饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.13

 布瀬は窓枠に手をかけたまま、低い声で促した。

「ええ、それは勿論」

 雛子は再びグラスに口をつけると、

「あの時現場に居あわせた人達が目撃した部屋のなかの光景は、全くの偽りのものだったということなのよ。……ねえ、あたし達が、こう、普通の状態でものを見る場合と、鍵穴を通してものを見る場合とでは、ひとつの決定的な相違点があるんだけど、お判りかしら。それは片眼を|瞑《つむ》るか否かっていうことなのよ。そうすると、そこから当然導き出される結論として、鍵穴から覗いた光景には、あるものが欠落してしまうことになる。……こう言えば簡単でしょ。一方の眼だけしか使わないことによって、その光景には遠近感というものがなくなってしまうの。遠近感のない光景。それはまるで、写真のようなものだわ。

「倉野さんのように、自分の目撃した靴の存在を否定してしまうのはあまりにも極端だけど、普通、あたし達は、自分の眼で見たものは、まるで疑いをさし挿むことなく信用してしまうものじゃないかしら。ほかの感覚はともかく、人間はこと視覚に関しては絶対的な信頼を置いてるわ。百聞は一見に|如《し》かず、なんて。だけど、視覚でさえもそれほど確かなものでないことは、いろいろな錯視の図によっても明らかなことじゃない。ねえ。そういうところから見れば、今度の事件は、現場に居あわせた人達よりも居あわせなかったあたしの方が、ひょっとすると正しい推理のためのよりよい条件にいたのかも知れなくてよ。……布瀬さんの推察は攤ガ正しかったけど、死角という点に関する限り的をはずれてたわ。あたしの結論は、皆さんが鍵穴から見た光景は、写真に過ぎなかったということなのよ」

「ホホウ。――写真とね」

 布瀬は心底呆気にとられたように、驅を少し|仰反《のけぞ》らせた。

「するとあの鍵穴に、写真を貼りつけてあったとでもいうのかな」

「ええ。そう言って大きな間違いはないと思うわ」

 と、こちらは飽くまで冷ややかな口調で、

「正確には、小さな箱のようなものを使うのがいちばんいいんじゃないかしら。写真も、スライド用のポジ·フィルムがいいわね。筒状の箱の片方にそれを貼りつけ、もう片方を鍵穴に撚せるのよ。そうすれば室内に電気が点いた時だけ、その照明の光によって映像が浮かびあがるという仕掛けだわ。そして実は、その時ホランドの屍体は既に中央の部屋に置かれている訳なの。その後再び電気が消されて、闇のなかで扉が撲ち破られた時、犯人はそっとふたつの扉から、その装置を取りはずしておくだけでいいのよ」

「お見事!」

 布瀬は殆ど飛びあがらんばかりに、びっくりするような音をたてて手を叩いた。

「全くこれは恐れいった。いや、死角の問題などと言うものだから、てっきり単純に考えておったのだが、まさかこれほどとはね。その点に関しては、まず御勘弁願おうか。……ふむ。しかしながら君の推理は、こういうふうにも訂正され得るのではないかな。実はその装置が被せられてあったのは、倉庫に通じる扉の鍵穴だけだったと。つまり、その仕掛けに騙されたのは根戸ひとりであり、ホランドの屍体は店側の扉のすぐ横あたりに置かれてあって、犯人は扉を撲ち破った後、急いでソフアーの傍らに屍体の位置を移動させた。……どうかね。この方が一層、成功率が高いように思われるが」

 そんなふうに妙なところをつついてきた布瀬に、雛子はやはり動揺の色を見せることなく、即座にそれを否定していた。

「それは駄目よ。なぜって、もし片方だけにその装置を施した場合、布瀬さん達の鍵穴からは[#「布瀬さん達の鍵穴からは」に傍点]、反対側のその扉に仕掛けた箱が見えてしまう[#「反対側のその扉に仕掛けた箱が見えてしまう」に傍点]じゃない」

「ふふん。成程」

 布瀬はなぜかその言葉に愉快そうな笑いを返すと、

「しかし――雛子女史。その答は、同時に君の推理全体をも否定していることになるのだぜ」

 何万という木の葉が触れあい、打ちあって、ざあっという音をたてた。今度こそ雛子の方が、訝しそうに眉を顰める番だった。

「どういうことなの」

「ふふん。やはり現場に居あわせなかったというのは致命的だったということさ。両方の鍵穴にそのような箱を取りつけておかねばならないとすれば、その推理自体が誤りだと看做されねばならんのだよ。何故かと言うに、犯人は表側の扉に取りつけた装置を取りはずすことなど不可能だったからなのだ。あの扉は中央の別室のなかに向かって倒れた。であるからして、そのような装置を取りはずすためには、その扉を少し持ちあげねばならない。しかし、吾輩はその後電気がつくまで、あの倒れた扉の上に立っていた。その上電気がついてからは、この吾輩が扉を持ちあげて壁に立てかけた。いいかね。そのような装置を取りはずすことなど、誰にもできなかったのだ。装置を取りはずすことが不可能だったということは、初めからそんな装置など存在しなかったということにほかならん。ふむ。つまりは、要するに君の推理が間違っていることになる」

