饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.14

「簡単な思考実験だよ。答は否なのだ。彼らは互いに何の異和もなく生活し得る。いや、たとえ手術のことをふたりとも知っている場合でさえ、彼らが互いに相手の視覚像が自分とはさかさまになっていることを確かめ、成程と納得することは、どのような方法を用いようとも絶対に不可能なのだぜ。』つまりは、ふたりともその点に関しては全く同等の人間なのだよ。このふたりを外側から区別することはできん相談なのだ。

「そうすると、そこでさらにひとつの疑問が浮かびあがってくるだろう。先程吾輩は、そのような手術を受けた人間は一般人の視覚像とはさかさまの世界を見ることになると言ったのだが、果たして一般人の皆が皆、|悉《ことごと》く同じ〈向き〉の映像を見ているのかどうか、それすら怪しくなってくる。そうなのだぜ。何しろこいつは互いに確認し合うことはできんのだからな。結局のところ、我々の認識する視覚像の〈向き〉は、外界の像が網膜にそのまま映ろうが、さかさまに映ろうが、そんな次元とは全く無縁なものなのだよ。そう、あれと同じだ。吾輩に見えている赤という2色が、他人にとっては全く別な色に見えているかも知れんという、誰しも一度は考えてみる疑問にね。主観的な世界の〈向き〉は絶対的なものではないのだ。あっは。しかし人間は、〝眼で知覚する映像_をそのまま〈世界〉と重ね合わせていないと生きてゆけんからな。それがとどのつまり、ケプラー先生の疑問の正体だったという訳なのだぜ。……しかし、なかなか興味深いではないかね。人間はそれぞれ、各人によって全く異なった〈向き〉で映像を見ているのかも知れんというのは……」

 得々と喋り続けていた布瀬は、そこでふと肩を竦めるように言葉を切ったが、しかしなおかつ根戸には、その布瀬の表情に、依然暗い翳のようなものがつき纒っているような気がしてならなかった。

 根戸はそのまま、妙なさかさま談義だね、という次の言葉を一瞬|躇《ためら》った。その時、いつの間に忍びこんでいたのか、あの眼鏡猿のような影山が跫音もたてずに滑り寄り、不意に布瀬の背後から押しつけるような声で口を開いたのだった。

「でも、最後の言葉はやはり、意味がないですね」

「影山」

 甲斐が怯えたような声を出した。

「ふむ。意味がないと言ったのはどういうことかね」

 布瀬が|僅《わず》かに首を曲げると、シャンデリアの光が眼鏡から遠のき、その下で眼だけが影山の姿を捉えているのが見て取れた。影山はそんな布瀬の言葉に、攤擶と中指で黒縁眼鏡を押しあげながら、

「エーテルの存在と同じですよ」

 そう言って、悠然とテーブルの方に近づいた。

「光を伝える媒質として全子宙に充満していると仮想されたエーテルは、相対性理論の出現と共にその存在を否定されたのですが、そのあたりの事情は皆さんも御存知でしょうか。ニュートンによって確立された古典力学は絶対的時空の仮定の上に成り立っていたために、エーテル即ち絶対空間と看做せば全く都合がいいこともあって、エーテルの存在は疑いのない事実だとされていたのですが、現実にはどうしてもその存在を確認することができなかったんですね。このエーテルが存在するかどうかという論争はながい間繰り返し続けられたのですが、それに終止符を打ったのが相対性理論なのですよ。といっても、それはエーテルの存在を積極的に[#「積極的に」に傍点]否定した訳ではないのです。ただ、エーテルが存在したとしてもそのこと自体何の意味も持たないと言っているだけなんですよ。はい。つまり物理学の方ではひとつの原則があって、ある説が既存の理論や実験結果との矛盾のないことが確かめられても、その真偽を証明する方法が存在せず、しかもその仮定から新たな予言や建設的な理論が何も導き出されないとすれば、その説は科学的理論としての価値を持たないと判定されなければならないのですね。実際、エーテルは存在しようがしまいが力学体系に何の影響も及ぼさないことが確認され、それによってその存在を云々すること自体意味がないと看做されるに至ったのですよ。で、そういった意味において、先程の布瀬氏の言葉も同様な評価が下し得るのではないですか。……人間はそれぞれ各人によって全く別の映像を見ているのかも知れない。それは成程否定することもできない代わりに、正しいことを検証することも決してできない種類の仮説でしょう。しかもそこから何の有意義な問題も導き出されてこないとすると、やはり先程の言葉には意味がないと言っていいんじゃないでしょうか」

