「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.8
「するとどうなるか。真沼は布瀬の証言通り、あの書斎にはいったのは間違いないところだ。そして、布瀬は『黒い部屋』をずっと離れなかったのだから、真沼の姿を消すチャンスはといえば、布瀬が合鍵を母屋に取りに出た時しかない。そうすると、布瀬が『黒い部屋』を離れた時には、倉野、雛ちゃん、杏子さん、影山、甲斐の五人がその場に残っていた訳だし、その間にしか真沼の屍体を書斎から外に出すチャンスがなかったとすれば、その五人全員が共犯者側でなければならないことになる。
「さて、その時まで真沼がまだ生きていて、布瀬がいつ戻ってくるか判らない僅かな時間に殺害が行なわれたと考えるのは、いくら五人がかりででもちょっと無理だから、|予《あらかじ》め真沼より一歩早く書斎に忍びこむ人物がいなければならない。……順に言えば、『黒い部屋』に倉野や雛ちゃん、杏子さんがやって来る問に、その人物は書斎の方で真沼を殺し、例の鏡の小細工をすませておく。そして影山が来てしばらくしてから、異変を悟らせるためにステレオを利用してあの羽音を聞かせる。皆、口ぐちに変だと唱える。布瀬は扉に鍵がかかっているので、これはいかんとばかりに合鍵を取りに母屋の方に行く。それが皆のつけめだった。予定された不在とでも言おうかな。布瀬が出てゆくのは計画の上だったんだ。入れ違いにやってきた甲斐も加わって、都合六人は真沼の屍体を外に運び出し、最初の謎の人物の手によって運び去られる。そうして残りの五人は何喰わぬ顔――ではない、いかにも心配そうな顔をして布瀬が戻って来るのを待つ。帰って来た布瀬が、慌てて合鍵で扉をあけて書斎のなかにはいってみると、そこは既に誰もいない無人の部屋。……という段取りなんだ。はて、そこまで言えば、実際に手を下したところの謎の人物が誰かも察しがつくだろう。そのすぐ後で根戸が訪れたことを考えれば、彼こそがその謎の人物であることはほぼ間違いない。尤も、呼び出された時、羽仁は僕らと違ってひとりだけでいたのだから、謎の人物は羽仁だとしてもおかしくはないけど」
「しかし……ちょっと待ってくれよ」
曳間の話を|遮《さえぎ》って、そう言葉を挿んだのは羽仁で、
「なかなか君の話は理路整然としていて面白いんだけど、こんなふうにも考えられるんじゃないかな。謎の人物なんて者はいない。……つまり、布瀬が『黒い部屋』を離れていた間に書斎から抜け出したのは屍体なんかじゃない。生きた真沼だったと。だから、鏡の血模様もステレオのハウリングも真沼自身がやってみせた小細工で……」
そこまで喋った時、曳間は開いた掌を振って羽仁の言葉らを留めさせると、
「いや、羽仁。僕は最初に前置きしただろう。僕はこの事件を殺人事件と看做した上で[#「殺人事件と看做した上で」に傍点]推理を進めているんだって。無論、真沼が死んでいないのならそれに越したことはないけど、事態がここまで来ている今、とにかく僕は殺人以外の可能性には、敢えて眼を向けないでいる訳なんだよ」
曳問の反論の途中で羽仁は、あっ、そうか、と叫ぶと頭を抱えた。曳間はにっこり笑うとこちらも鷲緻のあたりを指で擡きながら、
「いや、しかし、実は今述べた推理は、多分間違っている筈なんだ。……その点をもう一度確かめるために、布瀬。僕は君にひとつ質問したいことがあるんだけど」
「おお、何だね」
布瀬は突如としてお鉢がまわってきたことに眼を丸くしながらも、面白そうににやにやと笑いながら答えた。
「合鍵で扉をあけて、いちばん最初に書斎に足を踏み入れたのは君だったね」
「おお、その通り。この吾輩だよ」
「元鍵は、確かベッドの上の棚の|抽斗《ひきだし》にはいっていたんだったね」
「そう。それも吾輩が言った通りだ」
「それを確認したのは君だね」
「他の五人に証明して貰ってもいいぜ。……あっは。尤もほかの者が共犯者側の人間だとすれば、その証言もあてにならんがね」
布瀬は愉快そうに続けた。
「それではここが肝腎なところなんだけど、君が書斎にはいってから元鍵を見つけるまでの間、誰もその抽斗に近づかなかったと君は断言できるかい」
