饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.6

 布瀬と倉野の声も聞こえる。どうやら表の部屋と別室の間の扉にも鍵がかけられているらしい。そうすると、根戸は二重の密室に閉じ籠められたことになってしまう。根戸の恐怖は頂点に達した。

(おい、影山はこっちにいるのか)

(は、はい。小生はここにおりますが……)

(ははあん。これは妙だね。根戸ひとりがあちらにいるのか。おおい、どうした!)

「誰かに閉じ籠められちまったんだ!」

(声が遠いな。そこは倉庫か)

「そうだ。そっちの扉にも鍵がかかってるのか」

(うむ。どうも妙な具合だな。誰があいつをあんな処に閉じ籠めたんだろう)

(根戸さん、ちょっと待っててね)

(甲斐。ここと向こうの鍵は、どこにあるんだ)

(鍵なら、フロントの抽斗に戻した筈だけど。待ってくれ)

 根戸の胸の底に、再び強い不信が蘇った。あれは総て、芝居なのかも知れない。影山と称する人物は現実にはいたが、それによって彼の辿り着いた推理が否定されてしまった訳では決してないのだ。いかにも彼らはああやって取り乱しているふうを装ってはいるが、その実、総て予定通りの筋書きではないのか。ホランドが途中で抜け出したのも、安全器の蓋を開くためだとすれば。

 根戸は扉を叩く手を止めた。

 ――俺はこの妄想の正否を[#「俺はこの妄想の正否を」に傍点]、どうやって判定すればいいのだろう[#「どうやって判定すればいいのだろう」に傍点]。何が真実であるかは[#「何が真実であるかは」に傍点]、どうすれば確かめられるのだろうか[#「どうすれば確かめられるのだろうか」に傍点]。

 根戸はその自問に答えることができなかった。もしかして、常に真実というのは、身軽に、ずる賢く、人びとの眼に触れぬように立ちまわっているものだとしたら。そうなのだ。虚偽と真実はいつも背中合わせで、こちらからあちらへ、たやすくその貌を交換できるものなのかも知れない。いや、今一歩踏みこんでこの現実というものは、一から十まで、仮面の群そのものなのだと呟いてみたとして、誰にその言葉を否定することができるだろう。

 不意に、微かな光を感じた。鍵穴だった。根戸は反射的に躯を屈めて、その鍵穴から部屋のなかを覗きこんでいた。

 仄暗い照明だったが、闇に馴らされた眼には眩しいくらいだった。乱れたテーブルのあたりから向こうが、その鍵穴からの視界である。戸棚や壁に並べられた人形達に見守られて、部屋のなかはしん[#「しん」に傍点]と人気がない。

 向こうでも、中央の部屋で照明が|点《つ》いたのに気づいたらしく、

(おい、あちらは電気が点いたらしいぞ。こちらはどうして点かんのだ)

(誰かがスイッチをいじったな)

(おい。変だな。あそこにあるのは鍵じゃないか)

 いちばん近い声が、そんなことを叫んだ。倉野の声だった。根戸は不意にぞっとした。彼の処からもそれが見える。乱雑に散らかったテーブルの上にふたつ、黄色の光を反射しているのは、確かにそれぞれの扉の鍵だった。

(本当だ。これはますますもってただごとならん。どうするね)

(どうすると言っても。……おおい、根戸)

 倉野の呼ぶ声が聞こえたが、根戸の舌は痺れたままだった。

(変だよ。あっ、……点いたか。七時十分だね。……甲斐、合鍵は)

 どうやら向こうの部屋でも、誰かがスイッチをいれたらしかった。

(ないよ)

(どうしよう)

(ああ、えらいこった。えらいこった。またまた密室じゃないですか)

 周章狼狽のていらしい影山の声も聞こえる。

(ぶち破ろうか?)

 真剣らしい倉野の声に重なって、いきなりナイルズの切羽詰まった叫びが聞こえた。

(ね、ねえ。おかしいよ。ホランドの姿が見えないんだ)

(何だって。一体どうなってるんだい。まさかトイレじゃなかろうし、どうも厭な予感がするなあ。ようし、構わないからぶち破ってくれ)

(ようし、じゃあ、布瀬)

(やれやれ、吾輩もかね)

 そんな会話が聞こえてきた時、

(わあッ!)