 影山は|媚《こ》びるような笑みを浮かべて、テーブルの上にそっと手をおろした。影山の立っているその場所は、かつてホランドの屍体が転がっていた位置であることに根戸は気がついた。

 布瀬は疲れたように脣を|捩曲《ねじま》げると、

「何だかお前の考え方を拡張すると、誰にも知られずに終わるような現実の出来事も、また意味がないように思えるな」

 しかし影山はそれには答えずに、突然首を挙げると、

「ああ。そうでした。布瀬氏は警察に自分の推理を語ったそうですね。一連の連続殺人は総てナイルズ達三つ子の長兄である片城森の仕業だと……」

「そうだが」

「小生は警察の報告を聞いたんですよ。それによると、そういう人間はこの世に存在しないそうなんです。ナイルズ達の産まれた病院に問いあわせたところ、一卵性三生児のひとりは生後一週間で、再生不良性貧血の一種である先天性赤芽球低形成症という病気のために、確かに死亡したことが判明したんですよ」

 不意に空間が凍りついたようだった。

 人形達の誰かが、くすりと忍び笑いを洩らしたような気がした。布瀬はその一瞬の沈黙に気圧されるように|蹌跛《よろめ》くと、

「馬鹿な」

 そう呟いたまま、小刻みに脣を顫わせた。

 ――誰にも知られずに終わる事件の真相も、また意味がない……。

 激しい惑乱はまた、根戸と甲斐にしても同じだった。ふたりは助けを求めるように眼を見交わし、再び怯えるように眼を逸らした。

 その時、突然激しく扉が開け放たれた。四人がぎょっとしてそちらに顔を向けると、血相を変えて飛びこんで来たのは羽仁だった。

「なあ、なあ、もう聞いてるのか。倉野の解剖の結果」

 冷たい予感が彼らを支配した。四人は言葉を返すことができぬまま、黙って首を振った。

 羽仁は苦しそうに息を継ぐと、額にびっしょりと浮いた汗を拭いながら、恐怖に硬張った表情でそれを告げた。

「あの部屋の鍵が倉野の咽の奥から発見されたんだよ。――倉野はあの部屋の鍵を呑みこんでいた[#「倉野はあの部屋の鍵を呑みこんでいた」に傍点]んだ」

 その時、まわりじゅうの人形がどっとばかりに笑い出したようだった。一斉の、その津波のような|哄笑《こうしょう》は、黄色い薄明かりに充たされた部屋のなかにわんわんと谺し、無能な人間どもを嘲りつくすかのように、気違いじみた叫び声となって彼らの頭上に崩れかかった。それは嵐のような激しさだったが、根戸は足がひきつったように動くことができなかった。

 人形達が正体を剥き出したのだ。

 布瀬は、いつ膝を床に落としていたのか判らなかった。涙が不意にぼろぼろと頬にこぼれ、思わず手で顔を蔽いはしたが、一度|堰《せき》を切った涙は後から後から流れ落ち、なかなか留まろうとはしなかった。何の涙なのかよく判らなかった。

 布瀬は幾度も|嗚咽《おえつ》を噛み殺し、|嚥《の》み下そうとした。

 が、そうしようとすればするほど声は咽をついてあふれ出る。そんな布瀬を見おろしながら、人形達は一層狂ったような哄笑を浴びせかけ、そしてそれは、いつまでも終わることなく続けられるような気がした。

 密室は、逆転することによって完成したのである。

 そうして|悉《ごとごと》くの謎は振り出しに戻り、事件の真相は堅牢な|匣《はこ》のなかに封印され、それはナイルズの言葉通り、あの不可知の海に沈められてゆくのだろう。黄色い空気を顫わせて降り落ちる|夥《おびただ》しい人形達の哄笑のなかで、ただそのことだけが確かな映像として眼の前に展がっているような気もした。

[#ここから3字下げ]

6 ラプラスの悪魔

[#ここで字下げ終わり]

 街は紫色の薄闇に沈んでいた。杏子が視線を留めていると、その紫色の光景は次第に焦点をぼやけさせ、通り過ぎる車のテール·ランプや華やかに流れるイルミネーションとも|相俟《あいま》って、どこか遠い北欧の街のような錯覚を与える。それほどその時の夜景は濃密であり、透明であった。杏子はそうして焦点をぼやけさせたまま、その不思議な黄昏に包まれた街のなかに、黒い二階建ての馬車を、遠くに聳える緑灰色のサイロを、白いリボンを遊ばせてなわとびをする少女を見ようとした。