曳問の言葉に力が加わった。布瀬はその質問が出ると、したりというふうに眼を細めて、
「ふふん。つまり、五人のうちの誰かがあの抽斗のなかにそっと鍵を戻さなかったかということだな。そうでなければ、鍵のかかった無人の部屋のなかに鍵がある、という不可能情況が依然残されてしまう訳だ。……鏡の血模様にはさすがにこの吾輩も|度肝《どぎも》を抜かれたが、しかし」
と布瀬はひと呼吸置いて、
「あの抽斗は御存知かどうか、あけしめする時にガタガタ音がする。いくらボンヤリしてても気がつきそうなものだね。いや、これは断言してもいい。部屋のなかを調べる時も、鍵はいつもあそこに入れておいたから、真先にあの抽斗に向かったくらいだぜ」
ということは、布瀬が『黒い部屋』から離れていた間に、ほかの者が協力して真沼の屍体を運び出したのだとしても、書斎の扉に鍵がかかっていたという点が説明できなくなる。すると、謎の人物とやらは、その時『黒い部屋』から逃げ去った訳ではなく、なおかつ書斎に留まって内側から再び鍵をかけ、それを抽斗に戻しておいて、例のベッドの下にひそんでいたということになるのだろうか。そうして布瀬が鏡の血模様に気を取られている一瞬に、風のようにその方形の闇のなかから滑り出たのだと。
影山は勿論自分がそのような犯罪に荷担していないことを知ってはいたが、どうかすると、その光景をひどく現実性を伴った映像として想い描いた。まるで、その場に居合わせていた自分自身までをも他人事のように。
そんな妙ちきりんな妄想だった。
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5 屍体のある殺人
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曳問が笑っていた。胡座をかいたまま猫背気味の上体を揺すらせて、曳間が笑っていた。雨の音が鼓膜に|染《し》みついたように鳴り続けていて、影山は困惑の表情をつくろうとしたが、その努力はどこか知れないところに|窃《ぬす》み去られてゆくらしかった。
いつの問にか、濃密な闇が周囲に被さっていた。影山はその闇のなかに、ふと邪悪な気配が|犇《ひしめ》きあっているのを感じた。
――いけない。
そう、反射的に思った。躯を動かそうとしたが、その前に眼の前の光景は予想もつかぬ変容をなし始めていた。
笑っていた曳間の口が、さらにその笑いを大きくした。それはそのまま留まることなく、いっぱいに開かれたかと思うとうメリメリと横に裂け始めた。影山は躯じゅうの毛がいっぺんに逆立つのを感じた。|眩暈《めまい》のするほどの恐怖。石のように凍りついた影山の眼の前で、曳間はバックリと耳まで裂けた口で笑っている。それは最早曳間に似たあちらのものなのかも知れなかった。膚の色がみるみる青に変わり、闇は内出血のような紫に膨れあがって、真赤な曳問の笑いと共に影山に襲いかかって来た。
何処かに抛り出されるような感覚で影山は眼を醒ました。
脂汗をびっしょりかいたまま、殆ど三十度ほど上体を浮きあがらせていた。痺れるほど堅く握りしめていた毛布を払いのけるように起きあがると、周囲はやはり闇に包まれていた。雨の音に混じって、微かに、しかし絶え間なく澄んだ風鈴の音が聞こえている。実際、夢のせいだけではなく、部屋のなかはかなり蒸し暑かった。
影山は額の汗を拭いながら隣を見た。殆ど聞き取れぬくらいの寝息をたてて眠っているのは羽仁だった。曳間のアパートは二間あり、こちらの部屋には羽仁のほかに根戸、布瀬、ホランドが眠っている。皆てんでに毛布をひっかぶり、奪い合っての|雑魚寝《ざこね》だった。
闇を透かして眼を凝らすと、開け放した襖の陰から隣の部屋の様子が見て取れる。雛子にだけ与えられた蒲団の端が、そこだけぼおっと青白く闇のなかに浮かびあがっていた。その向こうの毛布からはみ出しているのは曳間の脚だろう。
――ひやあ[#「ひやあ」に傍点]。変な夢を見た。
影山はもう一度、首のまわりの汗を拭った。ほっと安堵の息を吐いたものの、先程の恐怖は依然背筋のあたりに逃げそこなったように纏わりついている。
――曳間氏がおかしな推理をして下さるものだから。……全く。
