饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」

「ちょっと待て」

 急に歩を留めた倉野に、ナイルズは思わずぶつかりそうになった。人差指を脣にあてて、大きく眼を剥くと、

「そうか、あれは動機づくり[#「動機づくり」に傍点]のために書かれたのか」

「ああ、そうだよ」

「ははあ、こいつは驚いた。これもひとつのさかさまなんだね。何。現実にはなかった動機を、架空の小説の上でつくりあげてしまおうというのかい。ははあ、僕は、もうひとつのことだけは判ってたんだけど」

「え、なあに」

 はっとして倉野の顔を瞶めると、

「ワトソン捜しだよ」

 こともなく言われて、ナイルズは、

「あれえ。そこまで判ったの。倉野さん、凄いや。ああ、これは僕の完敗だなあ」

「とんでもない。凄いのは君の方じゃないか。……君はそのうち、大天使ミカエルのように、僕達総てを小脇に抱えこんで、どこかの王国にでも連れていってくれるんじゃないかな。いや、冗談じゃなく、僕は本当にそれを願ってるよ」

「ああ。何ていう言われようだろ。再起不能だよ」

 仮舗装の終わったらしいアスファルトの道路をかんと蹴って、ナイルズは先を急いだ。恰度そのあたりが『ルーデンス』の向かい側。つまり、布瀬の目撃した白昼夢の現われた地点だった。

 今は、車も人も緩慢ながら絶え間なく流れ続けているのたが、これがはたとやんだ時に、どこからともなくあちらの世界の住人が姿を現わすというのだろうか。

「そういえば、『いかにして密室はつくられたか』の二章の殺人劇には、血塗られた方形の鏡が登場するけど、ひょっとして、犯人は、鏡を通してこちらの世界とあちらの世界を往き来したんじゃないだろうね、あはは、問題はその不思議な能力が、物理学によるものなのか、心理学によるものなのか、それともやはり|悪魔学《デモノロギー》的なものによるものなのか、といった点にあるのかな。とにかく、どんな分野から見ても、鏡というのは、一種不可思議な存在だからね。

「実を言うと、僕もずっと小さい頃、鏡の不思議さに取り憑かれた頃があったんだよ。まず判らなかったのは、鏡の像は右と左が反対に写るけれども、なぜ上下が反対には写らないのだろうという、素朴な疑問だったね。もう少し大きくなった時に抱いた疑問というのは、ほら、鏡をこう、二枚向かいあわせに並べると、鏡自身の像がずうっと無限に続いて見えるだろう。僕にはあれが不思議でねえ。あれほど簡単な方法で〝限りないもの_をつくり出せるというのが、どうしても納得できなかったんだ。さて、僕が幼い頭をひねくりまわしていたのは、あの無限に続く像は、鏡を向かいあわせた瞬間に、ぱっ[#「ぱっ」に傍点]と一瞬のうちに現われるのかという疑問だったんだ。だって、小さい小さい像になると、それは二枚の鏡の間を、光が何度も往復して、初めて結ばれる筈だよね。しかし、その頃僕は、光の速度は有限だってことを何かで読んで知ってたから、どうしても、大きい像よりも小さい像の方が、時間的に後に現われなくちゃならない。

「そうすると、こうなんだね。鏡を二枚、ぱっと向かいあわせる。そうすると、まず最初に、互いに相手の鏡の像が写る。次の段階でそれが再び互いに写し出され、相手の鏡の像のなかに、自分自身の像が写る。そしてそれが繰り返されて、次々に鏡の像の数が増えてゆくんだ。僕が顫えるような昂奮を覚えたのは、極めて精密なスロー·モーションで見れば、そうやって鏡の像が増えてゆく様が見られる筈だということだった。いや、何もスロー·モーション·カメラなど持ち出さなくてもいい。鏡を向かいあわせて、こう、じっとそれに見入っている、その瞬間にも、ずうっと奥深く、何億何兆という鏡の向こうで、新らしい鏡の像が次々とつくられている、そのヴィジョンが、何とも形容できない昂奮をかりたてるんだ。それだけで僕は、その無限の鏡像の重なりのなかを|彷徨《さまよ》ってでもいるような気持ちになったものだよ。言わば、僕にとって、鏡はひとつの別世界への扉だった訳だね。そうやっておかしな悦楽を|貪《むさぼ》っていた僕は、この今、現実のさかさまと架空のさかさまの向かいあった狭間に立って、そこに写し出される錯綜した謎に、ただ戸惑い、面喰らっているばかりなんだけど」

