そして最後に、大きな|背凭《せもた》れの肘掛け椅子に深ぶかと沈みこんで、燭台の置かれた|黒檀《こくたん》の事務机の上にしなやかな脚を抛り出しているのは、片城成にまるで|瓜《うり》ふたつの、ひと目で一卵性双生児と知れる少年だった。その名は片城|蘭《らん》。そしてこちらにはホランドというニック·ネームが与えられている。
「四人か。僕ならすぐ麻雀を連想するけど」
羽仁が言うと、ホランドが鼻白むように、
「それもどうせなら、コントラクト·ブリッジあたりを連想してほしいな。そういえば、トランプのマークも四種類」
「四種といえば、アナクシマンドロスの四元素説というのがあったぜ」
「じゃあついでに、|4の字固め《フイギユア·フォーレッグロック》」
「何だそりゃ」
羽仁が|真先《まっさき》に吹き出すとその場は爆笑に包まれた。
その呼気に激しく揺れ動かされた蝋燭の灯が、四方の壁に妖しい影絵を踊らせる。それは伸びあがったり縮んだり、さながら|奈落《タルタロス》に巣喰う|魑魅《ちみ》|魍魎《もうりょう》というふうでもある。四人の笑いは、その自分達の影にぎょっとしたように、不意にやんだ。
影達は、それでもしばらく声なき笑いを笑っていたが、やがてあたかも舞踏病の発作が治まってゆくようにおとなしくなった。
羽仁は、そっと周囲を見渡した。壁の両側を占めている七段の本棚に並ぶ魔術書に、地獄を描いたボッシュの複製画に、悪魔を|肖《かたど》ったらしい滑稽で|悍《おぞま》しい人形に、あるいは十三日の金曜日を示している|日捲《ひめく》りに、何か不吉なものが隠れてはいやしないか、とでもいうように。
「はてさて、今日はこうして、探偵小説マニアの御歴々においで願った訳だ。|気違いお茶会《マッド·ティーパーティー》にしろ、|黒弥撒《くろミサ》にしろ、乱歩の『赤い部屋』的な集いにしろ、そういう目的のためには少々道具だて不足ではあるが、それは御勘弁願うとしても、連絡不行届により予想外に欠席者が多くなったのは残念至極と言っておこう」
布瀬の、何やら口上めいた前置きに、羽仁は妙な|擽《くすぐ》ったさを感じた。いい悪いは別として、この男にはひどくものごとに|勿体《もったい》をつけるところがある。
「なお、曳間氏は最近行方不明とのこと。影山氏もその姿さえ留められぬくらい多忙らしい」
ナイルズはそこで何故か、意味ありげに微笑んだ。
「さて、それではこの会合の発案者であるナイルズ君に、その主旨を説明して頂くとしよう」
「やだなあ。そんなに大袈裟なものじゃないよ」
ナイルズはちらりと双子のかたわれの方に眼をやると、戸惑ったように後を続けた。
「ただ、今まではみんな適当に集まっていたけど、これから定期的な例会も設けていいんじゃない」
「確かにそうかも知れないな。なあに、どうせみんな、暇を持てあましているような奴ばかりだから。……ああ、影山は別かも知れないけど」
羽仁は気軽にそう言って、賛成した。
「ところで今日はどうするの」
ナイルズはそれを受けとって、
「今日の予定は別にないよ。だけど、発案者とやらの責任もあることだし、ここで約束しておくけど、次回までには何とか探偵小説を一本、ものにしておくから、それで推理較べというのはどう?」
「へへえ、ほんと」
疑わしそうな羽仁の言葉に、いきいきと頬を染めながら乗り出して、後を続けた。
「ほんとだよ。それもさ、ただの小説じゃあ面白味に欠けるでしょ。それで、僕の考えたのは設定も登場人物も、何もかも現実そのままの実名小説なんだ。舞台は、勿論僕達ファミリーだよ。まだ実際には書いちゃあいないけどさ、いちばん大きなトリックはできてるし、エピローグの印象的な幕切れもちゃんとあるんだ。これはホランドにも話してないんだよ」
「本当さ。ひとりでにやにやしてるんだ」
机に脚を抛り出した恰好のまま、薄眼を開けてホランドが言った。感情をそのまま表情に表わすナイルズと違って、ホランドには、何を考えているのかよく判らない、といったところがあった。
「結構。これで次回の催し物は決まった。……しかし、吾輩にゃ、ナイルズにそんな才能があったなどとは、夢にも思えなかったな」