 だったら、その箱を取りはずしたのが布瀬さんだとすれば。――雛子はそう言いかけて、やっとのことで思い留まった。

 布瀬が犯人である訳がないのだ。

 雛子はそのまま口を鎖し続けた。風が鳴り、風が鳴り続け、それはそのまま雛子の耳の奥に|棲《す》みつくように、いつまでもぐるぐると駆け巡っていた。

[#ここから3字下げ]

4 ユダの罪業

[#ここで字下げ終わり]

「いいかね。今度の殺人は、そんなちゃち[#「ちゃち」に傍点]なものではないのだ。曳問の殺された最初の事件の方では、倉野がいつ帰ってくるか判らないという条件のもとで行なわれたという点で、かなり偶然的要素がはいりこんでいたかも知れないが、第二の殺人事件の方は、その情況から見て極めて緻密な計画によるものであることは、明らかだろう」

 布瀬は喋りながら振りまわしていた手を後ろで組んだ。そうして、ふと囁くような口調になると、

「話は少し変わるが、あの七月三十一日の夜には四つの推理が提出された。甲斐や倉野の推理は、話にもならんものだった。それに根戸のものもあっさりと間違いと判り、これは本人も認めたようだったな。ハハン、しかしこの吾輩の推理は、決して否定された訳ではないのだ。いいかね、このことをよく頭にいれておいて貰いたい。吾輩の推理は、何となくナイルズの心情的な|反駁《はんぱく》に一歩譲った恰好になったが、実質的には、奴は何も否定し得なかったのだ。いちばん上の兄が本当に死んでしまったという証拠を、奴は何ひとつ示すことができなかったのだよ。

「第二の殺人の犯人は、やはり|森《しん》という名の少年なのだ。これが吾輩の示す、唯一無二の解決なのだぜ。ふむ、そういえば、先程吾輩の言った〈擬態の問題〉という言葉の意味も、おおよそ察しがつくのではあるまいか。ホランドの屍体と思われたものは、実は屍体ではなく、ましてやホランドなどではなかったのだ」

 布瀬はそこで言葉を切り、相手の反応を窺うといったふうに、ちょっと舌舐めずりをしてみせた。暗い緑の紋繻子張りのソファーのなかに腰を降ろしたまま、雛子は身動きひとつ見せなかった。

「最初から順序だてて話そうか。あの推理較べの会合には、最初からもうひとりの別客があったのだよ。それがナイルズとホランドの兄である、森という名の少年だった訳だ。と言っても、彼はあの『黄色い部屋』の近くにひそんだまま、ずっと機会を狙っていたのだがね。

「そうして推理は始まった。……一体どのようなうちあわせが彼らの問に成立していたものかは判らんが、とにかくホランドとナイルズは途中で表の部屋に出てゆく。しばらくしてナイルズだけが中央の部屋に戻り、その後に影山も訪れる。……殺人があったのは、恐らくその後だろう。片城森は彼の分身とも言うべき一卵性三生児の――片城蘭、つまりホランドを、隠し持った紐で、あっという問に絞め殺してしまったのだよ」

 その瞬間、雛子はまるで自分がその少年に|縊《くび》られようとしてでもいるかのように、ぴくりと躯を顫わせた。布瀬はそれを見て取ると、初めて満足そうな笑みを浮かべて、

「さて、それからが大変なのだ。彼はホランドの屍体を、恐らくトイレのなかにでも隠しておいて、今度は安全器の方にとんでゆき、そこで建物じゅうの電源を切ったのたよ。突如、部屋のなかは闇に包まれる。ふむ、その時咄嗟に根戸を奥の倉庫に押しやり、鍵をかけて閉じ籠めてしまったのは、ナイルズだった。……倉庫の鍵はテーブルの上に置き、そうして先程の繰り返しになるが、表側の贋の鍵を横に並べておく。皆は何事かと店の方に出てゆく。……あっは、そのあたりは先程吾輩が喋った通りだ。ただ違うのは、扉に鍵がかかっているのに気づき、皆が扉のところに集まり、いったん電気を点けて部屋のなかを覗かせた時も、その中央の部屋にはまだ、実際にホランドの屍体などなかったという点なのだよ。