 故意にそんなふうに話題を変えたものか、喋り続けながら倉野は車道を横切り、銀行の角を折れて小路にはいった。

「ふうん。すると倉野さんも案外、多感な少年時代を過ごしてたんだね」

「案外はないだろう。どうして、今でも多感な青年時代を過ごしてるよ」

 笑いながら言って、ふたりは倉野の住む建物に近づいていった。十四日の事件当時と全く変わりのない、褪せた黄色のカーテンが窓の向こうに垂れさがっている。時刻も恰度、今と同じくらいだろう。ナイルズはふと、時間の流れが空まわりを始めたような気がした。

 ――今度もまた、誰かの屍体が、あの部屋のなかに転がっているとしたら。

 そんな想いが、ちらりと脳裡を掠めはしたが、ナイルズはすぐにそれを打ち消した。|牛頭馬頭《ごずめず》だろうが、ベールゼブブだろうが、そんなにしょっちゅうこの世に姿を現わす筈がない。

 ナイルズは、僅かに歩調を緩めた。倉野の背後を追う恰好で表口に近づいてゆくと、逆に倉野の方は、少し足速になって、ズボンのポケットから鍵を取り出した。

 こちらは足を止め、ポケットに手をつっこむと、地面を靴の先でとんとんと蹴って、その足元に視線を落とした。

 今日、ナイルズが履いて来たのも、グレーのデザート·ブーツだった。靴だけがひとりで歩いてきたのでない限り、ほんの十数秒間だけ倉野の眼に触れたという靴が、これでないことだけは確かだろう。しかしナイルズは、その靴から生え出ているような自分の脚を眺めているうちに、奇妙な違和感に捉われ始めた。

 ――いけない、いけない。どうも妙な被害妄想に陥りかけてるみたいだぞ。

 ガラッと引戸の開く音がして、ナイルズは頭のなかのもやもやを振り払うかのように首を挙げた。しかし次の瞬間、ナイルズの見たものは、もっと異様な現実の光景だった。

 とはいいながら、ナイルズにはその異様さが何なのか、はっきり自覚できなかった。ただ眼の前にあるのは、開かれた戸と、それを前にして立ち竦んでいる倉野の背中。けれども倉野の背中は、どういう訳か、凍りついたように動かなかった。何とも言い表わすことのできない、複雑な感情だけは読み取れたが、倉野の躯は戸口の前で、壁のように凝結したまま、ぴくりとも動こうとしないのだ。メドゥーサの|睨視《げいし》を受けて化石になった人間というのが、恰度こんな具合だろうか。とにかくも、そのただならぬ空気にぞっとちりけだったナイルズは、慌てて倉野の顔を覗きこんだ。

 倉野の膚は血の気を全く失い、微かに静脈さえ浮かびあがらせていた。顎を心持ち挙げ気味にし、いっぱいに見開かれた眼球の焦点は、見るべからざるものを見てしまったとでもいうふうに、戸口の奥の薄暗がりの、そのまた何もない宙空に注がれていた。脣を半開きにして、彼の躯のなかで、唯一そこだけが、ほとんどそれと認められないくらいに顫えている。ほんの二、三秒、ナイルズが眼を離した隙に、倉野は表情も言葉も失ってしまうほどの〝何か_を見たのだ。名状し難い恐怖そのものの〝何か_を。

 ナイルズはその恐怖が伝染したように、ぶるっと躯を顫わせると、急いで奥の暗がりのなかを見返した。

 しかし、それは実際には、ほんの数秒にも満たない出来事だった。ナイルズはさらに次の瞬間、戸口のなかに首をつっこんだが、そこには通路を占める薄闇以外に、全くのところ、何ひとつ見出だすことができなかった。

 勿論、何かが戸の陰にひそんでいたとしても、倉野が戸を開けてからナイルズが覗きこむまでの間に、どんなに敏速に身を|翻《ひるがえ》そうと、跫音ひとつ立てずにすむ筈がないのだ。戸の陰には、まさしく不在だけがあったとしか言いようもない。あるいは、人間の度を越えた身軽さを持った何者かとすれば話は別だが

