「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.11
「どうなんだ。曳問」
根戸は拳に力をこめて詰め寄った。再び、微かに風鈴が鳴る。羽仁がそっと眼をあげると、窓際に腰を降ろしている曳問は、あわあわしい光の移ろいを見せている薄手のカーテンを肩や背に纏わりつかせながら、|揺蕩《たゆた》うほどの微笑みを浮かべていた。
「何の根拠もない。……まさに君の言った通りだね」
「つまり、否定するんだな」
根戸は声を落とした。囁くようではあったが、硬い声だった。
「そりゃあそうさ。そんなにあっさりと自分の罪を認めてしまう殺人者なんて、いる筈ないもの」
ナイルズが冗談めかして言ったが、心なしかその言葉は顫えているようだった。その隣に坐っているホランドは、|猛禽《もうきん》のような眸だけは動かしながら、じっと皆の応答を観察している。その向こうで布瀬は、依然故知れぬ恐怖に脅かされているとでもいったふうに、静脈が透けるほど蒼褪めていた。いつもの布瀬には似つかわしくないことだった。
――僕らが来る前に、何かあったんだろうか。
羽仁は胸の奥に冷たいものが落下してゆくのを感じていた。
布瀬は曳間が倉野を殺したことを知ったのだろうか。そうして、次に殺されるのは自分ではないかという怯えに苦しめられているのだろうか。
そんな疑惑が暗雲のように湧き起ってきた時、曳問が深く息を吸いこむそぶりを見せて、口を開いた。
「それじゃ、僕にもひとつの推理を、少し喋らせて貰えないかな。根戸くらいの推理なら、僕にだってでっちあげられるという見本を示しておきたいんだ。――いや、つまり、僕の推理にも全く根拠がないという意味なんだけど」
そう言って、眉間を指の先でこつこつと叩くと、
「……さて、最初に、僕の発想の契機となったある事実を提示しておくよ。これは、この間来た刑事から聞き出したことなんだけど、みんな知ってるのかな。つい何日か前、倉野の殺害の犯行時刻に関する新しい証人が現われたそうだ。それは刑事の話によれば、甲斐のあのアパートの近くに住む受験生で、彼は専ら夜中を勉強時間に宛てていた。そして彼の部屋の窓からは、甲斐の部屋の窓がよく見えた。その彼が主張してやまないことには、甲斐の部屋の灯が消えた時刻は二時半頃で、あとは五時過ぎまでずっとそのままだったというんだ。……これは変だね。事件当日に僕のこの部屋に来てた者のうちに犯人がいたとすれば、犯行時刻は三時二十分から五時までの間の筈で、二時半頃には全員にアリバイがあるというのが羽仁の指摘だった。そうすると、犯人はここに集まった者のなかにはいなかったことになってしまう。……現実問題としては、その方がいいに決まってるよ。だけど僕は、そんな筈はない[#「そんな筈はない」に傍点]と、そう思ったんだ。
「とすれば、羽仁の指摘はやはり間違っていたんだろうか。彼の推理によると、根戸がまず時計を見た時に長針と短針をあべこべに読んでしまい、影山がそれにつられて同じ過ちを犯したという径路を踏んで、実際の時刻の二時二十分が四時十分という誤った時刻として証言されることになった訳だ。しかし犯行時刻が二時半頃だとなると、やはり影山達の証言通り、四時十分の方が正しいのではないかという疑問が起こってくるだろう。いや、むしろ、二時半というのは犯人が総てをなし終えた時刻と考えるべきだね。あはは、まさか真暗闇のなかで、殺人と密室構成という作業をやってのけたなんてことは考えられないものね。で僕は、羽仁の指摘のどこがおかしいか、考えてみた……」
曳間がそこまで語った時、羽仁は躯を|仰反《のけぞ》らすように、
「今度は僕の番か。何とも辛い話だなあ。しかし、そんな証人が出てきたとは知らなかったよ。それさえもっと早く聞いてたら……。だけど」
そう言葉を続けようとした時、
「いや待ってくれ。君の言いたいことは判るんだ。それなら、時計の針が戻っていたことをどう説明するのかと言うんだろう。しかしそれは後まわしにしておいて、まず君の指摘はどこが間違っていたのか、それから話を進めなきゃ。うん。現に見過しはあったんだよ。そしてそれは簡単なものだった」
曳間は早口に|捲《ま》くしたて、そこで少し間を置いた。