「あっ、そりゃひどいよ。布瀬さん。……まあ、書き始めてもいないから、大きなことも言えないけど、これでも密室トリックを扱った、本格長編にするつもりなんだから」
「へえ、そりゃあ頼もしいなあ。何しろ最近、これは[#「これは」に傍点]という探偵小説がなくて困ってたところさ。密室トリックって言ったけど、どんな奴? 隙間だらけで、人間の出入り自由ってしろものは、御免|蒙《こうむ》るよ」
「あはあ。密室は羽仁さんの専門だったね。御希望にそえるかどうか。とにかくできあがりまで待ってよ。……ちょいとネタをばらすとね、今までにない趣向の〈さかさまの密室〉にする予定なんだ」
「〈さかさま〉って?」
羽仁と布瀬が同時に訊くと、ナイルズは|悪戯《いたずら》っぼく笑って、
「それは読んでからのお楽しみ」
「まさか、クイーンの『チャイナ|橙《だいだい》の謎』みたいなのじゃないだろうね」
そう言う羽仁に、
「ああ、あれとはちょっと違うね。まあ、しばらく待っててよ。へたすると、ここで全部説明させられかねないから。やっぱりみんなが集まった時に発表しないと、僕としても楽しみが薄れるもの」
と、出題者としての特権を十二分に満喫しているかのように、得意気に答えた。
「全く、ナイルズにゃかなわないな。こちらはそれまで、おあずけの犬か」
布瀬が肩を|竦《すく》める。
「せめて、題名だけでも教えてくれんか」
「――いかにして密室はつくられたか」
一瞬、ナイルズの声が部屋のなかに共鳴して、|凜《りん》と響き渡った。
「尤も、これは飽くまで仮題だけどね」
そこで羽仁が慌てて、
「ちょ、ちょっと待ってよ。実名小説っていうからには、僕も登場するんだろ」
|頷《うなず》くナイルズに、
「殺されるのは誰? 何人殺されるの」
「参ったなあ。それこそ全部喋らせられそうな雲行きになってきちゃった。仕方ないからもう少しだけバラしちゃうけど、死ぬのは全部で四人だよ。最初に死ぬのは曳間さん。後はちょっと勘弁してよ。こっちにもいろいろと都合があるんだ。誰が被害者や犯人になっても、怨みっこなし。飽くまでこれはフィクションなんだからね」
「第一番に殺されるのだけはまぬがれたか。曳間も気の毒に。……そういえば、あいつ、最近行方不明なんて言ってたけど本当かい。僕もしばらく会ってないんだけど」
「本当だ。甲斐は時どき下宿に行ってみるそうだが、いつも鍵がかかっていて、誰もいる気配がないそうだ」
「いつからだい」
「甲斐の話によると、倉野が神保町で見かけて、それ以来誰も行方を知らないらしい。そういえば、ナイルズ、君と一緒に古本捜しをした時だったそうだがね」
「え、いつ?」
きょとんとした顔で、ナイルズは訊き返した。
「五月の終わり頃ということだったが……」
「ああ、あの時か。『花言葉全集』を捜しに行った時だ。だけど、気がつかなかったよ。倉野さんも、そんなこと言わなかったしね。……へえ、そうかあ。あの時に……」
半ば独語のように呟くナイルズを尻目に、羽仁は、
「それじゃ、ひと月半も行方知れずなのか。そりゃあ冗談じゃなく心配だな。どうしてるんだろう」
「|故郷《くに》へ帰ってるのかも知れないぜ」
「うん。それならいいんだけど。しかし、その時には、甲斐には|報《しら》せてから帰る筈だと思うんだけどなあ」
「あいつは金沢だったな」
「そう」
「専門は心理学だったな」
「うん。だからかどうか知らないけど、心理小説がお好みらしいよ」
「あいつはちょっと、毛並みの変わったところがあるからな。こうやって姿を消して、何を|謀《たくら》んでいるのか……」
その布瀬の言葉にホランドはくすっと笑った。そしてやっと、ながい睫毛をあげてみせるのだった。
くっきりと見開かれたホランドの瞳は、異様な光の揺らぎを宿しているかのように、何かぞっとさせるものがあった。そしてまた逆に、それがいわば彼の魅力のようなものになっているのだろう。恐ろしいほどよく似たこの双子の兄弟の、唯一彼らが見分け得る相違点がここにあった。ナイルズが開放的な性格で、その微笑みが常に無邪気なものであるのに対し、ホランドはやや閉鎖的で、その笑みには、何かしら皮肉な、人を小馬鹿にしているところがある。
