饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.7

 甲斐が煙草の煙を吐きながら切り返すと、曳間は覗きこむような姿勢を崩さぬまま頭を掻いて、

「あっはは、これは一本取られたな。でも、僕は別に、それほどあの小説に肩入れしているつもりはないよ。それどころか、あの小説には不吉なものが感じられて仕方がないくらいだ。あの小説の意図のひとつは、勿論、この現実と自分のつくりあげた人工の世界とを、くるりとすり換えてしまおうというところに違いないんだけど、その仕組がなかなか巧妙に、しかも強靱につくられているものだから、みんないちいちつっかかってしまうんだよ。いったんそうなるともう駄目さ。みんなの行動があの小説を中心に、小説を成り立たせるためになされているように思えてくる。透視図風に、そう見えてくるんだ。本当のところを言うと、僕はそんな構図に組み入れられることに反撥して、それで心理的なものを無視した単なる機械的な仮説を提出することは控えようとしているんだよ」

「ほほう。するとお前もあの小説にはあまりいい感情を抱いてないのか」

 組んだ脚を崩して甲斐が訊くと、

「いや、そうでもない。僕はどちらかというと、ナイルズの小説に含まれている、そういった種類の毒が大好きな質だからね。それは多分、みんなもそうさ。そこがまた奇妙な矛盾で、ナイルズの小説の毒は、みんなの心の底にある毒を吸収して、よりその猛毒性を発揮する仕組になっているんだよ。ナイルズ自身、気がついているかどうか判らないけど、あの小説には確かにそういった凶悪な部分があるんだ」

 曳間が熱っぽくそう語ると、甲斐は、

「ふむ。美しく咲き乱れる桜の木の下には土に埋もれた屍骸があるっていう、例の幻想かね。とどのつまり、俺達はナイルズの仕掛けた罠から抜け出せないってことなんだな。こいつは面妖だ。とすると、真沼を殺して屍体を運び去った犯人は、ナイルズの小説の呪縛のもとに、そんなことをしでかしたのかも知れん訳か。……まあ何でもいいさ。とにかく喋ってみろよ。その仮説とやらを」

「うん。まあこうなったらナイルズの掌のなかで、孫悟空のように、|肋斗雲《きんとうん》に乗ってどこまでもつき進んでゆくことにしようか。……そういえば、君はナイルズの小説の新しい部分を知らないんだったね。そのなかでワトソン捜しっていうものが提唱されていて、それはつまり犯人捜しと違って、誰が騙されているのかということを主題とした探偵小説のことらしいけど、今度の事件がまさにそれだったんじゃないかということなんだ」

「つまりみんなの共犯ということかね」

 すかさず甲斐が尋ね返すと、曳間はにやりと微笑んで、

「そういうことらしいよ」

「しかし、とすると、どういうことかね。あれは事件そのものが架空だったという訳か。……オイ、曳問。お前もまさかその連中に加わって、俺を騙してるんじゃないだろうな」

「まさか」

 曳間は首を振った。

「僕はそんな考え方を採るつもりはないんだ。狂言ならばそれでいい。僕は、現実に殺人が起こったと仮定した上での解決を追求することにしか興味を惹かれないんだよ。だから、この間の羽仁の〈虱潰し法〉で言えば……」

 その時、唐突に部屋のなかから光が遠のいていった。

 甲斐は曳間の催眠術にでもかかったかと訝しんだが、窓の外を振り返ると、それは突如として湧き起こった黒雲のせいだった。西の空から津波のように押し寄せ、見ている間にも恐ろしい速度で|天蓋《てんがい》を埋めつくしてゆく。雲の下は|深藍《インディゴ》に翳り、泡だつように|朧《おぼろ》に見ぇた。そして空を喰い|潰《つぶ》してゆくにつれて、雲はその厚さをも、間断なく増しつつあるのが判った。

 じきに雨がくる。

 そう思う間もなく、大粒の雨滴が窓硝子を激しく打ち鳴らし、続いて一瞬のうちに窓の外は、天地をひっくり返したような豪雨に包まれていた。あっと言う間の急変だった。しばし呆れて見とれていた甲斐は、跳ねたつ水|飛沫《しぶき》に忽ち濡れてゆく窓枠に気がつくと、

