「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.15
「羽仁のところは『白い部屋』だから一白で問題はない。倉野のところは六白が来る筈だが、 説によると、この六白というのは黄色から橙にかけての色を差すそうだから、これも旨く適合するな。曳間のところは七赤が来る訳だけど、別にあいつの部屋は赤くも何ともないから、これは該当しないかと思えばさにあらず。あいつの住んでるアパートの名前が|紅荘《くれない》であることはみんなもよくご承知の筈だ。そうしてお次の布瀬のところは、二黒で『黒い部屋』。久藤宅は九紫だが、雛ちゃんの部屋の装飾がだいたい紫色の色調だったね」
羽仁は根戸の説明を聞きながら、軽い|眩暈《めまい》をさえ感じていた。眼に見えぬものの呪縛を、その時初めて明確な実体として意識しなければならなかったのだ。
「ホランドとナイルズの部屋は緑色の|毛氈《カーペット》が敷いてあり、壁紙も枯草色と、これも次に来る四緑と符合するじゃないか。しかもホランドはことのほか緑色が好きだったしね。甲斐のところは三碧で、これは青が基調となってるあいつの部屋と合致するし、最後に俺の番だけど、八白にあたるこの部屋はどうだ。――羽仁の『白い部屋』に負けないほどの白い部屋だろ」
羽仁は強烈な不安にかられながら、そっと影山の方に眼を配った。そうして彼は眼を疑った。影山の表情はいつの間にか、羽仁の不安をそのまま反映したように、瞹
昧な翳りとでもいったものをその上に漂わせていたのだ。
「なあ、影山。ここに来て俺は、お前が総てを予測してたのを思い知らされたよ。俺達を鬼に喩えたのは面映ゆいことだが、方位盤にあて嵌めるべき数字は、図案の上に書かれてあった〈四鬼〉にほかならない。つまり俺達の本命星が四緑木星だとして、方位盤と照らし合わせれば、四緑の蘭――ホランドが本命殺にはいり、その反対方向の倉野が的殺にはいるじゃないか」
根戸は、影山の様子を敢えて無視するかのように言いつのった。
「また、俺は逆のことも考えてみたんだ。もしかすると〈四鬼〉ってのは、中央の鬼に四緑をあて嵌めるという示唆かも知れないとね。もしもそうだとすると、周囲の枠には上から左まわりに、九紫、五黄、六白、一白、八白、三碧、二黒、七赤、ということになって、調べるのは五黄殺と暗剣殺の組だということになるんだが、面白いことにこちらの考え方を適用しても、倉野が五黄殺、その反対方向のホランドが暗剣殺にはいることになって、話は殆ど変わらないんだ。お前の意図がどちらにあったのかは知らないが、とにかくホランドと倉野のふたりの上に、凶々しい死神の大鎌が振り降ろされると、はっきり予告されてる訳だ。……尤も、五黄殺はじわじわと|蝕《むしば》むような不幸を表わし、暗剣殺は降って湧いたような不幸を表わすという性質から見れば、あっという間に|縊《くび》り殺されたホランドが暗剣殺で、反対に出血多量によってじわじわと死んでいった倉野が五黄殺だとする後者の解釈の方が、より本命らしく思えるけど」
柔らかな光に充ちた部屋のなかで、布瀬は蒼褪めた顔色を隠そうともせずに口を挿んだ。
「しかし、それでは、曳間の死はどうなるのかね……」
そうはいっても、蒼褪めているのは何も布瀬ひとりに限ったことではない。ナイルズも根戸も羽仁も、そうして今は影山まで血の気の失せた顔を並べて、互いの顔を瞶めあっている。それはまるで白昼に集う幽霊のようで、羽仁はひととき、何かが明らかにされてゆく期待と恐怖を、等分に味わっていた。
「さあ。それなんだよ」
根戸はテープルの上に鉛筆を叩きつけるように投げ出し、
「そこが今度の事件を判らなくしてた点なんだ。七月三十一日の推理較べの時点で、こいつが判っていれば。……はっきり言おうか。死を予告されてなかった曳間がなぜ殺されたのか。……しかも現場が倉野の部屋だった、その理由を」
「根戸!」
|仰反《のけぞ》るように布瀬が呻いた。
「あれは――間違いだったと言うんだな。単なる、マチガイだったと」
羽仁は耳を|塞《ふさ》ぎたい衝動をやっと抑えた。その言葉は彼のなかのある部分と、奇妙な共鳴を起こしているようだった。直接の記憶ではない。後から倉野に聞いたところの、そしてナイルズの小説にも書かれていたところの、ひとつの堪え難い言葉だった。
「そうさ。曳問の殺害は、犯人の予定表に載ってたものじゃなかったんだ。曳間は倉野と間違って殺された[#「曳間は倉野と間違って殺された」に傍点]んだよ」
