饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.2

 布瀬が言うと、甲斐は大真面目で、

「おや、さすがだね。まさにその通りなんだ」

 その返事に呆れてしまったのは布瀬の方で、

「何だって。おいおい、正気かね」

「いやどう致しまして、頭は極めて正常な方だと自負しておりますよ。靴泥棒。まさにそれだ。その人物は、ある別の人物から、例のデザート·ブーツをチョロまかしたことがあったんだよ。さて、それでは順番に言おうか。靴を盗まれたのは誰か。それはほかでもない、この俺自身なのさ。|七夕《たなばた》の日のことだ」

「へえ」

 声を挙げたのは根戸だった。

「それは……しかし、フェアじゃないな」

「それは俺もそう思ったけど、あんまり皆の推理が|偏《かたよ》るのも何だしね。この間のアリバイ提出の集会は、俺のいない間にやってしまったから、そのことを言う機会もなかったし。まあ、あまりそう|目角《めくじら》立てないでくれよ。それとも何か。お前の推理は、これだけの新事実で崩れ去ってしまうものなのか」

「おっとまた、こいつは妙な居直りをしてくるもんだね。判ったから、とにかくその続きを聞かせてくれ」

「そうするさ。……さてと、次の問題は、誰が靴を盗んだのかということだけど、これはちょいと推理すれば、簡単に判るんだ。犯人は靴泥棒の事実を知っていて、その人物に当の靴を示した。さて、そのことによって、その人物を無闇に怯えさせるだけでは意味がない。その人物は当然、犯人にとって有利な、ある行動を迫られなければならない。その行動とは、実際に犯人のために、身を挺して何かをするということではなく、単に、あることを偽証することかも知れない。……判るかな。我々十一人のうち、はっきりと偽証をした者がいるんだよ。推理の必要もないほどに、はっきりと。しかもその偽証は靴に関することで……」

「ちょ、ちょっと待て。それは」

 根戸は大きく眼を剥くと、ちらりと倉野の方を振り返った。倉野はこれといった表情を見せないまま、甲斐の足元を凝視していた。

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4 歩き出す仮説

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「そう。それはほかでもない。倉野。お前だよ」

 声高く甲斐が名指すと、『黄色い部屋』のなかに、人形達の微かな身じろぎが伝わったようだった。五人の眼が一斉に倉野の方に向けられたが、倉野の方で先まわりして、一個の人形に変容してしまったかのように、眉根さえ動かさず、じっと甲斐の言葉に耳を傾けている。根戸はこの時初めて、倉野の瞳の色が仄暗い|代赭色《バーントシェナー》であることを知った。

「最初から言おうか。俺があの靴を盗まれたのは、事件のあった十四日の一週間前。……そう、このナイルズの小説にある、『序章に代わる四つの光景』のうちの、三番目と四番目の挿話。この恰度まんなかの日のことだったんだよ。お前は俺のデザート·ブーツを盗んだ。そして、そのちょっとした犯罪は、不幸にも、曳間を殺害しようと目論んでいたある人物に目撃されたんだ。……今度の事件のいちばん怖ろしい点は、その、殆ど意味もないような小さな事件の利用の仕方にあったんだよ。十四日当日、犯人は曳間を殺害した後、どこかに隠されてあったデザート·ブーツを捜し出し、それを、曳間のバスケット·シューズの横に並べておいた。そうして彼は、じっと執念深く、倉野の帰りを待ったのさ。

「この小説には、倉野、こう書かれてあるじゃないか。お前が二足の靴を見た時、その瞬間、妙なもの[#「妙なもの」に傍点]を感じた、とね。それについては、後でお前自身がこう説明している。戸口の鍵がかかっていたのに、なかにはいってみると靴があった。これは変だ。あの時の妙なもの[#「妙なもの」に傍点]とはこれだったんだとね。うん、勿論、そういうこともあっただろうさ。だけどその半分は、自分が盗んだデザート·ブーツと同じものが、バスケット·シューズの横に並べられてあったことに対する、微かな不安だったんじゃないのかな。そうさ。それはまさしく、お前が盗んだ靴だったんだ。警察に通報し終えた後で、お前は慌てて盗んだ靴を隠していた場所を調べただろう。そしてその不安が、まさしく適中していたことを知った時、お前がどういう決意を迫られたのか、俺には手に取るように想像できるよ。そうとも。お前は、靴を盗んだことは絶対に隠し通さなければならなかった。そしてそのためには、どこからともなく土足で踏みあがって来て、洗いざらい根掘り葉掘り秘密を嗅ぎまわる警察というものに対して、デザート·ブーツの存在に関しては黙秘の道を辿るしかない。そうだったんだ。犯人の意図もまさにそこにあったのであって、靴を見せたのは、靴のことを喋らせないため……というと、全く奇妙な逆説にしか聞こえないけど、それがどんな結果を導くかについては、犯人はちゃんとふたつのケースを予想していた。威嚇を通してなおかつお前が、靴のことを警察に喋った場合、警察は、まさにこれを殺人事件として調査し始めるだろう。そうすると何しろ警察のことだ。瞬く間に、その靴はお前が盗んだものだとつきとめる。そうすると疑いがかかるのは、とりもなおさず、倉野、お前だということになる。さて、それでは犯人の予定通りお前が靴のことを喋らなかった時には、この事件は自殺として片づけられる可能性が大きい。その場合、犯人は全く安全圏内にいることができる。つまり、犯人にとってはどちらに転んでも一応都合がよかったのさ。うん、結局事実は後者の通りになった。無論のこと、警察が介入して来る可能性に関しては、そんな靴の小細工を施そうが施すまいが、全く変わりないには違いないさ。しかし、犯人がなおかつ、敢えてそんなことをやってのけたのは、探偵小説狂である我々への挑戦状だったに違いないんだ。

