「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.16
「さて、倉野さんがホランドを殺した段取りだけど、これはもう最初から最後まで、徹頭徹尾緻密な計画のもとに実行された殺人劇だったことは念を押しておきたいね。しかもその発想は、僕の書いた小説の架空の密室事件にあったのも確かなことなんだ。倉野さんは僕の小説を、推理較べのあった日の四日前に読んでる点に注意して貰いたい。……ねえ、あの時点での僕の小説の意図は、動機づくり[#「動機づくり」に傍点]ということだったんだけど、その同じ架空の部分は、倉野さんにとっては全く別の意味を持ってた訳なんだ、しかも、倉野さんの肩には、絶対的な使命とでも言うべきものが課せられてたんだよ。それは、総ての辻褄を合わせる[#「総ての辻褄を合わせる」に傍点]ということだったのさ。倉野さんは、是が非でもホランドを、さかさまの密室のなかで殺さなければならなかった。そうして、僕の密室を裏返すことで、それを成し遂げようとした訳なんだ。
「雛ちゃんと布瀬さんの推理は聞いたけど、どちらもなかなか鮮やかなもので、僕は本当に感心したんだよ。雛ちゃんが『死角の問題』で、布瀬さんが『擬態の問題』だったね。でも……これもまた、雛ちゃんの推理の方が事件の本質により近かったんだ。あれはやはり『死角の問題』さ、ねえ、でも、雛ちゃんはもう一歩のところで真相に到達することはできなかったけど、視界を遮るものは何も通常の物体でなく、かといって雛ちゃんの指摘した〝贋の光景_というのでもなく、ほかにもある筈なんだけど判るかなあ。……ひとつは、屍体が全くの闇のなかに隠れている場合で、これはしかし、あの部屋のなかにはそんな場所なんて存在しなかったんだから問題にはならないよね。うん、だけど、もうひとつ、その全く逆の場合のことも考えていいんじゃないかしら。……つまり、光のために屍体が隠される場合だよ」
「すると、ナイルズ」
羽仁は躯を|仰反《のけぞ》らせるようにして、そう反射的に叫んでいた。
「死角は、あのシャンデリアだったというのかい」
根戸はその瞬間、凍りつくような恐怖を再体験していた。頭の芯がきーんと|痺《しび》れて、軽い|眩暈《めまい》が立ちのぼる。
根戸は、しかしやっとのことで踏み留まりながら、必死であの時の光景を再現しようと試みていた。確かにあの時は、シャンデリアの上には何も見えなかったのだ[#「見えなかったのだ」に傍点]。しかし、それが黄色い照明のせいなのかどうかは、ついに判別することができないで終わった。瞳を凝らそうとすると、その光景は彼の視線に晒されるのを拒むように揺らぎ、ゆるゆると解きほぐれたかと思うと、もうあとかたもなく消え去ってしまう。根戸は身を焼くようなもどかしい想いとともに、結局ナイルズの言葉を認めるほかなかった。
「安全器に点滅自在の装置を取りつけてあったというのは、布瀬さんの説明通りでほぼ間違いはないと思うよ。隠し持っていたスイッチを押して停電の状態にすると、まず倉野さんは根戸さんを押しやって、倉庫のなかに閉じ籠めてしまうんだ。倉野さんには、根戸さんがすぐには叫びださない充分な確信があったんだと思うよ。それは根戸さんの頭にあった、全員がぐるになっているという疑惑さ。実際根戸さんは、倉野さんの思惑通り、すぐには声をあげることができなかった。そうして倉野さんは闇に紛れてホランドの処にとって返し、あッという間も与えず、あの紐で首を絞めあげたんだよ。まさにホランドにとっては、声を挙げる暇もなかったんだろう。……僕達が闇のなかを手探りで歩きまわっているそのすぐそばで、それは実行されたんだ。恐らくホランドは最初の一瞬で失神してしまって、そうしてそのままゆっくり、こちら側からあちら側へと、闇のなかを滑り落ちてゆくように死の世界へのめりこんでいったんだね。
「倉野さんは、そんなホランドが絶命したのを確かめると、屍体を担ぎ挙げ、中央の部屋に|搬《はこ》びいれて、そのままシャンデリアの上に乗せておいたのさ。倉野さんが危ない橋を渡ったのは、実にその間だけなんだ。その間に根戸さんが声を挙げれば、何もかもが崩れ去ってしまったんだけど、幸か不幸か、依然根戸さんは、闇のなかで架空の殺人者と果てしもない睨みあいを続けていた。……鍵のトリックに関しても、布瀬さんの推理通りさ。倉庫の鍵と、表の鍵によく似た別の鍵をテーブルの上に置き、倉野さんは店の方に戻ると、本物の鍵で密室を二重にする。後は、怺えきれなくなった根戸さんが叫びだすのを待ってさえいればよかったんだ。そうして、頃合を見計って、安全器の電源をいれる。勿論その前に、店側の照明のスイッチを切っておいたことは言うまでもない。中央の部屋から明かりが洩れ、両側の扉の鍵穴から中央の部屋を覗きこませて、そこで不可思議な密室を完成させる準備は|悉《ことごと》く整った訳なんだ。