 鍵穴の向こうで突然『黄色い部屋』の照明が消え、再び総てが闇に包まれた。

(また停電だ)

(とにかく、つき破るぞ)

 闇の奥深くで、恐ろしい音が響き始めた。二度、三度、数人がかりで扉に躯をぶち当てているのだろう。六度目あたりでメリメリと何かが引き裂ける音がしたかと思うと、そのすぐ後で、とうとう扉は弾き飛ばされたようだった。

 誰かが、二、三度つんのめって倒れたらしい音が聞こえた。

(たっはは、弁償はいくらかかるかな)

(倉庫の方も開けてやらなくちゃな)

 甲斐の声がして、ガサガサとテーブルの上を捜しまわっていたらしいが、急に、

(な、何だ。こいつは)

 その声の調子がただごとではなかったので、根戸も驚いて鍵穴を覗きこんだ。しかし、依然その先も、全くの闇に包まれている。

(ギャッ! な、な、何だ。誰かが)

 再びテーブルの上からグラスが落ちたらしい音がした。

(ど、どうした。……うわッ!)

(誰かが倒れてる)

 扉一枚隔てた向こうでは、突然の|恐慌状態《パニック》が起こっていた。恐ろしいどよめき。誰かが転倒する音。グラスが踏み砕かれる音。戸棚にぶつかって、人形ら達がガラガラと雪崩落ちる。しばらくして、

(こ、これはホランドじゃないのか)

 |痙攣《ひきつ》ったような布瀬の声が響き渡ると、その騒ぎは不意に静まった。慌てて誰かが近づいてゆく。

 縮みあがるような沈黙が何秒か何十秒か続いた後、

(ホランド!)

 狂ったように泣き出したのはナイルズだった。根戸はゆっくり、扉に凭れたまま|頽《くずお》れていった。倉庫の方からは、ただ声と物音からしか事情を察するほかはないのだが、どうやらホランドは何者かに殺され、しかもその屍体が突然、鎖された部屋のなかに出現したということらしい。

 根戸は朧げながら、犯人の意図を感じ取っていた。この密室は、ナイルズの小説に描かれていたものと、全く正反対の趣向になっていることを。いつ泣きやむとも知れぬナイルズの声を聞きながら、根戸はその闇を、決して回復できないものとして意識していた。

 深い、さかしまの闇のようでもあった。

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 四章

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1 現実と架空の間

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「そして、その後はこう続くんだよ」

 ナイルズは、七百枚以上にもなる自分の小説を読み終えた七人の前で、心なしか頬をほてらせながら言葉を|挿《はさ》んだ。

「ええっとね。……『何分か後、再び部屋の照明が一戻ってそこに姿を現わした屍体は、まさしく双子の片割れであるホランドにほかならなかった。瓜ふたつの少年達が、片方は既にもの言わぬ物体と化し、もう片方がそれに取り纒って泣きじゃくっている。その光景を彼らはどうにも説明できないでいた。死因はひと眼でそれと判る。首の周りにきつく喰いこみ、後ろで|結《ゆ》わえられたままの梱包用の麻紐。ややあって、慌てて甲斐は倉庫の鍵をあけ、扉に寄りかかりながら膝を落としている根戸を連れ出したのだった。半ば|瞻言《うわごと》めいて繰り返される根戸の言葉から、彼もやはり鍵穴を覗いており、そして一一回目の停電の前には、間に挟まれた別部屋のなかには殺人者どころかホランドの姿すら認められなかったことを確認すると、さすがに彼らの|黯然《あんぜん》たる想いも深い自虐の色を濃くしてゆくのだった』……ここで一行あけて、こう締め|括《くうくう》るんだ。……『今度は曳間の場合とは違って、最初から殺人事件として取り扱われた。当然前回の事件との関連にも不審を抱かれることとなり、総てが蒸し返され、掘り返されて、結局事件の捜査権は、彼らの手から永久に奪われてしまったように思われた。そうして、苛酷で|遽《あわただ》しい期間が何週間か続いた後、彼らの上に訪れたのは、|縺《もつ》れた糸屑がほぐれ出してゆくような緩慢さと、眠りに落ちてしまうような寡黙さに支配された、ながいながい、果てしもない時間だった』と、ね。……どんなものかなあ」

 悪戯っぼく|※[#「目偏+旬」、第3水準1-88-80]《ウィンク》してみせながら、ナイルズは最後にそう尋ねて寄こした。

 八月十六日。ついにその夏は、小説にもあった通り七月十四日の突発的な猛暑を例外として、何者かに頭を叩かれたとでもいうように気温は横匍いを続けたまま、盆を過ぎてしまっていた。