「根戸が、あの時計の長針と短針とをあべこべにして時刻を読んだ。――それはいいよ。それは充分にあり得ることだ。寝呆けていた状態では無理ないことかも知れない。しかし、その次の、影山が根戸の言葉につられて同じ取り違えをやらかしてしまったという解釈。――これは駄目なんだ。殆ど絶対に、駄目なんだよ」
「どうして……」
しかしそれは、全くと言っていいほど声にはならなかった。
「もしも影山が、あたり前にあの時計を見たのなら、そういうことが起こったかも知れないよ。根戸の言葉が先入観となって、時刻を見誤る。しかし、影山は鏡を通して時計を見た[#「影山は鏡を通して時計を見た」に傍点]んだ。まず鏡に写った時計の時刻を七時五十分と認め、次にその像を頭のなかで左右逆に反転して、そうして初めてそれを四時十分と確認する訳なんだよ。どうだい。そんな過程を踏む認識に[#「過程を踏む認識に」に傍点]、果たして他の者の言葉による先入観が働く余地があるだろうか[#「果たして他の者の言葉による先入観が働く余地があるだろうか」に傍点]。……そうなんだ。鏡を通して時計を見たというたったそれだけのことで、その可能性は全く排除されてしまうんだよ。この上になお、影山の証言が間違いだと言うのなら、それは全く純粋に、ふたつの偶然が重なってしまったのだと主張することにほかならない。それがいかに無理な考え方かは、納得して貰えると思うんだけど。そう。なんだ。さっき、殆ど絶対に駄目だと言ったのは、こういう訳なんだよ」
羽仁は天を仰いだ。曳間の指摘は全く正しかった。
「それでは先程の疑問にたち返るよ。なぜ時計の針が戻ったか。……ここまで来れば、もうくどくどしく説明するまでもないね。犯人は、実際の犯行時刻である二時半頃には、僕のこの部屋に居たというアリバイを作りたかったんだよ。恐らくその時点では犯人は、推定死亡時刻が二時から五時までなどと幅のあるものになるとは思わなかっただろう。だから、犯人がそうするには充分な心理的必然性があった訳だ。しかも、その小細工は、羽仁のような解釈を下す者が現われることを期待した上でのもの[#「羽仁のような解釈を下す者が現われることを期待した上でのもの」に傍点]だった点に、彼の|狡猾《こうかつ》さが窺われるじゃないか。……うん。全く頭が斬れる。……しかしまた同時に、それは犯人にとっての命取りだったんだ。
「いいかい。僕は心理学を専攻している関係から、催眠術も少しばかりは習ってるんだよ。で、僕はあの後、ある疑問を確かめるために、自分自身に催眠術をかけてみたんだ。つまり、自己催眠をだね。そうして僕は、僕自身忘れてしまっている――想起できないでいる記憶を蘇らせようとしたんだよ。……ねえ、ナイルズ」
思いがけない呼びかけに、ナイルズはぴくりと躯を揺すらせた。
「あの晩、君があの時計の|螺子《ねじ》を巻いた時ね、時刻を合わせる以前は何時何分で止まっていたか、憶えていないかな」
曳間は不思議な、夢見るような抑揚で問いかけた。それは、彼がなぜ誰からともなく『黒魔術師』と呼ばれるようになったかという、その理由の一端を垣間見せたような瞬間だった。
「さあ。――どうも……憶えてないなあ……」
|躓《つまず》くように答えるナイルズは布瀬と同じくらいに蒼褪めている。根戸は困惑したように頭を掻きながら、そのナイルズと布瀬を見較べた。言葉にならない言葉が見えない火花を散らしているふうだった。
「ふむ。それは残念だね。……ところで僕は、自己催眠によって、それを想い出すことができたんだよ。不思議だねえ。……それは四時十分だったんだ。あの旧い八角時計は、あの夜が訪れる前から、ずっと四時十分を指したまま止まっていたんだよ」
「馬鹿な!」
最初は曳間の言葉の意味が判らずにぽかんとしていた根戸が、いきなり苛ら立ちを支えきれなくなったように大声を挙げた。
「馬鹿な……? うん。そうだね。そうかも知れない。考えてみれば、この上なく馬鹿馬鹿しいことかも知れないよ。だけど、それが事実なんだ」
曳問は静かに言って、根戸の視線を受け止めた。
「しかも僕は、さらに馬鹿馬鹿しい話を続けなければならないんだよ。……つまり、この間ホランドから伝え聞いたところの、影山が掲げた奇妙な設問――なぜ風もないのに風鈴が鳴っていたのか――の謎解きをしなくてはならないんだ」
「謎解きって……。あれは影山さんの幻覚でしょ。根戸さんだって、寝呆けてたんだもの」