「さて、もう一度電気を消し、これはいよいよぐずぐずしておれんということで、みんなは扉を撲ち破る。最後の大立廻りは、その直後の数秒が成否の分かれ目だった。甲斐さんに続いて部屋のなかに雪崩れこんだ倉野さんは、そのまま先頭の甲斐さんをつきとばしておいて、電光石火の早業でテーブルの上にとび乗り、シャンデリアの上からホランドの屍体をおろしてソファーの傍に横たえる訳だよ。鍵の交換はその後でいい。倉野さんにとって有利だったのは、ほかのひとは威勢よく扉を破ったものの、一寸先も判らぬ闇のなかにとびこむんだもの、どうしてもその動作は緩慢なものになってしまう。……少し心理学的な理屈をつけるなら、僕達の主観的な時間の流れは、自分自身の行動と歩調をあわせようとする性質を持っているために、倉野さんがいくら最高の早業を発揮したとしても三、四秒の時間はかかった筈だけど、それが殆ど一瞬の間のように感覚されるんだ。勿論、三、四秒が十秒だったとしても、扉を撲ち破った後で屍体を中央の部屋に搬びいれることなんて到底不可能だから、その点に関してはさしたる変わりはないんだけど、あたかも屍体が突如として密室のなかに出現したという演出効果を最大限に昂めるには都合がよかった。しかもその後で僕が泣き|縋《すが》ったりしたものだから、みんなの心理はますます幻惑され、混乱に拍車がかけられることになってしまったんだよ」
そこまでナイルズが喋った時、羽仁は嫗を揺らせるように、
「成程。……総てが見事な計算の上に成り立っていたんだね。倉野は全員の心理の微妙な動きまで読んでいて、それらをひとつひとつ巧妙に|縒《よ》りあわせることによって、あの奇妙な〈さかさまの密室〉を構築した訳だ。……結局僕達は彼の筋書き通りに、自分の役割を忠実に演じていたんだな」
しかしナイルズは、それに殆ど眼に止まらぬくらいの皮肉な笑みを返しただけで、ゆっくり二本目の煙草に火をつけた。
「とにかく」
と、しばらく躇うように、
「後は簡単な事後処理だけだった。表の鍵を本物とすり換え、安全器に取りつけた装置は闇に紛れてそっと取りはずしておく。安全器はそのまま開いたままにしておけばいいのさ。そのうちに誰かが開きっぱなしになってるのに気づいてくれるんだからね……。そうしてその装置とワイヤレスのスイッチは、警察が駆けつける前に店の外へ隠しておこうか。それとも、風船につけてとばすとか、鳥につけてとばすとか、例の証拠湮滅法くらいは使用したかも知れないよ。ね、これが第二の密室殺人劇の真相だよ」
ナイルズの手にした煙草から、ゆらゆらと|懶《ものう》げな煙が宙に舞いあがってゆく。根戸はその軌跡を、半ば信じられぬものでもあるかのように瞶めていた。そうして、ふとその白い煙が双曲的臍型のカタストロフィーに従っていることに気づいた時、その向こうで布瀬が口を開いた。
「ふうむ。見事なチェック·メイトだね」
そう言って、ちらりと根戸の方に視線を送ると、
「しかしながら、肝腎のキングは既にこの世に存在しとらん訳だ。……あっは。皮肉な話だが、考えてみればそれが当然かも知れんね。何故かと言って、吾輩達は既にこのゲームに負けていたというだけの話だったのだから……」
そうして布瀬は、彼に似つかわしくない気弱な苦笑を浮かべてみせた。それは根戸の奥深いところと、奇妙に切なく同調しあったようだった。
「では、遡行する順序からいって、いよいよ最後に曳間の事件の番になる訳だろう」
羽仁は沈黙を押しやるようにそう言って、
「でも、僕にはちょっと頷けない点があるんだ。曳間の殺人の場合、倉野が犯人だったとすれば、三時十分頃まで犯人がひそんでいたという証言は全くのでっちあげということで無視していい訳になるから、それはそれでいいとしても、死亡推定時刻の十二時から十二時半までの間は、倉野には完璧なアリバイがあるじゃないか。一緒に居た杏子さんが偽証しているというだけですむならまだしも、アリバイを証言しているのはその喫茶店のウェイトレスやボーイもなんだろう。一体、その点についてはどう説明するの」
