「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.4
「はっきり言ってやろうか。甲斐。お前さんの発想は、最初から最後までこじつけに過ぎん。考え方にも一貫性がなく、真実すら無視した、全く取るに足りん解決だ。倉野の発想について言えば、勿論、曳間が秘密にしていた、精神病の姉の存在というところからで、こちらは幾分見どころがあったが、いかんせん、甲斐を犯人と看做した時点で、やはり物理的な事実の方に論理のしわよせ[#「しわよせ」に傍点]が来ることが決定されてしまった……」
話を聞きながら、根戸は甲斐の反応を窺った。しかし既にその表情は、単なる邪気のないふくれっ面でしかなかった。それでは、先程の邪悪な眼は何だったのか。根戸は、ひょっとしてあれは、自分の幻視だったのかとさえ訝しんだ。頭の歯車が少し狂っているのは、ほかならぬこの俺ではないのか。そんな想いが、じくじくした|虞《おそ》れと共に脳裡を掠め過ぎた。
――冗談じゃない。あの久作の『ドグラ·マグラ』のように、この現実のように見えている今度のこと総てが、いつか知らず、狂気の世界に足を踏み入れてしまった俺の、ほんの一瞬に頭に描いた、妄想か夢の類いに過ぎないとしたら。
そうとでも考えなければ、この場の全員が|悉《ことごと》く狂ったように見えてくるこの情況を、どうしても説明できないように思われる。そして、そう考えあわせると、ナイルズの書いた『いかにして密室はつくられたか』の一章の末尾に示された、『今度の事件は、変格探偵小説的になら、一応の解釈がつけられる』という言葉も、極めてぴったりと符合するではないか。根戸は脣を噛みながら、黄色い空気に充たされた部屋のなかに視線を泳がせた。
――この部屋のせいさ。
根戸はそう思い直した。夥しい異形の住人達に埋めつくされたこの『黄色い部屋』は、確かにそのなかにいる人間の精神を、一時的におかしくさせる力を持っているのかも知れない。ただ根戸は、この今、自らの推理に従って進むしか、ほかに頼れるものを持たなかった。
根戸は馬鹿げたほどの大きなシャンデリアを見あげた。微弱な黄色の光はぼおっと拡散していて、部屋の隅ずみに至るまでに、闇のなかに呑みこまれてしまうふうでもあった。
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8 もうひとつの空席
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「いいかね。ふたりと同様な過ちを犯さぬためには、一体どうすればよいか。……それは全く簡単なことであってね。要するに、まず現実に浮かびあがった矛盾点から、推理を出発させねばならないということなのだ。ハハン、つまり、靴の盗難やら曳問の令姉などという、それ自体何の矛盾も含んでいない事柄からでは駄目なのだぜ。はっきり言って、お前達がまるで拒絶反応でも起こしているようにその傍をするりと避けて通り過ぎてしまったところの、ありありと姿を現わした矛盾をこそ、発想の核にしなければ……。あっは、どうせお前達は、吾輩が何を差しているのか、とっくに気づいているだろうよ。その通り、それは吾輩の目撃した白昼夢にほかならない。
「よく考えてもみろ。各人の証言と、現実との間に|齟齬《そこ》が現われているのは、吾輩の見たところ、これが唯一のものだ。しかも、吾輩がそいつを目撃したのは、全く偶然の出来事であるからして、この現実に浮かびあがった齟齬は、殆ど無条ら件に信用してよいのだ。あっは、齟齬を信用するというのも妙な表現だが、実際のところそうなのだよ。つまり、『偶然ゆえに吾信ず』という訳だ。影山の言いまわしを拝借するならば、吾輩は犯人の組立てようとしていた、架空の四次元連続体の断面を垣間見てしまったということかな。……ふふん、しかし、まだ肝腎のふたりは戻って来ないが、一体何をやっとるのかね」
そんなことを言いながら、布瀬は黄色い扉の方に視線を向けた。彼の疑問通り、扉はいっかな開かれる気配もなく、半ば薄闇のなかに呑みこまれるかのように、静かに立ち塞がっていた。ふと、彼らのいる別室に、微かな不安が空気の揺らぎに乗って、音もなく展がり伝わったような気がした。根戸は、もしかするとこの夥しい人形達の私語は、そんな一瞬を狙ってなされるのではないかとも考えていた。雰囲気という言葉では遠く、気配という言葉ともどこか異なった、人間の感覚機能からほんの一歩踏み出した部分でなされる人形達の交信。しかしそれは、やはり根戸のヴィジョンのなかでは、ぽとりと落とした一滴の油が、油膜となって水面をぱあっと走ってゆくふうに|伝播《でんぱ》した。