「畜生。スコールでもあるまいに」

 唸るように呟いて、窓を閉めに立ちあがった。窓を鎖した部屋のなかに、突然の宵闇が訪れていた。微かに、遠雷が|轟《とどろ》いたようでもあった。

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3 おもちゃ箱の坂で

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「そう。もうすこし」

 杏子は知らず知らず、そんな言葉を洩らしていた。

 まだ線香の薫りが微かに残っている。畳に、壁に、柱に、|梁《はり》に――彼女が感じたそれは諦めだったのだろうか。口惜しさだったのだろうか。

 杏子はそっと窓の外に、初めて見るもののように視線を移した。|栴檀《せんだん》の鋭い照り返しの向こうに、背の低|籬《まがき》が隠れるように横切っていて、そこには既に、あの日の面影はかけらさえ残っていない。それが杏子には不思議だった。それともこれは、決して納得してはならないものなのだろうか。見るうちに光景は、眩しい光に満たされ、窓の外は、そこだけの乱反射の場所のようにも思えてくる。

 晶婚旅行と名づけて両親を送り出し、その結果、ふたりを果てしもない闇の底に追い落とすことになってしまった雛子は、今も二階の自分の部屋に閉じ籠もっているのだろう。杏子はひとつ溜息を吐いた。雛子は自分の責任でもないことを、自分の罪として身に引き受けてしまっているのだ。

 栴檀の木の輪郭は、白い、複雑な線の集まりに見えた。そのなかに処どころ、ひとつひとつの葉が、鋭いナイフのように輝いている。それは杏子の苛立ちを、ますます抑えようのないものにした。なぜなら杏子の眼には、その時、その栴檀の木から、夥しい血が滴り落ちていたからだった。

 彼女自身の血か、姉夫婦の血か、それとももっと意外な人物の血なのか、杏子には判らなかった。ただそれは、それがそうあるように、八月も下旬にさしかかろうとする日の白昼、ほんの数瞬ではあったが、確かに杏子の眼にはありありと像を結んだのである。

 あるいはそれは、ひとつの罰の形であるのかも知れなかった。

 ――あの子は、恐ろしい子だわ。

 杏子は自分の膝元に眼を落とした。畳に窓からの日差しが落ちて、白い影をつくっている。杏子は昨日のナイルズの背中を想い浮かべていた。

 白い背中。

 杏子は、いつものように車を走りまわらせたい衝動にかられた。悪意をぶつける対象さえあれば、彼女はどこまでも失楽のただなかに沈みこんでゆけるような気がした。

 いつものように、杏子は車を走らせ、ナイルズを連れてモーテルにつける。葬儀の後ですら、やすやすとそれをやってのける自分に、杏子は少しばかり驚いていた。服を|剥《む》かれた少年は、白い、|嫋《たお》やかな裸体を露わにする。まるで、皮を剥いたアーモンドのよう、と杏子は思った。いつまでも消え去ることのない|羞《はじ》らいは、本来は彼女が持つべき後ろめたさ[#「後ろめたさ」に傍点]のせいなのだろう。それは彼女が優しく愛撫してやるほどに膨れあがってゆく。|怺《こら》えようとして思わず洩らしてしまう微かな声。しゃにむにしがみついてくる感触。杏子はそのひとつひとつが、面白くてたまらないのだ。

 |羞《はずか》しがらせること。

 杏子は自らの悦びよりも、むしろそれだけに熱中していた。そのためにこの少年には、根戸の時などよりも一層、思いきり|猥雑《わいざつ》なことに浸れるのだ。

 その後に、ぐったりと背中を見せる少年を眺めることで、その儀式は終わりを告げる。そして昨日もその筈だった。

 ところが、その日は違っていた。ナイルズは服を着終わると、黙って悪戯っぽい笑みを返した。杏子はよく判らないままに、はっと胸を突かれた。

 何だというのだろう。ただの、子供っぽいしっぺ返しのつもりならいいのだけれど。そうでなければ、あの白い背中とあの表情との落差が理解できない。

 それはどちらかというと|謂《いわ》れのない不安のようなものだったが、いったん膨れあがり始めたそれは留めきれない切迫感と共に押し寄せてきた。どこまでも追いかけられる夢。

 そう。悪い夢ではないのかしら。

 その時不意に、杏子の眼の前から色彩が消えた。

 驚いて窓の外に眼を向けると、それは日が翳ったせいだった。暗い視界に、まだしばらく眩しい残像がちらちらと残っていて、二、三度瞬きをしてみたが、それはなかなか消え去ろうとしなかった。