それは全く新しい光景だった。眼の前にぶ厚く垂れ籠めていた靄が不意に霧散し、その向こうから現われた視界の深さに、彼らは微かな身じろぎを禁じ得なかった。
「例えばこんなふうに考えてもいい。倉野の留守中に部屋を訪れていた曳間を、後からやってきた犯人が階段の上から呼びかけ、戸を開けた途端に心臓を短剣でひと突きしたんだと。勿論犯人は、そこに曳間がいるなどとは思ってもみなかったに違いない。窓もカーテンもしまっていたため薄暗かったこともあって、犯人は曳間を倉野と間違えちまったんだ。だから、犯人がその後三時間以上も倉野の帰りを待ったのも判るだろう。靴を見せるためなんかじゃない。奴はまさしく、倉野の命を奪うためにだけ、その場に留まってたんだぜ」
「だって、倉野は殺されなかった……」
拒むように羽仁が言うと、
「そこが奇妙な犯罪心理なんだが」
と、鼻白んだように言葉を切って、根戸は、
「犯人は間違い殺人を犯し、再び殺人を行なうことに|怖気《おじけ》づいちまったんだ。あの|茹《うぜ》るような熱気のなかでひたすら倉野の帰りを待ち続けるくらいだから、最初はどうでも、狂った殺人計画を是正するつもりだった筈だけど、最後の土壇場になって、ついつい躊躇してしまった。……そうすると、もう駄目さ。ぐずぐずしてると曳問の屍体を発見した倉野が戻ってくる。かくしてほんの一瞬の躊躇が、彼をしてその場から遁走せしめる。後に残ったのは、世にも不可解な〈密室ならぬ密室〉という訳だ。勿論、戸口の鍵を表側からかけていたのは、倉野以外の人物の闖入を防ぎ、倉野には用心をさせないための小細工に過ぎない」
「じゃあ、犯人は」
ぽつりと、その時初めてナイルズが口を開いた。|嗄《しわが》れた声。流れこむ初秋の光には|相応《ふさわ》しくない巨大な悪意の影が、その時の部屋には落ちているような気もした。ナイルズの呟きは、当然、根戸の話の後に来るべき疑問だった。
「それは影山がなぜ殺される人物を、あれほど正確に予測できたかという疑問に重なってくるだろ。偶然なんかであり得ないのは、雛ちゃんと杏子さんの方はひと|纒《まと》めに〈久〉を使ってるのに対し、片城兄弟の方はホランドだけを指名して〈蘭〉を使ってることを見ても明らかだ。影山が正確に殺される人物を指摘できた理由。――それはたったひとつしかない。殺人を計画し、そしてそれを実行したのが、ほかならぬ影山自身だったとすれば……」
言いながら、根戸はゆっくり顔を挙げた。ほかの者もつられるようにそれに従った。
そこには、ぼんやりと幽霊のように|竚《たたず》む影山の姿があった。
「だいたいからして、我々との交流が最も浅い影山に、ファミリーのなかで殺人が起こり、しかも殺されるのはホランドと倉野だなどと予測できる道理がない。しかし殺人者が影山自身だとすれば、自分が予定した被害者のリストを暗示してみせるだけのことなんだから、これほどたやすいことはないね。……ホランドの時だって、考えてみれば、影山。お前があいつに会った最後の人間だったじゃないか。お前が俺達のいた部屋にはいってきた時、既にホランドを絞め殺した後だったとすればどうだ。そうさ。この俺を物置に抛りこんだのもお前なら、密室を構成したのもお前なんだ。……羽仁の屋敷の時だって、お前はいつでも忍びこむことができたんだからな」
追いうちをかけるように根戸が言うと、影山は蒼白な表情のまま、やっと気を取り直したように眼をキョロキョロと動かして、
「だって、それでは、トリックのことには何も触れていないじゃないですか。……だいいち、小生には、アリバイがあるんですよ。……曳問氏の時もそうですし、倉野氏の時も、いろいろと警察に調べられたんですから」
詰まり詰まり、やっとそれだけを言い返して、影山は突然痛みを|怺《こら》えるように顔を歪ませた。喰い縛った歯の間から微かな呻き声を洩らしながら、
「――小生には、何が何だか判らなくなってしまいました」
弱々しい声でそう呟いて、再び顔をあげると、
「あれは、小生の悪戯だったんですが――」
それが最後だった。影山は弾けるように扉の方に駆け出すと、あっという間に根戸の部屋から姿を消し去っていた。あまりに急な出来事だったので、彼らは殆ど声を出す暇さえなかった。
ただ一瞬、影山が扉を開いた途端に、吹き抜けになった部屋のなかを、一陣の風が走り過ぎたのだけは、彼らも妙にはっきりと意識していた。