ナイルズはようやく力を振り搾るようにそう言ったが、根戸は黙ったまま躯を揺すり、ちらりと今も鳴り続けている風鈴の方を|※[#「目偏+瓜」、Unicode:U+773D]《ぬすみみ》た。しかし、曳間は猫背気味の姿勢を崩さずに、
「うん。そこが面白いところなんだよ。君は寝呆けていた。……そうして君は、時計の針が四時十分を指していたことと、この隣の部屋には僕とナイルズと雛ちゃんの三人が確かに居たことを証言した。そしてそれ以外のことに関してはまるで責任を負えないという」
「それがどうした」
「いや、それだけのことさ。……そうして風鈴の問題に戻れば、やはりあれは影山が眼醒めた時にも鳴ってたんだと、僕は思う。それでは、なぜ風鈴は風もないのに鳴っていたのか。――あはは、不気味な設問だね。ひとりでに鳴る風鈴。恐らくこの問いは、こうした言葉で問いかけられる限り、永遠に解かれることはないだろう。だけど実は、この問いかけには少しおかしい[#「おかしい」に傍点]処がある。それは影山自身が巧まずして付与してしまったところの不可能趣味。それによって歪められたおかしさ[#「おかしさ」に傍点]なんだ。本当は、この質問はこう言い換えられなければならない。つまり、風鈴が鳴っていたからには風が吹いていた筈である。では、その風は何によるものだったのか、とね。うん。こう言い換えると、問題は随分単純になる」
「あッ」
曳問の言葉が終わるか終わらないうちに、羽仁は電撃でも受けたような叫びを洩らした。その指が、ピンと真直に伸びた。
「扇風機!」
根戸の顔色からも血の気が失せていった。
「うん、その通り。扇風機はあの時計と同じく、僕の寝ていた部屋の方にあったんだけど、影山が眼醒めた時、それがつけたままになっていた――らしいんだね。風鈴はそのために鳴っていたんだ。そして同時に、いいかい、ここが肝腎なところなんだけど――その風は[#「その風は」に傍点]、誰も予想しなかったある事態までをも惹き起こしてしまった[#「誰も予想しなかったある事態までをも惹き起こしてしまった」に傍点]。風は、風鈴を鳴らしただけじゃない。〝あるもの_にもその作用を及ぼしてしまったのさ。考えてみれば馬鹿馬鹿しいことだよ。その〝あるもの_とは、影山の見た鏡[#「影山の見た鏡」に傍点]だった……」
「――だけど梢を顫わせて」
ホランドがぽつりと呟いた。羽仁はなぜか、怯えるようにそちらを振り返った。
「――風は通り過ぎてゆく」
曳間は、しかし、その声が耳にはいらないかのように、熱っぽい口調で話を続けた。それから後は、まるでほかの者が言葉をさし挿むのを拒んでいるようだった。
「はっきり言ってしまうよ。影山が眼醒めた時には、あの時計は止まってたんだ。影山が鏡を通して振り子が揺れていたのを目撃したというのは、それは振り子が揺れていたからではない。揺れていたのは[#「揺れていたのは」に傍点]、実は鏡の方だった[#「実は鏡の方だった」に傍点]んだよ。時計は止まっていた。そしてそれは、四時十分を指していた。いいかい。それはこんな具合なんだ。
「犯人はあの晩、皆が寝鎮まるのを待ってこの部屋を抜け出し、日本橋の甲斐のアパートまで車をすっ飛ばした。そしてそこで倉野を殺害する。その時の経緯は、この前羽仁が推理をしてみせた通りだろう。総てをなし終えたのが二時半頃。彼は取って返して、大急ぎでこの部屋に戻って来る。もと居た場所にそっと横たわると、安堵の溜息を洩らす訳だね。それが恐らく、三時半頃かな。
「それからどのくらいたったかは判らない。彼は人を|殺《あや》めたという昂ま奮のせいで、ずっと眠ることができないでいた。さて、そんな時に影山が悪夢に|魘《うな》されて眼を醒ます。続いて根戸が寝呆けたまま起きあがる。そこで彼は、自分が部屋を抜け出していた時に眼を醒まされなくて倖いだったと胸を撫でおろしつつ、狸寝入りを続けながらふたりの|会話《やりとり》に耳を傾けた。