「倉野さん!」

 ナイルズは倉野のシャツを掴んだ。途端に、彼の握りしめていた戸の枠木から指が離れて、磨硝子に爪のひっかかる厭な音がした。

「どうしたの。ねえ。倉野さん!」

 思わず声が大きくなる。躯を揺すぶる腕にも力がはいったが、倉野はまだ悪夢から醒めやらぬ表情を残したまま、ゆっくりナイルズの上に焦点をあわせた。

 ナイルズは倉野が狂ってしまったのではないかと思った。精神病患者の集まりという先程の夢想が、今こうやって、またしても事実へと変貌してゆくのだろうか。

 しかし、倉野はそれでもようやく我に還ったらしく、ああ、と呟くと、ナイルズの肩を握り返した。

「何でもないよ」

「何でもないって、そんなこと」

「いや、本当だよ」

 そう言って、構わずに表戸からなかへはいってゆく。

 慌ててナイルズも後に従った。

 一応、ぐるりと周囲を見まわしたのだが、誰かが隠れている気配もない。いっそ、何者かがひそんでいる方が、余程救われるような気がした。炊事場のカーテンも開けっぱなしになっているし、便所もちらりと覗いたところ、何の怪しい点もない。

 黄色のカーテンを開け放すと、薄暗い部屋のなかに、白く濁った光が充ちた。ただ机の上に並べられた薬品壜だけが、そのなかで、深い紺青やら茶褐色に輝いている。ふたりは血痕の拭い取れない|支子《くちなし》色の絨毯に|胡坐《あぐら》をかくと、倉野の方から、弁解めいたことを言い出した。

「ちょっと気分が悪くなっただけなんだ。もう何ともないよ。あはは、まさか、誰かを見たんだなんて思ってるんじゃないだろうね。君も見た通り、誰もいないだろう」

「だって、まだ顔が真青だ」

「そうかい」

 倉野は大きな掌で、ごしごしと顔を擦った。ナイルズはそんな倉野を瞶めながら、わざわざ『誰かを見たんだなんて思ってるんじゃないだろうね』などと持ち出したことに、ひっかかりを感じていた。いったん|躓《つまず》くと、その疑惑は果てしなく展がってゆく。

 しかし、どう考えても、そこに人間がいた訳はないのだ。もしも人間がいたとするなら、その人物は、文字通り煙のようにその場で消え去ってしまったのでなければならない。そうしてその人物が、曳間を殺害した犯人だとすると、彼は|瞬間移動《テレポーテーション》の能力でも具えていることになってしまう。

 この事件を解決するには、変格探偵小説的な解釈を下すほかないだろうと予告したのもほかならぬナイルズだったが、実際にこんなふうに非現実的な方向へと、現実そのものが潰れこんでいるとしたら。

 戸口の陰で、今にもその姿を消さんとする瞬間の、胸のあたりまでぼおっと透明に霞んでしまった人物が、微かに笑みさえ湛えながら宙空に漂っている。そんなイメージを抱きながら、ナイルズはしかし、そんなものでも目撃しない限り、あの倉野の驚きようの説明はつかないだろうと考えていた。

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2 推理競技のタベ

[#ここで字下げ終わり]

「と、いうものなんだけど」

「へえ? そうね」

『黄色い部屋』のなかに集まっているのはナイルズ、ホランドのほかに、倉野、布瀬、甲斐、根戸の、総勢六人。根戸の朗読で、今、『いかにして密室はつくられたか』の二章までが公表されたのだが、ナイルズがそう尋ねたのに対し、反応の方はどうも|芳《かんば》しいものではなかった。

 密室を扱った本格長編。その、ほんの数枚を書きかけたところで曳間が殺され、それによって構想の大幅な建て直しを余儀なくされたのは確かだろうが、それにしても彼らにしてみれば、この小説の真意がどこにあるのか、どうにも合点がいかないのも、また確かだった。序章と一章は、この一ヵ月間に現実に起こったことをそのまま描いてある。枚数と日数の関係からして、当然彼らの期待したのは、まだ行なわれていない推理較べの模様が描かれ、そこで犯人の像がありありと浮かびあがってくるという、まさに小説のなかでの現実の解体だった筈なのだが、予想に反して二章は全く曳間の死とは拘りのない劇中劇として終始している。

 恐らくその部分こそが、ナイルズのいう『いかにして密室はつくられたか』の核心部には違いないにしても、それが全くの絵空事として描かれ、|剰《あまつさ》えその冒頭で、一章、つまり現実通りの部分こそが、その劇中劇のなかでは|畢竟《ひっきよう》小説にすぎないという設定で話が進められているとあっては、ナイルズの関心が現実の殺人にあるのか、それとも飽くまで小説部分にあるのか、甚だ要領を得ないのだ。しかも奇妙なのは、劇中劇の方ではちゃんと曳間が生きていることになっている点で、さらに輪をかけて訳が判らないのは甲斐の描写だった。