頭を掻きながら躯を捩って煙草を捜す。苛立ったように一服つけると、それでも次第に自分の躯がまわりの闇に馴染んでゆくのが判った。カーテンだけが開かれた、ピッタリ鎖された窓硝子の向こうでは、仄暗い街灯に映し出される雨の軌跡が鋭い。皆が寝たのが十二時近くだったことを考えあわせても、どうやら相当な深夜らしかった。
影山が一一度目に灰皿へぽんぽんと灰を落とすと、思いがけず足を向けあって寝ていた根戸が、うーむと声を洩らした。
「おやあ」
不機嫌そうに語尾をあげると、根戸はそのままむっくりと起きあがって恰度影山と向かいあった。彼らの問には布瀬が転がっていた。
「何だよ。まだ起きてるのかあ」
窓を背にしている根戸は、半分寝呆けた様子だった。
影山は、
「いえ。ちょっと眼が醒めちゃいましたもので」
そう答えて眼鏡を押しあげた。
「そうかい。俺は寝るよ」
これはもう半分以上独語のように呟いて、根戸はくたくたと再び躯を寝そべらせた。
「ああ、あの、今|何刻《なんどき》でしょうか」
「……何時だって、ちょいと待て」
ここまでゆくともう九割がた眠りのなかに漂っているらしく、それでも根戸は躯を横たえたまま、霞む眼球を精いっぱい凝らして、隣の部屋の影山からは見えない位置にある柱時計の針を読んでいた。そうして、
「四時十分だよ」
怒ったように吐き棄てると頭をがっくりと反らせて、それっきり、もうひとことの言葉も返ってこなかった。その時ふと影山は、部屋の境のすぐ傍に、鏡が壁に吊されているのに気がついた。そこには恰度曳問自慢の八角時計の、振り子の部分だけが写っている。ゆらゆら揺れているそれを眺めた影山は、
――ほんとかな?
首を捩曲げ、下の方から覗きこむようにして、鏡にちらりと七時五十分を示している文字盤を見てとるなり、自分もそのまま後ろに躯を倒した。
――七時五十分を左右逆にすると、四時十分。……正解じゃないですか。根戸氏も寝呆けているようで、あの態勢からよくちゃんと読み取れたものですなあ。
変な、ところに感心しながら、影山は煙を高く天井に吹きあげた。寝転んだまま、白い煙が吸いこまれてゆく闇を|瞶《みつ》めていると、頭のなかに様ざまな考えが忍びこんでくる。
それにしても曳間のあの推理は何を物語っているのだろう。念のためにというのも妙な話だが、影山は布瀬が合鍵を取りに母屋の方へ出ていた間の記憶を何度も|反芻《はんすう》してみた。ひょっとすると、何度目かの繰り返しのなかで一回くらいは、あの書斎への扉が内側から開かれるかも知れないという、人に言えば笑われそうな|虞《おそ》れもあってのことだったが、さすがにその気配もない。とすればそれは曳間の推理が誤りだということにほかならず、影山はその先をどう解釈していいのか判らなかった。
ワトソン捜しとは、そのようなものだったのだろうか。影山はナイルズにそこのところを尋ねてみたかったのだが、少年はただ、単なる思いつきだよ、と笑って誤魔化した。
――曳間氏の説も間違っているとなると、ひょっとして、真沼氏であれ殺人者であれ、本当にトンネル効果で抜け出したのかも知れませんなあ。
影山は二本目の煙草に火をつけた。青インクを水に溶かしたような闇のなかで、煙を吸うたびにその火はぽおっと眩しいくらいに光を放つ。そのまますぐに首を捻って横を向くと、その残像は殆ど仄明かりさえ届いていない部屋の片隅の宙空に、空間そのものに付着した焼焦げのように|彷徨《さまよ》った。こうやって首を動かせば、残像によって文字が描けるかしらと影山は思ったが、よくよく考えてみると像が残っているのは網膜自体なのだから、いくら首を振ろうが眼球を動かそうが、それが動いて見える筈がない。影山は、あ、そうか、とひとり頷いてみたが、しかしそう納得しても、今度は却ってそのことに対しての不思議な気持ちが募ってくる。そしてそれは、どこかしら今度の事件と共通点があるような気がしてならなかった。
――今度の事件はやっぱり狂言に過ぎないのかしらん。それとも我々の頭脳で推し量り得る限界を逸脱してしまったような、途方もない|奸計《かんけい》によって動かされているんでしょうかね。まるでナイルズ氏の小説に書かれてあったあの五黄殺が、知らず知らず我々の頭上に留まり、腰を据えて、邪悪なエネルギーを落とし続けているようではありませんか。