「ひとつ提案があるんだがねえ。実名の探偵小説を書くのなら、是非ともあの『黄色い部屋[#「黄色い部屋」に傍点]』を使ってほしいものだね」
「おや、布瀬さん。それは当然でしょ」
「何だね。そうすると」
ナイルズは頭を|掻《か》きながら、
「うん。……仕方ないなあ、どうも。確かにあそこを舞台のひとつにするつもりなんだよ」
横から羽仁が、
「そうか、曳間はあそこで……」
「いや、そうじゃないんだよ。曳問さんは別のところで死ぬの。その後、舞台があそこに移るっていう訳なんだ。……というところで、もうストップ!」
何事か頷きながら歩きまわっていた布瀬は、ふと本棚の前で足を止め、思いついたかのように、書物の間に手を伸ばした。取り出されたのは、一通の封筒だった。
「すっかり失念しておった。影山からの手紙があるのだよ。ずうっと前……と言っても、そう、先月のなか頃だったかね、とにかくそれが一風変わった文面でね。詩のような文句と、奇妙な図案めいたものしか書かれてないのだがね」
真先に乗り出したのはナイルズだった。
「へえ、見せてよ」
ナイルズが取り出した便箋を、羽仁も興味深げに|覗《のぞ》きこんだ。そこには、次のような謎めいた言葉が記されていた。
欲望は|下《げ》か。
徳|宿《やど》す誰が、
春めく|百舌《もず》の、
飽きられし知る。
|四波羅蜜《しはらみつ》敷き、
|並《な》べて七曜
影|擬《もど》きにす。
羽仁はまだ一面識もないのだが、布瀬らの話によく出てくる、かけだし探偵小説マニアを自称している影山敏郎の手紙。達筆とは言い難いが、まるまっこい、読みやすい文字だった。途中でインクが切れてしまったのか、最後の二行だけが、少し色が変わっていた。
「絵だか図案だかってのは?」
「裏だよ」
「あ、そうか。ぶ厚い紙だから判んなかった。……へえ」
裏を返して現われたのは、羽仁もどこかで見たことのあるような図案だった。
<img src="img/hako_01.jpg">
「ねえ、布瀬さん。これ、何だか暗号くさいと思わない?」
「ああ、吾輩もそれを考えておった。|殊《こと》にこの図案の方は、暗号としか思われんね。……魔物封じに使われるという、〈八角円〉とも違うようだし」
ナイルズはちょっと首を傾げてみて、
「しかしどういう意味かなあ。……おや、そういえば、四に関係する言葉がここにも出てきてるけど、この〈四波羅蜜〉って何のことなの」
そう言うと、ちらっとホランドの方を窺った。ホランドはといえば、それでも多少興味を|惹《ひ》かれたらしく、ナイルズの後ろから便箋を覗きこんでいたが、かたわれの問いに対しては、肩を竦めてみせただけだった。
「ちょっと待った」
布瀬は、全度は向かいの本棚から、厚ぼったい辞典を取り出した。
「いいかね。……四波羅蜜。……仏教用語。その一。|涅槃《ねはん》の具える常·楽·我·浄の四徳。……その二。密教の金剛界|曼荼羅《まんだら》で、中尊の大日如来の左右前後にある四女|菩薩《ぼさつ》のこと。四波羅蜜菩薩……と、こう説明してあるがね」
「何のことだか、よけい判んないや」
降参したようにナイルズが言った。
「やけに|抹香《まっこう》くさい詩だね。図案にしたってそうだし」
そう言った羽仁にしても、内容がちんぷんかんぷんなのは、ナイルズと一緒である。
「〈春めく百舌〉ってのが、一体何の|謂《いい》なのか。〈七曜を影擬きにす〉るってのはどういうことなのか。いやはや、全くもって判らない。ねえ、布瀬。これはやっぱり、ただの詩なのかも知れないよ」
布瀬は、ただ|曖昧《あいまい》に、うむ、と頷いただけだった。自慢の金縁の眼鏡を押しあげながら、返事に戸惑っているふうだった。
「真沼さんだと、この詩は何点くらいに評価するかな」
ナイルズの言葉に、
「さあね」
と答えながら、羽仁は、恐らく真沼なら、ひとの詩を評価することなどないだろう、と思った。
「だいたいねえ、こんなものが暗号めいて見えるなんて、まさにナイルズの探偵小説の影響だな。それでなくとも、現在のところ曳間は行方不明だろ。そこへもってきて、最初に曳間が死ぬの何のと……。こんなことを言うと笑われるけど、何だか本当にそうなるような気がして……」