「二度目に電気が消えた時、皆はこれはいかんと扉をぶち破る。……さて、手品はその時に行なわれたのだよ。いいかね。扉をぶち破って皆が雪崩れこんでから、甲斐が屍体を発見するまでの間のごく僅かな時間に、屍体をエッチラオッチラ担ぎこんで、そうしてソフアーの横に寝かせるなどということは、これは到底不可能であると言わざるを得ない。ふむ。しかしだね、ホランドにそっくりの少年が皆の間をすり抜けて、その位置に寝そべるだけだとすれば、これは充分可能だったと言うべきなのだぜ。腕のつけ根を縄で縛って、脈搏も止めていたに違いない。とにかく全員、その手品にてっきり|欺《あざむ》かれて、摩訶不思議な屍体出現が成立した訳だな。勿論、ナイルズの方はその間に、本物の鍵と贋物の鍵をすり換えておくことは言うまでもない。そして密室が成立する。

「憎いほど人間の心理の弱みにつけこんでいるのは、そこからなのだよ。甲斐が屍体を発見し、どうやらそれがホランドだということになって、ナイルズが泣きながらそれに取り|縋《すが》る。……さてその場合、ほかの者はどうしても屍体に触れることを遠慮するではないか。そこが彼らのつけ目であった訳なのだ。全く巧く計算されている。とにかくそいつが手品の種で、その時まで死んだふりをしていた少年は、そっと起きあがり、部屋を抜け出して隠していたホランドの屍体の処へ行くと、今度こそその屍体をエッチラオッチラ担いで戻るのだよ。……いやはや、全くもって奇妙な図式と言うほかない。ホランドの屍体がむくむくと起きあがり、それがそっくり同じホランドの屍体を背負って歩きまわるなんぞ、吾輩が所有するところの『新青年』の全巻を引き換えにしても見たかった光景だな。闇のなかでも見える眼を持たないことが、つくづく悔やまれてならんね。

「とまれ、そうやって屍体をその位置に移し変えると、彼は安全器の処に戻り、蓋を閉めるのだ。電気は点き、彼はその場から立ち去る。……どうかね、それで総ての証拠は持ち去られ、後には何も残らない。つまり、世にも不思議な犯罪は、その時点で全き完成を見るのだよ」

「……そうすると、ナイルズも殺人に手を貸したって言うの」

 雛子は初めてそこで口を開いた。僅かに顫えてさえいるその声は、布瀬のなかの何かと微妙に同調しあったようだった。

「ふむ。|概《おおむ》ね、その通りだね」

 布瀬は冷たく言い放った。

「ただ、ナイルズにどの程度、殺人に荷担する気があったのかは判らんがね。……とにかく、ホランドが途中で気分が悪いという口実のもとに部屋を抜け出したことから見ても、最初に何らかの計略が三人の問にうちあわされてあったことには間違いないが、ホランドを殺害するという真の計略に、ナイルズが全面的に参加していたかどうか。ふむ。あるいはナイルズもある程度騙されていたのかも知れんが」

「でも……。そんな人が本当に生きているとして、どうして三つ子の兄弟を殺さなければならないの。いいえ、それだけじゃないわ。最初の殺人だって、曳間さんを殺さなければならないような、どんな理由があったっていうの」

 雛子は必死で喰いさがった。しかし布瀬は、

「ふうむ。それは本人に訊いてみるより手はないな。――但し、第二の殺人の方は恐らく、曳間を殺害したのが自分であることをホランドに気づかれ、そうしてホランドがそのことで彼を責めたてたからではないか、などと推察できなくもない。が、やはりこれも空想の域を越えてはおらんな」

 と、あっさり引き揚げにかかる。雛子はしばらく黙ってから、

「でも……。そんな共犯説なんて認める訳にはいかないわ。最初に取り決めた十戒にも反してるじゃない」

「――別に、共犯と断定している訳ではないのだがね」

 布瀬がそうぽつりと呟いた時、突如として恐ろしい叫び声が風の音に|淆《まじ》って聞こえた。断末魔の叫び。しかしどこか遠くの方から聞こえたために、それほど大きくは響かなかった。

 ふたりはぞっとして立ち|竦《すく》んだ。|顱頂《ろちょう》から爪先まで凍るような戦慄が駆け抜け、それは一瞬のうちに何度もそこを往復した。ほんのひととき、軽い|眩暈《めまい》をも感じたようだった。はっと気がつくと、その叫び声は既に鳴り渡る風の音のなかに消え去っていて、ただ彼らの耳の奥にだけ、幽霊のように染みついている。彼らはたった今聞いた恐ろしい悲鳴が、単なる幻聴ではなかったかと疑わずにいられなかった。

 ふたりは互いに、牽制しあうように眼を見交した。それによって先程の絶叫が現実以外のなにものでもなかったことを確かめると、ふたりの表情は再び硬直した。雛子は脣まで蒼く変色させて、今ようやく躯を小刻みに顫わせ始めている。