影山の脳裡に、ふとナイルズの小説の一節が蘇った。
犯行は連続殺人でなければならぬ。
影山は慌てて煙草を揉み消した。恐るべきはナイルズではないのか。『いかにして密室はつくられたか』と称するあの探偵小説が面妖な二重構造の隠れ蓑となって、ほかの者からは見えなくなったナイルズの表情は、実は笑いを押し殺そうと努力している小悪魔のそれではないのだろうか。
鬼は蓑を被ってやって来る。小説には確かにそんな言葉も書かれてあった。例の風鈴はまだ鳴り続けている。
影山は何とか眠りに就いてしまおうと眼をとじた。
が、その途端に躯の重心を失った。寝る直前のアル力ロイドの効果は|覿面《てきめん》だった。横たわっている筈の躯が、硬直したその恰好のまま、奈落の底にもんどりうって失墜してゆく。それも頭の先から後方ヘと、何度も何度も繰り返し曳きこまれてゆくのだ。同時に、軽い嘔吐感。
ほんの二、三分の我慢なのだが、やはりたまらない時間だった。影山は後悔に責められていた。しかし、これは全くいつものことで、影山自身よく承知していることなのだ。何度後悔しても、寝る直前の一服はやめられない。
――あはっ、小生はマゾヒストなんでしょうかね。
それでもしばらくすると、墜落感は眠りのなかへのそれと見分け難くすり換わり、影山は再び深い|晦冥《かいめい》のなかへと墜ちていった。ただその一瞬前に、ちらりと眼の前を掠めて、事件の搆造が見えたような気がしたのだが。
自分自身が事件のただなかにいるために真相が見えないとすれば[#「自分自身が事件のただなかにいるために真相が見えないとすれば」に傍点]。
そこから先は真の眠りだった。
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* *
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眼醒めてみると世界が変わっていたという喩え話はよくあるが、影山達の場合もそうだった。但し、彼の場合はそれを、眼醒めさせられてみると、と訂正しなければならないのだが。
ともあれ、彼らの眠りを破ったのは、扉を叩く音だった。影山をはじめ、寝呆けた眼を擦りながら皆が起きかけた時、いち迅く曳間が毛布を弾ねとばし、布瀬の躯を跳び越して扉の方に駆けつけた。電話の呼び出しだった。
残った者は|欠伸《あくび》を噛み殺しながら、意識が覚醒の状態に戻るのをぼんやりと待っていた。根戸や雛子はその戻る時間が遅い方の筆頭らしく、横たわったまま満足に瞼さえ開いていないが、影山は勢いをつけてえい[#「えい」に傍点]とばかりに飛び起きると、小柄な躯を反らしたり捩曲げたり、軽い体操のような運動をしてみせる。
「まだ七時か。元気だなあ、影山は」
羽仁が、影山と一緒にかけていた毛布をひとりじめするかのように巻きつけた。
「何ですか、いい若い者が。素晴しい朝じゃありませんか」
「素晴しい? |鬱陶《うっとう》しいの問違いじゃないの」
ナイルズも隣の部屋から匍うようにして出て来ると、
「曳間さん、電話?」
「ああ、そうらしいね」
と、布瀬。
「誰からかな」
「さあてね。精神病院の姉貴からじゃないのか」
「あはっ。本当の本当にそんなことがあると面白いんだけどね。僕の小説もいよいよ架空の部分がこの現実に作用を及ぼし始めたということになって……」
探偵小説の方に話が移ると、急に眼も冴えてきたらしく、ナイルズは勢いこんでそう言った。影山は感心したように、
「ううむ。さすがは探偵小説の……」
そう言いかけて急に言葉を切ったのは、跫音が戻ってきたからだった。しかもその勢いには、普段の曳問に似合わぬ|遽《あわただ》しさがあった。|忽《たちま》ち耳を|聾《ろう》するほどの音をたてて扉があけられ、視線を集めた彼らは、血の気のひいた曳問の表情を認めて、思わずはっと顔を堅くした。その瞬間に彼らは、またしても凶々しい影が翼を展げたことを悟ったのだった。
「誰が……?」
ようやく躯を起こしかけていた根戸が、半ば冗談めかして尋ねかけると、
「倉野が……」
「倉野が?」
鸚鵡返しに根戸は叫んで、そのまま凍りついた。
「殺されたっていうの」
ナイルズの言葉に曳間は頷いて、
