饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.5

「九星術については、旧暦の暦にはたいがいその方位表やなんかが併せて掲げてあるから、知ってる奴もいるだろう。そうさ。早い話が、あの影山からの手紙にあった図案の方ね、あれが九星術に使われる方位表という奴なんだ。あそこには何だか奇妙な文字が配置されてあったけど、本当はあの九つに区分けされた部分に、それぞれ一から九までの数字が特別な順序でふりあてられるんだ。その最も基本的な配列は、中央に五がはいり、そしてその周囲は上から左回りに、九·四·三·八·一·六·七·二で、この配置になったものを特に、定位盤という。方位表にはこれを含めて全部で九種類あり、まんなかの数字が、一から九まで順々に変わるにつれて、周囲の数字も移り変わる仕組になってるんだよ。さて、それではその図の九つに区分けされた部分は一体何を表わしているのかというとうその名の通り、方角なんだな。しかし、そこで注意しなくちゃならないのは、その方角の向きは、一般に俺達が使っている方角の表示の仕方とはまるで逆になってるってことさ。あはは、ここでもまたひとつの〈さかさま〉が出て来る訳だが、九星術の方位表、つまり九星盤での方角は、上が南で下が北ということになってるんだ。これは昔からの慣わしだから仕方がない。

「はてさて、それではこの九星術は、そんな方位表を使って何をするのかというと、要するにこれは方角の良し悪しを知るためのものなんだな。話を進めるためにはその原理を説明しなけりゃならないんだが、まあ御安心あれ。これが案外、実に簡単なんだよ。その根本の思想は、天には九つの宮があり、そのなかを九つの星が循環するために、その作用が地に住む人間達の生活に影響を及ぼして吉凶禍福を|齎《もたら》すというものだ。その九つの宮は、九星盤でいえば中央が中宮、そして北、つまり定位盤での一から左回りにそれぞれ、|坎《かん》宮、|乾《けん》宮、|兌《だ》宮、|坤《こん》宮、|離《り》宮、|巽《そん》宮、|震《しん》宮、|艮《こん》宮と呼ばれる。この九宮を巡る九つの星、これも九星術では特別の名称が与えられてて、それは|一白《いっばく》水星、|二黒《じこく》土星、|三碧《さんぺき》木星、|四緑《しろく》土星、|五黄《こおう》土星、|六白《ろつばく》金星、|七赤《しちせき》金星、|八白《はっぱく》土星、|九紫《きゅうし》火星というんだよ。これらは時々刻々、あるいは毎日、あるいは毎月、あるいは毎年、九つの宮を巡り続けていて、その変遷は過去から未来までかっちりと定まってるんだ。

「そしてそれとは別に、人間ひとりひとりが各々持って生まれた星というものがあって、それはつまり、一白の年に誕生した人間は、生涯一白水星という運命の星に支配されることになる。九星術では中宮にはいる星を本命星と呼ぶんだが、ひとりひとりを支配する星も、その人が生まれた年の本命星だから、そういう意味で九星術では、日時の本命星と個々人の持っている本命星との相性の良し悪しによって、運命が決定されると言っていい。だから例えば二黒の日なら、中宮に二がはいった方位表を見て、自分の本命星と照らし合わせるなどしながら、それぞれの方向の吉凶を判断するというシステムなんだ。だいたいのあらましはそういうところだが、さて、これから話は興味ある部分にはいってゆくんだよ。

「つまり、実は九星術というものは恐ろしいことに、吉という概念など殆ど重要視しちゃいないんだ。重きを置くのは常に凶という概念でね。吉とは凶でない方向[#「吉とは凶でない方向」に傍点]くらいにしか考えられていない傾向にある。では九星術の主役たる凶方にはいかなるものがあるかというと、さすがにこれが様ざまなものがあって、本命殺、的殺、五黄殺、暗剣殺、受剋殺、交剣殺、都天殺、劫殺、災殺、歳破、月破、日破、死符、病符、白虎、それに八将神や金神による神殺、八門吉凶等々、全くもってこんなに凶方がたくさんあるんじゃ、吉方の残る余地がないんじゃないかと心配になってしまうくらいなんだが、まあ、そのなかで最も一般的で、凶の作用も強いと言われるのは最初の四つだろうね。本命殺と的殺、及び五黄殺と暗剣殺とがペアになっていて、それぞれお互いに正反対の方向に現われることになっている。本命殺は減明殺ともいって、その日や月の方位表のうち、その人の本命星がはいっている宮の方角なんだ。的殺は|穿心《せんしん》殺ともいうんだが、常に本命殺の逆方向にある。それにしても面白いのは、その人自身を支配している本命星のある方角が凶として働くというところだね。考 ヲてみれば、ちょっと恐い話じゃないか。あはは、しかし、俺がさっきから本当に話をしたかったのは次の、五黄殺と暗剣殺の組なんだよ」

 |蜿蜒《えんえん》と続く根戸の話を、四人は押し黙ったまま聞いていた。甲斐は呆れ顔、布瀬はポーカー·フェイスを保ち、倉野とナイルズはそれぞれ興味深げな表情を見せている。そのなかで根戸は、身振り手振りよろしく宙空に八角形の図を描き出していた。