「彼はふたりともまた眠りに戻った後で、こう考えた。『はてさて、ふたりはこの止まった時計を見て、今が四時十分だと思いこんだようだ。これはあまり面白くない。どうせなら二時半頃だと思いこんでくれれば、こちとらにとってのアリバイにもなるんだが』と、そんなことを思いながら怨めしく時計の文字盤を眺めていると、突如として彼の脳裡に素晴しい考えが閃いた。四時十分の長針と短針を入れ換えると、二時二十分になってしまう。……うん。彼はそこで思い留まっていればよかったんだよ。しかし、その興味深い発見は彼を執着させずにはおかなかった。彼はその食指を動かす偶然[#「食指を動かす偶然」に傍点]を黙って見逃がすには、あまりに遊戯的人間であり過ぎたんだよ。その結果、彼はその発想を現実のものとする決意を固めた。そしてそのためには、時計が動いていたことにしなければならない……」
「曳間。それは」
根戸は短い髪の毛を掻き※[#「手偏+少+毛」、第4水準2-78-12]りながら、ナイルズの顔を覗きこんだ。ナイルズは無惨なくらいに蒼褪め、|間歇《かんけつ》的
に、殆ど眼に止まらないほど肩を顫わせていた。
誰かが、根戸の中途半端な言葉の後を続けようとした。が、そこで曳間は再び口を開いた。先程までの熱っぽい口調は既にどこかになりをひそめてしまっていて、依然柔らかな光の移ろいを見せながら|靡《なび》いているカーテンと共に、その声は不思議な明るさに充ちていた。
「と、まあ、こんな推理を述べ立ててはみたけど、やっぱりこれにも根拠はない。……だけど、根戸の推理ヘの反論にはなってるんじゃないかな。……いや、やっぱりなってはいないか。まあ、それはどうでもいいとして、こういった類いの推理ならいくらでも――」
その言葉が不意に遠のいた。明るい初秋の日差しに浮かびあがった部屋が、その時一斉に|毳《けば》立ち、ざわざわと編隊を組み直すように|蠢《うごめ》き始める。自身の内と外とがたった一枚の薄い膜だけによって遮られ、細切れにされた針のような光がその両方を埋めつくそうっと、噴水の如く次から次へと吹きあげてくるなかで、最早内と外とは見分けもつかなかった。羽仁は、来た、と思った。
湧き立った泡の群が、忽ち|罅《は》ぜ割れて消えてゆくような喧噪があったようでもあり、総ては|森閑《しんかん》としたなかで押し進められてゆくような気もした。羽仁は叫ぼうとしたが、それは|豊饒《ほうじょう》な闇の底に嚥み下されて、声になったものかどうか判らなかった。
倉野。――そうして|悉《ことごと》くの想い、溜息、呟き、眼差しは、ひとつ残らず深い虚無の中へと運び去られてしまうのだろう。腕を差し伸べても手応えさえない。何もかも遅すぎるのだ。そう。僕達は常に、手遅れのなかにいる。
「大丈夫だ。軽い」
誰に向かって呟いたのか判らない。何を喋ったのかさえ、そうだった。総てのあり得るもの、あり得ないものが、羽仁の理解を拒絶している。そうして彼は、ただ|渺茫《びょうぼう》たる不可知の海だけが眼の前に横たわっているのを感じていた。
海は、数限りない泣き声に充ちているようにも思われた。
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* *
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その日は結局、空中分解の様相を呈したままの散会となった。不思議なことに、曳間が刑事から聞いたという目撃者の存在は、その後幾日たっても報道機関の手によって明らかにされず、そしてまた、真沼も影山も、ついにその姿を彼らの前に現わすことはなかった。
それでも現実は、何ひとつ変わっていないのかも知れない。ただ|徒《いたず》らに時の流れは|潮騒《しおさい》を|轟《とどろ》かせ、そうしてそのただなかで、彼らは本当の解決というものがつけられるとするならば、それはここならぬ架空の側に任せなければならないことを悟っていた。現実と架空の関係式は、常にそういうものでしかないのだろう。果てしなく展がる不可知の海の前で、彼らにはただ、待つことだけが|赦《ゆる》された行為なのかも知れなかった。
|碧《あお》い、さかしまの海のようでもあった。
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五章
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1 降三世の秘法
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――何ひとつ変わっていないって? 冗談じゃない。