「あはっ。羽仁さんて、案外こういうの、気にする方なんだね。それより、曳問さんのこと以上に、自分のことを心配した方がいいんじゃないの」
「言ったな」
羽仁がそう答えて笑いかけると、突然、ホランドの方が、それをさし止めるように口を開いた。
「いや、案外、冗談じゃないかも知れないよ。曳間さんが、こんなにながい間連絡を断ってるってことが、そもそも変なんだ」
そう言う眼は、妙に熱っぽく、不思議な説得力があった。
四人の上に、一瞬の沈黙が|被《かぶ》さった。布瀬までが、どこかしら落着かない眼で三人を見まわす。さすがに少しばかり気が重くなったのだろうナイルズは、それでもぽつりと、
「どうせ死ぬなら、探偵小説を書きあげてからにして貰いたいなあ。事実の後を追っかけるのなんて、やだもの」
と、呟いた。
それは|歪《ゆが》んだ笑いを誘った。
そうして彼らは話題を、一般的な探偵小説談義に変えた。その日は結局それで|潰《っぶ》されてしまったのだが、彼らの胸の奥底に宿った微かな後ろめたさは、なぜか消えることがなかった。
そしてその翌日、彼らはそれが|杞憂《きゆう》でなかったことを思い知らされるのである。現実の屍体は、まさに白昼に、|降臨《こうりん》の影を落としたのだった。
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一章
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1 第一の屍体
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やけに光の量の多い日だった。
街は見渡す限り白く、一条の影さえもなく横たわっていた。視細胞が許容するところをはるかに越えてしまった量の光線が、視界を遮り、倉野は日陰を求めて歩き続けていた。
雑沓も走り過ぎる自動車も、ただの描線としか映らず、そしてその喧燥は、|氾濫《はんらん》する逆光に押し潰され、総て倉野の鼓膜に至るまでに、死に絶えてしまったようだった。
七月十四日。まだ盛夏には問がある筈なのに、この日は平年の最高気温を八度も突破したという。前日までは、どちらかと言えば平均気温を下まわっていただけに、予想もつかぬ、狂ったような猛暑だった。熱病のような午後。
――こんな日に、なぜ新宿なんかに出向く気になったんだろう。
目白駅から彼の下宿までの道は、まだ果てしもなく続いている。実際は、たかだか十分くらいのものなのだが。
舗装中のアスファルトが融け出して、倉野の靴底にいやらしく粘りつく。倉野は先程から、しきりに腕時計を気にしていた。
Tシャツが汗でべっとりと躯に密着する、何とも言えぬ厭な感触を苦々しく意識しながら、ふと見ると、彼の歩いている歩道の向こう側から、|馴染《なじみ》の中華料理店のおやじ[#「おやじ」に傍点]が、ぶらぶら[#「ぶらぶら」に傍点]と所在なげに近づいて来る。
「暑いね」
「ええ」
彼はぼんやり、そう答えた。
この暑さのなかでは、炒飯ひとつつくるだけで、充分熱射病でまいってしまうに事足りるだろう。おやじ[#「おやじ」に傍点]は、さっきから店の前をぶらぶらと涼んでいるらしかった。すれ違いざま、倉野が店のなかを覗きこむと、そこには連れらしい客が二、三人いて、
「まだ七月だってのに、この暑さでしょ。先が思いやられますわなあ」
「季節の変わり目に異常気温が来ると、危ない[#「危ない」に傍点]んだってよ」
おやじ[#「おやじ」に傍点]が一向に飯をつくろうとしないのを、もう諦めてしまっているのか、そんなことを取りとめもなく喋りあっている。
倉野はもう一度腕時計を見た。彼には、しょっちゅう腕時計を見て時刻を確かめるという、一風変わった癖があった。そしてこの時、時計の針は、三時五分を指していた。
目白通りから横道にはいる一角の銀行も、既にシャツターを下ろしていた。彼はそこを通り過ぎると、右に折れて進んだ。
そういえば、彼がここに下宿した頃、このあたりに新たに立体交差ができるため、周囲の住民の間に強い反対運動が起こっているという話を、小耳に挟んだことがあったが、あれはどうなったのだろう。あれからもう既に三年と四ヵ月、彼も二十一という年齢になっていた。