「結局、密室だったんだ」

 ながい沈黙を置いて告げられた根戸の言葉が杏子の耳に届いたが、彼女はそのまま視線を動かそうとはしなかった。どうしてそんなことに|拘泥《こだわ》らなければならないのかという、憤りめいたものが胸のなかにひっかかったのもまた事実だった。街は悲しいほど澄みきった大気に包まれて、杏子にはそれがフェリー二か誰かの映画の一シーンに思えてならなかった。

「結局、倉野を殺したのは、あの部屋のなかに置かれていた鎧武者だというほかないんだよ。甲冑のなかの虚ろな空洞に突然どこからともなく悪霊のようなものが忍びこんで、それがあの大鎧を動かし、倉野の躯を小刀でめった刺しにしたのでもない限り、どうにも説明がつかないんだ。……なあ。あの部屋は警察によって厳重に調査されつくしたんだぜ。さすがに最も重要な蒐集品を陳列してある部屋だけあって、窓にも頑丈な鉄格子が埋めこまれてあったし、その上硝子窓もぴったり鎖されて内側から鍵をしめてあった。羽仁家の者は、合鍵の存在など考えられないと口を揃えて言うし、扉はやはり、隙間を利用した紐のトリックなど不可能ですよと言わんばかりの、四方ともぴったり閉じるものだったし、さらにその鍵穴は、内側と外側が直通になってる類いのものではなかったから、ナイルズの小説のようにウースティーティーというような……いや、君は読んでなかったんだね。まあ、とにかく、鍵穴を通して細工することも不可能なんだ。そしてその鍵は倉野の咽の奥から発見されたと。……いやはや、これはもうまるで|出鱈目《でたらめ》だよ。それにしても、どうして倉野の奴は鍵を呑みこんだのか……」

 いったん口を開くともう止まらないらしく、根戸は短い髪を掻き|梶《むし》るように言いつのって、

「なあ。俺には今度の事件が、ひとりにせよ複数にせよ、人間が計画を練って行なったものとは思えないんだ。つまり人間ならぬもの――それはさっき俺が言った悪霊でも、鬼でも、悪魔でもいい――とにかく何かしら俺達には把握できないものの仕業でなけりゃ、この情況は説明がつかないじゃないか」

「マリオン」

 杏子はようやく視線を窓の外から店のなかに戻すと、微かな冷笑を浮かべて呟いた。

「そういったものの専門は、あなた達の方でしょう」

 そう問いかける杏子の射るような眼差しに、根戸は少なからず戸惑ったような表情をのぼらせて、

「俺は研究者ではあっても術者じゃないんだ」

 そう反論してみせはしたが、杏子は飽くまで冷ややかな面持ちを崩そうとはせず、

「それほどたいした違いはないんじゃなくって」

「しかし……」

「あなたは結局、最初からそんなもの信じてはいなかったのよ」

 切りこむように言われて、根戸は一瞬言葉を失っていた。店内に眼を滑らせたが、倖い近くには客が席を占めておらず、根戸はそっと杏子の顔を|瞶《みつ》め直した。

「あなたはもともと、根っからの合理主義者だったのよ。密教だの陰陽だの、そんなの、単なる御体裁だわ」

「違う」

「そうかしら」

 あしらうように言って、杏子は再び窓の外に視線を戻した。

 根戸には何が何だか判らなかった。何故にこんな会話にならなければならないのか。

 ――これだから、女ってのは……。

 根戸は苦々しく杏子の横顔を眺めていたが、その理不尽な感情が何かにすり替わったように、ふと妙な言葉が口からついて出た。

「そう言えば君も、赤ん坊の時、貧血に|罹《かか》ったって言ってなかったっけ」

「わたしじゃないわ。姉さんよ」

「何だ。雛ちゃんのお母さんの方か」

 根戸は少し口を曲げながら、煙草を取り出そうと上着の内ポケットを|弄《まさぐ》った。

「なあに。わたしだったらよかったということなの」

「あはあ。そんなにつっかかるなよ」

 やっと探りあてた煙草を一本、口に|銜《くわ》えると、レシートの上に乗せてあったマッチを擦って、

「ただ、……同じ病気に罹って、森っていう子は死んじまっただろ。何となく、皮肉な話だなと思ってね。もしも森って子が今も生きてて、ナイルズ達が三つ子のまま育ってたとしたら、どうなってたんだろう」