「そうだよ。曳間のお株を奪って言えば、心理学的に見れば、こいつは全く、呆れるほどの探偵小説狂が仕組んだ殺人に違いないんだ。残された第四の謎、つまり、『なぜ表の戸を外側からかけたのか』に関しては、これはとにかく、犯人の、逆説嗜好にほかならないし、第五の、『なぜ裏口の鍵までかけていたのか』に関しては、これはひとつの、犯罪者の自尊心としか言いようがない。そして肝腎の第三の謎、『犯人はいつ帰って来るか判らない倉野の部屋をなぜ犯行現場に選んだのか』からは、重大な推理が導き出される。つまり論理的に言って、犯人は、倉野の姿を新宿で見かけたに違いないということだね。さて、そこで犯人は直観を働かす。何時間かは目白に帰らないだろうが、しかも、その日の問には帰宅するであろうことを、その雰囲気から見てとるんだ。これは、俺の思うに、我々仲間うちでは決して難しいことじゃない。しかも、これは偶然か予定内か判らないけど、犯人は、久びさに倉野の処に顔を見せようとしていた曳間にも出会うんだ。多分、それは、新宿から目白への電車のなかだろう。犯人にとって、これにまさる絶好の機会はない。犯人は、まんまと曳間を倉野の部屋に誘いこみ、そこで、惨劇は行なわれてしまったんだよ。

「さて、ここまで事件を解剖すると、そこから犯人の性格が明らかになって来る。まず、犯人は無類の探偵小説狂であること。さて、ここで、俺は十一人の容疑者のうちから、真沼と杏子さんを除いていいと思うんだ。探偵小説狂にあらざる者、殺人者にあらず。これは、最初の前提だよ。……次に、犯人の持つさかさま嗜好。この点で俺は、羽仁だけは除外してもいいと思う。なぜなら、羽仁がこの殺人を実行する場合なら、間違いなくまっとう[#「まっとう」に傍点]な密室をつくろうとするに違いないからだ。それから、勿論のことだけど、倉野は犯人に利用されただけなんだから、殺人者である訳がない。……残ったのは七人だな。布瀬、根戸、ナイルズ、ホランド、雛ちゃん、影山、それに俺か。このうち、可能性の少ない方から除去してゆくとまず雛ちゃんだが、彼女は何というか、探偵小説狂としての自尊、心ゆえに、自分の方から容疑者の仲間にはいりたがっていると思われるふしがあるけど、まあ、まずこの犯罪は、十五の小娘に実行できるしろもの[#「しろもの」に傍点]ではないだろう。ナイルズやホランドにしたって、この点に関しては同じようなものであってね。だいたい、人の心臓にナイフをぐさりと柄までつきさす芸当など、十五やそこらの少年少女のなし得る業じゃない。まして、どれほど油断していたにせよ、全く無抵抗のうちに一瞬にして絶命させるのは、並大抵の力じゃできないさ。

「さて、そこで消去法により残ったのは、根戸、布瀬、影山、それに俺ということになるか。ははん、まあちょいと、俺の推理法に奇異の念を抱く方がたも多いだろうけど、かのファイロ·ヴァンスがいみじくも断言した言葉――心理的証拠と物質的証拠が互いに矛盾している場合、物質的証拠の方が間違っている――という奴は、どうして、|端倪《たんげい》すべからざるものだよ。俺は最初から、アリバイなんぞというものは信用していないんだ。ちょいと仲間の間でうちあわせて作れるやわ[#「やわ」に傍点]なアリバイなどというものを調査するよりは、犯罪者の心理を研究した方が、余程ためになるというものだよ。

