饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.12

「実はあの風鈴を造った者の真意は、実はそちらにあったのかも知れないぜ。この白状というのは降三世明王三大秘法と呼ばれるもののひとつで、勿論修法によって人に問いたいことを自白させることを言うんだけど、ただこの秘法の場合には、それが特殊な内容になってくるんだな。ある、特別な内容に関する白状。――ふん、それは恐らく、ふたりの男女を踏みつけにしているその形像からの連想に違いないんだ。あるいはその前身であるシヴアというのが、破壊神であると共に生殖器神でもあるという点も、多少の関係はあるのかも知れないな。……あはあ、こう言えば判るか。それは姦通の白状なんだぜ」

 根戸の視線がナイルズの処でぴたりと止められた。しかしナイルズの方も、ぴくりとも表情を動かさぬまま、静かに根戸の視線らを受け止めている。そうして六人の視線はそのまま、吸いつけられたようにそこから動かなくなった。物狂おしい時間が尾を曳いて流れたが、それはほんの、四、五秒のことだったのかも知れなかった。

「それも、雛子女史が居たら大変だ」

 嘲るような、布瀬の声だった。

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2 闇のなかの対話

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「どうしたっていうんだよ」

 羽仁の声が微かに顫えた。

 |鎧戸《よろいど》から射しこんでくる光は既に|黄昏《たそがれ》の色を濃くしている。丸い大きな舵や羅針盤、無線機、風見鶏、水槽、蝶の標本箱に弦の切れたバイオリンといった類いが処狭しとばかりに取りとめのない羅列を見せ、その上一面に薄紅の縞模様が|匍《は》い寄っていた。しかし羽仁が眼をあげた時、根戸の上半身は薄暗がりに溶けこんでいて、その表情は読み取ることができなかった。

「ナイルズのことだ」

 根戸の手の先が、鎧戸からの歪んだ光のなかに突き出された。指の問には鋭い矢羽根が握られている。

 尖端のその輝きは、殺意にも似ていた。

 不意にそれが薄暗がりのなかに曳き戻された。羽仁は本能的に危険を感じ取ったが、その瞬間、鋭い輝きは恐ろしい勢いで左頬の傍を|掠《かす》め飛んだ。同時に背後で、|鋒《きっさき》が板につき刺さる高らかな音が響いた。

「あはあ、ダーツもうまいもんだろ」

「馬鹿。危ないじゃないか。手元が狂えば、立派な第三の殺人だぞ」

 羽仁は口を尖らせながら、そっと左頬に指をやった。縮みあがった心臓を拡げるために、二、三度呼吸を整えると、

「で、ナイルズがどうしたって」

「お前は気づいちゃいないのか」

 根戸の姿がゆらりと光のなかに進み出た。そのまま縞模様の下をくぐるように歩き続け、羽仁の脇を通り過ぎると、円盤の中心から矢羽根を再び引き抜いた。

「もう。危ないからやめてくれよ。ナントカに刃物なんだから」

 しかし根戸はそれには取りあわずに、雪白の矢羽根を|弄《もてあそ》びながら、

「今のナイルズは、誰かに似てるだろ」

 謎めいた言葉を呟くと、羽仁の方に上眼遣いの視線を送った。

「似てるって……?」

 羽仁は自分でも気づかないほど|僅《わず》かに首を傾げた。薄暮に染め変えられてゆく光のせいだけではない、何かもっとほかの、忍び寄るような、降り立つような気配のせいだった。上腕から背中にかけて、不思議な膚寒さが走ったようだった。

 しかしそれはやはり、鎧戸からの光線のせいだったのかも知れない。根戸は薄紅の光を全身に浴びて、躯じゅうに血を滲ませたように|竚《たたず》んでいる。

「判らないのか」

 外の風はいよいよ激しさを増しているのだろう。微かな|虎落笛《もがりぶえ》が、その部屋にまで届き始めたらしかった。根戸は少し笑って、次の言葉を宙から|抓《つま》み出すように囁いた。

「ホランドだよ」

 建物のどのあたりか、窓がガタガタと音をたてて鳴っている。

 ――ママの部屋の窓かな。

 羽仁はぼんやりとそんなことを考えていた。木ぎの梢が|撓《たわ》み、波打つように揺らいでいる様が、その場からありありと想像できた。もう何年も前に、彼が初めて登作を起こしたのもまた、そんな風の強い森のなかだった。

