饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.10

 布瀬はいよいよ挑戦的に応酬したが、羽仁はそれを聞き終わると、こちらもまた何とも言えない笑みを浮かべて、

「ところが、布瀬、あの部屋にはたったひとつ、開かれた空間があったんだよ。どこだと思う」

 そう言って、布瀬だけでなく、『黄色い部屋』のその別室に集まった全員の顔を、ひとつひとつ吟味するように見まわした。

「そんな馬鹿な」

 布瀬はあからさまに表情を一変させて、頭のなかに想い描いた甲斐の部屋を急がしく探索していたようだったが、もう一度、

「そんな馬鹿な」

 と繰り返して、羽仁の顔を|瞶《みつ》め直した。ほかの者の反応も概して布瀬に同意する気配を匂わせるものだったが、ひとり影山は、丸い黒縁眼鏡を小指で押しあげながら、

「ひょっとすると、隙間と言いますと、鍵穴のことを指している訳でしようか」

「さすが、影山。物理学科」

 羽仁は『いかにして密室はつくられたか』にあった言いまわしを借りると、

「僕が言おうとしているのは、紐やピンセットを使うものじゃないんだ。どうも不思議なことに、機械的な密室トリックといえば紐とピンセットというふうに相場が決まっているようだけど、そこに妙な盲点が生まれてしまっているみたいだね。唯一の開かれた空間が鍵穴以外にあり得ないとしたら、直接鍵穴を通して鍵を操作する方法に眼を向けて|然《しか》るべきだと思うんだけど」

「想い出した!」

 羽仁がそこまで喋った時、根戸が大声で叫んで、他の者を驚かせた。

「鍵穴の外側から鍵の先端を抓み、それを回転させて錠をおろす……外国ではそのための道具が犯罪者達の間で知れ渡っていて、確か、〈ウースティーティー〉とかいう名称まで与えられているということだったな。だけど、それにしてもやっぱり、ピンセット状のものは要るし、鍵をイーゼルの近くに移動させるには紐のようなものが要るんじゃないか」

「そうでもないんだよ」

 こともなげに羽仁は言って、

「とにかく、犯人はあの鍵穴を通して錠をおろしたことには間違いないんだ。……こんなことを言えば、そのウースティーティーという道具のようなものを予め犯人は持っていたことになる。だけど、あの部屋が開かれた状態だったなんて犯人には判らなかった筈だから、そこがいかにも御都合的だと思われるかも知れないね。でも、その点は大丈夫なんだよ。なぜかといえば、犯人が倉野を殺した後で密室を構成することを思いついたという点では、布瀬の意見に異論はないんだ。実はそのウースティーティーは、甲斐の部屋のなかに用意されていたんだよ」

「何だって」

 今度の驚きの言葉は、はっきりと一同の口から洩れた。そうすると、やはり甲斐は犯人と結託していて、密室を作らせるためにあの開かずのアトリエを開けておいたというのだろうか。しかし、それならば何もそういった器具でなしに、初めから合鍵を使えばすむことで、甲斐を共犯者と看做す以上、密室というもの自体に意味がなくなってしまう。

 羽仁は、皆の脳裡に掠め過ぎたそんな疑問をすぐに読み取ったらしく、ナイルズが何か言おうとする先に言葉を続けた。

「そうかといって、甲斐が共犯者だという訳でもないんだよ。今度の事件でウースティーティー代わりに犯人が使ったのは、油絵用の筆[#「油絵用の筆」に傍点]だったんだ。何本もの筆が折られたり、毛を抜かれたりしてばら撒かれてあったことは、勿論憶えているだろう。あれはウースティーティー代わりに使った一本のためのカムフラージュで、毛の抜かれたもののうちのひとつ、鍵の先端にぴったりと輪っかが嵌まる奴だけ本当の意味を持っていたんだ。……最初から言うと、犯人は鍵の先に嵌まりそうなものを選んで毛を※[#「手偏+少+毛」、第4水準2-78-12]り、鍵穴の内側からは鍵、外側からは|禿《はげ》になった筆をさしこんで、なかでぴったりと嵌めこんでおく。そうして扉を閉めておいて、外側から筆の軸を回転させ、錠をおろす。それから筆をグッと引き抜いて、春度反はそれをさかさまに、お尻の先を鍵穴にあてるんだよ。そうしておいて、威勢よくもう一方の手で筆の頭をぽーんと突いてやる。鍵は弾け飛んで、扉から離れた処に落ちることになるんだ。……同時に、密室は完成する。判ったろう」

