饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.3

「しかし、それは虚しい恋だった。相手は何しろ、この世界の住人ではなかったんだから。君は彼女をただ、現実という名の奇妙な場所から眺めるしかなかったんだ。そうとも。彼女は誰もはいりこめない、自分だけの世界にいて、君はそれを見上げていることだけしかできなかった。

「聞いたところ、彼女が発病したのは十五の時だそうだね。尤も、その微候はもっと以前からあったと見るのが正確だろうから、実際は君が彼女を知った頃から、既に君の恋は|酬《むく》われぬものに定められていたのかも知れない。さらにその二年後、彼女はあの病院に入院してしまって、君はいよいよ苦しい立場に追いこまれた訳だ。

「実は僕は、金沢の曳間の家にも訪ねて行ったんだよ。親爺さんは曳間が高校の時に亡くなったのは聞いていたけど、あの家にお母さんひとりで住んでいるのは、いかにもぽつんととり残された感じだった。もうひどく喜んで迎え入れてくれてね。そうそう、君が曳間の葬式に出席したことをとても感謝していたよ。|遽《あわただ》しくてろくに話もできなかったのですが、よくお礼を言っておいて下さいなんて言われてね。僕は何とも複雑な気持ちで、それを承知してきたんだけど。

「君はよく知っているだろう。|紫苑《しおん》の植えられた庭に面する、あの縁側を。秋になれば、あそこも淡い紫色に包まれて、すぐ向こうの深い藍の沼を背景に見事だろうと、つい空想に惹きこまれたけど、あそこで僕はいろんな話を聞かせて貰ったんだ。無論、理代子さんのこともね。彼女のことになると、さすがにお母さんも眼を|屡叩《しばたた》かせてね。それでも曳間の想い出と共に、様ざまなことを語って聞かせてくれた。そのお母さんが忘れられないというのは、何でもいい、尖ったもの、例えば、千枚通しの先でも傘の先でも万年筆の先でも、とにかく尖ったものを上向きにして、そこにビー玉やらピンポン玉を乗せようとする、不思議な行為なんだね。勿論、そんなところに丸いものが乗せられる訳がない。だけど、いくら落っこちても、何回何十回何百回と、それを飽くことなく続けていたというんだよ。それがどんなに思い通りにいかなくとも、決して苛立った様子も見せずに、果てしなくその行為を繰り返しているんだ。何のためにそんなことをしているのかと尋ねても、ただ、これがこの上に乗っかって落ちようとしなくなった時に、世界が救われるのだと答えるだけなんだね。その表情はとても真剣で、親の眼にも神々しくさえ見えたというんだ。あはは、現代版の『シジフォスの神話』だね。でも、冗談じゃないのかも知れない。そんな虚しい行為を続ける人間がいるというだけで、この世界は少しでも救われているのかも知れないよ。僕はそう思う。

「話が|逸《そ》れたけれど、甲斐。お母さんの話だと、君はその頃に曳問の家によく訪れていて、彼女と一緒になって、その奇妙な行為のお手伝いをしていたそうじゃないか。酬われぬ恋というのは、そんなものだろうか。いや、あるいは君は、そんな時が、最高に幸せだったのかも知れないね。恐らく、彼女は君にとって、ひとりの天使以外の何者でもなかったのだから……」

 根戸は倉野の言葉を聞きながら、強烈な怯えを背筋に感じていた。甲斐の表情は、錯覚などではなく、確かにかつて見たこともないほどに歪められ、その眼は邪悪な光を宿している。根戸はその眼を、何かの記憶と照らしあわせるために急いで頭のなかのページを捲ったが、思いあたったのは、プラム·ストーカーの『判事の家』に登場する、なにものとも判らぬいやらしい生き物の眼光だった。気弱な甲斐の隠された部分に、ひっそりと飼われるようにしてこのような凶悪な形相がひそんでいたのだとしたら、一体人間の本性というのは何だろう。曳間の姉という女性ばかりではない。今、こうして眠っていた狂暴性の一端を見せた甲斐も、そしてその狂暴性を眼醒めさせた倉野も、みんな狂っているのではないか。

 根戸は顫えだそうとする奥歯を噛みしめながら、そっと甲斐の方に視線を移した。甲斐は強いて感情を押し殺すように、グラスの方にゆっくり氷を運びながら、低い声で倉野の話に答えた。

「面白いな。面白いよ。倉野。たいしたものさ。……それで、お前の言いたいのは、俺が曳間を殺した犯人だということなんだろ。今までの話の最中にも言いたいことはいろいろあったけど、まあそこまでは認めるとして、さて、俺は|何故《なにゆえ》に、そしていかにして曳間を殺害したというんだ」

