「そうだよ。あの小説の第二章も、結局のところ、それがテーマなんだもの」.17
それに続いて羽仁も、
「そう言われれば、成程そうだよね。果たしてあの小説でひとりの人間の行動をそこまで誘導できるかどうか……。確かにそれは|甚《はなは》だ疑わしいな」
そう言って子供っぽい表情に戻ると、自分の膝の上に頬杖をついてみせた。
ナイルズは絶句していた。しかしそれは、不思議にしあわせな絶句だった。
列車の傍を流れていたながい崖が切れて、その時窓の外には見渡すばかりの山並みが展がった。彼らはその美しさに、思わず眼を牽かれて振り返った。殆ど濃い青のように見える緑の|層巒《そうらん》が幾重にもおし重なり、それは右から左まで、小広い窪地を|囲繞《いにょう》しながら躯を押しあうように巨大な帯となって続いていた。
「凄いな」
羽仁が真先に感嘆の声を挙げていた。
「ねえ。僕の夢は、こういう処に巨大な洋館をぶっ建てることなんだよ」
「黒死館のような、かい」
すかさず根戸がからかった。
「どういう趣向の洋館かは、決まっているのかな」
「いや、それは勿論まだなんだけど」
羽仁は困ったように頭を掻いて、
「だけど細かい部分部分のイメージはできているんだよ。それよりも、できることなら登っても登っても登りきれない階段とか、いくら流れ落ちても循環してつきない滝とか」
「何だいそりゃあ。それじゃあまるで実現させることは不可能だと宣言してるようなものじゃないか」
根戸はそう言って背凭れに背中をぶつけた。
「どうせならもう少し現実性のある趣向を考えてくれないかな。十二宮の間とか、九星の間とか……」
「ちょいと待った」
そこでいきなり手を挙げたのは布瀬で、
「それで想い出したのだが、吾輩は昨日の夜、ちょいと奇妙なことに気づいたのだよ。それは例の、九星術に関連したことであってね……」
すると根戸は片眉だけつりあげて、
「何だ。どうも夜遅くまで起きてると思ったら。てっきり甲斐の屍体が眼にちらついて眠れないんだろうと踏んでたんだけどな」
「馬鹿を言っちゃあいかん。それはお前の方ではないかね」
布瀬は笑いながら、
「いやいや、冗談ではない。どうにも不可思議な暗合なのだ。とても偶然とは思えんのだよ。つまり、根戸の発見以外にも、我々と九星術との相関関係が見つかったのだ。そもそも、我々の住んでいるそれぞれの場所の間に、奇妙な共通点があることに気づかんかね」
「何だいそれは。……この上何を聞いても、もう驚くことはないだろうけど」
そう言う羽仁に続いて根戸は、
「共通点って、九星術に関係してる以上、数字か色彩か、それとも五種類の星かだろうけど……」
「ハハン。お前もこの間の推理の時に、このことに気づくべきだったのだぜ。と、こう言うからには、その共通点というのは」
「色彩か!」
根戸はそう叫ぶと、考えこむように頭をさげた。
「そう。その通り。つまり我々の住んでいる場所は、総て色彩に関係した町名を与えられているのだよ。お前の処は白山で白、羽仁の処は若葉町で、九星術の方では碧に該当する。倉野は目白で白。曳間は萩山町で、これは紫を示しているのだろう。吾輩は御存知、緑ヶ丘であるからして緑。久藤邸は下目黒で黒。ナイルズの処は白金で白。そして最後の甲斐の処は、まさしく最も危険な色である黄色だけに、ちゃんと隠し文字になっているではないか。日本橋横[#「横」に傍点]山町、とね。そうしてそれらの中央にある『黄色い部屋』――そのすぐ傍にあった真沼のアパートは赤坂で赤。はてさてこうなると、その各々の色と方角とを照らしあわせてみれば、それが九種類の九星盤のうち、七赤が中央にはいるものにぴったり符合することが明らかになってくる。北から左回りに、三碧、八白、九紫、四緑、二黒、六白、五黄、一白。まさに|寸毫《すんこう》の狂いもない。