横断歩道を横切り、そこの角からいくつ目かの裏の横道にはいる。二十メートルほど先から、右側に二階建てのアパートが続き、そのいちばん手前の二階部屋が眼にはいる。ピッタリ鎖された窓に、|褪《あ》せた黄色の、いかにも暑苦しそうなカーテンが、部屋の内部を隠して下がっていた。その部屋こそが、彼の住居なのだ。
それはアパートと言っても、かなり古い木造屋で、奇妙なことには、いちばん手前の一角だけは出入り口が別になっていた。階下はガレージになっていて、二階には彼の部屋のほか、裏にもうひと部屋あった。
建物自体は長屋風に続いているのだが、要するに、そのふたつの部屋だけが、この建物のなかで、一種隔絶された存在なのである。
倉野はジーパンのポケットから、|捩込《ねじこ》み錠の鍵を取り出し、建物の横手にある表口の錠を開けると、もともとガレージと続きになっていたらしい土間の通路にはいった。途端に、ムッとした熱気が襲いかかってきて、彼はどっと疲れを感じて立ち止まった。
――部屋のなかは、もっと|凄《すさま》じい熱気なのだろう。冗談じゃない。そうだ、何でもいいから本を一冊選んで、喫茶店にでも行くとしようか。
何の気なく腕時計を見ると三時十分。通路を折れて、ふと|踏板《ふみいた》を見ると、その前には彼自身の靴のほかに、見慣れぬ靴が二足置かれてあった。バスケット·シューズと、グレーのデザート·ブーツ。
その瞬間、倉野は何か妙なもの[#「妙なもの」に傍点]を感じた。
それが一体何であったのか、その時は別に深く考えることもせず、次の瞬間、ハハア、これは根戸と真沼だな、と即断して、それだけでこの暑さから救われたような気持ちになった。スリッパに履き替えるのももどかしく階段を駆けあがると、つきあたりの六畳の部屋に向かう。そちらの方が倉野の部屋であり、横手の四畳半の方は、目下のところ、|空《あき》部屋だった。
倉野は駆けあがった勢いで、つきあたりの開けっぱなしにされた戸口に威勢よく跳びこんだ。
その瞬間、彼の視界に躍りこんできた光景は、その彼の勢いを押し留め、一瞬にして凍りつかせるに充分だった。
窓の方に頭を向け、|仰向《あおむ》けに倒れている者。そしてそれを、倉野は全く一|刹那《せつな》にして、屍体だと直観した。誰かの冗談だなどとは|微塵《みじん》も思わずに、ただ、そういうふうにして確信してしまったのだ。薄暗いなかで、この時、なぜああも一瞬にして、それが屍体であると信じこめたのかと、倉野は後になって何度も回想してみたのだが、恐らくそれは、屍体だけが持つ一種のよそよそしさ[#「よそよそしさ」に傍点]、といったもののせいだったに違いない。
厚地のカーテンを閉めきっているせいで、部屋のなかは薄暗く、倒れているのが曳間だと判ったのは、その数秒後のことだった。
胸には短剣のようなものが深ぶかとつき刺さり、両手でしっかりと、その柄を握りしめていた。血は殆ど流れ飛んではいないらしいが、曳間のカントリー·シャツには毒々しい赤黒色を染みつかせ、|支子《くちなし》色の|絨毯《じゅうたん》にも|僅《わず》かに血痕がこびりついている。
半開きになった表情のない眼は、ぼんやりと宙空の一点を|瞶《みつ》め、苦痛に歪んだまま硬直した口許は、何事かを語ろうとして語り得なかった口惜しさを自嘲しているかのようだった。そして、血の気を全く失い、蒼白を通りこして土色に変色している顔に、細かく散った赤の斑点。
<img src="img/hako_02.jpg">
倉野は、急激に湧きおこった嘔吐感に、思わず顔を|背《そむ》けていた。
――これが、あの曳間。この異様なまがいものが本当に曳間なのか? 今にも紫色の脣を開いて|凶々《まがまが》しい|囁《ささや》きを告げるかともまごう、この屍体が……。
倉野は、何が何だか訳も判らず、全く、ただただ顫え続けねばならないほどに動転していた。あまりに動転していたために、却ってその場に|竚《たたず》みつくしていた。
――間違いだ。何かのマチガイ。