 あのめくるめく季節は、一体どこに行ってしまったのだろう。いつもは夏の暑さを|厭《いと》う者でさえ首を|捻《ひね》った。マスコミではその異常低温を、何度目かの氷河期の先触れであるとして、まことしやかに特集を組んだりもした。またある者は、いや、これは大地震の前兆である、と反論し、かと思うとまたある者は、その現象を確率論の立場から〝何でもないこと_と晋催す見解を採ったりもした。一般的に言って、地球自体が狂い始めているのだという終末論的な考えが|大勢《たいせい》を占めたようである。しかし不思議なことに、その割には、やはり世間というものはその平穏さを一向崩そうとはしなかった。

 いずれにせよ、そんなことが囁き交されていた八月中旬のある日、ナイルズは彼らの前に、小説の続きと称してぶ厚い原稿用紙の束を差し出した。布瀬の『黒い部屋』で姿を消した七月二十四日からほぼ三週間、依然|杳《よう》として行方の掴めない真沼のことを気に揉んでいた彼らは、早速それを機会に集合することにした。涼しいのだから屋外でいいだろうということで、場所は羽仁の提案により、新宿|御苑《ぎょえん》の芝生の上となった。

 甲斐と倉野が私用で抜け、雛子と杏子の方は、やはりまだ外に出る気にはなれないということで、集まったのは七人。木陰になった人気のない一角を選んで腰をおろすと、彼らは取りあえず羽仁の朗読によって、『いかにして密室はつくられたか』の鑑賞を行なうことにしたのだった。

「今度は僕かあ。参ったね」

 |擽《くらすぐ》ったげに脚を投げ出すホランドに、羽仁は同情まじりの笑いを寄こして、

「あはあ、第二の犠牲者だね。しかし、これはむしろ喜ぶべきことじゃないのかな。なぜって、この小説の方では、ナイルズの予感が次々と的中してゆくことになってるけど、実際にはこうして曳間もピンピンしていることだし、却って命を保証されたようなものじゃない」

「だって羽仁さん」

 既に紅を濃くしてゆく|楓《かえで》の樹に寄りかかっていたナイルズは、その場にぴょこんと|蹲《うずくま》ったかと思うと、

「現実にそんな予言めいたことなんて、そう簡単に行なわれる筈がないよ。せめて、三章の最初の部分を七月二十八日以前に書いていればねえ。でもさ、やっぱり自分の書いたことが現実に起こるとなると、気持ちが悪いと思うよ」

「ああ、雛ちゃんの御両親のことだね。……しかし、面白いね。逆に言えば、この小説のフィクションの部分の側から見ると、まさに、事実は小説より奇なりってことになってしまうんだなあ。……ナイルズのこの小説が何章まで続くのかは知らないけど、やっぱりこんなふうに、現実の出来事と架空の出来事とが互い違いに進行してゆく趣向なんだろう? そうするとだよ、仮に、小説が完成したとして、僕らのことを全く知らない第三者がこれを読む場合、一体どちらを現実のことだと思うんだろうか」

「さあねえ」

 布瀬が青く抜ける空めがけてパイプ煙草の煙を吐き出しながら|嘯《うそぶ》いた。

「まあ、第三者のことなど、どうでもいいだろうよ。実際には実名小説なぞ、所詮現実の後を追いかける存在でしかないということではないかね」

 すると曳間が、そんな言葉も聞かぬげに、

「あはは。もしもその見知らぬ読者が、一章と三章の方を現実のことだと看做すなら、その人にとっては、この僕という人間は存在しないことになるんだろうね。むしろ、そちら側の事件の方が、はっきりした殺人事件として猫かれてるし、おまけに僕に気の狂ったお姉さんがいるなんて、全く僕自身にとっても意外この上ない事実が公表されているものね。ただ部屋のなかでひとりの人間が姿を消してしまっただけの、正体不明の事件よりは、いかにも|凶々《まがまが》しい悪意のもとに行なわれたものの方を、現実であってほしいと望むのが人情じゃないかな。単に今度の事件を見た場合でも、密室のなかでひとりの人間が蒸発してしまうなんて、こう言っては変だけど、|現実感《リアリディー》に欠けるよ」

「ははあ、現実の方がリアリティーがない、ですか。これは面白いですねえ」

 曳間の言葉に驚いたように影山がそっくり返ると、先程から芝を指で引きちぎっていた根戸が、

「俺達の推理を客観的なものにするためには、いっそ、何も知らない読者として、この小説の謎解きをするくらいのつもりでなきゃね。そうすりゃ自分自身も第三者の眼から眺められるってもんだ」

