饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.9

 見通しのまるできかない闇のなかを、テーブルと戸棚を避けながら、全くの手探りでスイッチの方に向かう。だいたいの見当で垂れ下がった紐を捜そうとしたが、それはまるで闇のなかに溶けこんでしまったかのように、言向に手に触れる気配もない。ひょっとしてまるで見当違いのところを捜しているのかも知れないと、甲斐はあちこちに手を伸ばしてみたが、足元がふらついていたために二、三度大きく重心を失って、そのまま仰向けにひっくり返ってしまった。

 掌の下で、ぐにゃりと厭な感触があった。甲斐は反射的に弾け起きていた。倉野の躯らしかった。躯を起こした後で、変だと思ったのは、あれほど激しく倒れたにも拘らず倉野の反応がまるでないことだった。せめて寝返りのひとつ、寝言のひとつでも返ってくるべきではないか。甲斐はしばし、闇のなかの倉野が横たわっているあたりの、もっと深い闇を|瞶《みつ》めていた。

 甲斐はいきなり心臓を握りしめられたように、その場にとびあがった。今しがたぐにゃりとしたものに触った掌が、自分の躯から垂れる雨雫とは別のもので濡れているのに気づいたからだ。それは水ではなかった。そういえば甲斐は、先程から自分の鼻腔を刺戟しているある種のにおいが、部屋じゅうに微かに立ち籠めていることにも気がついた。

 甲斐は訳の判らぬ悲鳴を挙げそうになった。そして両手を差しあげると、夢中で蛍光灯の紐を捜し始めた。探りあてるまでの時間は、間が抜けたようにながく、

 恐怖に顫えながらの、それは闇のなかの気違い踊りだった。

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7 不必要な密室

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「倉野は頸動脈を斬られて死んでいた」

 甲斐は指でそっと自分の首をなぞった。それがいかにも傷口を|労《いたわ》るような素振りに見えたので、他の者は思わず痛々しげに眼を細めた。それから部屋の隅に視線を滑らせる。

 倉野が眠っていたという窓の傍の一角には、今は黒褐色に変色した血溜りが、青い絨毯に魔界の地図のような模様となって染みついていた。

「凶器は倉野の傍――そう、その机の前あたりに転がっていた。俺のペインティング·ナイフだったよ」

「それは、あの開かずのアトリエにあったものなの」

 ナイルズが、そちらの扉を指差しながら訊くと、

「いや、あれは前からこちらの部屋にあった」

 そう答えて甲斐は、

「ではいよいよ、その密室に関してだが」

 前置きしながら、集まった九人の表情を等分に眺め渡した。

 いつもは堅く鎖された|件《くだん》の扉は、今はぽっかりと洞穴のように開いていた。その近くに立って甲斐の話を聞いていた影山は、初めて見るその部屋の、白じらとした光に照らし出された光景を覗きこんだ。

「俺が変な電話によってここを出た時点で、そこの扉には鍵をさしこんだままにしておいたことはさっきも言った通りだが、俺が倉野の屍体を発見し、転がっている血濡れたペインティング·ナイフを見つけた後、アトリエを覗こうとすると、扉には鍵がかかっていた。恐らく犯人がかけたに違いない。俺はそう思って、鍵を置いて行ってないか、そこらじゅう捜しまわったが見つからなかった。

「ともかく俺は隣の男を呼びつけて、すぐに一一〇番に電話して貰った。しかもその時、俺の頭にすぐに浮かんだのは真沼の事件で、もしかすると今度の事件でもやはりあのアトリエに誰かが隠れていて、俺が警察への通報のために部屋を出た隙をついて、外へ逃げ去ろうとしてるんじゃないかという疑問が湧いたから、隣の男に電話をかけさせている間、俺はその部屋の扉の前に立って、常に注意を廊下の方に払っていた。警察の連中が来るまで、ここからは誰も外に出なかった。従って、俺がここに戻って来た時点で、犯人はこの部屋から既に逃げ去っていたことになる。

「さて、俺はこちらに戻って警察を待った。ほかに変わったことはないかと気をつけてみたが、別にこれといってない。ただ、犯人が何の目的でアトリエに鍵をかけたのかという点は、どうしても俺には判らなかった。眼を剥いた恐ろしい形相で宙空を瞶めている倉野を見ながら、俺はそのことばかり考えていた。そうするうちに警ら察の連中がやってきて、奴らの手であの部屋は開かれた。その結果、……あろうことか、鍵はあの部屋のなかで発見された[#「鍵はあの部屋のなかで発見された」に傍点]。つまり、そのアトリエは密室になってやがったんだ」