その展がってゆくさざ波のようなものがこの眼に見えたなら。というより、視覚を越えた部分で、ありありとその様を捉えることができたなら、彼もこのもどかしい謎を踏み越えて、ぽっこりと白い輝きに充ちた場所へ抜け出られるに違いない。
尤も、そこはこの現実から|顛落《てんらく》してしまって初めて行き着ける、戻り道のない失楽園なのかも知れないのだが。
「まあ、あのふたりがいないのは、それはそれで好都合かも知れん」
根戸の思惑などまるで知らぬげに、布瀬は例の潤んだ眼を戻して、彼の推理を続けた。
「とにかく、現われる筈のない処に、現われる筈のない人物が現われたという点を、我々はもっとよく瞶めなくてはならないのだ。さて、吾輩は、ナイルズの書いた小説の第一章にもある通り、十七日の不在証明提出の会合の席上において、ふたりの証言からひとつの鍵を見つけ出したと述べたが……」
そこまで布瀬が喋った時、根戸は無表情な声で、
「勿体ぶるなよ。要するにふたりのうちのどちらかが犯人だってんだろう」
と横から口を出した。
ところが意外なことに、布瀬の方ではちゃんとその反応は計算にはいっていたらしく、まんまと獲物がとびこんできたと言わんばかりの笑みを浮かべて、
「あっは。そんなあたり前のことを、吾輩が殊更に勿体をつけて喋るとお思いかね。いや、情ない」
「何だって」
少々面喰らったていで甲斐が問い返すと、布瀬はますますしたり顔になって、
「うっふふ。まあ仕方あるまい。あの時点では、さすがにこの吾輩にも、単なる直観でしかなかったのだからな。……しかし、吾輩はついに確信することができたのだよ。それはほかでもない、このナイルズの小説によってなのだ」
「えっ?」
思わず根戸も、そう訊き返していた。布瀬の舌勢では、解決の鍵が、総てこの『いかにして密室はつくられたか』と題する小説の文中に隠されているということらしいが、果たしてそんな一節があったものかどうか。
根戸は急いで記憶のページを|捲《めく》ってみたが、どうもすぐには、それらしい文章も思い当たらない。
「あっは。どうしたね。急に元気がなくなったようだが、皆目見当もつかないというところか。やれやれ、御立派な探偵揃いだな。……いいかね、ヒントを与えてやろう。勿論それは、小説のなかの小説の部分、つまり、後半の第二章に現われて来るのだが。……と、こう言ってもピンと来ないか。殊に倉野、お前がボヤボヤしているのはいかんな。ほかの者が気づかなかったのは、まあ許されるとしても、薬学部在籍のお前が見過ごしたとすれば、こいつはもう破門ものだぜ」
「何だって」
情況は二転三転して、今や完全に、その場の空気は布瀬の支配下にあった。
そのなかでひとり自分だけの想いにひたっていた倉野までも、ぽかんと呆れ顔を向け、布瀬の得意さは頂点に達したようだった。
「判らんかね。血の|循《めぐ》りの悪いことだ。吾輩がこう言うからには、その鍵と言うのは薬学に関係した事柄に違いないと、ピンと来てほしいものだがね」
「薬学? とすると、視物質とかいう奴かい」
根戸が首をつき出すと、布瀬はゆっくり頭を振って、
「残念ながら、答はノンだ」
「そうすると……エクゴニンとかいう、アルカロイドの件かね」
「あっは、ようやくそこに辿り着いたか。しかし、客観的に見て、あの部分にいかにもとってつけたような印象を受けないものかね。……ふふん。まあ厭味はこれくらいにしておくが、あそこに籠められた意味あいはというと……」
そう言いかけて、ニヤリと|北叟笑《ほくそえ》むと、
「いやいや、やはりここのところは、クイズ仕立てでいきたいね。ここまでヒントを与えたのだから、後は自分達で考えて頂くことにしよう」
布瀬はテーブルの上にあったナイルズの小説を取りあげ、ぱらぱらと紙を捲っていたかと思うと、
「9の『犯罪の構造式』だったかな。……よし、これだ」
指差したのは、先程も皆が確かに眼にしたところの、エクゴニンなる物質の構造式だった。
甲斐と倉野と根戸の三人が、頭をつき合わせるようにして覗きこむ。
「はあ、これが、今度の事件の真相を表わしてるって」