全くものの見事に変わってしまったじゃないか。
それが根戸の偽らざる感想だった。その想いはほかの者にとっても同様だろう。部屋は透明な疑惑と不審に充たされて、ただ彼らには不可知の海という心象風景だけがやけになまなましく眼に焼きついていたが、この『白い部屋』もまた、波頭を砕かせ、牙を剥きながら荒れ狂うそれにすっぽりと呑みこまれてしまっているに違いない。光は刃の閃きのように乱反射し、殆ど眼障りなほどだったが、それもこの日までの雪崩落ちる瀑布の如き時間がら舞いあげた、ひと時の|靄《もや》のように思えてならなかった。
「開かずのアトリエか……。いや、参ったね。面白半分に、壁にただ扉の大きさの合板とノブを取りつけただけの、あの見せかけの扉がこんなふうに利用されるとは。無理矢理ぶち破ってでもはいれば、そのまま隣の住人の部屋へつき抜けちまうよ。しかもそこで怪しげな絵を描いてるなんてね。……で、これで架空の部分は終わりなのか」
甲斐が片膝を抱えながら尋ねると、ナイルズはやっと焦点をこちらの世界に戻したというように、
「そう」
と短く答えた。かつての屈託のない微笑みも今はまるで姿をひそめてしまっている。あるいは彼らのなかでいちばん変わってしまったのは、このナイルズなのかも知れない。なぜなら七月三十一日の推理較べの会合の最中に、もうひとりの自分といってもいい双子の片割れ――否、三つ子のうちのふたりまでも――を奪われてしまったナイルズは、その日以降、無邪気な|朗《ほが》らかさというものを決して見せることはなかったのだから。
彼らはその当時の光景を、今でもありありと脳裡に描くことができる。ナイルズは涙で乱れた顔を挙げて、こう宣言したのだった。今まではいろんな思惑を籠めて小説を書いていた。でもこれからは復讐のためにだけ小説を書く。ホランドを殺した者に復讐するためにだけ、あの『いかにして密室はつくられたか』を書き続けるのだ、と。
そしてその苛酷な決意はナイルズのうちで陰鬱な葉を茂らせ、凶悪な花を開き、今ようやくにして畸型な果実を結んだのだろう。羽仁が朗読し終えたそのぶ厚い原稿用紙の束は、白い大理石の円卓の上に乗せられて、ひとしきり民衆達に論説を繰り述べていた殉教者が今はもう既に深い冥想に沈んでいるといったふうに、堅牢な沈黙をその場に保っていた。
八月二十五日。
ホランドの死から、既に一ヵ月近くの日びが過ぎていた。
羽仁のその部屋は、|悉《ことごと》くものが白く塗り籠められていて、それは事務机や革貼りの肘掛け椅子や大理石の円卓は勿論のこと、本箱代わりに使っている薬品棚、ステレオ、ベッド、エアー·コンディショナーからこまごまとした電話機ブックエンド、レコードラック、眼醒まし時計の類いに至るまで徹底されており、その上に白磁の花瓶には鮮やかな純白の百日草が|活《い》けられているという具合だった。
神経質というよりはむしろ厳格といっていいその〈白〉への固執ぶりは、しかしまだその対象がひとつの〈もの〉でないだけ救われているのだろう。あるいはそう考えることが既に、色彩の投げかける罠に|嵌《は》まりこんでしまっているのかも知れないが、そこまで歩を譲ったとしても、少なくとも布瀬や甲斐の兄のように、黒や黄色でないだけましとは言えるだろう。
「でも……」
その部屋に集まった六人のうち、ふとそんな言葉を洩らしたのは甲斐だったが、ナイルズもその疑問は予想していたらしく、脣の端を少しつりあげてみせると、万事承知だとでもいうふうに頷いた。
「一体何だ、この小説は、って言いたそうな顔だね。あんなことを言っておきながら、結局現実の事件には何も触れずに、ただフィクションの部分だけの思索に終始しているのはどういう訳だ――とね。そうでしょう」
すると根戸も少しいきり立ったように、
「だって、それがあたり前だろ。これじゃ全く、小説のための小説にしかなってないじゃないか。ただ、現実を架空の世界にすり換えることによって、この小説のなかに密封してしまいたいっていう、悲願めいた心情は理解できるけど、しかしそれにしたって、これじゃまるっきりの逃避だよ」
「解釈はみんなに任せるさ、僕はただ、書きたいことを書いただけなんだ。ほかに、何も言うべきことはないよ」
根戸の浴びせかけた言葉に対して、ナイルズは間髪をいれず切り返していた。|凜《りん》とした、厳しい口調だった。