 最後の言葉を言い放つと、甲斐は忌々しそうに顔を|顰《しか》めた。

「全く、変だ」

 羽仁も呆れたように呟いた。

「そのアトリエには窓はない。見たところ、扉の上にも下にも、鍵を外から入れることのできるような隙間もない。全く、完璧な密室だよ。……だけど、肝腎の屍体がその外側にあるなんて、一体これは何のための密室なんだろう」

「不必要な密室、という訳だね」

 羽仁の言葉を受け取って、ホランドが言った。すると根戸も、

「だいたい探偵小説のなかでも、密室を扱ったものは、それが必然性もなく組みこまれることが多いという点で批判されることがあるけど、この事件なんて、それ以上だぜ。ただ、殺人事件に密室という要素を付与したいというだけのために講じられたとしか思えないじゃないか。ああ、全くもって判らん。どうして倉野をあの部屋のなかで殺さなかったんだろう」

「もうひとつつけ足すべきことは」

 と、そこで甲斐は、忘れないうちに言っておこうとでもいうふうに口を開いた。

「開かれた密室のなかで、もうひとつ変わったことがあったのさ。俺の使っていた油絵用の筆が、悉く、へし折られるか先の毛をひき抜かれるかして、部屋じゅうにばら撒かれてあった。全くひどいことをしやあがる。結局、無事なのは絵だけだったな」

「ふうむ。それもまた、妙だね」

「推定死亡時刻は二時から五時までの間だったね。こう幅があっては、あまり意味もないようだけど」

 曳間がぽつりと呟いた。

 今度は曳間達が説明をする番だった。彼らは|迭《かわるがわ》る、昨夜から今朝までの行動を語った。その次は杏子だったが、彼女の方は、叔父と四時半過ぎまで話をしていたということで、一応のアリバイは認められたらしかった。

「その叔父さんっていう人、まだ東京にいるの」

 ナイルズが尋ねると杏子は頷いて、

「家で心配しているでしょうから、なるべく早く帰らなくちゃ。その代わり、いいことを教えてさしあげるわ。甲斐クン、あなたを呼び出した電話の声を、わたしも聞いたことがあるの」

「ナ、ナ、何だって。ほ、本当かい」

 杏子は三日前の不思議な電話のことを詳しく語った。

 甲斐は眼を丸くしてその話に聞きいっていたが、杏子の話が終わった途端、

「あの、雨の降り始めた日か……」

 そう、独語のように呟いた。

「ふむ。それにしても、そのことも全く不必要な小細工だな」

 今まで黙っていた布瀬も口を開いて、

「誰が犯人なのかは判らんが、表面に浮かんでくる彼の行為は、まるで無意味無目的としか映らない。……いやはや、まるでその姿なき殺人者は、白らの探偵趣味だけのために倉野を殺害したようにさえ思われるではないかね。『探偵小説狂のための殺人』……」

「それにしても、ちょっと異常だよ」

 叫ぶようにナイルズは言って、

「しかもやっぱり、犯人はここに集まった十人のなかに居なくちゃならないんでしょ。いくら探偵小説狂が昂じたとしても、まさか現実に殺人を実行するなんて、そんな人物が僕らの間に、何気ない顔を|装《よそお》って紛れこんでいるかと思うとうこっちの頭までおかしくなりそうだよ」

「あたしの考えでは」

 脣を堅く結んでいた雛子も、ナイルズの言葉に重ねるように、

「犯人はやはり気が狂っているとしか思えないわ。探偵小説マニアのあたしがこんなことを言うのはどこか矛盾しているかも知れないけど、でも、やっぱり、気が狂ってるとしか思えないわ」

 雨が再び、少しずつ、殆ど気のつかないほどに強まってきているようだった。その長大なクレシェンドのなかで、雛子の声はかんとはね返るように響き渡った。

 思わず沈黙に還りそうなその一瞬に、影山は囁くような質問を口にした。

「あのう、根戸氏は、夜中のことを憶えておいでですか」

 そのタイミングは成功したようだった。一同は、はっと影山の方を振り返った。

「憶えて……? とすると、あれはどうやら俺の見た夢ではなかったらしいね」

「ははあ、どうもそうらしいです」

「オイオイ、一体何の話だね。隠し事はこの際、|御法度《ごはっと》だぜ」

 すかさず布瀬が口を挿むと、影山は少しはにかんだように肩を竦めて、

「いえ。大したことじゃないかも知れないんです。ただ、昨日――というより今朝方になるんですか、小生は悪い夢を見て、それで一回眼を醒ましたのですが、はい」

 そう前置きして、影山はその時の模様を逐一話し始めた。途中から根戸もうんうんと頷き、時刻が四時十分だったことは確かに今でも憶えていると証言した。

「ふふん。とすると、その頃の不在証明にも関係してくるな」

 そう促されて影山は、

「はい。……で、妙なのはその後なんです。というのは、例の電話で倉野氏が殺されたことを知り、しばらくしてから警察の車がやってきたでしょう。その時小生は、あの八角時計をもう一度見たんです。ところが、時計の針は二時二十分に戻っていて、そしてそこで止まっていたのですよ。はい」