「どこかしら」

 布瀬は答える代わりに、視線をあちこちに巡らせた。窓から闇のなかに着をつき出しもしたが、やはり答は見あたらないようだった。

「やっぱり、この建物のなかかしら」

 雛子は再び、語尾のはっきりしない声で呟いた。

 再び沈黙が降りた。それほど大きな声ではなかったが、はっきりと聞こえた先程の絶叫に、ほかの者もやはり声をひそめて様子を窺っているのだろうか。もともと並みの建築とは異なり、物音や声を通しにくい造りにはなっているというものの、それは気味の悪い静寂だった。

「もしかして、あの声は――」

 それを口にしていいのかどうか、雛子は少し|躇《ためら》って、

「――倉野さんの」

 その時、布瀬はいきなり無言のまま扉に向かった。金縁眼鏡のガラスが光って、その表情は読み取れなかったが、雛子はその勢いにつられるように、慌てて腰を浮かした。

「待って」

 廊下に出ると、どこかの階段から|遽《あわただ》しく駆ける跫音が聞こえた。

 ――犯人の?

 雛子は激しく打ち続ける胸の鼓動を意識しながら、左右に延びるながい廊下を見較べていた。この館を訪れた時には随分明るい廊下だと思ったが、部屋の照明に慣らされた後では、やはり全体に仄暗い闇が漂っているとしか見えない。

 布瀬は忽ち一方に見当をつけたらしく、走るような速さで右手の方向に歩いてゆく。雛子はそれに遅れぬように、急いで後に従った。

「今何時なの」

「七時四十分」

 布瀬は雛子に背を向けたまま、そう初めて口をきいた。別の廊下から、再び駆け過ぎるような跫音が響いた。

 廊下の薄闇には、モリエールやカラカラの石膏像が台の上に据えられ、雛子はそれをひとつひとつ通り過ぎるたびに、息苦しさが増してゆくのを感じた。

 建物のいちばん奥にある階段に辿り着くと、下から登ってくる根戸に合流した。

「ああ。雛ちゃん」

 そう驚いたように言って、すぐ布瀬に、

「聞いたか」

「ああ」

 尋ねかけてきた根戸の表情も、硬直したように蒼褪めている。息を弾ませながら階上の薄闇を窺い、

「俺は羽仁と一緒に居たんだ。羽仁は声が聞こえた途端に部屋から飛び出していった。俺は少し遅れて、まず一階の部屋を一応見てまわったんだが、どうも違うらしい。一一階でもなかったのか」

「もっと上のように思えたが……」

「かなり遠くに聞こえたからな。四階かな」

 照明の乏しい階段を登りながらそんなことを喋り、

「この建物は複雑だからな。|拱廊下《そでろうか》の方からかも知れんし、向こうには続きの別棟もあるだろ。……オヤ。あの音は」

 その音に雛子も気づいた。それほど遠くないどこかか

 ら、激しい物音がはっきりと聞こえてくる。ドシンドシンと何かが壁にぶつかっているような、恐ろしい響きだった。

「上だ!」

 叫びながら根戸は凄じい勢いで駆け登っていた。それに続いて布瀬も弾けるように走り、あっという問に雛子との間隔は拡まった。待ってという言葉も出ないまま、雛子は言い知れぬ恐怖に襲われ、ただ死にもの狂いで彼らの後を追った。

「甲斐!」

「ああ、根戸」

 それは階段を登りきり、右手に曲がった最初の部屋だった。甲斐はそこの扉を撲ち破ろうと、必死で体あたりを喰らわしている。

「早く。手伝ってくれ。鍵がかかってるんだ。なかで、多分――」

「よし来た」

 布瀬も一緒になって、三人は力まかせに扉にぶつかった。すぐ後に、殆ど雛子と同時に羽仁も息を切らせながらやって来た。見ると、手には大きなハンマーのようなものが握られている。雛子はぎょっとして躯を少し|仰反《のけぞ》らせたが、

「よし、いいものを持って来た。任せろ」

 いちばん長身の根戸がそれを受け取り、渾身の力を籠めて振りおろした。その音は廊下のつきあたりまで、ガーンと谺した。

「だいたいの見当をつけてここの部屋に来てみたら、なかから微かに呻き声が聞こえたんだ。鍵がかかっていたのでこれを取って来た」

 羽仁は苦しそうに息を継ぎながら言った。

 三人が何度か躯をぶつけて、少し|箍《たが》が弛みかかった上にハンマー攻勢である。ほどたたぬうちにメリメリと厭な音をたて始め、さらに四、五回打撃を加えると、扉はついに|蝶番《ちょうつがい》の方から弾け飛び、心臓が縮みあがるような大音響をあげて倒れた。