正面に向かいあっていた根戸と甲斐は、少なからずたじろいだような表情を見せたが、表情にあらわれないまでも、その戸惑いは倉野や羽仁にとっても同じだったに違いない。その声は白く冷たい壁にきん[#「きん」に傍点]と反響したように思われたが、しばらくして根戸は、ナイルズに向かっては初めて投げかけるその言葉を、苦い笑みを浮かべて呟いた。
「ほんとに変わったなあ……。ナイルズ」
そしてその言葉にぴくりと躯を揺すらせたのは、奇妙なことにナイルズではなく、そう呟いた当の本人である根戸だった。
「そうか。……ふむ」
根戸の瞳が急にいきいきと輝きを帯びだした。いかなる扉を開いたものか、たった数瞬前に見せた痛々しげな表情は、がらりと喜悦を噛み殺すそれに一変して、
「愉快な暗合だな」
そう訳の判らないことを呟くと、今度は鼻と口を掌で蔽うようにして、ひとり夢想の糸を辿り始めたらしく、しばらく口を開く様子を見せなかった。
「おやおや、根戸ホームズ。またぞろひとり合点の思索に|耽《ふけ》り始めたのかね」
例によって皮肉屋の布瀬がそんな|軽口《かるくち》を飛ばしたが、既に根戸からは何の反応も返ってはこない。その気配をいち迅く察した羽仁は、
「だけど面白いね。今度は倉野が殺害され、甲斐が事故死し、影山が行方不明になってしまった訳だね。なかなか豪華絢爛な趣向じゃない。……真沼があれ以来姿を見せないことを考え合わせるなら、この小説に描かれたエピソードは何らかの形で着々と実現されていることになるよ。曳間が殺され、真沼が蒸発し、雛ちゃんの御両親が事故で亡くなる……。ねえ。そうなると、今度は倉野と甲斐と影山あたり、寿命の秒読みにはいってしまったという曇見悟を決めておいた方がいいんじゃないかな」
「おい。|嚇《おど》かすなよ」
甲斐は青いビーチ·シャツの胸のあたりを撫で擦りながら眼を|剥《む》いた。
「こちとら、さんざん小説のなかで醸躾扱いされてて、ようやくそれも終わりになるのかと、内心ほっとしてたところなんだ。この上、ぽっくりあの世に行っちまうなんて、冗談じゃない。俺はまだまだこの世に未練があるんだよ」
「そうは言っても」
とう口を|挿《はらさ》んだのは倉野で、
「考えてみれば、ナイルズがこの四章に描いた事柄のうちで、既に実際に起ころうとしているものもあるじゃないか。杏子さんと雛ちゃんが東京を離れて、青森に引き籠もってしまうという……」
それはほかの者が無意識に避けようとしていた話題だった。甲斐などは憐れなほどその動揺を|露《あら》わにして、
「だけど、あれは……。勿論、ふたりが向こうに移ることになった後で書いたんだろ」
慌ててナイルズに尋ねかけたが、相手はふた呼吸ほどの間、ぴくりとも表情を動かさず脣を結んでいた。それがふと緩やかな瞬きと共に、微かな諦めめいた|翳《かげ》りを含むと、
「信じるか否か、の問題だね」
そう呟いて、ぶ厚い原稿用紙の束を整えると、椅子の傍にもたせかけてあった珈琲色のバッグにしまい始めた。
甲斐は頭を抱えこみ、
「ああ、そうすると俺の寿命の蝋燭も、いよいよまさに燃えつきんとしている訳か。いかんなあ」
すると布瀬が|鷹揚《おうよう》に反り返りながら、
「ふむ。|勿体《もったい》ぶった言いまわしや暗喩ばかり並べ立てておけば、後からどうとでも解釈をこじつけられるではないかね」
「あはは。しかし布瀬。そう言ってしまえば、ノストラダムスの四行詩であれヨハネの黙示録であれ、同じことじゃないか。お前の好きな黒魔術や錬金術などというものは、まさにその宝庫だろう」
そうやり返したのは倉野だった。
布瀬はむっとした顔になると、それでも小さく、ふふん、と鼻息を洩らして、ちらりとナイルズに|一暼《いちべつ》をくれた。
「まあ、それほどのものであってくれればよいのだがね」
「布瀬さん」
原稿の束を|了《しま》い終えたナイルズは思いがけずそう口を開いて、
「勿体ぶった言いまわしや暗喩が多いって言ったけど、あれには気がついているのかなあ。……|記憶錯誤《パラムネジー》と催眠術に関して」
と、謎のようなことを問いかけた。
「ホホウ。これはまた|逆手《さかて》を取ってきたな。ふむ。一体それは何の暗号かね」
「あはっ、それじゃあ何の解答にもなっていないじゃない。質問しているのは僕の方なんだからさ」
「ふうむ。そのふたつの言葉の意味かね」