それきり二度と影山は戻ってこなかった。根戸の部屋にだけではない。その日から、影山は決して彼らの前に姿を現わすことがなかったのだ。時の流れはそれ以後も歩みをやめることなく、いつしか一週間たち、ひと月たち、ただその時の風の感触だけがやけになまなましく残されたまま、しかし彼らの眼の前には、再び深い濃霧の底へと鎖された|鈍色《にびいろ》の世界が、圧倒的な重圧感を伴って展がっているばかりだった。
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8 遡行する謎解き
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試みに新聞や週刊誌を展げてみても、その頃には既に彼らの間の一連の事件に関する記事は、紙面のどこにも見つけることはできなくなっていた。恐らくそれに関しては、ファミリー内の細かな事情について堅く口を鎖し続けてきた、彼らの唯一の勝利と言えるのかも知れなかった。警察の捜査も決してその手を|弛《ゆる》めた訳ではなかったが、事件の真相と殺人者の正体はついに明らかにされることなく、一連の謎はようやくにして迷宮入りの様相を色濃くし始めているというところらしかった。
そのほかに彼らに関係したことと言えば、真沼と甲斐の消息は依然として知れず、影山も純然たる行方不明という訳ではないにしても、九月一日以降彼らの間に姿を見せようとはしなかった。そうするうちにスナック『黄色い部屋』の改装が終わり、店名も『帰路』というありきたりのものに変えられて、聞くところによれば|夥《おびただ》しく蒐集されていた人形達も|悉《ことごと》く売り払ってしまったらしく、彼らの間に甲斐良一からの新装案内の葉書が届けられたのは、十月も初旬になってからのことだった。
葉書には形式的な文章が印刷された後に、弟のことは気にせず、今まで通り気軽に立ち寄ってほしい|旨《むね》が書き加えられていた。
残された者のうち、最も深い傷を負ったのはナイルズの筈で、雛子が彼のなかでどのくらい重い位置を占めていたのかは知れぬにしても、十五年前に分身のひとりを喪い、そしてまた今、共に生き残ってきたもうひとりの分身を喪ったとあっては、彼を責め|苛《さいな》む現実の重さはいかばかりだっただろう。しかもそのナイルズ自身の書いた小説を契機として惨劇は始まり、それを追いかけるようにして現実と架空の激しい競争が続けられたからには。
彼らはこの現実に張り巡らされた罠の、底知れぬ巧妙さに戦慄するほかなかった。陥穽は至るところにその不気味な口を開き、あるいは既に、どっぷりと総てを呑みこんでしまう架空の胎内を、彼らは歩き続けているのかも知れないのだ。
「胎内巡りという言葉があるね。――あれに似てるな」
店内には、事件のあった別室も、今は痕跡すら認められなかった。色彩も爽やかな中間色によって占められ、かつての不吉な空気はひとときの悪夢だったかと思われるほどである。ただその代わりに新たに二階が増築され、四人はそちら側には客がいないのを確かめて、二階準備中の札を出して貰い、窓際のテープルのひとつに席を占めたのだった。
十月五日。窓から眺め渡される街路樹も黄色く染まり、すっかり外界は秋の装いに衣更えをなし終えていた。二度ほど台風が日本の上空を通過してしまうと、もうそれまでの異常気象は過去のものとなり、あれほど世間に蔓延していた終末思想とやらの風潮も急速に姿を消し去って、|季《とき》の流れは再び順調にその歩みを取り戻していた。
「全くな。しかも、どこまで続いてるのか、さっぱり判らないとくる。……案外、死者の辿る虚無もこんなものかも知れないぜ」
根戸が言葉を返した時、不意にナイルズの肩がぴくりと顫えた。思いがけない言葉に、羽仁も眉を顰めて、
「死者が、何だって……?」
「自らの想いとは無縁な場所にいるってことでは、生者も死者も、たいした違いはないってことさ。御参考までに――」
そう言って、根戸は胸ポケットから黒い小さな手帳を取り出し、ぽんとテーブルの上に抛ってみせた。
「これは」
「死者の書さ」
根戸の表情に悪戯な笑みが浮かぶと、つられたように羽仁も口許を緩めた。
「へえ。死後の世界の案内書っていう――。それにしては、パピルスでできているようにも見えないけど」
「|録《しる》したのは神官ならぬ黒魔術師だからな。これは曳間の手帳だよ。この間、家の人に借りたんだ。見てみろよ」一
「曳間のだって?」