身を乗り出して尋ねかけると、一方のナイルズは煙草を持った手の甲を困ったように脣にあてた、そうしてしばし言葉を選んでいるらしく黙っていたが、やがて意を決したように視線を据えると、ぽつりと奇妙なことを呟いたのだった。
「倉野さんは偽証なんかしていないよ。だって、倉野さんは曳問さんを殺してはいないんだもの」
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10 匣のなかの失楽
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店内に流れる曲は、いつの頃からかムード音楽からバロックへと移り変わっていた。その時荘重な通奏低音と共に、彼らの耳にはいってきたのはアルビノーニの『アダージオ』――しかし彼らはそんなことに気づいていなかったのかも知れない。なぜなら、ナイルズの呟きの後に続いたものは、ただただ果てしもないような沈黙でしかなかったからだ。
「どういうことなんだ」
怺えきれなくなったように根戸が吐き出すと、続いて羽仁が、
「どうも判らない。すると、曳間を殺した犯人は犯人で別にいるっていうのかい。……でも君はさっき言ったじゃないか。あの甲胄を陳列してある部屋で甲斐は倉野を問い質し、倉野の口から彼が曳間を殺害したことを聞き出したんだと。そして、それだから甲斐は倉野に復讐の刃を――」
「そうだよ。あの時、倉野さんは確かに、自分が曳間さんとホランドを殺したと言った筈だよ。それをはっきりと耳にするまでは、いくら疑わしいといっても、その相手を殺してしまうところまでいく筈がないもの。……でも、それでも倉野さんはやっぱり、曳間さんを殺してはいないんだ」
「何だかさっぱり判らんな。すると倉野は、自分でも犯していない殺人を自分が犯したと証言したことになるのかね」
布瀬の言葉にも、
「そうだよ。だって、倉野さんがホランドを殺した理由も、ただその一点から導き出されてきたんだもの」
熱っぽくそう言いきると、ナイルズは豹のような|眸《め》で三人の顔を素速く見まわした。微かに血走っているのが判った。根戸はふと、眼の前にいるこの少年も既に狂気にとり憑かれているのではないかとさえ疑っていた。
「ホランドを殺した動機が何だって?」
「倉野さんは、曳間さんを殺害したという罪を身に引き受けるためにホランドを殺した[#「曳間さんを殺害したという罪を身に引き受けるためにホランドを殺した」に傍点]んだと言ってるのさ」
再び沈黙がその場に割りこんだ。そのまま三人は奇妙なものでも瞶めるように、ぼんやりと身じろぎさえしなかった。コンピューターならさしずめ、〈解読不能〉のパンチ·カードを絶え間なく吐き出し続けるだろう。ナイルズはそういう形での反応に、少し脣を捩曲げてみせて、
「あはっ、その表情からすると、どうやら僕の精神状態を危ぶんでくれてるようだね。まあ、それも無理ないかも知れないな。……それじゃ、話を具体的なところにまで戻すけど、あの推理較べのあった七月三十一日の前日、即ち僕達が雛ちゃんのところへ弔問に行った三十日の話は憶えてるでしょ。僕の小説にも詳しく書いてあったから……」
ナイルズは三人が頷いてみせるのを確認して、
「雛ちゃんのところを訪れた後で、僕は倉野さんが目白のアパートに帰るのについていったよね。アパートの戸口の処で、倉野さんは鴨居から鍵を取り、錠をはずし、そして引戸をあけた。その時、僕がほんの僅かの間眼を離した隙に、何か[#「何か」に傍点]が起こったんだって。……そうだよ。恐怖に凍りついた表情を見た時、僕は絶対に倉野さんは何か[#「何か」に傍点]を見たと確信したのさ。僕はすぐさま土間の通路にとびこんで、そこに誰もいないことを確かめたけど、それでもその確信は変わることはなかったんだよ。……ねえ。それほど倉野さんを恐怖させたものって、一体何だったと思う?」
ナイルズは三人の顔を等分に眺め渡した。すると羽仁が微かに声を顫わせながら、ゆっくりとそれに言葉を返した。
「つまり、こう言いたいんじゃないのかな。曳間を殺した別の人物が、そこに何らかの符牒を残しておいたんだと。……倉野はそれによって真相を知り、同時にその人物を庇うために、曳間殺しの罪を自分が被らなければならないことを悟ったんだってね」
「ということは」
間髪をいれず布瀬がそれをひき取ると、