「どうかね。根戸。お前の指摘した部屋の色以外にも、こういう具合に町名の色によっても奇妙な暗合が浮かびあがるのだぜ。どちらが表側でどちらが裏側の穂かは判らんが、この符合に全く意味がないとは言いきれまい。あっは、そうなのだぜ。果たして影山はあの九星盤に、どちらの組合わせをあて嵌めようとしたのか。……この新たな方位表を見れば、五黄殺は甲斐、暗剣殺は曳間の上に落ちている。つまり、お前の解釈では他殺で命を落とすホランドと倉野の死が予見され、吾輩の解釈では自殺で命を落とす曳間と甲斐の死が予見されていたことになる。とすれば、影山としては両方の意味を持たせたと考える方が当たっているのかも知れんな。そうして、あるいはあいつが最後に言い残したように、あの図にはただ悪戯としての意味だけがこめられていて、いずれにせよ大したことではなかったのかも知れんが」
「なあるほど」
それには根戸も感心したように言って、
「それなら俺も、昨日の夜に考えていたことを披露しようか」
「オヤオヤ、これはまた面白い。すると何かね。昨日の夜、遅くまで起きていた吾輩とお前は、それぞれ別個に奇妙な想いを巡らせていたという訳かな。一体どんなことだったのか伺おうかね」
「そう改まられても困るんだが」
はにかんだように笑いながら、羽仁とナイルズの方にもちらりと一暼をくれると、
「ふと思いついたんだよ。それというのも倉野のことを考えていたからなんだ。あいつと喋った様ざまなことを想い出していて、急に頭に浮かんだのさ。それは輸血と血液型に関することなんだが」
「輸血?」
羽仁と布瀬が同時に訊き返したのにこっくりと頷いて、
「あいつはこう言ったんだ。中学や高校の教科書では、例えばAB型の人にはA型、B型、O型の血液も輸血できるが、O型の人にはO型の血液しか輸血できないなどと書いてあっただろ。しかしこういった、O型はAB型、A型、B型に、A型とB型はAB型にそれぞれ輸血できるという考え方は古典的なものに過ぎないそうだ。現在では異なった型の血液の輸血は全く行なわれないと言っていい。なぜかというと、そういう場合にも抗原抗体反応によって凝集や溶血などの障害が起こる可能性があるからなんだよ。だから一般的に世間に流布しているこのような考えは、医学領域、ことに臨床関係では殆ど通用しないのさ」
「へええ? で、それは一体、どういう意味を持っているのかな」
唐突な話題に、羽仁は心底訳の判らないような顔をして首を傾げた。根戸はにやりと笑うと、
「つまりこれは、杏子さんの秘密と|拘《かかわ》ってくるんだよ」
「杏子さんの?」
「そうだよ。これは一種のパズル形式の問題になっていたんだ。次に示す幾つかの文章から、あるひとつの結論を導き出せというものなんだな。順に言えば、第一に雛ちゃんの血液型はAB型、杏子さんの血液型はO型であること」
すると布瀬も、強い日差しを気にするように軽く目を閉じて、
「それはナイルズの小説にも書かれてあったね」
「第二に雛ちゃんの両親が事故に遭った時、雛ちゃんのお母さんは重体だったお父さんに輸血をしたということ」
「ふむ。それもまた吾輩も聞いてはいたが」
「第三にこれもこの間に話をしたと思うんだけど、雛ちゃんのお母さんは赤ン坊の時に、ナイルズ達の兄貴が命を落としたという同じ貧血に罹って、両親の輸血を受けたということ」
「あはあ。何となく判ってきたぞ」
羽仁が身を乗り出してくるのを差し止めて根戸は、
「その通り。AB型の子供が産まれるような両親の血液型の組合わせは、AB型どうし、AB型とA型、AB型とB型、A型とB型の四種類しかないんだよ。しかもその一方からもう一方へ輸血ができるような組合わせと言えば、ただひとつAB型どうしというのが残るのは判るだろう。雛ちゃんのお母さんはAB型だったんだな。
「さて、御承知の通り雛ちゃんのお母さんと杏子さんとは姉妹だった。さて、今度は、AB型とO型の子供が産まれるような両親の血液型の組合わせだけど、これは最初からA型とB型しかない筈なんだ。ところが雛ちゃんのお母さんは両親から輸血されたことになっている。問題はここで起こってくるんだよ。いいかい。余程の緊急時でさえ、他型の血液の輸血は極く少量に限られているくらいなんだ。しかしそのような病気であるからには、かなり持続的な輸血の必要があっただろうし、しかもAB型の血液の赤ン坊にA型とB型の血液を一度に輸血するなんてことはまずもって考えられないだろう。つまり、そこに矛盾が起こってくるんだ。どこかに間違いがある筈なんだ。そうして俺は、多分、杏子さんはその両親の本当の子供じゃなかったと結論したのさ。そう考えるのが、どうも一番当たってるような気がするんだな」
