饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

第 4 页

作者:日-竹本健治 当前章节:15464 字 更新时间:2026-6-23 02:20

「そうともさ。なかなかいいとこを突くじゃないか。ナイルズ君も、いつものフェミニストぶりはどうしたね。ゲルダちゃんの言うことは聞いてあげるものだよ。でないと、氷の女王の|虜《とりこ》になっちまうぜ。いいとも、吾輩から話してあげるから」

 そう言って、ちょっと顔を|顰《しか》めたナイルズを尻目に、布瀬はその時の情況を語り始めた。

 倉野はその時にはもう、別のことをぼんやり考え始めていた。

 相変わらず彼らだけの持つ沈黙を守り続けてやまぬ人形達。決して我々には聴き取ることのできない彼らの言葉。

 ――そうだ。この、僕達をもの言わぬ眼で|瞰《み》おろしている人形のひとつひとつにも、じっと抱いているそれぞれの想いがある筈なのだ。

 倉野は、この『黄色い部屋』の|夥《おびただ》しい数の人形達に囲まれて、何かしら異なった世界に足を踏みいれてしまったような、そんな感覚を払拭することができなかった。とはいっても、彼がこの店に足を運んだのは、二度や三度のことではない。しかし、自分の部屋にあの異形の世界を垣間見てしまった倉野には、その後もずっと、自分のいる世界が、どこか見知らぬ時空のなかへと歪められてゆくような予感が離れずにあった。

 人形達の交す言葉を聞こうとする。そんなことからも、異なった世界への扉が開かれるような気がする。

 実際、そこには数知れぬ人形達が押し重なるように並べ置かれていた。西洋のものではまず先程のフランス人形を筆頭に、オランダ人形、ドイツ人形等の、各国の風俗人形。蝋で造られたファッション·ドール。マイセンのものと思われる陶器人形。硝子人形。木彫人形。ギニョール。マリオネット。ワヤンゴレックと呼ばれる棒人形。ブラッティー二。カスペル。それに混じって、可愛らしいシャーリー·テンプル人形が顔を覗かせているかと思えば、黒|弥撒《ミサ》にでも使われるような、この世ならぬ悪魔の顔かたちを肖った泥人形が、その凶々しい眼差しをこちらに向けていたりする。日本のものでは雛人形。

 御所人形。嵯峨人形。賀茂人形。博多人形等がずらりと勢揃いし、なかでもやはり市松人形と文楽人形の数が多い。ほかにもこけしやら和紙人形、土人形の類いがあり、そして壁のいちだん高い処に、|丑《うし》の刻参りに使われるという|藁《わら》人形がひとつ、黄色く輝く五寸釘に打ちこまれて懸かっているところを見ると、この店のマスターである甲斐の兄の趣味も|白《おのず》と知れる訳である。

 そしてそれらの人形達が、真黄色の部屋のなかで、これまた薄暗い黄色の照明を受けて静まり返っている様は、先程想い出していた、海底のあの次第にぼやけてゆく不透明な色層の向こうから、想い|煩《わずら》ったように姿を現わし、そのままくっきりと輪郭を見せ終わるでもなく、といって再び姿を消す訳でもなく、この世界とあちらの世界の中間点に、しっかとした|橋頭堡《きょうとうほ》も持たぬままぶらさがっているもののようでもある。

 そこにおいては、自分達こそが人形なのかも知れないという倉野の疑いもまた、自然なものなのかも知れなかった。真沼や布瀬やナイルズ達の姿までもが、眺めるうちに次第にその姿を瞹味とさせてくるような気もして、倉野は強く瞼を鎖した。

 ――あの曳間の死によって、不意に開かれてしまった異次元への扉。それがどんな処へと続いているのかは、まだ皆目見当もつかないが、とにかくこの今、僕は、そのなかへと足を踏みいれねばならない。曳間の死を、この現実の片隅に|抛《ほ》っぼらかしにしてしまうことなど、絶対にできない。そんなことが、|赦《ゆる》される訳がないのだ。