そんなことを呟いてはみたが、根戸は殆ど考える気さえおこらなかった。倉野の方を窺い見ると、そちらは眉根に深い縦皺を刻みこんで、じっとその図を凝視している。やはり、薬学を専攻する者としてのプライドなのだろうか、と、考えている間に、倉野はふと一層眉を曇らせたような素振りを見せて、うん、と大きく頷いた。
「おお、さすがに早いな。何に気づいたね」
水を向ける布瀬に、
「うん、この図には、少しおかしい点があるね」
「何だって」
思わず叫んだのは甲斐と根戸で、
「そんなの、俺達に判らないのはあたり前じゃないか。ちえっ、考えただけ損をしたな」
口を尖らせる甲斐に、倉野は、いや、と言い返して、
「そうでもないよ。この図のおかしい点は、素人でも指摘できる類いのものなんだ。つまり、このR2の部分……」
そう説明し始めた時、すかさず布瀬が割りこんで、話の続きを語り出した。
「そうとも。このR2解の部分の列として、エクゴニンならOH、コカインならOHC3、シナミールコカインも同様にOHC3とあるのだが、……おやおや、これはどうだね。いずれもがR2の根元に酸素原子がくっついているではないか。これは妙だね。元来構造式とか分子式というものは、なるべく簡略に書くべきものであるから、この図はこう表わすのが本当ではないかね」
そう言って布瀬がその図の下に書き並べたのは、前の図と一部分だけ異なったものだった。
<img src="img/hako_11.jpg">
「こうしておいて、R2のところの例を、それぞれH、CH3、同じくCH3とするのが正解だぜ。判るかね。吾輩の言いたいことが」
根戸は、成程、と納得しつつも、咄嗟のことで、布瀬の言葉の真意が判らず、
「で、それが一体、どういうことになるんだ」
と尋ね返した。
そしてまた、この言葉も布瀬にとっての絶好の合の手だったらしく、彼は大袈裟に絶望の素振りを見せて、
「オイオイ。これほどのぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]揃いとは、吾輩も情なくなるな。しっかりしてくれよ。いいかね。吾輩が今喋っているのは、このナイルズの書いた小説に、事件解明への鍵が隠されているということなのだぜ、この構造式が、どういう必然性を持ってここに書き記されていたのか、もう一度よく冷静になって想い出してみるのだな。……つまり、この前の方のページで、我々ファミリーのなりたちを再検討する場面があって、それを図にしてみるとこのエクゴニンとやらの構造式にそっくりになる、と、だいたいそんな感じで話が進んでいた筈だがね。ハハン、つまり、この構造式は、我々ファミリーの、ひとつの象徴のようなものとして登場する訳なのだよ。ところが奇妙なことに、その構造式が一部分ではあるけれども故意に歪められたしろものであることが、今こうして明るみに出た訳だ。とすると、これはどういうことになるのか。……まあいい。我々ファミリーの構成図とやらを見れば、一目瞭然だろう。これだ」
布瀬の指差す先の、
「ここだ! この、ナイルズとホランドの処に、もうひとつの空席がこなければならないのだ」
鋭く言いきって、布瀬はぐるりと三人の表情を見渡した。
「すると、君は――」
<img src="img/hako_12.jpg">
「その通り。奴らは双子ではない。三つ子の兄弟だったのさ」
その言葉は今までとはうって変わって、低く囁かれるように布瀬の口から洩れた。
もうひとつの空席。
根戸は自分の傍を|※[#「目偏+瓜」、Unicode:U+773D]《ぬすみみ》た。どこかしらとんでもない場所に、そんなおかしな空間が、ぽっこりと座を占めているような気がした。人ひとりぶんのその見知らぬ空間は、あるいは彼らのうちの誰かに、そっと寄りそうようにして存在しているのだろうか。
「ここまで言えば、吾輩の目撃したものが、その三つ子の兄弟の今ひとりであるということは察することができるだろうよ。そうなのだぜ。七月十四日の十二時半頃、倉野の部屋の近くをうろうろしていたのは、ナイルズとホランドにそっくりな、第三の少年だったという訳なのだ」
「しかし、そんな突飛なことって」
「そうだよ。そんな話、これっぽっちも聞いたことがない。だいたい、その三番目の少年というのはどこに住んでるんだ。それともあの美しい母親ともども、僕達をペテンにかけていたとでもいうつもりなのかい」