「いいかい。九星術において五という数字は、特別な――ジョーカー的な存在なんだぜ。九星盤において五の来る宮の方位は五黄殺、そしてその反対側の方位は暗剣殺といって、このふたつが共に九星術中の凶のなかでも最悪のものとされてるんだ。しかもこのふたつの凶方には異なった性格があって、五黄殺には、自らの過失によって起こる必然的な災いを招く性質があり、その不幸は真綿で首を締められるような、慢性病的なものを意味する。対して暗剣殺は、運が悪いとしか言いようのない思いがけぬ突発的な災いを招き、その不幸はその名の通り、闇のなかで不意の凶刃に|殪《たお》されるといった、急性病的なものを意味する。面白いのは、このふたつの最悪の凶方が他の凶方とは異なり、五という数字によって、難しい理由づけや理論など一切なく、ただ自動的に決定されていることなんだよ。それに、さっきも言った通り、九星術においては、九つの数字には七つの色が組合わされてるが、その組合わせがただひと通りだけで、一には必ず白、二には必ず黒といったふうにしか結びつけられていない。しかも他の色は一色ずつなのに、白だけは一白·六白·八白と、三つもあるのはどう考えても不合理だし、どうせなら紺とか茶とか灰色なんてものを持って来た方がよさそうなものなんだが、そんなふうにもされていないのは、不思議な気がして仕方がないんだ。しかし俺は、理論も何もなくただそんなふうに運命的に定められている[#「理論も何もなくただそんなふうに運命的に定められている」に傍点]という|貌《かお》をしたものがそんな嫌いな方じゃないので、却ってそんな不合理な部分を信用しちまうんだが、はて、それでいくと五という数字は、黄色という色彩と、まさに運命的な同価性を持っている。とすると、七月十四日のあの倉野の部屋のなかで、曳間の屍体の|傍《そば》に転がっていた黄色い装幀の本に、黒ぐろと浮かびあがっていた五という数字[#「黄色い装幀の本に」に傍点]、黒ぐろと浮かびあがっていた五という数字[#「黒ぐろと浮かびあがっていた五という数字」に傍点]は、そこに影を落とした五黄殺という奇妙なミステリー·ゾーンの象徴だったんじゃないだろうか。その上、あの部屋はここほど徹底してないにせよ、|支子《くちなし》色の絨毯に褪せた黄色のカーテン、加えて本棚やファンシー·ケースも黄色といっていい色彩だから、もしもこの店がなければ羽仁の『白い部屋』や布瀬の『黒い部屋』と同等に、倉野の部屋をして『黄色い部屋』と呼んでもいいほどなんだぜ。しかも

「萩山町から目白への道を辿り、黄色に包まれた部屋のなかで、五という数字の傍に曳間が冷たい|骸《むくろ》となっていたという事実は、全く意味もない事柄の集まりに過ぎないようだが、三千年の歴史を持つという九星術の眼から見ると、全く恐ろしいほどの暗示に満ちてるじゃないか。……とすると、曳間を|殪《たお》した者は、布瀬の言う白昼夢どころじゃない、この世界に不意に影を落とす五黄殺というミステリー·ゾーンそのものなんだぜ。そう考えてゆけば、曳間の死は、三千年の昔から既に決定されていたとも言えなくはない。