 深い緑のなかには、彼の母親もいた。彼は母親を迫いかけていた時、突然世界の色が変わるのを見たのだった。

 森は視界のなかでさかさまに倒れ、彼は空の底に落ちこもうとするのを必死に耐えていた。

 ――なぜこんなことを考えるんだろう。

 羽仁には判らなかった。全く必然性のない回想だった。

「俺が何を言おうとしてるのか、もう判ってるだろ」

 根戸の声が、そんな羽仁の思考を追いかけるように続いた。

「ナイルズは、実はホランドじゃないのか。……俺はそう考えてるんだ」

「つまり、推理較べの席上で殺されたのは、ホランドではなくてナイルズの方だったんじゃないかって、そう言うんだね」

「その通り」

 根戸は矢羽根を、ぽいと近くの机の上に抛り投げると、再び薄暗がりの向こうへと歩いていった。そうして部屋の奥にあった丸椅子に腰を降ろしながら、ほんの一、二時間前にナイルズの小説からヒントを得たと思われる推理を語り始めた。

 羽仁の両親がひと晩不在にしているこの屋敷で、ほかの四人も今はてんでに、ちょっとした博物館なみの部屋べやを回覧していることだろう。コレクションとして意識して蒐集しているものだけで、刀剣、甲冑、銃器、時計、陶磁器などがあり、そのほかにも脈絡なく集められた、家具や彫像、扇子、|筺《かご》、行灯、煙草盆、灰皿、パイプ、燭台、チェス、細密画、指環、コーヒー·ミル、スプLン、ワイングラス等々、大小取り混ぜて、その数は極めて|夥《おびただ》しいものがあった。

 なかでも羽仁の父親の自慢は、西洋の骨董的な楽器のコレクションだった。今ではもう使われなくなった楽器、今使われているものの原型である楽器がその殆どで、蛇のようにながいホルンだとか、バイオリンのような恰好で|奏《ひ》く手持ちオルガンだとか、大正琴そっくりの自動ハープシコードだとか、バロック楽器の貴重な珍品がずらりと陳列されてあるのは、確かになかなか圧巻な光景だった。

「ナイルズ……いや、ホランドの受け継いだ小説は、別に難しい比喩を使ってる訳じゃない。〝架空の部分での犯人が即ち現実の犯人である_。あの小説の原理は、ただそれだけのことだ。そう考えれば、これは最も簡単な等式じゃないか。あの小説での犯人がナイルズだったとすれば、こちらの側の犯人はナイルズを装っているホランドにほかならない。……な。布瀬のように、死んでしまった第三の人間を持ち出すまでもない。曳間を殺したのも、そしてそれに気づいたナイルズを殺したのも、全部ホランドの仕業だったのさ。

「俺達ゃひねくれて考え過ぎてたんだ。そもそも、曳問が殺された時、いちばんアリバイが不確かなのはホランドだったじゃないか。しかも、布瀬はナイルズかホランドの姿を近くで目撃している。あいつの場合、へたにホランド達が三つ子だったことに気づいたために、推理が妙なところに行っちまったけど、素直に考えりゃ、倉野のアパートに向かっていた白昼夢の正体はホランドじゃなかったのかと疑うのがあたり前だろ。念のために、ここでもう一度、全員のアリバイを検討しておいてもいい……。

「まず倉野と杏子さん。このふたりは十二時から十二時半までの間のアリバイは完璧だから問題はない。しかも杏子さんは三時から本郷の店で俺と逢ってたんだから尚更だ。次に布瀬だが、これも十一時半から三時十五分までのアリバイは、まず文句のつけようがない。この三人は、倉野が言った通り、最も確実なアリバイを持ってる訳だ。

「次に甲斐と真沼だが、午前中はずっと一緒にいて、十二時から十二時半は高田馬場をうろついてたんだったな。それからふたりは再び甲斐の処に帰り、二時には君もやって来たと。で、二時四十分頃に甲斐はナイルズに電話をかけに出、四十五分頃には真沼と君も外に出た。甲斐のところにナイルズが来たのが三時二十分。真沼も戻って来たのが四十分。……そうすると甲斐は勿論、一時問弱甲斐の部屋を空けていた真沼にしても、その間に日本橋から目白の間を往復することさえ難しいだろうから、倉野のアパートにひそんで靴に関する小細工を施すような芸当などできる筈がない。ついでにお前のことを言えば、十一時から一時半までは大学のチェス研に行ってたんだったな。三時十分頃の倉野のアパートの方にはぎりぎり問にあうとしても、やはり犯行当時のアリバイはある。