 彼らに尋ねたのか、自分自身に呼びかけたのか、それとももっと遠い、ここならぬ何者かへの問いかけとしてなされたのか。とにかく羽仁はそう言葉を切ると、黄色い光線のせいで抵抗を増しているかとも覚しい空気をさざめかせながら、ゆっくりと首を巡らせた。吐息は彼らの口から一斉に洩れ、憧れるように、諦めるように、宙空のただなかへと解き放たれていった。

 ナイルズにはその瞬間こそが、倉野への本当の追悼式のように思えた。なおかつ、数知れず立ち並ぶ人形達の笑いは微かにその部屋に充ちていたが、あるいはそれは、その部屋自体が彼らの内耳に発生させる耳鳴りのようなものなのかも知れなかった。

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9 闇の傀儡師

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 深い澱みに沈んでゆくような彼らの想いとは|拘《かかわ》りなく、時の嵐はいよいよその猛威を増してゆくらしかった。まずもって彼らの胸を刺し貫いたのは、二日の集会にとうとう姿を見せずじまいたった甲斐が、その次の日には、倉野の死を追いかけるようにしてこの世を去ったという報せである。しかもそれは、どう考えてみても事故による落命としか受け取れぬものであって、彼らの捜し求めている凶悪な殺人者とは何らの繋がりもない出来事だとは、彼ら自身、胆に銘じざるを得なかった。

 詳しく言えば、九月三日の二時十五分頃、青梅街道が環八通りと交差する|四面道《しめんどう》付近で、甲斐の乗車していたタクシーにトラックが正面衝突。後続の車が追突を重ね、歩行者も巻添えにして、四重衝突とも五重衝突とも報道された悲惨な大事故で命を落としたのだった。即死の者は、甲斐を含めて五名。原因は、信号機が急に黄色に変わったのに腹を立て、思わずアクセルを踏んでしまったという供述が新聞にも載っていた通り、つっこんできたトラック側の飲酒運転以外の何物でもなかった。

 その頃から警察の調査も、ますます急追の度を|昂《たか》め、それに加えて各週刊誌が、彼らの間の密室殺人事件と、それに|纏《まつ》わる一連の死の持つ記事的な面白さに眼を向け直したことなどもあって、周囲の空気は俄然、|遽《あわただ》しい喧噪に充ち始めた。事件とは何の関係もなさそうな、変に些細な部分が暴き出され、|穿《ほじく》り返されて、かつまたそこには、適当な怪奇ムードまでが演出されていた。突拍子もない臆測、|牽強付会《けんきょうふかい》は留まるところを知らず、どこで伝わったものか、ナイルズの小説の公開を勧める記者さえいた。

 まさしくそれは、彼らを吹き飛ばそうと荒れ狂う嵐だったのだろう。そんななかで、彼らは全員が集うような機会も持てず、その日もホランドは影山とだけ逢うことができた。

「変ですよ。変ですよ」

 え、と訊き返そうとして、ホランドは大きく身を|仰反《のけぞ》らせていた。大地が弓なりに傾き、凄じい轟音とともに躯ごと落下してゆく。車はいったん緩やかな勾配につんのめって、彼らをそのまま、のしかかる蒼穹のなかに抛り出そうとしたが、そこから再び断崖を駆け落ちるように、恐ろしい勢いで風を切った。地上にごちゃごちゃとぶちまけられた赤や黄や青や緑の点が、画面を四方から引き延ばしたようにわーっと展がったかと思うと、そのままあっという間に深い闇が彼らを呑みこんだ。甲斐の事故の時もそうであったろうと思われる金属性の|軋《らさし》りと、|魂消《たまぎ》るような悲鳴が反響し、続けて硬い壁に撲ちつけられる衝撃が襲った。

 そうしてガラガラと車は闇のなかを匍い、ひょっこり抜け出ると、そこはもとの光に充ちた地上の世界だった。

「ひゃあ。恐い恐い。ジェット·コースターは恐い」

 影山は瞼をぱちぱちと|屡叩《しばたた》かせながら、息の仕方も忘れてしまったかのように咽をつまらせた。

「変って、何が変なの」

 ゆっくりとホームに滑りこんだ車から立ちあがりながら、ホランドは先程聞き咎めた言葉の意味を尋ね返した。

「あ。そうそう。それなんですけれども」

 影山は、ホランドとたいして差のない小柄な躯を伸ばすと、丸い眼鏡を押し挙げつつ、

「正直言って、小生はジェット·コースターというものに乗るのは生まれて初めてなんですが、全くこれは、|惚《ぼ》けた頭にイッパツ喰らわせるという点では、たいした効き目があるようですね。以前から小生は、最近起こった一連の事柄のなかに、何かしら不自然な部分があるような気がしてならなかったのですよ。そうしたところが先程の、登り坂をガタンガタンとあがってゆく時になって、その不自然な部分が何か、いきなり頭のなかに|閃《ひらめ》いたんです。それは……」