 そう。曳間が、ただ意味もなく死ぬなどということがある筈がない。発作的衝動的、あるいははずみで起こってしまった殺人などである訳がないのだ。ましてやどこの者とも判らぬ通り魔に殺されたなどというのは論外だ。

 そう、そこには選びぬかれた殺人者が|要《い》る。曳問の生命、その二十一年間の彼の足どりと抱き続けてきた想いを、一切合財ひっくるめて、なおかつそれを帳消しにしてしまうに価する、深刻な動機と綿密な計画とが要る。

 それが|適《かな》わぬのなら、曳問の死を信じることさえできないのだ。ああ、こういう考え方は、異常なのだろうか。曳問の死によって、歪み捩れてしまった、眼に映るこの現実というものの写像。そのつりあいをとるために、もう一方に差し伸ばされた|天秤《てんびん》に、|狡知《こうち》に|長《た》けた極上の殺人者を求めようなどという決心は、ちっぽけな感傷と少なからぬ邪心からくる妄想に過ぎないのだろうか。

 しかし、と、倉野は思った。

 ――僕にはこの道しかない。一定の動作しかできぬ|機械《からくり》人形のように、僕はただ、ひたすらに、最も曳間の死に相応しい殺人のかたちを捜し求めるだろう。理想的な殺人。

 ――そうとも。

 倉野の頬に、殆ど眼に止まらぬ微笑みの翳が|過《よ》ぎった。

 ――そのためにだったら、僕はこの人形達の仲間入りをしたっていい。この異形の陪審員に加わって、茫洋ととりとめもない、不吉な予感に充たされた、水底のような世界を|瞶《みつ》めていたって、いいのだ。

[#ここから3字下げ]

5 白昼夢の目撃者

[#ここで字下げ終わり]

 融けだしたアスファルトから熱気が立ち昇り、チリチリと渦を巻いて、それに包みこまれながらも布瀬は、規則的な歩調を崩さぬまま歩き続けていた。

 遠くの方に、道が上り坂になってゆき、そしてその向こうに再び下り坂になろうとする、なだらかな頂上が見える。そこでは車が通るたびに、その下の地面が鏡のようにさかさまの像を映していて、布瀬はふと、あんな処に水を|撒《ま》いてあるのか、という疑問ともいえぬ想いを抱いた。しかし、額に吹き出す汗をシャツの袖で拭いながらその方向へ歩いてゆくと、そこにはもう水溜りなど、影も形もない。汗が乾いて塩辛くなった脣を|舐《な》めながら、布瀬は、ハハア、これが逃げ水という奴か、と思った。

 腕時計を見ると、十一時十分。今からこの暑さだと、二時、三時にはどうなるのか。布瀬は|忌々《いまいま》しげに舌を鳴らした。七月十四日のこの暑さは、実際その年始まって以来の突然の猛暑だった。今年は冷夏だと言われていただけに、そして昨日もそれほど高くない気温であっただけに、この降って湧いたような猛暑は、人びとに応えたようだった。|赫灼《かくしゃく》と照りつけてやまぬ太陽。燃える|陽炎《かげろう》。布瀬はそのなかを、倉野のアパートを訪ねるために歩き続けていた。

 同じ国電の目白駅からではあるが、布瀬の辿る道は、倉野がいつも往復に使うそれからは途中で|岐《わか》れた、別の径路だった。

 これには布瀬の性格を象徴するような、ちょっとした逸話があった。多分に神経質なところのある彼は、友人の住居を訪ねる際、常に最短距離を歩かないことには気がすまず、歩行に要した時間を精密に計算し、つきとめたその径路しか歩かないという珍しい癖があるのだ。

 目白駅から倉野のアパートまでのその径路も、布瀬の測定によれば、倉野がいつも歩いている道筋に較べ、僅差だが三十秒ほど短いのだそうである。そして小路の錯綜するその径路は、アパートの前の道に、|恰度《ちょうど》倉野が往き来するのとは逆方向から繋がっていた。

 そこに近づくと布瀬は、汗の流れ落ちる首筋を伸ばして、倉野の部屋の窓を仰ぎ見た。窓は閉じられたままだった。褪せた黄色のカーテンまでが、彼の来訪を拒むかのように閉めきられていて、彼はそれを一暼するなり、再び忌々しげに舌を鳴らした。