薄暗い水族館のなかで、|水苔《みずごけ》と藻と暗がりによって茫洋と取りとめもない巨大な水槽を眺めていると、不意にマダイとかネコザメとかいった魚が、真正面から現われて、びっくりさせられることがあるが、この時の彼の驚きと恐怖も、こういった渾沌としたもののなかに突然意表をついて現われる|異形《いぎょう》のものに感ずるそれの、何層倍にも拡大された奴に違いなかった。
そうして、彼は一体どのくらいその場に立ちつくしていたのだろうか。ようやくゆっくり後ずさりを始め、そうしてその動作に加速度が加わって、階段を駆けおりる
まで、階段をのぼっていった時から、どのくらいの時間がたったのだろうか。
踏板におりて、もどかしくサンダルを履こうとした時、再び倉野は、耳鳴りのするような恐怖を覚えた。むしろ、その時の恐怖は、屍体を見つけた時のそれよりも、何層倍も強く彼の躯を貫いた。先刻そう、たった一分ほど前にはそこにあった二足の靴のうち、デザート·ブーツの方が、|忽然《こつぜん》と姿を消していたのである。
とすると、デザート·ブーツの主は、彼が帰ってきた時にはまだこの家にひそんでいて、彼が階段を登ってゆくのをやりすごし、ひそかに逃げ去ったことになる。倉野は、戦慄が背中から頭蓋のてっぺんまで、シーンと走りぬけるのを感じた。そうだ、ひょっとして、まだ逃げ去っていないとしたら[#「まだ逃げ去っていないとしたら」に傍点]……
倉野は、土間の曲がり角に眼をやった。角の向こう側にある窓から、白い光線がさしこみ、それが逆光となって、妙にしらじらしい空気が流れているような気がした。倉野は、気が遠くなりそうだった。頭がクラクラして、腋の下に冷汗がどっと吹き出すのが判った。
――あの角の陰にいるかも知れない。そいつはまだ、もう一本の短剣を持っているのか……。
扉まで、たったの五メートルほどなのだ。しかし、彼はそこまで辿りつけないでいる。彼は、全身の感覚器官を|研《と》ぎすまして、そこに果たして犯人がいるかどうかを探ろうとしてみた。耳を|欹《そばだ》てていると、陰にひそむ者の、バッハッという、微かだが荒い|息遣《いきづか》いが聞こえてくるような気もする。
一分。
二分。
しかし、いつまでたってもひとの気配はなく、響いてくるのは大通りを走る車の騒音ばかりだった。彼は、最後の勇気をふりしぼって、恐る恐る曲がり角に近づいてみた。心臓が早鐘のように鳴って、覗きこむ時には、それが止まってしまうかとも思われたが、そこには誰もいず、ただ、先程はいってきた時にはちゃんとしめておいた筈の戸が、今は開けっぱなしになっているばかりだった。
倉野は雨に濡れた犬のように躯を|顫《ふる》わせた。そして、がらんとした通路から、弾けるように逃げ出した。|脱兎《だっと》の如く戸をすりぬけ、方向転換して一目散に近くの公衆電話へと向かう。
いつもの見慣れた光景があった。電柱も、商店の看板も、屋敷の塀も、普段と何の変わるところもなく、|往《い》きかう人びとの顔も、ひどくありふれたものに思われた。
そこには、まごうかたなき日常があった。
妙な顔をしてこちらをじろじろ見ている会社員らしい男のそばを駆けぬけながら、倉野はふと腕時計を見た。
時に、七月十四日、午後三時十五分――
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2 密室ならぬ密室
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警察に通報しおえ、赤電話の受話器をおろすと、ようやくゆっくりと昂奮が去っていった。そしてその代わりに、倉野の頭のなかに座を占めてゆくのは、ドス黒い屈辱感だった。
一体、彼のファミリーというのは、殆どが無類の探偵小説狂で占められていた。いつの間にか、ひとり寄り、ふたり寄り、知らず知らずのうちに集まった連中だが、類は友を呼ぶというのか、不思議に探偵小説|嗜好《しこう》は一致していた。そして倉野は、そのファミリーのなかでも、ちょっとした権威のつもりだった。読書量でも、探偵小説に関する知識でも、他の者の追随を許さない自信があった。それがどうだ。実際に屍体が眼の前に出現すると、もうはや慌てふためいて、何も手につかない有様ではないか。
先程の醜態を思うと、屈辱感はムラムラと身を焼き、そしてそれは、恐怖をどこかへ追いやった。それに、これは彼が現実の探偵となれる、滅多にないチャンスでもある。