「三つの殺人は、三人の別個の人物によってなされたという訳かね。しかしそうなると、曳間を殺した人物は……」
しかしナイルズは急いで手をテープルの上につき出すと、
「ちょっと待って。それは違うんだ。実を言うと、倉野さんの見たのはある特定のもの[#「もの」に傍点]ではなかったんだよ。戸口をあけた時に倉野さんが見たのは、ある大きな間違い[#「間違い」に傍点]と、それに|纏《まつ》わるところのある図式[#「図式」に傍点]だったんだよ」
「図式?」
三人は思わず声を合わせた。
「この一連の事件は、最初から、ある大きな間違いによって始まったんだよ。ある馬鹿馬鹿しい間違いからね。……それがなければ、殺人なんて起こることはなかったんだ。だけど間違いは起こってしまった。ねえ、全くそれは愚かしいことなんだよ。でも、いったん起こった間違いは、坂を転がり落ちる雪玉のように、ほかのものを巻きこんで、どんどん膨れあがっていったんだ。ホランドもそのために死んだんだよ」
独白めいたナイルズの言葉を聞きながら、根戸は再び、同じような言葉をどこかで聞いたような気がしていた。間違い。大きな間違い。根戸は必死でその記憶を辿ろうとしたが、その径はどんよりと深い霧に包まれた、いずことも知れぬ茫漠たる風景に続いてゆくばかりだった。
崩壊の後にその場を占めるのは、ただ後悔というものでしかないのだろう。根戸はそうして、静かにナイルズの言葉を待った。
「それは本当につまらないことだったんだよ。……ねえ、倉野さんのアパートの戸口を想い出してよ、あの引戸についている鍵のことを。――あれは鍵をさしこんで、それをまわすことによってあけしめする捩込み錠だったんだよ。通常の鍵でなく、そのような捩込み錠にしか現われない特殊な現象が、その間違いを産んだのさ。いい? その特殊な現象とはこうなんだよ。あの手の錠においては、それが鍵のかかっている状態にあるかそうでないかは[#「それが鍵のかかっている状態にあるかそうでないかは」に傍点]、そこに鍵を差しこんで錠をあける方向にまわしてみる限りでは[#「そこに鍵を差しこんで錠をあける方向にまわしてみる限りでは」に傍点]、その判別が難しい[#「その判別が難しい」に傍点]ということなんだ。通常の鍵の場合だと、差しこんだ鍵をまわして扉が開けば鍵はかかっていたんだし、その逆の場合でも一回で間違いなくその判別は正確につく。でもあの式の捩込み錠では、錠がかかっていようがいまいが鍵はいくらでもまわるんだし、そのどちらでも結局戸は開くのだから、判別はまさに〝手応え_ひとつにかかってる訳なんだ。勿論、僕達なら全くその通りだろうけど、倉野さんは三年間もあの鍵を使用してきたんだからその〝手応え_で判別する能力はかなり正確なものにはなってただろうさ。だけどそれはやはり絶対的なものではなかった筈だよ。……ね。判ったでしょう。七月十四日の三時十分頃、倉野さんが新宿から戻ってきた時、実はあの戸口には鍵なんてかかってなかったんだよ。
「あの時、なかにはいって踏板の前に靴が二足あるのを見た時、倉野さんは何か妙なもの[#「妙なもの」に傍点]を感じたと言ってたでしょう。あれは実は、靴があるからには表の戸口には鍵はかかっていなかったのだろうか[#「靴があるからには表の戸口には鍵はかかっていなかったのだろうか」に傍点]という、無意識的な疑問だったのさ。その時、それを意識の上にまでのぼらせればまだ、間違いは喰い止められてたんだろうけど、倉野さんは誰かが来ているという喜びでそちらの方を押し流してしまった。そうして後からそれを想い返した時には既に、鍵がかかっていたのに靴があったのはおかしい[#「鍵がかかっていたのに靴があったのはおかしい」に傍点]と感じた、という解釈に逆転してしまってたんだよ。つまり、鍵がかかっていたという錯覚は、そこで完全な事実になりおおせてしまったんだ。だから三十日のことも判るでしょう。恐らくあの時も鍵をかけ忘れたまま雛ちゃんのところに出かけてたんだよ。そうして戻ってきた時に鍵を使おうとして、全度は例の〝手応え_で間違いに気がついた。その一瞬は別に何も思わなかったに違いないさ。でも、引戸をあけた途端、その、もしかしたら[#「もしかしたら」に傍点]という考えが稲妻のように閃き、倉野さんは恐怖に撲たれてその場に凍りついてしまった。そうだよ。倉野さんはその時、自分の犯した錯覚に気がついたんだ。
