曳間と数学。それは、まことに奇妙な取りあわせに思われた。実際倉野は、曳間が数学関係の方面に興味があるとは聞いたこともなかった。しかし、それを言えば、倉野もこの本を気まぐれに手に入れたのである。もし、これを本棚から取り出したのが曳間だったとしたら、それも曳間の気まぐれと考えていいのだろうか。倉野はもう一度、屍体となった曳間の顔を覗きこんでみた。曳間は、そんな倉野の疑問も知らぬげに、ただ死者のみの持つ慎ましやかな|静謐《せいひつ》さを保っていた。倉野は、再び湧き起こってこようとする|鼻腔《びこう》の奥の塩辛さを|嚥《の》みくだし、ほっとひと息、溜息をついた。
――さて、これだけのことを材料にして、何が推理できるだろう。
倉野は、明智小五郎ならそうするだろうように、頭をもじゃもじゃと掻きまわしてみた。
――まず第一に、見たところ、部屋は荒されていないし、曳間の表情からしても抵抗した形跡は全くない、しかもナイフは真正面から心臓に、正確にひとつきしてある。だから恐らく、犯人は曳間の知っていた奴に違いない。いや、|敢《あ》えて言えば、非常に親しい者、僕達ファミリーの一員だと考えるのが、最も妥当だろう。
――そうだ。それに、犯行現場にこの部屋を選んだ点から見ても、犯人はファミリーのひとりだという可能性が大きい。とすれば、曳間と犯人が一緒にこの部屋を訪れた可能性も、これまた大いにあると言わねばならない。……そうなのだ。犯人がもしファミリー以外の者だとして、そんな人間がこの部屋を殺人の舞台に選ぶというのもあり得ないことではないにせよ、やはり不自然だ。
――それから、例の鍵の件だ。表口の鍵を、なぜ外側から[#「外側から」に傍点]かける必要があったのか。その上、なぜ裏口の戸まで錠を閉めたのか。これに関しては、まるで判らない。
――最も不可解なのは、犯人はなぜ、僕が帰ってくるまでのんびり待っていたのか、だ。曳間を殺せばもう用もない筈だから、さっさと退散すればよさそうなものだ。……それとも僕が帰ってきたのは、犯行の直後だったのだろうか。犯人が逃げようとして一階に降りてきたその時に、鍵をまわしている音がしたので、とっさに炊事場のカーテンの向こうに隠れて、僕をやりすごしたのだろうか。
けれども、そういう仮説が成り立たないのは、倉野にははじめから判っていた。なぜならこの血潮のかたまり具合から、|素人《しろうと》眼にも、犯行のあったのは一時間以上も前だと知れるからである。事実、後になって判ったことだが、解剖による所見では、死亡推定時刻は正午から十二時半の間とされたということだった。しかしそうすると、犯人は約三時間、ずっと倉野が帰ってくるのを待ち続けていたことになってしまう。
――何のために?
倉野には、その理由など、全く想像すらできなかった。犯人がじっと物陰に隠れ、この熱気のなかで、息を殺して彼の帰宅を待ち続けている、といった情況には、ひどく狂気じみたところがある。そしてそれ故に、その空想は奇妙な現実感を伴って、倉野に迫ってくるのだった。彼は何度も身顫いした。
――ああ、それに、なぜ犯人はわざと僕に靴を見せた[#「わざと僕に靴を見せた」に傍点]のだろう。
考えてみればみるほど、判らないことだらけのように思われた。倉野が帰ってくるまで待ち続けねばならぬどんな理由があったにせよ、犯人には自分のデザート·ブーツを隠す暇などいくらでもあった筈なのだ。にも拘らず、彼はそれをしなかった。堂々と曳間のバスケット·シューズの横に並べておいたのだ。「俺はまだここにいる」――あたかも、そう言わんばかりに。
――隠せる靴を隠さなかった。それが単なる犯人の度忘れだなんて馬鹿なこととは思えない。そいつは確かに、ある理由があって、僕に靴を見せたに違いないのだ。だが、一体、その理由とは何だろう。
――まだあったぞ。犯人は、なぜ僕のこの部屋を犯行現場に選んだのか。僕が今日新宿に出かけたのは単なる気まぐれで、このことは誰にも予測できなかった筈だ。
しかも犯人には、いつ僕が帰ってくるか、絶対に判らない。今日の十時頃、僕がこの家から出たところを偶然目撃していたにしても、そいつには僕がどこへ行くのか見当がつかないだろうし、ましてや一分後に戻るか、あるいは一時間後に戻るか、根戸や羽仁のところへでも行って、一晩くらい泊まって帰るかは絶対に判らない筈なのだ。