羽仁が開いたページには、断片的な語句や文章と、できそこないの魔法陣に見える図形で、びっしりと埋めつくされていた。
「残念ながらこれは日記じゃない。書かれてあるのは殆ど、奴の専門だった心理学的なことばかりでね。そういった構想が浮かぶと、必ずこの手帳に書き録していたらしい。だから事件の本質には何ら関係ないけど、最初から読んでゆくとなかなか面白いんだ……。勿論、ここに書かれてあるのは、奴の頭のなかに構成されつつあったもののほんの断片に過ぎないだろうけど、それらを繋ぎあわせてみると、その恐ろしい全貌が|仄見《ほのみ》えてくるんだよ。俺は読み進みながら、凄いスリルを覚えて顫えあがっちまった。……奴の謀んでいたのは、どうも驚いたことに、教授連を驚倒させたというあの『記憶におけるくりこみ原則』などもその一環に過ぎない、全く画期的な理論体系だったんだ。俺は思うんだが、曳間ってのは、数学の分野で言えばエバリスト·ガロアに喩えられるべきだな」
「またぞろ、何だか訳の判らないことを言いだしたな」
髭を撫でつけながら、遮るように言葉を挿んだのは布瀬だった。彼もまた、一時期の鬱状態から、ようやくいつもの皮肉屋に立ち戻っていた。
「しかし|畢竟《ひっきょう》、事件の本質に無関係であるばかりか、死者の辿る虚無とやらにもあまり関係がなさそうに思われるのだがね」
「そう言われると弱いな」
根戸は短い髪をバリバリと掻いて、
「まあとにかく、最後の文章を読んでみてくれ。|強《あなが》ち関係なくもないだろう」
布瀬はそれを聞くと、手帳のページをパラパラと|捲《めく》った。
そこには次のような文が録されてあった。
『何度も何度も繰り返される思考実験。その度に顔を覗かせる僅かな|齟齬《そご》。それを埋めあわせようとする、殆ど絶望的な試み。そうだ。僕は、そこに微調整など|効《き》かないことを知っている。髪の毛ほどの隙間のために、塔は再び撲ち崩されねばならないのだ。こんなところにすら不連続線が横たわっている。
誰が一体、何を、どうやって共有できるというのだろう。そう僕も君も思っている。だからこそ、そっと囁きかけよう。無論、精神なんて、脳内の化学変化と電気的作用の、ちょいと複雑な集積に過ぎないんだと。そうとも。不連続線が呪縛のために準備されていたとしても、|雁字《がんじ》|搦《がら》めに身動きできなくなるまで待つことはない。踏み越えたまえ。
何度雷光が塔を撲ち崩そうと、新たな塔はその度に立つだろう。決して力強くはないこの囁きを、君は|矛盾《さかしま》と笑うだろうか』
そこから後は、痛ましいほどの空白が手帳の終わりまで続いていた。
「どうだ。これが唯一、心情吐露の部分だよ」
「成程ねえ」
真先に口を開いたのは羽仁だった。
「彼はやり残したことがたくさんあるんだねえ」
しかしそう後を続けた時、不意にナイルズが激しい口調で決めつけた。
「それは誰だってそうだよ!」
羽仁ははっと息を呑んだ。根戸と布瀬も、思わず呆気に取られたように眼を|瞠《みは》った。
彼らが言葉を失っている間、眉根を寄せ、きつく脣を噛んだナイルズのなかで、苛立ちとも諦めともつかぬものが、艶やかな一枚の皮膚の向こうにわらわらと青白い炎を吹きあげていた。
「何て顔してるの。僕がこんな喋り方するの、おかしい? ……冗談じゃないや。こんなふうにとどめを刺されたってのに、平和な顔なんてしてられるもんか」
再び吐き棄てるように言って、拳を膝の上に打ち据える。羽仁は、またしても現実が貌を変えてゆく予感に抱き竦められていたが、そうして次第に|項垂《うなだ》れたナイルズの声は、急に弱々しいものになった。
「全く……決定的だよ。これがやっぱり、潮時なのかな……」
「一体、何を言っとるのかね」
ようやく布瀬が尋ねかけると、ナイルズは手の甲を口に押しあてるようにして、
「どうして最初から判ってくれなかったのか。……そう思うよ。……ねえ。倉野さんが殺された時、僕にはアリバイなんてなかったんだよ」
「何だって」
三人は口ぐちにそう叫んだ。そうしてその瞬間から、彼らの眼の前に屈まるように腰をおろしている少年は、みるみる〝恐ろしき殺人者_への変貌をなしとげてゆくかと思われた。
「それじゃ、君が……」
「早とちりはしないでよ。だからと言って、僕が倉野さんを殺したという訳じゃないんだ。だけど、僕にアリバイがないとなると、同時にアリバイのない人が、もうひとりでてくるじゃない」
謎かけのようにナイルズが言うと、二、三秒の沈黙の後に、
「甲斐が……?」