「いや本当は、俺自身も黄色という色彩には不思議な力が具わってるんじゃないかと思ってたんだ。早い話がこの部屋だけど、俺はいつか、黄色に塗り潰された部屋のなかに閉じこめられると、そのなかにいる人間はついには気が狂ってしまうという話を聞いたことがあるんだが、実際のところ、俺はこの部屋にずっといると、段々変な気分になってくるんだ。今も少し頭痛がするくらいだよ。全く、見るもの総てが黄色というのは、一種たまらない情況だとは思わないか。ひょっとすると、甲斐の兄貴は客の回転率をあげるために、この店の色調をこんなふうにしたのかも知れないな。まあ、それは冗談だが、黄色というやつは、色彩学の方からいっても、変わった特徴がある。例えば美術の時間に習っただろうマンセルの色立体を見ると、黄色はその模型の上方、つまり白に近づいたところで、最も中心の軸から離れたところへとつき出ている。つまり、明るいほど彩度が高くなるんだな。他の色は、明度が増すほどに彩度の方は後退するんだが、黄色だけは、ますます燃え立つほどに鮮やかさを増す。心理色彩学的にいえば、黄色は最も癇の強い色であり、前進する色であり、大きく見える色であり、遠くからよく眼立つ色なのさ。要するに、黄色というのは、人間の眼に、というよりそれを知覚する精神に、最も強く焼きつく性質を持つんだ。しかもこの強い作用は、精神を苛立たせ、不安にさせるという面にその効力を著しく発揮する。……俺は車を運転するから時どき思うんだけど、あの信号機という奴ね。既に赤に変わっている時に信号待ちする時はそれほどでもないんだが、眼の前の信号が突然青から黄色に変わった時は、ついついムカッとしちまうんだ。もしかすると、これなんかも、もう何秒か後だったらという口惜しさのほかに、黄色という色自体の性質が大きく|拘《かかわ》っているのかも知れないね。もしもそうだとすれば、注意を呼び起こすための黄色が、却って車を運転する者の精神を不安定にしているという皮肉なことになるが、案外ミステリー·ゾーンは、そんな具合に至る処に口を開いているのかも知れないぜ。とにかく、そのような不吉な性格を持つ黄色が、五という数字と重なって凶暴な作用を人間に及ぼすとすれば、曳間はその不思議な力の犠牲になってしまったとしても、あながち奇異なこととばかりも言えないだろう。あはは、気をつけてくれよ。そういえば、この部屋はまさしく『黄色い部屋』……しかも今ここにいるのは、ホランドを除いて五人――」

「根戸」

 黙って聞いているのが堪えられなくなったように、甲斐が小柄な躯を揺すらせた。

「何だい、一体それは。結局今度の殺人は、人間の仕業じゃないっていうつもりかよ。短剣がひとりでに曳間の胸に突き刺さったのか、それとも五黄殺とやらの不思議な作用に曳間は気が狂って、我と我が胸に短剣を?」

「あはは、お前がそう言うのも無理ないさ。俺もまさか、曳間の死の理由が、五黄殺の条件が重なり合ったせいだなどとは思っちゃいないよ。やはり犯人はいる筈なんだ。ただ、今まで俺の指摘した事実が、重要な示唆を含んでるのは間違いない。さてその上で、まず第一に眼を向けなければならないのは、何度も言う通り、影山からの暗号さ。あそこに九星術の盤が描かれてるからには、それが今度の事件に無関係の筈がないじゃないか。……いや、実は、俺はあの暗号を既に解いてしまったんだよ」

 今度は四人の口から、一斉にへえと言う言葉が洩れた。ナイルズなどは、眼を丸くして根戸の方に近づくと、

「本当? すごいや根戸さん。僕はあの後、さんざんっぱら頭を悩ましたけど解けなかったんだ」

 人間の優越感というものは、こういう場合らに頂点に達するものなのだろう。根戸はソファーのなかにそっくり返ると、

「いやあ、解いてしまえば大したことのない暗号なんだがね」

 と言ったきり、ぐるりと一同を眺め渡して、さあどうだという表情を露わにした。情景は三転四転し、今や完全にその場の主導権は根戸のものだった。

 すると案の定、それに我慢できぬように、布瀬は神経質に眼鏡をずりあげながら口を挿んだ。

「ホホウ。とすると、あの詩にもまた、御都合主義の注釈を加えることに成功したという訳かね」

 恐らくは誘導訊問の意味もあったのだろうが、根戸はそれには取りあわず、ゆっくりと煙草に火をつけると、

「それでは念のために、もう一度影山の手紙の文面を示しておこうかな。……この小説の原稿の一枚を見せればそれでいい訳か。ええっと、……これだこれ。

[#ここから2字下げ]

欲望は|下《げ》か。

徳|宿《やど》す誰が、

春めく|百舌《もず》の、

飽きられし知る。

|四波羅蜜《しはらみつ》敷き、

|並《な》べて七曜、

影|擬《もど》きにす。

[#ここで字下げ終わり]