 そこまで|急《せ》きこんで喋った影山は、ふと、眼鏡越しにホランドの顔をまじまじと覗きこみながら、

「風鈴なんですよ」

 そっと|毀《こわ》れものでも置くように、影山は囁いた。ホランドはなぜかしら、ぶるっと躯を顫わせた。

「あの風鈴は、風もないのに鳴っていたのですよ。風もない筈なのに、ひとりで音をたてていたのですよ。判りますか。倉野氏が殺されたあの夜、変な夢に起こされて、それで時間を知ることになったあの夜。――小生がひっかかっていたのは、そして先程想い出した不自然な点というのは、その時鳴っていた風鈴なんですよ。ホランド氏も憶えておられる筈です。あの風鈴は部屋のなかにあった[#「あの風鈴は部屋のなかにあった」に傍点]ことを。そして窓はしまっていたのです」

 遊園地は、赤や黄や青や緑の色彩に充ちていた。近くから遠くから、幾重にも重なって聞こえてくる賑やかな音楽に|淆《ま》ざって、それらは赤から青へ、黄から緑へと、|煌《きら》びやかな渦をつくっていた。ホランドはその映像のなかで、確かに自分がそれを憶えていることを確認していた。彼はその次の朝、壁に吊された風鈴を弄んでいたのだ。

「全くだね」

 ホランドは、あまり意味もない相槌を打った。

「変ですよ。変ですよ。ああ、もしかすると、やっぱりあれは|悉《ことごと》く小生の夢の続きだったのでしょうか。……いっそのこと、今度のこと全部、今ここにいて、こうして喋っていることまで全部、夢のなかの出来事であってくれればいいと思うのですけれど。はい」

「風鈴の音だけが、気のせいだったんじゃないの」

 瞹昧な笑みを脣に浮かべて、ホランドはひとつの解釈を口にしたが、影山ははっきりと首を横に振ってみせた。

「いいえ。そんなことはありません。記憶は確かにあります。雨が降ってて、蒸し暑くて、やはり風鈴は鳴っていました。はい。もしもそれが間違いだというのなら、あの時のこと総てが夢だったというほかありません。そして、根戸氏も同じ夢を見たということがあり得ないとおっしゃられるんでしたら、あれはまさしく現実の出来事で、そうして風鈴は鳴っていたのですよ。はい」

 それはいっそ、潔いくらいだった。ホランドは気取られないほどの溜息を吐くと、

「『誰が風を見たでしょう』――だね」

「そうなんですよ。ああ。小生は何となくそんな気がしてきたのですけれども、今度の一連の事件は、何と言いますか、人問の理解力を越えた何者かの手によって操作されているのではないでしょうか。……小生がこんなことを言うのはおかしいですか。でも、雛子女史の御両親が亡くなられたことといい、今度の甲斐氏の事故死といい、とても偶然とは思われないような事件が、なおかつ偶然でしかないとすれば、それはもう人間の手には負えない真黒な影のようなものの仕業としか思われないじゃありませんか。確かに|傀儡師《くぐつし》は居るのですよ。ナイルズ氏が小説に出してきたところの、あの偶然を自在に支配できるというマックスウェルの悪魔のようなものの手によってですね……」

 影山は、|憑《つ》かれたようにそんなことを喋りながら歩いていたが、不意にきゃっという情ない悲鳴を挙げた。一瞬凍りついたように立ち止まったのはホランドも同じで、彼らの眼の前にいきなり姿を現わした、だんだら帽に水玉模様の服を身に纏ったピエロが、白塗りに赤く化粧した顔でニタニタ笑いながら、そのままひとことも口をきかずに、ふたりを傍の奇妙な建物に押しやったのだった。

 虚を衝かれたまま、それは否応もなかった。|幾許《いくばく》かの抵抗は試みたのかも知れなかったが、奇妙なピエロの力は存外に強引で、ふたりをアッと言う間もなく、その建物小屋のなかに押し籠めた。同時に背中の方でバタンとドアの閉じる音がして、彼らは白日のもとから、一挙に薄暗い闇のなかへと抛りこまれていた。