「それについては、まず吾輩の話を聞いて貰わねばならん。まず、吾輩がいかにして、このような推理に至ったかということなのだが、それは常日頃からのある疑問から端を発したのであってね。ふふん。今回の推理較べの主旋律は、どうやら心理学的探偵法ということらしいが、吾輩もそれに倣ってみることにしようか。どういうことかというと、吾輩の見るところ、双子というものは一般的に言って、各人はそれほど対等な立場にいるものではないということなのだよ。つまり、双子といえどもおのおのの間の関係には、やはり兄と弟の意識というものが、どうしても強く働きかけてしまうものだということだね。むしろ一卵性双生児の場合には、自分達が互いに分身どうしであることを意識することにより、却って上下関係というものが厳格に構成されてしまうのかも知れないのだぜ。そうなのだとも。しかし、ナイルズとホランドの場合はどうだね。これが全く逆で、このふたりの問には、そんな上下関係やら主従関係というものが殆ど見られないではないか。どちらが兄貴でどちらが弟であるか、そんなことなど全く意識なく暮らしているように見えるではないか。
「ふん。しかしまあ、このふたりは双子達のなかの、例外組にはいるだけなのかも知れん。とにかく、吾輩はそんな疑問を持っていたのだよ。ところがそこに、今度の事件だ。そして、吾輩はナイルズとホランドともつかぬ少年を、現場の近くで目撃したのだ。しかも、不在証明提出の集いでは、そのどちらもが頑強に吾輩の目撃を否定する。そこに至って吾輩は、かつての疑問が、再びある意味を伴ってムラムラと湧きあがってくるのを感じたのだよ。そうなのだぜ。もしもここに、第三の兄弟というものを仮定すればどうか。吾輩が偶然に目撃したの」
は、ほかならぬそいつだとすればいい。しかも、そいつはふたりにとっていちばん上の兄貴なのだ。そうすれば、ふたりの間に兄と弟の意識があまり感じられないことも旨く説明できるではないか。彼らにとっての兄貴はちゃんといたのだよ。ふふん、お判りかね。十七日の不在証明提出の席上で、ひとつの鍵を見つけ出したと述べた時、既に吾輩はそこまで推理を働かせていたのだよ。尤もナイルズの小説では、吾輩の推理は犯人をナイルズかホランドのどちらかだとする内容に過ぎんだろうと予想してあったのだが、それはちっと人を尉巒っているというものだぜ。ハハン、勿論それはナイルズの、吾輩に対する一種の心理的な牽制であったに違いないのだがね。ナイルズの心理など、手に取るように判る。半ば小馬鹿にしたふうにそんなことを|仄《ほの》めかしておけば、ふたりに対する疑いは心理的にかけづらくなる。少なくとも、それ以上つっこんで、自分達が三つ子の兄弟だなどという考えは起こされずにすむと考えたのた。あっは。
しかしそれは、時既に遅かったということなのさ。
「オヤ、まだ何か言いたそうな顔をしているな。ふふん、判っているとも。そんなことは、単なる根拠もない空想に過ぎないと思っているのだろう。吾輩の目撃した白昼夢を現実化するための、虚しいこじつけだと。……しかし、吾輩が単にそれだけの空想をもとに、こんな推理を喋っているに過ぎないと思われては、いささか|面映《おもはゆ》いのだ。絵空事ではない証拠は、ちゃんと確かめてある。それはつまり、一枚の紙きれ……と言えば判るだろう。そうとも。戸籍謄本には、片城家の|嫡子《ちゃくし》として、成、蘭のふたりの上に、|森《しん》という名の同じ一卵性三生児の長男がいたことが、はっきりと|録《しる》されていたのだぜ」
あっという声が、微かに皆の口から洩れた。
もうひとつの空席は、確かにそこに存在していたのだ。しかもそこにはちゃんと、座るべき人物が座っていたのである。
それは動くことのない現実だった。根戸は少しばかりの|眩暈《めまい》を感じていた。黄色い溶液を浴びせかけられたような部屋のなかで、夥しい数の人形達が、確かにくすりと忍び笑いを洩らしたような気もした。
そうするとやはり、異常な熱気に包まれたあの日の白昼に曳間を|殪《たお》したのは、ナイルズとホランドに瓜ふたつの、第三の少年たったというのだろうか。根戸は、この現実というものの正体が、さっぱり判らなくなってしまっていた。あり得る筈もない|魑魅魍魎《ちみもうりょう》を繋ぎ留めておくこともできず、今こうやって、勝手気儘な|跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》を許してしまった場所が、果たして現実と呼ばれる世界であっていいのだろうか。根戸には、どうにもその解答が見つからなかった。