「ハハン、しかし、実際には何も知らない読者としてこの小説を読むなら、それこそこの小説に描かれたふたつのストーリーのどちらが現実か、という点から考えねばならんことになるぜ」

 すかさず布瀬がまぜっかえすと、思わず羽仁もつられたように、

「だけど、布瀬。実際のことを何も知らない読者なら、片方が現実に忠実に描かれていることも知らない訳だから、どっちが現実の出来事か、なんてことは考える筈がないよ」

「いやいや、そんなふうに誤解して貰うと困るな。吾輩の今言った現実とは、飽くまで小説上の現実ということだぜ。考えてみれば判ることだ。見知らぬ読者がこの小説を読んだ場合、一体どちらのストーリーが現実だろうと考えるのは、ごくごく自然な気持ちではないかね」

「ああ、そうか」

 羽仁は頭を|仰反《のけぞ》らすように答えて、ナイルズに、

「いかんいかん、これはどうも、僕こそがワトソンにほかならないみたいだ。……と、こういうと、またまた誤解が起こるか」

「何だか話がややこしくなって来たね」

 愉快そうにナイルズが言うと、根戸が、

「なあに呑気なことを言ってやがる。だいたいからして、お前がこんなややこしい小説を書くからいけないんじゃないか」

「あれ」

 頓狂な叫び声を挙げたのは羽仁で、

「いいのかねえ、そんな弱音みたいなことを吐いて。……そういえば、僕達が今こうしていることも、ナイルズが次の章で書くかも知れないんだよ。くれぐれも言葉には注意した方がいいね」

 そう言われると根戸も眼を丸くして、

「おっと。それはいかんな。ナイルズ。本当かい。この場の会話も小説になるのか」

「さあねえ。……まあ、後になってみなくちゃ判んないなあ」

 空|恍《とば》けてみせるナイルズに、

「ちぇっ、どうもやりにくいことになってきたなあ。暮しにくい世のなかだ」

 そう言って、|※[#「手偏+少+毛」、第4水準2-78-12]《むし》っていた草の葉を眼の前に振り撒いた。

 ずっと続いている芝生の広場には、やはり結構入苑客が多く、友人どうしやら家族連れやら、あるいは男女のカップルやが、あちらこちらに固まっていた。なかには五、六人で縄跳びをしている女の子、フリスビーを飛ばしあっているグループなどもいて、それらの人びとの服装が色とりどりに、日差しだけは明るい緑のなかで、万華鏡のように輝いて見える。

 いくら気温が低いとはいえ、それはやはり夏の光景以外の何物でもない。

「ねえ、雲の輪郭が、やけにはっきりしている」

 いきなりホランドが、手をあげて言った。

「やあ、本当だねえ」

 曳間も思わず大きく頷いた。いかにもつき抜けるような蒼穹に、翳ひとつない綿雲が幾つも浮かんでいて、青と白との鮮やかなコントラストを見せている。

「ははあ、こいつは見事だね。まるで、そう、もともと純白のところに青い絵具を塗ったふうにも見えるじゃないか。雲の形に塗り残して、ね」

 そう言いかけて、根戸は気がついたらしく、

「おや、そう言えば、この小説の構成に似てるね」

「ふふ。二重構造だね」

 羽仁も空を仰ぎ見ながら、

「見方によって二種類の絵柄に見える絵があるよね。見たことがある筈だよ。中央に黒のシルエットで、花差しのような燭台のようなものがある。かと思えば、黒いバックに白抜きで、ふたりの横顔が今まさにキスをするかのように向かいあっているようにも見える。『いかにして密室はつくられたか』は、この二重構造によく似てるんだ」

「ああ。有名なやつだね」

 曳間は、人差指をつと額にやると、

「ああいった|瞞し絵《トロンブ·ルイユ》というのは、実に面白いよね。心理学の講義では随分実例を見せられたけど、ああいった類いの絵には、鑑賞者が向きあっているのは自分自身にほかならないという、不思議な構造をつくり出す作用があるんだ。だから、|超現実主義《シュール·レアリズム》の絵画には、そんな作用を見こまれて、瞞し絵の技法がふんだんにとりいれられているだろう。ダリとかマグリットはその筆頭だし、もっと幾何学的に徹底するとエッシャーになる。……心理学的に見ても、瞞し絵というのは実に興味ある対象で、燭台と人の横顔とが白黒逆で重なりあっていても、それを見る者は決して、そのふたつのイメージを同時に描くことはできない[#「そのふたつのイメージを同時に描くことはできない」に傍点]んだよ。つまり、その絵を見ている人間は、ある瞬間には燭台なら燭台、横顔なら横顔の、どちらか一方のイメージしか想い浮かべることができないんだ。浮かびあがって来るイメージを|図柄《ずがら》、そのむこうに追いやられるのを|地面《じづら》と呼ぶ時、白い部分と黒い部分はお互いに図と地の立場を交換するだけで、両方一度に図柄としての立場を主張することはない。この アとは、ある意味で人間の想像力の限界を示していると僕は思うんだ。こんなところにも、こうしてちゃんと不連続線が顔を見せているんだよ……」