「さて、犯罪者の心理の解剖を続けると、情況に現われた、偏執狂的性格が浮かびあがってくるね。いくらアリバイに自信があるにせよ、靴を見せるために何時間後に帰って来るかもしれない倉野を待ち続けるなど、やはりちょっと異常としか言いようがないからな。それから次には、まさにその自信が挙げられるべきだろう。全くのところ、この殺人者が自らの殺人計画に抱いている絶対の自信。これは、特筆に価するものだよ。そのことを最もよく象徴しているのが、例の裏口の錠をしめている点だね。もしかすると、犯人は、半分スリルを楽しんでいたのではないかと覚しい点が多い。そういった児戯めいたものを好むという性癖も、例のさかさま嗜好と相まって、彼の精神を大きく支配しているに違いないんだ。……これらの点から言って、俺は疑惑の圏内からまぬがれさせて頂きたいものだね。偏執狂的性格は、俺の場合、探偵小説にだけ向けられているに留まるし、志向する絵の方も、偏執狂的理性批判を振りまわすサルバドール·ダリといった手合ならともかく、こちらは極めてまっとうな写実派――それも、ベノッツオ·ゴッツオリやチントレットを至高とする|古典主義《クラシシズム》とあっては、嫌疑も晴らしてさしつかえないのではなかろうか? いや、本音を言えば、とにかく俺が犯人でないことは、俺自身がいちばんよく知ってるのだからいいだろう、ということ。

「はてさて、後に残ったのは、布瀬に、根戸に、影山の三人だな。魔術に、数学に、物理学と、こちらは充分偏執狂的性格を備えた者ばかりだね。

「しかしながら、この三人のうちの影山は、残念ながら、白としか言いようがない。なぜかというと、性格的には問題はないのだが、やはり、我々とのつきあいが浅すぎるという点だね。実際、影山が曳間と会ったことがあるのは、せいぜい二、三回だろう。そんな二度や三度の対面で、殺人に至るまでの動機が|育《はぐく》まれてゆくことなど、どう考えてもありそうもない。物理学的人生観にとりつかれたあげくに、生と死の意味を眼の前で確かめるために曳間を殺したというのなら、またそれはそれなりに面白い動機だけど、犯人は倉野の部屋にも詳しい人間でなければならないし、その意味でも彼はリストからはずさなければならない。そうすると、残るのは根戸と布瀬、ふたりにひとりということになる」

 甲斐は、ふたりの反応を|験《ため》すように、そこでしばらく呼吸を整えた。見ると、根戸の方は氷を浮かべたグラスを、弱い照明にかざすようにして、じっとその黄色い|煌《きらめ》きに見入っている。布瀬は布瀬で、人形達にまじって立っている、抱えるほどの大きさの鬼に顔を向けながらも、ニヤニヤと不敵な笑みを洩らしていた。その鬼は|榧《かや》か何かの一刀彫りらしく、彩色も施されぬままながら、荒々しく|猿臂《えんび》を宙空につりあげ、口は半月形に開いて、眼に見えぬ何者かに怒りを吐きつけているようだった。

「さて、この二者択一の問題で重要な鍵となるのは、一体何だと思う」

 甲斐はナイルズに向かって尋ねた。ナイルズは艶やかな脣を僅かに曲げると、

「さあ……最後にはやはり、物的証拠が決め手になるのかな」

「ところがどっこい、最後の鍵とは、そいつの裏返しなんだ」

「裏返しって?」

 ナイルズは相手の言葉の意味が判らずに、思わずそう訊き返していた。

「ははあ、つまり、犯人の側の心理に、大きなさかさま嗜好があるとなると、こちらの探偵としても、その方法を応用しなくちゃならない。どういうことかというと、とにかく、犯人にあれだけ大胆な振舞いが可能だったのは、とりも直さず犯人には、一見、金城鉄壁としか思えぬアリバイがあったからだと考えられるじゃないか。そうなんだよ。繰り返して言えば、犯人は、一見、鉄壁のアリバイを保有している者にほかならない。それに該当するのはふたりのうちでは、布瀬、お前だよ」