「それじゃ十四日の三時過ぎ、倉野さんが戻ってきた時に表の戸口に鍵がかかっていなかったとすれば、話は一体どう変わるのか。どうもまだピンと来てないようだけど、落着いて考えてみれば判る筈だよ。第一に、あれは〈さかさまの密室〉でも何でもなかったのだということ。第二に、デザート·ブーツの主が曳間さんを殺した犯人である可能性は極めて薄くなること。そして第三に、――これが最も重要なことなんだけど――あの事件が殺人だったのかどうかも疑わしくなるということ。……そうなんだよ。はっきり言ってしまえば、曳間さんは誰に殺されたんでもない。ただ自らの手で命を断ったに過ぎないんだ。あれは自殺だったんだよ」
三人は半ば陶然とナイルズの言葉を聞いているような気がした。もう誰も言葉を返そうとはしない。ただ彼らは、今、大いなる審判が下されつつあることだけははっきりと意識していた。
「要するに最初の事件に関しては、警察の判断が最も正しかった訳なんだよ。例えば刃物による刺殺体の場合、自殺と他殺を判別するには、その短剣が刺さっている位置とその傷痕の角度との関係が重要になるんだってね。自殺の場合は欄が下から上へ向かって突きあがる恰好になり、他殺の場合はその逆が多いということを聞いたことがあるよ。そういった科学的な考察を、その筋の専門家が様ざまに検討した結果下した判断だから、もう少しそちらを信用してみてもよかったんだね。……まあ、これは結果論に過ぎないんだけど。
「さて、そこまで話せばもう見当はついたでしょう。あの靴の主はホランドだったんだよ。勿論、布瀬さんが目撃したのは、三時頃に倉野さんのところに遊びに行ったホランドの姿なんだ。そしてそこで、ホランドは曳間さんが胸に短剣を刺して死んでいるのを発見したんだよ。
そう、恰度倉野さんと同じ具合さ。そして当然の如く、ホランドもまた、その建物のなかに殺人者がまだいるのではないかという恐怖に襲われたんだよ、逃げるように階段を駆けおりると、その時恰度倉野さんが戻ってきた。でもホランドにはそれが判らない。もしかすると殺人者かも知れないので、慌てて炊事場のカーテンの陰に隠れ、そこで倉野さんをやり過ごしたのさ。そうしてそのまま靴も満足に履かず、一目散に建物から逃げ出したという訳なんだ。
「つまり七月三十日までの時点で、曳間さんの死が自殺だと知っていたのはホランドだけだったんだ。勿論、最初は迷ってたに違いないけど、恐らく事件の進行を眺めていて、警察もあれが自殺だという方針を採ったらしいことなどから、その確信を得たんだと思うよ。何より、あの事件が僕達にとって他殺でなければならなかったのは、鍵を外側からかけ、しかもなおかつ靴を見せびらかせたままその場にひそんでいたという犯人像が幻影としてあったからだものね。それが初めからないホランドは、容易にあれが自殺だという結論に到達することができたんだ。十七日の会合の時だって、僕はホランドの言動がどうも奴らしくないことに疑問を感じてたんだけど、何もかも知ってて、しかも座興のつもりでみんなの反応を楽しんでいたというなら、それも旨く説明がつく。……ただ、ホランドは調子に乗りすぎて、ひとつ大きな過ちを犯してしまった。〈犯行は連続殺人でなければならぬ〉なんて、話を面白くしようとして言い出したに違いないんだけど、それがあいつの命取りだったんだ。その|荊冠《けいかん》が結局自分の処に還ってこようとは、その時はまるで夢にも思わなかったんだろうね。
「しかし倉野さんは、自分の犯した錯覚に気づいてしまった。その瞬間の倉野さんの心理を考えると、僕は顔を背けたくなってしまうな。……曳間さんの屍体の前で涙さえ流し、その復讐を誓い、曳間さんの死に相応しい殺人のかたちを捜しあてるためになら、総てを辞さないという想いを固めていた倉野さんの精神状態は、その現実の壁にぶち当たって、まさに粉ごなに砕け散ってしまったんだ。倉野さんは、曳間さんの死を量る天秤の、もう一方の|錘《おもり》を失ってしまったんだよ。同時にそれは、倉野さんの精神の|破綻《はたん》でもあったんだ。……ねえ、推理較べの席上で倉[野さんの披露した推理。あれはほかでもない、倉野さん自身の心理を語っていたに過ぎないんだよ。話の上での甲斐さんを倉野さんに、曳間さんのお姉さんを曳間さんに、そして恋愛感情を復讐感情に置き換えれば、あの推理はそっくりそのまま倉野さん自身の心理の告白になってしまうじゃない。何なら根戸さんがひきあいに出したカタストロフィー理論の上でも、全く同じ図式になることを確かめてみたらいいよ。最初から曳間さんの死が自殺であることを知っていたなら、勿論倉野さんも殺人まで起こすことはなかったんだけど、いったん曳問さんの死に見合う殺人のかたちを追い求めることだけを目的の総てにしてしまった倉野さんにとって、既に自殺という真相は、架空の側に押しこめてしまわなければならなくなっていたのさ。