 根戸のグラスのなかで、ゆっくりと氷が融けていった。恐ろしい睨みあい。きりきりと曳き絞られてゆくように、部屋全体がふたりの対話に耳を|欹《そばだ》てた。

 誰かが微かに、ひとつ咳をした。その機を狙ってか、倉野はほっと息を|吐《つ》くと、眉を押さえるようにして再び語り出した。

「その前に、まず頭に止めておいて貰いたいのは、君が理代子さんに恋していたことを、たったひとり、知っていた人間がいたということだ。言うまでもない、それは曳間だよ。ずっと以前から気づいていただろうし、それでなくとも、自分の姉にそっくりの女性を紹介されて、これが最近、親しくつきあっている人だなどと言われれば、どんな鈍感な人物だって、ピンと来ない筈はない。そうだよ。君の気持ちは曳間には判っていたということ。これがひとつの前提なんだ。

「さて、君は、理代子さんの身代りとしての杏子さんとつきあった。そちらの方の結果はどうだっただろう。これは皆も承知の通りだ。事態は君にとって、あまり芳しいものではなかったようだ。僕達の眼には、杏子さんの方が君を適当にあしらったと映ったけど、そこのところの真相は僕には判らない。とにかく、いずれにせよ、君の想いは受け容れられるべき場所を失ってしまった。それは随分苦しいことだっただろう。……勿論君は、こんな言葉を望んではいないに違いないけど。

「しかし、人間なんて面白いものだね。最初から諦めなければならないことが判っている時は、どんなことでも存外堪えられるものなんだ。けれどもそれがいったん、違った方向から適えられる|兆《きざ》しを見せられると、もう駄目なんだね。全く、杏子さんと出会った時の君の気持ちが、僕には痛いほど判るようだよ。君がずっと胸の奥底に強く抑えつけて、今ではすっかりその痕跡さえ留めていないかと思われていたものが、その止金を失い、みるみるうちに|弾《はじ》け展がって、君の胸のなかを、薔薇色に埋めつくしてゆく様が。……何も僕が説明するまでもない。この時の君の気持ちは、そのまま君の描く油絵に投影されているものね。彼女と知りあうまでの君の絵は、写実主義的なところを模索していて、しかも概してバロック趣味の強いものが多かったね。ところが恰度去年の夏あたりから、君のタブローには抽象画的要素が|横濫《おういつ》し始めるんだ。パレットには、より原色に近い色が用意されたし、そのタッチは、以前の〝塗る_感じから、〝滑る_|迸《ほとばし》る感じに なったじゃないか。……尤も最近は再び元に戻っているようだけど。

「全く、人間の抑制心なんて、少し異なった方向からの作用には、まるで|脆《もろ》いものなんだね。君は忽ち有頂天になってしまった。曳問がそれをどんな眼で見ていたのかはもう判らないけど、もしかすると杏子さんを紹介された時から、彼は何らかの破局を感じとっていたのかも知れないね。そうなんだよ。無論、曳問がいくら優れた心理学者だろうと、その形がどんなものになるのかまでは予測がつかなかっただろう。しかし結局、その破局は思いがけず早く来たんだ……」

 根戸はぴくりと肩を揺すらせた。

 推理較べという催しが予定された時から、いずれこの三角関係が|俎上《そじょう》にのせられずにおかないことは、ある程度予測がついていた。しかし根戸は、それがこんなにも苦々しいものだとは、結局のところ、考えてもみなかったのだ。