倉野はゆっくり|踵《きびす》を返し、自分の部屋へと戻っていった。
戸口の前に立つと、再び強い昂奮が|蘇《よみがえ》る。しかし今度のそれは、恐怖ばかりではなかった。現実の事件の探偵役を、これから演ずる機会に恵まれたことへの、ワクワクするような気持ちさえ、確かに何割かを占めていた。
彼はゆっくり、思考力を取り戻すよう努力した。まず彼は、ここへ帰ってきた時には、表口の戸には鍵がかかっていたことを想い出した。彼は、開け放たれたままの戸口の前に立ちつくしながら、考えた。
――そうだ。確か最初にあのふたつの靴を見た時、何か妙なもの[#「妙なもの」に傍点]を感じたっけ。それがこれだったんだ。鍵がかかっていたのに、なかへはいってみたら誰かの靴があった。この戸口の|桟《さん》の上には合鍵をいつも置いているから、なかにはいるのは何でもないにしても、この戸口の外側の鍵は[#「戸口の外側の鍵は」に傍点]、内側からはしめられないのだから[#「内側からはしめられないのだから」に傍点]。
彼は敷居に足を載せて、|鴨居《かもい》の上を覗いてみた。合鍵は確かに、まだそこにあった。
――ああ、するとこれはどういうことになるんだろう。犯人は確かに、僕が帰ってきた時には、この家のなかにいたのだ。それなのに、内側からはしめられない鍵がかかっていたとは。
一階の出入り口は、普段使っているこの表口と、炊事場にある裏口とがあった。窓は、土間の通路に大きいのがひとつ、炊事場、物置、便所に、小窓がひとつずつ、都合四つがある。が、後の三つは木の格子がはいっており、人間の出入りは実際上不可能である。
問題の表口は、外側からかける錠と、内側からかける錠の、ふたつが取りつけられている。だからここの戸口は、外側から鍵をかけると内側からは開けられず、内側の錠をしめると外側からは開けられないという、一風変わった仕組になっていた。
どちらも捩込み式の錠前には違いなかったが、内側の錠前は普通の引戸に使われる、|螺子《ねじ》が一緒に取りつけられた手のもの、外側の錠前はその螺子が取りつけられる代わりに、細い穴にさしこむ鍵を使用するものである。
そして最後の裏口だが、ここには表口に取りつけてあるうちの、内側からかける錠前と同じものが取りつけられている。従って、この戸も同様に、内側からかけると外側からは開くことができない。念のために言えば、外側からは鍵はかけられない。
――そうすると、だ。
戸口をくぐり、開けっぱなしにしたまま、倉野は考え統けた。
――犯人はまずこの表囗からなかにはいり、裏口の錠をあけて外に出、表口の錠を外側から合鍵で鎖しておいてから、再び裏口を通ってこの家に逆戻りしたのだろうか。そうして僕が帰って来るのをじっと待っていたというのだろうか。一体、何のために。
炊事場の方を見ると、淡い水色のカーテンが、その内部の様子を隠して垂れさがっていた。倉野は、ひょっとすると、犯人はまだこの家のどこかに隠れているのかも知れない、という馬鹿馬鹿しい危惧に脅かされながら、恐る恐るカーテンを引いてみた。
勿論、誰もいない。ホッとして錠前を見ると、内側からしっかりと閉められている。
――表口の鍵を閉めて裏口から家のなかに逆戻りしたあと、御丁寧に錠までかけてあるのは、どういうことなんだろう。
<img src="img/hako_03.jpg">
倉野はすっかり訳が判らなくなってしまった。家のなかにひそみ、彼をやりすごした先程の情況から考えても、犯人はこの炊事場に隠れていたに違いない。しかし、この錠をかけておくことは、犯人にとって極めて危険なことだった筈だ。いざという時の逃走路を自ら断つことにほかならないのだから。しかし、それをもひきかえにして、なおかつここを閉めておいたということは、犯人にとって、どんな利益があったというのだろう。
一体、この一連の鍵と錠の小細工には、犯人側のどういう必然性があったのか。
念のために、続いて物置と便所も覗いてみたが、怪しい点は発見できなかった。このふたつの小部屋に関しては、ここを出入りするにはかなり大きな音をたてざるを得ないので――ということは、つまり戸の立てつけが悪いので――犯人がひそむには、やはりあの炊事場でなくてはならないのである。