 最初は何が何だか判らなかった。しばらくの間眼が|瞑《くら》んだまま、薄暗いくせにやけに眼を射る強い光線がギラギラと輝いていることだけは不審な想いと共に感じてはいたが、眼が慣れるに従って、そこに数限りなく反射しあっているアーク灯の苛立たしい連なりが、曲折した空間を照らし出していることに気がついた。それと共に、彼らはそこに、面喰らった表情で周囲を窺い見ている、何千何万の自分自身を発見したのだった。

 そこはミラー·ハウスだった。

 ふたりはそのことが判ると、却ってぞっと立ち竦んでいた。自分達が林立する奇妙な光景の向こう側では、やはりそちらほど遠くなる訳なのだろうか、強い照明も次第に薄暗く、彼方の闇のなかに呑みこまれている。しかも怖ろしいことには、巡らされた鏡面の僅かな歪みが、何十回何百回となく反射を重ねてゆくに従って少しずつ増幅を加えられうこちらを向いているその後ろで横を向き、そのまた後ろで背中を見せているといった夥しいふたりの影は、遠くなるにつれて姿も形も畸型な色を濃くしていた。

 ホランドははっと気がつくと、まだ茫然と立ちつくしている影山の脇をすり抜けて、背後の鏡面を叩いていた。しかしそれは既にピッタリと枠に嵌まりこんでビクともしない。恐らく扉は悉く、進行方向に向かって押さなければ開かない仕組になっているらしかった。

「あ。こちらが開きますよ」

 ようやく影山が、一方の鏡を押し開きながらそう言って、ホランドも仕方なく彼の後に続いた。

 行けども行けども鏡だった。開く扉もひとつとは限らず、ふたつ開く部屋もあれば三方開く場所もあった。影達はふたりが向いている側とは関係なく、てんでばらばらに勝手な方向へと進んでゆき、ややもすると彼らは、互いに異なった扉を目指しているような錯覚に陥った。

 ぴったりくっついているにも拘らず、鏡に映った像だけを見ていると、離ればなれになっているとしか思えないのだ。次から次へ、部屋は幾つ過ぎても限りがなく、ひょっとすると、彼らは同じ経路を何度も堂々巡りしているのかも知れなかった。

「雛子女史なら鏡の国のアリスということで|平仄《ひょうそく》が合いますが、どうして我々がこんな目にあわなくちゃならないんでしょうねえ。……ひょっとして、先程のピエロは……」

「まさか」

 ホランドは、影山の言いたいことをいち迅く察して、そう答えていた。しかし、笑うことはできなかった。いっそのこと眼隠しでもすれば、案外簡単に抜け出られるのかも知れない。ホランドは波打つように|蠢《うごめ》く自分達の歪んだ像を眺めながら、むかつくような嘔吐をさえ感じていた。

 ふと気がつくと、鏡の向こうに影山がいた。ホランドは冷たいものを腋に覚えながら振り返った。が、そこには蒼褪めた顔をした自分の像が鏡に写っているだけで、影山の姿はそのまた向こうの鏡面に封じ籠められたまま、キョロキョロとこちらの居処を求めている。ホランドは再び前方を振り返った。

「影山さん」

 アーク灯の強い光線が度のきつい眼鏡に反射して、影山の表情はよく読み取れなかった。ホランドはその壁をバンバンと叩いて、ようやく悟った。

 ――そうか、これはただの硝子なんだ!

 ホランドは横の壁を押してみた。そこは難なく開いて、覗きこむと、その部屋の四方にもホランドと影山の姿が入り乱れて写っていた。

 ――よし。じゃあ、もう一度こちらを開けば。……

 ホランドは影山のいる部屋の方向へと、鏡を次々に開いていった。写像は|眼紛《めまぐる》しく移り変わり、影山の姿も近づいたり遠のいたりしながら、どうやら向こうでもこちらに気づいた様子で、戸惑ったふうに首をキョトキョトと捩っていたが、最後の鏡がくるりと回転すると、そこには最早影山の姿は跡形も残っていなかった。

「影山さん?」

 どうやら見当違いの方向へ進んできたらしく、ホランドは|凝然《ぎょうぜん》とその場に|竚《たたず》みつくした。今度はただひとり、自分の姿だけが限りなく|曠《ひろ》がる鏡の世界を埋めつくしている。何千何万の自分に囲まれて、ホランドはその分の孤独を総て背負わされたような気がした。

 ホランドは、仕方なく再び進むことにした。前進とも後退とも判別のつかぬ|彷徨《ほうこう》。それはいかにも象徴的で、ホランドはこの時、初めて微かに笑みを浮かべた。進めども進めども、ただ蒼褪めた何千何万の孤独があるばかりで、それは吹き荒れては降り積もる時の刻みのなかで、果てしもなく続くようにも思われた。……