「何で俺だけこうなんだよ?」

 朗読の最中にしきりに不平を洩らしていた甲斐の言い分ももっともなもので、やれ醜い|貌《かお》だの癇癪持ちだの、果てには万引常習者だと決めつけられた日には、さすがに気弱で人のいい甲斐も、ふくれっ面をせずにはいられなかっただろう。

 しかし卑しくもひとつの小説として書かれているからには、やはりこの架空の部分も、現実の事件と全く無関係な存在として扱われている訳でもあるまい。彼らはナイルズの真意がどこにあるのか計りかねていた。そうしてなおかつ、この風変わりな小説に対する彼らの間の評価は、好もしいものとは言えなかった。

「ねえ、ナイルズ。この小説の意味が、俺にはどうもよく判らないんだがなあ」

 根戸が口火をきると、ほかの者も不審な表情で頷いた。

「これは、やっぱりまだ途中までの作品なんだろう」

「さあ……恐らくね」

 当の本人のナイルズすらが、何故か頼りない返事をよこし、さらに面喰らったていの根戸は、

「というと、どういうことになるのかな。……現実に殺人がこれ以上起こらないなら、この二章までで総てこと足りるという訳かい……。ううん、四百五十枚かあ。あれだけの短時間によくこれだけの枚数が書けたなとは思うし、いろいろと出てくるペダンティックな会話の部分なんかにも感心はするけど、しかし、この小説のなかでは現実の出来事らが小説になっちまってて、しかもそっちの方の推理は全くといっていいほど行なわれていないだろう。……何か、肩|賺《すか》しを喰らったというのか、やっぱり俺としてはもの足りないねえ。……この先、三章、四章と話が続けられる上で犯人が明るみに出るというのなら判るけど、何だかやけに架空の――というのか、この小説のなかでは現実のこととして描かれているところの、小説のなかの小説の部分での事件に、力が注がれているものね」

「そう、一体この小説の目的がどこにあるかがはっきりしないのだ。単に我々ファミリーを舞台にした架空の殺人を|主題《テらマ》にするのだったら、何も第一章とやらで実際の殺人事件なんぞを持ち出さなくともよかろうし、そうではなくて曳間を殺した犯人をつきとめることこそが目的だとしたら、どうしてありもしない真沼の殺害なんぞを持ちこまねばならないのか、吾輩にはそこが疑問だね」

 根戸に加わって布瀬もそう言うと、ナイルズは飲みかけのウィンナ·コーヒーを|僅《わず》かばかり|啜《すす》って、

「不評だねえ」

 と息を吐いた。

「どうやらやっぱり、僕には文才のかけらもないらしいや。いやはや、この十日間というもの後悔のしっぱなしだったけど、ここにおいて決定的に釘を刺されちゃった。致命的だよ。これは」

「何だか心細いんだなあ。そんな弱気にならないで、頑張って最後まで書いて貰わなきゃ。二章の冒頭で曳間自身も言っているじゃないか。批評は、物語が完結してからの話だってね」

「ふむ。根戸もなかなか旨いことを言うじゃないか。……だけど、我々があまり手放しで褒めることができないのは、ほかにも理由があるんだな」

 甲斐が言うと、ナイルズも眉を|顰《ひそ》めて、

「やっぱり、あれ[#「あれ」に傍点]なの?」

「そう、あれ[#「あれ」に傍点]だよ」

 いったんそれが口に出されると、六人の表情には、再び疎ましい翳が|灰汁《あく》のように浮かび澱んだ。しかしなおかつ、ナイルズはその執拗につき纏う空気を打ち払うように、真剣な口調で宣言した。

「そう言われると打ち明けなくちゃならないなあ。……こんなことを言っても、今となっては信じて貰えないかも知れないけれど、実は僕がこの原稿を書き上げたのは、二十六日の夜なんだよ。これは倉野さんも証言してくれるけどね」

 一瞬その言葉の意味が判らずにいた一同は一拍置いて、

「何だって?」

 と叫んだ。

 それは推理較べに予定されていた七月三十一日のことだった。

 この日に予定されていた推理較べは、二十八日の久藤夫妻の死去の煽りを喰らって|頓挫《とんざ》の恰好になった。雛子と杏子は目黒の邸宅にひき籠もり、こんな日に推理較べでもないだろうというので、ただの集会として声をかけあったためもあって、真沼と羽仁と影山は欠席し、『黄色い部屋』に集まったのは前にも述べた通り六人。そのうち、遅れて到着したのはナイルズとホランドで、ほかの者がとりとめのない話題を語りあっているところへやって来るなり、ナイルズは約束の『いかにして密室はつくられたか』が一応完成したと告げ、方形のテーブルの上に、どさりと原稿用紙の綴りを投げ出したのだった。