「ふうむ。とすれば、それが杏子女史の持つ暗い部分の核だった訳だね」
「そうさ。……しかしそれも今となっては、もうどうでもいいことだけど」
心なしか自嘲気味に言って、根戸は窓の外の光景に眼を移した。
「とにかく、みんな終わってしまったことさ。ナイルズも、もうつまらないことをクヨクヨ気にする必要はない。雛ちゃんも手紙のなかで書いてたじゃないか。俺達はここからの新しい自分自身を瞶めていかなきゃならないんだ」
力強い口調だった。ナイルズはその言葉と共に、窓の外の山並みの光景を痛いくらいに眩しく感じていた。深い緑は|擂鉢《すりばち》状にそそり立ち、客車の揺れにあわせるようにゆっくりと眼の前を流れてゆく。
「ちょっと気障だけど、なかなかいいよ。さすが根戸さん、数学科、というところだね」
肩に降りかかる柔らかな日差しに応えるようにナイルズが言うと、根戸も首を反り返らせるように笑って、
「あっはは。こいつめ、地獄へ堕ちろ」
「あと東京へはどのくらいだろう」
ふと羽仁がそんなことを口にしたのは、次第に増してきた列車の速度のせいだろう。そのあたりから線路は緩やかな下り坂になっているらしく、その上を疾駆する車輪のりズムも徐々に激しさを加えつつあった。
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2 青い炎
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階段を駆けあがってくるなり、羽仁は大声で怒鳴った。
「おおい。これ、知らないだろ」
その剣幕にほかの客は一斉に彼の方を振り返り、羽仁は羽仁で、二階にそんな大勢の客がいるとは思わなかったらしく、照れくさそうに肩を竦めながら足速にこちらに向かって歩いてくる。
「馬鹿じゃないのか、お前」
「知らないって、何のこと」
そこにいた布瀬とナイルズが重ねるように言うと、
「あはあ、申し訳ない。つい、この間の調子でね」
そう、まず弁解しておいて、
「しかしまあ、とにもかくにもこれなんだ」
羽仁が差し出したのは一冊の雑誌だった。
「それは詩の雑誌じゃないの」
「その通り、このなかの、ええと――」
慌てて目的のページを捜していたが、
「これこれ。この詩を見てくれ」
ふたりは首を曲げるように、両側からそのページを覗きこんだ。そうしてすぐに、あッという驚きの声を挙げた。そこには聞き憶えのある言葉が、活字となって横たわっていた。掲載されていた詩の冒頭を占める、次のような三行だった。
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――君はどこにいるの
――どこにもいないわ
――じゃ、行こうか
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「これは」
詩はその先まで続いていたが、そこまでを見て取ると布瀬は呆れたように呟いた。
それは人びとが冬支度を急ぐ、十一月も半ばの日曜日のことだった。『帰路』で|憩《いこ》う客のなかにも、既にコートやマフラーを身につけている者が少なくない。羽仁も柔らかそうな厚いセーターを着こんでいて、ナイルズの横に腰を降ろしながらそれを脱ぐと、
「この雑誌では詩を一般に募集していてね、優秀作に賞を与えることになっているらしいんだよ。で、今回入賞したのがこの詩なんだ。ね。ペンネームは原頁糸冬なんて、いかにもありそうもない名前になっているけど、これは絶対真沼に違いないよ」
「いやあ。びっくりしたなあ」
ナイルズは首を振りながら躯を背凭れに沈めると、
「でも凄いや。この雑誌の賞なら相当権威もあるんでしょう。真沼さんがどこかで無事に暮らしてることも判ったし、ということは、いつかまた、ひょっこり顔を見せる可能性も大きくなった訳だね。……とにかく真沼さんはこれで、詩人への道へ大きく足を一歩踏み出したことになる。ねえ、これは全く凄いことだよ」
「ふうむ。それではこの集いは、真沼のためのささやかな祝いの席にしなくてはならんな。今日は根戸が抜けてはいるが」