「そういう訳でね。ひどい目にあっちゃった。影山さんとはそれっきりさ」

「それはそれは」

 羽仁はそう言って慰めたが、果たしてそこで笑っていいものかどうか迷っていた。

「どうしたんだよ、ナイルズは。一緒に行かなかったのか」

 根戸が尋ねると、こちらは鉛筆を鼻の下に挟んで、

「だって僕は用事があったんだもの」

「それで、影山はどうしたんだろう」

 何か言いかけた根戸を遮るようにして、呟いた羽仁の表情は真剣だった。

「布瀬。君も会ってないのか」

「ああ。会ってない」

「羽仁さん。まさか――」

 ナイルズは|弄《らもてあそ》んでいた鉛筆を机の上に置くと、眼を丸くして訊き返した。

「まさか、影山さんまでどうにかなっちゃったって言うんじゃないでしょうね。あの日が七日で今日が九日だから、まだそんなふうに決めちゃうのは」

「僕は決めてなんかいないよ。そんなことを言うのは、ナイルズ。君だって頭のどこかに、そんな疑問を抱いてたからじゃないの」

 ナイルズは言葉に詰まった。根戸や布瀬は微かに笑い声を洩らしたが、その表情は俯いたり掌で頬を擦るなどして巧妙に隠されたので、本当に笑ったのかどうか判らなかった。

 その日は日曜だったが、甲斐の死のために『黄色い部屋』はしばらく休店となり、彼らは羽仁の『白い部屋』に集まった。小さな森さえそのフランス窓から眺められる豪邸の一室は、床·壁·天井からひとつひとつの調度品まで、白一色に塗り潰されていて、ここ一連の陰鬱な事件とは見事に|截《き》り離された世界のように思われた。しかしその時、彼らはやはりこの部屋でさえ、黒ぐろと頭上にのしかかる影にすっぽりと包みこまれていることを知ったのだ。

「たまらないよ」

 |呻《うめ》くようにナイルズが言った。

「ああ、まっぴらだよ。こんなことばっかり考えなきゃならないなんて、ほんとに気が変になりそうだ」

「もう狂ってるのかも知れないよ」

 ある程度大っぴらに微笑みを浮かべているのは、そうナイルズを揶揄したホランドただひとりだった。柔かい革椅子の肘掛けの上に、首筋と組んだ脚とを渡した行儀の悪い恰好で寝そべっている少年は、ミルクのように粘っこい光線に包まれて、侵し難い空間を保っている。

 |棘劇《とげとげ》しい植物というよりも、荒々しい獣。その荒々しさをひととき秘めて、ホランドは静ラかに牙を研いでいるふうだった。

「ひとりでに鳴る風鈴か。言われてみれば、俺も確かに聞いた気がする。……確かにどこか狂ってるな。風鈴に封じ籠められた呪いの一端を垣間見てしまったために、鏡のあちら側へと連れ去られた訳でもあるまいが。……しかし、ともあれ今は、真相の解明を続けなきゃな」

 振り払うように根戸が言った。

「闇の|傀儡師《くぐつし》の正体は何なのか。そのためには、例の〈ワトソン捜し〉を、もう一度考え直さなくちゃならないことになるかも知れないな」

「ふふん。〈ワトソン捜し〉ね……」

 布瀬は根戸の言葉を受け取って、

「こいつもまた、ある意味でさかさまなのかね。あっは。これが既に書かれた小説かなんぞの話ならば、騙されていたのは読者ひとりだったということで落ちをつけることもできるか知れんが、どうも当事者となってしまうと勝手が違う。……いっそのこと面倒な推理などやめて、ここで白魔術の会でも開いて犯人の正体のお伺いでも立てる方が、余程利口かも知れないぜ」

「へえ、そういうのも白魔術っていうの」

 と、ナイルズ。

「そういえば『黒魔術師』はどうした」

 根戸が背凭れに乗せていた首をひょいと挙げて尋ねると、羽仁は、

「さあね。あそこも普段は電話の取り継ぎをしてくれないから困るんだよ」

 続いてナイルズが、

「ねえ。もしかすると、曳問さん、やっぱり自分の説を|頑《かたく》なに信じていて、それで寄りつかないんじゃないかなあ」

「あっはは。それはあり得るかも知れないな。|降三世《ごうざんぜ》の呪いの方がまだしもという訳か」

 根戸はそう笑いながら、

「しかし面白いね。曳間の推理によれば、共犯者側に居る者は次々と姿を消すか命を落とすかしている。倉野に甲斐。杏子さんに雛ちゃんも。影山だって……」

 言葉が途切れた。

 根戸の笑い顔が、その時不意に醜く歪んだ。

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10 架空に至る終結

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 どこか近くに|鐘楼《しょうろう》でもあるのだろうか。ながい陰鬱な響きが膚寒い大気を|顫《ふる》わせ、耳の奥に|谺《こだま》するように降り伝わって来る。尤も、羽仁がそれに気づいたのは、鐘の音が鳴りやんでからだったのだが。