「雛ちゃんはどうだったかというと、こちらは確かなアリバイはないんだね。ただ、お手伝いさんの言葉を信用するなら十二時までは下目黒の家に居たことになるし、それから十二時半までの三十分の問に目白まで駆けつけることができるかどうかといえば、少し無理なような気がするね。どっちみち、曳間を殺すことなんて、雛ちゃんには到底できない相談だろう。

「影山は……。あはあ、あいつのことを架空の人物だと決めつけたのは今もって|汗顔《かんがん》の至りだな。全く、笑い話にもなりゃしない。まあとにかく、やはり大学の連中と十二時から三時までは一緒にいたのは確からしいから、これもアリバイあり。

「忘れないように俺自身に関しても言っとくけど、杏子さんからの電話で十二時十分から十五分までのアリバイはある訳だ。で、白山の俺のマンションから目白の倉野のアパートまでの距離を考えれば、その前後三十分くらいのアリバイも同時に成立する。しかも、一時十五分から二時三十五分まではホランドと一緒だったし、三時からは杏子さんと一緒だったんだぜ。

「さて、そうすると残ったのがナイルズとホランド、……どうだ。別段難しい推理が必要だった訳じゃない。むしろ俺達の陥ってた盲点は、実はそんなところにあったんだな。つまり、〈俺達の仲間うちのひとりが犯人だとすれば、そいつが起こした今度の事件は、さぞ入念な計画のもとに遂行された殺人に違いない〉という思いこみ[#「思いこみ」に傍点]――それによって、〈犯人は完璧に見えるアリバイを用意している〉という確信がつくられ、その結果、ナイルズとホランドを疑うことを無意識的に避けるような情況が生み出されてしまったんだ。しかし、その公式を総ての場合にあて嵌めるのはどうかね。もしも曳間を殺したのが本当に計画的犯行だったとすれば、犯人も練りに練ったアリバイを用意しただろうと考えることに、俺は異議をさし挿みはしないさ。けれど、あれが突発的に起こってしまった殺人だったとすればどうか。そういうことだって充分あり得る筈だろ。犯人すら自分がそこで殺人を犯すことを予期していない場合。そうなんだ。彼が計画犯罪的人間だからといって、彼の起こす犯罪が総て計画的なものであるとは限らない。そして曳間の事件の場合もまさにそれ――言わば、犯人にとっても不本意な殺人――だったに違いないんだ。

「ナイルズのアリバイは、十二時から十二時半までの犯行当時の方は殆どないと言っていい。が、三時十分頃のアリバイの方は、三時二十分に甲斐の部屋に着いたことによって立証されている。しかるにホランドの方はどうかというと、アリバイが確かなのは俺の部屋に来ていた、一時十五分から二時三十五分までの間だけなんだぜ。犯人が十二時頃から三時十分まで、ずっと倉野のアパートにひそんでいた証拠があるならともかく、肝腎な部分のホランドのアリバイはまるでないんだ」

「だけど、根戸」

 いつ果てるとも知れぬ論舌に|怺《こら》えきれなくなったように、羽仁はそこで手を挙げると、

「君は、今までの僕達の推理には素直さが欠けていたと言ったけど、ひょっとすると君の推理自体、まだまだひねくれて考える癖が抜けていないのかも知れないよ。だって、あの小説の原理が〈架空の部分の犯人=現実の犯人〉というものだとすれば、今ナイルズだと名乗っているのはやはり本物のナイルズにほかならなくって、架空の部分も現実の一連の事件も犯人はナイルズ、という方がより自然じゃないのかな」

「成程ね」

 気がつくと鎧戸からの日差しは既に、薄紅から海老茶がかった鼠、そうして暗い褐色へと沈みこんでゆこうとしていた。そんななかで根戸の表情は、眼が慣れたためもあるのだろう、却って|朧《おぼろ》げながらも羽仁の眼に読み取れるまでになっていた。

「しかし、曳間を殺したのはホランドでなきゃならないんだ」

 少し間を置いて、根戸はゆっくりと|反芻《はんすう》するように言いきった。

 風が強い唸りを伴って建物に吹きつけていた。その時不意に、建物のどこからとも知れず、重い、牽きずるような震動音が鳴り響いた。鐘の音だった。床や壁や|拱廊下《そでろうか》、階段の踊り場などといった処を駆け抜け、浸透するように響き渡ってくるそれは、低く押し殺した叫びのようにも思われた。