布瀬が言うと、羽仁もぽんと膝を叩き、
「そういうことなら僕も――カフェ·ロワイヤル、お願いします」
注文を取りに来たウェイトレスにそう呼びかけておいて、
「しかし、そういえばナイルズ。君もこういうのを知ると、創作意欲が湧くんじゃないのかい。それともあの『いかにして密室はつくられたか』は、もう完成したのかな」
「いや、まだだよ」
「でも、完成させるつもりはあるんだろう」
「それは絶対、書きあげるさ」
ナイルズはそう言ってはね起きると、
「ただ、どういうふうに結末を持っていっていいものか、ちょっと迷ってるんだ。一体どこで事件が終わるのかもよく判らないし」
「ふんふん。……だけどあれが完成すると、一体どういうことになるのかなあ。マスコミが報道したのは事件の極く皮相的な部分に過ぎないし、そのなかには間違いやら明らかな脚色などもあったから、あの小説を読んでもこの事件のことだと気づかない人の方が多いと思うんだよ。そうするとその読者は、現実の部分と架空の部分と、果たしてどちらの側を現実の話として捉えるんだろう」
「さあて。それは難しい問題だな」
布瀬は雑誌のページをぱらぱらと捲りながら、しかし既に注意はそちらの方にいってしまっているらしかった。そんな布瀬を抛っておいてナイルズは、
「まあ、それは未知の読者に委せればいいじゃない。僕も後は、現実の成りゆきと筆の流れに頼るだけさ。……ねえ、それよりもまだあまり暗くなっていないのに、カフェ·ロワイヤルなんか注文していいのかな」
「そういえばそうか」
「昼|行燈《あんどん》という感じでね」
「オヤ、それはどうも皮肉に聞こえるな。何しろ僕は常に間抜けなワトソン役でしかなかったものねえ」
「そんなこと、ないけどさ」
「どうせならアイリッシュにでもするんだったなあ。値段が違うだろ。値段が」
「それもまた、せこいよ」
しかしそうこう言ううちに注文の品が運ばれてきて、羽仁は満更でもなさそうにそれを受け取った。そして最初のひと口をちょっと啜って、
「うん、なかなか」
などと舌鼓を打ちながら、角砂糖にブランデーを注ぎかけた。
「それじゃあ、いよいよ」
ナイルズが言うと、布瀬も慌てて本を傍に置きながら、
「オイオイ。吾輩にも鑑賞させてくれんかね」
シュバッ――という音と共にマッチの軸に火がつき、それがゆるゆると白い角砂糖の上に翳されたかと思うと、殆ど眼に止まらぬほどの炎が揺らめき立った。
「本当に点いてるの」
ナイルズの言葉に、羽仁はそっと掌をスプーンの上に近づける。するとその翳りのなかに静かに燃える仄青い火が現われ、飾るように細い黄色の光が走るのが判った。
そうして羽仁は、その恰好のままスプーンを持ちあげ、手品師がよくやるようにカップの上でそれを確かめさせると、静かにコーヒーのなかに沈めていった。忽ち白い角砂糖はコーヒー色に崩れた。微かな音が聞こえたようでもあり、最後の一瞬に炎はぽっと明るく燃え立ったようでもあったが、しかしスプーンを沈め去り、そのままゆっくりかきまわしてしまえば、もうそこには何も残らない。
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3 解決のない解決
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「ふうむ。真沼がねえ」
根戸は小さく首を振りながら答えた。
「で、それで君の話は終わりだね」
「終わりだねって――」
羽仁は少なからず呆れたように言って、
「何だかたいして関心もないような素振りだね」
「いや、そういう訳でもないんだが、俺はそれよりも聞いて貰いたいことがあって」
そう言いながら、ようやく凭れかかっていた椅子から躯を起こす根戸の表情は確かに只事でなく、羽仁もつられたように顔を堅くして相手の言葉を促した。
「何だい、一体。聞かせてくれ」
「俺がずっと考えてたことなんだ。それはほかでもない。今度の一連の事件に関することでね……」
ふたりの向かいあう根戸の部屋にも、寒気はどこからともなく忍びこんできていた。根戸の後ろで窓が激しく鳴り、羽仁ははっと胸を突かれたようにそちらに眼をあげた。夜だった。