 念のために横手にまわって、表口の鍵がかけられていることを確かめる。ウンウンと力をこめて開けようとしても、そこの引戸はやはり堅く鎖されていて、布瀬はしばしその前で、|憮然《ぶぜん》と立ちつくした。

 ――畜生。この間の仇を討っために、とっておきのハメ手まで研究して来たのに。

 彼は、碁を打つために来たのである。四、五日前の目碁で惨敗し、二千円を巻きあげられた、その復讐戦だった。ハメ手というのは、囲碁の戦法のひとつで、しかもその裏道をゆくもの、と言えば当たらずといえども遠からずだろう。相手がその応接を正確に行なうならばこちらが不利になるが、ひとたび相手が受け|損《そこな》えば大利を得るというのが特徴で、彼は数多いそのハメ手のなかでも、とっておきに難解な、|大斜百変《たいしゃひやっぺん》のひとつを選び、変化を含めて数百手に|亘《わた》る手順を研究して、いよいよこの日とばかりに、暑さも構うことなく出かけて来たのである。

 その対戦相手が不在ときては、彼の思惑もあらばこそ、力が脱けるやら腹立たしいやらで、ひととき立ちつくすのみだったのも、無理からぬ話だろう。

 しかしいつまでもそこにそうしている訳にもいかず、炎天はその熱気を|弥増《いやま》すとあっては、さらに蒸し暑いだろう部屋のなかで、いつ帰るとも知れぬ倉野を待つ気にもなれず、彼はしぶしぶとそこを離れるしかなかった。

 とにかく、どこか涼しい処に行かねばならない。布瀬は、目白通りに面した喫茶店を選んだ。倉野達とよく行く店である。

 それは『ルーデンス』という名の、小さな喫茶店だった。そこのマスターは、盤を使うゲームなら何でも来いという人物で、その店にもそれらしく、碁、将棋から、チェス、オセロ、チェッカー、中国|象棋《しょうぎ》等々のセットが揃えられていた、無論麻雀もやるそうだが、マスターの唱える遊戯学理論によれば、『運に頼るゲームは低級である』ということになるらしく、そしてそれは倉野の以前からの主張でもあった。

 布瀬はその店にとびこむと、しばらく爽やかな冷気を楽しんだ後、石を|抓《つま》む恰好をしてみせて、「やりませんか」と水を向けた。

「十一時半ですか。恰度、モーニング·サービスに間にあいましたねエ。どれ、じゃあ一局、|揉《も》んで頂きますか。布瀬さんって言いましたっけ、確か。今日は倉野さんはいないの? いやあ、しかしあのひとは強いねエ。あたしも一応五段の力はあると自負していたんですが、やっぱり学生さんと違って、悲しい|哉《かな》、こちとら田舎五段なんですねエ」

 六十の峠を越したと思われる、このいかにもひとのよさそうなマスターを、倉野の代わりにハメ手の|俎上《そじょう》に乗せることに少々気の毒な想いもあったが、布瀬は敢えて実験的な意味にも使用してみるつもりになっていた。

 結果は上々だった。マスターは見事に布瀬の術策に|嵌《は》まり、石の姿は見るも無惨な様相に陥った。その頃からその老人は、彼の本領である長考に没頭し始めた。

 その時も、相手の長考が|蜿蜒《えんえん》と続いている最中だった。布瀬はふと、手持ち無沙汰に硝子越しの街の光景に眼をやった。コバルト·ブルーに|彩《いろど》られた、光|溢《あふ》れる街。そこには往きかう人の姿もなく、車道にさえふっつりと車も途絶えて、一瞬の無人地帯がひろびろと展がっていた。

 布瀬は思わず眼を|屡叩《しばたた》いた。確かに先程までは、車の流れも人の流れも絶え間なく流れていた筈なのだ。布瀬は無意識に眼鏡を押しあげた。

 その時、向かい側の歩道に人影が現われた。それは窓枠の左手から不意に、人形浄瑠璃でも見ているような具合で登場したのだった。しんとした間合についと姿を見せた、それはどこかしら印象的な情景だった。ために、そのまま見過ごしていただろうその人物を、布瀬は網膜にはっきりと焼きつけた。