「犯入はどうしても必要だった。そのためには自分自身を犯人に仕立てあげるのがいちばんいい。つまり、犯人志願者とでも言うのかな。そうして倉野さんは、それを動かぬ事実とするために、殺人を犯さなければならなくなったんだ。そう。これはひとつの儀式だよ。そしてその|犠牲《いけにえ》にホランドが選ばれた理由はいろいろあるけど、いちばんの理由はほかでもない。靴の主がホランド以外にないことを結論した倉野さんは、曳間さんの死が自殺であることを知っているホランドの口を封じなければならなかったんだ。ホランドを殺した時点で見事に現実は架空といれ代わり、後に残るのはまさに理想的な殺人事件以外の何物でもないという段取りさ。しかも〈犯行は連続殺人でなければならぬ〉と主張した本人が恐ろしい殺人鬼の餌食となるなんて、この上なく魅力的な趣向じゃない。それに、僕らの綽名の由来からして何だか意味ありげだものね。……だけどその殺人が理想的であるためには、とびきりの不可能性と底知れない謎が要る。しかも僕の予言から始まり、偶然にも曳間さんの死の上に現われた見せかけの〈さかさまの密室〉という主導音を、ホランドの時にもありありと奏でなければならないんだ。驚くべきことは、そんな総ての条件を満たす殺人劇の計画をたった一日で立ててしまったことだけど、その狂気じみた思考力は逆に、壁にぶつかってなお出口を求めながら|迸《ほとばし》る、屈折した感情のヴォルテージがいかに強烈なものだったかということの逆証になるんじゃないかなあ。
「さて、そこで眼を移して考えなければならないのは、ホランドの心理の動きなんだ。三十日にあったことを僕はその夜のうちにホランドに喋ったんだけど、あいつはその話を聞いて、倉野さんが曳間さんの死が自殺であることに気づいたな、とピンときた筈なんだよ。そうしてホランドはこう考えたと思うんだ。倉野さんがそれに気づいてしまったからには、この遊戯ももう終わりだとね。ともかくその次の三十一日、『黄色い部屋』に集まったところ、何となく推理較べを始めなければすまない情況になってしまった。ホランドは興味深くことの進行を傍観するつもりでいたんだと思う。その場で倉野さんは、曳間さんの死が自殺であることを暴露するだろう。そうだよ。ホランドはあの時、倉野さんの口からゲームの終了が告げられるのを待ってたんだ。
「だけど、実際の進行はホランドの想像とは異なっていた。倉野さんはゲームを終わらせようとするどころか、とんでもない見当はずれの推理を熱心に組立てていくじゃない。ホランドはそこで途方に暮れてしまったに違いないんだ。なぜ、どうして? ホランドはその時初めて、不吉な空気を感じたのさ。倉野さんの推理の意味を総て理解したかどうかは判らないけど、ホランドはとにかく、この現実が予想もしなかった方向へと滑り始めてるのを悟ったんだよ。それはホランドにとって宙ぶらりんの、何とも言えない恐怖だったに違いない。しかも、倉野さんの方ではそれさえも自分の計画にはいっていたんだよ。だから、倉野さんは推理を述べる順番まで自分の犯行に都合よくふりあてたんだ。順番を決めたのは倉野さんの取ってきたタロット·カードによってだったけど、あの時倉野さんはひとつの手品をやってのけたんだよ。奇術用語では『フォース』というんだけど、相手に全く無作為に一枚のカードを選ばせるように見せかけて、実はこちらの意図する特定のカードを強制する技法があるよね。倉野さんはそれによってみんなの推理する順番を決めてしまったのさ。しかも倉野さんは、ここで自分の行なおうとしている殺入のトリックまで暗示してみせているんだよ。ねえ。ホランドにふりあてられたカードは、ⅩⅡの『吊し人』だったことを憶えてるかしら。そうだよ。まさにホランドはシャンデリアの上に吊されたんだ。……勿論僕達は倉野さんにそんな特技があるなんてことは知らなかったけど、幼馴染だっていう羽仁さんなら知ってるんじゃないの」
「ああ」
羽仁は淋しそうに眼を細めながら、その質問に頷いた。