頭は混乱し、推理は|錯綜《さくそう》して筋道をなさなかった。
ふと気がつくと、パトカーのサイレンがすぐ近くにまで迫ってきていた。シとソの音階を繰り返すその音は、倉野の心臓の鼓動を速めた。昨日までは何の感動もなく、夜中に時折り走り過ぎてゆくそれを、おや、何だろう、くらいの気持ちで受けとめていたのだが。
――これは密室ならぬ密室なのだ。犯人はいつでも外に遡れ去ることができたのに、彼は敢えてその権利を放棄した。そして念入りにも、裏口も錠をしめている。最終的に彼が逃亡のために使用したのは、帰宅した僕が[#「帰宅した僕が」に傍点]、家にはいるために開けた[#「家にはいるために開けた」に傍点]表口。
表口からはいり、裏口の錠を開けて外に出、表口の鍵を外側からかけて、再び裏口からなかにはいり、裏口の錠をしめる。そして倉野が開けた表口から逃げ去る。この一連の犯人の行動を、彼は何度も想い描き、反芻した。その空想のなかで、犯人の顔の部分だけは|靄《もや》がかかったようにぼんやりしていて、眼を凝らして見ようとすればするほど、顔は陰となって判らなかった。そしてそいつは、時どき思い至ったように歩みを止め、こちらを振り返ってアカンベエをするのだ。
倉野は口惜しさに脣を噛んだ。
ガレージの前あたりでサイレンはやみ、続いて車のドアの開く音。そして|遽《あわただ》しく続く幾人もの靴音が、土間の通路を抜け、ドカドカと怖ろしく乱暴に踏み鳴らしながら、階段を駆けあがってきた。
何かの間違い。日常の時間のなかにふと迷いこんできて、そうして抛っておけば、いつの間にかまた、ただの幻覚であったかのように消え去ってしまう筈の架空が、今、取り返しもつかない現実へと変容してしまうのだ。
――倉野はそんな想いを捨てることができなかった。
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3 靴と悪戯
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「へえ、で、それから」
夏の日差しが白いフランス窓を通してさしこんでくるなか、これまた純白の|繻子《しゅす》を垂れさせた円卓の向こうで、|屈《かが》みこむように乗り出した羽仁が尋ねた。倉野は答えようとして、眼が|瞑《くら》んだ。羽仁の肩ごしに、|金雀枝《えにしだ》が陽光を浴びて強い黄金色の輝きを返している。倉野は再び|俯《うつむ》いて、忘れかけた言葉を捜した。
気温はあの日だけを頂点として再び急激にさがり、平年よりいくぶん下まわるまでになっていたが、日差しの強さ自体はたいして弱まっている訳ではない。一日置いた、七月十六日。盛夏はまだまだこれからだった。
倉野は、どういう順序で話していいのか|躇《ためら》った。実際、羽仁が必要以上に興味を示しているのも無理ない話で、これまでの倉野の話によると、一昨日の出来事はもう絶対の他殺事件であるにも拘らず、現実には羽仁のところにも警察の事情聴取が来たものの、その後一向にこれが殺人事件として取りあげられる気配もないままに過ぎようとしているからである。
昨日の新聞には、曳間が倉野の下宿で変屍体となって発見され、目下自殺か他殺かを調査中などという、まことにのんびりした記事が掲載されていたが、今朝の朝刊では、もうその事件についてふれていないところを見ると、自殺としてかたづけられたのか、あるいは新聞にも洩らさぬ極秘の捜査を行なっているのか、いずれにしても羽仁には腑に落ちない点が多かったのだ。
「何ね。話しにくいことも、あるんだ」
倉野は頭を掻きながら、そう前置きした。
「ほんの|悪戯《いたずら》程度のつもりだったんだけど……」
実際、当日のそれから後に続いた出来事は、あまり倉野にとって愉快なものではなかった。最初に駆けつけたのは三人の警官であり、彼らは倉野を、隣の空部屋に連れこむと、屍体発見までの簡単な事情聴取を求めた。次に踏みこんできたのは、どうやら鑑識課の連中なのだろう、倉野の部屋に何人訪れたのかはよく判らなかったが、写真を|撮《と》る音がしきりにしていた。