 その小説がどんなものだったかは、前にも|述《の》べた通りだが、その末尾の部分――雛子の悲報を杏子が雛子に伝える場面に、彼らは納得できないものを感じていた。根戸もまたそのひとりで、彼はその小説を朗読しながら、取ってつけたように久藤夫妻の死を最後に持って来ていることに、妙な|蟠《わだかま》りを感じていた。そのようなこと

 は、一章の最後に書かれているのならともかく、架空の部分である二章で扱われるべきではない。純粋にナイルズの小説には興味を抱いてはいたが、現実の人問の死を、逆に小説に仕立てるということに関しては、彼はどうしても賛同できなかったのだ。

 しかし、それが、現実の悲劇が起こる以前に書かれたのだというのなら、総ての話が変わる。ほかの者と一緒に、彼が、

「何だって?」

 と叫んだのも、無理からぬ話だった。

「うん、それは確かだよ。嘘じゃない。僕が読んだのは二十七日だった。だからあの報せを開いた時には、本当にびっくりしたよ」

 倉野も蒼褪めた顔でそう証言し、それにホランドまでが加わると、

「しかし、とすると、またしても予言かい。曳間に続いて雛ちゃんの両親の死も、ナイルズはずばり予告したってことか」

 狼狽した声で甲斐が尋ね返した。

 ナイルズは困惑した顔で、

「そういうことになるのかなあ。でも、これは偶然だよ」

「偶然が二度重なったのか。……いやいや、二度あることは三度ある。今度殺されるのは、もしかして真沼かも知れないぞ。……あっはは、しかし、それは冗談として、倉野、お前も人が悪いな。ホランド達と一緒になって、俺達をかつこうとしてるんだろう。本当のことを言えよ」

 無理に笑って根戸が打ち消そうとしたが、

「本当なんだよ」

 押し殺すような倉野の声は真剣だった。ナイルズも少しむきになって、

「こんなことで嘘をついても仕方ないでしょ。本当に僕がこの部分を書きあげたのは、五日前の夜のことなんだ。それだけは信じてよ。僕だって、ひとの死をおもちゃにしているなんて思われるのはやだもの」

 そう言われると、彼らには返す言葉がなかった。それに、今度の事故は曳間が殺されたこととは何の関係もない筈だとすれば、ナイルズがそのような嘘をつく理由もないのである。

 布瀬は脣をへの字に曲げながら、

「それはそれでいい。では問題をもとに戻してだね、一体、この小説には解決篇というものがあるのかね」

「ああ、それはあると思うよ」

「あると思うよ、かね。いやはや、頼りないものだね。……しかし、まあ、それもそれでいい。お前さんの思惑通りなのかどうかは知らんが、我々が推理せねばならんのは、とりあえず一章の殺人なのだからな。こちらは現実の出来事に忠実に書かれているから、あっは、推理するには都合がいい。そういう点からすると、この小説にも充分、それなりの意味があるということかな」

 それは、小馬鹿にした言葉以外の何物でもなかっただろう。しかしナイルズは布瀬のその言葉にも、とりたてた反応は見せず、

「とにかく、疲れちゃった。本当は、僕もここでみんなの推理較べに加わらなきゃいけないんだろうけど、それはもう勘弁して貰うことにするよ。僕の推理の代わりが、この小説ということでさ」

「ほほう。いやに自信があるんだね」

 と、そこで口を出したのは甲斐で、

「ふむ……そうすると、君の思惑とやらも、おおかたの察しがついてくるな。つまり、二章で真沼を殺した人物は、論理的な推理によると、ただひとりにだけ収束される筈である。そして、そのたったひとりの、ほかに動かすことのできない人物こそが、一章の犯人にほかならないという仕掛けだろう。ナイルズの考えそうなことさ」

 すると根戸も、ナイルズの返事を待たずして、

「ああ、成程。それなら辻褄が合うな。……しかし、そうすると、どうなっちまうんだ。俺達の立場としては、勿論、曳間を殺した奴を推理しなきゃならんが、それとは別に、この小説の二章の殺人のからくりをも解決しなきゃいけないのか」