 今度は二度目の殺人の時とは異なり、部屋のなかにも明かりが点いている。彼らはすれ違いになかから誰かが出てこないか、無意識に注意しながら雪崩れこんだ。

 それは数々の甲胄を陳列してある部屋だった。扉に近い部分を残して床の殆どは眼に鮮やかな白い木綿の布で敷きつめられ、彼らはそこに飛びこんだ途端、その浮き立つような白のなかに、この世ならぬ香気を吐き散らしながら咲き狂う、一輪の巨大な花を見て立ち竦んだ。

 それは共通した幻視だった。

 凶悪な花に思われたその真紅の血溜りに、倉野が横たわっていた。苦痛に身を捩るように背を丸め、左半身らを下にして倒れている倉野の|鳩尾《みぞおち》には、小刀が深ぶかとつき刺さっている。しかし彼らの位置からは、表情まで窺い知ることはできなかった。

 真先にそちらに駆け寄ったのは根戸だった。屈みこんでそっと倉野の躯に手を触れ、しばらくじっとしていたかと思うと、

「まだ生きている」

「本当か」

 羽仁も慌てて走り寄った。

「本当だ。微かだが脈がある」

「救急車だ」

 羽仁は弾けるように立ちあがると、恐ろしい勢いで部屋から消えた。甲斐と布瀬もその無惨な血溜りに近づくと、黙ったまま覗きこむように首を伸ばす。雛子はそういった光景を自分の頭とは遠い、どこか別の場所でありありと感知しながら、何か取りとめのないことばかりを意識の上にのぼらせていた。日本間風に改造された部屋のなかで十数体の甲冑は、あるいは凝然と立ち竦み、あるいはどっかりと|床几《しょうぎ》に腰を降ろして、|眉庇《まゆびさし》の陰に隠された虚ろな空間から、威圧するような視線を送り続けている。しかもその|悉《ことごと》くが歪んだ|面頬《めんぼお》の口をさらに大きく歪ませて、咆哮にも似た笑いを投げかけているのだ。

 雛子は悲鳴を挙げる機会を失ったまま、ただ痙攣するように躯を顫わせて立っていた。

「ひどい刺し方だ。一体何ヵ所刺してるんだろう」

「どうする。この刀」

「待て、へたに抜かない方がいい。大出血でもされたら、どうにもならない」

 言い交す三人の顔からも、全く血の気が失せていた。倉野の着ているシャツは既に地の色も判らぬほどに血にまみれ、切り裂かれた胸や腹、そして深ぶかと小刀のつき刺さったままの鳩尾のあたりからは、まだドクドクと血液が流れ出しているのが判る。下にした左半身に当たる布地は新たな血液を吸い続けて、少しも固まる様子を見せない。

 布瀬は呻くように立ちあがった。それは息をつまらせるような血の匂いのせいかも知れなかった。

 相当激しく苦痛に|※[#「足偏+宛」、第3水準1-92-36]《もが》きまわったのだろう。顔や縮めた腕まで血に汚れ、小刀の柄までがヌラヌラと不気味な赤に染まっていた。

「ひでえな。口からも血が……」

「おい。よせよ」

 |窘《たしな》めるように言って、根戸は入口近くで小刻みに軅を顫わせている雛子の方に近づいた。

「大丈夫かい。雛ちゃん」

 そう呼びかけながら、根戸の視線は雛子の肩をすり抜けて、扉の方に向けられたような気がした。雛子はそれに気づいて、怯えるように後ろを振り返った。

 そこにはいつの間にはいってきたものか、やはり蒼褪めた表情で脣を堅く結んでいるナイルズが立っていた。雛子にはまるで、音もなく気配もなく、宙空から不意に姿を現わした直後の光景のように思われた。

「どこに居たんだ。――ナイルズ」

 雛子を庇うように、根戸は鋭い口調で訊き質した。そしてナイルズがそれに答える素振りを見せずにいると、

「ふん。それよりもはっきりと、ホランドと呼んだ方がいい。――なあ。お見事な人間交換だったが、それもこれまでだ。倉野を刺したのはお前だろう」

 雛子は思いがけぬ言葉に、肩に掌を乗せている根戸の顔を、反射的に見あげていた。それに少し遅れて、少年は一点を凝視していた瞳をゆるゆると解き、怪訝そうに上眼遣いを寄こした。