「それはつまり、もうひとつ裏側の真相ということなんだよ。本当の意味でのラプラスの悪魔は実在したんだ。つまり、一連の事件の真犯人のことなんだが」
「何だって」
羽仁は耳を疑った。とすれば、まだ事件は|終焉《しゅうえん》を迎えてなどいないということなのだろうか。総てを操ってきた巨大な影は、現在も彼らのすぐそばに寄りそっているというのだろうか。羽仁には何が何だか判らなくなってしまった。
「そんな』だって」
「俺の|躓《つまず》きの石は、布瀬の目撃した白昼夢の件だった」
羽仁に構わず、根戸はそう自分の考えを語り始めた。
「ホランドは偶然に倉野の部屋を訪れた。そうして曳間の屍体を発見した。うん。それはそれでいいさ。別に不自然でも何でもない。……しかし、それは三時頃のことだったんだぜ、布瀬が白昼夢を目撃したのは十二時半なんだ。もしも布瀬の見たのが本当にホランドだったのなら、この二時間半の時間の落差は一体何だったと言えばいいんだろう。そうなんだ。俺はその点を、どうしても説明できなかったのさ。……いや、勘違いしないでくれ。こんなことを言うと、布瀬の目撃した白昼夢の正体はナイルズで、俺の言っている事件の首謀者もやはりあいつなんだろうと思われるかも知れないけど、それは違う。いろいろ考えた結果、俺は白昼夢の正体はやはりホランドに間違いないと思うんだよ。そうして俺は、その空白の時間を埋めるための理由をやっと捜し当てることができたんだ。道標になってくれたのは……何だと思う。この手帳だったんだよ」
根戸はポケットからその黒いものを取り出した。羽仁にも見憶えのあるそれは、『帰路』で根戸が公開した、曳問の手帳に違いなかった。
「俺はあれからも、この手帳を何度も何度も読み返してみた。そうして、読み返すうちに、俺の頭にはひとつの疑問がゆっくり萌芽していったんだよ。それに俺はあることを想い出したんだ。曳間の好きな探偵小説のベスト·テンのなかに、遠藤周作の『闇のよぶ声』がはいってたことを。俺はそれで、俺のなかで育ってゆく疑問を確かめるために、神保町のあたりを歩きまわってみたんだ。……ほら。五月の終わり頃に倉野が曳間の姿を見かけたっていうあたりさ。俺はその近くに、とうとう俺の疑問を氷解してくれる場所を発見したんだ。それは催眠術の研究所のような処で、曳間は行方不明だった期間、ずっとそこを訪れてたことも俺は確かめてきた」
「催眠術?」
羽仁は、自分の躯の均衡を保つのに必死だった。
「それに考えてもみろ。今度の一連の事件は、実際、連続殺人事件なんかじゃなく、飽くまで不連続なものだったじゃないか。――そうとも。この惨劇を企み、計画し、そして並べ立てたドミノの駒を倒すように事件の口火を切ってみせたのは曳間だったんだ。事件を裏から操ってたのは、その時既に死者となっていた曳間だった[#「その時既に死者となっていた曳間だった」に傍点]のさ。俺達は、死者の殺人計画書にまんまと乗せられて、その筋書き通りに動いてたに過ぎないんだ」
「つまり、曳間は後で次々と殺人が起こるのを予想して自殺したと言うのかい」
「そうだよ」
あっさりと肯定して、根戸は後を続けた。
「しかし、それが起こるためにはどんな条件が必要か。……俺は考えた結果、それがたったふたつでいいことに気がついたんだ。ひとつは、充分時間を置いて戻ってきた倉野が、戸口の鍵がかかってたと錯覚すること。もうひとつは、倉野が帰ってくるその二、三分前というきわどい時間にホランドが部屋を訪れること。このふたつの条件が満たされた時、現実は抛っておいてもそのまま急な坂を転がるように、惨劇に向かってつき進んでゆくだろうことを、曳問は俺達の心理の襞にまで分けいり、読みきってたんだよ。……そしてそのために、曳間は|予《あらかじ》め倉野とホランドに催眠術をかけておいたんだな。術を解いた後で、本人も意識しないうちにある特定の行動や思考に赴かせるという、後催眠をね。間違っちゃならないのは、曳間は倉野に直接『殺人を犯せ』と指示した訳じゃない。曳間は倉野の人格にまで踏みいって、それを歪めちまうようなことはしなかったんだ。ただ彼は、倉野に『戸口の鍵がしまってると錯覚する』ように暗示しておいただけなのさ。つまり、きっかけを与えてやったに過ぎないんだよ。