さてと、これは一体、どういう意味なのか。ハイ、判った人は手を挙げて」

 調子に乗って女の声色で二言うと、布瀬は挑みかかるような勢いでグラスの底をテーブルに|撲《う》ち|据《す》えた。

「馬鹿にするなよ。お前の考えつきそうな解釈くらい、この場で指摘できる。言ってやろうか。……まず、この詩らしきものをざっと見たところ、〈春めく百舌〉というのが犯人を意味しているらしいことが判る。百舌という奴は食料の蛙や何かを木の枝に突き刺しておくという妙な習性のある鳥だからな。動機はその彼が、〈飽きられし〉ことにあるのだろう。そのことを、人徳豊かな皆々様は気づいておられるのかという、これは一種の皮肉だな。〈欲望は下か〉と最初に問うているのは、そうすると反語の意味合いが強くなってくるだろう。いやいや、欲望とはそんなにくだらぬものではないとね。ふふん。つまり、犯人は周囲の人間に〈飽きられし〉立場から抜け出したい欲望にかられて、殺人を実行するに至ったというのだろうよ。とすると、〈四波羅蜜敷き〉というのも、お前がべらべらと喋っていた九星術のことから考え合わせると、その解釈も想像がつくのだぜ。四波羅蜜とは確か、お前の専門の密教の方では、金剛界曼荼羅で大日如来の四方に描かれる四女菩薩を意味するんだったな。ハハン。四方と言えば東西南北、つまり方角を示しているに違いない。裏に描かれた図案を考えれば、これこそ九星術そのものを表わしているのだろうということになる。そうすると最後の二行も|自《おのず》から意味を持って来るのであって、〈並べて七曜を影擬きにす〉とは、この現実を、何か得体の知れぬものに変現せしめてしまおうという意味に受け取れる。それはワンダー·ランドでもいいしミステリー·ゾーンと呼んでもいい。とにかく犯人はこの現実という奴さえ|捩曲《ねじま》げてしまえば、それで満足するような奴なのだぞという、忠告の文なのだ。あっは、どうだね。お前の言いたかったのは、|概ね《おおむ》こんなところなのだろうが」

 意気揚々と布瀬は言い切って、脣をにやりとつりあげた。

 飽きられたための殺人計画。

 それは背筋をぞくりとさせる、どこかしら異様な精神を連想させる観念だった。

 しかし根戸が返した言葉は、そんな布瀬の解釈を|脆《もろ》くも撲ち崩してしまった。

「ははあ、呆れたよ。そんなに簡単に、ただ解釈をあてはめれば解けるようなものも、暗号と呼んでいいとはね。とんでもない話だぜ、布瀬。この暗号の真の内容は、外面とは全く違ったものだ。……どうやらこの場で判る奴はいないらしいからバラしちまうと、こいつを解く鍵は、この詩の最後の二行にある。殊に、この七曜という言葉にね」

「ああ、最後の二行だけがインクの色が違ってたけど、それには絶対意味があるだろうとは思ってたんだ。つまり、キー·ワードになってるんでしょう」

「そうとも、ナイルズ。この文面は、七句ずつ七行の構成になっている。つまり、この暗号を解くためには、何かしら七という数に拘るものが必要になるに違いないんだ。そこで〈|並《な》べて七曜影|擬《もど》きにす〉という意味をまず、解かなければならない。影擬きにす。影擬きにす……。俺は何十回、何百回となく唱えたものだった。そしてとうとう、七曜を影擬きにする方法を発見したのさ。意味にこだわっては駄目なんだ。〈影擬きにす〉は仮名に直して、かげもどきにす[#「かげもどきにす」に傍点]。このなかに、七曜のアナグラムが折りこまれているというと、奇異に聞こえるかな。いいかい。俺の発見とは、かげもどきにすは、火月木土金日水に通ずるということなんだよ。|火月木土金日水《かげもどきにす》……だ。とすれば、キー·ワードの意味も自と了解できるだろう。七曜、つまり日月火水木金土を、火月木土金日水の順序に並べ換える。この法則を最初の五行にあて嵌めれば……」

「すごいや、根戸さん!」

「こりゃどうも有難う。はてさて、そうして最初の一行のよくぼうはげか[#「よくぼうはげか」に傍点]をその法則で並べ換えると、ぼくはかげよう[#「ぼくはかげよう」に傍点]となる。その要領で最後までやると、

[#ここから2字下げ]

ぼくはかげよう

やくすがたとど

めるものずはく

らきしるしあれ

らはつきししみ

[#ここで字下げ終わり]

と、まあ、こんな具合になる。読み下せば、

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僕は影

漸く姿留める者

図は暗き印

あれらは着きししみ[#「しみ」に傍点]

[#ここで字下げ終わり]