「影山さんは、まだ見つからないんでしょう。どうも厭だなあ」

「いよいよ今度の事件は、影山の言葉通り、人智を越えた魔物の仕業という線が強くなって来たね」

 言い返した羽仁も、到底笑う気は起こらなかった。四日前の集会では、根戸は根戸なりの二扉を開いたらしく、あの後急に物想いに沈んだきり、十三日の今日になっても一向口を開こうとはしない。四人は歩きながら、胸の底に|蟠《わだかま》るそれぞれの想いを噛みしめている。

 緑の多い住宅街を抜けると、曲がりくねった細い小径が竹藪の下をくぐるように続いていて、片側の岩膚の見える低い崖に、顔の|刳《えぐ》れた地蔵が|祀《まつ》られている。複雑な路地の網目から、駅と曳間のアパートとの最短径路を発見した布瀬によれば、その地蔵がほぼ中間点に位置するらしかった。その布瀬は既に曳間の部屋を訪れていることだろう。

「影山さんが本当に行方不明になってしまったとすると、残ったのはここにいる僕とホランド、羽仁さん、根戸さんに、それから曳間さん、布瀬さんの、僅か六人になってしまったことになるんだね」

「半分か」

 呟くように答えてから、羽仁は、

「雛ちゃんからは手紙なんか、来ないのかな」

「昨日来たよ」

 そう答える声にも弾んだようなところはなく、

「向こうの家にもだいぶ慣れてきたって……。事件のことに関しては、あれは恐らく迷宮入りになってしまうだろう、なんてことを書いてあったよ。冗談じゃない。自分が判らないからって。いつもあんな具合なんだから」

「あはあ。いやしかし、それが本当かも知れないよ。……根戸はどうなのかな。そうやって黙りこくっているのは君らしくないよ。何か考えついたことがあるなら、そろそろ教えてくれてもよさそうなものじゃないか」

 羽仁がそうやって水を向けると、根戸は初めて首筋を伸ばして、うん、と頷いた。

「また間違った推理をして馬鹿にされるのも|適《かな》わないから、これは一応、俺の空想の産物に過ぎないという前堤で聞いて貰うことにしようか。従って、根拠と言えるようなものは殆どない。いいかな……?」

「死者が出てからは、やけに慎重になるんだね。僕は何でもいいよ」

 いつの間に引き抜いてきたものか、鋭い|力草《ちからぐさ》の茎を口に|銜《くわ》えながらホランドが促すと、

「それじゃ始めるけど、まず、今度の事件は真沼の消失から考えていかなければならない」

 根戸はそう前置きすると、依然、苦虫を噛み潰したような表情で後を続けた。

「あの事件当時、真沼が『黒い部屋』の書斎に居たという前提のもとに、俺達はさんざん頭を|捻《ひね》り、様ざまな推理を提案して来た訳だ。まとも[#「まとも」に傍点]な解決のやり方ではどうしても説明がつかず、ついにナイルズの提案による〈ワトソン捜し〉なる考え方にまで踏みこんで、それでもなおかつ、曳間の推理が否定されたことが示すように、総ての試みは失敗してしまった――ように見える。……しかし、俺はそこにひとつの、みんなが見落としたと思われる、空白な処女地を見出だしたんだ。

「曳間は、原則的に〈ワトソン捜し〉の方法でもって、布瀬を騙される側の人物と看做した場合の推理を展開した。……うん。曳間の考え方は、実に正当なものだよ。

 何故と言って、真沼の姿をその眼でしかと目撃したっていうのは、布瀬と雛ちゃんだけなんだから、このふたりのどちらもが騙す側の人間だったとしたら、真沼があの部屋にいなければならない必然性そのものがなくなっちまうからな。……しかし結局、曳間の推理は間違っていた。それを否定する証言を述べたのが当の布瀬本人だったことは、何とも皮肉な話だけど。しかし、まあ、それもいいとしておこう。妙なことは、曳間の推理がそこでピタリと歩みを止めてしまった[#「曳間の推理がそこでピタリと歩みを止めてしまった」に傍点]ことなのさ。そうだよ。