「あれは」

「この上の階にある、グランドファザー·クロックだよ」

「あの、馬鹿でかい時計か」

 根戸はしばし、その鐘の音に聞きいっていた。そうしてその牽きずるような余韻が、全くの静寂に消え去ってしまってから、ぽつりと、

「七時か」

 そう呟いた。

 しかし羽仁はそんなことなどどうでもいいといったふうに、

「どうして、曳間を殺したのがホランドでなくちゃならないんだよ」

「あはあ、それはあの小説にもちゃんと録されている。実に巧妙にカムフラージュされてはいたけど、ちゃんと提示されてたんだよ。……ふふん。それは一章の9節、『殺人者への荊冠』という小見出しのつけられた部分の最後あたり……。つまり七月十七日のアリバイ提出のための会合の最中に、倉野の主観を借りてこう描いてある箇処があったのを、憶えてないかな。

「『その一瞬、倉野は再び何かを見たような気がした。何やら黒い影のようなもの。ラメのように光沢の流れる髪、黒曜の瞳、あかい脣、ぴったりした黒いTシャツから惜し気もなく伸ばされた手、不可思議な交錯を見せるコールテンのジーンズ、そしてグレーのデザート·ブーツ。それらの何が倉野の眼を惹いたものか、彼自身にもよく判らなかった。ブーツの底に何か黜のようなものがついていて、それが脚の動きにつれて規則的に揺れ、振り子のように倉野の眼に映る規則的な揺れ』……云々」

「よく憶えてるなあ」

「変なところに感心しないでくれよ」

 根戸は胸のポケットから煙草を取り出して口に|銜《くわ》え、オイル·ライターの火をつけた。どこかに吸いこまれてゆくようなながい尾を曳く炎に照らされて、|俯《うつむ》き加減の根戸の顔は赤く|歪《ゆが》んで見えた。

「これはホランドでなく、ナイルズが書いた部分だという点に注意してくれ。ホランドのブーツの底に染のようなものがついてたと、ナイルズは書いてるんだ。……さて、想い出して貰いたい。曳間が殺されたあの七月十四日は、その日だけ降って湧いたような猛烈な暑さだったことを」

「暑さ……?」

 羽仁は少しの間、返答に困った。

「判らないなら、話を先に進めるぜ。俺はついさっき、この部屋に来る前に、ちょいと玄関に行ってきたんだ。そして、ひとりひとりの靴を調べさせて貰った。いや、調べたなんて大袈裟なものじゃないな。ただ靴の底を、ひと通り見てまわっただけなんだ。はてさて、その結果、どんな興味深い大発見が明らかにされたかというと……何だったと思う」

 最後の言葉を煙に吐き出しながら声にして、根戸はそう尋ねて寄こした。羽仁はますます怪訝な顔で押し黙る。

「ふむ。だいたいにおいて、皆の靴の底はきれいなものだったよ。ただ、ある三人の人物の靴には、ようく[#「ようく」に傍点]見ると僅かな染のようなものがぽつぽつとついていた。今では殆ど擦れ落ちて、粒ほどの大きさでしかなかったけどね。……さて、その三足の靴とは、倉野、布瀬、そしてナイルズに化けたホランドのものだった。そしてその染のようなものの正体は、別に珍しいものではない、単なるコール·タールだったのさ」

「あッ」

 羽仁は眼を醒まされたような叫び声を挙げた。故知れぬ恐怖に、彼は思わずぶるっと肩を顫わせた。

「やっと判ったか」

 根戸は煙を顔の前に、エクトブラズムのようにわらわらと立ちのぼらせながら呟いた。

「あの日、目白駅から倉野のアパートへの道の途中で、コール·タールが暑さのために融け出していたことは、これまたちゃんと小説のなかに書き|録《しる》されている。倉野と布瀬はそこを通った。だから彼らの靴にそれが付着してるのは、全く不自然でも何でもない。しかし、小説にはホランドの靴の裏にも染がついていたと書かれてある。恐らく倉野に訊いてみれば、あいつもそれを証言するだろう。とすると、ホランドの靴には、いつ、どこで、融けたコール·タールがついたんだろうね。……え? 布瀬が目撃した少年もまた同じ道を歩いてたじゃないか。そうして、そいつの靴にもまた同じように黒い染がついたとして、何か不自然なところがあるのかな」

「だけど……。ホランドの靴にそれがついたのは、別の日だったかも知れないじゃないか」

「いや、それは駄目なんだな」

 根戸は強く首を横に振った。

「さっきも言ったけど、あの猛暑はあの日だけのものだったことを想い出してくれ。あれ以前にも以後にも、あんなに気温が高かった日はなかったんだ。つまり、コール·タールが融け出すほどにはね」