「そうらしい。詳しい話は聞けなかったが、すぐ警察が来るだろう」
「何とまあ……」
羽仁はそう呟いたまま、まだその報せが本当のものかどうか疑わしそうな顔をしていたが、やがてそれは、次第に悲痛なものへと移っていった。
いつの間にか雛子も隣の部屋から姿を現わして、腰をおろしたまま、怯えた様子で曳問の表情を窺っている。しかし曳間の表情は石のように硬張ったままで、逆に雛子の方が泣きそうな顔になった。
「いいかい。こうやって警察が介入してきた今、妙な隠しだてはしない方がいい。僕達にとってはかなり不愉快なことになるだろうけど、真沼のことは正直に言ってしまった方がいいよ。……そうすべきだ」
「ふむ。まあ、否が応でもそういうことになりそうだね。こちらとしても一刻も早く警察の方に出向いて、詳しい事情を伺いたいくらいのものだぜ」
「そう慌てなくてもよさそうだよ」
窓際にいた根戸がぽつりと呟いた。ほどなく、雨の音に混じって自動車の止まる音が聞こえ、折り重なるように、ドアの開く音が続いた。
「成程。早いですなあ」
影山は再び、感心したように呟いた。
小さく風鈴が鳴った。はっとして首を挙げると、窓の内側に吊されたそれを、指で弄んでいるのはホランドだった。舌や短冊を人差指でつつきながら、窓の外を睨み据えるように瞶めている。その硬い表情になぜか影山は居たたまれなくなって、視線を奥の部屋に移した。
小説や心理学関係の書物をぎっしり詰めこんだ棚が大小あわせて四つ。机の上には納まりきれない本が積みあげられ、その陰に古い十字架と黄金色の燭台が覗いていた。机の脇には黒い四枚羽根の扇風機。そしてその横の壁に、例の八角時計が懸かっていた。
古色蒼然たるその時計は、二時二十分を指して止まっていた。
影山の眼は、その文字盤の上に向けられたまま凍りついた。
曳間のこの部屋から抜け出した者があったとすれば。影山はようやくにしてひしひしと迫り来る恐怖を味わっていた。それでなくて[#「それでなくて」に傍点]、どうして時間が戻っているのか[#「どうして時間が戻っているのか」に傍点]。咄嗟にはうまい理由づけは思い浮かばなかったが、そこには何らかの意味がなくてはならない。
しかし影山がそんなふうに思ったのはほんの一瞬に過ぎなかった。曳問が扉を開いて迎え入れた刑事は、影山がそんな疑問について深く考える暇もなく彼らに同行を促したのである。
真沼の消失事件の話は、当然の如く事情聴取に当たった刑事達を驚かせ、面喰らわせた。何しろ密室のなかでの消失という非現実的な出来事とあって、初めは頭から疑ってかかったが、彼らの証言があまりに細かな部分まで一致しているため、次第に当惑を覚えながらも、それが事実であることを認めざるを得なくなった。
ともあれ、向こうにしてみれば予想外の証言もあり、一応の事情聴取が終わるにはかなりの時間を要した。その間に彼らが聞いた説明によると、案の定予想に違わず、今回の事件にも密室が絡んでいたのである。事件は日本橋横山町の甲斐のアパートで起こり、そして屍体となった倉野の第一発見者も甲斐ということだった。
その日の夕刻、彼らは殺人現場となった部屋を訪れた。甲斐は|憔悴《しょうすい》しきったように蒼褪めながら、
「まるでさかさまだぜ」
醜い顔をさらに皺だらけに顰め、隠し事をうち明けるかのように声をひそめるのだった。
屍体のある殺人。
影山は、甲斐の話を聞く前に、そのこと自体が奇妙な逆説に思われてならなかった。
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6 死の手触り
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街灯に照らし出されたアスファルトの上に、幾重もの波紋が一面に展がり、果てしない光と闇との踊りを見せていた。それらは互いにうち重なり、干渉し合い、切れぎれの波の上にまた新たな輪がうまれる繰り返しを際限もなく続けていて、ただそれだけのことなのだが、甲斐はその輪舞に魅せられたように眼を離すことができなかった。
「全くよく降るものだね」
後ろから倉野が声をかける。
「ああ、全くな」