「曳間の推理を想い返してみると、|訝《いぶか》しい点があることに気がつく。それは殆ど無条件に、雛ちゃんは騙す側の人間でなければならないと決めつけてしまっていることだ。その論拠は至って薄弱なもので、羽仁、お前の〈虱潰し法〉が失敗してしまったのは、雛ちゃんの証言を中心に推論を組立てていったことに起因しているということからだったな。……ふん、同様な考え方でゆくなら、その結論は決して不当なものではなかったろう。しかし、いったんそこに〈ワトソン捜し〉なる全く新しい考え方を持ちこんできたからには、それまでの推理が間違っていたからと言って、その拠り処としていたものまで無条件に否定してしまうというのは、ちょいとどころか大いに早計な話だぜ。そうさ。結局この場合、曳間としては、最初の推理が誤りだと判った時点で、次の段階に進まなきゃならなかった筈だ。つまり、雛ちゃんが騙される側の人間だったという場合にね。……ここまでは判ってくれるかな」

「うん。なかなかさすがに数学的だね。……というより論理学的と言った方がいいのかな」

「とにかく、そういう場合も考えられていけない道理はない。で、実際、旨く辻褄は合うのだろうか。俺はそれをずっと考え、確かめてきたんだ。そうして、これがなかなか棄てたものでないことを結論できるまでに至ったのさ。では、以下その考え方に従った手順で、実際の事件を再現してみることにしようか。それはまあ、こういった具合になるんだよ。

「書斎の方には、真沼ともうひとりの人物――これは今のところ誰とも判らない。仮にXとしておこうか。ともあれ、そのふたりがいる。『黒い部屋』の方には布瀬と倉野。そんなところへ、杏子さんと一緒に、あの事件での主人公でありワトソン役でもある哀れな雛ちゃんが訪れる訳だね。注意すべきは、影山はすぐその後にやって来てて、部屋のなかの様子を戸口の陰からじっと窺い、登場の期を|虎視眈々《こしたんたん》と狙っているという点にある。さて、雛ちゃんは、誰も書斎の方に行こうとはしないその場の雰囲気に最初のうちは従っているものの、持ち前の好奇心から、何気なく書斎の方を覗いてみる。いや、実際にそちらの部屋にはいろうとしていたのかも知れない。しかし、まさにその瞬間、影山がいつもの調子でタイミングよく部屋のなかに|闖入《ちんにゅう》する。しかもその脇に大きな紙包みを携え、数表数表と訳の判らないことを喚き散らしての登場だ。雛ちゃんでなくとも、一体何事かと興味を惹かれて、真沼の姿を眼に留めたきり扉から曳き一戻されてしまうのも、全く無理ない話と言えるんじゃないかな。

「さて、その後書斎の方では大事業が行なわれる。謎の人物Xがベッドの下から匍い出して、真沼を殺害する訳だ。屍体はどうしたかという点だけど、俺はこいつに関しては、羽仁、お前の〈見えない棺桶〉説を採っていいんじゃないかと思う。百科事典の箱を|刳《く》り抜いておき、そのなかに隠し、それから例の羽虫の音。『黒い部屋』の布瀬達は、何が起こったのかと色めき立つふりをする。そこで合鍵を取りに行く騒ぎがあり、入れ違いに甲斐も姿を現わす。そしていよいよ扉が開かれることになるんだが、そこでほかの者は雛ちゃんの視界を遮らなきゃならない。つまり彼らは、謎の人物Xがベッドの下から匍い出して『黒い部屋』に逃れ出るための、楯の役割を果たすんだ。真沼の屍体は、事件の後でゆっくり始末することにしてね。……これがおおまかな内容なんだが、どんなものだろう。充分可能性はありそうじゃないか」

 言葉は穏やかだったが、その調子には半ば挑むようなところもあった。

「そうだね。僕の説が取りいれられてる点でも評価できるけど。……で、肝腎の謎の人物Xは誰かな。今の推理によれば、当然後で訪れることになった、根戸、曳間、ナイルズ、ホランド、そしてこの僕のなかに居ることになるんだろうけど」

「面白いね」

 羽仁の言葉を横取りするように、急にナイルズが悪戯な眼つきになり、

「可能性としては根戸さんがいちばん大きいよ。曳間さんの推理のときと同じで、何せ、事件のすぐ後に姿を現わすなんて、いかにも怪しいじゃない」

 そう言ってのけると、からかうように根戸の顔を見上げた。

 しかし驚いたことに、根戸は依然として|懶《ものう》げな表情を動かさず、抵抗なくナイルズの言葉を受け容れた。

「それならそれでいいさ。謎の人物Xは俺でもいい」

「何だって」

 三人は呆れたように根戸の顔を見直した。細い眉の下に据えられた切れ長な眼。|逞《たくま》しい鼻筋からくっきりした脣までつくづくと瞶め返したが、彼の思惑は硬い表情の奥深くに|了《しま》いこまれて、読み取ることはできなかった。