倉野が驚いたことには、殺人現場においては、刑事達がまず最初に踏みこむことはなく、最初に鑑識課員がいくつかの調査をすませないうちは、なかにはいることを許されていないらしいことだった。そして、それが終わって、次にはいっていったのは、よくは判らないが監察医という奴なのだろう。
捜査の指揮を|執《と》っているのは、くたびれた鼠色の背広を着た、四十くらいの眼つきの悪い男だった。
六畳の倉野の部屋では、依然、何やら絶え間なく物音が続いている。あのまま曳間を、そっとしておいてやれないものだろうか、東京ではもう、ひっそりと死んでゆくことなどできないのだろうか、などといった、取りとめのないことを倉野は考えていた。何か、憤りめいたものが頭を|擡《もた》げ、それはゆっくり、高速度撮影のフィルムのように、倉野のなかで花開いていった。
倉野はこの時、後から考えると、全く突拍子もないことを決心していた。それは、あの靴の件だけは警察には黙っておこう[#「あの靴の件だけは警察には黙っておこう」に傍点]、ということだった。……
「ちょっと待った。そりゃ、偽証ってことじゃないか」
羽仁は慌てて倉野の話をさし止めた。倉野は|項垂《うなだ》れながら、
「ああ、まさしくそうなんだ。今から考えてみても、あの時、なぜそんな気持ちになったのか、自分でもよく判らないんだ。ただ、この事件に関して僕だけが握っているデータが欲しいという気持ちがあったのは間違いないね。それに、これは普通の|所謂《いわゆる》偽証[#「所謂偽証」に傍点]という奴ではない。僕はただ言わない[#「言わない」に傍点]だけなのだ。後でもし、警察に、僕が帰ってきた時には靴があった筈だということが判明してしまったにせよ、その時になれば、気がつかなかったと言えば、それでしまいじゃないか、などという考えが後押ししたのも確かだろうと思う。それで僕は、押されるままに、僕が帰ってきた時には確かにグレーのデザート·ブーツがあった、という事実を黙秘してしまったんだよ……」
倉野にとって印象に残ったのは、警察の事情聴取というものが、想像していたほど鋭く斬りこむていのものではなく、ただもう野暮ったいほどに事実のみを蒐集するという点だった。しかしそれは、とにかく徹底しており、却って倉野には好感が持てた。
何にせよ、倉野は〝靴の件は黙っている_という後ろめたさも手伝って、それ以外のことは想い出す限り、できるだけこと細かく、かつ正確を努めて喋った。
ひと通り、屍体発見までの経緯を聴きとると、刑事は倉野と曳間との関係などについて尋ねた。
「彼の名前は、曳間了。二十一歳。東京で知りあった友人で、僕と同じF*大学に行ってて、一年の時、チェス研究会で出会ったのだから、もう三年になります」
「彼の住所は」
「東村山市萩山町一丁目、|紅《くれない》荘……」
「彼には、ほかに友人が大勢いたのかね」
「彼の郷里は金沢なんですが、そこの中学からの旧い友人で、甲斐良惟ってのがいます。N*美大に行ってるんですが。……それが特に親しい友人で、あと、まあ親しくつきあっているっていったら、僕達仲間うち、みんなですね」
「ふうむ。じゃ、そこらへんは後で聞くとして、彼は、よくこの部屋に来てたのかね」
倉野は一瞬、答に戸惑った。ふと首をあげると、黒ずんだ裸電球が天井からぶらんと垂れさがっているのが眼にはいった。それは、この空部屋に、一層の淋しさを演出しているようでもあった。
「彼が来たのはそんなに多くないです。最後に来たのは今年の冬頃でしたし、それに、僕は奴に、このひと月半ほど会っていないんです」
「ほう。忙しくて、かね」
「いえ、彼は、五月の終わり頃から、誰にも姿を見せてないんです」
刑事は、一瞬瞳を輝かせたようだった。
「ところで、君がこの部屋を出たのは、今日の午前十時くらいということだったね」
「ええ」
「その時、カーテンは閉めて出たかね」
「ええ」
「表口にも、ちゃんと鍵をかけた?」
「勿論です」
「ふうむ、そして君はいつも、裏口の錠は閉めておく習慣だったんだね」
「ええ。習慣っていうのか。とにかく、あそこの戸の錠は、閉めたままにしてあります」
「通路にある窓もだね」
「そうです。あそこは開けたことさえありません」
「ふむ。それにしても、この家の、あの表口の鍵の具合は面白いね。外側と内側と、全く別のふたつのものを使ってあるんだね」