「いやあ、それに関してはね」

 と、ナイルズも慌てて口を挿むと、

「僕の小説の解決は、勿論、後まわしにして貰っていいんだよ。僕としては、とりあえず現実の方の推理を早く聞かせて貰いたいのが正直なところだもの」

 そうすると、倉野もそろそろ自分の出番とばかりに、

「どうだろうね。こうなってくると、やはり、どうでも推理較べを始めないとおさまらないんじゃないかな。本当はみんなも早く自分の推理を披露したくて、ウズウズしているんだろう。僕としてはむしろ、このような時だからこそ、早く犯人をつきとめなくてはならないと思うしね」

「それは俺だってそうだよ。実は、誰かそう言い出さないかと待ってたのさ」

 甲斐も遅れじと賛成すると、ほかの者もにやりと笑って、どうやら異議もないらしく、ナイルズの小説のせいで、集会の雰囲気は、推理較べの開催に向かって再び転がり始めた。

「ようし。それじゃ、各自の推理をもう一度整理するのに、十分間の猶予を与えることにして、推理比べを始めるとするか」

 根戸が言うと、倉野はすかさず腕時計を見て、

「今が、午後四時五十分だから、五時きっかりからだね。遅くなるかもしれないから、自宅の者は、電話を入れておいた方がいいだろう」

「それもそうだな」

 と、立ちあがりかけた布瀬は、ふと思いついたように、

「ふむ。それにしても、倉野の時報は天下一品だな。全く、へたなサイレンよりは余程正確だ。まあ、そのおかげで、第一の殺人は時刻的にえらく正確なものになったんだがね」

「そりゃあ、布瀬さん。倉野さんの腕時計は原子時計だもの」

「ふふん、原子時計はよかったな。そういえば、こんな時に影山がいれば、そもそも時間とは、などとまた、物理談義を始めるのだろうが、それがないのはちょいと淋しい気もするね。しかし、そういう点に関しては、二章で〈ブラック·ホール〉だの〈トンネル効果〉だのをそれらしく持ち出してるあたり、なかなか影山の特徴を捉えているのには、吾輩らも感銘したと言っておこうか」

「これはどうも」

 影山のまねをしたらしく、ナイルズが|剽軽《ひようきん》な仕種で答えると、布瀬は声高く笑って膝を打ち鳴らした。

「ちえっ。気楽なことを言ってないで、手伝ってくれよ」

 別室の奥にある物置きから、長いソファーを運び出すらしく、倉野と甲斐が鍵をガチャガチャ鳴らしている。

 布瀬は、

「いや、吾輩は電話でね」

 と、そそくさと店の方に出ていった。

 その日は前々からの予定で、店の休日を選んでの貸切になっているため、全員、専ら気儘に振舞っていた。勝手知ったる甲斐が臨時の飲物係ということで、得意のサイフォン·コーヒーを皆に披露し、ウイスキーやワインもあけられて、『黄色い部屋』は既にホロ酔いの気分で充たされている。

 硝子のテーブルに、長い、やはり黄色の布張りのソファーをふたつ向かいあわせて、部屋の準備が整うと、銘々グラスを傾けるなり、部屋に飾られた人形を眺めるなりして、思い思いに時を待つのだった。

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3 愚者の指摘

[#ここで字下げ終わり]

 薄暗い黄色の照明のなか、様ざまな人形達に見据えられた『黄色い部屋』の別室の中央で、コーヒーも|淹《い》れたてのものが新たに用意されて、推理較べはきっかり、七月|晦日《みそか》の午後五時に始まった。

「さあて、問題は、推理を披露する順番だけど、どうすりゃいい。|籤《くじ》引きにするかな」

「それじゃ、トランプで決めようよ。ここにはトランプはないの」

「ああ、あるある。但し、タロット·カードだけどね」

 甲斐が答えると、布瀬は、

「おお、それなら、なおのことだ」

「よし、俺が取ってくるよ」

 倉野は言って、店の方に出て行った。しばらくすると、カードを切り混ぜながら戻って来て、

「さて。では、こうしよう。このなかから、小アルカナのぶんだけ抜き取る。そうして残りの大アルカナの方で決めよう。数字の小さいものからだよ。……さて、どうぞ、誰からでも」

 倉野のさし出すカードに、真先に手を出し、そしてこともあろうに0の『愚者』のカードをひきあてたのは、甲斐だった。

「ありゃあ、こりゃいかん。真先に『愚者』とは!」

「しかし、甲斐。『愚者』は、タロットのなかで、最高のカードだぜ」

 横から根戸が口を出したが、

「いや、いいよいいよ。慰めてくれなくっても。それに、俺はあまり自信がないんだ。しょっぱなで結構だよ」

「そうやけになるものでもないさ。それじゃあ、お次に俺がひくとするか」

 そう言って抜き取ると、これがⅩⅩの『審判』。ますます不貞腐れる甲斐を尻目に、次々にカードが行き渡って、順番の方は、甲斐をトップ·バッターに、Xの『運命の輪』の倉野、ⅩⅡの『吊し人』のホランド、XⅥの『塔』の布瀬、そして、|殿《しんがり》に根戸ということになった。