「俺が言いたいのは[#「俺が言いたいのは」に傍点]、果たしてそれが真相だったかなんてことじゃない[#「果たしてそれが真相だったかなんてことじゃない」に傍点]。そんなこと、二の次、三の次だ。問題は、こんな推理も成り立つんじゃないかということなんだ」

 最後は殆ど叫ぶように言いきった。羽仁はそんな根戸の様子に戸惑って、

「君の言わんとしていることが、僕には理解できないよ。もしかすると君のお得意の〈不確定性原理に基く解決〉なのかい」

「違う!」

 根戸の語気は、三人の歩みを思わず止めさせるほど鋭いものだった。羽仁は一瞬訳の判らぬ|眩暈《めまい》をさえ感じていた。

「言い換えれば、俺の疑問は、このような推理がなぜなされなかったのか[#「このような推理がなぜなされなかったのか」に傍点]という点にあった。曳間は布瀬が騙される側の人物だった場合の推理を展開した。そして、それは布瀬本人の口で否定された。しかし、そこまではそれでいいんだ。問題はその後だよ。曳間はその仮定が否定された後で、今度は雛ちゃんが騙される側の人物だった場合の推理を展開しなきゃならなかった。第二のケースが誤りだったから、当然、次の段階に足を踏み入れるべきだったんだ。……しかし、実際はどうだった? 曳間の推理の展開は、そこでストップしてしまった。あれほど、実際に殺人が起こった場合に|拘泥《こだわ》っていた曳間が、それこそ二者択一的な問題のもう片方を、どういう訳か、いともあっさりと見逃してしまったんだ。……どうだ。これは妙だと思わないか。そこに不自然な空気を感じないか。俺は納得できなかったよ。いいや、納得できなかっただけじゃない。俺はそこから一歩進んで、実は曳間は、その場合のことも充分に考えてたんじゃないかと疑った。いや、最初から曳間の頭のなかにあったのは後の方の推理だけで、あいつはそれを確かめるために、わざわざもう一方の推理をみんなに喋ってみせたんだ。布瀬が彼の推理を否定した時点で、いよいよ後の方の推理の正しさを確信したに違いない。考えれば考えるほど、それは確信になっていった。

「はっきり言っちまおう。曳間がなぜ、さっきのような推理を頭に描いていたにも拘らず、誰にもその内容を公言しなかったのか。それは、彼が自分の推理に基いて行なおうとした行動に支障を|来《きた》すからさ。ふふん。ではその行動とは、一体何だったのか」

 根戸は|鞭《むち》を振り挙げるかのように、激しく言葉を|截《たちき》った。しかし、その答は根戸の口からは洩らされず、鞭は今まさに撲ち据えられようとしたまま、宙空にぴたりと凍りついた。|蕭々《しょうしょう》と流れていた膚寒い大気が突如として息を殺したような、しんとした瞬間だった。

「……君は、曳問が……」

「そう」

 やっと羽仁が絞り出すような声で呟くと、根戸は思いがけず力のない返事を寄こした。

 長い沈黙があった。|遡《さかのぼ》るように流れる時間。四人はそのなかで、待つことさえも忘れてしまったようだった。そしてそれが、再び眼の前でわらわらと収束しかかった時、

「僕が真沼の復讐を果たそうとしている――という訳だね」

 曳間の口から、ぽつりとそんな言葉が洩れた。

 曳間の部屋は、あの事件の起こった時から少しも変わっていない。根戸の推理によれば、倉野を殺害したのは曳間であり、彼は自らの解釈に従って今も本人がそう語った通り、真沼の復讐を果たすために、最初の殺人に荷担した者を次々と闇に葬ろうとしていることになる。杏子は別にして、残された者はあと、布瀬と、それに根戸の言うところの謎の人物X。その点で根戸は、先に曳間の部屋を訪れている筈の布瀬の身を心配していたのだが、四人が曳間の部屋に到着した時には、布瀬は何故か怯えたような表情で彼らの方を振り返りはしたものの、ともあれ無事なままだった。

 何も変わっていない。羽仁は確かにそう思った。例の風鈴も部屋のなかの同じ位置に吊されたままで、開け放たれた窓からの微風に、時折り清冽な音色を|奏《かな》でていた。

 それは既に凶兆ではない。|妖氛《ようふん》ではない。

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