 ――雨が来るわね。

 そう直観していた。

 立ちあがって窓際から見あげると、空は|滾《たざぎ》りたつような不吉な黒雲に、みるみる覆いつくされようとしていた。

 ――洗濯ものを入れておいた方がいいわね。ふみさんは上かしら。

 杏子が立ちあがろうとした時、廊下の方で電話が鳴り始めた。杏子は少し|蹌踉《よろめ》きながら部屋を出た。

 受話器を取ると、|口籠《くぐも》った男の声が聞こえてきた。聞き憶えのない声だった。

「もしもし、よく聞いて下さい」

「……ええ……」

「今日の十一時、中目黒駅まで来て下さい。東横線の中目黒です。いいですか、今夜の十一時ですよ」

「あの――」

 訊き返す暇もなかった。それだけを伝えると、相手は電話を切っていた。

 不安がゆっくり彼女を支配したのは、受話器をおろしたしばらく後だった。頭のなかの機械が、忙しく回転し始める。誰だろう。何のために。

 間違い電話だろうという考えがそれを打ち消そうとしたが、なおかつ彼女の不安は、時とともに|弥増《いやま》すばかりだった。

 どこかでバラバラと激しい音が鳴り始めたかと思うと、それは忽ち恐ろしいばかりの轟音となって周囲を包んだ。家自体が咆哮しているかと思われるような雨音だった。ほどなくお手伝いのふみ子が、部屋ひとつ隔てた階段の方で、|遽《あわただ》しく駆けおりるらしい跫音が聞こぇた。そしてそれも遠ざかると、後はいよいよその勢いを増す雨音だけが、その電話機の置かれてあるとっつきから、ずうっと反対側まで、廊下をすっぽりと包みこんでしまったように鳴り響いているだけだった。

 それはまるで何か強大な力が、総ての空間を音で埋め尽くそうとしているようだった。実際、その廊下には、屋根や外庭、あるいはもっと遠く、|杳《はる》か地の果てからの唸りのような音が重なりあい、幾重にも|犇《ひしめ》きあって、何十層もの|谺《こだま》のようにわーんと反響していた。その全体として単調な響きは、杏子の不安を掻きたてるとともに、うっとりとした眠気のなかに誘いこもうともするのだった。

 照明を点けていない廊下は夜のように暗く、杏子はそのなかにぼんやりと|竚《たたず》んだまま、次の時を待った。杳か彼方のどこか一点から、ずーんと重い遠雷の響きが走り抜け、そしてそれは、杏子が耳を|欹《そばだ》てているにも拘らず、二度と聞こえてはこなかった。果てしもなく続くかと思われる雨音のなかで、総ての気配は死んだように静まり返っている。

 この|驟雨《しゅうう》は、そのまま|淫《みだ》らな|霖《ながあめ》となって続くだろうことを、杏子は予感していた。訪れる時間は気の遠くなるほどながく、杏子は再び僅かに蹌踉いた。

 その雨は杏子の予想通り、夜になってもいっかなやむ

 気配を見せなかった。杏子は電話のことを雛子にも語らず、頃拾を見て下目黒の久藤邸を抜け出した。

 雨に|毳《けば》立つ山手通りに沿って二十分も歩くと、中目黒の駅は黒ぐろと懸かる高架橋の下にその姿を現わす。時刻は杏子の腕時計で十一時七分前。杏子は注意深く人びとの顔を眺めまわした。

 恰度電車が出たところらしく、改札口からはぞろぞろと乗客の列が流れでていて、杏子はそのひとりひとりの顔まで決して見逃すことのないように、忙しく視線を移し続けた。杏子の頭のなかでは、|目紛《めまぐる》しく記憶カードが|捲《めく》り返されていたが、該当するような人物はその流れが一段落するまで、ついにひとりも見出だすことができなかった。

 杏子は道路の反対側に目をやった。広い横断歩道の向こうには、六、七人の人影がぼんやりと青信号を待っている。しかし、いずれも見憶えのない顔だった。もしも呼び出した主がいるとすれば、喫茶店のなかからでも見張っているに違いない。

 恐らく、こちらから先にその人物を見つけるのは無理だろうが、杏子は|窄《すぼ》めた真珠色の傘の先を、敷石の継目に苛立たしく刺しこみながら、四方への注意を怠らなかった。けれどもそうやって精神を集中させる後から自失が追いかけ、気がつくと彼女は深い物想いのなかに沈みこんでいるのだ。杏子は何度も、はっと自分を取り戻した。

 十分たち、二十分過ぎても、声をかけようとする者さえ現われない。

 やはりあれは単なる間違い電話だったのだろうか。杏子は躯から力が脱けるのを感じた。考えてみればそれは、虚脱感であってはならないのかも知れない。しかし杏子は、自分の気持ちが決して安堵などではなく、やはり虚しさとしか言いようのないものだと認めるほかなかった。これ以上、何もかもが瞹味とした無言の闇のなかに鎖されている状態が続くのは、我慢できない。そのためになら、何でもいい、新しい出来事が必要だった。たとえ、それがより深い錯綜を呼ぶものにせよ、杏子はこの|寡黙《かもく》な現実のなかでじっと時を待つことに、これ以上堪えられなくなっていた。