「ホランドには自殺の直前に、倉野の部屋へ呼び出して催眠をかけたと思う。どういう暗示を与えてたのか、もうだいたい判るだろ。近くにひそんで倉野の帰りを待ち、その姿を認めたらすぐさまひと足先に部屋のなかにはいる。……恐らく曳間はただ単にそんな行動を強いた訳ではなく、それに特定の意味を与えていたに違いない。そしてホランド自身は、その暗示による行動は忘れちまうんだ。予想外だったのは催眠をかけられた直後に、予行演習のためかそのあたりをうろうろしてる姿を布瀬に目撃されたことさ。しかし、ともあれそのことも曳間の筋書にさしたる影響を及ぼすことなく――いや、却って効果的な素材となって惨劇の幕は開いちまったんだ。そういえば、もしかすると倉野が曳間のために復讐しようとしたその心理の、一部分には、催眠術をかけられた者が術者に対して抱く、〈ラ·ポール〉と呼ばれる深い精神的な繋がりが荷担してたのかも知れないな……。だから真沼のあの|既視感《デジャ·ヴュ》も曳間の催眠術のせいさ。曳間は自分の術の練習台として真沼に度々後催眠をかけてたんだろう。事件には直接関係なかったが」
羽仁は根戸の言葉を、ぼんやりと遠くの方で判っていた。そうしてそのまま、ゆるゆると視線を窓の方に向ける。ふと、闇のなかに白っぽい影が浮かびあがり、羽仁は霧が出始めているのに気がついた。
「つまり真犯人は最初に死んでいた[#「真犯人は最初に死んでいた」に傍点]というんだね。だけど、どうして。……曳間は自殺してまで惨劇を起こさなくっちゃならなかったんだよ。まさか、曳間にもやはり姉と同じく精神病の血が潜在していたというのなら、今度の事件は単なる狂気の沙汰になってしまうじゃないか」
「それは、一体何と言えばいいのかな」
根戸は言葉を選ぶようにしばらく|躇《ためら》って、
「ただ、この手帳を読んでいて次第に判ってきたのは、曳間にとって俺達ファミリーは、ひとつの実験場だったということなんだ。だけど、ここが奇妙な逆説なんだが、曳間は決して惨劇が起こることを望んでなどいなかった[#「曳間は決して惨劇が起こることを望んでなどいなかった」に傍点]んだよ。え? 俺の言ってることは変だろう。だけど、それが本当なんだ。もしかすると曳間の予測が狂ってて、倉野は殺人に踏み切るところまで行かないかも知れないし、ほかにどんな偶然が割りこんできて、総てがおじゃんになってしまうかも知れない。――曳間はそこに賭けたんだ。曳間の願いは、ただただ、そのような条件が揃っても惨劇が起こることがないようにという、その一点にかかっていたのであって……
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4 不連続の闇
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――そうなんだ。そして、それでもなおかつ惨劇が起こらないとすれば、僕らの頭上に覆い被さっていた巨大な黒い影のせいで惨劇が起こることもまた、決してない筈だったからなんだ。
ナイルズは漂流船のようにあてどなく歩きながら、そう考え続けていた。濃い霧が足や手に纏わりつき、しばし滞るように絡まっていたかと思うと、すぐまた後方に流れ去ってゆく。そんなことを、もう何度繰り返したものか。ナイルズの全身は既に、激しく汗をかいたようにじっとりと濡れそぼっていた。
――だけど、実際に惨劇は起こってしまった。でも、それはそれで仕方なかったのかも知れない。そうだよ。だって、現実がこんなふうになっていなければ、ひょっとしてこの僕こそが自分の手で殺人を犯していたかも知れないんだから。
白い闇。それはこのようなものだったのだろう。処どころに点っているらしい街灯の光は厚ぼったい濃霧に鎖されて、ぼんやりと|撹拌《かくはん》されたままその場からこちらに届くことができないでいた。そしてナイルズは、その甘ったるいミルクのような霧のなかを、ただどこまでも|彷徨《さまよ》っているのだ。