「あっは、尤もだね、その書類によると、森という少年は産まれて間もなく死亡したことになっているのであって、法律上ではやはり吾輩の目撃したものは白昼夢ということになってしまうのだろうね。しかし、こうなると、その三つ子のひとりが実は死んでなどいなくて、どういう事情があったのかは知れぬにせよ、とにかく今日まで影も形もある人間としての生活を送ってきたことだけは確かだろう。恐らくはどこか別の家に里子にでも出されたものか――などというと時代がかってくるかね。恐らくそこいらあたりの事情というのは、不幸な類いのものに違いないのだぜ。いやはや、ともあれ少年は十五年という歳月を生き、そしていつしか、ナイルズとホランドとも再会していたのだと考えねばならん。奴らはそうして、母親にもその再会を明かさぬまま、不思議な密会を続けていたのだろうよ。ふん。人物の交換が行なわれ、|傍目《はため》には常にふたりの存在だけしか映らぬように演出されたその密会が、いつしか奴らにとって、奇妙な悦楽を伴ったものとして意識されるようになったことは想像に|難《かた》くない。そうなのだぜ。微かな後ろめたさが裏返しになったその遊戯は、彼らの間に、ひとつの|娯《たの》しみにさえなっていたのだよ。
「今度の事件に関して言えば、そのトリックの常ならぬ点は、事件の起こるずっと以前から仕組まれていたということなのだ。三人二役を自由に装えるまでになっていた奴らは、それによって、存在する筈のない分身を自在に扱うことができたのだな。ふむ。まさにそれは、一種の魔術と言えなくもないだろうよ。吾輩が感心したのは、ナイルズのこの小説には、そのトリックの鍵となる事柄が幾つか仄めかされてあることでね。勿論、あのエクゴニンの構造式の一件もそうだし、ナイルズとホランドがそれぞれ互いの人格を装うという幕間劇が挿入されてあるが、あれこそまさしく今度の事件のヒント以外の何物でもないのだ。むしろ吾輩は、ナイルズのこの小説は、そういったヒントを提示するために書かれたと見るのが正しいだろうと考えている。真沼が吾輩の部屋で消えたという設定もそのためのでっちあげで、とにかくナイルズとしては、トリックを前々から講じていたという後ろめたさからか、それとも優越感に浸りたかったためか、解決への鍵を暗示する目的であの小説に取り組んだことに間違いはなかろう。はてさて、しかも今度の事件の場合、大きなトリックはその三人二役だけでなく、もうひとつ別の心理的なトリックもが絡み合ったものだったのだ。それがつまり、今度の事件の通奏低音である〈さかさま〉の発端なのだぜ。通常の殺人犯がとるべき行為と全く逆の、第一発見者が現場にやって来るまで三時間近くその場に留まっていたという情況。これが一般概念としての現場不在証明の裏返しで、犯人は、その場以外のどこにもいなかった筈だ[#「その場以外のどこにもいなかった筈だ」に傍点]ということを意味しているのだが、全くの話、どうやら甲斐にしろ倉野にしろ、この点には悩まされたようだ。しかしながらこの摩訶不思議な逆説も、いったんもうひとりの少年の存在を考えるならば、ごくあたりまえの行動になってしまうのだぜ。ふむ。なぜならば、彼がその場に留まっていればいるだけ、ナイルズとホランドのふたりの不在証明は成立しやすくなるのだからな。しかもそいつの頭のいいところは、それだけに飽き足りず、他人が一見して受けるであろう〈さかさま〉という印象をもっと前面に押し出すために、わざわざあんな鍵と錠の小細工を施したという点にある。あっは、そうしてできあがったのが、世にも不思議な〈さかさまの密室〉だったという訳なのだ」
布瀬は酔ったように、言葉の最後をぽーんと宙空にはねとばした。そしてやはり黄色に染められた三白眼を、今度は不意にぐいとテーブルに近づけたかと思うと、声を低く落として、囁くように後を続けた。
「吾輩は、この森という少年がどこにいるのかは知らん。あのふたりを詰問すれば、それは判るだろう。総ての事情と、少年の正体が。いや、あるいは今日のホランドの方が、実はその森という少年なのかも知れないとさえ、吾輩は疑っていたのだがね」