 雨は依然、その勢いを弱める気配もなく降り統けていた。ネオン·サインは赤に青に黄に緑に滲み、濡れたコンクリートに反射して、そのなかを|蹲《うずくま》るように黒い影が幾つも走り抜けてゆく。杏子はもう一度腕時計を見た。

 十一時二十六分。

 後、四分だけ待とうかしら。

 ――それにしても。

 杏子は考えていた。あれは本当に間違い電話だったのかしら。でも、あんな相手の名前も確かめない電話なんてあるのかしら。そんな筈はない。あれはやはり、計画的な呼び出しとしか思えない。それにしても、名前を確かめなかったということは、私と雛ちゃんのどちらに聞かれてもよかったことになる。

 ――真沼クンを|殪《たお》し、その屍体さえも消し去った姿なき殺人者が、今度は私や雛ちゃんに狙いを定めたというのかしら。それならそれで、私も相手になってあげるわ。でも、それにしてもあんまり遅すぎる。ひょっとして、そいつは私をある一定時間、どこかに|牽《ひ》き止めておくだけのために、ここに呼び出したのかしら。それとも、もしかして……。

 杏子ははっと気がついた。今までいた眼立たぬ柱の陰から飛び出ると、そのまま駅の改札の方に近づいて、くるりと振り返った。

 伝言板。

 杏子はそこに書かれた幾つものメッセージの上に、忙しく視線を泳がせた。今まで押し殺していた昂奮が|堰《せき》を切ったようにこみあげ、心臓が見知らぬ生き物のように、勝手に|喘《あえ》ぎ始めていた。

 関係なさそうな文のなかにひとつ、杏子は奇妙な一文を見つけた。Miss Kへ、という前置きの後に、簡単な地図が描いてあり、そこの通りをどこまでも歩き続けよとだけ指示している。

 ――これだわ。

 直観だけではなかった。Miss Kならば、杏子にも雛子にも通用する。それに、この道をどこまでも歩き続けよ[#「この道をどこまでも歩き続けよ」に傍点]などという奇妙な表現は、ある場所ヘの道順を教える文にせよ、一般的なものとは思えない。

 ほんの少し迷った後、杏子はこの文に従ってみようと決意した。地図を頭のなかに刻みこむと、杏子はゆっくり足を運び始めた。

 山手通りからはずれると、忽ち人通りは|疎《まぱ》らになった。街灯は道の両側に、ぽつん、ぽつんと点っていて、その間には幕が垂れ落ちるように闇があった。道沿いに並ぶ建物もすぐに木造のものに移ってゆき、その窓から洩れる僅かな光線のなかでのみ、雨は眼に映った。

 それは横ざまのスポット·ライトだった。風に|嬲《なぶ》られるように雨の軌跡は方向をゆらめかせ、ともすればこちらの方にわっと襲いかかりでもするように、闇から現われ、闇に消え続けていた。

 微かに浮かびあがる道路も塀も建物の屋根も、一様に毛を逆立てている。怒っているのかしら。怯えているのかしら。そう杏子は考えていた。後ろから彼女にあわせて跫音がついてくるような気もする。頭のなかを様ざまな想いが駆け巡っていて、自分でもそれを|制禦《せいぎょ》できなかった。

 街筋はいよいよ淋しくなり、遠くの方にやけに巨大なビルの影が林立していた。傾きかけたような古い木造の建物があるかと思えば、ぽっかりと歯の抜けたような空地に材木が積み重ねられており、生垣に囲まれた大きな邸宅があるかと思えば、高校か中学らしい校庭が金網の向こうで|徒《いたず》らに雨に濡れ続けていたりする。そのあたりからいつの間にか人影も全くなくなり、杏子はそれに気づいて、初めて後を振り返ってみた。

 小径は次弟に登り坂になった。|葛折《つづらお》りのその坂は、辿るにつれて勾配を増してゆく。呼吸は肺の奥で|滞《とどこお》りたがってでもいるのか、熱く、苦しかった。しかも、その闇のなかのもっと深い暗がりから、いつ、何が飛び出してくるか判らないのだ。杏子は一匹の猫のように、その闇の向こうを覗きこんだ。