「それでは前言訂正。あの日に別の場所で」

「ふむ。しかし、それも駄目なんだ」

 部屋のなかはもう殆ど真暗な闇に包まれていた。鎧戸からの明かりも絶え、ただ煙を吸いこむたびに、ぼおっとオレンジ色の光を放つ煙草の火だけが、時たま根戸の表情を微かに浮かびあがらせる。しかしふたりは灯をつけようと言い出しもしないまま、闇のなかで互いに睨みあいを続けていた。

「俺はホランドの証言した行動の道順を、ずっと頭のなかで辿ってみた。どこかにアスファルト舗装の道がなかったかどうか。……その結果、答はノンだった」

「ふん。それもまた、凄い記憶力だね」

 羽仁は諦めたようにそう言って、少し脣を|綻《ほころ》ばせた。

 しかしその笑みは、根戸の眼に届いたかどうかは判らなかった。

「そういえば君は、チェスの定跡の記憶にかけても凄いものね。それからあれにはいつも参るんだけど、一週間くらい前の対局なら、指し手の進行を全部憶えてて、実際に再現してみせるだろう。とても真似できない芸当だよ」

「いや、それくらいのことなら倉野だってできる筈だぜ。ああいった、ゲームに関する記憶ってのは全く別ものだよ。あれは一手一手に必然性があるからできるんだ。混同されちゃ困る。何でもかんでもあれくらい憶えることができりゃ、一種の超人じゃないか」

「それにしたって、ああいったゲームは記憶力の鍛錬にもなってるのは確かだろう」

「まあ、それはともかく」

 相変わらず闇の底から根戸の声がして、

「布瀬が目撃した白昼夢の正体はホランドだった。――よしんばホランドの靴に、ほかの何らかの理由でコール·タールが付着するような可能性は小さくないにせよ、これには〝確からしいにおい_がするとは思わないか」

「論理性を重視する僕としては、そういう心情的な質問には答えたくないけど……。どうもそのようだね」

「結構。そして今のナイルズの靴にもタールの染がついてるという点に関しては、さっきまで俺達の前に居たナイルズと名乗る少年が、実はホランドだと解釈するのが最も自然じゃないか」

 羽仁は答えることができなかった。煙草の火も既に消え、今は全くの暗闇だけがその部屋を支配している。羽仁が答えないままにふたりの沈黙は続き、そしてそれは決して回復されることがないもののように思われた。暗闇のなかでの沈黙。

 その時まで耳鳴りのように響き続けていたどこかの窓の音を聞きながら、あるいは羽仁は、その沈黙が終わらぬようにと願っていたのかも知れなかった。

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3 大き過ぎた死角

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 二メートル半を越えるかと思われる巨大なグランドブアザー·クロックが、重々しい響きで七時の鐘を打ち鳴らしていた。しかし、それに殆ど打ち消された小さなチャイムの音を、布瀬は聞き逃さなかった。

 布瀬は訝しげに眼をあげた。恐らく不意の訪問客だろう。

 ――間の悪い時に鳴らしたものだな。吾輩が近くにいなけりゃ、完全に鐘の音でかき消されている。

 布瀬はともあれ、玄関へと急いだ。

 重々しい|樫《かし》の扉を開くと、不意の訪問客は雛子だった。

「ホホウ。これはこれは。居れば大変だった人物の[#「居れば大変だった人物の」に傍点]、遅れ馳せの登場かね」

「え。何のこと」

 いきなり訳の判らない挨拶を受けて、雛子は風に乱された髪を押さえながら、戸惑ったように眼をぱちくりさせた。

「いや、まあそれはどうでもいいのだがね。しかしまたこんな時刻に、どういう風の吹きまわしかな」

「だって」

 雛子はそこで急に照れたような笑みに戻って、

「誰もいない羽仁さんのところにみんなが集まるっていうんだもの。どうせそうなると、この間みたいな推理較べが始まるに決まってるでしょう。この間はあんなことがあって出席することができなかったから、今回は絶対に機会を逃す訳にはいかないわ。……前回は推理較べの最中に殺人が起こって、不謹慎な言い方だけど、考えてみれば、全く惜しいことをしたわ。もしもあたしがその場に居れば、立ちどころに密室の謎を暴き、犯人を指摘できたに違いないなんて考えると……」

「あっは。恐がりのくせに好奇心だけは人並み以上という訳かな」

 靴を脱ぎながら喋る雛子にそんな冷やかしの言葉を投げかけて、布瀬はクックッと忍び笑いを洩らした。

「あら。それ、どういうこと」

「さあてね。……ところで推理較べの方はまだ始まる気配はないね。もしかすると、今日はこのまま何事もなく終わるのかも知れないのだよ。今は皆、てんでにコレクションを鑑賞するために、あっちこっちの部屋べやに別れているといった情況だな」