溜息まじりに根戸が呟いた。
「だけど、君は」
「そこが、僕に課せられていた、ひとつの罰だったんだよ。僕は、誰かがその点を指摘してくれないかと、ずっとずっと心の底から願ってたんだ。僕と甲斐さんの奇妙な共犯関係に気づいてくれるのを。……結局、その告発は雛ちゃんがしてくれたけど、こんな形で曳間さんからとどめを刺されるとはさすがに思わなかったな」
ナイルズはそこでいったん言葉を切った。昂まった感情を抑えるように、そうして二、三度深く息をつくと、
「はっきり言って、倉野さんを殺したのは甲斐さんにほかならないんだ。僕は、甲斐さんがあの時――根戸さんや布瀬さんの見当違いな追究を受けようとしてた僕に、ナイルズは俺と一緒にいたからアリバイがあると助け舟を出した時――倉野さんを殺害したのは甲斐さんだと、間違いなく確信することができたんだよ」
「では、あの密室のトリックは……」
詰問するような口調で布瀬が言葉を挿んだ。ナイルズはしかし、それを待ち受けていたかのように傍らのバッグに手をやって、しばらくそのなかを探っていたが、
「それを解いたのも雛ちゃんさ」
そう言いながら取り出したのは一通の封筒だった。
「僕からくどくどと説明するよりも、この手紙を読んでくれた方がいい。密室の解明と、それに関連した僕への告発が要領よく纏められてるから。……そう。さっきも言いかけたけど、この手紙は僕への告発状だったんだ。届いたのはつい昨日さ。いっそどこまでも、甲斐さんとの共犯関係を曳きずっていこうとしてた僕に、この手紙と曳間さんの文章は……」
ナイルズの言葉は、そのまま続いていたようだった。
しかし羽仁の頭のなかで、それは次第に曖昧なものになった。彼の眼は既に、先程手渡された手紙の文面を一心に追い始めていたからである。……
こちらに移ってから、もうはや一ヵ月。あなたの小説のなかに、時は降り積もってゆくものだという言葉があったけど、あたしも最近、そう感じることが多くなってきたわ。広い部屋のなかにぽつんとひとりいると、もう何もかもが悪い夢だったようで、こうしてぼんやりしている時も、はっと夢からさめて、総てがもとに戻るのではないかしら、なんて考えちゃうの。ただ、夢がさめた時、自分がどこに、どうしているのか、あたしは一体、いつからこんな悪い夢を見始めたのか、それがどうしても判らないんだけど。……御免ね。変なこと書いちゃって。でも、勿論、こんなことばかり考えてた訳じゃないわ。それどころか、あたしは倉野さんが殺された時の密室を、とうとう開くことに成功したのよ。
倉野さんの悲鳴を聞いて、真先に駆けつけたのは羽仁さんだった。だけど鍵がかかっていたので、羽仁さんは扉を壊すためのハンマーを取りに行った。後から来た甲斐さんは、体あたりで扉を撲ち破ろうとした。そこへ、根戸さんと布瀬さんが到着して、三人で扉に体あたりし始める。遅れてあたし、そして羽仁さんも戻ってきて、とうとう五人の眼の前で扉は撲ち壊された。
悲鳴が聞こえてから扉を破るまでの顛末は、だいたいこんな具合だったけど、今回の密室の秘密は、総てこのなかに隠されてたの。あたし達が部屋の前に到着した時、甲斐さんが扉に体あたりしながら、鍵がかかっている、手伝ってくれ、なんて|遽《あわただ》しく声をかけるものだから、誰もそれを鵜呑みにしてしまって、本当に鍵がかかってるか確かめようとはしなかったわ。だけど、実際は鍵などかかっていなかったとしたらどうかしら。――鍵もかかっていない扉を撲ち破るなんて、まるで滑稽な喜劇りでも、それが事実だったの。
それなら、羽仁さんが来た時には鍵がかかっていた筈の扉から、どうやって甲斐さんは外に抜け出したのか。
あなたには、もうずっと前から判ってたんじゃないかしら。甲斐さんは、特別な器具や操作など何も必要としないで、あの部屋から外に出ることができたの。つまり、あの部屋の扉は、最初から最後まで[#「最初から最後まで」に傍点]、一度も鍵などかけられてはいなかった[#「一度も鍵などかけられてはいなかった」に傍点]のよ。
それでは羽仁さんも甲斐さんとぐるになって、嘘の証言をしたのかしら。――いいえ、羽仁さんの言葉にも嘘はなかったわ。羽仁さんがノブをまわそうとした時、確かにそれはビクとも動かず、それでついつい鍵がかかってると思いこんだのでしょうけど、実はその時、甲斐さんが部屋の内側からノブをしっかりと握りこんで[#「部屋の内側からノブをしっかりと握りこんで」に傍点]、動かないように固定していた[#「動かないように固定していた」に傍点]のよ。こう言っちゃうとまるで子供騙しに聞こえるかも知れないけど、少なくとも紐やピンセットを使うトリックなどよりは、よほど実際的な方法に違いないわ。恐らく、この単純さが却ってあたし達の盲点になってたんじゃないかしら。