「お見事」

 真先に叫んだのは、驚いたことに、当の本人である布瀬で、

「成程、成程。要するにお前の推理法では、最初から物的証拠やら現場不在証明やらを、一切頭のなかから排除してゆくのだな」

「そうとも。だいたいからして、大概のアリバイなんぞ、つきつめて考えれば崩れてしまうものだからね。心理的にみれば、この犯罪の犯人であるべき人物は、布瀬、お前しかいないことは明らかなんだ。尊大な自信と、偏執狂的性格。この世ならぬ世界を覗きこもうとする魔術への嗜好は、即ち、そのままさかさまへの嗜好と言い換えてもさしつかえないんじゃないかな。……十一時から三時二十分まで『ルーデンス』にいたというアリバイも、考えてみれば極めてやわなもので、それを立証するのは、いくらほかに客がいたとしても、実質、対戦相手だったというマスターしかいない。だからふたりがぐるになっていれば……」

「お見事、お見事」

 どういう訳か、布瀬はもう有頂天になって、手さえ叩き鳴らしながら、

「それで動機は」

「ほかに考えられるものか。それほどお前が執着している魔術というものがあり、|剰《あまつさ》え『黒い部屋』という象徴的な部屋の持ち主であるお前が、曳間に『黒魔術師』というニック·ネームを横取りされていることへの逆恨みさ。一体、俺が思うに、確かにお前は魔術に関する造詣という点では誰にも負けないものを持っているよ。ただお前は、魔術のよき研究家ではあったけど、結局魔術師ではあり得なかった。……そうだよ。しかし曳問の方は、生まれながらにして、既に魔術師だったのさ。お前にはない、|天賦《てんぷ》の資質だね。お前はそれを赦せなかったんだ。何度も言う通り、この犯罪には、犯人の歪んだ自尊心と偏執狂的性格が露わになっているのであって……」

 一瞬、ぴくりと頬を硬張らせたが、布瀬はやはり笑顔を崩そうとしなかった。

「そうとも、そしてその歪んだ自尊心は、曳間の息の根を止めようとする、馬鹿げた狂気にまで膨らみあがっていたんだ。ふふん、お前が到底魔術師になり得ないのは、このナイルズの小説にも書かれてある通りじゃないか。それを誰よりも感じ取っていたのは、あの雛ちゃんだったんだ。そうだよ。魔法の季節は、既に終わりを告げていたのさ。お前はそれを認めたくない気持ちに踊らされて、曳間を殺してしまったんだ」

 その甲斐の最後の言葉は、沈鬱とも感じられるほどの低い声で投げ出された。なぜかその告発は、根戸の胸にも微かな痛みを残した。

 しかし布瀬はひきさがらなかった。甲斐の話が総て終わったと見ると、いよいよ悦にいったていで、

「あっは、全くもって愉快なことこの上ない。誤てる地点から誤てる論理を構築させれば、ついには一見事実らしい奇妙な体系ができるという、素晴しい見本だよ。しかし、飽くまでもそれは空中楼閣にすぎないのだぜ。悲しい|哉《かな》、その理論は、最後の肝腎な部分になって、自己矛盾に陥っている。いいかね。口裏をあわせるだけにせよ、それは共犯にほかならんだろう。それに実際のところ、そんな|姑息《こそく》な手段でこしらえたアリバイに、吾輩がそれほどまでに自信が持てるとお思いかね」

「その通りだ」

 布瀬に続いて、今まで沈黙を続けていた倉野が、重々しい声で言葉を返した。

「僕は自分の足で、皆のアリバイが確かなものか、ずっと調べてまわったんだ。甲斐の推理は残念ながら、そういう現実と照らしあわせる部分をすっとばかしている。……布瀬のアリバイは完璧なものだったよ。マスターだけじゃない。ほかの客にも二、三人当たってみたんだ。……ついでに言えば、杏子さんと僕も警察の調査通り、ウエイトレスやボーイの証言もあるから、アリバイに関しては絶対なんだ。……それからこれは根拠を示せないけど、僕は、君達だけには正直なことを、述べていることを判ってくれるかしら。僕は靴泥棒なんかしちゃいない。敢えて反論しなかったのは、そんな甲斐の推理から、ただ一分の真実が導き出される可能性を考えてのことだったけど、信じてほしい。僕は、靴を盗んだりなんかしないよ」

「判ってるさ。倉野」

 先刻から傾けていたホワイト·ホースのおかげで、既にとろんとした眼つきになっている根戸が|宥《なだ》めた。そうして短い髪の頭を掻くと、

「靴泥棒というのは、これまた妙な犯罪だけど、しかし、そいつは今度の事件と何の関係もないだろうよ。とにかく、甲斐の推理は残念ながら話にもならないものだから、早々にNGを出しておいて、次にとっかかって貰いたいねえ」