「結局、そのカタストロフィーが起こったのは俺のせいなんだな」

 ソファーの黄色い毛玉を|縄《むし》りながら根戸は言い、

「……しかしな、倉野。お前の今述べているそのことが、現代数学では、ありきたり[#「ありきたり」に傍点]なモデルで表わされるとしたらどうだい」

「どういうことだ」

 倉野が眉を|顰《ひそ》めると、根戸はテーブルをコンと叩いて、

「ふむ。それでは少しばかり、数学的な話をさせて貰ってもいいかな。ほかでもない。俺の言ってるのは、かの有名な『カタストロフィー理論』のことさ」

 そう前置きすると、布瀬もアルコールのために少し蒼褪めた顔をこちらに向けて、

「ふふん。そういえば、聞いたこともあるな」

 呑気そうにそう呟いた。

「その程度とは情ないな。カタストロフィー理論ってのは、この世に起こる総ての現象を解明するために生まれた、現代数学の鬼っ子なんだぜ。隠秘哲学やカバラの話なんかでない、最も合ら理主義的な学問である数学から生み出されたところに、この理論の値打があるのさ。よく聞いてくれ。まず、この理論の柱となる定理は、こういうものなんだ。つまり、『四次元時空連続体における、総ての現象に現われる不連続的な激変の型は、七種類のタイプのいずれかに該当する』とね。判りやすく言えば、自然界の総ての現象は、七種類の型しか持ち得ないということだ。念のために言っとくが、この理論で使われるカタストロフィーという言葉は、その不連続的な激変を差している。だから、それは何でもいい。膨らませていた風船が破裂する。繁栄していた経済が、突然恐慌に陥る。地震が起こる。勉強のできる奴が、急に成績がさがり、数学を専攻している者が、密教に狂い出す。赤ん坊が火のついたように泣き始め、どこかで戦争が勃発する……と、考えてみれば、この世は全くのところ、限りないカタストロフィーの繰り返しだね。そうしてそのなかには、勿論、今までおとなしかった者が突然殺人を犯す、という項目も含まれてるんだぜ。

「これらの総てが、たった七種類の型しか持たないというのは、ちょっと聞いただけでは嘘みたいな話だろ。しかし、数学の上ではそういうことになっちまうんだな。詳しい説明は避けて端的に言えば、その七つの型とは、折り目、|楔《くさび》、|燕《つばめ》の尾、蝶、双曲的|臍《へそ》、楕円的臍、放物的臍と、それぞれこんな名称を与えられたものなんだが。いや、これは出鱈目なんかじゃない。正真正銘、本物の専門用語さ。

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「はてさて、そんな前口上をいくら述べたって納得して貰えそうもないから、さっきの倉野の話で思いついた図を示すとするかな。いいかい、こいつは七つのカタストロフィーの型のなかでも二番目に単純な、楔の曲面によって表わされるものなんだが……」

 そんなことを言いながら、根戸は取り出した手帳を開いて、そこに奇妙な図を描き始めるのだった。

 甲斐以外の者は、好奇心に惹かれるままに、その図を覗きこもうと、身を乗り出して頭を集めた。

「その図が、殺人事件の真相を表わしていると言うのかね」

 布瀬が皮肉っぼく口を出すのに続いて、ナイルズが、

「下手糞な図だね」

「ちえっ、勝手なことを言ってるな。さあ、いいかね。この図には、三本の軸がある」

「なあに、座標の問題なの。僕、これだけはついて行けないよ。降参だあ」

「まあ待て、ナイルズ。早まっちゃいけない。この軸はそれぞれ、このように、恋愛傾向、諦念傾向、殺人傾向を表わしてるんだよ。こちら側に来るほど愛情の大きい状態。この横の軸は、左側はあきらめている状態、右側は抑制心のない状態だ。そして、この面妖な曲面と垂直に交わっているのが肝腎の殺人傾向軸で、上側は殺人を犯さない。下側になると、殺人を犯す傾向が強くなる」

「あはあ、そういうことなら話は面白そうだ。で、どうなるの」

 眼を輝かせて、ナイルズが頭を近づけると、根戸は万年筆をテーブルに打ちつけながら、

「これがつまり、甲斐の心理の、|楔型《カブス》曲面モデルさ。ほら、甲斐が杏子さんと知り合う前は、つまり、理代子さんとやらに恋をしていた時には、この平面上の、あきらめの強い状態、仮に言えば、この点Aから出発しているんだ。だから、理代子さんに対する愛情がいくら大きくなろうとも、この図で言えば手前の方向にひっぱられるだけだから、この太線aを辿るだけで、結局殺人を犯す心理状態には至ることがない。

「はてさて、それが、杏子さんの出現によって、事態がどう変わるか。それはこうだ。最初はあきらめの強い点Aにいるんだが、理代子さんにそっくりで、しかも彼女のように病気でも何でもない杏子さんとの交際は、甲斐の心理を、この手前の方向と共に、X軸の右側、つまり、あきらめなくてもいい方向へと|牽引《けんいん》してゆくんだな。そうすると、甲斐の心理は結局、二方向の力によって、太線bの上を辿ることになるんだよ。これは誰の眼にも明らかだろう。

「しかし、これがこの状態のまま、ずっと続いたとしても、やはりこの線bは、決して殺人を犯す状態には行きつかない。ふむ。しかし、突如、甲斐と杏子さんの関係に、原因は何でもいい、ある|障碍《しょうがい》がはいったとしたら、一体どうなるか。つまり、今まで蓄えられていた恋愛度が、一挙に御破算になった場合だな。