 ふたつ目の角を曲がると、鬱蒼とのしかかる木立ちの合間から、唐突に巨大な影が姿を現わした。杏子はぞっとして、思わず立ち|竦《すく》んだ。とてつもなく大きな積木細工、そう思われたものは、遠くに箏える異形なビルだった。何の規則性もなく突起をぐしゃぐしゃと突き出し、あるいはあちこち醜く|刳《えぐ》り取られたように見えるそれは、のしかかるようにじっと息を殺している。杏子はふと、巨人の国に迷いこんだような錯覚に陥った。

 ――なぜあんな恰好をしているのかしら。

 そこは急な坂道だった。東京にもこんな坂があったのかしら、と杏子は思った。富山にいた頃にはこんな坂がたくさんあったけれども、東京に来てからは、ずっと平坦な道ばかり歩いていたような気がする。うねうねと曲りくねり、登り続けるうちに、どこか見知らぬ世界へと連れてゆかれてしまう不思議な期待めいた気持ちを、幼い頃は確かにたびたび味わった。それはどこかしら甘酸っぱい、胸のときめくような悦びだった筈で、杏子は、もしかするとこここそが、その不思議な場所だったのかしらと考えていた。

 雨は一層勢いを増した。地上に降り注ぐ雨の音は、遠くの方から何重にも重なりあい、ずーんという振動となって杏子の膚を顫わせた。坂は白く泡立ち、きらきらと輝きながら流れをつくって、見あげる坂のそのまた向こうまで、果てしなく続いている。もしかするとこの坂は、あの奇妙な積木細工のビルまで続いているのだろう。

 杏子は息を切らしながら登り続けた。坂道の気流は滑り落ちるように吹きおろし、もう彼女は躯じゅうぐっしょりと濡れてしまっている。登っても登っても、坂道は尽きることなく続いていた。

 この坂の最後には。そう杏子は考えていた。こちらとは違った世界があるに違いない。あの子の小説にもたびたび出てきたあちらの世界が、ふっつりとこの闇から抜け出るようにして存在しているに違いないわ。だからそう、この角を曲れば、……いえ、違ったわ。そう、次のあの角を折れた時に……。

 顔も、髪も、手も、シャワーを浴びたようにびしょ濡れだった。杏子は吹きつける雨に逆らうように登り続けた。次第に頭のなかがからっぽになってゆくのが、自分でも鮮明に感じ取れた。そんな杏子を嘲笑うかのように、闇のなかに一瞬、霧となった水飛沫が、眼の前を渦巻いて通り過ぎた。

「そう。もうすこし」

 杏子はそんな言葉を洩らしていた。

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4 予定された不在

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 部屋のなかに吊された風鈴が、先程からずっと清冽な音色で鳴り続けている。雨だけではなく、風もかなりの強さで吹き荒れているのだろう。時折り底冷えのするような|戦慄《せんりつ》が背中を駆け抜けてゆくのを、影山は意識していた。

「飛車を横に……」

「ポーンを前に……」

 想い出したようにぽつぽつと、念仏でも唱えるかのような呟きが交わされる。

「桂馬が跳ぶ……」

「クイーンが出る……」

 再び、しばらくの間沈黙が横たわった。

「ううん。なかなか、ハード·ボイルド·タッチでやって来るなあ。僕はどうも、ハード·ボイルドは駄目なんだよ」

 緊張を解くように背筋を伸ばしたのは羽仁だった。

「あの……」

 影山は眼鏡を押しあげながら恐る恐る言葉をさし|挿《はさ》んだ。

「窓をしめませんか」

「ああ、そうだね。悪い悪い」

 ぼんやりと市松模様の盤を眺めていた曳間は、そう頷いて立ちあがろうとしたが、それよりも迅く影山は、

「いや! いいです。小生がやりますから。はい」

 そう叫ぶなり、窓の方にすっとんでいった。

 根戸は、対戦中のチェス盤から眼を離さずに笑い出した。

「会う度に面白いね」

 と、対戦相手の羽仁。

「これはどうも」

 ぺこりとお辞儀を返すと、影山は正座に戻って、

「どうですか。どちらが勝ってるんですか」

「どっちが勝ってるように見える」

 根戸が訊き返すと、影山は首を捻って、

「取っている駒はお互いに同じようなものですねえ。……しかし、そんなことを訊いてくるところからして、根戸氏の方が優勢なんでしょう」

「そうでもないよ」

 羽仁は言うと、ビショップを動かして相手のキングにチェックをかけた。根戸の方はそれでも悠然たるもので、指を踊らせるようにしてビショップの|効《き》き筋にナイトを跳ねあげた。