こんなふうにでもなるのだろう。〈僕は影〉というのは、言うまでもなく影山自身を差しているに違いない。〈図は暗き印〉というのは、この手紙の裏にある図案のことだ。さて、ここで話は急に変わるが、俺にはどうしてもひっかかって仕方のない事柄があった。それはナイルズ、お前自身の言葉と、この小説に関してのことなんだがな」

「僕の?」

 意味ありげに覗きこむ根戸の顔をまともに見返して、ナイルズは眉をあげた。色の薄い瞳に、黄色い光線がくっきりと反射していた。

「なあに、それは」

「この事件は、変格探偵小説的になら解釈がつけられるという言葉さ。その言葉を考慮に入れてこの小説を読むと、お前の言いたいことがどうやら朧げに浮かびあがってくるような気がする。小説のなかの真沼消失事件は、今のところ未解決のままで描かれてたが、結局あの設定だと、どうしたって物理的に不可能だ。そうすると、変格探偵小説云々という奴が、ここで意味を持って来るんじゃないか。……そうさ。この小説は、今までになかった変則的な趣向が隠されてるんだ。言ってやろうか。それはワトソン捜しとでもいうべき趣向さ……」

 その言葉に、倉野が真先にびっくりした顔を挙げた。

「ワトソン捜しだって」

「その通りだ。犯人捜しでもない。探偵捜しでもない。被害者捜しでもない。……それはつまり、|騙《だま》されているのは誰かということを問う小説だな。そしてこの小説同様、今度の〝黒魔術師殺人事件_もワトソン捜しの事件だと解釈すれば、総てが旨く説明できるんじゃないのか?……勿論、曳間が現実の屍体となったのだけは確かだが、事件そのものが、巨大なつくりものに過ぎなかったとすればどうなんだ」

 根戸は次第に声を落として、ゆっくりと脣を湿した。

 次の言葉を口にする前に、この部屋の人形達が息吹きを始め、ざわざわと歩み始めるならばそれで救われるだろうと思われるほど、短い一瞬だった。

「ここにおいて、俺達ははっきりと二分されなきゃならん。騙す者と、騙される者にだ。端的に言って、俺の推測では、前者に含まれるのはナイルズ、ホランド、布瀬、真沼、甲斐、倉野の六人、後者に含まれるのは俺は勿論として、羽仁、雛ちゃん、杏子さんの四人だ。つまり、真沼を除いては、何とこの部屋には事件の演出家兼俳優が勢揃いしてるじゃないか」

 その時、不意に根戸の表情に激しい苛立ちがたちのぼった。脣を捩曲げ、荒々しい声で、吐き棄てるように決めつけた。

「はん。お互い、猿芝居はやめにしようぜ。道化の役どころも悪かないが、もういい加減うんざりだ」

 布瀬が何事か言い返そうとしたが、それより早く倉野が腕をひっぱり、布瀬の言葉を止めさせていた。布瀬は無言のまま倉野の方を振り返ったが、再びソファーに凭れこんで、仄暗い黄光を降らせるシャンデリアをおもむろに見上げた。

「騙す側のメンバーを推測する最も重要な決め手は、影山に関することだった。ははん、俺は、影山などという人物は実はこの世に存在しない[#「影山などという人物は実はこの世に存在しない」に傍点]のだというところに気がついたんだよ。布瀬が、サークルの交流で知り合った? 忙しくて、なかなか姿を見せられないって? 暗号を送って来ただ? 嘘だ、嘘だよ。小説の二章ではえらく個性的な人間として描かれてるが、架空の人物をいかにも実在するように見せかけるための反動に違いないね。お前達の努力は今から考えるとたいへんなもので、おかげで俺はすっかり影山という人物の実在を信じこんでしまった。そうさ。〈僕は影、漸く姿留める者〉とは、影山なんて人物は、周囲の人間によってつくりだされた影のような存在でしかないことを物語ってたんだ。つまり、影山に会った奴は総て、嘘をついてることになる。それはこの小説にもはっきり書かれてある通り、ナイルズ、ホランド、布瀬、真沼、甲斐。そしてそれに加えて、警察に靴の件を喋らなかったという倉野。そうとも、お前が靴のことをありていに証言すれば、必然、警察は今度の事件を殺人事件として本格的に調査することになり、影山の正体が架空のものだと判ってしまう。だから、そうしなかったお前はやはり、影山の正体を承知してた筈だ。いや、さらに言えば、そんな靴の存在そのものが、最初から出鱈目な、俺達を|徒《いたず》らに煙に巻くためのものだった。