「勿論、その時の条件として、線bが、Y軸の上を横切った充分あと、つまり、甲斐の抑制心が、すっかり解放されてしまった後とする。例えば、この点Bの処まで来た時に、その情況が突発したとするなら、甲斐の心理状態は、再び線bを後戻りして、点Aにまで還ってゆくのだろうか。いや、実は、そんなふうにはならないんだぜ。そこがつまり、倉野がさっきも言った通り、人間の心理の面白いところさ。どういうことかというと、恋愛度の方は否応なく原点0にまで引き戻されるんだが、諦念度というか、抑制度の方は、そんなに急激に変動できない。それでどうなるかというと、結局、恋愛度の方だけが急速に冷めてゆく結果、点Bからの心理軌跡は、Y軸にほぼ平行な、太線cを辿ってゆくんだ。さて、御立会い。

「注意すべきは、線cをずっと辿ってゆくと、ついには平面の折れ曲がった縁にまで到達してしまうことだ。さて、そこで一体、どういうことが起こると思うね。|縁《へり》へ来ても、飽くまでX軸の方向へひっぱる力は否応もない。そこで、一同御期待の、例のカタストロフィーが起こる。つまり、何のことはない。縁からはみ出した甲斐の心理状態は、つんのめって、下側に待ち受けている面まで、まっさかさまに墜落しちまうんだな。そこでみんなも気がつくと思うんだが、その落っこちた処の点CをZ軸に照らしあわせてみると、まさしく殺人を犯す状態に陥っていることが一目瞭然だろう。そうなんだよ。甲斐の墜ちた処はまさしく奈落の底であってさ。ここに突如、普段はおとなしい甲斐が、曳間を殺害するというカタストロフィーが成立する訳なんだ。……判ったかい」

 言い終わって脣を舐めながらテーブルの周囲を見渡す根戸に、最初に口を開いたのはナイルズで、

「でもさ、根戸さん。その移動する点が、重力に|牽《ひ》かれるのでもないだろうに、下へ落っこちるというところが、どうもクサイね」

「あはあ、ナイルズ。お前、ひょっとしてこいつを、パラドックスの問題か何かと勘違いしてるんじゃないのか。この図は単に、その考え方を示しているだけなんだぜ。まさか俺だって、甲斐の頭のなかに、こんな妙な恰好の紙っぺらみたいなものがあって、その上を心理状態が匍いまわったり墜落したりしているんだなどとは思っちゃいないさ。ただ、人間の感情の変化もカタストロフィーの七種類のモデルのうちのひとつに、ぴったり重なってしまうということを述べてるに過ぎないんだ。納得できないのなら、この面をさらに、真上から見たところのコントロール平面として……」

「だけど、根戸さん」

 さらにその図の下に、何かを描こうとする根戸を差し止めて、しばらく沈黙を守っていたホランドが囗を出した。青のナイルズとは別に、黄色のシャツを着ているホランドは、黄色い照明のなかで、色の存在を感じさせなかった。

「根戸さんの言ってるそれは、単に、倉野さんの仮説のモデル化に過ぎないじゃない。そうだよ。いろんな具体例をもとにそれぞれの数値や関数を決定して、そこからそのモデルの操作によって、甲斐さんが殺人を犯さずにはおれない状態にいたことを、のっぴきならないまでに証明してしまうのならともかく、今の話からは、何物も生まれてこないと思うんだけど」

「あはあ、それはまさしくそうだよ。何、俺は全くのところ、倉野の仮説を、純粋に数学的な立場から言い換えるつもりで、こんな話を持ち出しただけさ。だから、茶々はもうこれでやめて、俺はすぐさまひっこむんだ。さあ、倉野。勝手に後を続けてくれ」

 言い終えて後ろにふんぞり返ると、ナイルズは狐に抓まれたような顔をして、何か言いたそうな視線を倉野の方に戻した。倉野は依然、|懶《ものう》げな表情を変えぬまま、ふと微かな笑みをのぼらせると、

「ははあ、全く、根戸。君らしい牽制だね」

 それには応えようとしない根戸から、黙りこくっている甲斐の方に再び顔を向けた。

「話の段取りが少々狂ってしまったけど、結局のところ、破局は起こるべくして起こったのだということ。そうだよ。君は、杏子さんとの関係が旨くいかないことを悟った時、どうしてももう一度、理代子さんとの問題にぶつからねばならなかったんだ」

「だけど少し変だと思わない。それなら甲斐さんは根戸さんをこそ殺すべきじゃないの。殺されたのは曳間さんなんだよ」

「いや、そうじゃないんだ。もしも殺害の対象に根戸を選べば、甲斐は理代子さんを裏切ることになってしまう。なぜならそうした時、問題は杏子さんの方に完全に移ってしまったことになるからね」