「そうだよ」
ナイルズの脣に|嗜虐《しぎゃく》的な色が立ちのぼった。しかし、布瀬もそれに臆することなく、|気障《きざ》な髭を指で撫でつけながら、薄い脣に|嘲《あざけ》るような笑みを|湛《たた》えた。
「あっは。それは恐らく、|聖四文字《テトララグラマトン》と|木綿和布《ゆうわふ》ほどの意味だろうよ」
「何だって」
色を変えたのはナイルズの方だった。
「おいおい。そりゃあ一体、何の謎かけだよ。今は暗喩学か象徴学のお時間かね。いやはや」
たまらずに言葉を割りこませた甲斐に重ねるようにして羽仁も、
「ともあれ、僕達がそれを読み終わった時点から、『いかにして密室はつくられたか』の五章は始まったことになるんだろ。布瀬もあまり妙なことを言わない方がいいよ。ここに至ってナイルズは既に、現実さえも自由自在に操作できる立場にあるんだからね」
「ホホウ。現実さえも? 架空の出来事だけでなくて、かね」
「そうだよ。勿論、総てが終わった後に、ナイルズがそれを小説に書くとしてだけど。うん。僕にはだんだん判ってきたような気がするんだ。ナイルズの小説の、二章、三章、四章の冒頭は、総て僕達がナイルズの小説のそれまでの章を読み終えたという描写で始まっているだろう。もしかして、ナイルズの小説のトリックはそこにあるのかも知れないんだ。あのなかの言葉で言えば、四章の初めで使われていた〈図地現象〉ね。あれを逆利用したトリックだよ。僕は今思ってるんだけど、この小説はひょっとして、ナイルズにとっての巨大な実験場じゃないのかな……」
羽仁はそこでちょっと口籠もったが、布瀬は飽くまで笑いとばすような勢いで、
「あっは。実験場ね。とすると、そのサイクロトロンだかプラズマ発生器だかから飛び出すものは、ボムンクルスならぬ、曳間やホランドであってもいい筈だぜ。どうかね、死んだ曳問やホランドを、架空の部分だけでなく、この現実の世界にも蘇らせることはできるかな。それができれば、曳問に冠した『黒魔術師』の称号を、ナイルズに継承して貰っても異議はないのだがね」
そう言い放って、軅を大きく|背凭《せもた》れにのしかかちせたが、羽仁は相変わらず沈黙を守ったままのナイルズの横顔を瞰めながら、
「いや、それだって実際に不可能じゃないかも知れないよ」
「何だって。……イヤこれは驚いた。いつお前さんも、『いかにして密室はつくられたか』教に入信したのかね」
「馬鹿な……」
不意に日が翳ったようだった。〈睨み眼〉を持った魔女が白い壁をすり抜けて現われたような瞬間だった。羽仁は不意の当惑を覚えた。言わばそれは〝自分自身が当惑していること_に当惑しているような瞬間でもあった。大きなフランス窓からは、|鉤《かぎ》型に突き出した隣の棟の|破風《はふ》が連なって見え、その向こうに梢を弓なりに傾けている木ぎが密生している。風が出てきたらしかった。
「東京じゃないみたいだな」
甲斐が呟いた。
「森が動いているように見える」
濃い緑の葉を茂らせた木ぎの群は、音もなく揺らぎ、はためき、波のように身を|捩《よじ》らせていた。
「あの風鈴は、小説では曳間が預っていたことになってたけど、まだ根戸が持っているんだろ。その後、何か判ったのか。小説に書かれていた解説は正しいのかい」
「ああ、あの通りだよ。あれは密教で使われる、|阿悶《あしゅく》如来の忿怒身である|降三世《ごうさんぜ》の真言だ」
答える根戸も、窓の外を眺めたままだった。
「しかもあれは、調伏、白状、除病などに使われる別真言なんだ。一体、密教における最高位の仏は大日如来といって、その東方には阿閥如来、南方には宝生如来、西方には阿弥陀如来、北方には不空成就如来がそれぞれ位置して、これを金剛界五仏と呼ぶんだけど、その五人の如来は、それぞれにまた三つの姿を持ってるんだ。それはつまり、如来としての姿、菩薩としての姿、そして明王としての姿だね。菩薩に成り変わる場合にはそれぞれ、般若菩薩、金剛|薩※[#「土+垂」、第3水準1-15-51]《さった》、金剛蔵王菩薩、文殊菩薩、金剛牙菩薩と呼ばれ、そして明王に変身すると、不動尊、降三世、|軍荼利《ぐんだり》、大威徳、金剛夜叉になる。明王にはほかにもいろいろあるんだが、この五人の明王が最も重要な位置を占めるので、総称して五大明王と呼ばれるんだ。