 その時初めて、曳間の表情は激しい惑乱に|攫《さら》われた。

「そんな馬鹿な!」

 そう叫んで額を掻き始める。それは考え事に耽る場合の、曳間のいつもの癖だった。あまりの急な変化に、これは何かあると踏んだのだろう布瀬が、

「オイ。お前も何か知っているんだろう。ひとりで思索に耽っていないで、吾輩達にも喋って頂きたいものだがね」

 そう言われて曳間は顔を挙げると、意外なことを告げた。

「あの時計は、ずっと前から止まったままなんだよ。時間は割合正確に刻むんだけど、一日一回|螺子《ねじ》を巻かないと止まってしまうから、面倒でずっと飾りものとしてだけ置いてあるんだ。何時何分で止まっていたかは憶えてないけど、最初は、影山と根戸が見たのがその止まったままの時刻に違いないと思った。振り子の揺れも、ちゃんと鏡を通して目撃したそうだけど、それも時計が動いている筈だという先入観からの錯覚だろうと思ってね。だけど、今朝になって時刻が変わっていたとなると、まるで話が違ってくる。……しかも、時刻が逆戻りしていたなんて……」

「そうですよ。あれは確かに錯覚でも何でもありません。振り子はちゃんと揺れてましたから」

 影山も語調を強める。と、そこに口を挿んだのはナイルズだった。

「その点に関しては、影山さんの言ってることは正しいと思うよ。だって、僕はあの時計の|螺子《ねじ》を寝る前に巻いておいたんだもの。ちゃんと時間も合わせて、ね」

 曳間はうーんと唸って、

「何だ。止まっていた筈の時計が動き出した魔法の正体は、ナイルズ。君だったのか。全く、年寄りを恐がらせないでくれよ」

「あはっ、御免ね。何しろそんな一曰くらいしかもたない代物とは知らないものだから、ほかの人が寝ちゃってから、ふと気になって巻いておいたんだ。そんなにいっぱいには巻かなかったから、すぐに止まっちゃったんだね。……でも変だねえ。一体誰が、時計の針を逆戻りさせたのかしら。もしかすると、これも犯人が得意の、『さかさま嗜好』という奴の表われなのかな」

「ふむ。それが犯人の作為だとしても、やはりその意味が量り知れん。つまりは不必要な小細工というほかないではないかね」

 布瀬は三白眼の眸で、じろりと一同の表情を値踏みするように見渡した。すると甲斐が、その視線をはね返すように、

「しかし、気が狂ってるにせよ、『さかさま嗜好』のゆえにせよ、曳間。お前の専門の方では、人間の行動には必ず何らかの理由がなければならん筈だろうが」

「それはまあそうだけど。……まさか現時点で、その説明を僕に求めているんじゃないだろうね。何度も言うようだけど、僕は超心理学の専門じゃないんだよ。と、いうところで根戸。君が眼を醒まして僕の部屋のなかを見た限りで、君がアリバイを証明できるのは何人いるんだ」

「おやおや、これは責任重大なことになってきたね。影山の証言では奥の部屋にいた三人のアリバイが不確かだからな。それでちょっと心配になったのか。ナイルズも雛ちゃんも襖の陰だし、曳間は足の先だけの目撃だときた日には……。しかし御安心あれ。俺の位置からは奥の部屋はよく見えたよ。多少寝呆けていたかも知れないが、三人ともいたことだけは確かだな。それ以外のことには責任がもてないがね」