 その言葉に甲斐は、堪えきれなくなったように声を絞り出した。

「それで……それで、俺は一体、なぜ曳間を殺さなければならなかったんだ。……ほかの誰でもない、曳間を殺さなきゃ……」

「さあ、それだよ。殺人を実行する心理状態にまで陥ってはいても、その対象に曳間を選んだからには、それ相応の決定的な要因がなければならない。理代子さんの幻影である杏子さんが、やはり幻影に過ぎないと気がついた君は、そして再びのっぴきならぬ恰好で理代子さんへの思慕と直面せざるを得なかった君は、そこでどんな種類の扉をくぐり抜けたのか。……それはこうなんだ。既に抑制心を失っている君は、是が非でも、とにかく理代子さんへの想いを結実させなければならなかった。そうしなければ、君の精神はもう均衡を取ることさえできない状態下にあったんだ。心のバランスを失ったあげく、そのまま発狂してしまうのか、それとも手綱から解き放たれてしまった巨大な欲求を貫き通すのか。これは無意識·前意識領域からの、絶対命令だったんだよ。

「しかし勿論、その欲求を真正直に遂行できないことは、これも絶対条件として君の前に立ち塞がっている。はてさて、こんな時、一体どうすればいいんだろう。ふたつの絶対に挟まれて、ただ静かに精神の崩壊を待つしかないのだろうか。いやいや、そうではない。真正直に欲求を貫くことはできなくとも、問題は常に、その欲求の満足という点にかかってるんだ。従ってそこで、理代子さんへの想いには、ある操作が加えられることになる。代償というのか置換というのか、とにかく、その操作によって歪められた衝動を解放することによって、最初の欲求の肩代りを果たさせる訳だね。

「さて、その場合問題になるのは、甲斐の性格にほかならない。心理学においては、個体が何らかの|障碍《しょうがい》によって欲求の満足を阻止されている状態をフラストレーションと呼ぶけど、そのフラストレーションに対する反応によって人問を大別すると、自罰的反応及び外罰的反応という型になるそうだ。このうち、白罰的反応型の人間の場合、最初の欲求はどういう具合に歪められるのかというと、罪と自責の感情を伴って攻撃衝動が自分自身に向けられる。それが大きければ、自殺衝動となって表われる訳だ。ところで甲斐の場合はどうだったのかというと、その歪曲的操作は外罰的反応の方向に誘導されたことに間違いない。

「ローゼンツワイクによると、フラストレーションに対する外罰的反応というのは攻撃が環境などに向けられるもので、怒りや憎悪を伴うとある。さて、この場合、理代子さんへの想いに、一体どういう歪曲が加えられるのか。……僕の出した結論とはこうだった。理代子さんへの思慕に抑制がきかなくなり、しかもその想いの報われることが、全くあり得ない状態があって、君がそのどうしようもない感情を、自分自身以外のものに憎悪としてぶつける場合、曳間をその対象にする以外、ないのだと。そうだよ。これは大きなさかさまなんだ。その時、理代子さんへの愛は、理代子さんを最も愛している者への憎悪[#「理代子さんを最も愛している者への憎悪」に傍点]へと歪められてしまったんだよ。ああ、君はあるいは、そんなことさえ自覚していなかったのかも知れない。自分の頭のなかで、どんなメカニズムによって葛藤が歪められていったかも知らず、ただただそのことを実行するほかなかったのかも知れない。……そうなんだよ。君はとにかく、白らの精神のバランスを保つために、曳間を殺さなくてはならなかったんだ。

「恐らく、曳間自身、君と杏子さんとの間を見ていて、そのことに気がついたんだろう。だからこそ、彼は行方を|晦《くら》ましたんだよ。そうしてその間に、君の解き放たれた攻撃的な衝動が抑制されるよう、時間的な猶予を持たせようとしたんだ。あるいはひょっとすれば、そんな甲斐の精神状態そのものが、曳間にとっては興味深い対象だったのかも知れない。殊に、人間が殺人に|赴《おもむ》こうとする状態から、そうでない状態に移る、その一瞬はどこにあるのかという問題には、非常な興味があったに違いないだろうね。

「言い換えれば、それもひとつの『不連続線』にほかならないだろう。曳間が雛ちゃんに喋った言葉の意味は、そんなところにあったのだろうと僕は想像している。

 何。あの〈黒魔術師〉と仇名された曳間のことだ。カタストロフィー理論の応用かどうかは知らないけど、実際にその時期がいつ頃なのか、見当をつけていたに違いない。そして、それがまた、彼にとっての大きな|陥穽《かんせい》でもあったのは、何とも皮肉な話としか言いようがない。