 それは双子のかたわれだった。ナイルズなのかホランドなのかは判然としなかったが、|敏捷《びんしょう》そうな? をやや斜めにして歩き過ぎようとしているその人物が、あの片城兄弟のいずれかであることには間違いなかった。

 倉野の処に行くのだろう。何の用なのか。いずれにしても、倉野は不在なのだから、連絡しあっての来訪ではないだろう。それにしても、倉野のアパートに電話がないというのは致命的である。

 布瀬はぼんやり、ナイルズだかホランドだかの姿を見送った。どうせ不在と判ったら、すぐに引き返してくるに違いない。

 思ううちに、再び道路には人と車が次々に姿を現わし、少年の去った後には、いつもの喧噪に戻った風景があるばかり。布瀬は、今の数十秒間の情景が、一瞬の間に垣間見た白昼夢であるかのような想いに|囚《とら》われた。

 その時、長考の果て、ようやく意を決した相手の打ち据える石の音が響き、布瀬ははっと現実に|曳《ひ》き戻された。彼は、盤面の方に振り向きながら考えた。

 ――それにしても、よりによってこんな暑さのなかを。双子のどちらか知らんが、何の用にしても肝腎の相手が不在では仕方あるまい。あっは。しかし、考えてみれば、気の毒とは言っても、倉野を訪ねて肩透かしを喰らったのは、この吾輩もそうなんだからな。

 盤上に眼を戻すと、形勢容易ならずと見て打たれたのだろう、最長考を払って|呻吟《しんぎん》を重ねたに相応しく、見るからに難解そうな勝負手が放たれてあった。最強の応手で|咎《とが》めれば一挙に勝負が決まるだろうが、受け損うと、今まで保ってきた序盤の貯金をいっぺんに吐き出してしまうだろう。そうなると形勢不明、悪くすると、こちらが非勢になるやも知れない。布瀬はカウンターの上にある電気時計に眼をやって、十二時半であることを確かめると、その部分の応酬の読みに耽り始めるのだった。

 その一局が終わったのは、午後一時頃だった。最善とは言えぬまでも、相手の勝負手を|躱《かわ》すことに成功した布瀬は、その部分でも少なからぬ利益をあげて、最早その形勢の差はどうにも縮まらぬものになっていた。その後少し打ち進んで、マスターは白髪の多い頭を掻きながら投了した。

「いひゃあァ、参りました。序盤で巧くやられちゃいましたねエ。あれ、どう受けたらいいんですか。大斜百変ってのは、これだから厭なんですよ。それにしても強いねエ。倉野さんにも布瀬さんにも、まるで歯がたちませんなあ」

 そんなことを言いながら、マスターは、今度は自分の方から再戦を申しこんだ。このひとのいい老人は、それでも割合に勝負に執着する質なのだ。布瀬もどうせ暇だし、碁を打ちながら涼しい店に粘り続けられるのなら、願ってもないことでもあるので、これまた快く了承した。しかし、今度は柳の下に|泥鰌《どじょう》はいず、結果は布瀬の惨敗に終わった。

 二局目が終了したのは、三時過ぎだった。田舎碁を自称するマスターの、猛烈な力に捩伏せられ、大石を頓死させられてしまった布瀬は、やり場のない不機嫌に捉われて、飲み残していたコーヒーを、毒杯を|呷《あお》ったソクラテスのように|嚥《の》みくだし、挨拶もそこそこに店を出たのだった。店を一歩出ると、街は猛だけしい怒りに灼かれるように燃え立っていた。|脂《あぶら》っこい汗が、どっと吹き出すようだった。

 パトカーが二台、耳障りな警笛を|喚《わめ》き散らして、駅の反対方向に通り過ぎてゆく。

「面白くない」

 吐き出すように呟くと、布瀬は目白駅の方向に足を向けた。苛立つような街の喧騒は、そんな彼の、駅へ向かう歩を速める。さっきのパトカーが、まさに倉野のアパートで起こった殺人事件のために駆けつけたものであることなど露知らず、ただ、自らの安住の地、『黒い部屋』に戻るために。