 見物客を決めこんでいるナイルズは、至って気楽な調子で、

「なかなか面白いね。殊に、最後が『審判』で締め|括《くく》られるなんてどうして、ドラマチックで素敵だな」

 などと、勝手なことを口にしている。

 甲斐は、半ば諦めたように、小柄な躯を揺すらせながら、

「仕方ない。『愚者』は早々に切りあげて、退散と行くか」

 そう前置きすると、それでもごくりと|咽《のど》を潤して、

「さて、どういうふうに始めたらいいのかな。トップを切るんだから、そうだな。事件のおさらいをしてみるか。表面に現われた謎はそのつど摘出するとして、だね。……はてさて。

「時は七月十四日。土曜。……その前日は、奇しくも十三日の金曜日。この日に、そこに鎮座ましますナイルズ殿が、『黒い部屋』において、曳間の死を予言されたのであります。曳問の死は、既にこの日に、運命の書の一行として決定的に刻印されてしまったに違いないよ。俺にははっきりとある図が見えるんだ。それはね、レオナルド·ダ·ビンチの『最後の晩餐』。――とすれば、当然倉野が見たのは、『ピエタ』に違いなかろうし、ナイルズの小説の二章は『復活』、この会合の最後を飾るのは、『最後の審判』ということで、全く旨く符合するんだが、まあ、それはさておき、時らは一日たった、七月十四日、土曜。十七日前のことだ。

「曳間の死亡推定時刻は、正午から十二時半の間。発見されたのが三時過ぎで、両者の間隔が短いことから、この推定時刻は信用してもいいだろう。とにかく、この三十分のうちに、曳問はある人物の凶刃に|殪《たお》された。これは確実なことだ。

「さて、問題の屍体発見の経緯だが、様ざまな謎は、ここにおいて集中的に顕現してくる。その顛末自体は簡単なもので、倉野が帰宅すると、表口の外側の錠に鍵がかかっていた。なかにはいると、踏板の下に、曳間のバスケット·シューズ以外に、デザート·ブーツが置かれていた。屍体を発見し、下に降りてくると、既にその靴はなかった。表口へ行くと、さっきしめた引戸があけっぱなしになっていた。……と、これだけだったな。もうひとつ注意すべき点は、後で調べると裏口の錠はかけられたままだったということ。それに、曳間の頭の方に落ちていた『数字の謎』と称する一冊の本だね。ここに浮かびあがってきた謎のいくつかは、既に倉野自身が列挙していたし、都合のいいことに、ナイルズのこの『いかにして密室はつくられたか』のなかにも書き並べられてあったから、こいつから引用することにしようか。……ええと、順番はこちらで適当に変えるけれど、まず第一に、『犯人はなぜ倉野が戻って来るまで待っていたのか』……第二に、『犯人はなぜ倉野に靴を見せたのか』……第三に、『どのくらい不在にしているか判らぬ倉野の部屋をなぜ犯行現場に選んだのか』……まだまだあってね、倉野が推理した、犯人の鍵と錠の小細工は、次の通りになる。即ち、犯人は曳間と一緒にか、あるいは前後してか、表口から建物のなかにはいる。そして裏口の錠を開け、外に出る。表口の鍵を外側からかける、合鍵は鴨居の上に戻しておいて、再び裏口から建物のなかに一戻る。最後に裏口の錠をしめて、そのまま倉野の帰りを待つ、とね。……ここにおける鍵と錠の小細工の謎は、さらに、ふたつの疑問に分けられるんだね。つまり、第四の、『なぜ表口は、外側から鍵をかけなければならなかったのか』と、第五の、『なぜ、犯人の非常逃走口である裏口の錠までしめなければならなかったのか』……。

「こうなると、まるで謎だらけだね。このうえに、『曳間の屍体の傍に転がっていた本に意味はあるのか』という、謎というより疑問のようなものがつけ加えられる。

 そうして、これらの謎をすべてひっくるめたものが、殺人事件に常についてまわるふたつの大きな謎、即ち、『動機は何か』『犯人は一体誰なのか』に収束するんだけど、まあ、結論は急がずに、ひとつひとつ結着をつけようじゃないか。