 ふと言葉尻を濁らせる曳間にひき次いで、根戸は指を勢いよく鳴らすと、

「ははあ、するとこの小説の場合はどうなるのかな。同じ二重構造には違いないから、第三者がこれを読む場合、やはり絵と同じように、現実と架空の両極を結ぶ軸は、ある瞬間には常にどちらかに傾いてなけりゃならないんだろうか。……いや、自分で喋ってることの意味がよく判らなくなってきたな。つまりそれは、どちらもが現実で、同時にどちらもが架空であるというようなイメージは、決して描くことができないということなのかな。しかし、現実で、同時に架空である、というような状態が想像できないのはあたり前だし……」

「要するにややこしいんだろ」

 と、羽仁。

「こんにゃろうめ。地獄へ堕ちろ」

 根戸は笑って、もう一度撹った草の葉を投げつけた。その多くは羽仁の胸あたりにぱっと散ったが、なかの団子になったひとつかみは、その隣に腰をおろしていた影山の顔のまんなかで弾けた。身動きする暇もないまま、気持ちよいくらい見事に命中したので、みんな一斉に吹き出してしまった。

「わはっ、御免。悪かった」

「いえ、いいですけども」

 口をつき出し、眼をしょぼしょぼさせながら、影山は丸い黒縁眼鏡をはずした。

「しかしながら……ですねえ」

 ゆっくりぶ厚いレンズの汚れを拭き取りながら、そんな言葉を口に出すと、

「ナイルズ氏のこの小説では、繰り返し〈さかさま〉という言葉が使われていて、今度の真沼氏の消失事件までが、三章の最後の殺人事件と組合わせることで強引に……いえ、無理矢理に……でもありません、ええ、巧みにさかさまの性質を付与させられたりもしている訳なんですけれど、そのいろいろある〈さかさま〉のなかで、最も大きなものがこの二重構造にほかならないんじゃないでしょうか。小生と致しましては、ひどくそんな気がしてならないのですが。はい」

「ああ、それは勿論、そのつもりだよ」

 得意そうに答えるナイルズに続けて根戸は、

「……俺もその点はそう思ってたけど、しかし全く、この小説の通り、現実と架空なんて紙一重のものかも知れないな。小さい頃によく思ったことなんだが、この宇宙はひょっとして大きな舞台であって、俺達はみんな、ある筋書によって動かされている人形のようなものかも知れない。あっはは。誰でも一度は通り過ぎるこの素朴な疑問を、しかし誰もが決して否定し去る根拠も持てないまま終わっているからにゃ、もしかして今こうしている俺達は、この『いかにして密室はつくられたか』という小説の #誤字 登場人物なのかも知れないぜ。つまり、この世界そのものが実はこの小説の架空の側の世界である、と言ってもおかしくないんだな」

 根戸はそう言って、六人の顔を見較べた。

 原色に彩られた、平穏そのものを絵に描いたような、広びろと続く芝生の一角だった。

[#ここから3字下げ]

2 ※[#「角+力」、第3水準1-91-90]斗雲に乗って

[#ここで字下げ終わり]

 甲斐は豆粒ほどの筆先を二ミリほど下に滑らせた。

 ――まだ少し暗いか。

 |画架《イーゼル》に立てかけられたキャンバスに描かれようとしているのは、久藤杏子の肖像である。ただそこに描かれている杏子は、中世のもののような古めかしい|法服《ローブ》を頭からすっぽりと|纏《まと》い、金糸や銀糸の織りこまれた豪華なソファーにぐったりと身を|凭《もた》れさせていた。燭台かららしいぼおっとした薄明かりのそのまた向こうの暗闘から、静かに瞼を|鎖《とざ》した杏子の表情を窺い見るように顔を覗かせているのは、五匹の異様な姿形をした小悪魔で、しかもひっそりと眠っているかとも思われる彼女の胸元には、あろうことか細長い|鍔《つば》の、いかにも鋭利らしい短剣が深ぶかとつき刺さり、赤黒い血潮が衣服の下で|夥《おびただ》しく流されているのが判る。見たところ、死後二、三時間を想定して描かれたらしい。要するに甲斐は、屍体となった杏子を描いているのだ。