「それで、だね。家に着いたのは確か、五時だったね。……さあ、これで文句はなかろう。十一時半から三時十五分までの現場不在証明は、『ルーデンス』のマスターが立証してくれるだろうよ。ほかに客も、二、三人いたしな」

 布瀬が語り終わると、皆の眼は自然、ナイルズとホランドの方に向けられた。なかでもいちばん冷ややかな表情をよこしたのは、当の布瀬で、視線を等分に与えながら、既にどちらかが犯人であると決まってでもいるかのような態度を見せるのだった。きゅっ、と釣りあげられた皮肉な笑みを向けられて、ナイルズの方は戸惑ったような苦笑いを浮かべ、ちらりと後ろを|※[#「目偏+瓜」、Unicode:U+773D]《ぬすみみ》る。ホランドの方は、こちらはもう相変わらず狸寝入りの最中で、暗がりのなかに表情さえ読み取りにくかった。

「僕じゃ、ないよ」

 |躇《ためら》うように、ナイルズが口を開くと、

「へえ。妙なことだね。僕でもない」

 眼を閉じたまま、ホランドも続けた。一瞬、呆れたような沈黙が、その場に割りこんだ、

「布瀬さん、夢でも見たんじゃない」

 からかい半分のナイルズの言葉に、布瀬の|癇癪《かんしゃく》が破裂した。

「夢だと!? 馬鹿にするな。確かにあれは、お前達のどちらかだった。……そうか。お前達、あの時間、あの場所にいたことを知られてはまずい理由があるんだな。見間違いのせいにしようとしたって、そうはいかんぞ。さあ、白状したらどうだ。十二時半頃、倉野のアパートに行こうとしていたのはどっちだ!」

 ぐいとナイルズの胸倉を掴みあげた時、見かねた根戸が、

「よせよせ。熱くなるなんて見っともねえな。名探偵を気取るなら、もっとそれらしくしろよ。まずナイルズ達の話も聞いてやって、嘘を|暴《あば》くならそれからが筋だぜ」

 痛いところをつかれて、布瀬はしぶしぶナイルズのシャツから手を離して座りこんだ。不意をつかれて、半ばきょとんとしているナイルズの方に、大きくひと息つくと、

「すまんな。つい、カッとして」

 と、苦々しい口調で呟きかける。ナイルズは一瞬、ちらっとホランドの方を見ると、

「いや、いいんだよ」

 と答えたものの、急に沈みこんだように黙りこくってしまった。度胆を抜かれたのは雛子もそうで、あっと言う間もない出来事に、ぽかんとした表情のまま布瀬の方を眺めている。するとその時、ホランドが、ようやく鎖されていた瞼を開いて、

「やれやれ、これでどうでも、アリバイを語る順番は、次に僕らにまわってきてしまう訳だね。で、面倒だから、早くやっつけちゃうために、僕から話すよ。布瀬さんのように、完璧なアリバイになっているかどうか。まあ、僕としては、布瀬さんの目撃が、単なる見誤りであったことを願うだけなんだけどね……」

 一同はごくりと唾を呑みこんだ。早くもこうして、大きな喰い違いが現われてきている。そうなのだ。三人のうち、誰かが嘘をついているのか、あるいは錯覚を犯しているのか、なのだ。

 それとも、果たして三人の証言のいずれもが正しいということがあるのだろうか。

 ひとりの場合ならば、ドッペルゲンゲル。それが双子の場合だと、一体そこから離れて歩き出した白昼夢は、何と呼ばれればいいのだろう。そしてその白昼夢は、たやすくこの世ならぬ犯罪をやりおおせることができるのだろうか。しかし、一同はともすればあちら側に滑り落ちてしまいそうな|手綱《てつな》を曳きしめながら、取りあえずホランドの話に耳を傾けた。

[#ここから3字下げ]

6 通り過ぎる影

[#ここで字下げ終わり]