いつか見たことのある奇術小屋の道化師のような素振りで布瀬が呟くと、残りの三人は、思いあたるような顔つきで、そっと表の部屋に続く扉の方へ眼を向けた。布瀬の指摘を待つまでもなく、今日のホランドの様子はどこかしらおかしかった。しかし、まさかそれが――。
それは恐ろしい一瞬だった。
――ナイルズ達。それにしても少し遅過ぎる。一体何をやっているのだろう。
根戸は急に、心臓の鼓動が早まるのを感じていた。夢のなかで誰かに追いつかれそうな時のハラハラドキドキとしたあの不安に似ていた。取り返しのつかないことが起こってしまいそうな予感でもあった。
「吾輩は、恐らく曳問を殺害したのは、森という少年ひとりの計画によるものだろうと推測している。あっは、勿論この前の会合で締結した十戒をも考慮に入れてのことたが、それでなくとも奴が頑張って逆の不在二証明をつくろうとしていた割には、ナイルズにせよホランドにせよ、その不在証明はお世辞にも十全とは言えない。それはつまり、後のふたりはその時間に殺人が起こることを知らなかったからだ。ハハン。さて、そうなると最後に残ってくるのが、例によって動機の問題なのだが。これについては、どうもやはり、本人の口から聞いた方がいいのではないかと思う次第でありまして……」
根戸の不安をよそにそんなことを喋り続ける布瀬に、甲斐は、
「じゃあ、靴もわざと見せたのか」
半ば独語のように呟いた。
その時、ようやく扉の方でノブがまわる音がして、はっと四人は振り返った。見ると、別室に戻ってきたのはナイルズひとりだった。この部屋ほどに徹底されてはいないものの、表の部屋も『黄色い部屋』の名称通り黄色を主とした色調に装飾されていて、それ故に扉を開けても向こう側に黄色の世界が展がっている様は、一種異様な恐ろしさがあった。根戸はいつだったか、黄色い部屋に長時間いると、なかにいる人間は気が狂ってしまうという話を聞いたことがあるが、そういった狂った世界から決して逃れられないのだという、強迫観念めいたものでもあった。そういえば根戸は先程から、僅かな頭痛をさえ覚えていた。
――やはり、黄色は恐ろしいのだ。
根戸は額に手をやりながら、そんなことを考えた。
「ナイルズ」
最初に口を開いたのは甲斐だった。
根戸の視界のなかで、ナイルズは微かに躯を揺らめかせた。その場の空気を敏感に感じとったのだろうか、急に眉をひそめて、それと判らぬくらいに背中を屈めた様は、まるで何かに対して身構えるふうだった。
「ナイルズ。――本当に、君達には三つ子の兄さんがいるのかい」
甲斐のその言葉で、ナイルズは自分達のいない間に交された総ての会話を理解したようだった。下から上へ、わらわらとした翳りのようなものが、すーっとナイルズの表情に立ちのぼっていった。それはナイルズの小説の序章にも描かれてあった通り、あの時眠っていた真沼の、首筋に|匍《は》っていた翳に似ていた。
「いたよ」
ナイルズはそっと答えた。
「でも、死んでしまったんだよ。本当だ。産まれてすぐに、死んでしまったんだよ」
そうやって、上眼遣いにこちらを|瞶《みつ》めると、もう既にホランドとの区別がつかなくなってしまう。根戸は、先程の不安が再び咽元にこみあげてくるのを意識していた。二重三重の疑惑が、苛立たしい痛みを伴って黄色い闇の底から躯のなかへ忍びこみ、そしてそれは根戸のうちのもっと深いどこかへ|嚥《の》み下されてゆくようだった。
「しかしそれは」
「甲斐さん」
ナイルズは厳しい声で言葉をさし止めた。黄色に染まった脣に、ちらりと|蠢《うごめ》く舌が見えた。
「僕は嘘はつかないよ。僕達には確かに森という名の兄さんがいた。でも、本当に産まれてすぐに死んでしまったんだよ。どういう推理が語られていたのか――話してたのは多分布瀬さんだね――その内容のおおよそは判るような気がするけど、兄さんが実はまだ生きているなんてことは絶対にないんだ。実在しない人間をチェスの駒のように勝手に動きまわらせるのも結構だけど、ただそうであった方が都合らがいいという理由だけで、死んだ者に罪を被せるのはやめて貰いたいな」
張りつめた口調でナイルズが言うと、布瀬もそれで黙ってはおらず、
「ははあ、するとナイルズ。どうしてお前はそのことを今まで黙っていたのだね。そんなことぐらい、皆に喋っていてもよさそうなものではないかね。ふふん。つまりは黙っていた方がいい理由が、そこになければならんのだがな」
と、脣を片側につりあげながら訊き返した。