甲斐は窓枠に凭れかかったまま独語のように答えていた。ひとつの波紋ともうひとつの波紋の間に数限りもない波紋が割りこみ、そしてそれゆえに雨の踊りは連続的なものとしか見えないが、空から降ってくる雨粒の数に限りがあるからには、実際にはそれは不連続なものなのだろう。甲斐はそのからくりを見極めようとするかのように、雨に打たれるアスファルトに視線を注ぎ続けていた。あるいは結果として、その美しさに見とれているのかも知れなかった。
「今、十時ジャストか。……君ははいらないのかい」
「何に……」
「勿論、風呂だよ。風呂」
「俺はいい」
そう答えながら、甲斐はようやく倉野の方を振り返った。倉野は濡れた髪から湯気を立ち昇らせながら、湯上がりの一服に火をつけるところだった。
「ああ、この一本は最高だね」
上半身裸の肩にタオルをひっかけて、白い煙を吐き出しながら倉野は呟いた。
「ふふん。何ならワインもあけようか。シャトウ·ド·レイネ·ヴィニョーだっけな。こないだ田舎に帰った時に、親爺からせしめて来たんだが……」
「いいのか、そんなのをあけて」
「ははん、まあいいさ。酒は呑まれるためにあるんだろう」
「あはは、そういうことなら大賛成だよ。お許しが出たのなら、早速あけようか。デキャンタはあったかな」
途端にいそいそと戸棚の方に向かう。甲斐も立ちあがって、冷蔵庫から壜を取り出しながら、
「しかしつまみは何もないぞ」
「ああ、いいよいいよ」
「栓を抜くのはお前の方が巧かったろう。任せるぜ」
「よしきた」
倉野はオープナーを器用に指先で回転させながら、壜を受け取った。
「この黄金色を見てると、僕も無性にボルドーに行ってみたくなるよ」
「ふむ。ボルドーか。俺ならフィレンツェだな。行くとすれば」
とう珍しく甲斐も上機嫌で応答する。
「あはは。そうするとさしずめナイルズとホランドはバビロンに行くんだろうな」
そう言って、倉野はコルクを引き抜いた。
「なあ甲斐」
いつもはあまり酔った様子を面に表わさない倉野だったが、この時は体調のせいだろうか、二杯目でやや眼尻のあたりをぽっと紅く染めながら問いかけた。
「さっき聞いた曳問の推理のことだけど、あれは一体何だろうね。……そうだよ。もしも僕がこの事件の関係者でなく、ましてや真沼が消えたあの時に、あそこの部屋でうろうろしていたひとりでなかったなら、僕は曳間の推理にいちいち頷いて、うん、そうだ、そうに違いない、と膝を打ったに違いない。全く、曳間の説はその点でこの上なく説得力がある。だけど、残念ながら僕は僕自身がそんな犯罪に加わっていなかったことを、誰よりもよく知ってるんだ。……とすると、これは一体どういうことになるんだろうね。『黒い部屋』では殺人は起こらなかったという逆証明なんだろうか。あれは全然架空の事件だったのか、それとも真沼はどこか別の場所で殺されて、何らかの理由であそこで殺されたと思わせるために演出された茶番劇に過ぎなかったのか。……もしもそうなると、布瀬と雛ちゃんが共謀していることになるけど」
「ふふん。いずれにせよ、野となれ山となれ。……さて、どうかな。気分もよくなったところで、ひとつ、特別にあの開かずの部屋をご披露しようと思うんだが」
甲斐はいきなり意外なことを言いだした。
「ええ? それはまた、どういう風の吹きまわしだい。珍しいこともあるもんだね」
倉野はグラスを片手に肩を竦めてみせた。
「いいからいいから」
甲斐は|発条《ぱね》仕掛けのように立ちあがると、扉に向かった。
「ははあ。これが聞きしにまさる開かずの部屋の全貌か」
少し小さめの八畳といったところの、窓もない薄暗い板張りの部屋。大小、およそ三十枚ものキャンバスがそこらじゅうに立てかけられ、部屋の中央の大きなイーゼルには、最も新らしいらしい作品が架けられてあった。
「ああ、これは杏子さんじゃないか」
「その通り。どうかね。まだ描き加えたいところはあるんだが」
甲斐はそう問いかけてにやりと笑った。
「いや、これは凄いよ。僕は絵の方はよく判らないけど、素人眼にもこの絵は絶品だと思う。全く、よくこれだけ|緻密《ちみつ》な絵が描けるもんだね。そういえばナイルズの小説では、この僕が君の絵のことを云々する件が書かれてあったけど、実際君の作品らしい作品を見るのは初めてだよ。しかし正直言って、これほどだとは思わなかったな。僕の好みにもピッタリだし。……殊に、この迷路めいた画面の構成がいいね。しかし、杏子さんがローブを纏った屍体になっているのはどういう暗喩かな」