 しかもそのタブローの著しい特徴は、その|凄《すさま》じいまでの克明さにあった。紫檀造りらしい書斎風の部屋の隅ずみから、死者の睫毛の一本一本まで、全く呆れるしかないくらい執拗に描写されてあって、殆どそれは一枚の写真と言ってもよいほどだった。ソファーの向こうに、蜘蛛の巣めいた|絡《から》みあいを見せる地球儀や羽根|箒《ぼうき》や望遠鏡などといったがらくたが積み置かれ、その隙間から見える窓の外の不思議な星空まで、まるで本当にそこにあるとしか思われない。

 甲斐は細い筆をおろすと、二、三歩後ろへ躯を引いた。額に浮き出た汗を白い上っ張りの袖で拭うと、満足とも苛立ちともつかぬ溜息を吐いて、筆を|筆洗《ひっせん》のなかに|抛《ほう》りこむ。そのまままじまじと、殆ど完成の域に達した自分の作品に見入っていたかと思うと、甲斐は顔を皺だらけにしてにやりと笑みを浮かべた。

「後は髪の毛と、|更紗《さらさ》だな」

 そんなことを呟きながら、傍の丸い木椅子の上から煙草の箱を取り、残り少ない一本を口に|銜《くわ》えたまま、こちらは|発条《ばね》の馬鹿になりかけた古い肘掛け椅子にどさりとばかりに腰をおろした。椅子はギイギイと気味の悪い音をたてて鳴った。

 弾力のない背凭れに躯を埋めるようにしてそっくり返ると、甲斐は|美味《うま》そうに煙を吐き出した。そして上っ張りの胸ポケットから一枚の写真を取り出すと、それと自分の描いている油絵とをつくづくと見較べた。

 写真には絵と同じ姿勢でソファーに凭れかかっている杏子が写されていた。といっても、身につけている服は普通のワンピースで、ソファーも絵に描かれているような豪華なものではさらさらなく、その場所もどこかのありきたりな部屋のようだった。甲斐は、この写真をもとにして油絵を描いたのだろう。ひと通りの比較が終わると、甲斐は再び満足そうに煙を細ながく吐き出した。

 甲斐がその写真を撮ったのは、もう半年近く前のことだった。話を持ち出したのは杏子の方で、写真のモデルになってあげるから、その代わりそれをもとにして一枚の油絵を描く。それも、屍体と化した状態として描くこと。そんな条件をつけ加ぇて、ゲームは始まったのである。杏子にはひとときの、そして俺にとってはながいながいゲーム。甲斐はそんな想いを噛みしめた。

 その時、甲斐を呼ぶ声が聞こぇてきた。甲斐は快い眠りを醒まされたように、眉を|顰《ひそ》めて首を伸ばした。

「おーい、甲斐。いるんだろう」

 曳間の声だった。

「おお、ちょいと待ってくれ」

 こちらも怒鳴り返して、甲斐は板張りのアトリエから、畳敷きの部屋へ戻った。その扉に鍵をかけておいて、跳ねるように玄関へと向かう。

「何だ」

 言いながら鍵を開けて曳間を招きいれると、

「何だはないだろう。扉に鍵までかけて。どうもお前の秘密主義も一向に変わらないな。また秘密のアトリエで油絵でも描いてたんだろう」

「ほっほう。その通りさ」

 自分は例の戦利品である木椅子に腰をおろすと、机の上のラジオに手を伸ばし、スイッチを入れた。流れてきたのはパイプ·オルガンの絢爛たる演奏だった。

 曳間は畳の上に|胡座《あぐら》をかくと、

「この間は、どうして来なかったんだ」

「ふふん、例のピクニックか。どうも気乗りがしなくってね。それだけだ」

「そうかな」

 曳問は青いジャケットから何かを取り出そうとした。不意にそれの発した音は、壮麗なバロックの調べには|似《そぐ》わない涼しさで鳴り響いた。

「あっ、それは」

「そうだよ。雛ちゃんの風鈴さ。あんなことがあって、根戸が借りっぱなしになっていたのを、ちょっと又借りしてきたんだ。……ナイルズの小説にはそこらあたりの事情を旨くこじつけて書かれてあったけどね」