「あれえ。いかんいかん。これを角で取っても、もう一度桂馬の只捨てで明き王手だ。王様が逃げるしかないな」

 少考してキングを横に動かすと、根戸の方はノータイムで自分のキングの斜め上にルークを持って来てチェック。

「あっ。角道を|塞《ふさ》がれちゃったな。困ったなあ」

 腐った羽仁はよく考えもせずに再びキングを斜めに逃がしたのだが、そこですかさずナイトが空を飛んだ。

「わあっ。しまった。女王様を取られた」

「何だかやけに騒々しいんだね」

 曳問が声をかけると、根戸は笑い声を噛み殺して、

「筋がビシビシ決まるものだから面白くってね」

「羽仁さん。将棋は一級の腕前だと聞いてましたけど、やっぱりチェスでは勝手が違いますか」

「違う違う、大違いだよ。こりゃ駄目だ」

 そう言うと、羽仁は取った相手の駒を掴んで盤の上に崩した。

「あっはは。よろしい。……と、俺が優越感を感じられるのはこれだけだな」

 自分の駒も崩しながら根戸が言うと、影山は、

「そんなことはないでしょう。……この間聞かせて頂いた群論の研究を発表すれば、数学史に名前が残る筈ですし、今進めておられるワリングの問題の研究も、完成すれば凄いですよ」

「あっはは、そっちは殆ど諦めてるんだけどね。……しかし影山だって、いろいろ凄そうな理論を温めてるじゃないか」

「そういえば曳間氏も、何でしたか、『記憶におけるくりこみ原則』ですね。あれもようやく話題を呼び始めたそうですねえ。小生は物理学畑なものですから、どうも朝永博士の『くりこみ理論』をついつい連想してしまうんですが」

 そう|鉾先《ほこさき》を変えると、曳間は微かな苦笑をその脣に漂わせながら、

「ほんのでっちあげだよ。その前書いた論文が『記憶における超多時間原則』だったから……」

「まさか」

 影山は思わず吹き出したが、

「いや、本当さ。前ので触れていた|記憶錯誤《パラムネジー》。に関して掘りさげたものが、その論文なんだ」

 羽仁はこの会話にしばらく呆気に取られていたが、

「あはあ、全く皆々様方、たいしたもんだね。僕なんか、文学部にいる癖に、ナイルズのような創造的才能もまるでないからね。情ないったら」

 そう言って、傍の机に置いてあった腕時計を取り直した。

「五時半だね。そろそろみんな来る頃だけど。……それとも雨で|億劫《おっくう》になったのかな」

 八月十九日から降り始めた雨は、この二十一日になってもいっかなやむ気配を見せず、今はその上に強い風も交えて、再び勢いを増している。かてて加えて気温はますます下りゆく一方とあっては、外に出るのが面倒になるのも当然だった。

「そうかもね……」

 しかし、根戸がそう言い終わらないうちにコンクリートの廊下に幾つか靴音が重なり、独特のリズムで扉をノックする者があった。

「判ってる。あれは布瀬だよ」

 最初に入室してきたのは果たして布瀬で、その後にナイルズとホランドが続いた。

「あれ。お三人方、一体どうなさったんですか」

 いち迅くそれに気づいたのは影山で、三人の表情にはどこか沈んだような色があった。

「どうってね」

 布瀬は口を尖らせてどっかりと腰をおろす。その後でナイルズが睫毛に細かく付着した雨粒を拭いながら膝をついて、

「雛ちゃん達が引越しちゃうかも知れないんだよ」

 情ない声を出した。

「何だって。本当かい」

 羽仁は思わずそう叫び返して、根戸の方をちらりと横眼で見やる。その根戸はというと、こちらはその話を知っていたのか今初めて聞いたものか判然としない、無表情な顔でナイルズを|瞶《みつ》めていた。それは暗黙のうちに話を促しているようでもあって、慌てて羽仁はナイルズの方に視線を戻した。

 しかし、それに答えて口を開いたのは今度はホランドの方で、

「いや、まだはっきりと決まった訳じゃないそうだよ。何せ、あの目黒の邸宅に女ふたり、それも片方はまだ子供でしょ。杏子さんはあそこに留まるつもりでいるらしいけど、親戚のひとが反対して、いろいろ|煩《うるさ》いらしいんだよ。でも決定した訳じゃない。あはっ、ナイルズの奴、そのことを聞かされただけで、もう動転しちゃって駄目なんだ。詳しいことは雛ちゃん自身に訊いてよ。飲み物を買いに寄ってるから、後からすぐ来る筈さ」