「そうなんだね。曳間は大きな誤算を犯していたんだよ。そうでなくて、どうしてあんなにたやすく、心臓をひと突きでやられてしまうものか。自分の推測を信じきっていたからこそ、彼は僕の部屋にしろ、甲斐と|対峙《たいじ》する機会を持ったに違いないんだ。ねえ、甲斐君と曳間の間に、いつ僕の部屋で落ち合うような連絡が交されたのか、そしてそれはどちら側の提案だったのか、それは僕には判らない。だけども、君の殺人衝動は曳間の予測を越えるほどに根強く、生半可な抑制力ではきかないものに膨れあがっていたんだね。僕に判るのはそれだけだ。君がいかに理代子さんを愛していたのか。……そうしてそれゆえに、君はついに曳間を殺さなければならなかった……」

 そう呼びかける倉野の声には、いたわりさえ感じとれた。そしてそれを受けとめる甲斐は、相変わらず面を伏せ、小刻みに肩さえ顫わせていた。少なくとも、根戸にはそう思われた。が、顫える肩は次第に不自然な動きにまで昂まっていった。宙空に釣りあげられるように、二、三度痙攣を見せる。

「おい、甲斐?」

 またしても根戸はあちら側を覗きこんだような気がした。甲斐は、おかしさを必死に押し殺していたのだ。声にならない笑いを|怺《こら》えつつ、そして今、ついに怺うえきれなくなったように、微かな声が洩れたかと思うと、それは忽ち爆笑へと変わっていた。

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7 殺人狂想曲

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 甲斐の笑いに度肝を抜かれたのは、根戸だけではなかっただろう。しかしそのなかで、全く平静を保っているのが倉野だけだったこと自体、どこかしらつくりものめいたところがあった。

 そのとき根戸は、ホランドの様子がおかしいのに気がついた。想いつめたように脣を噛み、膝の上で組んだ掌のなかで、両手の概擶の爪を突きあわせ、ぶつぶつと神経症的な音を立て続けているのが、向かいの布瀬には耳障りらしく、ホランドと甲斐を見較べていたかと思う間に、

「おい。いい加減にしろ!」

 そう怒鳴った。

 アルコールがはいればはいるほどに蒼褪めてゆく体質というのは、傍目にはあまり気持ちのよいものではないが、殊に布瀬の場合、細いひと重の瞼のまわりが次第に青黒く沈んでゆき、それに反して三白眼の瞳だけが妙に潤んでゆくとあっては尚更である。そんな布瀬の怒鳴り声を、甲斐は自分に向けられたものと思ったのだろう、哄笑を押し留めて、

「あはは、いや、倉野。大したもんだよ。たったひとつのきっかけから、これだけ見事な大作が描かれてゆく様など、ちょいと拝めるものじゃないからねえ。いやほんと、お前は俺なんか及びもつかない心理学的探偵さ。脱帽する。……で、勿論、犯行方法の話がこれから始まるんだろうね」

 挑発ともとれるその言葉に、眉根ひとつ動かさず、倉野はゆっくり言葉を返した。しかし、その意外さに、今度は確かに他の四人全員が呆気にとられた。

「物理的な犯行方法に関しては、僕は何も判らない」

 これには、甲斐も返す言葉がなかった。

 一拍遅れて布瀬が、

「何だって」

 そう叫んで腰を浮かしかけた。

「どういうこったね。それでは事件の解決にも何もなっておらんぞ。合理的な犯行方法を指摘してこそ、その推理は初めて意味をなすのだぜ」

 しかしそんな非難の言葉にも、倉野は疲れたような笑みを浮かべたまま、

「だけど、実際そうなんだ。甲斐のアリバイを証明するのは真沼·羽仁·ナイルズと、三人もいる。尤も、死亡推定時刻あたりのアリバイは、ただ真沼と一緒に高田馬場をうろついていたとだけしか聞いてないから、つきつめて調べれば真沼の偽証を仮定せずに穴をあけられるかも知れない。しかし三時過ぎの方に関しては、どうしても三人の偽証が必要になってしまうんだ。それは勿論、第三者に殺人を依頼したのなら話は簡単だけど、どちらにしても共犯者がいない限り、甲斐の犯行は不可能と言うほかない。……判ってるよ。推理の戒律に、共犯者の排除を提案したのは僕自身だ。そして僕は今でも、それを撤回するつもりはない」