「はあ、またナイルズの小説か。お前ともあろう者が、どうしてあんなものに|拘泥《こだわ》るのかね。まるでお前達を見てると――あの小説を中心に行動しているようだぜ。俺はそういうのが、全くのところ我慢ならんのだがな」

「あっはは、そんなふうに言われると、面目ないね。……しかし、あれのなかに、この呪文の正体がまだ書かれていないのはどうしてかな。根戸が調べたところ、密教の|降三世《こうざんぜ》明王三大秘法に用いられる特殊な真言だそうだけど、それがまさしく調伏のためのものだったのは、偶然にしても面白いね。しかも、その四体の明王と呪文を風鈴仕立てにするなど、なかなか風変わりじゃないか。一体どういう目的でこんなものが作られたのかは判らないけど、誰かを呪い殺そうという悪意を他人に悟られないよう、擬装のためにこんなものに形を借りたのだとすれば、これの作者もなかなか風変わりな頭脳の持ち主と言わなければならないだろうね。そうは思わないかい。いや僕は、風鈴という、いかにも日本的な情緒のあるものに、密教の呪文を絡ませたところに感心しているんだよ。それにもともと、眼にも見えず、どこからともなく吹き過ぎてゆく風は、禍いを運ぶものの象徴なんだから。……勿論、僕はそんな呪法自体に効力があるとは思っていないさ。ただ見過ごせないのは、呪文に託される悪意の存在なんだ。僕の興味は常にそこにあってね。全く人間の悪意というのは、総てのことをやってのける力を持ちあわせているからねぇ」

「ははあ。それについちゃ、俺も全く異議はないね」

 甲斐はふと先程の油絵のことを想い出しながら言った。

「この世は全くのところ、悪意と悪意との、果てしない戦いだ」

「あっはは、甲斐。そういうお前の視線が、ちらりとあのアトリエの方に向けられたね。お前のその言葉に関連する何かがあの部屋にあるんだろうが、誰にも見せたことのない〈開かずの部屋〉に隠されていては、覗いて確かめる訳にもいかないな」

「ははん。そんな詮索好きらしいことを訊くのもお前らしくないな。『黒魔術師』と呼ばれるくらいなら、透視術かなんぞでピタリと言い当てるのが本当じゃないか」

 甲斐はラジオから流れるパイプ·オルガンの旋律にあわせて、ゆっくり躯で拍子を取りながら、そう挑発してみせた。

「それは困ったな」

 曳間は風鈴をポケットに戻しながら唸って、

「僕は透視術なんて能力は持っていないものね。せいぜい読心術がいいところさ。で、それを使って答ぇてみるけど、それは一枚の油絵じゃないかな」

 あたり前のように指摘されて、甲斐はほんの|僅《わず》か、脣を歪めた。

「ヘえ。当たってるよ。ふふん。しかしそこまでは、俺が油絵専攻で、しかもあれがアトリエであるというところから推理される、ごく一般的な結論でしかないな」

「それには杏子さんが描かれているね」

 甲斐の言葉が終わるか終わらないかのうちに、曳間はまたも平然と言ってのけた。木椅子に腰かけず、立ったままだったとしたら、甲斐は少し|蹌踉《よろめ》いたかも知れなかった。

「ふん。……これは驚いたな。しかし、それもある程度想像できるが」

「それは、杏子さんの屍体だね」

 甲斐の表情から、はっきりと血の気がひいていった。

 思考が頭のなかで手綱を失い、空まわりを始めたようだった。

「死んだ杏子さんが寝ているのは、大きな寝台か、ソファーのようなものだね。従って、そこは部屋のなかだ。……暗い部屋。いろんなものが迷宮めいて積み重ねられていて、多分そこには窓も描かれている筈だけど」

「曳間」

 甲斐はごつごつと節くれだった指で顔をぐるりと撫でまわすと、

「全くお前は、恐ろしい奴だな」

 血走った眼で相手を睨みつけた。

「冗談が冗談にならない……」

 すると曳問の方も|面映《おもはゆ》そうな表情になって、

「いや、これは単なる応用心理学さ。どうも|悉《ことごと》く的中してしまったようだけど、こう旨くいくとは思っていなかったよ」

 そう弁解すると、|皓《しろ》い歯を覗かせて笑った。しかし、甲斐の方はまだ苦い表情を崩さずに、

「ということは、お前にとっちゃ、少しばかりの秘密主義なんてものは、あたかも硝子の壁の如しっていう訳か。お前が探偵にでもなれば、およそこの世に起こる犯罪など、犯人が智恵を絞れば絞るほど、その外側から手に取るように真相が見えてしまうんだろうな」