 そう言いながらゆるゆると煙を吐き出した。淡々しい酩酊感が忽ち頭にまで昇り、根戸はひととき、その快い感覚を|貪《むさぼ》るように静かに息を止めていた。

「姉さんは、父と母の血を輸血して助かったのよ」

「ふん。それでも助からなかったとしたら、今度は雛ちゃんがこの世に存在しないことになるんだね」

「そんなものよ。みんな、|瑣細《ささい》なことだわ」

 根戸はそれを聞くと、思わず意地の悪い笑いを浮かべた。

「瑣細なこと、ねえ。まるで悟りきったような口振りじゃないか。だとすると、今起こっている連続殺人事件も、みんな取るに足りないことなのかい」

「そうよ。みんな、瑣細な間違いよ」

「そんなに居直られちゃあ、かなわないな」

 根戸は取りつく島もなく、堅い椅子に背を凭れさせた。そうして、もう湯気の立たぬコーヒーを眺めながら、

「そうであってくれれば、どれだけ……」

 そう言いかけて、妙に言葉がつっかかった。しかし根戸は、自分が一体何に|躇《ためら》ったのか判らなかった。

 ――瑣細な間違い。

 似たような意味の言葉を、どこかで聞いたような気がした。何だったのだろう。ナイルズの小説か。

 根戸は急に訳の判らない恐怖を覚えた。全身に|鳥膚《とりはだ》が立つのが判る。はっとして顔をあげると、それは一瞬すぐ眼の前を通り過ぎたような気がした。

 ――錯誤。錯覚。

 しかしそれはやはり、手を伸ばしかけた途端、ものの見事に手の届かない場所へと|翻《ひるがえ》って逃げてしまったようだった。根戸は必死でその後を追いかけるように、

「それが正しいのかも知れない」

 そう呟いていた。あともう一歩前に進めば、この半透明な膜のようなものをつき破って、何かしら明るい別の光景が展けそうな予感が纒わりついて離れないのだが、依然、根戸はその突破口の所在が掴めぬまま、もどかしく首を捻ることしかできないでいた。

「そういえば、甲斐クンはどうしたの」

「ああ。それもおかしいんだけど」

 根戸は苛々と眉を|蘯《ひそ》めながら、

「警察に足留めの通知を喰らってるにも拘らず、あいつ、どうも部屋を空けたままにしてるらしいんだな」

 それを耳にするなり、杏子は窓の外に首を向けたまま、急に吹き出すように笑い始めた。

 根戸は眼を疑った。

「何がおかしいんだ」

「だって」

 杏子はなおも美しい笑顔を横に向けたまま、

「実際、愉快なんですもの。みんな、ひとりずついなくなってしまうんだわ。三人が死んだ上に、真沼クンと甲斐クンも行方不明になって、もうすぐわたしと雛ちゃんも東京を離れるし……」

「あ」

 根戸は思わず煙草を口から離した。

「決まったのか」

「何が」

「東京を離れるって」

「前からそう言ってるじゃないの」

「だって……本当に」

 口籠もる根戸に、杏子は半ば憐れむような笑顔を向けながら、

「今日が二十八日だから三日後……。それっきりよ」

 その時根戸は初めて、杏子の囗紅の色がいつもと違うのに気がついた。それっきりよ、と呟く脣の動きはスロー·モーションで見るように何度も頭のなかに反復され、そしてその濡れたような艶やかな輝きを宿している脣は、ごく僅かながら、いつものものよりもその赤の深さを増していた。

 根戸は激しく煙草に|噎《む》せながら、その色の意味を推し量ろうとしていた。

「それじゃあ、まるでナイルズの小説と一緒じゃないか」

「なあに。……ああ、そういえばナイルズ、また小説を書き進めたんですってね。わたしはまだ読ませて貰ってないけれど。雛ちゃんもかしら」

 根戸は一瞬、眼の前が暗くなったような気がした。なおも強く咳こみながら、根戸は不意に、たった一滴の涙を|零《こぼ》していた。

 思いがけないことだった。

 慌てて顔を|俯《うつむ》けたが、それは涙が落ちるより先だったか後だったか、よく判らなかった。そして無理に咳を続け、しばらくはそのまま、涙に気づいたのかそうでないのか、何も言わないでいる杏子の沈黙を肩口に受け止めながら、いちばん悲しい生き物は貝なのかも知れない、根戸はそんな脈絡もないことを考えていた。こうして我々は、杏子の言うように崩壊の道を辿ってゆくのだろうか。甲斐がこのまま姿を消すと決まった訳ではないが、もしもそれが本当になってしまえば、後に残るのは、羽仁、布瀬、影山、ナイルズの四人しかいない。

あるいは筋書きは、生きていればこのファミリーの一貝となる筈だった片城森が十五年前に死んでしまった時から、総てこうなるようにと定められていたのだろうか。何から何まで、そこに集う人物の一挙手一投足、そして彼らの抱く様ざまの想いから、墜ちゆく奈落の闇の深さまで、|悉《ことごと》く組立てられ、決定され、遂行されていたとでもいうのだろうか。