「なあんだ」

 雛子はがっくりと肩を落とした。

「無駄骨だったのかしら」

「まあそう焦らず、ゆっくり構えることだね。三代続いたという蒐集品の数々を見学するのも悪くはなかろう」

 布瀬は雛子の先に立って、階段をひとつ登り、それらが陳列されてある部屋の方ヘと案内した。

「そういえば、あたしはまだそういったものを見せて貰ったことがなかったわ。倉野さんあたりならしょっちゅう来てるから、何度か見てるんでしょうけど……」

 羽仁の曾祖父が一時期イギリスに在住していた時の屋敷を模したものだと言われる、煉瓦造りの四階建ての洋館らは、全体に黒く|燻《くす》んだ色調のせいか、濃い緑のなかに|蹲《うずくま》った巨人の印象を与える。しかし内部は後からかなり手が加えられており、廊下も階段も明るく落着いた趣きに統一されてあった。

「なかなか黒死館とまではいかないが、それでもこの館の雰囲気は、ちょいと日本では味わえぬものだろうね」

 そんなことを口にしながら布瀬が導いたのは、応接間風の広い部屋だった。黒いビロードの|綴織《タペストリー》が壁を覆い、その隅ずみには雑多な装飾品が並べられていたが、それら悉くが、金銀、|瑪瑙《めのう》、|琥珀《こはく》、七宝といった|煌《きら》びやかな輝きを放っている。

「そこに腰かければどうかね。ついでに、何か冷たいものが飲みたいだろう。続きの部屋にはホーム·バーもあるから、特別に吾輩がジュースでも容れてさしあげようかね」

 なぜか上機嫌にそんなことまで言って、布瀬は奥の|緞帳《どんちょう》を掻きのけるように姿を消した。雛子は肩からバッグを降ろすと、緑色の紋|繻子《しゅす》張りのソファーにそれを置き、そのまま自分は扉の反対方向にある窓の方に歩いていった。幅は狭いくせに高さは天井にまで届きそうなゴシック風の窓の外では、今は黒い影としか見えない森が、鬱蒼とした姿を微かに風に揺るがせていた。そしてその上空には、深い藍色のなかにぽっかりと、異様に黄色い月が浮かんでいる。

 黄色い月。

 確かにその色は尋常ではなかった。雛子はその月を追いかけるように流れてゆく淡々しい雲影を|瞶《みつ》めながら、急激に湧き起こってくる暗い予感を意識していた。

 ――急がなくてはいけないんだわ。

 雛子は脣に強く指を押しあてた。

 ――早く終わりにしてしまわなくては。

 しばらくして、布瀬は片方にジュース、もう片方にはアイス·コーヒーを手にして戻ってきた。

「あっは。勝手にナポレオンなんぞを頂戴するのも気がひけるから、吾輩もこれでおつきあいするよ」

 布瀬はそう言いながら、ジュースの方を差し出したが、

「あのう……布瀬さん」

「何だね、その猫撫で声は」

「あたし……ジュースより、アイス·コーヒーの方がいいな」

「え」

 布瀬は金縁眼鏡のなかの細い眼を丸くした。と、急に|仰反《のけぞ》るように笑い始め、

「あっはっは。いや、いいとも、いいとも。それでは吾輩は、|謹《つつし》んでミックス·ジュースを頂くことにするよ」

「御免なさいね」

 雛子は受け取ったアイス·コーヒーにちょっと口をつけると、しかしすぐにまた真剣な表情に戻って、

「ねえ、布瀬さんはこの間の密室の謎、もう解いてるの」

「オヤオヤ、|怺《こら》えきれずにとうとう探りをいれてきたか。ふむ。吾輩にかかってはあんなもの、まるで初等数学のようなものだがね」

「じゃあ、犯人も判ってるの」

「当然ね」

 布瀬はニヤニヤと笑みを洩らしながら答えてみせた。そこで雛子も急きこむように、

「そうするとやっぱり、あれは死角の問題なんでしょう」

「死角?」

 しかし布瀬の表情は、その雛子の言葉によって、急に|揺蕩《たゆた》うような曖昧さを浮かびあがらせたのだった。

「ホホウ、これは面白い。どうやら吾輩のものとは全く異なった推理を持っとるようだね。吾輩に言わせるならば、あれは擬態の問題と呼ばれるべきなのだがね」

「擬態……?」

 雛子は訝しげに相手の顔を見上げた。

「ふふん。まあいいさ。で、どうかね。いつまで待っても始まるかどうか知れぬ推理較べなどあてにせず、今この場で互いの推理を比較検討するというのは。後になって皆の前で間違った推理を披露することになるより、今自分の推理の間違いに気づいた方がいいだろうからね。あっは。言わばこれは、後になって恥をかかぬようにという親心なのだよ」