「はっきりそんなテクニックを身につけていたのかどうかは知らなかったけど、あいつはトランプ奇術や、カードのゲームが大好きだったのは確かだよ。尤も大学にはいってからは、『原則的に偶然性に左右されないゲームが最もすぐれている』という持論のせいか、あまりトランプを手にしなかったようだけど……。しかし、そうなると、僕があの場にいなかったことも、倉野にとっては都合がよかったということなのかな」
そう言って片手で顔を覆うと、布瀬もそれに続けるように、
「結局、本当に真剣だったのは倉野だけだったということかね。そういえば、あの七月十七日の会合の時のことを想い返せば、確かにそうだったと言えるかも知れんが――」
しかし布瀬がそこまで喋った時、突然ナイルズは、思わずほかの者の息を呑みこませずにおかないほどの、語気鋭い言葉を叩きつけた。
「でも、僕はそれを赦してはおけなかったんだ!」
根戸は眼を見開いた。ナイルズの両方の拳はテーブルの上で、ぶるぶると烈しい怒りに顫えていた。俯きがちの眼は 点に据えられていて、しかしそれが決して現実のものの上にないことは、根戸にも容易に察せられるのだ。そうしてそんなナイルズの憎悪が、その拳から瞳に、そうしてその上方にすっと抜けてゆくように消えたかと思うと、
「さっきから言ってる、僕の罪とか、僕と甲斐さんとの奇妙な共犯関係というのがどういう意味なのか教えてあげるよ。……いいかい。倉野さんを殺したのは甲斐さんなんだけれども、そうするようにしむけたのはこの僕だったんだよ」
「何――」
|口籠《くぐも》るような声で呻いたのは羽仁だった。
根戸は|楔《くさび》を撲ちこまれる思いだった。
「僕はホランドが殺された時に誓ったんだよ。ホランドを殺した者をこのままにはしておかない。その上に必ず報復の鉄鎚を振りおろしてやるんだとね。そうだよ。それだけは、その時の僕の気持ちだけは、僕は今でも肯定してやるさ。誰が何と言おうと、僕は永久に肯定し続けてやる。僕の影。僕の分身。僕のもう半分だったホランドを殺した奴を、それがたとえどんな理由があったにしろ、僕は絶対に赦してはおけなかったんだ。僕はあの時、あの小説を復讐のためだけに書き続けると言ったけど、頭を搾りつくした挙句にことのからくりを悟った僕は、それを文字通り実行することにしたのさ。もう詳しくは言わないけど、あの小説の第四章は、曳問さんを殺害した犯人――つまり倉野さんに復讐を加えるようにという、甲斐さんへの殺人教唆の役割を持ってたんだよ。僕は考えに考えに考え抜いて、そうしてあれを書くことにしたんだ。
「だけどこんなことを言っても、みんなは決して頷くことはないだろうね。そうだよ。それは確かに卑怯なやり方かも知れないさ。直接自分の手でそれを行なわないで、あたかも人形使いのように他人の心理を操って、それで自分の復讐を成就させるなんて。そうだよ。確かにそうさ。だけども僕は、ホランドを殺した倉野さんに、言葉の真の意味での自滅[#「自滅」に傍点]を与えなければならなかったんだよ。曳間さんの死を正当化するためにホランドを殺した倉野さんの論法をとことんまで行き詰めるとどうなるかを、倉野さん自身の上につきつけてやる必要があったんだ。僕は今でも、倉野さんの方が正しかったのか、僕の方が正しかったのか、それともふたりとも間違っていたのか判らない。……だけど一体誰がそれを裁くんだろう。誰がそれを裁き得るんだろう。僕はそれを叫び続けるしかないんだ。そうだよ。僕はそんな裁きなんか、僕に残された総てのものに賭けて拒否してやるさ」
根戸は、ながいながい告白を総て語り終えたナイルズを前に、深い悲しみに陥ってゆく自分を意識していた。遅過ぎたのかも知れないが、彼ははっきり、今初めて自分達が同じ一族であったことを悟っていたのである。
――俺達は密室のなかを生きてきたんだ。
不意に熱いかたまりのようなものがこみあげてきた。それは胸から鼻の奥まで一挙に駆けあがり、反射的に根戸は全身の力を籠めて噛み殺そうとした。
――産まれた時からそうだったんだ。俺達はいつも自分自身というこの密室のなかに育ってきた。そうだ。そしてそれはいつの間にか奇妙な愉悦となっていた。だからそれ故に、この世界は失楽園以外の何物でもなかったんだ。――哀れな一族。――だけど、俺達はこの何もない密室のなかで、いつまでこの失楽を担わなければならないのだろう。『いかにして密室はつくられたか』とは果たしていかなる問いかけだったのか。俺達は一体、いつまでこの|匣《はこ》のなかの失楽を味わわなければならないのだろう。