ここまで来れば、後はもう説明するまでもないわね。あなたもやって来てから、甲斐さんが扉を持ちあげて、そこにも鍵がないのを示してみせたのを憶えてるでしょ。多分あの時、こっそり止金をひっぱり出して、鍵がかかっている状態に直したに違いないの。そうして同時に密室は完成し、後はその部屋の鍵が、倉野さんの躯のなかから発見されるのを待っていればいいという訳。それが、密室に関する謎の総てなのよ。
確かにあたしは、それが唯一無二の解決だと今でも信じてるわ。でも、密室に関する謎だけならそれですむけど、そこから逆に導き出されてくる結論を前にすると、あたしは急に立ち止まらなくちゃいけないの。
判らないことはみっつあるわ。ひとつは、もし今までの説明が真相だとすると、これは計画的犯行である筈がないということなの。なぜなら、あの時はみんなそれぞれ、全く任意の部屋べやに別れてた筈だから、最初に来るのが羽仁さんで、しかもその羽仁さんがハンマーのことを想い出して扉の前からしばらくいなくなり、それに遅れて後のひとがやってくるなんてことは、甲斐さんにせよ誰にせよ、絶対に予想できなかった筈だもの。もしかすると、羽仁さんはその扉の前を立ち去ろうとはしないかも知れないし、あるいはハンマーを取りに行く前にほかのひとがそこにやって来るかも知れない。だいいち、羽仁さんひとりが真先に駆けつけないで、みんな一緒にその部屋の前に来るかも知れない。……そうなの。要するに甲斐さんには、そんなに都合よく事態が進行する保証を絶対に持てなかった筈なのよ。そうすると、あれは全くの偶然に助けられた犯罪ということになってしまうでしょ。あれほど狡知にたけた殺人者が、はっきりとした成功の確証もなく殺人を遂行するなんて、あたしにはとても信じられないわ。そこがどう考えても、あたしにはちぐはぐに思えるの。一体どうして、甲斐さんは今回に限って無計画に、あるいは衝動的に倉野さんを殺したのか。
判らないことのふたつ目は、なぜ倉野さんが鍵を呑みこんでいたのかということね。聞いた話によると、別に無理矢理咽の奥に鍵を押しこんだ形跡もないようだし、だいいちそんなことで届くような浅いところではなかったということだから、倉野さんは自分から進んで鍵を呑みこんでなくちゃいけない。勿論、いろいろと解釈をつけられなくもないけど、やっぱりどう言ったところで、それは空想の領域にしか過ぎないような気もするわ。
そして判らないことの最後は、ナイルズ。あなたに直接関係してるのよ。もしもあたしの推理が正しければ、あなたは嘘の証言をしたことになるわ。……あの時。甲斐さんが、『ナイルズは俺と一緒にいたからアリバイがある』と言った時に、あなたはそれを否定しようとはしなかった。ええ、勿論あの場の雰囲気では、あなたが疑われていたところへの救いの手だったから、すぐさまそれを否定できなかったのだと解釈してもいいわ。でも、問題はそれですむ訳がないの。なぜなら、あなたは甲斐さんの言葉を聞いたと同時に、甲斐さんが倉野さんを殺した犯人だと悟った筈だもの。そうしてしかも、あなたは自分の疑いが晴れてからも、甲斐さんの証言を否定しようとはしなかった。あたしには、どうしてもそこが判らないの。
もしかするととんでもない誤解かも知れない。……そんなふうに怯えながら、やっぱりあたしは、眼の下に展がった空想という名の奈落へ踏みこんでるんだけど。
ここまでがあたしの、あたしなりの結論よ。そしてあたしは、もうこれっきり今までのことは一切忘れて、ここからの新しい自分自身を|瞶《みつ》めてゆくように努めなくちや、と思ってるの。そうしてあたしは、これからのながいながい、気の遠くなるような時間を待ち続けるのでしょうね。変なこと書いて御免なさい。
文面はそこで終わっていた。便箋の最後で恰度切れていたので、もしかするとその後にも少し文章が続いているのかも知れなかった。恐らくそうであるなら、そこにはプライベートな内容が書かれてあったのだろう。
「雛ちゃんの推理は正しかったのさ。倉野さんを殺したのは、甲斐さんだったんだ」
読み終わった頃を見計い、少し間を置いてナイルズが言った。すると、それできっかけを得たように布瀬は、