「ええ、僕も、最初にこのアパートに来た時、変わってるなと思いました」
「しかし君、もしも君が外に出ている時にだよ、誰かが内側から錠をしめると、外側からはどうしようもないんじゃないかね。それに、今はこの家に君ひとりでいいかも知れんが、もしこの空部屋にひとがはいったりすると、いろいろ不都合なことが多いだろう」
「ええ。……それについては、実際、最初の一年間は、この四畳半の方の部屋にも住人がいて、いろいろトラブルがあったので、結局、表口の内側からの錠は使わないってことに決めたんです。で、今もその時の習慣のまま、内側の鍵は一切使ってないんですが」
「ふむふむ。そうして、君が帰ってきた時には、表口の鍵は外側からかけられてあったというんだね。ふうむ」
倉野は裸電球を見あげながら、この〈ふむ〉を連発している刑事が考えているだろうことを、推測していた。
――刑事はあのデザート·ブーツがなくなったことを報されていないのだから、倉野が帰宅した時に犯人がそこにいた、ということを直接的にも間接的にも知らない訳だ。とすれば、彼はまず最初に、この事件が自殺であるのか他殺であるのかから、考えなくてはならない。自殺を否定するような決め手は何もないし、むしろ抵抗の跡が少しもないことは、自殺の線を裏書きしているように見えるだろう。
――もし他殺であると考えるならば、まず彼は僕を真先に疑うに違いない。それに並行して、僕以外の犯人を仮定するならば、今の情況から、どういう推理をするのか。
――僕の喋らなかった証言[#「喋らなかった証言」に傍点]から、何を考えるか。
――そうだ。最も自然に考えるなら、犯人は犯行後すぐに逃げてしまった筈だ。殺人を犯した後、ぐずぐずとその場に留まっているなどということは、およそ犯人にとって利益のないことだから。ましてや、僕が帰ってくるまで、じっと炊事場に隠れていたなどとは、夢にも思わないに違いない。
倉野はこう考えながら、ひとつのことを喋らないということが、こんなにも決定的な推理の喰い違いを招くものなのかと、空恐ろしく感じていた。よほど靴のことを言い出そうかとも思ったが、今となっては却って疑惑を招くことになりそうなので、結局思い留まった。
全くそれは、取り返しのつかない悪戯だった。そして、それを行なったのは、彼自身であることには違いなかったのだが。
「ところで、これは一応手続きとして必要だから気を悪くしないで聞いてほしいのだが、君が昼頃新宿にいたことを証明できるような人はいないだろうかね」
「というと、曳間の死亡時刻というのが、その頃なんですね」
「うむ。まあ、詳しいことはこれから調査されるだろうがね」
「ええと。……十二時頃というと、確か『アルファ』にいた時ですね。『アルファ』ってのは、紀伊國屋書店の裏側にある喫茶店です。そこで、久藤杏子というひとに偶然|遇《あ》ったんですが、それが多分、十二時だったと思います」
刑事は、ふうむ、とまたも深い溜息をつくと、急に丁寧な口調になって、
「どうでしょうかね。ここでは詳しい事情も聴きにくいし、できれば署の方まで御同行願えれば|倖《さいわ》いなんですが」
「いいですよ」
気軽に答えて、倉野は立ちあがった。
戸口を出ると、いつの間にか意味もなく集まった弥次馬達が、せせこましい小路いっぱいに群がり、警官達に押し返されながら|犇《ひしめ》きあっていた。彼らは、今出てきた倉野の顔を見ようとして、新たな|蠕動《ぜんどう》を始めたようだった。倉野は一瞬の|逡巡《しゅんじゅん》を感じざるを得なかった。この群衆にとって、彼はひとりの犯罪者くらいにしか映らないのだろう。
刑事に促されてパトカーに乗りこもうとした時、倉野はふと、何の脈絡もない感慨に捉われて振り返った。微かな芳香が|立籠《たちこ》めているのに気づいたのである。
|橘《たちばな》の花。
それは、倉野のアパートの裏に|繚乱《りょうらん》の花模様を見せ、|馥郁《ふくいく》たる香りを放ち続けていた、倉野は、それを初めて見る想いだった。こうして僕は、少しずつ見知らぬ世界へと運ばれているのではないか。
それはひととき、倉野の眼を奪った。……
「ちょ、ちょっと待ってよ。なかなか小説風に|瑣細《ささい》な情景描写まで取りいれているのはいいけどさ、うっかり聞きいってりゃ、何だって。あんな処に橘の木なんてあったかい?」