「こいつは意外だね。根戸ホームズ」

 布瀬がゆらりとふたりの間に進み出た。

「するとお前は、ここに居るのがホランドだと言うのかね」

「そうとも。既に、三人に手をかけた」

 根戸はぎらぎらとした眼を少年から離さなかった。その時、電話を終えたらしい羽仁も、扉のはずされた戸口に現われ、

「ナイ――」

 そう息を呑んで立ち止まった。

「俺と羽仁は一緒に居た。布瀬と雛ちゃんも一緒だったんだろう。で、お前はどうなんだ。……ふん。答えられるか」

「根戸」

 相変わらずぼんやりとこちらを見あげたまま答えようとしない少年に代わって、甲斐がそう口を挿んだ。

「それは駄目なんだよ。ナイルズは、俺と一緒に居たんだ」

 言いながらしゃがみこんで、倒れた扉を持ちあげる。反対側の鍵穴にも鍵はさしこまれていなかった。

「お前と一緒に?」

 根戸の顔が曇った。

「しかし……」

「根戸」

 布瀬はにやりと、しかし硬張りの消えない笑みを浮かべた。

「お前の推理はだいたい見当がつくが、……いいかね。今度の一連の事件は、吾輩があの時も断言した通り、三番目の三つ子の兄弟が犯人であると仮定しない限り、結局説明がつかんのだ。そして今日、この建物のなかにも、ナイルズのほかに、三番目の分身がひそんでいたに違いなかろう。倉野を|殪《たお》したのはそいつだよ。いや、今我々の眼の前にいるこの少年こそが、片城森でないとは誰にも言えんがね」

 最後は叫ぶように言って、布瀬はレンズ越しに血走った眼で睨み据えた。四人はその告発に、一言半句も返すことができぬまま、ただ彼らの中央に立ちつくしている人物を瞶めるしかなかった。

 布瀬の言葉通り、もしここにいる少年が片城森だとすれば。彼らは信じられぬ想いで、眼の前の美しい少年をつくづくと眺め渡した。

 羽仁は今にもその|繊《しな》やかな獣が牙を剥き、四方を囲んでいる者に襲いかかるのではないかという妄想をさえ抱いたが、意に反して誰ひとり身動きひとつ見せる様子もなかった。ふと気がつくと、依然風は窓を顫わせて鳴り続け、そんななかで彼らは、これ以上にないほどの静寂を味わっていた。彼らは化石のように黙り、そうしてそれは警察が来るまでの何分かの間、絶えることなく続けられた。

 布瀬は警察に総てを語った。一連の殺人の真犯人が片城森という名の三つ子のひとりであるという自分の推理も。

 それはひとつの|終焉《しゅうえん》だったのかも知れない。彼らの間に何気なく|濶歩《かっぼ》し、幾度となく会話さえ交わしていただろう姿なき〈ユダ〉は、今現実のこちら側へとその正体を暴き出されてしまったのだ。それは全くの解明という訳ではなかったが、いずれその少年が追いつめられ、そのあからさまな姿を|晒《さら》すことになるのも時間の問題だろうと思われた。

 結局部屋のなかからは鍵は発見されず、今度ばかりは密室殺人ではなかったことが確かめられた。

 ながい事情聴取が続き、彼らは深い疲労の|暗渠《あんきょ》をくぐり抜けさせられた。そうして、倉野が出血多量のために病院で息をひきとったという|訃音《ふいん》が伝えられたのも、翻弄されるようなそのながい時間の最中だったのである。

[#ここから3字下げ]

5 逆転された密室

[#ここで字下げ終わり]

「しかし全く、ざまあないと言いたいね。何だというのかな。今度の殺人は」

 憎まれ口を叩いたのは布瀬だった。

「さかさまどころか、密室でも何でもなかったとはね。ふふん。三回目にして、密室トリックの案につまってしまったとは情ない。尻切れ|蜻蛉《とんぼ》の妙な結末だな」

 そう言い続ける布瀬の表情も、しかし未だに蒼褪めたものには違いない。とはいってもこの『黄色い部屋』のなかでは、それを確かめる術もないだろう。甲斐も根戸も|倦《う》み疲れた表情を隠そうともせず、ぼんやりとそんな布瀬の言葉を聞いていた。

「それとも今度の殺人だけは、やむを得ずして起こった、突登的な事件だったというのかね。ふむ。そうではあるまい。羽仁の屋敷に忍びこんでいたからには、最初から倉野を殺すことはちゃんとあいつの計画表のなかに書き|録《しる》されていたに違いなかろう。……それがどうだね。実際は倉野を殺した後、部屋の鍵を外側からかけて逃げ去っただけとはね。あっは、何と他愛もない。曳間とホランドの事件ではなかなか感心させられるところもあったが、いや、やはり子供が実行する計画殺人なんぞ、これが限度なのかも知れんな」