「成程ね。結局、倉野の推理が最も正しかった訳か。殺人の動機は曳間の令姉と杏子女史を結ぶ恋愛感情の|縺《もつ》れで、曳間を殺害した後も、止金を失ったまま転がり続けることになったと。ホランドの場合はよく判らんが、倉野の場合は彼の推理自体が彼の命取りになったと言っていいのかね。……確かに曳問の時も、三時十分頃の不在証明は怪しくなるし、ホランドの時も、あの扉を破って部屋のなかに雪崩れこんだ先頭は甲斐だったが……」
そう呟きながらナイルズの方に視線を戻したが、
「三時十分頃のアリバイが怪しくなるって、それはやっぱり、僕も一緒に疑ってる訳なの」
情なさそうに言葉を返して、ナイルズは、
「まあ、それも無理ないかも知れないね。悪いのはこの僕なんだから。……でも、もう一度天地神明に誓って言うけど、少なくとも僕はみんなに対して、積極的に嘘の証言をしたことはないんだよ」
三人は再び訳の判らない表情に還るしかなかった。
「しかし、甲斐が犯人だとすれば――」
羽仁が怺えきれずにそう言いかけた時、
「だからそこからして間違ってるんだ。いい? 甲斐さんは断じて、この一連の殺人事件の真犯人ではないんだよ」
呆気に取られた三人を眼の前にして、ナイルズはほんの僅かながら首を傾げてみせ、そのままゆっくりと言葉を続けた。ぽっと上気した頬を滑り、赤い脣、そして鼻翼の傍の蝋細工のような皮膚を昇って、ながく覆さりがちな睫毛にまで視線を移動させても、今はその雰囲気までホランドそのものに見えるナイルズの、ただ輝かしいばかりの美しさだけが表を蔽いつくしていて、その奥にある筈の彼によって見透かされている事件の真相の形は、一向に彼らの眼には窺い知ることはできなかった。
「ねえ。これほど〈さかさま〉という色調に彩られてきた事件だもの、その解決篇もまたさかさまな性格を具えたものでなければならないのも当然とは言えないかしら。言わばこれは、|遡行《そこう》する謎解きなんだよ。……解決は過去へ過去へと逆向きに進められなければいけないんだ……」
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9 キングの不在
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根戸はふと、白昼夢から眼を醒ますように首を振ると、やはり明るい日差しに充たされた窓の外の光景に眼をやった。街は清澄な大気の底にあり、眼をあげるとその季節特有の、ひとたび落ちこんでしまえば二度とそこから抜け出せないような底なしの蒼穹が展がっていた。
「甲斐さんが倉野さんを殺した。だけど甲斐さんは犯人ではない。――奇妙なパラドックスだと思われるかも知れないけど、実際そうなんだから仕方ないんだよ。なぜなら、甲斐さんが倉野さんを殺さなければならない理由はたったひとつしかないんだもの。それは、復讐ということなんだ」
「復讐?」
三人は初め、ナイルズが何を言っているのか判らなかった。
「あの八月二十五日の夜、どういうことが起こったのか、僕の空想を話してみようか。恐らくは、そんなに筋道をはずれていないと思うんだけどね。……そう、まず、あの甲冑のある部屋に倉野さんを連れこんだのは甲斐さんだったんだ。甲斐さんの目的は、あることをはっきりさせるということだった。僕としては、その時点で甲斐さんには、倉野さんを殺すつもりなんかなかったと信じたいな。だって、あれが全く衝動的な殺人であることは、さっきも言った通りだもの。……多分倉野さんの方でも、そこでどんな会話が交わされるのか、薄々気がついてたんだと思うよ。だから倉野さんはその部屋のなかにあった鍵で、誰も途中ではいってこないように扉に鍵をかけたんだ。だけど、ここが問題なんだけど、甲斐さんはその後、倉野さんに気づかれないように、同じ鍵でそっと、扉の鍵をはずしておいたんだよ。
「さて、そこでふたりの間に激しい口論が行なわれる。
その結果、とうとう甲斐さんは傍らの小刀を抜き払って、倉野さんを刺し殺してしまったんだよ。――いや、倉野さんはその時はまだ生きてたんだったね。そうして血まみれになった倉野さんは、小刀を|鳩尾《みぞおち》に突き立てたまま、甲斐さんの前で鍵を呑みこんだのさ。そう、倉野さんは、甲斐さんがこっそりまた鍵をはずしてたなんて知らなかったから、当然鍵を呑みこんでしまえば甲斐さんは外に出られない筈だった。恐らくその行為は、殆ど無意識に行なわれたんだと思う。そうなんだ。それは倉野さんにとって、ごく自然なものだったに違いないんだ。ただ、甲斐さんが予め鍵をはずしておいたことから、その事件は奇妙な方向へと転がっていってしまったんだよ。