 ふと頭上を振り仰ぐ。|杲々《こうこう》たる|蒼穹《そうきゅう》が、深い煉瓦色の時計台の後ろに展がっている。ホランドはその文字盤に、やっとのことで十二時三分前の時刻を読み取った。

 割合に緑の多いそのあたりから、ほんの二、三分歩くと桜田通りに出る。港区白金にある彼の家からは十五分ほど要するこの小さな公園は、その頃の季節にはいつも、気の遠くなるような香気に包まれる。時計台の周囲には、|夥《おびただ》しい数の薔薇が咲き|零《こぼ》れていて、しかもその際立った特徴は、種類の豊富さにあった。ざっと見渡した処だけでも、バーガンディ、ハンドレッド·リーブド、ドッグ、チャイナ、カロライナ、カンパニオン、ダマスク、ソールネス、ムルティフローラ、ムンディ、オーストラリアン、グェルダー、クリスマス、マイデン·ブラッシュ、マスク·クルスター、ヨーク·アンド·ランカスターとまだまだあって、さらにその色種とあっては、まことに見事なくらいに限りなく取り揃えられている。

 この、ひととき咲き零れる薔薇の花達になり変われれば。ホランドは手近の茎を、荒々しくひきちぎってみた。掌のなかで、棘が肉に喰いこみ、|羸弱《かよわ》な花弁は、その冷たい痛みを身に負うかのように、折れるほどの確かさで地に落ちた。

 ヨーク·アンド·ランカスター。花言葉は〈戦い〉。

 その細く弱い細胞壁のなかでは、やはり幾千幾万の眼に見えぬ戦いが行なわれているのだろう。ホランドは、掌の掻き傷を握りこみながら、その戦いの一端を感じ取ったような気がした。

 ホランドはもう一度時計台を見上げ、それからポケットから|皺《しわ》苦茶になった封筒を取り出した。昨日の夕方、家の郵便受に迷いこんでいたもので、宛名が片城蘭様となっているだけで、差出人の名義も何もない。なかにはありきたりの用箋で、十四日の正午にこの時計台へ来るようにという|旨《むね》だけ記されてあった。ホランドには見慣れない筆蹟だった。

 ――一体、誰なんだろう。

 正体不明のその手紙を手に取り、|左見右見《とみこうみ》しているうち、時計台の針は、きっかり十二時を示していた。どこからか正午のサイレンも鳴り響いてくる。ホランドは慌てて便箋を封筒のなかに戻すと、もう一度周囲を見渡した。小さな公園には、薔薇を巡って名も知れぬ樹木が|閑散《かんさん》とした列を見せ、燃え盛る太陽が、今更のように輝いている。しかし、依然としてそれらしい人影はない。

 ――|騙《だま》されたか。

 ホランドはぼんやりと、そんな予感を感じ取っていた。

 ただひとり、煉瓦の台に腰かけた|浴衣《ゆかた》掛けの|見窄《みすぼ》らしい老人が、薔薇の陰に僅かな涼を取りながら、聞き慣れぬ歌をうたっていた。

 誰が風を見たでしょう

 僕もあなたも見やしない

 けれど木の葉を顫わせて

 風は通りぬけてゆく

 ――そんなものかも知れない。

 そう思った。この歌を聞くことができただけ、この手紙に誘われてここに来た価値があった。ホランドはそう考えていた。

 十二時半まで待ってみたが、依然、訪れる人影もなく、ホランドはゆっくりと|田町《たまち》駅の方へ歩き始めていた。妙にからっぽな、爽やかな気分だった。封筒は丸めて、駅までの途中の屑籠に捨てた。

 山手線で東京駅を過ぎ、巣鴨駅で降りて、根戸のマンションに向かう。地下鉄を使えばもっと早いのは判っていたが、わざとそういう径路を選んだのだった。文京区|白山《はくさん》にあるそのビルは、巣鴨駅から速足で十五分ほどだった。