「さあねえ」
甲斐も満足そうに腕を|拱《こまね》くと、
「サディスティックな願望かねえ」
「ふふ。君の口からそういう言葉が出るというのも、ますます意外だね。何だか妙な雲行きだな」
倉野は危ない危ないなどと呟きながらも、眼の方は油絵に釘づけになっていた。
「この絵は発表しないのかい。個展でもやるとかさ。……ほかの絵も、みんな実にいいじゃないか。だいたい今の油絵っていうのは、画面が不鮮明で妙なデフォルメを施したようなものが多いだろう。かといって、スーパー·リアリズムと呼ばれるのは、きらきら安っぽい、想像力の感じられないものばかりだし。僕はこういう作品が少ないことに、ずっと不満を抱いていたんだよ。どうだい。このあたりで作品を世に出して、ほかの奴らを驚かせてみては」
倉野は熱心にそう勧めたが、甲斐は嬉しそうに躯を揺すりながらも、
「あはあ。それよりお前が美術評論家になった方がいいんじゃないのか」
そう煙にまいておいて、ブリキ人形のような足取りでアトリエから外に向かった。
倉野が睡気を訴え始めたのは、夜も十二時をまわろうとする頃だった。
「毛布でも貸してくれないか。僕はもう睡くって。……実は昨日もよく寝ていないんだ」
「お前はいつもそうだな。酒は関係なく、とにかく一定時刻が来ると睡たくなるというのも珍しいぜ」
「あはは。まあ勘弁してくれよ」
笑いながらも、椅子に凭れかかる倉野の眼はとろんと膜がはったように|澱《よど》んでいる。甲斐は押入れからタオルケットを取り出すと相手に抛り投げた。
「サンクス」
倉野はそれを掴んだ手で敬礼を示してみせると、窓際の方に歩いて、ごろりと横になった。
「おやすみ」
呟くようにそれだけ言うと、忽ち寝息が聞こえ始める。甲斐は赤黒くなった顔に苦笑めいた皺を寄せ、空になった壜を振りながら、どっかりと木椅子に腰を下ろした。そのまま所在なげに部屋のなかを見渡す。六畳の部屋からは先程までの|酩酊《めいてい》した雰囲気が徐々に拭い去られ、甲斐はただ、今更ながらに耳につく淫らな雨音に聞くとはなしに聞きいっていた。
アトリエへの扉に、鍵がさしこんだままになって、銀色に照明を反射している。もうあれ[#「あれ」に傍点]もそろそろ必要ではなくなってきたかも知れない、と甲斐は考えていた。
「甲斐さん。甲斐さん」
はっと気がつくと、誰かが扉をノックしている。甲斐はよろけがちの足取りでそちらに向かった。
「ああ、甲斐さん。電話がかかってきてますよ」
甲斐を呼びに来たのは、隣の部屋に住む五つほど年上の青年だった。
「へえ。今頃誰からかな」
急いで部屋を後にする。受話器を取って、もしもし、と呼びかけたが、返ってきたのは聞いたこともない男の声だった。
「甲斐良惟さんですね……」
低い、抑揚のない声。
「どなたですか」
甲斐は胡散臭そうに尋ね返したが、その声はそれに取りあわぬまま、
「お宅の近くに、『ギョーム』という二十四時間営業のスナックがあったでしょう。今からそこに来て下さい。なるべくすぐに伺いますが、遅くなっても五時くらいまでは待っていて下さい」
と、それだけのことを伝えると、返答も聞かぬうちに送信は途切れていた。
「何だ、何だ」
甲斐は忌々しそうに舌打ちしながら、しぶしぶと受話器をおろした。そのまま礼もそこそこに自分の部屋に戻ると、すっかり深い眠りのなかに沈みこんでいる倉野を横眼に、しばらくじっと考えごとをしていたが、結局雨のなかに出てゆく決心をしたらしく、いそいそと身仕度を整え始めた。
決心すると、もう心は正体の判らぬあせりにつき動かされるように、甲斐の歩みを急がせた。雨は周囲を鐘型に包み、虹色を縫いこんだ銀灰色の光の膜として眼に映った。
彼のアパートから五分ほどのそのスナックに着いたのが、十二時半だった。さすがに客は少なく、力ウンターの止まり木に若い男女のふたり連れ、それにテーブルの方に舟を漕いでいる中年の男、それ以外に誰もいない。
甲斐は力ウンターの片隅に席を選ぶと、そこに小さく躯を丸めた。
「まるぼうろ?」