「結局今度の殺人事件は、嘘と偽りで構築された空中楼閣に過ぎなかったんだ。とにかく事実は、お前達が結託して曳間を殺害したことだけさ。倉野が雛ちゃんとの囲碁の対戦で相手を誘導して、三劫なるものをつくり出す。次には四人委員会を開いて、影山からの手紙とやらを提出する。倉野の部屋には警察の眼も通されるので、あの『数字の謎』と題する本だけしか残せなかったが、お前達の頭にあったのは、やはり例の五黄殺という王導音に違いない。曳間に対する供養の意味か何か知らんが、お前達はせいぜい今度の事件を神秘的で厳かな祝祭にまつりあげるために、様ざまな装飾を施したんだよ。それは、曳間に捧げるための花束だった、その最たるものが、このナイルズの小説だったという訳さ。ほかの者が誰ひとりその意味を悟らなくっていい。ただそれは、曳間と、自分達だけのために行なわれたんだ。……そして今、俺が怖れているのは、ひょっとすると、羽仁や雛ちゃん、そして杏子さんまでもが、騙す側にいたんじやないかということだが……」

「根戸」

 不意に倉野が、殆どそれと見えないほどの笑みを湛えて呟いた。

「ひとこと言っておくけど、三劫ってしろものは、片方がいくらそれをつくろうと頑張ったとしても、おいそれとできるような類いのものじゃないんだよ」

 布瀬の微かな忍び笑いが洩れた。

「それじゃ、|蚊帳《かや》の外に置かれてたのは俺ひとりだったのか。……一から十まで総てのことが、嘘と偽りに塗り固められていたのか。……俺には何が何だか判らない。何が一体、どうなってるんだ。お前達は、どうして曳間を殺さなきゃならなかったんだよ!」

 躯じゅうが自分のものでないように顫え、声は掠れて言葉にならなかった。部屋のなかはその一瞬、しんと鳴りをひそめたようだった。

「そうだ。この部屋はまさしく『黄色い部屋』……しかも今ここにいるのは、ホランドを除いて五人。……ホランドはそのために出ていったのか? 再び五黄殺を形あるものにするために……?」

 捨鉢な笑いを浮かべようとしたが、不意に溢れた涙が、ぼろぼろと|零《こぼ》れ落ちるのを留めることができなかった。

「根戸」

 再び倉野が呼びかけた時、突然表の部屋の方から甲高い人声が聞こえてきた。何やら|遽《あわただ》しい応答があった後、その声の主はこちらに近づいてきたらしく、不意に浮きあがるように跫音が聞こえたかと思うと、勢いよく扉が開かれた。

「いやあ、どうもすみません。遅れちゃいまして。この間のアリバイ提出会にも顔を出さないで、ホントに悪かったです。あ、そちらがひょっとすると倉野氏に根戸氏ですか。それとも羽仁氏かな? 小生が影山と申す者ですが、はい。……あれ、どうなさったんですか」

 ナイルズの小説に描かれていた風貌に寸分違わない男がそこにいた。背の低い、大きな黒縁眼鏡をかけた、いかにも|剽軽《ひようきん》そうな人物。

 布瀬はたまらず、背凭れの後ろにそっくり返るように爆笑していた。つき刺すような笑いだった。根戸は凍りついたように動けなかった。謎は再び闇のなかへと嚥み下され、事件の真相は到底彼らの見出し得ない処へ逃げ去ってしまったのである。四人が四人とも異なった解釈を指摘し、そしてそれらは|悉《ごとごと》く誤ったものだったのだが、結局彼らがなし得たことは、個人の秘密の幾つかを暴き出し、影山の暗号を解いたことだけなのだろうか。あるいは四人はそれぞれ、爪の問に土をこびり取るように、少しずつでも真実の壁をひっ掻くことができたのだろうか。

 根戸は黄色い闇のなかに沈んでゆく自身を意識していた。黄色い闇は、ずっと以前、彼が胎児だった頃に漂っていた羊水のようだった。

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10 正反対の密室

[#ここで字下げ終わり]

「ははあ、そういう訳だったんですか。へえ、小生が、布瀬氏達によってつくり出された架空の人物で……。はあ、それなら驚かれたのも無理ないですねえ。いや、変な時に登場しちゃって、申し訳ないです」

 影山は何度も頭をさげたが、根戸は短い髪を掻きながら、

「いや、いいんだよ。俺の推理が間違ってただけなんだから。それに正直言って、こんな推理、間違ってた方が有難いんだ。全く、見当違いもいいところだったな。……タロット·カードで順番まで決めたっていうのに、ひどいもんだ。何が『審判』だと自分で言いたくなるね」