「そういうことらしいね」

 少し蒼褪めた顔でホランドも言って、

「そうすると次は、倉野さんの番だよ」

「ああ」

 倉野が力なく答えて、しばらく最初の言葉を捜している間、ナイルズは、ふと、|棘《とげ》がひっかかるような予感を覚えていた。

 その予感は、似たようなかたちで、その部屋に集う六人全員のものだったのだろう。ナイルズは二週間前の真沼の言葉を、改めて苦々しく噛みしめた。

 甲斐は、ソファーにま深に身を埋めて黙りこくっている。その態度は、何と言われようと、自分の推理が正しいのだという意思表示のようにも思われた。

 ナイルズがふと恐れたのは、そのようなかたちで、合理的な解決だろうと不合理な解決だろうと、それがもう一切関係なくなってしまい、ただいずれが真実であるのかも判らぬいくつかの仮説が、不意にむくむくと生命を得たように起きあがり、ぴょんぴょんと|跳梁《ちょうリょう》し始める、そんな事態だった。そうなると、もう取り返しがつかない。自らの正しさを主張してやまないいくつかの仮説は、勝手に歩きまわり、|跋扈《ばっこ》して、それぞれの現実のなかにはみ出てゆくだろう。ナイルズは、「構造は自らを守ろうとする」ものだということをいつか耳にしたことがあったが、さて、そんな事態に陥ってまでも、僕達はこのファミリーを存続できるのだろうか。あるいは、今度の事件によって始まった惨劇の本当のかたちは、存外そんなところにあるのかも知れない。ナイルズはそんなことを考えて、いたたまれぬ想いに捉われた。

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5 扉の向こうには

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「さて、僕の推理だけど、とにかく最初に僕の頭にあったのは、今度の事件の真相は、曵間が行方を|晦《くら》ましていたことと深い繋がりがある筈だという点だった。そうだよ。僕達はまず、曳問が失踪した理由から探ってゆかなければならないんだ。二週間やそこいらでは、なかなかだったけど、彼の足取りを辿りながら、僕はようやく奇妙なかたちの扉の前に行き当たることができたんだ」

 何を言い出そうとするのか、倉野はそう言葉を切ると、疲れたようにほっと息をついた。

「僕は正直なところ、今度の事件の真相なんて皆目見当もつかなかったんだ。『いかにして密室はつくられたか』の一章の最後に描かれた通り、全くの五里霧甲だったんだよ。ただ、あの時ナイルズが呟いた、『変格探偵小説的になら、一応の解釈がつけられる』という言葉だけは、妙に頭にこびりついていたんだけど。それが、あの扉の前に立った時、僕は全く予想もしなかった方向からの解決をつきつけられたんだよ。その扉は白く、冷たく、表情さえなかった……」

 その時なぜか、甲斐の表情に痙攣のようなものが走った。

「僕はまず、あいつと同じ教室の連中から、かたっぱしにあたってみた。消息自体はどうしてもつきとめられなかったけど、彼らの話を聞くうち、面白いことが浮かびあがってきたんだ。彼らが口を揃えて言うのは、曳間が常日頃からかなりの数の精神病院とコンタクト、を取っているに違いない、ということだった。というのは、そういう話題になった時、曳間は|夥《おびただ》しい患者の症例を、驚くほど詳細な部分まで示すことができたからなんだよ。勿論、素人の僕から見ても、その方面の才能は眼を|瞠《みは》るばかりで、『記憶におけるくりこみ原則』という最近の論文には教授達も言葉をなくしたほどらしいけど、……でも、そういった才能と臨床的な病例の知識とは別ものだからね。結局、彼らの推測を|纏《まと》めると、曳間が訪れた病院の数は、五指や十指におさまるものではなかったらしい。

「さて、そのことに関して、彼らのうちのひとりが興味あることを教えてくれたんだ。|妄想症《パラノイア》が独立した単位的疾患か、それとも分裂症のパラフレニー型の特殊なものであるのかという問題から、果たして純粋なパラノイア患者というものが存在するかという話になったというんだね。その時曳間は、即座に、その純粋なパラノイア患者の例をひき出してきたんだそうだ。その描写が、やはり非常に詳細なものだったので、彼はちょっとびっくりしたそうだが、それと同時に想い出したことがあったそうだ。それはほかでもない、富山のB*病院で、ある患者に純粋な妄想症の診断がくだされたという小さなニュースで、恐らく、曳問の持ち出したのは、そこの患者に違いないだろうということだった。そこで僕は、そのB*病院を、試しに訪ねてみたのさ。そしてそこに曳間という珍しい姓の患者がいることを知った時は、頭を後ろからガンと殴られた感じだったね」