「そうよ。……やだ、勘違いしてるんじゃない。煙草じゃないわよ。お菓子の名前。丸芳露っていう、佐賀の名産よ」
|二十歳《はたち》より下かも知れない、若いふたり連れの会話だけが、やけに低くおとした音量の曲に混じって、虚しく響いていた。甲斐は水割りを注文すると、傍に置かれてあった新聞を取って、注意の方は硝子を嵌めこんだマホガニーの扉に払いながら、それに眼を通していった。
化粧漆喰の壁に埋められた時計の針が一時を示すまでに、四人の客が訪れたが、それらはいずれも、甲斐を呼び出した男ではなさそうだった。黒い皮ジャンパーのやたら騒がしい若い男ふたり、髯ぼうぼうの三十くらいの男、でっぷりと太った労務者風の男、いずれも扉をあけてはいってきた時には、甲斐の方にもちらりと視線を投げかけたが、そのままそ知らぬげに通り過ぎていった。
緩慢に時は流れ過ぎていった。それからも何人かの客が出入りしたが、彼らのうちのひとりとして、甲斐のじりじりとした苛立ちを救おうとはしなかった。二時をまわろうとする頃には、甲斐の脳裡を占める考えは次第に、あれがただの悪戯電話で、自分はそれにまんまとひっかかってしまったのだという方向に大きく傾いていた。しかし、頭ではそう考えていたものの、胸の奥底ではやはり何がしかの未練めいたものが|燻《くすぷ》り続けていて、甲斐はそこを離れる決心がつかぬまま、|徒《いたず》らに煙草をふかし続けた。
そうするうち、半ば気の|弛《ゆる》んだところに酔いもまわってきて、重い瞼を擦る回数が増えてくる。いけないいけないと自らを|叱咤《しった》する念にも力がなくなり、甲斐はいつの間にか、うつらうつらと|微睡《まどろみ》のなかに落ちていった。
誰かに呼ばれたような気がして、甲斐ははっと眠りから醒めた。呼び出しの相手がついにやってきたのかと、慌てて振り向いたが、眼の前にいたのは若いボーイで、示されるままに例の時計を見あげると、時刻は既に五時半を過ぎようとしている。眠りながら握りしめていた新聞を傍らに押しやり、冷えきったお絞りで寝呆け|眼《まなこ》を醒ますと、甲斐はもう一度店内を見渡した。
客は既にふたりしか残っていなかった。若い工員風の男と、|見窄《みすぼ》らしい白髪頭の五十男。このふたりも電話の主とは縁がなさそうなのを確かめておいて、甲斐はふらつく足で重心をとりながら立ちあがった。
――全く馬鹿馬鹿しい。それにしても、一体どこのどいつがあんな質の悪い悪戯を謀みやがったんだろう。
それきり、甲斐はもうそのことを考えるまいと決心した。
寝心地のよかったスナックの重い扉を後にして、甲斐は横殴りに降りつける雨のなかに出た。ぶ厚く垂れこめた雨雲の覆う空は、まだ少しも明るさを取り戻してはいない。街はその|稠密《ちゅうみつ》な闇に包まれ、激しい雨のせいか、斜めに歪んで見えた。
歩道の脇の|渠《みぞ》には、濁った緑灰色の光がごうごうと音をたてながら渦巻いている。激しい雨のつくる流れを集め、|迸《ほとばし》り、行き場を失ったそれが渠から溢れ出すのは時間の問題のように思われた。甲斐はもと来た径を戻る間、ずっとその濁った奔流を眺めながら、早く部屋に帰って寝てしまおうとだけ考えていた。
傘はその時の雨の勢いには殆ど役に立たなかった。びしょ濡れになった上着を|砕《はた》きながらアパートにとびこむと、甲斐は肩越しに唾を吐いた。
――倉野め。早いうちに寝ちまいやがって、得をしたな。
甲斐は上着のポケットから鍵を取り出しかけたが、すぐに扉には鍵をかけずに出たことを想い出してひっこめた。
廊下は、古くなった蛍光灯の薄明かりに照らされて、からんと死んだように伸びていた。自分の跫音以外に、何の物音もない。まるで深夜の病院だな、と思った。よろける足を踏みしめながら、甲斐は自分の部屋の前に立った。
鍵をかけずに出たという記憶は確かで、扉はノブをまわすと抵抗なく開いた。しかし、その途端、明らかに記憶と異なっている点にも気がついた。
――妙だな。電気も点けたままで出た筈だが。
部屋のなかは、墨を流したような闇に鎖されていたのだ。廊下からの薄明かりを背にしながら、甲斐はこの情勢を説明できぬまま|竚《たたず》んだ。そうしてふと、倉野が途中で眼を醒まして電気を消したのだろうと思いつくと、再び舌を鳴らしながら靴を脱いだ。