「ラプラスの悪魔って知ってるかい」

根戸が顔をあげると、

「知らないわ。ルシフェルとかベールゼブブとかいう名前なら、わたしだって聞いたことがあるけど」

「ラプラスっていうのは十八世紀頃の数学者さ。彼は、この宇宙に起こる事象は総て完璧な因果律に縛られていると考えて、自分の著書でこういうことを述べてるんだ。……『例えばある瞬間において、自然を動かしている総ての力とそれを構成している総ての物体の相互的な位置を知ることができる知性、つまりそれらの資料を分析するのに充分なだけの巨大な知性があるとすれば、それは宇宙の最も大きな天体の運動と最も軽い微粒子の運動を同一の微分方程式のなかに包含することが可能だろう』とね。噛み砕いて言えば、この宇宙に起こる森羅万象は、悉く微粒子と微粒子の相互作用によって成り立っているのである限り、それは物理法則に従って運動する微粒子の運動の集積にほかならない。しかも、その微粒子の状態が正確に掌握できてさえいれば、その運動の仕方はたったひと通りしかない筈だから、どこまでもその行動が予測できる。だから、この宇宙に存在する悉くの微粒子の位置とエネルギーを知ることができれば、それから計算することによって、無限の過去から無限の未来までの宇宙の姿を知ることができるということなんだ。つまり、宇宙に起こる総ての出来事は、物理法則によって過去から未来永劫まできちんと定められているというんだよ」

 根戸は憑かれたように言いつのった。

「勿論、人間にはとても全部の微粒子の行動やら位置関係を調べることなんてできやしないさ。しかし、もしもそれを見通すことのできるような、さっきも言った巨大な知性を持つ〝何者か_を仮定したとすれば、そいつにはもう、宇宙が消滅するまでのありとあらゆる出来事が判ってしまうことになる。……ねえ。そうして、その巨大な知性は、後にラプラスの悪魔という名称を得ることになったのさ。奴には何もかもお見通しなんだ。人の心というのも、結局は化学反応や電気的反応の集積にしか過ぎないからには、奴には人間が生まれた時から死ぬまで、何を考え、何を思って生きてゆくのかさえ、手に取るように予測できるんだよ。……それがラプラスの悪魔なんだ」

「判ったわ、マリオン。あなたが何を言いたいのか」

 杏子はそっと、テーブルの上に手を滑らせながら言った。根戸はその時、杏子のつけている香水もまた、いつもと違ったものであることに気がついた。

「要するに今度のことはそれと同じで、総てこの世ならぬ何者かの手によって、何から何まで最初から決められていたのではないか、と、こうでしょう。……とうとう宿命論的なところまで行き着いてしまったのね。そんなにまでして自分を説得しないではいられないなんて、あなたもつくづく可哀相な人だわ」

「ありがとう」

 根戸は鼻白んだように笑って、

「だけど、これは俺の確信なんだ。実のところ、機械的な因果律は現在の物理学では否定されてるんだけどね。……ただ俺は、そのラプラスの悪魔のような奴が俺達の上にいるという点だけは断言できる。賭けてもいいさ。それでなくて、どうしてこんなに奇妙な偶然が氾濫するものか。君と雛ちゃんが八月三十一日に青森に行ってしまうことだって、既にナイルズの『いかにして密室はつくられたか』が予告してる通りだからな」

「どういうこと」

 相手の熱心さに、杏子は初めて首を傾げながらそう尋ね返した。

「どういうこともこういうことも[#「どういうこともこういうことも」に傍点]ない」

 根戸は二本目の煙草に火をつけ、

「そこにはちゃんと、君達ふたりが青森の親戚の家に引越すというエピソードが描かれてるんだよ。ちゃんと日付も明記してね」

「それが八月三十一日だというのね……」

 そっと眉を顰めてみせる面持ちは、しかし、さほど深刻なものとは受け取れなかった。あるいは杏子自身、今自分がいるのは紫に暮れなずむどこか遠くの街だという想いから、抜け出ることができないのかも知れなかった。根戸は再び、ふと残虐な衝動にかられて、