 毒舌を交えた布瀬の提案に、

「そうであれば、あたしとしても願ったりだわ。……但し、間違いに気づいて救われるのは布瀬さんの方でしょうけど」

 と、雛子もなかなか負けてはいない。

「ふむ。では、お先にどうぞ」

「そうね。……先に正しい推理が出るというのは順序としてどうかとも思うけど、そこは勘弁して貰っちゃう。……それじゃ、まず事件の概略をもう一度辿ってみる処から始めようかしら」

 そう前置きすると、雛子は二、三秒の問頭のなかを整理するように口を鎖した。

「今度の事件は、ナイルズの書いたあの小説中の密室とは、まるで正反対の趣向になっていたという意味で、まさしく〈さかさまの密室〉だった訳ね。小説の方では、密室のなかに居る筈の真沼さんの屍体が消えてしまう。ところが今度の事件では、何もなかった密室のなかに突然ホランドの屍体が出現した。ねえ、そうでしょ」

「その通り」

「あの『黄色い部屋』の別室に何もなかったことは、向かいあった両方の扉の鍵穴から、それぞれ別の人達がなかを覗くことによって確かめられている。その時点では、中央の部屋にはホランドの屍体なんてなかった。それなのに、再び電気が消えた後、扉を破って中央の部屋に雪崩れこむと、そこにはホランドの屍体が横たわっていた、と、こういう具合ね……。しかも、雪崩れこんでからホランドの屍体を見つけるまでの時間はごく僅かなものでしかなかったから、扉を破ってから屍体をその部屋のなかに運びこんで、さも最初からその場に存在していたふうに錯覚させるというトリックは、時間的にも空間的にも不可能だった訳……。即ちここにおいて奇妙な不可能犯罪が出現したことになるけど、ここまでは間違いないかしら」

「完璧だね」

 布瀬は鷹揚な口調で相槌を打った。

「だけど、これが人間の手による犯罪である限り、そこには抜け穴がなくてはならないの。でも、その抜け穴は一体どこにあったのか。――そう考えてゆけば、それに直接答えを出す前に、ひとつの疑問が浮かびあがってくるのが判る筈よ。つまり、犯人はなぜ根戸さんを奥の物置に閉じこめたのかということ……。ええ、勿論根戸さんが奥の部屋に閉じこめられたのは、犯人側の作為であることは疑いのない事実よ。そして考えられるたったひとつの理由は、誰かその部屋から鍵穴を覗く人物が必要だったからだわ。そしてそれは取りも直さず、中央の部屋にホランドの屍体がなかったのを確認させておくってことでしょ。ね、ほら。奇術師がよくやる手よ。怪しげな箱かなんかを取り出してきて、まず最初に蓋をあけて、なかが空っぽなことを示しておく。あれと同じだわ。空っぽなように思わせて、本当はちゃあんとなかにいろんなものがはいってる……。わざわざ両方の鍵穴から覗かせるなんて、まるでそのやり口でしょ。屍体はやっぱり、あの部屋のなかにあったのよ」

 ながい睫毛を二、三度|屡叩《しばたた》かせ、ぐいと|斜《しゃ》に構えると、それなりに雛子の言葉にも迫力があった。布瀬は雛子のそんな勢いに、少しばかりたじろぐようなそぶりをみせると、

「ふうむ。既にその時点から吾輩とは別の岐路を辿ってはいるが、いや、なかなか堂にいった話の進めぶりではある。……しかしながら、やはり誤りは誤りでしかないのであってね。死角の問題というからには、そこに行き着くのは当然であるのかも知れないにしても、少なからず遺憾に思うよ。君の推理など、吾輩にはすぐに見当がつく。それは恐らく、こんな具合だろう。