「いや、ないけどさ」
倉野は鼻の頭を掻きながら|嘯《うそぶ》いた。
「何だい、|呆《あき》れたね。それじゃあ、あれだな。今までの話のなかに、ほかにも本当じゃない部分があるかも知れないってことか」
と、羽仁が疑わしそうな眼つきになるのを、
「いやいや、それ以外は全く掛値なしの真実だよ」
慌てて打ち消すと、取り出した煙草に火をつけるのだった。
「何がおかしいんだ」
「ふと、橘の香りに気づいて竚む|件《くだり》なぞ、我ながら……ね」
「こいつう、完全に小説の主役にでもなりきってるな」
羽仁もつられて笑いながら、
「いやいや、冗談を言ってる場合じゃないよ。君は偽証を犯したんだからな。立派な犯罪者であることには変わりないよ。……で、警察へ行ってから、どうしたの」
「うん、まあ、おざなりのアリバイ調べ。それから僕達ファミリーの人員構成などをね、そうそう、その事情聴取の時ね、あの刑事、不意に、『そういえば、君の本棚には探偵小説がたくさんあったね』なんて言うもんだから、さすがにひやりとさせられたなあ」
「僕らが探偵小説に狂ってること、警察には判ってるのかな」
「さあ。一応みんなの処にも聴きこみにまわったろうから、誰かが喋ったとしたら判るだろうけど」
倉野がそう言いかけた時、
「俺、喋ったよ」
待ち構えていたように言って、円卓の横にまわりこんできたのは根戸だった。
倉野が新宿区の若葉町にある羽仁の自宅を尋ねてきたのは、先にも記した通り、十六日の昼下がりのことだった。父親が某大手商事会社の専務取締役とかで、ちょっとした林を擁して建てられたその邸宅は、さすがに|豪奢《ごうしゃ》なものだった。羽仁の母親というのはそういう上流階級の夫人によくある世話好きで、倉野や甲斐ら息子の友人達の訪問を喜んだ。それをいいことに、羽仁の屋敷は彼らのいくつかある集会所のひとつになっていた。
倉野が訪れた時、そこには既に根戸がやって来ており、この事件についての勝手な憶測を羽仁と共に語りあっていたところだった。倉野の下宿を訪ねるのも何となく|憚《はばか》られていたふたりは、早速に倉野を出迎えたのだが、『白い部屋』に連れこんだ倉野に、まず羽仁が十三日の会合のことを語って聞かせた。ナイルズが曳間の死を予言していたという話は倉野にとっていささかかショックだったが、間を置かず、羽仁は彼に事情の説明を迫ったのである。
乱歩の『赤い部屋』に|准《なぞら》えた訳ではないのだが、この羽仁の部屋は『白い部屋』と呼ばれていた。対して、布瀬の部屋を『黒い部屋』と呼び、そしてそれ以外に、彼らの集会所としての喫茶店があった。赤坂にあるその目立たぬ店は、甲斐の兄の経営する、様ざまな人形に飾られたアンティークな感じのスナックであり、そしてその名は、こちらははっきりとガストン·ルルーの名作から取って、『黄色い部屋』とつけられていた。
三つの『部屋』のなかで、倉野の最もよく訪れたのは、この『白い部屋』だっただろう。彼と羽仁は、羽仁家が東京へ帰宗する前まで、神戸の同じ小学校から高校に通っていた、言わば幼馴染の関係だった。
倉野はその『白い部屋』の中央にある円卓で、羽仁と向かいになって屍体発見の|顛末《てんまつ》を語ったのだが、その間じゅう彼の後ろのこれまた白いソファーに腰かけて、ひとことも口を出さずに話を聞いていた根戸が、今、ようやく口を開いたのだった。
「俺、喋ったよ」
そう前置きして、根戸は後を続けた。
「なあに、構うもんか。どうせ警察なんて、探偵小説趣味の者なんか相手にしないに決まってら。こういう事件は、俺達自身の手で解決しなきゃな。それがほかならぬ、曳問への供養であるなら|尚更《なおさら》だよ」
「へえ、自信ありげなこと言ってるが、何かピンと来るものがあったのかい」
「まだ事件解決に必要充分なデータが出揃ってないのに、|迂闊《うかつ》なことは口にできないね」
「うん。確かに、犯人を僕らのファミリー内に限定するにしても、各人のアリバイがどうなのか判らなくちゃ、話にならない」
羽仁が同意すると、根戸は低い声で、
「じゃあ明日にでも緊急総会を開いて、各人のアリバイを提供して貰おうか。そして勿論、それから時間を置いて、推理較べをするんだ」