「今度の事件で最も不可解な点は、御承知のとおり、あの建物が密室ならぬ密室、つまり、〈|反密室《アンチロックドルーム》〉になっていたことだね。全くのところ、その点で今度の事件は、通常の密室殺人とは全然違った視点から眺めなければならないんだ。普通の密室だと、表口の戸は、内側から錠がかかってなきゃいけない。表口の戸も裏口の戸も内側から鍵がかけられている。そして犯人はなかにいない。さて、犯人はどうやって外に抜け出したか、と、これが通常の密室だ。だが、内側からかけられるべき鍵が、外側からかけられていたという、これだけのことで、事件は全く奇妙な表情を帯びてしまうのさ。全く、内側から鍵がかけられていた方が、どれだけ簡単か知れやしない。西洋式のガッチリした鍵とは違って、あの日本式の捩込み式の錠は、犯罪者にとってはまことに扱いやすいしろものなんだ。空巣狙いのプロの問では、ちゃんと、それ用の道具がつくられていてね。目の細かな鋸をふたつ、戸と戸の隙間にさしこみ、|螺子《ねじ》を上と下から挟んでせっせと動かせばいい。そんなふうな道具を使えば、密室はすんなりと完成できるだろう。しかし、今度の事件の場合、そういった物理的な考えは、一切関係がなくなってしまうんだね。物理的な考えが無関係ということは、つまりどういうことかと言うと、この事件における謎は、総て心理的な面から考察しなければならないということさ。

「まず第一の謎、『犯人はなぜ倉野が戻ってくるまで待っていたのか』……これは複雑に考えてはいけない。最も素直に考えるべきなんだ。最も素直な解釈とは、即ち、そうまでした犯人がしてみせた行為――靴を見せるためというこった」

 へえ、という声が、一同から洩れた。無論、そこにこめられた意味合いは、感嘆とも嘲りともつかぬものではあったが、ひとまず甲斐はそれを無視して、

「これでまず、第一の疑問は、第二の疑問に還元される訳だ。『なぜ倉野に靴を見せたのか』……さて、靴を見せることによって、犯人にはどんな利益があるのかという問いの答として、俺が頭をこねくりまわして考えた結果、ふたつが挙げられる。まず第一に、犯人はその靴の持ち主であるという印象を与えることができる。これは、大きい利点だね。幸か不幸らか、靴のことを喋らなかったことによって、警察はあっさりと自殺と断定してしまったけど、もしも警察が介入することになれば、真先に疑われるのはデザート·ブーツの持ち主である、俺、真沼、それにナイルズ、ホランドの四人だからな。これは誰でも考えることだろう。俺の考えたもうひとつの理由ってのは、靴がひとつの合図であるという場合だね」

「合図だって」

 羽仁が思わずそう訊き返した。

「でも、誰への、何の合図だというの」

「さあ、そこだよ。俺もいろいろ考えてみたんだけど、共犯者への合図という場合は、どうしても旨い説明がつかなかった。それに共犯というのは、今回決められた十戒では否定されてたようだから、除外しよう。さて、そうすると一体、これは、誰への合図だと考えればいいのか。……さて、ここでわたくし、曳問のお株を奪って心理的探偵甲斐良惟は、犯人が靴を見せることによって、疑いを他人にそらしたことからみて、その合図の相手は、犯人が疑いを向けようとしていた人物その者[#「犯人が疑いを向けようとしていた人物その者」に傍点]にほかならないと断定する。……ちょいと飛躍に聞こえるかも知れないな。でも、今度の事件のように、心理的な要素ばかりで構成されている事件は、実に、その犯人の辿った心理を追いかけてこそ、その真相が明らかにされる筈なんだ。人間がある行動を選ぶ場合、その行動によって、最も合理的に大きな利益を得るのが望ましい。だから犯人が予定していた特定の人物に対して疑いをかけさせ、しかもある合図を送るというのが理想的になる。しかも共犯者というものを除外した場合、そうとしか残された考え方は見つからないんだ。では、そんな場合、その疑いをかけられるべき人物に対する合図、つまりある意味での通信は、どういったものであるのか。俺は、これは脅迫以外には考えられないとするんだよ」

「ほほう、脅迫とね」

 皮肉たらしく布瀬が言うのに、

「そうとも。つまり、情況を組立てると、こういうことになる。犯人は、ある人物に対して非常な弱点を握っていた。しかも、それは靴に関係したことだった」

「あっは、これはまた、恐れ入った論理だね。というと、何だね。その人物は、靴泥棒をやらかしたところでも見つかったのかい」

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