 布瀬がそこまで喋った時、不意に根戸が飾り棚の上を指差して呟いた。

「あれが、例の人形だったな」

 それは一体のフランス人形だった。浅瀬に潜り、揺らめく水面を透かして空を見あげたような、その時の色がそのまま虹彩に凍りついてしまったような、そんな眼だった。黄色い光線を浴びせかけられたそれは、つやつやとした皮膚の人間らしい色を失ってはいたが、その光沢や眼の輝き、そして微かに覗いている小さな歯並びを見れば、それが魔法で人形の姿に変えられてしまった幼い少女であることは、容易に察しがつくのである。

「ふふ。真沼だけじゃない。倉野も、そしてナイルズも、この人形がお気にいりだったのは同じなんだ……」

 根戸はテーブルの上にだらしなく脚を伸ばした恰好のまま、くっくっと疲れた笑いを噛み殺した。

 一夜明けた二十六日。三人は共に一睡もしていなかった。ながい事情聴取から解放され、彼らは群らがる記者連中の眼を誤魔化して、この『黄色い部屋』に立ち寄ったのだ。

 根戸はひとしきり笑いを噛み殺した後で、ふーっと深い息をつくと、

「新聞を見たら、家の者がまた腰を抜かすだろうな」

「ふむ。まあ、それはいいのだがね。しかし、昨日の殺人はあまりにお粗末だった」

「あっはは。まだ言ってるよ。余程今度の事件は、布瀬の殺人美学に|觝触《ていしょく》したらしいね」

「当然だとも」

 布瀬はフランス人形から視線を逸らしながら言い据えた。

「それともまさか、全く密室でも何でもなかったこと自体、ひとつのさかさまだなどという訳ではなかろうな。――ハハン。さかさまといえば、根戸は勿論、ケプラーのことは知っていよう。ドイツの天文学者である、ヨハネス·ケプラーだがね」

「あたり前だろ。それでなくとも、ケプラーは同時に数学者でもあったんだからね」

 根戸はそう答えて、首を|擡《もた》げると、

「彼の業績のうちで最も有名なものは、太陽系の惑星の軌道を記述する三法則の公式化だが、純粋に数学的な分野においても、彼はいくつかの大きな貢献をなしている。例えば彼は、酒樽のなかにはいっている葡萄酒の体積を計算しようとして研究を進め、回転体の体積を求める方法を見つけるに至ったんだよ。つまり積分だね。一般に微分積分学の創始者はニュートンとライプニッツだってことになってるけど、このことから|鑑《かんが》みても、ケプラーは彼らの先駆者だと言えるだろうな。……いや、しかしまたどうして突然にケプラーの名前が出てくるんだ」

 講釈の途中でふと首を傾げてみせると、それに対して布瀬は、室内の黄色い空気の微かな流れに乗る如く、動き始めた点もしかとは判らぬゆらりとした動作で躯の位置をずらせながら、周囲に居並ぶ人形達に語りかけるかのように言葉を返した。

「彼はまた、形而上学的な思索をも好んだらしい。十七世紀の初め頃、彼はこういう素朴な、しかも興味深い疑問を提出したのだよ。即ち、『我々の眼球の網膜に写る外界の映像は上下左右が全く逆になっているのに、どうして我々はそれをさかさまの像として知覚しないのか』とね」

「へえ?」

 根戸はぽかんとした表情を見せて、

「そいつは初耳だった。……ふん。しかし――どうしてかな」

「やはり、お前も疑問に思うかね」

 布瀬は急に、タップを踏むような勢いで振り返った。

「こいつは全く、面白い問題だと思うね。で、お前はどういう解答を試みるね」

「そうだな。……ふうむ」

 根戸は肘掛け椅子の背凭れに頭をのめりこませるように反り返ると、

「こんなのはどうかな。網膜からの神経が、脳に至るまでに一回、上下左右を再び元の位置関係に戻すために、一本一本がぐるりとさかさまに交差していると考えれば……」

「ふむ。上等上等」

 布瀬は二、三度手を叩いてみせて、|陽炎《かげろう》が揺れるほどの笑いを洩らした。

「お前が今思いついた説は、まず殆どの人間がそう考えるであろう、最も素朴な解答だね。最初はやはりそんな具合に考えられて、この問題は簡単に片づけられていたのだな。しかし、解剖学的にはそのような交差の状態は認められんのだよ」

 するとすかさず根戸は、

「だったら、視神経ではなくて、脳のなか。――つまり、ああ、今想い出したぞ。確か視神経は脳にはいる処で、視神経交差という部分を通る筈だったけど、それは関係ないのか」

「ふむ。また妙なことを憶えているものだね。しかしながら、視神経交差というのは、簡単に言うと、ただ右の眼球から来る視神経と左の眼球から来る視神経とを交差させているだけなのだぜ」