「探偵競技か、それはいいね」
「決まりだな。探偵のなかに犯人がいるかも知れないってのは、小説の上では陳腐になっちまった題材かも知れないが、こうやって実際の話になると、いちばんスリルのある設定じゃないかな」
根戸は|憮然《むっつり》した面持ちながらも、昂奮を隠しきれない口調で言った。
すこし不謹慎かも知れないが、と思いながら、倉野自身、やはり何か抑えきれない昂奮を感じていた。それと同時に、彼は新たな決意を自らに言い聞かせるのだった。
そうだ。犯人はつきとめねばならない。たとえ、それが誰であったとしても。
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4 理想的な殺人
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浅瀬に潜り、揺らめく水面を透かして空を見あげたような、その時の色がそのまま|虹彩《こうさい》に凍りついてしまったような、そんな眼だった。頭部はつやつやとした磁器で|肖《かたど》り、華やかな、その頃の流行であったろう衣裳を着飾った、それは一体のフランス人形である。
テーブルの上に、飾り棚の上に、処狭しと並び置かれた彼らのなかで、一際眼立って他の者を圧しているように倉野には思われるのだった。
――こういう眼を通して見る光景とは、どんなものなんだろう。
倉野はふと、そんなことを考えてみる。それは恐らく、茫洋ととりとめもない不吉な予感に充たされた、水底のような光景なのだろう。そういえば、倉野には想い出される記憶があった。高校時代、羽仁と訪れた山陰の海で、彼は深く脳裡に刻みこまれるひとつの光景を見てしまったのだった。
それはかなりの沖であったろう。ポートは横波を喰らって、|喘《あえ》ぐように揺れていた。海の色は沖に出てゆくうちに、一瞬にして変わるということを知ったのもその時だが、それにも増して強烈に倉野の記憶に焼きついたのは、そのボートを残し海中に潜ってみて、水中眼鏡を通して見た、その光景だった。
彼はまず、蛙のように手足をばたつかせ、水中深く潜りこんだ。錯覚なのかどうか、ずっと下に|朧《おぼろ》げながら海底が見てとれる。鉛のような水色。そんな言葉があるのなら、これがまさにそうだったろう。そして彼は、彼を上へ上へと曳き戻そうとする|抗《あらが》い難い力によって、もうこれ以上潜りきれない処にまで達した時、くるりと体勢を入れかえてみた。
彼は、水中に立ってみたのだ。
底の方の色よりも、さらに深くて遠い、茫漠たる世界が|展《ひろ》がっていた。圧倒的な量の水というのは、これほど不気味な陰影のなかに沈みこんでいるものだったのか。
見渡す限りそこには、妙に実体感を持った色そのものが横たわっており、そしてそれはずっと彼方にまで続いていて、どこからともなく闇のなかに呑みこまれてゆくように、ぽーっと|霞《かす》んでいるのだ。そしてその向こうには何があるのか、透明に透明が重なり続けて、ついには鈍く不透明になってしまったあちらに、一切は包みこまれ、|蹲《うずくま》っているような気もした。
もし|鮫《さめ》なり|鯱《しゃち》なり、いやもっと凶々しい、未だひとには姿を見せてはいないような生物がいたとして――倉野にはなぜか、いつか幼い頃に図鑑で見たことのある三葉虫が、ひと知れず深海のなかで、とてつもなく巨大な|体躯《たいく》を得た、というイメージがあったが――そいつがそのいやらしい外観を現わす時は、必ずその不透明にどんよりとした色彩の膜の重なりの向こうから、殆ど一瞬にして姿を浮かびあがらせるだろうという、確信めいたものを持った。そう考えあわせると、先刻眼の前にした海の色の|豹変《ひょうへん》という現象も、当然そうあるべきもののようにも思われるのだった。ともあれ、そこには青い、凍りついた風景があった。一瞬彼は、ゆっくりと海底に降り立ち、そうして果てしもないこの風景のなかで歩き出してゆく自身を空想していた。
それはまさしく、不吉な予感に充たされ、そしてそれ故に凍結せざるを得なかった光景だった。