「え?」

 思わず根戸は身を乗り出した。

「同じ姓の――」

「そう。これは曳問の秘密だったんだ。曳間には、本当はお姉さんがいたんだよ。病院に入院してたのは、そのお姉さんだった」

 微かなどよめきが部屋の空気を顫わせた。ホランドまでが凍りついたように眼を見開き、何かを口に出そうとして|顎《あご》を挙げた。しかし、それより|迅《はや》くナイルズが、

「じゃあ、曳間さんはずっと、その病院にいたってこと?」

「いや、そういう訳ではない」

 倉野はいったんそう否定しておいて、後を続けた。

「確かに曳問はその病院を訪ねて来ているものの、そのペースは今までどおり、月二回の割合、つまり曳間の消えた一ヵ月半に三回だけだった。ただ、そこの医師の話からも、曳間がいろんな精神病院や大学の研究室を訪ねまわっていたらしいことが判った。『あの人は本当に学生さんですかね。専門家である私の研究不足をつかれるような質問をなされるものですから』などと言わせるくらいだから、そちらへの打ちこみようも知れるというものだね。それで僕は、もう一度曳間のアパートに戻って、隣の住人からも話を聴いてみたんだ。ところが何と、驚いたことに、一ヵ月半は不在だったとばかり信じていたけど、実はちゃんと在宅していたらしいんだね。ただ、夜遅く帰宅し、朝早くから出かけていたから、顔を合わせる機会はなかったというんだよ。

「こうなってくると、曳間の活動は、隠遁生活にしては極めて精力的なものだったことが判る。警察ではもう、こんなこと調べつくしているのかも知れないけど、僕の捜査能力ではこれが限度だった。そこで、仕方がないから、僕はここから専ら推理だけで進むんだよ。

「さっきも言った心理学科のひとりは、こんな感想を洩らしてたよ。曳問の興味は、|畢竟《ひっきょう》、記憶というもの、及び、時間空間意識というものの、二点につきたのではないかとね。僕はその言葉を反芻していて、ふと想い出したんだ。今まで何回か聞かされた……そうだよ、ナイルズの小説にも書かれてあるし、事件当日、雛ちゃんが曳間に遇った時も話に出たという『不連続線』という言葉だ。記憶と時間空間ら意識、これはまさに、連続と不連続への興味、と言葉を置き換えてもさしつかえない。そうすると、曳間の歩いていたところは、やはりあの『霧の迷宮』だったのかも知れない。……ナイルズの先見の明もたいしたものだけど、驚嘆すべきは、やはり曳間の、幼い頃から抱き続けてきた〈想い〉にほかならないね。……しかし、その点はまあいいだろう。僕は何も、曳間の精神分析をしようとしている訳ではないからね。

 ……だけど、これだけは二言えると思うんだけど、雛ちゃんの聞いた不連続線という言葉は、今度の事件に重要な関係を持っている筈なんだ。ということはつまり、その言葉は犯人にとっても、重要な意味を持たなければならない。

「そうすると、そこに|自《おのず》と不思議な関係式が描かれる。犯人と曳間は『不連続線』という言葉を挿んで、互いに対立する位置にいた訳だ。つまり曳間が捜していた『不連続線』は、犯人にとって、ひどく忌わしいものだったんじゃないだろうか。そうだよ。犯人側の眼から見れば、曳間が『不連続線』を捜すことが、致命的な災厄と映ったに違いないんだ。どういう意味かは、もう判るだろう。曳問にとっての『不連続線』が、常に人間の精神そのものに|拘《かかわ》るものであり、なおかつ彼のお姉さんが精神病で入院しているとなると、犯人が怖れていたのも、まさにその精神病と拘る類いのものじゃないかということだよ。さて、そうすると、犯人にとって、精神病らとは何だったんだろうか」

 倉野はぐるりと、ソファーに腰かけた五人に視線を巡らせた。その途端にナイルズが、あっと小さく叫んで身を浮かせた。

「すると、倉野さん。例えば、犯人の身内にも精神病の人がいて、それを隠すために……」

 薄暗い黄色の光線を浴びて、ナイルズの顔は粘土細工のように|干涸《ひから》びて見えた。焦点をナイルズにあわせると、もうほかの者は、どんよりと濁った汚泥の底の、半分実体のない海坊主のように感じられる。それも総て、この色彩のせいなのだろう。根戸は強く眼頭を押さえつけた。