「ああ、よかった」

 ナイルズはほっと肩を落として、

「折角時間が判ったっていうのに、部屋のなかに居るところを見られてないんじゃ割を喰っちゃうものね」

「本当だわ」

 雛子も力を得たように言って、

「そうなると、萩山町から日本橋のこの部屋まで、車で来るとどのくらいかかるかが問題になってくるわね」

「ほぼ、三十キロというところかな」

 根戸は尖った顎を|摩《さす》りながら、白問するように呟いた。

「時速六十キロで走れば三十分で着いちまう計算だけど、道は直線じゃないし、信号待ちやら何やらで、そうはいかない。さあて、日中なら一時間半近くかかるのかなあ」

 すると羽仁が、

「じゃあ、最低一時間と見て、四時十分の前後一時間のあいだは、甲斐と杏子さんは勿論、ここにいる全員アリバイがあることになるね。死亡推定時刻は二時から五時。で、三時十分から五時十分までの間は、誰もこの部屋には存在することができなかったんだから、曳間のところに泊まった者のなかに犯人がいるとすれば、犯行は二時から三時十分までの間に行なわれたということになるんだろうね。……それにしても、犯人はなぜ時計の針を二時二十分まで戻さなければならなかったのかなあ」

「ナイルズ。最後に寝たのは君だということだったけど、それは何時頃だった? 本当にみんな眠っていたのかい」

 曳問の質問に、

「十二時頃にみんなが寝ちゃってから、僕はしばらく本を読んでたでしょ。だけど、やっぱりすぐに睡たくなっちゃってね。時計が止まっているのに気がついて、傍に置いてあった曳問さんの腕時計で時間を合わせたのが十二時四十分。僕が寝たのは、その五分くらい後かな。……その時、本当にみんなが眠っていたかどうかとなると、ちょっと判んないなあ。狸寝入りされてちゃお手あげだよ」

「あっはは。それはごもっとも。……さて、それでは今までの材料から組立てられることはというと、まず、影山が眼を醒ましたというのは偶然の出来事だし、根戸にしてもそうなのだから、ふたりが共謀して嘘の証言をしているのでない限り、その時の時刻は信用していいことになる」

「ふふん。つまり犯人は、夜中に影山と根戸のふたりが起き出して、あの八角時計で時刻を確かめることなど予測できない筈だから、予め時間を狂わせておくようなアリバイ·トリックは意味がなくなる。ハハン、ましてや時計というものは、どんどん進むものだからね」

「そうだよ、布瀬」

 曳間はパチンと指を鳴らした。奇術師が、舞台で見せる所作。そんなふうにも思われた。

「けれども、なおかつ犯人は時計を狂わせた。恐らく、時計が止まった後だろう。その意味は今のところ不明だね。それでは次に、その部屋で使われた密室トリックについては、誰か推理のつく者はいないかな」

「最も簡単な解釈は、合鍵だろうね」

 腕組みをしながら、根戸は甲斐を横眼で見た。

「ハン。しかし俺は、誰にもこの鍵を貸した憶えがないぜ。いや、見せたこともない筈だ。だから合鍵なんぞは造れる訳がない」

「そうなると、俺には想像もつかないね。どうだい。密室は羽仁の専門だろう。何とか見事な推理を見せては頂けないものかな」

 羽仁は|鉾先《ほこさき》を向けられて、あからさまに苦い表情を浮かばせた。

「そんな、都合の悪い時だけ人を専門家呼ぼわりしないでくれよ。……うーん。甲斐。鍵はあのアトリエのどこで発見されたの」

「あの絵を架けたイーゼルの下。つまり、部屋の中央より、少し奥あたりだな」

 甲斐はそう言いながら、ちらりと杏子の方を|※[#「目偏+瓜」、Unicode:U+773D]《ぬすみみ》た。

 純白の香りたつようなワンピースを身につけた杏子は、僅かに脚を崩した姿勢で、悪戯の見つかった子供のような笑みを脣に浮かべた。

「そうか。そんなに離れているのか。……うーん。判らん! 判らん!」

 羽仁は手を振りながら叫ぶ。と、根戸がそれを引き取るように、

「まあ、これが現状だね」

 そう結んだ。

 すると杏子は、急に想い出したように立ちあがって、

「じゃあ、そういうところでわたしは帰るわ。これ以上、叔父さんを待たせては悪いから」

「そうね。あたしも帰る。ひとりでゆっくり、推理することにするわ」

 雛子も慌てて杏子に続く。

「本当はこの血溜りから逃げ出したいんだろう」

 ナイルズが指で差しながら揶揄すると、雛子は振り向きざまに舌を出してみせた。

「あっと、そうだ。杏子さん」

 突然、羽仁が手を挙げてふたりを呼び止めた。

「そういえば、その叔父さんとの話はどうなったの。もう決着はついたのかな」

 杏子は|繊《しな》やかに|踵《きびす》を巡らせると、ふっきれたような微笑みさえ浮かべて、羽仁の質問に答えたのだった。

「わたし、青森の方に移ることにしたわ」

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8 用意されていた方法

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 それからしばらく、時は急な坂を駆け転げるように過ぎ去った。彼らは何度か刑事達の訪問を受けた。その合間を縫って倉野の葬儀が行なわれ、並行して杏子の表明の通り、ふたりが下目黒の久藤邸をひき払う準備も滞りなく進められた。十五歳の雛子にとっては、事態は否が応もないものだっただろう。そしてほかの者がただ呆気に取られているうちに、八月が終わるとともにふたりの美神は東京を離れてしまったのだった。