「別に、喋らなくてもいいことだからさ。いや、本当のことを言えば、母さんのためなんだ」
そこでナイルズはふと息をついで、
「兄さんの死んだことを、母さんは自分の罪のように思ってるんだ。詳しいことは知らないけど、もともと躯の弱かった母さんはお産の時もひどくって、一時は母体の方の生命も危ぶまれたほどなんだって。大出血のなかで取り出されて、しかも僕達はひどい未熟児でね、そのお産がもとで、今でも母さんは貧血症が続いているほどなんだ。それに、母さんはもう子供を産めなくなってしまったんだよ。そんな母さんが、何日か後に死んだ兄さんのことを思って悲しんでいるのを僕達は見ていられなかったんだ。そうだよ。母さんはよく僕達の頭に手をやって、あの子も生きていればあなた達にそっくりで、やっぱりこれくらいの大きさになっているのに、なんて言うんだ。母さんは僕達の向こう側に、いつでももうひとりの兄さんを見ているんだよ。そんな母さんに、兄さんの話題が他人から持ち出されるのは我慢できなかったのさ。だから、僕達はいつでも、誰に対しても、双子で通して来たんだ。兄さんがいたなんてことは|曖気《おくび》にも出さず。そうなんだよ。僕達はいつでも双子でなくてはならなかったんた。それは僕達の間の、ひとつの黙約でもあったのさ。……僕達に、トマス·トライオンの『悪を呼ぶ少年』に|因《ちな》んでナイルズとホランドという|綽名《あだな》をつけたのは羽仁さんだったけど、僕達はだからそれが有難かったんだ。僕達はどこでもその綽名で通してたけど、そうやってその名で呼びあっている限り、僕達は常に双子以外の何者でもなかったんだからね」
――つまり、あの小説の逆だった訳だ。
根戸は口にすべき言葉が見つからなかった。今度のことがなければ、恐らくずっと知ることもなかっただろう隠された秘密が、今、こうして明るみにひきずり出されてしまった。それは曳間の姉という人物も同様で、そしてそれに手を貸した者のなかに、やはり彼自身も加わっているのだ。
何秒かの間割りこんできた黄色い沈黙のなかで、根戸は再び人形達の笑いを聞いたような気がした。
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9 五黄殺殺人事件
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「そうだな。考えてみれば、布瀬の推理も何ら物的証拠を持たない、言わば空想の域に留まったものでしかない。まあしかし、その空想の一部は確かに|穿《うが》ったもので、ナイルズ達が実は三つ子だったと看破したのはさすがだけど、だいたいそんな戸籍上死んだことになっているような人間がひょこひょこ登場し始めてくるのはあんまりだからね。とにかく、俺はナイルズの話を信用することにするよ」
|抛《ほう》っておけばいつまでも続きそうな沈黙を許すことができず、根戸は言葉を挿んだ。
「僕もそう考えたいね」
倉野もぽつりとそれに賛意を示すと、
「ほかならないナイルズ自身がそう言っているんだから、それを信じてあげてもいいんじゃないかな。だいいち殺人者というものは、反面潔さを持らたなければいけないと僕は常づね思っているんだ。もしも自分の犯行が完膚なきまでに暴きたてられた場合、彼はそれを謙虚に認めなければならない。だから僕としてはナイルズの言葉は信用したいな」
それには甲斐も加わって、
「人間を信用できなくなるとおしまいだ」
などと妙なことを言ってのける。根戸はほっと力を抜くと、
「そういえばホランドはどうなんだ。まだ気分が悪いのか」
それでやっとナイルズも肩の力を抜いたらしく、
「ああ」
と小首を傾げて見せて、
「どうなのかなあ。気分は悪くないようなんだけど、今度はじっと押し黙っちゃって、取りつく島もないからこっちへ帰ってきたんだよ。……僕には判らないことだらけだ。ホランドの奴、何かを恐がってるんじゃないかしら」
「恐がってるって?」
|訝《いぶか》しげな面持ちで尋ね返したのは甲斐だった。
「そうだよ。……でも、おかしいなあ」
ナイルズが呟くと、再び布瀬がしたり顔で、
「あっは、|誑《たぷらか》されちゃいかん。吾輩の推理の通り、あいつはホランドなどではない、当の森という名の少年なのだ。虚栄心と好奇心から推理較べの席に顔を出してみたものの、そこはどうしてもまだ十五の少年だ。自分が犯人だとつきつけられるやも知れぬ緊張感に堪えられなくなってだね……」