彼は不意に襲われた恐怖に、夢中で水面へと|※[#「足偏+宛」、第3水準1-92-36]《もが》いていた。きららに輝く頭上のカーテンのあちら側だけに輝き|亘《わた》った安全地域があるような気がし、そこを目指して必死に浮きあがろうとする。が、その時に限って、彼を抱きあげようとしていた浮力は役に立たず、却って底知れぬ|晦冥《かいめい》のなかに曳きこもうとするいくつもの見えざる手を意識していた。まさにひととき、眼が|瞑《くら》んだような、そんな気がした。
青い大きな眼を見開き、どういう想いを抱いてこの世界を見続けてきたのか、倉野が産まれたずっと以前からこの世界を眺めて来ただろうこのフランス人形は、そんな彼の追想を知ってか知らずか、堅牢な沈黙を守って、この『黄色い部屋』を|睥睨《へいげい》し続けるのだった。
「……さてと。おや、倉野君。そんなにあの人形が気にいったのかね」
「え。いえ、そんな訳では……」
ええ、と答えてもよかったのだが、物想いに|耽《ふけ》っていた最中に突然声をかけられた倉野は、故知れぬ|気羞《はずか》しさにかられて、否定の返事を返した。
実際の年齢は四十を越してはいないのだが、白髪の多い頭のせいで、十は老けて見える。でっぷりと恰幅のいい体躯と容貌は、いかにもひとのよさそうな感じを|顕《あら》わしていて、倉野はこの甲斐|良惟《よしただ》の兄、|良一《よしかず》に、自分の兄のような好感を持っていた。
「これはね、フランスのジュモウ社で造られたものだよ。一八七〇年頃のものらしい。ほら、頭が磁器でできているだろう。これはビスク·ヘッドといってね、十九世紀の中頃からこういった人形が開発されたんだよ。それまでは、これもまた焼物なんだが、チャイナ·ヘッドと呼ばれる……そう、あそこにある人形がそうだよ。こちらのと較べてどうだい。肌の色がどうしても人間らしくないだろう。ああいったものを使用した、ファッション·ドールがそれまでの主流だったんだが、高温で焼いて肌色をさし、再び低温で焼くという手法によって、より自然な|色艶《いろつや》を出したビスクは、それ以後の人形の流行を大きく塗り変えたんだ。
「しかも、このビスク·ドールと呼ばれる人形は、それまでの大人向けのものから、子供向けの着せ更え人形、すなわち〈べべ〉として造られたのであってね、僕の思うに、それ故にこの人形が人びとの心を|掴《つか》むのじゃないかな。肌の色の感じがより人間らしくて健康的なだけに、あの太い眉やどぎついような大きな眼は、一層彼女達を、別の世界から迷いこんできた少女のように見せるんだろうね。可愛いと言う以前にまず、薄気味悪いところがあるからね、確かに。
「しかし、それほど時代を|風靡《ふうび》した彼女達の隆盛は、ながく続かなかった。なにしろビスク·ドール造りは、ひどく手間暇かかる仕事だからね、その後|擡頭《たいとう》してきたセルロイドやゴム製人形によって、きれいに量産化の方向へと切り換えられてしまったんだよ。それから以降彼女達の姿は人形の歴史の上から、ふっつりと消え去ってしまうんだ。それは全く見事なくらいで、まあ言ってみれば、あるいはそれが彼女達に|相応《ふさわ》しい宿命であったのかも知れないがね」
|海泡石《メイシヤム》のパイプを|銜《くわ》えつつ、ひとしきり人形談義を披露すると、この『黄色い部屋』の|主人《マスター》は、聞きいっていた倉野に向けて、再びひとなつこい笑みをよこすのだった。
「うん、そう言えば、真沼君もあの人形が好きらしいね、この部屋に来て、よくあの人形を眺めてるが……」
その時、扉が開き、羽仁と布瀬が訪れた。続いてナイルズとホランド、そしてさらに数分たって、根戸と真沼が年下の雛子を連れて来て、この店の、とりわけ人形の多い別室に、あらかた|人員《メンバー》は揃ったのだった。
肝腎のマスターの弟である甲斐良惟が抜けているのは、金沢で行なわれる曳間の葬儀に出席するために帰郷しているからで、そのことをもう一度全員に告げると、マスターはその別室から出ていった。
――曳間が死んだ後であんな話をするなんて、もしかするとマスターは、僕達を人形に|喩《たと》えて言ったのかも知れないな。
けれども倉野がそんな想いを確かめる間もなく、皆の幾分昂奮気味の眼差しは、一斉に倉野の方に向けられた。