 彼らの眼には、それはさながらひとときの魔法のように思われた。振り返ってみれば、|悉《ことごと》くがそうだったようにも思われた。

 郷里での葬儀のために、羽仁は神戸から再び東京へと|蜻蛉《とんぼ》返りした。今度のことから明るみに出てしまった真沼の消失で、彼の両親も事情を聴きに東京を訪ね、そしてなす|術《すべ》なく還っていった。ほかの者も互い違いに田舎に呼び戻され、そして夏休みも終わるとあって、殊にナイルズとホランドは学校の準備もしなくてはならなかった。事件は新聞などで取りあげられ、テレビの番組でも興味本位の|潤色《じゅんしょく》が加えられた報道が一、二回なされたようだった。

 そうした|遽《あわただ》しい夏から秋への|季《とき》を転がりながら、しかし彼らの焦躁と|懊悩《おうのう》に反比例して、事件の真相はいっかな明らかにされる気配も見せなかった。今、彼らの眼の前にあるのは、さかさまになった現実以外のなにものでもなかった。

 九月二日、日曜。事件から十日という日が過ぎ去って、ようやく彼らは集会を持つことになった。『黄色い部屋』の別室に、その時顔を見せたのはナイルズと羽仁のふたり。

「ようやく雨があがったねえ」

「うん。でもやっぱり曇ってて、変な空模様だよ」

「まあ、贅沢言ってても仕方がないさ」

 羽仁はそう言って、人形達に混じった鬼に眼をやった。|忿怒《ふんぬ》の形相を虚空に向けて、その一体の鬼は形なき何者かを睨み続けていた。

「もう五時前でしょ。ほかのひとはまだかなあ」

「甲斐と根戸は来るかな」

 羽仁はナイルズに背を向けたまま呟いた。ナイルズには、その言葉の意味はすぐに理解できた。

「来るでしょ。僕が来てるくらいだから」

 ここはいつ来ても同じ。ここだけは現実の時間が歩みを留めている。ナイルズは水底の眼を持つフランス人形を見あげてみた。|夥《おびただ》しい人形達の視線はこの部屋の隅ずみを射止め、固定し、それによって揺るぎのない空間をつくり出しているかのようだった。そのような場所においては、時はじりじりと、漆喰を腐蝕し、風化させてゆくほどの微かさで降り積もるほかないのだろう。視線による呪縛。

 そういえば、以前、布瀬から聞いたことがある。聖域とされる場所の周辺に獣の像を描いたり|肖《かたど》ったりするのは、洋の東西を問わず、古代からの普遍的な風習で、それは獣の強烈な視線に、悪霊を退散させる力があると考えられたからなのだと。

 ナイルズは今になって、初めて深い|寂寥《せきりょう》を感じることができた。ここは一種の地下牢のようなものなのだろう。外では時がブリザードのように吹き荒れている。倉野の死も雛子達の都落ちも、そこではただ荒れ狂う時の嵐に混じって眼の前を通り過ぎるだけだった。そしてそれは、羽仁にしても同じに違いない。当初は死との対峙からくる昂奮のせいか、むしろ快活にさえ見て取れたが、|攪拌《かくはん》され続けた濁水がその手を止められたように、今は|謐《しず》かに沈澱しつつある悲しみが、傍にいるだけでひしひしと伝わって来る。