誰もひと言も口をきかなかった。四人はそれぞれの真相のかたちを抱き、そしてその沈黙は、そのままいつまでも続いてゆくだろうと思われた。
しかし、その時突然|遽《あわただ》しい靴音が彼らの耳を襲った。階段の方だった。根戸が慌てて振り返ると、そこに現われたのは店のマスターである甲斐の兄だった。恰幅のいい体躯を揺すらせ、いつもは人のよい容貌を今は蒼く硬張らせながら、彼は階段を登りつめた処で立ち止まった。そして四人の不審な表情を前にして、彼は微かに顫える声で悲報を伝えたのである。
「弟の屍体が見つかったそうだ。金沢の海で、どうも、弟は自殺したらしい」
それが最後の審判だった。何も言うべき言葉はなかった。
ついに現実の進行は、全くナイルズの小説通りに幕を閉じたのである。
それは架空と現実が完全にいれ換わってしまった瞬間だったのだろう。四人はその時、今はもういない夥しい人形達の嘲るような哄笑を再び聞いたような気がした。何百何千という闇が降り立ち、しかもなおかつ秋の日差しに充たされてやまぬ部屋のなかで、彼らのそんな想いは、しかし巨大な波に|攫《さら》われるように、あとかたもなく向こう側へと|零《こぼ》れ落ちてしまうのかも知れなかった。
静謐な、さかしまの祝祭のようでもあった。
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終章に代わる四つの光景
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1 九星と血液
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「やっぱり僕の想いなんか、たかが知れていたんだね。裁きは見事に下されてしまったんだもの」
ナイルズの言葉は、ともすれば単調な轟音のなかにかき消されてしまいそうだった。
あとの三人は等しく甲斐の遺体を想い浮かべていた。蒼を通り過して土色にまで変色してしまった、あの非人間的な物体。しかもその胸には、まさに黒い穴としか見えない恐ろしいものがぽっかりと口を開いて、しかしそこからは血の一滴も滲み出ようとはしなかったのである。そうしてそれ故に、かつては甲斐良惟という一個の人間だった筈のその|亡骸《なきがら》は、単なる物体としてのよそよそしさしか持ちあわせていないように思われた。
それはこんなふうに言い換えてもいい。こちら側で、どんなに悲しみ、どんなに怒り、どんなに口惜しがろうとも、その想いは亡骸に触れる端から忽ち何処とも知れず消え去ってしまい、そうして向こう側からは決していかなる種類の反応も返ってこないのだと。投げかける想いはそこで永久に一方通行になり、もう既にそんなことは|拘《かかわ》りなく、死者は彼自身の沈黙を守り続けるだけなのだ。彼らはその沈黙が、既に死者自身にぴったりと過不足なく重なりあい、最早微動だにしないのをその眼で確かめてきた筈だった。
しかしそれならば、一体彼らのなしてきたことは何だったのだろう。数々の崩壊を招いた一連の惨劇は何の意味も持たぬ不在のための祝祭でしかなかったのだろうか。
「でも、そうだとしたら、裁きというものにも意味がないに違いないよ」
羽仁は夢想の後を続けてそう呟き、はっと気がついたように下を向いた。
快い列車の揺れは、脳髄のどこか奥深いところを麻痺させようとする。その車輛には不思議に客数が少なく、しかし暖房の熱気は座席の下から確実に伝わってきて、それは眠りを誘う相乗効果となっているようだった。
「……それはどうか知らんが、吾輩もそんなことを云々する必要はないと思うね。いや、決してナイルズを庇おうとかいう意味でそう言うのではないのだぜ。つまり吾輩としては、甲斐はお前さんの小説にヒントを得てではなく、それとは全く別個に自分自身で推理を進め、それで倉野を疑うようになったのではないかと信じ始めているからなのだよ。……根戸に羽仁はどう思うかね。一体、あの小説のために甲斐が倉野を殺すことになったと、お前達は思っているのかな」
根戸はその言葉にはっと眼を見開いて、
「いや」
と思わず否定の言葉を返しておいてから、|躇《ためら》うように少しの沈黙を置くと、
「俺もそれをずっと疑ってたんだ。そうなんだよ。そんなことがある筈はない。いや、甲斐自身のためにも、そんなことはあってはならないんだ。あいつは自分自身の推理に従って倉野を疑い、問い詰め、そして殺したんだよ。そうさ。そうに違いない」