「鍵穴からの視野には角度の限界がある。だからもしも、その見える部分と見えない部分の境界面が互いに交わっていたとするならば、両方の鍵穴から等しい距離の処のものは死角にはいってしまう訳だね。とすれば、ホランドの屍体は部屋の中央に堂々と寝かせてあったのかも知れない。……あっは。部屋の中央が死角にはいる。それは純粋な死角の問題であると同時に、一種心理的な盲点の問題でもあったと言いたいのだろう。最初から言えばこうだ。……犯人は以前からあの『黄色い部屋』における鍵穴からの死角に気づいていて、それを密室殺人に結び付けようとした。|予《あらかじ》め、店の配線の元締めである安全器に細工をしておく。つまり、掌のなかに握りこめるくらいのワイヤレスのスイッチによって、電気をいつでも消したり点けたりできるような回路を装填しておけばよろしい。そうして犯人は満を持して機会を待った。さて、そうすると都合よくホランドが表の部屋に出てゆく。頃合を見計らって彼は掌のなかのスイッチを押し、一時的な停電の状態をつくる。そして急いで根戸を倉庫の部屋に押しこみ、そこの扉の錠を降ろしてしまう訳だ。そうしてその鍵は、テーブルの上に置いておく。……ここで注意 キべきことは、彼はその鍵の隣にもうひとつ、表の扉の鍵にそっくりな別の鍵を並べておいた。これがつまり密室トリックの正体という訳なのだ。

「はてさて、犯人の活躍はそれからが本番だ。どうした、何事だという訳で、皆と一緒に犯人も表の店側の部屋に出てゆくのだが、そこで彼は暗闇のなかでいち迅くホランドを捜しあて、隠し持っていた紐で声も立てさせず|縊《くび》り殺してしまうのだな。そうしてホランドがこときれたのを確かめておいて、その屍体を再び中央の部屋に運びこむ。計画通りに屍体を位置させた後、彼は本物の鍵でこっそりと扉に鍵をかけて出、準備万端整ったところで、いったん電気を点けるのだ。……後はもう説明するまでもない。根戸が騒ぎ始め、これは只事でないと皆して鍵穴を覗きこむ。そうして部屋のなかに何もないことを確かめさせておいて、もう一度電気を消す。これはいかんと皆は扉をぶち破る。そうして全員が雪崩れこんだ時に、犯人はこれまた素早く屍体の位置を修正し、同時に本物の鍵と贋物の鍵を交換しておくのだよ。この贋物の鍵は、合鍵である必要すらない。どうせ鍵穴からはかなりの距離があるからして、充分外見が似てさえいれば、本物だと思わせるのに事足りるだろうからな。最後にそっと安全器に施した回路をとり除けば、総てが終わる。……どうかね。君の推理はこうなのだろう。それともまさか、死角というのはソファーとか戸棚の物陰のことをいってるのじゃないだろうね。そうであれば、全く話にならんが……」

 布瀬は意地の悪い笑みを浮かべながら、そう言葉を結んだが、雛子は意外に平気な顔でこう尋ね返した。

「全く話にならないって……それはどうしてなの」

「ふむ。現場にいなかった者はこれで困る。いいかね。それくらいの疑いは、吾輩にはその場ですぐに頭に浮かんだ。そうして吾輩は実際に試してみた。ふたつの鍵穴からの死角が本当にあるものかどうか……。そうして、吾輩はそれがないことを確かめたのだ。物陰という意味の死角も、両方の鍵穴からの視線が届かない空間という意味での死角も、なかったのだよ。ソファーや机の下もある程度見えたし、戸棚はぴっちりと隙間なく並べられていた。要するにホランドの屍体を隠すのに充分なほどの死角は、あの部屋には存在しとらんのだよ」

「ねえ、布瀬さん」

 自信たっぷりにそう断言した布瀬に、雛子はそこでいかにもアリスさながらの微笑を浮かべてみせた。

「あたしがさっき言った死角の問題という言葉は、こう言い直してもいいのよ。……つまり、大き過ぎた死角[#「大き過ぎた死角」に傍点]の問題と……」

「何」

 布瀬の眉間に深い縦皺が刻みこまれた。雛子はそれを認めると、窓際から先程バッグを置いたソフアーの方に|踵《きびす》を返し、テーブルに手をつきながらもう一度くるりとこちらに振り返った。そうして手にしていたアイス。コーヒーで口を潤すと、指でグラスの表面についた水滴をなぞりながら、|焦《じ》らすようにゆっくりと次の言葉を口にのぼらせた。

「ねえ、布瀬さん。鍵穴から覗いたあの、部屋に、果たして死角があったかどうかどころでない、それが全部死角だったとすればどうかしら……。いえ、これは喩え話でも何でもないのよ。つまり、皆さんが鍵穴から見た光景自体が死角の役割を果たしていた場合だって、考えられるんじゃないかってことなの」

「ふうむ。それはまた突飛な意見を持ち出してきたものだね。しかし、その内容がもうひとつピンと来ないのだが、少し噛み砕いて説明願えないかね」

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