「そうだね」

 羽仁は片眉をあげながら振り向いて、テーブルの上のアメリ力ン·コーヒーに手を伸ばした。

「それじゃあ、時間繋ぎにひとつ、僕の推理を聞いて貰うことにしようかな。推理とも言えない、馬鹿馬鹿しい指摘だけど」

「おやあ、羽仁さん。とうとう密室を開くことに成功したの」

「いや」

 羽仁はコーヒーをちょっと啜って、

「それは後の話として、まずはもうひとつの部分から。犯人にとって、期せずして起こってしまったアリバイ·トリック。……つまり影山と根戸が確認した時刻のことなんだ」

「へへえ。期せずして起こったっていうと、判った。ふたりが見たのは、やっぱり夢のなかの光景だったとでも言うんでしょう」

 ナイルズはそう言って、おかしそうに笑った。

「いやいや。茶々を入れてはいけないよ。これは重大なことなんだから」

 急に囁き声になって首をつき出すと、

「実はふたりは、時計の針を読み間違えたんだ」

 ナイルズはそれを聞くなり、ぷっと吹き出して、

「あはあ、やっぱりそんなことだろうと思った。なあるほど。ふたり揃って読み間違えたの」

「無理もないよ。根戸は少々寝呆けていたんだものね。それは自分でも言ってたじゃないか」

 と、こちらは飽くまでも真剣な顔で、

「だからそれは責められることじゃないんだよ、……時計の長針と短針をあべこべにしてしまっても[#「時計の長針と短針をあべこべにしてしまっても」に傍点]」

「えっ?」

 ナイルズはさっと眉をひきしめた。

「ねえ。四時十分を差している長針と短針とをいれ換えると、その時刻は何時何分になると思う」

 ナイルズはしばらく、視線を羽仁の顔から離した。

「二時二十分……」

「その通り」

 羽仁は眼の上に垂れそうになる髪の毛を掻きあげながら、

「最初は根戸が間違えたんだ。そうして影山は、その根戸の言葉が先入観になって、ついつい同じ間違いをやらかしてしまった。まして、影山は鏡を通してちらっと眺めただけだろう。これが真相だよ。時計の針が戻った謎も、こう考えれば呆気なく解けてしまう。実際の時刻は二時二十分だったんだ。だから、あの時計は影山達が見たあと、すぐに止まったんだろうね」

「そうか。……ああ、何て単純なことなんだろ」

 ナイルズは自分の額をこづいた。

「そうすると、僕達のアリバイもがらりと変わってくるよね。二時二十分を中心に置き換えなくちゃならないんだから、一時間ずつの幅と見ても、一時二十分から三時二十分までになる。……だけど、僕が寝たのが十二時四十五分で、一時二十分までには三十五分しかないから、二時二十分以前に曳間さんのところと甲斐さんのところを往復はできない。ということは、倉野さんが殺されたのは、三時二十分から五時までの間ということになるんだね」

「うん。ナイルズもなかなか頭の回転が迅いな」

 羽仁は相手の肩を叩き返した。

「問題は密室の方だけど、何、これも一応の推理はできあがってはいるんだ。こっちはみんなが来てから披露しようと思っているんだけど、まだなのかな」

 その言葉が終わるか終わらないうちに、扉のノブをまわす音に続いて、まずは根戸が姿を現わし、それから一時間とたたぬうちに、甲斐を除く全員が集まった。

 羽仁の指摘は、彼らの間に、肺の底から吐き出されるような溜息を呼び起こした。

「何て馬鹿馬鹿しい盲点だ」

 根戸は刈り揃えた短い髪をガリガリと掻きまわした。

「……そうだったんですかあ。いや、そうだったかも知れませんです。はい」

 申し訳なさそうに首を縮める影山に、根戸は押し重ねて、

「もともと俺の錯覚からきたことだ。お前が謝ることはない」

 そうあっさりと自分の非を認めた。

「まあ、よかろう。無意味な謎が排除されたのは倖いだった。その問題はこれでうち切りにして、肝腎の密室に話を移そうではないか」

「おや、布瀬。君にも|纏《まと》まった意見がありそうだね」

 羽仁は静かに瞳をあげた。

 ナイルズはふと、不思議な気持ちに陥った。勿論、深い幽愁が皆の間に浸透していることは言うまでもない。それはナイルズの皮膚を通して、微かな波紋のように伝播してくる。しかし、この|慈《いつくし》むような穏やかさは、一体どうしたことなのだろう。それはいつまでも続くのだろうか。この今、この部屋だけの、ひとときのものに過ぎないのだろうか。ナイルズは、そしてそのどちらである方が〈よい〉と言えるのか、答を見つけられないでいた。

「しかし、あれからずっと考えてたんだけど、密室の外に屍体があるなんて、考えれば考えるほど妙だね」

 曳問が溜息を吐くように言う。

「どうして密室のなかで殺さなかったのだろう」

「ふふ。さすがの曳間さんも、今度ばかりはお手あげかな」

 黄色い光を脣に湛えながら、ホランドは少し首を曲げてみせた。

「とりあえず、その理由なら四つの場合が考えられると思うんだけどな」

「おやおや。これは面白い。それぞれ|一家言《いっかげん》を持つらしいね。さすがだよ。無能者は聴き役にまわるから、まずホランドからその四つの場合というのを聞かせて貰おうか」