「ハハア、すると、お前は一体、何が言いたいのだね。お前自身、ありもしないと判っていることを、今までさも現実らしく説明してきたのかな」

 じりじりしているふうに布瀬が問いかけても、

「うん。まあ、そう言ってもいいのかも知れない」

 と、至って手応えのない返事しか返ってこない。そこでついに堪忍袋の緒を切らしたらしく、布瀬は青筋さえ浮きあがらせて、

「倉野! 貴様、吾輩達を馬鹿にしているのか。結局合理的な解決を思いつかなかっただけだろう。それならそうと、潔く言うことができんのか」

 そう激しく喚きたてた。しかし、根戸にはむしろ、倉野がそんなふうに自分でも信じていない仮説をでっちあげたにせよ、それを指してこれほど激昂するという方が不思議な気がした。しかし、飽くまで布瀬の瞳は、思考を読みとることを拒むかのように潤んでいる。何なのだろう。一瞬そういった疑問が脳裡を掠めたが、しかしそれも次の倉野の言葉にかき消されてしまった。

「本当のことを言えば、ただひとつ、辻褄のあう説明がないでもないんだ」

「それは」

 逃げてしまいそうな|艫綱《ともづな》に手を伸ばすように、間髪をいれずナイルズが言葉を挿むと、倉野は脣を奇妙に|捩曲《ねじま》げてみせた。

「つまり、僕があのアパートに帰ってきた時点で、あの建物のなかには誰もいなかったのではないかと、ね」

「すると、靴がなくなったのも、閉めた筈の戸口が開いていたのも、機械的なトリックに過ぎなかったと――そういうことなの」

「しかし」

 と、布瀬もナイルズに続いて声を絞り出して、

「吾輩もそれに関しては、さんざん頭をひねくってみたものさ。しかし靴だけは、瞬間的に灼きつくしてしまうか、それともかなり巨大な風船で空に飛ばしでもしない限り、消し去ることはできん。第一、そんな装置を仕掛けたとしても、どうしたってその痕跡は残らざるを得ないだろうが」

「そうなんだ。機械的トリックも、恐らく不可能なんだよ」

 これもあっさりと手応えもなく肯定してしまう。再び頭に血をのぼらせた布瀬は、

「はっきり言え。何が言いたいのだ!」

 そう叫んでテープルを思いきり叩きつけた。その途端、グラスが一斉に躍りあがり、そのうちのホランドのものが、彼の掌を滑り抜けて床に落ちた。

「あっ」

 小さな叫びはホランドのものだった。それにうち重なるようにバーンと音がして、黄色い床にジュースが飛び散った。まるで卵、を落としたようだった。

 ――変だ。

 何がその変な部分なのか、自分でもよく判らない。しかし、確かに根戸にはそんな予感がした。その予感に、倉野の言葉が割りこんだ。

「はっきり言うと、こうなんだ。あの時、あの踏板の前にはグレーのデザート·ブーツなどなかったんじゃないか、とね」

 頭のなかを走り抜けたその言葉に、しかし今度は根戸が、思わず奇声を発していた。

「何だって。倉野。お前」

「いや、待ってくれ。僕は、決して君達を馬鹿にしている訳じゃない。僕はただ、こういうことを述べてるだけなんだよ。つまり、甲斐が犯人だという僕の直観と、それを支える動機に関する推理が正しいとするなら、あそこに靴があったという僕の目撃した現実の方が間違っているということにならざるを得ない。……ふふ。『心理的証拠と物理的証拠が互いに矛盾する場合、物理的証拠のほうが間違っている』というテーゼを持ち出したのは甲斐だったけど、これはその極端な例とでも考えて貰おうか」

「だって、それは無茶苦茶だぜ。お前、今更靴は存在してなかったなんて、前言を|翻《ひるが》えすつもりかよ。そりゃないぜ。一体俺達は、何を信用して推理を組立てりゃいいんだよ」

 必死に喰いつく根戸達に、

「いや、そこは誤解しないで貰いたいんだけど、僕は確かにデザート·ブーツを眼にしたし、戸口もちゃんと閉めた筈だ。それは、今でも確かにそう証言できる。ただ僕の言っているのは、それらが幻覚に過ぎなかったのではないかという、ひとつの仮説の提唱なんだよ」

「ホホウ、これは妙だ。お前自身の言葉で言えば、曳間の令姉に|倣《なら》った訳でもあるまいに、あっは、針の先に丸い玉でも乗っけようとしてるようだぜ。するとお前は、自らが体験し、そう確信してもいることを、全く否定しようともいうのだな」

 右眼の下あたりを歪ませながらの、そんな布瀬の皮肉にも、

「そういうことだね」

「しかし、倉野さん。やっぱりそれは無茶苦茶だよ。だって、事実を否定してもいいのだったら、僕達、やっぱり推理較べなんて続けられないじゃない」

「そうだろうね」

 取りつく島もない倉野の返事に、さすがのナイルズも頭にきたらしく、

「ねえ。一体、どういうことなの。全くいつもの倉野さんらしくないや」

 責めるように言うと、倉野は憂鬱な表情にさらに翳を落として、これまた意外な、しかし聞きようによっては負け惜しみともとれる答をよこした。

「ナイルズ、君からそんなことを言われるのは心外だね。僕は、君ならこの意味を汲み取ってくれると思っていたんだけど。……よく考えてほしいな。僕がなぜ、こんなことを言うのか。ほかならぬあの小説を書いた君には、判る筈なんだよ」