「ナイルズ。だけど、それは違うんだ」

 倉野はぽつりと言葉を返した。

「動機はそんなものではない。そうだよ。それは僕には判っていたんだ。あの時から。……曳間のお姉さんという人をひとめ見た時から、それは判っていたんだ」

 倉野は憂鬱な表情を露わにして、ほっと溜息を吐いた。

 ――これは一種のはったり[#「はったり」に傍点]ではないのか。

 根戸はふと、そんなことを考えていた。ナイルズの小説の一章の末尾に書かれていたのは、推理較べの席上において、生きている曳間を登場させ、犯人の度肝を抜くという、ナイルズの言葉からの連想による倉野の思いつきだったが、彼はその方法を応用して、犯人を心理的に追いつめ、その反応を窺って、真相をつきとめようとしているのではないのか。そう考えると、根戸自身、故知れぬ恐怖に襲われて、ぶるっと躯を顫わせた。

 黄色い光のおかげで、布瀬も甲斐も、そして双子の兄弟も、その顔色の変化は極めて判別がつきにくい。それどころか、その表情さえ読み取り難いとあっては、もしも倉野の目論見が根戸の推察通りの心理的脅迫だとすれば、この『黄色い部屋』は、それを遂行する場としてはいささか不都合だと言わざるを得なかった。そうすると、やはり根戸の疑問は、巣なる邪推に過ぎないのだろうか。

 ――そうだ。だいたい、今日のこの会合自体、こうして推理較べをする筈ではなかったんだから、倉野にそんな|奸計《かんけい》があったなら、やはり推理較べは全員が集まった時に、それも場所はどこか別の処で改めて、などと、もっと都合のいい条件に持っていこうとするに違いない。実際はそうでなかったんだから、こいつは俺の思い過ごしだな。

 しかし、なおかつ根戸が気になったのは、先程から甲斐の様子がどことなく落着かないことだった。ナイルズはいつもの、まるで邪心などなさそうな顔で、倉野の言葉に頷いたり、首を傾げたりしている。ホランドはソファーのなかに沈みこみ、布瀬は相変わらず尊大な様相を崩すことなく構えている。そんななかで甲斐だけが、その素振りに居心地悪さのようなものを窺わせているのだ。

 しかし倉野は、そんな根戸の考えを無視するかのように、首を垂れたまま、ぽつりと呟いた。

「そうなんだ。そして、彼女を見た瞬間、僕は、誰が犯人なのかも、判ってしまったんだよ」

「そんなことって」

 |捲《めく》れあがってゆく何かを押さえつけるように、ナイルズが呟いた。

「そんなことってないよ。それとも倉野さん。曳間さんのお姉さんが神がかりになって、犯人の名前を指摘したとでもいうの」

 次々に開示される奇妙な現実への戸惑いからか、ナイルズは思わずそんな鋼攤をとばしていた。しかし倉野は懶げな表情で、

「ふふ。あるいは、それに近いものだったのかも知れないんだよ」

 力なく笑うと、バック·スキンのジャケットから、煙草を取り出した。

 根戸は奇妙な惑乱を覚えていた。いかにもナイルズの疑問の通り、気の狂った曳間の姉を見た瞬間、犯人が誰であるか判ってしまったなどという、どんな古今の名探偵にも及びもつかぬ芸当をやってのけることが、果たして現実に可能なものかどうか。しかも、その動機まで見当がついたというなら、それこそナイルズの言葉のように、神がかり的なものでしかあり得ないだろう。

「彼女の名前は|理代子《りよこ》というんだそうだ。とても美しい人だったよ」

 ひとすじ、細ながい煙を曳いてみせると、倉野は想い出すように語り始めた。死人の皮膚の色に染め変えられ、脣などは紫色に黒ずんで見える。そのせいか、倉野の声も、どことなく人間のものではない、ひどく無機質な響きに思われた。

「曳問に病気のお姉さんがいるということを知った時、僕はひとりの人問の持っている、隠された悲惨な面を覗きこむ気分だった。血を分けた兄弟が精神病院にはいっている。しかも女だとくれば、ほかの者には秘密にしておきたくなるのも無理はない。僕はそう考えていたんだよ。惨めで|酷《むご》たらしい匂いを嗅いで、僕は全く気が滅入ってしまった。……でも、それは間違いだった。灰色の扉を開いて、その大部屋のなかにはいってゆくと、正面に大きな窓があり、白い大きな円卓の斜め向こうに、やはり白いドレスを纏って、その人は座っていた。ながい睫毛が深く被さって、窓から差しこむ柔かな光がそこに細かく反射していて、まるで色の玉を弾いているようなんだ。網目模様の細かい革を貼った椅子に、見事なくらいきちんと腰かけていて、はいってきた僕を、不思議なものでも見るように、ちょっと小首を傾げて迎えてくれた。僕は、果たしてこの人が狂ってるんだろうかと、眼を何度も|擦《こす》っては見直したよ。何か問いたげな顔で、視線を僕の眼に合わせて離さないんだ。本当に美しい、一点の曇りもない瞳だった。そんな瞳でじっと|瞶《みつ》められるものだから、僕は居たたまれなくなってしまっ スよ。医師が紹介してくれて、僕が曳間の友人だと聞くと、それが不意に、ぱあっと笑顔に変わったんだけど、あんなに素晴しい笑顔は見たことがない。そうなんだ。まるで彼女の躯全体から、やさしい風が吹きあげる感じなんだね。どういう訳かな、僕はその時、思わず涙が出そうになってしまった。