 根戸が催促すると、ホランドは意味ありげな微笑みをよこして、

「最初のひとつは、これはもうずばり[#「ずばり」に傍点]そのもの。犯人がそういう謎めいた殺人現場をつくってみたかった、という場合。つまりナイルズの小説に|准《なぞら》えて、〈さかさまの密室〉のひとつのパターンを提示してやろうという、純粋に探偵小説狂的な遊びの精神から出たものに過ぎない場合……」

「ふむ。それは存外、有力な説だね」

「二番目は、そのような情況が犯人自身にある利益を|齎《もたら》すことを狙った、という場合。例えばあの不必要としか見えない密室が、別の何らかのトリックを兼ねているといったような……」

「ああ、成程」

 羽仁はそう頷きはしたものの、

「しかし実際、密室の外に屍体を置くことによって、どういう別のトリックが可能なのかな」

 するとホランドはキュッと|胸《ウィンク》してみせ、

「そこまでは知らないよ。……さて三番目は、少し意外な意見かも知れないけど、密室を構成した者と倉野さんを殺害した者とが別にいた場合。……つまり、ふたりの人間の思惑が、全く別個に、あのひとつの部屋に重なったという場合だね」

「うむうむ。これはいよいよ興味津々だな。偶然に起こった、ふたつの犯罪が錯綜しているという訳か」

「最後の四番目は、随分奇異に聞こえるだろうけど、犯人はちゃんとした密室を構成したにも拘らず、誰かが倉野さんの屍体を密室の外に出してしまった[#「誰かが倉野さんの屍体を密室の外に出してしまった」に傍点]……」

「素敵素敵」

 根戸は手を叩かんばかりに悦にいって叫んだ。しかし、そこに口を挿んだのは布瀬で、

「ハハン。しかし、その最後のはちょいとあり得べからざるものだろうよ。最初はあのアトリエの方に屍体があったのならば、血溜りもアトリエの方にある筈だし、よしんば暇にまかせて血を拭い取ったり新しい血溜りをつくるなどの細工を施したのだとしても、ルミノール反応検査ですぐに見破られてしまうのだからね。面白いことは最も面白いが、まあ、あり得ない解釈だろうねえ」

「うん、それならそれでもいいんだよ。とにかく考えられるのはこの四通りだけで、ほかにあるとしても、このうちのひとつのパターンの変型に過ぎないだろうというのが、僕の言いたかったことさ」

 ホランドはそう言いきると、ぐっしょりと汗をかいているアイス·コーヒーを飲み干した。

「よし、それではいよいよ、密室の謎解きだ。では、布瀬からひとつ、お願いしたいね」

「うむ。それでは吾輩もホランドに|倣《なら》って、少しばかり場合分けをしてみるが、あの密室を構成するには、およそ三通りの方法がある。ひとつは、内側から鍵をかけておいて自分自身が外へ抜け出るという方法。ふたつ目は、外側から鍵をかけておいて、その鍵を部屋のなかに戻すという万法。三つ目が、外側から鍵を使わないで錠をおろしてしまうという方法だな。こうして考えてみれば、まず最初のは抜け穴でもない限り不可能。二番目のは、最初の奴よりも幾分可能性が大きいだろうが、窓もなく、扉に隙間さえないあの部屋では、やはり無理だとしか言えんだろうな。ふむ。すると残るのが三番目の方法ということになる。

「ひと口に外側から錠をおろすといっても、これにもいろいろ方法があるのだがね。ハハン。つまり、扉の錠前仕掛の部分だけをはずしておいて、それを鍵のかかった状態にセットしておき、後で外側から取りつけ直すという方法も、その範疇に含まれる訳だからな、もっと大がかりにやるのなら、扉そのものを取りはずす方法もある。が、まさかこんな方法では痕跡が残ってしまうから駄目だろう。とすれば、必要になってくるのは、〝一種の合鍵_ということになるのだぜ。

「最も簡単なのは、空巣狙いがよく使用する方法で、例の釘かなんぞを鍵穴にさしこんでいじくりまわすというやつだが、これにしても痕跡が残ってしまうだろうことは予想される。となると、どうしても、〝一種の_という言葉抜きの合鍵がいるのだ。合鍵が……」