「それに、ナイルズの小説にはもっと面白いことも書かれてあったよ。君とナイルズが、何回か肉体関係を結んでいるという内容でね……」

 しかし根戸は、喋った後で軽い後悔を感じていた。杏子の表情は、今度ははっきりと変化を見せ、そうしてそれは決して回復されないもののように凍りついてしまったのだ。

「ナイルズが、自分で?……」

 やっとそうま訊き返したその表情の奥には、確かに強い否定の意思表示があったものの、そのさらに奥には、正体は知れぬがそれとは別種の感情が見え隠れしていた。

 |虞《おそ》れにも似た、翳のようなもの。根戸は微かな痛みさえ覚えながらも、いったん口をついて出た言葉は、ずるずると坂を転がるように留まることがなかった。

「なかなか興味深かったよ。それによると、君はナイルズを|羞《はずか》しがらせることに熱中してたそうだけど……」

 杏子の表情の奥にひそむ虞れのようなものが、さらにその影を濃くした。そしてそれはみるみる杏子の肌の内側を被いつくしてゆくのだろう。根戸には奇妙にまざまざと、その浸蝕の光景が壮大な壁画にでも臨むかのように眺望することができた。それは不思議な闘いのようでもあり、圧倒的な闇の降臨のようでもあった。

「何であれ、みんな終わったのよ」

 |眦《まなじり》を決したような、鋭い語調だった。根戸はその硬質な杏子の表情を美しいと思い、そして同時に、ひとつの甜蠍めいたものが全くの崩壊をなし終えたことを悟ってもいた。その悟りはまるで唐突に訪れたために、根戸はその瞬間をこれといった大きな感情を抱くこともなく、ひどく柔軟にすり抜けてしまっていた。そしてそうであるからには、これから先は何の悲しむべきこともなく、これ以上のどのような崩壊が彼の前に待ち受けていようが、最早それは根戸にとって何の拘りもないものであるに違いない。

 杏子は既に立ちあがりかけていた。

 根戸は動けなかった。

 ――俺には復讐することしか残されていない。

 根戸はそうも考えていた。じゃあ、という言葉が口を出そうになるのをやっと押し留めて、根戸は背を向けかけた杏子に、なぜか判らぬままそんなことを尋ねていた。

「最後に――今日の香水の名前を教えてくれないかな」

 その言葉に背を向ける動作を止めると、再び首だけゆっくりとこちらにまわし、今はもうもとの植物的にさえ見える表情に戻った横顔を向けながら、杏子はぽつりとそれに答えた。

「ラ·フユイト·デ·ザール……」

 ――時の移ろい――。

 根戸は椅子に腰を降ろしたまま、店のなかにひとり、ただその言葉だけを繰り返していた。ほかには誰もいない。異国の風景が窺い見える窓の店には、最早その時、誰ひとりとて存在する筈がなかったのである。

[#ここから3字下げ]

7 撫でてゆくのは風

[#ここで字下げ終わり]

 羽仁は前髪を掻きあげながら、熊のように輪を描いて歩きまわっていた。

 九月一日。甲斐はついにその姿をどこにも現わすことなく、結局は真沼と同じ行方不明ということで警察の捜索も始まったのだが、その消息は|杳《よう》として掴みどころがなかった。並行して、『黄色い部屋』は改装のため休店となった。

 周囲の人びとの手によって、彼らの空間は見るも無惨に切り裂かれ、|蹂躙《ふみにじ》られ、今そこに漂うのは妙に白じらとした光に照らし出される稀薄な空気でしかない。それは惨劇の後に当然訪れる、是も非もない情況だったのかも知れないのだが、彼らは執拗にそれを拒み続けるかのように、根戸のマンションに集まった。

 羽仁は歩きまわっていた足を止めて、ゆっくりと部屋のなかを見渡した。

 布瀬はあの時以来、驚くほど無口になっていた。そしてそれは|概《おおむ》ね誰に対しても言えることで、ナイルズは勿論、根戸さえも椅子に腰を降ろしたまま、先程からひと言も口をきかないでいる。ただひとり、いつもと変わらないのは影山だけで、そんな有様の三人を横眼に見ると、眉を|竦《すく》めるように羽仁の方を振り返って、

「小説と現実とでは、やはり勝手が違うんですねえ。いやはや、小生も全く呆気に取られて、なす術もない状態ですよ。小生にとっていちばん不可解なのは、何度も繰り返された言葉ですが、この一連の連続殺人劇を遂行させるような動機がどこにもないことなんです。はい。ああ、勿論小生は皆さん方との交流が浅くて、根深いところの様ざまな事情にも精通していないものですから、あまりこんなことを大見得切って言えないんですけれど。……それについてはどうですか」