「待ってくれよ。それとこれとを一緒にしちゃいけない。だいいちさっきのも、言わば大道易者と同じことで、当たるも|八卦《はつけ》、当たらぬも八卦という奴なんだ。たまたま正解だったに過ぎないさ」

「ふん。それでは今度の、真沼の事件に関してはどうなんだ」

「あれか……」

 曳間はふと顔を窓の外に向けた。太陽にからんと照らし出された街は、生気なく横たわっていた。

「あれについては、僕は口を鎖すほかないらしいよ。僕にはあの事件が何故起こったのかが判らないんだ。……そう。僕には動機が見つからない。事件の外観とぴったり辻褄の合う動機を、見出だすことができないんだ。倉野の指摘した、『真沼が殺されるとすれば、それは真沼自身の美貌と|拘《かかわ》ってこない筈がない』という言葉は確かに鋭くて、僕もその路線であれこれ推理を進めたんだけど、愛情にせよ嫉妬にせよ、どんな感情を中継させても、あの事件の外貌と、各人のパーソナリティーとが旨く結びついてくれなくてね。ナイルズの小説では、僕が殺された事件のせいか、みんなが寄って|集《たか》って、やたらに心理学的探偵法とやらを振りまわしていたけど、どうもあのあたりが心理学の限界なのかな。あっはは。だけど、もともと僕には、日常の会話だけで皆の深層心理の隅ずみまでずばりと見抜いてしまうような洞察力なんて、持ちあわせがないからね」

「ははっ、そうであってくれれば、全く有難いこった」

 甲斐がそう吐き出すと、曳間は冗談めかして、

「おや。そうなのかい。……ははあん。判った。真沼を殺したのは、甲斐。お前だろう。そうして『黒い部屋』から運び去った真沼の屍体は、そこの秘密の部屋に安置してあるんだ。乱歩の『白昼夢』のように|屍蝋《しろう》にしてね。あっはは、そうすると動機も愛憎以外に、新たな種類が加ぇられるな。つまり、屍体となった真沼を、純粋に美術品的な観点から自分の部屋に陳列してみたいという」

「ふふん。するとむしろ、『|黒蜥蜴《くろとかげ》』か」

 甲斐は面白くもなさそうに言い返した。

「ともかく、お前は今度の事件の真相に関して、何の見当もついてないのか」

「そうだよ。まあ、心理的なものを総て無視して言えば、ある仮説を提出することはできるけれども……」

「何だ。いやに奥歯にものの挟まった言い方をするじゃないか。構わんよ。今度の事件を純粋にひとつの探偵小説だと割りきって考えても」

「心理的なものを無視して……」

「そうとも。実際、お前も探偵小説を読む時にまで、登場人物のひとりひとりのパーソナリティーを悉く把握してから、それに見合った解決を導き出そう、なんてことは考えん筈だがね」

「うん。そこなんだよ。僕がどうしてもひっかかりを覚えるのは」

 曳間は胡座をかいた背筋を前に傾けた。

「君はさっき、僕達を見ているとナイルズの小説を中心に行動しているように見えると言ったけど、僕も|賑《にぎ》やかしにあの小説の音頭を取っている訳じゃないんだ。なおかつ僕が奇妙に思い、|拘泥《こうでい》せずにいられないのは、今度の事件が[#「今度の事件が」に傍点]『いかにして密室はつくられたか[#「いかにして密室はつくられたか」に傍点]』という小説のために行なわれた[#「という小説のために行なわれた」に傍点]のであれば、全くそれが自然にすんなり受け取れるという点なんだよ。君が今言った言葉もまた、そのことを裏打ちしている。今度の事件に心理学的な推理法を持ちこむとどうしても|藪知不《やぶしらず》に迷いこむから、ひとつの架空の探偵小説と看做して考える――それはつまり、今我々のいるこの世界を架空にすることであって、|畢竟《ひっきょう》『いかにして密室はつくられたか』の架空の部分と現実の部分をいれ換えることにほかならないじゃないか。そう考えると、君の今の言葉も、ナイルズの小説の現実性を補強しようとしていることになるんだよ」

「へへぇ。何だか妙なことを言い始めたぞ。『あなたが関係ないと言っても神はあなたを見守っておいでです』なんぞと|宣《のたも》うて寄って来る新興宗教の|族《やから》と同じ口調じゃないか。お前が『いかにして密室はつくられたか』教を|興《おこ》すのは勝手だが、俺は飽くまで知ったことじゃないからな」

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