 当然考えられることだった。ひととき牙を剥いた現実は、今このような形で、彼らの上に影を落としているのだ。影山は思わず、

「それにしても――」

 そう言いかけて口を鎖した。

 ややあって、雛子は顔が隠れるほどの大きな紙包みを抱えながらやって来た。

「ねえ、助けてよ」

 そう悲鳴を挙げながら足場を捜している彼女は、既にいつもの屈託のない雛子に戻っていて、その場にいた者達をほっと明るい気持ちにさせた。

 早速羽仁が問い質したが、雛子の返した返事はやはり、彼女自身にもよく判らないという言葉でしかなかった。女ふたり――とは雛子が使った言葉だが、杏子と雛子が下目黒の邸宅に残ることに最も反対しているのは青森の方にいる親戚で、それは杏子の母方の叔父だそうである。もしもその意見が強力で、ふたりが居を変えることになれば、そちらにひきとられることになるだろう%雛子の見たところ、その確率は半々、昨日も、雛子にとっては祖母の弟にあたるその人が訪ねて来て、杏子と話し合っているという。

「まあ、しかし、いくら反対したって、ふたりが頑として動かなきゃ、どうしようもないだろ」

「それはそうなんだけど……」

「だけど……何だい」

 羽仁が促すと、雛子は少し困ったように、

「うん。……初めは杏子姉さんも|梃《てこ》でも動かない様子だったんだけど、二、三日前からどうもおかしいの。急に、青森は寒いものねえ、なんて、半分もうあちらに行くつもりのようなことを言ったりするのよ。昨日も変に素直になっちゃって、叔父さんの言うことに頷いてばかり」

「変だねえ」

 ナイルズが首を捻ると、それに続いて曳間が、

「君達が東京を離れると、急に淋しくなってしまうからね」

「真沼のことだけど」

 根戸は殊更話題を変えるように言って、

「いろいろあって随分延び延びになってるけど、いい加減はっきりさせようぜ。これだけ待って、姿を現わさないってことは、やはり真沼の身に何かあったと考えていいんじゃないか。……尤も、あの日に狂言説を唱えて、こういう事態を招いちまったのはほかならぬ俺なんだけどさ。あれは全面的に取り消すから、彼の親に行方不明だと連絡するか、何なら警察に通報するか、そこのところをはっきりさせないと寝醒めが悪くてね」

「ふふん。根戸ホームズも、案外責任感が強いと見えるね」

 布瀬はそう口を出すと、

「その前に、新しい説に耳を貸すことも無益ではないと思うぜ。昨日甲斐から聞いたのだが、曳問が新たな解答を提出したそうだ。みんな、もう聞いたのかね。聞いておらんのなら、今、伺おうじゃないか。吾輩はもう知っているのだが、ナイルズ達にはわざと話してないのだよ。楽しみにしていただろうからね」

「あれえ。それは本当ですか。|曖気《おくび》にも出さないものですから」

 影山は言って、曳間の方に躯を捩った。

「すると、やっぱり例の、ワトソン捜しというやつかな」

 興味津々の羽仁の言葉に瞹昧な返事をして、

「……どうも、そんなに期待されても困るんだ。僕の説は、現実的でないことこの上ない珍奇なものなんだから。まあ、半分冗談のつもりで聞いてくれ。……さて、そうだね。僕はまず、この事件を、いつかの羽仁のように、殺人事件だと看做すことにした」

 曳間は喋りながら、傍の本棚からノートを取り出すと、それに万年筆で何やら箇条書きに並べ始めた。

「これが羽仁の〈虱潰し法〉による分類を整理したものだ」

 そう言って全員に示して見せたのは、次のような表だった。

 A殺人は起こっていない

 (1)真沼の狂言

 (2)真沼以外の者の狂言

 B殺人は起こった

①真沼は雛ちゃんが書斎を覗いた後で殺された

 Ⅰ犯人は現場に出入りした

 Ⅱ犯人は現場に出入りしていない

② 真沼は雛ちゃんが書斎を覗く前に殺された

 ú@雛ちゃんの見たのは犯人

 ii雛ちゃんの見たのは人形の類い

「この間の羽仁の推理によれば、②は雛ちゃんの見たのが犯人であろうとなかろうと、誰かに部屋を覗かせるという危険この上もない手段を犯人が採る筈はないということで否定された。それから①のⅠではふた通りの解釈があって、ひとつは真沼の屍体を細切れにして窓から外に出す。もうひとつは屍体を百科事典の箱のなかに隠す。①のⅡは遠隔殺人で、マジック·ハンドのようなもので真沼を殺し、屍体を斬り刻んで窓から外に出す。まあ、こういったことになるんだけど、屍体を細切れにするというのはいかにも非現実的だし、屍体を百科事典の箱に隠すというのは布瀬の証言で否定されてしまったね。そこで総ての場合に〝否_という結論が出されて、事件は再び渾沌とした謎に包まれてゆくように見えたんだけど。……