はっきり相手の心理を逆撫でするように喋り続ける布瀬に、
「そうか。……布瀬さんには、どうしても信用して貰えないんだね」
ナイルズは悲しみというより、むしろ一種の憐れみの表情で呟いた。
そうすると布瀬も大きく眉をつりあげて、
「おっと。別にいいのだぜ。吾輩の推理が間違いというなら、それはそれで。ただ、思想の自由はちゃんと憲法によっても保証されていることだし、吾輩·は吾輩で好き勝手なことを考えさせて貰うさ」
そう言いきると、もう後の者など無視したという様子で、ソファーにふんぞり返り、金縁眼鏡をはずしてそのレンズを磨き始めさえするのだった。
「ふむ。それではまあ……一応ナイルズの言葉を信用したとして、はて、それではいよいよ真打ちが最後に|神輿《みこし》を挙げなきゃならないようだね。カードの通りだな。〝最後の審判_は、まさに今、下らんとす、というところかな」
そう前置きして、根戸は気を取り直すために問を置いた。しかし最初の言葉が見つかるまでには、意外に時間がかかった。
「あはは、こんなふうに今でこそ偉そうに言えるけど、全く最初の頃にゃ、事件の真相なんか、五里霧中もいいところだったんだ。ところがある時、ふと奇妙な暗合に気がついた時から、今度の事件の謎が徐々に解け始めたんだよ。いや、考えれば考えるほど、今度の事件は一見滑稽にさえ思われるくらいの奇妙な暗合に満ちていた。俺は今度の殺人は、総て悪どい冗談だったんじゃないかと疑わずにいられなかった。ははあ、その暗合とは一体何だったと思う。ほかの者はどうあれ、ナイルズには判ってる筈だぜ。それは数字だったんだよ」
「ほほう。数字ねえ。……数字というと」
何より数学が苦手という甲斐が、硬張った声を出した。
「それはつまり、この『いかにして密室はつくられたか』を見れば一層はっきりする。俺の場合、最初にひっかかったのは、倉野、お前と雛ちゃんの囲碁の対局中にできたという、例の三劫って奴からなんだ。俺はあいにくチェスしかやらないし、後は将棋が人並に指せる程度だから、三劫というものがどれほどたいそう[#「たいそう」に傍点]なものかは未だにピンとこないんだが、とにかくお前の言葉通り、三劫は凶兆であるという言い伝えが的中し、曳間は不幸にもああやって殺人者の凶刃に|斃《たお》れた訳だ。……さて、俺が次にひっかかったこと。それは何だったと思う? 俺は今度の推理較べで、皆が皆、これについての話題を口にのぼらせないものだから不思議に思ってたんだ。あはは、まるでうち合わせでもしたように、敏感に話の内容をそこから遠ざけてでもいる具合だったぜ。……といって、ようやく想い出したかな。勿論それは、あの影山から来たという暗号さ。ふふ、判ってるよ、みんながあの手紙を黙殺したがる理由は、ひとえにあの暗号を解くことができなかったからなんだ。しかし判らないからといってあの暗号文を今度の事件とは直接関係ないものと晋儂してしまうのは、あまりの独善と言うべきだな。少なくとも、あの手紙も考察の一対象とし続けようとする、謙虚な態度が必要だぜ。その点、我らが根戸ホームズは数学者としての面目躍如。と、あっはは、こんな言い方をすると、謙虚どころかいよいよ傲慢に聞こえるかな。まあ、そこはしばらく、御静聴頂くとしよう。
「俺のひっかかりを頭に止めておいて、もう一度『いかにして密室はつくられたか』の序章を眺め返してみようか。するとそこには不思議な暗合が浮かびあがってくるんだぜ。いいか。不連続線に関して想いを巡らせる場面には一人。友愛数というペアになった特殊な数が出てくる場面には二人。三劫が現われた場に居合わせたのは三人。そして四波羅蜜と四鬼の言葉が登場する場には四人。……どうだね。一、二、三、四だ。とすると、次には当然、五が来る筈じゃないか。そして、考えてみれば、その数字はちゃんと曳間の屍体のそばに姿を現わしていたのさ。それは、例の『数字の謎』と題された黄色い本だ。ほら、あの時開かれていた本のページには、黒ぐろと大きな活字で〝5_と印刷されてたじゃないか。あはは、その時俺は想い出したんだ。この五という数字の持つ意味を。……といっても、それは俺の専門の数論で扱う|範疇《はんちゅう》から大きくかけ離れた話なんだぜ。つまりそれは今を去ること三千年余、古代中国は|夏《か》の|禹《う》王の世より始まる、九星術と呼ばれる摩訶不思議な占術のことなのさ。