「だったら、その、もうひとつ奥だよ。視神経交差を通過した神経は、これもまたウロ憶えだけど、脳の奥にある視床という処と、四|丘体《きゅうたい》上丘という処で細胞を接続し直した後で、いよいよ視覚の中枢である後頭葉の視覚野へ行くんだったな。だからその途中のどこかで視覚像がもう一度さかさまにひっくり返るような交差があるとすればだよ……」

「あっは。これはますますもって驚きだね。何で憶えたのかは知らんが、恐ろしい記憶力だな」

 布瀬は恰度眼鏡のレンズが黄色い光線を反射させる角度に首を持ちあげて、その輝きのために表情が読み取れないままに、微かな肯定の仕種を示した。

「実は、その想像はそれだけに限定して言えば、満更的はずれでもないのだ。視床の一部や四丘体上丘で神経細胞を接続し直しているというのはお前の言う通りだし、その接続の仕方というのは、左から来て右へ抜けるといった順接ではなく、ひとつひとつの接続個所で鏡に反射するような、いわば反転的な接続になっている。しかしながら、よく考えれば、それで問題が解決される訳ではないことが判る。つまり、網膜に映った像は、上下、左右ともに反転しているのだが、鏡像はその片方しか反転しないのだからな。

「いずれにせよ、お前さんの考え方の根底にあるものを端的にモデル化すると、網膜に|鏤《ちりば》められたひとつひとつの視細胞からの神経が、それに見合うひとつひとつの脳細胞へと連絡し、あたかも脳のなかにあるスクリーンに映像が写し出されるといった方式でものが見え[#「ものが見え」に傍点]、画面の方向が決定される[#「画面の方向が決定される」に傍点]という訳だ。しかしその説明は、説明になっていないのだぜ。何故かと言えば、そのような整然と配列された脳細胞のスクリーンに映像が写し出されたとしても、それを知覚するためには、やはりその映像を視る他の何者かがいなければならない[#「やはりその映像を視る他の何者かがいなければならない」に傍点]からなのだよ。そうするとこれは、説明のための説明を永遠に必要とする堂々巡りに陥ってしまわざるを得ないだろう。

「話を映像の〈向き〉だけに限定して言えば、そのスクリーンを表側から見るか、あるいは裏側から見るかで、その映像の左右の向きはまるで反対になってしまうし、さらにはまともに見るか逆立ちして見るかによって、上下の向きもまるで反対になってしまう。こうなってくると、もう、その場合の〈まとも〉と〈さかさま〉の根本的な基準がどこにあるのかさえ判らなくなってくるではないか。ハハン。そうなのだぜ。成程、網膜に写った像は確かにさかさまだが、それは飽くまで外界の像に対して[#「外界の像に対して」に傍点]さかさまであるに過ぎないのだよ。しかしながら、我々が知覚している映像の〈向き〉と、外界の〈向き〉とは、本質的に比較しようがないのだ。つまり、全く次元が別なのだよ。較べても意味がないもの、と言っていい」

 布瀬はそこで言葉を切って、相手の反応を探るように二、三秒の間を置いた。

「ここまで言えば、うすうす気づいたことだろうよ。結局のところ、吾輩が最初に掲げてみせたケプラー氏の『我々の眼球の網膜に写る外界の映像は上下左右が全く逆になっているのに、どうして我々はそれをさかさまの像として知覚しないのか』という問題は、『外界の映像と知覚される映像は、同一の方向に向いている』という独善的な前提の上に成り立っている。従ってこの問題は、敢えて言えば誤った問題、意味のない問題ということになるのだぜ。まだ判りにくいというのなら、こういう喩え話をすればいいかも知れん。……いいかね。仮に産まれたばかりの赤ン坊に手術を施して、両方の眼の視神経を、映像が普通人とは逆転するように一本一本を巧妙に一八○度反対の位置に繋ぎ変えておき、そのまま育てさせた場合のことを考えるのだよ。……もしもこれが充分発育した者に、突然こんな手術を加えたとするならば、そいつは外界がまるでさかさまにひっくり返ってしまった映像を知覚することになるだろう。しかし、赤ン坊の時にそんな手術をして、そのまま育てられた人間は、自分がさかさまの映像を見ていることを意識しないに違いない。と言うより、自分が知覚している映像を、彼は当然あたり前[#「あたり前」に傍点]のものと思うに違いないのだぜ。しかしながら、彼の映像は一般人の映像とは上下左右が逆になっていることは確かなのだ。さて、設問。……そういう手術を施した人間Aと、普通に育った人間Bが居るとする。BはAにそんな手術が加えられていることを知らない。A自身も自分にそのような手術が施されていることに気づいていない。そんなAとBが一緒に生活する場合、彼らの間に互いに、相手の視覚像が自分とは逆になっているかも知れないという疑いを生じさせる場合が、どんな|瑣細《ささい》なことでもいい、果たして存在するだろうか。

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