 眼鏡のレンズを黄色に反射させて、布瀬は不意にそこで口を鎖した。羽仁は訝しそうに眉根をあげて、

「なあんだい。それじゃあ推理にもなっていないじゃないか。結局、甲斐を含めた共犯だっていうのかい」

「ふふん。それは早とちりというものだぜ」

「だったら、犯人は犯行以前に甲斐の部屋に忍びこみ、鍵を拝借して合鍵を造っておいたと――」

「ふむ。それは、合鍵が以前から用意されていたという考えに基く結論だぜ。判るかね。犯人は、あの時、あの場で合鍵を造ったのだよ」

 布瀬は部屋のなかを見渡し、時がゆっくりと収束してゆくその場所を捜すように、少し眼を|眇《すが》めてみせた。その動作はナイルズ達にも、黄色い波動を湛えるエーテルが、揺らめきながら部屋の一点に呑みこまれてゆくイメージを抱かせた。

「あの部屋で、合鍵を|拵《こしら》えたのだって」

「そうとも。お前は部屋の合鍵を造って貰ったことはないのかね。吾輩の部屋のものとは違って、あんなもの、僅か三分かそこいらでできあがるのだぜ。それに較べれば、今度の殺人など、犯人にとって時間はあり余るほどあったではないか。……ふふん。と言って、別に特殊な器具など必要もない。ひょっとしてちょいと手先が器用ならば、ありあわせの木か竹の棒のようなものを削って代用させることも充分可能だと考えられるのだがな。さて、そう考えてゆけば、先程ホランドが提案した四つの分類には、もうひとつの場合を加えてもいいのではないかと想うのだがね。曰く、倉野を殺害した後で密室を作成することを思いついた場合。……つまり、後からあのアトリエが開けられたままだと気づいて、そこを密室にする気になったのだが、今更屍体をそのなかに移動させるとなると夥しい流血で躯が汚れてしまう。しかし、〝そこに密室をつくる_といういかにも魅力的な誘惑には抗しきれず、できあがったのがあの情況だったのだとね」

「即興の密室だね。……それはいいけど」

 羽仁は額に掌をやると大袈裟に唸って、

「ねえ、布瀬、僕はそんな解決なら御免|蒙《こうむ》るよ、たとえそれが事実だったとしても、そんな面白味もない、機智というものが感じられないトリックなんか、僕は納得できないな」

「おやおや。言って下さるじゃないか。まるで、イワン·カラマーゾフの言い種にそっくりだぜ。事実だったとしても納得しない、か。ふうむ。それならば、お前さんの密室美学に即した具体例を、ひとつ、訊かせて頂こうではないか」

 布瀬は皮肉な笑みを湛えたまま、挑戦するかの如く顎を突き出した。すると根戸もそれに加わる恰好で、

「そうだよ。今度は羽仁。お前の番だ」

「そう言われると弱いなあ」

 そこでいったん言葉を切ると、羽仁はグラスの底に残っていたカクテルを|呷《あお》った。

「じゃあ僕も一応、布瀬に敬意だけは表する意味で、一部分だけちょっぴり真似させて貰うよ。君はホランドの分類に、ひとつの場合をつけ加えて、合計五つだと訂正したね。で、僕もそれに倣って、今度は君の、密室作成法の分類に、ひとつの方法をつけ加えようと思うんだよ。それは、部屋の内側に鍵をさしこんでおき、外側から何らかの手段でその鍵をまわして錠をおろした後、また何らかの手段でその鍵を扉から離れたところに移動させるという方法で……」

 羽仁がそこまで語った時、

「紐と針とピンセットの問題かね。古い。古い」

 布瀬は髭を撫でながら手を振った。

「それこそ現在の探偵作家さえ使わなくなった、陳腐この上ないトリックだぜ。鍵の手元の輪になった穴に棒なりピンセットなりをさしこんでおいて、その器具の先に結わえつけた紐を扉の下にくぐらせ、それを引っぱることによって鍵を回転させる。……ふふん。今度の事件の場合には、それに加えてもうひとつの小細工も施されてあったと言いたいのだろう。例えばまち針のようなものを、鍵の発見された場所に突き立てておき、それに糸をひっかけて、鍵穴からそこへ移動させるように仕掛けておいたのだとね。そうして、後から紐を引けば、総ての道具がたぐり寄せられて、扉の下の隙間を通してこちらの手に戻ってくる。……ふむ。しかしながら、残念なことに、あの扉には隙間というものが全くなかった。従って、そのような細工を施すことは不可能だったと言わざるを得ないのだぜ。いくらお前が吾輩の説を、事実であったとしても認めたくないなどと力説しようが、そのお前の説自体、実行不可能なものだとすれば、どうしようもないのではなかろうかね」

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