ふと、どこか遠くの方で、踏切の遮断機の音が、カンカンと湿った響きを帯びて鳴り始めた。ナイルズは自分の辿っている、果たして道かどうかも訝しいその道が、一体彼をどこに連れてゆこうとしているのか判らなかった。ただ、眼の前に行手を遮るものが浮かびあがるたびに、方向を変えているに過ぎない。そうして数限りない角を折れ、辻を過ぎるうち、最早今歩いている場所が街なかなのか、それとも人家から離れた場末なのかさえ区別できなくなっていた。
記憶錯誤と催眠術。かつて曳間はナイルズに語って聞かせたことがあった。既視が起こる瞬間には、現在から過去に向かって、記憶が逆向きに構築されるのだと。電光板の上に光のついた点が次々と走り過ぎるように、それは現在の一点から時間を遡ってゆくのだと。ならば、人間の記憶が常にそのようなものであることはむしろ当然なのだろう。記憶はその一瞬一瞬、現在から過去へと繰りこまれてゆき、そうして一瞬前の自分は最早現在の自分にとって記憶でしかないというならば、人間が生きているのはその絶えざる虚構のただなかであり、彼が進みゆく地点は大いなる架空だと言って何がおかしいのか。
そんなことを考えているうち、ふと気がつくと先程のシグナルの音は既にやんでいて、ナイルズは踏切を通過する電車の音が聞こえなかったことを不思議に思った。
何だったのだろう。故障だろうか。ナイルズはそんな疑問を胸に昇らせながら、しかしその道を歩き続けるしかなかった。霧はいよいよ深く、そうして少年はすっかり濡れ鼠になりながら、曳間の辿った道を自分もまた辿ってゆくのかも知れなかった。濃密な霧のなかに響くのは、もう既に自分自身の跫音と息遣いだけでしかない。不連続の闇。少年はそんな言葉を想い浮かべてもいた。
――ひょっとしたら、もう僕自身、あの小説のなかに封じこめられてしまったのかしら。現実と架空は見事にすり換わり、今僕が辿っているのはもう、小説のなかの出来事に過ぎないのかしら。
しかしその疑問も最早この濃霧のなかでは、さしたる意味を持ちあわせていないのかも知れない。処どころぼおーっとコバルト色に点っている明かりも、|暈《かさ》のかかったように滲んで、どう見てもガス灯の光としか思えないのである。だからその朧な灯に映し出される、殆どそれと見てとれぬような、もしかするとこちらの妄想からくる幻かも知れない|幽《かす》かな物影も、やはりこちら側で役割をふりあててゆかなければならないのだろう。
――それともあれは、変電所の明かりなんだろうか。
少年はびしょ濡れになった外套のポケットに手をつっこんだまま、そう考えて激しく身を顫わせた。巨大な影は頭上|杳《はる》かに伸びあがり、彼を呑みこもうと立ち塞がっているような気もした。しかしもう一度その晦冥を見やると、その影の気配は既に跡形もなく消え去ってしまっている。少年は持ちきれない苛立ちを意識しながら、このげっぷの出そうな濃霧のなかを漂い続けるしかなかった。
――この霧。そうだよ。僕は一体何を望んでいたんだろう。ただこうやって霧の迷宮のなかを歩き続けて、だけど僕は一体、何を望んでいたというんだろう。
それは少年を妙におかしい気持ちにさせた。そうだ。だから今ここを歩いているのは僕ではないんだろう。こうしてこんなことを考えているのは、もう僕ではないに違いない。
しかし少年の前に、答えるものは何も存在しなかった。道もなく、坂もなく、建物もなく、|穹《そら》もなく。ただ霧霧霧だけが上も下も判別なく少年の周囲を鎖していた。
――だから、曳間さん。あなたは勝ったんだよ。不連続線の向こうに踏み越えていったあなたは、勝ったんだよ。
そう眩く少年の前には、しかしなおかつ圧倒的な不在があるばかりだった。そうなのだ。そこから総てが始まってゆくにしても、果てしもなく続くこの霧の底を、殆ど泳ぐようにして歩き続ける少年は、自らの意志とは関係のない世界を待たなければならないのである。――深い深い霧。
その時まで彼は、こんなに深い霧を経験したことがなかった。周囲のもの総てが、厚くたれこめたミルク色に鎖され、深海の光景のようにどんよりと沈みこんでいる、こんな霧を。
[#改ページ]
あとがき
人間は約七年で、体を構成するすべての元素が完全に入れ換わってしまう――という話を以前何かで読んだことがある。その真偽はともあれ、『匣の中の失楽』の脱稿から既にその倍の年月がたってしまったことを考えると、この作品は現在の僕にとって、もはや全く別人のものと言っていいに違いない。