「そうなんだ。その時僕は、恐らく曳間とは異なった意味で、不連続線をまのあたりにしたような気がしたよ。僕と彼女との間には、絶対に|跨《また》ぎ越せない壁がある。そしてそれは、これからもずっと、永久にそうなんだよ。どこでどう、そんなふうに分けられてしまったのかは判らないけど、とにかくそこには眼に見えない壁があり、僕はそれを踏み越えることはできないんだ。僕は曳問に、少なからず嫉妬を覚えたくらいだよ。そうして事件のことを抜きにして言えば、僕は彼女に会うべきじゃなかったと痛いほどに思い知らされたんだ。

「分裂病の破瓜妄想型だとか聞いたけど、でも、そんなことはどうでもいい。一体、彼女の気が狂っているとしたら、何が異常で、何が正常なのか。僕は言葉を出せないまま、ただそんなことだけを考えていた。そうとも、恐らく、あの人が何の病にも冒されていなかったとしたら、あそこまでの顫えるような美しさは感じられなかっただろう。彼女の、本当に人間離れした輝きが、まさにその彼女を冒している病に支えられていることを知って、僕は、自分自身が情なくなってしまったんだ。そして、曳間がなぜこのことを秘密にしていたのか、その本当の理由も、僕には判るような気がした。そうだよ。却って、彼女は曳問にとっての、かけがえのない宝石だったんだ。僕だって、あんな人が身近にいれば、誰の眼にも触れさせず、ひとりで静かに、遥かな瞑想に|耽《ふけ》らせておいてやりたいという想いにかられるだろう。結局、あの森に囲まれた静かな病院は、曳間の帰ってゆく楽園のようなものだったんだね」

「オイオイ、倉野」

 薄い鼻を軽く|抓《つま》みながら、そこで口を挿んだのは布瀬だった。

「そこいらの説明は、もういい。それで肝腎の犯人の方はどうなってるのかね。お前がその人をひとめ見ただけで、犯人が誰だか判ったというのなら、もしかすると、ほかならぬ彼女が曳間を殺害した犯人だとでもいうつもりかね。あっは。誰よりも白らを愛してくれる実の弟をうその愛ゆえに殺してしまうというなら、なかなかロマンティックで面白いけれども、だね、富山の病院を抜け出して、お前の部屋まで出かけたというのは、少し現実離れのした話ではないか」

「いや、そこは安心して貰っていい」

 布瀬の皮肉にもとりあわず、倉野は再び顔を曇らせた。

「犯人は彼女ではない。僕がひとめ見て、犯人が誰か想像がついたというのは、それ相応の理由があったからなんだ」

「いやにじらせるね。一体何だよ、そりゃあ」

 根戸が尋ねると、倉野は微かに笑ってみせた。

「全く思いがけないことだったけど、曳間のお姉さんは、ナイルズとホランドほどではないにしても、ある人物にそっくりだったんだよ。誰だと思う? それは杏子さんなんだ」

 あっ、という言葉が一同から洩れた。

 根戸は思わず、甲斐の方を振り返った。それは一瞬の錯覚に過ぎなかったのだろうか。甲斐はこれまで一度も見せたことのない凶悪な形相で、倉野の方を睨み据えていた。黄色い翳に充たされた部屋のなかで、甲斐の眼だけが、ぼおっと青白い光を放っているようでもあった。

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6 カタストロフィーの罠

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 鬼が、心なしか笑ったようだった。黄色い光のなかで、それは不意に躯を揺るがせそうな気配さえ湛えている。

 ――違う違う。

 それにしても、一体誰が真実を|知悉《ちしつ》しているというのだろう。ひょっとすると、曳間を|殪《たお》した者さえも、総ての真相を見通している訳ではないとしたら。

「僕の頭のなかに、わんわんと|谺《こだま》していたのは、『そうだったのか』という想いだった。判るだろう、甲斐。僕が何を言いたいのか。全く、あそこまで見事な相似関係をつきつけられると、君が単に理代子さんの存在を知っていただけですまされないのは明らかだね。君が杏子さんに夢中になったのも、彼女のなかに、理代子さんを見てのことだったに違いないんだ。そう、君は理代子さんに恋をしていたんだよ。

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