼びかけると、彼は首も動かさず、歩道の先を鷹めたまま答えた。
「ブラッドベリだろう」
「ああ、そうか」
頷いてナイルズは、もう一度、墜落しそうな蒼穹に眼をやった。焦点距離をどこにとっていいのか判らない、深い青が展がるばかりだった。
「何か大きな錯覚があるに違いないんだ」
「え?」
今度は倉野は、怪訝な表情を隠さず振り返った。
「錯覚って」
「だってそうだよ」
ナイルズは、ひっかかりそうになる息を呑みこみながら、
「そうでなくちゃ、こんなに様ざまのさかさまが浮かびあがって来る筈がないもの。きっと僕達は、大きな錯覚に捉えられてしまってるに違いないんだ。そうだよ。機械的に推理を押し進めていけば、犯人の名前を差すことはできるかもしれない。でも、曳間さんを殺さなきゃならなかったような動機までは、どうしても指摘できるとは思えないんだ」
「急に何を言い出すのかと思えば、君の頭を悩ませているのは、要するに動機捜しかい」