その意味では、いまさら過去の作品を手直しするというのは、他人の作品にちょっかいを出す愚にほかならないだろうし、まして、八年前の文庫版の際にまるまるひと月をかけて、決定版を期したことからすればなおさらだろう。そう考えて、僕自身、はじめはあえて手を入れるつもりはなかったのだが、いざ校正ゲラに眼を通しはじめるともう我慢できず、結局かなりの時間をつぶすことになってしまった。
とはいっても、修正したのはほとんど文章面だけで、それもなるべく若書きの味は残すように努めた咽つもりである。いわば今回の校訂は、元服に際してのお色なおしというところだろうか。
ともかくこの十余年のあいだ、僕にとって『匣の中の失楽』が特別な作品だったのは間違いないところで、もちろん愛着も深かったが、その反面、嫌悪に近い感情も根強くつきまとっていたのも事実だった。それには純粋な不満もあり、かつての自分の青臭さを見せつけられる|気羞《きはずか》しさもあっただろうが、もうひとつ大きな理由として、内外からの『匣』クラスの作品をもう一度という要請が重荷になっていたのは否定できない。
不遜な言い方をすれば、それは破格な処女作を持ってしまった作家の宿命ではないかと思う。少なくともざっと見わたしたところ、ほとんどの作家は初期作品が最も優れ、密度も高く、輝きにあふれているのに対し、時とともにどんどん成長する作家は稀にしかいないというのが実際のところで、しかも僕自身としてはやはり後者への憧れがやみがたいとあっては、この呪縛はどうにも避けられないものだったに違いない。
しかし、単なる時の経過のせいか、それとも最近『ウロボロスの偽書』を完成したことで、ようやくその呪縛から解き放たれたせいか、いま改めて通読してみると、意外なほど素直に面白がれる自分を発見したことも報告しておこう。その際、まず思ったのは、「やっぱりこんな作品、そうそう次々書ける訳ないよな」ということだった。実際、この憑かれたような猪突猛進ぶりは二十歳そこそこの若さではじめて可能だったに違いなく、今となっては到底真似できないという感想も表明しておくべきかも知れない。
思えば、この十余年で失ったものも大きいだろうが、得たものも少なからずあったはずで、問題はその差し引きということになるだろう。願わくば、それがマイナスでないことを祈るのみだが、その回答はまたしばらく時を待つほかないに違いない(と、今のところはそういうことにしておこう)。
ただひとつ、関連して見えてきたことを言っておくと、一般に、作家が時とともに失っていくものが|瑞々《みずみず》しい輝きだとすれば、獲得できるものは職人的技量だったり、バランス感覚だったり、人間を描く力だったりする。意地の悪い言い方をすれば、長年作家業を続けた者は、そういう部分で対抗するしかなくなってしまうのだ。だから、彼らが新人の作品を評価する場合、例えば人間が描けているかという点に|喧《やかま》しくなったりする裏には、そういう事情からくる無意識的な自己正当化のからくりがあるのではないだろうか?
これは必ずしも皮肉ではなく、現に僕自身も人間の描かれていない作品には眼を背けたくなるほうだし、目下のところの最大の関心事も、|畢竟《ひっきょう》、小説はいかにして人間を描き得るかという点にあると言っていい。ただ、そこにそういう隠微なからくりがつきまとうとすれば、せいぜい心しなければと念じるばかりである。
さて、これまでの経緯をつけ加えておくと、この作品は雑誌『幻影城』77年4月号から78年2月号まで連載、同年7月に単行本にまとめられ、さらに83年12月には講談社より文庫版が刊行された。執筆開始から現在に至るまで、この作品をめぐって感謝しなければならない人びとは数知れないが、とりわけ今回のノベルス版の刊行にあたっては、所謂新本格の仕掛人であり名伯楽である編集者の宇山日出臣氏に、名馬たり得ない悔いをこめつつ、最大限の謝意を表したい。
[#地から1字上げ]竹本健治
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