 ナイルズが眉を|顰《ひそ》めるのも無理はなく、一同は狐に抓まれた想いで、倉野を瞶めるばかりだった。犯人として名指された当の甲斐ですら、事態が妙な方向に向かうのをどう受けとめてよいものか判らぬらしく、結局ふてくされたように、再びソファーのなかに凭れこんだ。しかし、それに反して黙っていられないのが布瀬で、

「ハハァ、私は|牡蠣《かき》のように口を鎖す、か。まあ、それもいいだろうよ。心理の動きに関する|展開部《ドウルヒヒュールンク》はなかなか見事なものだったが、残念ながらその結尾が話にならない。もう一度だけ確認しておくが、お前は確かに靴を目撃したのだな」

「ああ」

 頷く倉野に、布瀬はとどめを刺すように、

「では、お前の説は、甲斐のものと同様、取るに足りぬものと看做さねばならん。さて、それではお次の番は、ホランドだったな」

 溢れたジュースをダスターで拭っていたホランドは、そう呼びかけられて、はっと布瀬の顔を見あげる恰好になった。

 それはホランドの失策だったのかも知れなかった。

 根戸に確かにそう思われたのは、ホランドの表情には、困惑の色がありありと窺えたからである。いつものホランドには似つかわしくないことだった。恐らく布瀬の喋った言葉の内容は聞いていなくて、自分の名前だけに反応して顔をあげたのだろう。開き加減の脣からは、しかし決して声が洩れ出る様子もなく、かと言って凍結される訳でもなく、ゆっくりと漂うふうにさえ見えた。

 微かに躯を顫わせながら、そうしてしばらく|躇《ためら》っていたが、

「僕は……」

「オヤ、どうしたね。遠慮しなくていいのだぜ。勿体ぶらずに早く御披露願いたいね」

 布瀬がそう畳みかけるのに対して、ホランドはようやく、半ば諦めたように答えた。

「僕は、棄権する」

 いちばん驚いたのはナイルズだっただろう。

「ホランド?」

 そう呼びかけて、思わず腰を挙げたが、相手の反応がないのを見てとると、慌てて|傍《かたわら》に駆け寄った。

「ホランド、どうしたの」

 そう耳許で呼びかけられ、肩を揺すられても、ホランドはここならぬものを瞶めながら、必死で思考回路を働かせているように見えた。波打ち際で砂の城をつくっている子供。――そうして見ているうちに、何回か少年のなかで、組立てているものが崩されてゆく様が判るような気さえした。

「気分が悪いんだね。向こうの部屋に行く?」

 心配そうに覗きこむナイルズに、やっと小さく頷くと、ホランドはふと現実に戻ったらしく、こちらにちょっと脣を綻ばせてみせて、殆ど聞きとれぬくらいに、

「……どういうつもり」

 そう呟いた。

「え、何だって」

 横にいた甲斐が訊き返したのだが、もうそれには答えず、ホランドはナイルズに連れられて、別室から外に出て行った。

 布瀬が肩を竦めながら、

「次から次に、一体どうしたというのだね。てんでに|狂想曲《カブリツチオ》でも始めたのかな。あるいは|諧謔曲《スケルツォ》という方が似合ってるか。いやはや、全く、この場になってどぎまぎしているようでは話にならん。総ての証拠がたったひとりの人物を名指しているなどと大見得を切ったのは、どこのどなただったかな。まあ、文句を並べても仕方ない。どうやら我がファミリーの御歴々は、とんだ名探偵揃いらしいということだな。……それではいよいよ、吾輩が登場しなくてはなるまいね。甲斐にしろ倉野にしろ、その着眼点は決して悪くはなかった。ふふん、つまり、今度の殺人事件においては、心理的証拠を重視せねばならん。その点に気づいたところは、さすがと言っておこう。あっは。しかし、そのふたりがふたりともに、見当違いの過ちを犯してしまったのはなぜか。それは、心理学的推理法という奴は、ともすれば独善的な、と言って悪ければ、どうしても演繹的な推論の|過程《プロセス》を踏みやすいためなのだぜ。それであるからして、その危険性を肝に銘じておかなければ、今のようなトンデモナイ結論が引き出される結果を生んでしまうのだな。言わば、陥穽は、頼って進んだ羅針盤そのも フに、黒ぐろと|展《ひら》かれていたという訳だ。

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