こちらの別室の方も、その名の通り、壁から天井から床に敷かれた|絨毯《じゅうたん》まで、一面黄色に塗りこめられている。倉野は一瞬自分が、人形達を陪審員とする裁判の被告ででもあるかのような錯覚に|陥《おちい》った。
倉野は、昨日羽仁の部屋で語った同じことを繰り返しながら、皆の顔をひとりひとり観察していった。
長方形のテーブルのまんなかに彼は席を取っていた。
右側に羽仁、左側に根戸、そして向かい側の列に、右側から真沼、布瀬、ナイルズ、雛子。そしていちばん左側の、部屋の奥まった処に、テーブルからすこし離した椅子をホランドが占めている。後の者は皆、据えつけのソファーに腰かけていた。
両脇の羽仁と根戸が、幾分退屈気味に構えているのだが、昨日の倉野の話を聞いているのでこれは仕方がない。真沼はいつも蒼褪めたような顔を一層蒼くしながら、眼だけきらきらと輝かせて聞きいっている。布瀬は、いつもの皮肉めかした態度を崩さぬまま、それでも抑えきれない好奇心の表われか、しきりに自慢の口髭を撫で|摩《さす》るのに忙しい。ナイルズと雛子は、これはもう似合いのカップルといった感じで、揃ってテーブルに両肘をつき、一心に倉野の話を聞いている。こちらは真沼とは対照的に、ぽっと頬を紅潮させていた。そして最後のホランドと言えば、椅子に半身を寄りかからせたまま、やはりいつもの狸寝入りをしているのか、ただでさえ薄暗い照明が届き難い処にいるせいで、表情はよく読み取ることができなかった。
倉野がようやく語り終えると、一同は深い溜息に包まれた。ややあって根戸が口を開くまで、人形達だけが言葉にならないひそひそ話を交わしているようで、しばらくの間、人間と人形の立場が入れ換わっていたのではないかとさえ思われた。
「でね、俺は昨日、うっかり聞き逃しちまったんだが、ひとつ、お前に尋ねなきゃならないことがあるんだ」
「何だい」
「曳間の頭の方に落ちていたっていう、『数字の謎』って本のことだよ。数学の方なら俺の専門だけど、そんな本のことは知らなかったね。開かれてたページの上には、どんなことが書かれてあったんだい」
「ああ、そうそう、そうだったね。いや、実はその本を持って来ているんだ」
傍らのジーンズ·バッグから、黄色い装幀のその本を取り出し、倉野は|栞《しおり》の差し|挿《はさ》まれた処を開いてみせた。
そこには飾り文字で、『5の頁』と印刷されてあった。
「この本の内容は、0から9までの数の性質を分析し、それと関連して、素数や平方数、立方数、完全数などの問題について述べてあるんだ。これはそのなかの、5という数字について書いてある、冒頭の部分だよ」
「しかしだね、その本は、直接関係がないんじゃないかね」
と、そこで口を挿んだのは布瀬だった。
「というと」
「なぜならばというに、曳間は心臓をひと突きで即死だった筈だぜ。殺される前に、曳間の奴が犯人を暗示するような|符牒《ふちょう》を残したというのもおかしいし、まあ、本の余白に何か書き記されていたのならともかく、ただ開かれていたページなどを相手にしてはいられんということだ」
と、髭を撫でつけながら喋る布瀬に対して、今度は根戸が、
「それは、これから皆それぞれで推理することだろ。それよりも今日は、全員のアリバイ提示が目的なんだから、まずそいつからかたづけなきゃね」
と、やり返した、ナイルズもそれに加わって、わざとらしく、くすっと笑う。布瀬は微かに口許を歪めた。
「ほかに、聞くことはないかい」
倉野はもう一度、全員の顔をぐるりと眺めまわし、総て語りつくしたことを確認した。ただひとり、ホランドだけが、暗がりのせいで表情を読み取れないのが、気がかりではあったのだが。
「ナイルズの殺人予告の|件《くだり》は、一昨日、みんな集まった時に聞いているそうだから、そうだね、誰から……」
そう言いかけた矢先に、雛子が素っ頓狂な声をあげた。
「あら! あたし知らないわ。なあに、予告って何のこと。ひとり、村八分は厭だわ」
その言葉に雛子の方を振り向いたナイルズは、
「あはっ、そうか、雛ちゃんはあの時、いなかったんだね。でも、これは事件の本質とは何の関係もないんだ」
「でも、本格探偵小説はフェア·プレイが第一条件でしょ。関係ないようでいて、後で重大な意味を持っていた、なんてことになったら、馬鹿を見ちゃうもの」
すると布瀬も、さっきの仕返しとばかりに、