「いやいや、やはり小生がずっと顔を出さなかったのが悪いのですよ。それで結局、今回の推理較べは正解者なしということなんですか」

「いや、俺の場合はともかく、ほかの三人は、まだ自分の推理に未練があるのかも知れないね」

 根戸はそう言って、照れくさそうに壁の方に眼をやった。

 真沼が気に入っているというビスク·ドールが眼にはいった。浅瀬に潜り、揺らめく水面を透かして空を見あげたような、その時の色がそのまま虹彩に凍りついてしまったような、そんな眼だった。人形達は総て、こちらを|瞰《み》おろす恰好で押し並んでいた。

 根戸はふと、幼い頃読んだ少年雑誌か何かに載っていた、怪奇実話ふうの小さな記事を想い出した。

 ある村に、その頃不思議な出来事が次々と起こっていた。昨日まで元気にしていた者が、急に原因不明の高熱に倒れ、あっという間に死んでしまったり、行方不明の者が相継いだり、一夜にして家が|蔓草《つるくさ》に覆われたり、果ては墓の下の屍体が不気味な穴だけ残して消失してしまったりした。原因を探るために調査隊がその村に派遣されたのだが、その夜のうちに隊が宿泊した館は、やはり原因不明の火事のために焼けてしまい、彼らの殆どは死んでしまった。結局、生き残った者のひとりが、ある館の地下室に黄金色に輝く羊の頭をした人形を発見し、恐ろしくなってそれを叩き壊して以来、不思議な出来事はぱったりとやんでしまったというのである。

 どこにでもあるような話だったが、幼い根戸にとってショックだったのは、結局その人形の正体が何だったのかという説明などは、一切省かれていた点だった。理由も何もなく、ただ恐ろしい|禍《わざわ》いを及ぼすだけの存在。

 同じものが、ここに|犇《ひしめ》く人形達のなかに混じっているならば。取るに足りない妄想ではあったが、根戸はそんなふうに望んでもいた。

「そういえば、ホランドの奴、何してるんだよ」

 心配そうに甲斐が尋ねた。

 倉野と何やら喋りあっていた影山が、その言葉にぴんと背を伸ばして、

「あっ。はあ、それで想い出した。ホランド氏はどうしたんですか。向こうの部屋で、ひとりぼんやりしていましたけれど、はい」

「まだかい、一体どうしたっていうんだよ」

 甲斐は立ちあがって、表側の部屋の方に歩きかけた。

 その時、不意に全くの闇が襲った。

 仄暗いながらも部屋を照らしていたシャンデリアが、ふっつりと消えてしまったのだ。そしてそれに重なって、わっというどよめきが起こった。誰かがテーブルの上に倒れたらしく、ガチャンという物凄い音がして、グラスが幾つか砕け散るのが判った。

「何だ何だ、停電か」

 布瀬の声。

「危ない。硝子が飛んでいる」

 そう続けたのは倉野だった。

 根戸も不意の|盲《めしい》になっていた。不安で胸倉をぎゅっとしめつけられてしまったように、心臓が瞬く間に|喘《あえ》ぎ始めた。『黄色い部屋』の底が抜けて、突然別の世界に墜落したような闇のなかで、根戸は二、三度よろけかかった。

「ちょっと待て、蝋燭があった筈なんだ。今捜して来る」

 甲斐の声。と、いきなり根戸の背中に、誰かの手が押しつけられた。

「何だ」

 そう言おうとして、言葉にならなかった。誰のものとも知れない手は彼の躯を押し、よろけるままに誘導されて、全くの闇のなかをぐんぐん歩かされた。それは、ほんの一、二秒にも満たない時間だった。

「蝋燭を捜すなら――」

 そう言いかけた途端、手の力の勢いが|勝《まさ》って、根戸は大きく闇のなかにつんのめっていた。同時に、皆のどよめきが、すうっと遠くなったような気がしたかと思うと、次の瞬問、ガンという衝撃を顔の左半分に受け、根戸はその場に倒れ|臥《ふ》していた。何か堅いものに、もろにぶちあたったらしかった。一瞬だけ眼の前が真赤になったが、躯を起こすと、周囲にあるのはやはり全くの漆黒だけだった。

<img src="img/hako_13.jpg">

 根戸は顔をぶつけたものに見当をつけて手をさし伸ばしたが、それは虚しく宙空を掴んだだけだった。もう一度、さらに手を伸ばすと、金属性の細長いものが掌のなかにすっぽりとはいった。パイプのようなものらしかった。