倉野は常日頃、殺人というものは、|鬱蒼《うっそう》とした森を|擁《よう》し、|瘴気《しょうき》を放つ沼に面して、滅びの気配に|蝕《むしば》まれてゆきつつある古い館でこそ起こらねばならないと力説していたが、まさか古いとはいっても、洋館ならぬこのおんぼろアパートで起こるとは夢にも思わなかった。せめてこの物置に、|甲冑《かっちゅう》か大時計でも飾られているなら話も判るが、抛りこまれているのが壊れた風呂釜やら羽目板の|類《たぐ》いとあっては。
階段を登り、彼の六畳部屋に再びはいる時には、さすがにまたぞろあの恐怖感が首を|擡《もた》げてきた。が、我慢しいしい、屍体のそばに|跪《ひざまず》く。
屍体は、先刻と何の変化もなく横たわっていた。ただ、倉野の方の心が少しばかり落着いたせいか、その表情は前ほど壮絶なものには窺われなかった。否、顔を近づけてよく見れば見るほど、その皮膚に散った血痕の与える異様さを除けば、表情そのものは、むしろ安らかなものでさえあった。
これは少なからず、倉野にとってショックだった。
曳間の死顔。それがなぜ、このようにしあわせなものであるのか。
なぜ、こんなに安らかに、まるで心地よい眠りにつくような表情で、死なねばならなかったのか。
|尖《とが》った鼻。全体に彫の深い顔立。『黒魔術師』と|綽名《あだな》したのはナイルズだったが、その曳間がこうして一個の|亡骸《なきがら》として横たわっている情景を、やはり倉野は、どうしても現実のものとして承認することができなかった。
半開きの眼は宙空を|瞶《みつ》め、歪んだ口許は、確かに微かな笑いとさえ見える。
倉野は、不意に、全く不意に、涙を落としてしまった。
苦悶でも|怨恨《えんこん》でもなく曳問はこの|慈《いつく》しむような表情で死を受け容れたのだ。その彼の想いは、どんなものであったのか。誰にも語られることなく、彼の奥深い処で呟かれ、|醸《かも》されて、そのまま果ても判らぬあちらへと|溢《こぼ》れていった数々の想いは。しかしそれはもう永遠に、倉野の知り得ぬ処へと、解き放たれてしまっている。
倉野は、そういう曳問に対して泣いたのか、それとも取り残されてしまった自分のために泣いたのか、よく判らなかった。
ただ、彼のなかに、見知らぬ感情が、ゆっくりと|萌芽《ほうが》してゆくのだけは自覚できた。そしてその感情は、彼自身に対してひとつの行為を、|抑《おさ》え難く要請し始めた。
――できるならば。そう、僕はたかだか少しばかり探偵小説を読み|漁《あさ》っているだけで、こんな実際の事件においては恐らく手も足も出せない無力な人間の類いではあるけれども、もし、万分の一でもその可能性があるならば、この犯人を必ず僕自身の手でつきとめてやる。
そっと、短剣を握りしめている右手にさわってみる。
うねるような猛暑のなかで、曳間の躯だけが現実とは|拘《かかわ》りのない冷たさを保っていた。倉野は急いで涙を|拭《ぬぐ》い去ると、何か変わったことがないか、あたりに眼を配ってみた。
本棚。ステレオ。横に倒したロッカー。|水屋《みずや》。ファンシー·ケース。特に部屋を出る前と違った点はないようだった。机の上に並べてある試験管やフラスコ類。薬品|壜《びん》の類いにも、位置が変わった様子はない。無論、現金や通帳にも全く手のつけられた形跡はなかった。
ただひとつの気づいた変化といえば、曳間の頭のすこし上に転がっている一冊の単行本だった。変則的なB5のサイズで、厚さ一センチ強の黄色の装幀のそれは、曳間が読むために取り出したものだろうか。妙なことにその本は、ずらりと並べられてある探偵小説でも、曳間の専門とする心理学系統の本でもなく、かと言って、薬学を専攻する倉野の|蒐集《しゅうしゅう》する薬学書や医学書、あるいは囲碁の教本といった類いでもない。それは、|戯《たわむ》れに倉野が買い求めた、『数字の謎』と題する本だった。本は、開かれたまま|俯《うつぶ》せになっており、倉野はそっと人差指の爪で持ちあげて、それが一〇六ページと一〇七ページの見開きであることを確かめた。