「その通りだよ」

 羽仁は再び頭を掻いた。

「僕もそこのところが、どうしても判らない。曳間、ホランド、倉野。この三人が殺されなければならないような理由は、誰を犯人に仮定したところで説明がつかないんだよ。だとすれば、犯人は最初から全く動機もなしに三人を殺したことになってしまう。ただ殺人を犯したいという欲求だけが犯人のなかで先行していて、三人は無作為に選び出された被害者に過ぎないとしたら、犯人は骨の髄までの殺人狂なんだ」

 吐き出すように言ってのけると、影山もそれに加わるように、

「もしもそれが正しいとすれば、殺人はまだまだ続くかも知れませんねえ。なにせ、犯人はこの五人のなかにいる訳でしよう」

 その言葉は、黙りこくっていた三人の躯に、ぴくりと反応を与えた。

「そうとばかりは言えんだろうさ。行方不明になった真沼や甲斐にしたって、条件は変わらないからな。……それよりも俺は、どうもお前さんのことがひっかかってならないんだけどねえ」

 そう初めて口をきいたのは根戸だった。影山は|剽軽《ひょうきん》な

 表情をさらに|恍《とぼ》けたものにして、

「それはまた、どういうことですか」

「だってお前さんは、今度の一連の事件を最初から予測してたじゃないか」

 影山はその言葉にもう依然愛想のいい笑みを消そうとはしなかった。

「あの暗号ですか」

「そうだよ」

 明るい日差しが根戸の背後から絶え間なく流れこんでいて、それは表情を読み取り難くしていた。柔かな日差しだった。細かい水滴が噴水のように吹きあげられて砕け、さらに微細な霧となって飛び散っている様にも似ていた。

「俺は七月三十一日の推理較べでは、あの暗号を半分しか解いてなかったんだよ。勿論、もう少し説明する筈だったんだが、俺が影山架空説を|誦《とな》えた直後にお前が登場したものだから、結局あれっきりになっちまった、あっはは。俺も少し感情的になってたからね。……しかし、よくよく考えれば、確かに影山という人物がみんなでつくりあげた架空の人間だという、最終的な結論は間違い

 だったけど、その一歩手前までの俺の推理が否定された訳では決してない。いや、それどころか、あの暗号の謎は謎として、依然解決されないまま残ってるんだから、俺は気を取り直して、残り半分も解読してやろうと、ここ何日か頭を悩ませ続けたんだよ。具体的には、あの文面の裏にあった奇妙な図案だ。

「あの八角形の枠に関しては、俺は最初から九星術の方位盤に違いないという確信を変えることはなかったよ。しかし、あの九つの文字の意味が判らない。まんなかに鬼。そうして上から左まわりに、宏、※[#「草冠+巾」、Unicode:U+773D]、※[#「ノ+厶」、第3水準2-1-10]、木、仏、人、厶、口、だったな。……いやはや、全く何のことなのか。といっても、俺はひとつの見当だけはついてたんだ。方位盤のなかに配置されてるからには、そのひとつひとつは人物を示してるに違いないとね」

「ねえ、根戸」

 急に口を挿んだのは羽仁で、

「僕も一応、あの図案についてはいろいろ考えを巡らせてみたんだよ。『厶』という文字はシとかボウとか読んで、わたし、とか、それがし、なにがし、という意味を表わし、あるいは日本だけで使われる用法だけど、『厶る』と書いて、ござる、と読ませる。それから『※[#「ノ+厶」、第3水準2-1-10]』というのは中国で使われている略字で、もとは、細かい、とか、微か、という意味の『麼』という文字だったんだね。これはバとかマとか読んで、『麼』という俗字体を持つんだけど、『※[#「ノ+厶」、第3水準2-1-10]』という文字は|※[#「ノ+厶」、第3水準2-1-10]九牌《ヤオチュウ》という言葉で、麻雀を|嗜《たしな》む人にはお馴染の筈だよね……。そこまでは調べたんだ。だけど、あの『※[#「草冠+巾」、Unicode:U+773D]』という文字。あれは僕の持ってる漢和辞典にも載っていなかったんだよ。あんな文字、本当にあるのかい」

「うむ。あれは……」

 根戸は頷いて、脣を舌で湿すと、

「字の意味だけなら、倉野にはすぐ判った筈なんだよ。囲碁の用語にあの文字を使うものがあるんだ。囲碁というのはそもそも石による陣地の囲み合いで、その陣地の大きさを競争するものなんだけど、黒と白の陣地の数が全く同じ場合のことをこの文字を使って〝|※[#「草冠+巾」、Unicode:U+773D]《じご》_というんだ。もともとはベンとかメンとか読んで、相当たる、という意味を表わす文字らしい。囲碁の用語にはほかにも、|征《しちょう》とか|尖《こすみ》とか|劫《こう》とかいう独特のものがあるんだけど、それはともかく、囲碁に関係のある文字だけに、俺は初め、こいつは倉野のことを意味してるんじゃないかとも思った」