「しかし、そこには|陥穽《かんせい》があったんだよ。それは何かというと、羽仁が与えた、〈虱潰し法〉という名称だね。……つまり、この分類はいかにも虱潰し的なそれに見えるけれど、実質的にはそうではないんだ。そもそも殺人が起こったという場合、それが場所的に限定されたものかどうかが瞹味になっている。瑣末な事柄として片づけることはできないよ。あの書斎に限定された問題なら、Aを一律に狂言だと看做すことはできなくなる筈だし、仮にそこを黙認したとしても、Aの単純な分け方にも首を|捻《ひね》らざるを得ないんだ。……まあそこまでは十歩ほど譲ってもいい。肝腎のBは雛ちゃんの証言を中心に分類されているけど、それが全くの嘘だとすればどうなのかな。判るだろう。〝虱潰し_なんてことを言い出すと、こんな分類など殆ど意味がなくなってしまうんだ。こんなことを言うと羽仁に叱られそうだけど、あの推理によってなされたことは、『虱潰しに考えても謎は解けなかった』という諦念を皆の心の奥に植えつけてしまったことでしかなかったんだよ。いや、その分類が先入観となって、ほかの者の推理を妨げさえしたんだ」

「へえへえ。こちとら、間違った推理をご披露したものですから、何にも申せませんよ」

 羽仁は肩を竦めてみせた。

「あはは。そんなに卑屈になることはないんだよ。……はてさて、とにかく僕は、犯人が現場に出入りしていなくては話にならないと思う。そうするとどうしても、これはひとりの犯罪ではあり得ないというのが僕の結論なんだ』

「そうすると、やはり共犯説なんだな。誰と誰が共諜してたんだい」

 根戸が口を挿むと、曵間は少し鼻白んだ様子で、

「まあ、そう話を急がせないでくれよ。……まず、例えば書斎の合鍵を取りに行こうとした時点に『黒い部屋』に居合わせた、布瀬、倉野、杏子さん、雛ちゃん、影山の全員が共犯だとすると、少なくともあの部屋での出来事自体が存在しないことになってしまうし、そんなふうな全くの架空の消失事件を演出してみせて、ほかの場所でちゃんと真沼は殺害しているのかも知れないという疑いは残るにしても、そこまでいくとちょっとこちらの手に負えなくなってしまうから、この五人のうちには共犯者側でない人間がいるのは確かだろう。さて、もうひとつの前提として、はっきり言ってしまえば、羽仁の方法で謎を解けなかったのは雛ちゃんの証言を信用したためなんだ。つまり、雛ちゃんは共犯者側にいなければならないんだよ」

 雛子はその言葉に、眼をぱちくりさせた。影山はそっとその顔を覗きこんだが、きょとんとしたその表情は、どう見ても身に憶えのないことを指摘された当惑としか受け取れなかった。もしもそれが演技だとすれば、彼女は相当したたか[#「したたか」に傍点]な女優だと言わねばならないだろう。影山は、どうもこれは曳問氏の見当違いではなかろうか、と思わざるを得なかった。

 しかし、曳間の方は一向そんな雛子の反応にはお構いなく、先程羽仁と根戸の崩したチェスの駒を|弄《もてあそ》びながら、自分の推理を語り続けた。

「次に問題となるのが布瀬なんだよ。で、ここでは簡単な背理法を使ってみることにしよう。まず布瀬も共犯者側の人間だと仮定してみる。つまり、少なくとも布瀬と雛ちゃんのふたりは、共犯者側の人間だとするんだね。……そうするとどうなるかな。実際に真沼の姿を目撃したというのは布瀬と雛ちゃんのふたりだけなんだから、そのふたりが共犯者側の人間だとなると、あの書斎に真沼がいたかどうかという点からして怪しくなってしまうだろう。いや、はっきり言ってしまえば、ほかの誰も真沼の姿を眼にしていないからには、真沼を殺害するのにあの書斎で行なう必要はなくなってしまうんだよ。まるでその必要もないのに、わざわざ危険な場所で人を殺す訳がない、ということは、少なくともあの書斎では殺人は起こらなかったと言ってもいいだろう。よって、最初の仮定は誤り――とは言えないが、除外して考えてよいことになる。つまり、布瀬は騙される側の人間だということだね。

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