「甲斐さんは、だけど、眼の前でそうやって倉野さんが血みどろで苦しむのを見て、恐怖のためにその場を離れることもできなかったんだね。そうやってまごまごしているうちに、思いがけず迅く羽仁さんが駆けつけ、すぐそこまで階段を登ってくる跫音が響いてきた。甲斐さんは慌てて扉の処にすっとんでゆき、必死でノブを押さえつける。扉の向こうにやってきた何者かは、しばらくそのノブをガチャガチャとまわしていたけど、急に諦めたように跫音が遠ざかった。ほっと肩を撫で降ろした甲斐さんは、人気がないのを確かめて外に忍び出、後はさっき言った通りさ。甲斐さんは、そこで一世一代の大芝居を打ったんだよ。……ただ、それで終わっていれば何もかも旨く行ってたんだけど、甲斐さんはついつい、自分のアリバイも確かにしておきたかったので、みんなに責められてる僕を助けるふりをして、逆に自分のアリバイをも成立させてしまうという絶好のチャンスに、思わずとびついてしまったんだね。まあ、そういう点が甲斐さんの甲斐さんらしいところなんだけど。……いや、ひょっとして僕が恐れてるのは、あれが全く僕を|庇《かば》うためだけのものだったとしたら、ということなんだ。……ふふ。本当に、甲斐さんはあらゆる意味でもって、心優しい殺人者――お人よしの殺人者だったんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。ようやく問題が呑みこめてきたんだが、すると、一連の事件の真犯人は倉野だったと言うんだな!」
|訥《ども》りながら根戸はナイルズの話を遮った。ナイルズはそれには答えぬまま、相手の胸の前に投げ出されるように置かれてある煙草の箱を|牽《ひ》き寄せると、そのなかから一本、そっと選ぶように抜き出した。彼らが呆れるように見守るなかで、ナイルズはそれを口に|銜《くわ》え、傍らのマッチを手に取ると、包みこむような手つきで火をつける。ぼおっと燃えあがる先っぽの炎のなかに微かに青い色が混じり、それがすぐさま煙草の先に移ってゆくのを、三人は信じられぬものでも眼にするように瞶めていた。
それはひとつの儀式のようでもあった。ナイルズが煙草を吸うところを見るのは、それが初めてだった。
「甲斐さんは、事件の真犯人はお前かと詰め寄ったんだ。そうして、倉野さんは、曳間さんとホランドを殺したのは確かに僕だと答えた筈さ。……甲斐さんがひそかに鍵をはずしたのも、実際のところ、殺人者を眼の前にして話をすることへの恐怖心からに違いないんだよ」
意外に慣れた仕種で、煙を吐き出しながらそう語り、ナイルズは冷めたコーヒーに手を伸ばした。眼に痛いほどの白磁のコーヒー·カップは、少年の掌のなかで可愛らしい音を奏でた。
「それでは次に、遡行する順番で、ホランドの殺害に移るよ。あの、七月三十一日の惨劇だね……」
そう前置きしながら、優雅とも見える手運びでカップに口をつけると、
「その前に言い添えておきたいんだけど、みんなもしかすると、あの時殺されたのが実はナイルズで、今眼の前に居るこの僕はホランドじゃないのか、なんて疑惑がまだ半分くらい残っているかも知れないね。僕のとる態度やら喋り方を見ていれば、よけいそんな疑惑が深まるのも無理ないと思うんだ。今の僕は、まるで以前のホランドみたいでしょ。……でもね。これだけは言っておきたいんだけど、僕達はもともとそんなに違った性格を持ってた訳じゃなかったんだよ。いや、はっきり言って、僕達の兄さんが産まれて間もなく死んでしまった時に、残された僕達の性格は異なったものであり得る筈がないというふうに定められてたんだ。その僕達が、みんなも知ってる陰と陽の正反対な外観を見せてたのは、僕とホランドの間に交されてたひとつの黙約のせいだったんだよ。僕達をより双子らしく見せるという、推理較べの時にも言った理由で、僕は明るく陽気な、そしてホランドはひき籠もりがちで冷笑的な、互いに全く対照的な仮面を覆って生活してたのさ。それがホランドを喪い、もう誰に区別して貰う必要もなくしてしまった僕が、本来の性格に戻るのはあたり前でしょ。……そう。これが多分、本当の僕なんだよ。考えてみれば、ホランドよりも僕の仮面の方が、より欺瞞に充ちたものだったということ。ただそれだけなんだ。……