「降三世というのは|蘇婆爾《そばに》を訳した名称で、三世の三毒、即ち|貪瞋痴《とんじんち》を|降《くだ》すというところからつけられたものだ。三面八|臂《び》で火焔髪を逆立て、通身青黒く、面上三目にして利牙を露わすその表情は、極忿怒相の物凄いもので、しかもこの明王は多く、足下に二人の男女を踏みつけている図で描かれる。それはこんな具合だよ。『左足にて大自在天を|躡《ふ》みて地に倒し、|定《じょう》を彼の|頂《いただき》に按じ、右足にて彼の王妃|烏摩《うま》の乳房の上を踏む』……とね。イヤ全く恐ろしい図さ。一説によれば、この降三世はもともと、|印度《ヒンズー》教の主神である|湿婆《シヴァ》神の変化身だと言われてるんだけど、インドの神はよく魔物を踏みつけにしている像として|肖《かたど》られているから、それはこの名残りと考えられる」
急に饒舌になった根戸の話を聞きながら、羽仁は感心したように口を|窄《すぼ》めて、
「へえ。それはまた凄い鬼神なんだねえ。だけど一体、踏みつけにされている男と女ってのは何をしたって言うんだい」
「密教の方での説明では、この大自在天と鳥摩后というのは、それぞれ煩悩障と所智障を|譬《たと》えたものと解されている。いずれも人びとが|湟槃《ねはん》の境地に至るのを妨げる障碍となるものでね、煩悩障というのは種々雑多な妄念を指し、これは男性に譬えて強く踏み、所智障というのは正しい教えを理解できないという無知を指し、これは女性に譬えて軽く踏むという訳だ。それに、大自在天というのは自ら三界、つまり欲界、色界、無色界の主であると|称《たた》えたとあるから、かなり傲慢者だったらしいな」
「ふうん。しかし、それにしても少し可哀そうだね」
「ふふ。お前らしいや」
根戸は額に掌をやって笑いを噛み殺した。
「何せ、降三世の修法というのは極めて強力なもので、別真言を唱える時には、三千大千世界が六種に震動し、あらゆる天魔鬼物も恐怖せざることなく、各々走りて明王の下に至り、|愍念《びんねん》を乞うといわれるくらいだからな。……人を|呪咀《じゅそ》して殺す場合、三角の調伏壇を造り、南を向いて|蹲踞《そんきょ》し、右の足で左の足を踏みながら真言を唱えなければならない。黒月、つまり月の下十五日の、火曜宿にあたる日の夜半に行なうのが最もよく、ほかにも塗香は柏木、焼香は安悉香、灯油は|芥子《けし》などという細かい決まりがある。炉のなかに相手を模した人形とその名を置き、大声で、
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|庵《おん》、|蘇《そ》|婆《ば》|倆《に》|蘇《そ》|婆《ば》|吽《うん》、|蘖《きゃ》|哩《り》|訶《か》|拏《だ》|吽《うん》、|蘖《きゃ》|哩《り》|訶《か》|拏《だ》|波耶《はや》|吽《うん》、
|阿那野《あなや》|斛《こく》|婆訶《はか》|梵《ぼん》|縛日羅《ぱさら》、|吽《うん》|※[#「さんずい+牛」、第3水準1-86-63]《はっ》|※[#「口偏+モ」、第3水準1-14-85]《た》
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これを百八遍誦え、砂で人形を打ち、これを焼けば、怨敵即ち血を吐いて死す、とね。……どうだ、なかなか凄じいものだろう」
「雛ちゃんが居たら大変だよ」
羽仁はそう言って苦笑を寄こした。
「つまりは、あの風鈴にはそれだけの血塗られた業が纏わり着いているということなんだね。……でも、そんな明王の姿やら呪文やらを風鈴仕立てにするような風習は昔からあったのかな」
「さあ、それが判らない。真言を紙に書いて躯に貼りつけたりするのは昔からあって、それから護符や呪符の類いが盛んになったことは確かだけど、風鈴仕立てにするというのはどうかな。やはり、あれを造った者の思いつきじゃないか」
根戸は腕を|拱《こまね》きながら羽仁の方を透かし見た。白いワイシャツにスラックスの羽仁は、その部屋のなかで、保護色を装った動物のようだった。
「でも、さっきの話だと、その呪文は調伏のためにだけ使われるんじゃないんだろう。……確か、白状というのもあったね。それは何だい」
「うん。そこなんだ」
根戸は大きく指を鳴らしながら、いきなり躯を跳ね起こした。そうして五人の顔をひと通り順に眺め渡してから、