「あはあ。なるほど」

 羽仁は力なく笑って、

「囲碁に麻雀……。だとすると、麻雀の方は誰かな。いちばん強いのは、お前か真沼だろう」

「いや、羽仁。……そんなふうに考えたくなるのが当然だけど、表側の暗号文に|字面《じづら》の意味がなかったように、こちらも実は、文字そのものの意味は関係ないんだ。重要なのは、文字の形状だったのさ」

「どうもよく判らないなあ」

 言いながら、羽仁は影山の方を振り返ってみた。相変わらずいつもの媚びるような笑みを絶やそうとしない影山は、ウェーブのかかった髪を掻きながら、悪戯がばれた時の子供のような表情を浮かべていた。

「要は足し算と引き算さ。周囲の八つの文字は、中央の鬼という文字に加えるか除くかして、人の名前を浮かびあがらせるためのものに過ぎないんだ。それに気がついたのは、八つの文字のなかにムという部首を含んでいるものが四つもあったからだ。しかも中央の鬼という字にしてからがそうだろ。こいつは何かあると考えて、俺はついにその謎を解いたよ。鬼ひく宏は久、鬼たす※[#「草冠+巾」、Unicode:U+773D]は蘭、鬼ひく※[#「ノ+厶」、第3水準2-1-10]は甲、鬼たす木は根、鬼ひく仏は羽、鬼たす人は倉、鬼ひく厶は曳、鬼ひく口は布。※[#「草冠+巾」、Unicode:U+773D]というのは、巾を門の略字と看做して使うところがみそ[#「みそ」に傍点]だ。強引なところもあるけど、鬼という文字を中心にこれだけやれたのは見事なような気もする。……判りやすく図に直してみようか」

 そう言って根戸は立ちあがり、机から紙と鉛筆を持ってきて、テーブルの上で何やら描き始めた。

「北を上に、直しておくよ」

<img src="img/hako_14.jpg">

 影山を除く三人は、ぼんやりとその図案を覗きこんだ。羽仁はなぜかしら、根戸の手によって不思議な呪法がなされてゆくような気がしてならなかった。

「オヤ。これは……」

 最初にそれに気づいたのは布瀬だった。眼鏡の奥で下瞼をあげて眼を細めると、

「実際の住居の方角そのままではないかね」

「さすがに布瀬。仏文学科」

 聞いたようなことのある訳の判らないことを言って根戸は、

「まさしくこれは、ある場所から見た我々の住居の方角を、図に表わしたものにほかならない。俺は東京の地図をひっぱり出して調べてみたけど、その中心をあの『黄色い部屋』に置けば、これがまた実に旨く辻褄が合うんだ。偶然といえば全く奇妙な偶然だが、俺達の住所にこんな不思議な位置関係があるなんて、影山のあの図案の謎を解いてみるまで気がつかなかったとは、全く迂闊だったな」

 そうすると、影山はこのファミリーに加わって間もなく、この奇妙な偶然に気がついていたのだろうか。三人は慌てて、飽くまで|飄々《ひょうひょう》とした雰囲気を崩そうとはしない、この黒縁眼鏡の小男に視線を揃えた。

「さて、ここまで判ってしまえば、後はもう簡単さ。九つの宮に、九星術固有の数字と色をあて嵌め、それに例の凶方の概念を応用すればいい。〈図は暗き印〉という暗号文の言葉もそこで初めて意味を持ってくる筈なんだよ。そう言えばもう見当がつくだろ。『白い部屋』、『黒い部屋』、『黄色い部屋』と、既に我々の眼の前には三つの色が堂々と提示されてるじゃないか。これをそれぞれ、持ち主のいる場所にふりあてれば、いよいよ辿るべき径がはっきりしてくるというものさ。中央には黄、北には白、南西には黒……。おやおや、そうするとこれはどうやら、中央に五黄の来る定位盤らしいね。もしそうだとすれば、周囲の色彩も同時に決まって、北から左まわりに、一白、六白、七赤、二黒、九紫、四緑、三碧、八白、ということになる。それでは実際にひとつひとつを検討してゆけばどうなるか……。

目录
设置
设置
阅读主题
字体风格
雅黑 宋体 楷书 卡通
字体大小
适中 偏大 超大
保存设置
恢复默认
手机
手机阅读
扫码获取链接,使用浏览器打开
书架同步,随时随地,手机阅读
首 页 < 上一章 章节列表 下一章 > 尾 页