 ――ここは、奥の倉庫じゃないか。

 そう気がつくと、根戸の背筋に冷たいものが走り抜けた。いかにもそこは、先程ソファーを運び出した小さな倉庫に違いない。それでは、さっき有無を言わせぬ勢いで背中を押した人物は、何のために彼をこの部屋に連れこんだのだろう。根戸は恐ろしい勢いで背後を振り返った。一切のものは闇に呑みこまれていて、ただ照明が消える前の残像らしいものが、形もない不思議な色彩として、もやもやと漂っているばかりである。

 そうだ、誰が、何のために。

 冷汗がゆっくり、腋の下を流れるのが判った。

 根戸はじっと身構えたまま、闇のなかで眼を細めてみた。向こう側で確かに皆の声が聞こえていて、それに混じって自分の鼓動が耳の奥に響いている。必死で息遣いを押し殺しながら、根戸は闇に紛れてそこにひそんでいるかも知れない人物のために、全身の感覚器官を集中した。

(あったか。蝋燭は)

(まだ見つからないんだ)

 倉野と甲斐のやりとりが聞こえた。妙に遠い、|口籠《くぐも》った声だった。

 ――誰だ。

 強い耳鳴りが彼を襲っていた。そうしてほぼ二、三分、ずっと息を殺していたようだった。

(見つからないな)

(おい、君達も手伝ってくれ)

 再び甲斐と倉野の声がすると、それに続いて、

(何だね一体。仕方がないな)

 布瀬のそんな声が聞こえて、二、三人の跫音が表の部屋に遠ざかっていった。

 根戸はそれでようやく、そっと躯を起こした。

 ――結局誰かの悪戯だったのか。

 それでも音を立てないように、爪先で闇のなかを滑ってゆき、伸ばした腕に壁が触れると、慌てて扉のノブを手探りで捜した。激しいあせりを背中に感じながら、ようやくそれを捜しあてると、根戸は勢いよく押し開けようとした。が、次の瞬間、彼の掌はビクともしないノブに弾き返されていた。彼は心臓が止まりそうになった。

 扉には鍵がかけられていたのだ。

 何か言おうとしたが、|咽《のど》のなかが一瞬に干あがったように、どうしても声が出なかった。

 ――閉じ籠められた!

 そのことが、頭のなかに、わーんと|谺《こだま》しあった。頭のなかは闇と見分けもつかず、黒一色に溶けあってしまったようで、自分の考えていることが何なのかも判らなかった。躯じゅうの体毛が残らず逆立ってしまい、そのなかを小動物ほどの確かさを伴って、戦慄が幾度も駆け抜けた。

 ――なぜだ。なぜだ。

 もう一切の物音は、さらに遠い処からしか響いてこない。扉を叩いて大声で皆を呼べば、何とか開けて貰えるかも知れないのだが、声を立てること自体が恐ろしく、根戸は扉にぴったりと背中を押しつけたまま、凍りついたように身動きできなかった。脂汗が腋や掌や|※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》にふつふつと湧いてくるのは、呆れるほど鮮明に実感できたが、思考力や判断力の方は全く麻痺している。電気が消えてからの時間も、全部ひっくるめて五、六分だったのか、それとも十分以上も経っていたのか、そのあたりがぼんやりとしていて、あたかも夢のなかの出来事のようでもある。

 悪い夢。

 根戸はそんな気がしてならなかった。粘り着くような闇はすっぽりと部屋を覆いつくしていて、あるいは何者とも知れぬ刺客は根戸のすぐ近くに、やはり息をひそめて|蹲《うずくま》っているのかも知れないのだ。眼を凝らして見ていると、闇のなかにさらに深い闇が現われ、大きな影となって、不意に鎌首を|擡《もた》げるような気配が襲う。そんな妄想が繰り返し彼を脅した。彼はもう一度ゆっくりと、後ろ手でノブをまわしてみたが、やはりそれはビクともしない。

 ――いけない。

 自分でも思いがけず、根戸は扉の方に向き直ると、ありったけの力を籠めて叩き始めた。

「おおい、開けてくれえ!」

 いったん声を挙げると、恐怖のために、それは止まらなくなった。彼は、気が狂ったように扉を叩き続けた。

(何だ、あれは)

(根戸さんの声だよ)

 怯えたような声が、遥か遠くの方[#「遥か遠くの方」に傍点]で聞こえた。

(変だな。あいつ、どこで、あれっ)

 甲斐の素っ頓狂な叫びが、はっきりと根戸の耳に伝わった。それは根戸の心臓をも縮みあがらせた。

(おい。いつの間にか、鍵がかかってるぞ)

(何だって、そんな馬鹿な。どれどれ。おや、本当だね)

(おかしいな)

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