 周囲の建物を|瞰《み》下ろす恰好のそれは七階建てで、根戸の部屋は六階に位置していた。この時もホランドは、ここへ来るといつもそうするように、エレベーターに乗るために階段の奥の方にまわりこんだ。しかし、見ると昇降ランプは、今三階あたりを通過して上へ昇ってゆこうとしている。

 ――ま、いいさ。どうせここまで暑いなかを歩いてきたんだもの、この上どれだけ汗をかいたって、たいした違いじゃない。

 そう考えて、ホランドは階段の処に戻って六階まで登り始めた。登るうち、躯じゅうから粘つくような汗が吹き出て、根戸のいる階に辿り着くと、縞のTシャツはべっとりと? に密着しきっていた。肘から手の甲まで滴り落ちる汗を振り払いながら、エレベーターの前を通る時、ふとランプを見上げると、それは既に一階へ戻っていた。

 呼び|鈴《りん》を押すとすぐに根戸の返事があり、ややあって重い鉄の扉が開かれた。ホランドを見るとちょっと驚いたように、

「やあ、今来たのか」

「そうだよ」

「ひとりでか。珍しいな。まあはいれよ。ひとりでいると余計に見分けがつきにくいが、ホランドの方だな。しかしまあ、何だよ。汗びっしょりじゃないか。ホラ、これで拭けよ」

 そう言って自分も上半身裸で肩にかけていたタオルを、勢いよく抛ってよこした。

 小さなベランダに|籐《とう》椅子が置かれ、傍らの小卓にぶ厚い書物が開かれて、風にページをそよがせていた。先刻まで根戸はそこで読書をしていたのだろう。Tシャツを脱ぎ、躯を拭いながらその籐椅子に座って、その本を起こして表紙を見ると、黒い皮の装幀に緑の文字で『|加持祈禧《かじきとう》秘法』と題されてあった。

「相変わらずだね」

「ははん。お陰で本職の数学の方がお留守になってね。冗談じゃねえよなあ。そろそろ卒論も書かにゃならんし、できれば大学院で研究を続けたいから、そっちの勉強もしなくちゃいかん。倉野のように囲碁でも趣味にするなら、数学の方のタメ[#「タメ」に傍点]になるのかも知れんが、例えば|三《さん》|摩耶《まや》やら五相、八心、十二神将に十七清浄句と並べたって、こちらは一向よき研究課題とはなり得ない。ところがこの意味もない数字の羅列は、囲碁の方では興味のある数列に忽ち変幻しちまうんだ。ナニ、こいつは倉野に教えられたんだが、囲碁に現われる形に|中手《なかで》というのがあって、|攻合《せめあ》いの時にその|手数《てかず》が問題になるんだが、その時に出現するのが、ほかでもない、純粋に数学的なひとつの公式、つまりPを中手の手数、ηをその目数と置いてだね、

<img src="img/hako_04.jpg">

というものなのさ。三目中手の手数は三手。四目中手が五手。五目が八手に、六目が十二手、七目が十七手と、こうなるんだ。が、しかし、どうもこんなところにばかり興味を惹かれて、肝腎の定石なんか全く覚える気になれないんだよな。この本もこの間古本屋で買ってきたものなんだが、人を呪い殺す方法なんかもいろいろ載ってて、ホランドにも興味深そうなのが多いぜ。こんな呪術を使って、実際に殺人を犯せたら、もし見つかったとしても、法律的には不能犯として扱われるから完全犯罪なんか|容易《たやす》いこったね。しかし、まあ、なかなかそう旨く呪い殺すことができないからこそ、探偵小説が成り立つんだろうが」

 ホランドの捲ったページには、見るからに怪しい雰囲気を|湛《たた》えた、文字やら人型やらを組み合わせた神符·呪符の類いが並んでいた。しかし、一見凶々しそうなそれらのひとつひとつの説明に眼を通すと、決して悪しきものの数が多い訳ではなく、むしろ五穀豊穣やら開運盛業などというものが殆どで、なかには走人足留法という、何のことやら意味のよく判らないものもあった。

「これ、どういう意味なの」

 根戸は覗きこんで、

「ああ、それ。つまり、行方不明になっている者の消息を知る術とでもいうんだろ」

 言いながら、はっと根戸も気づいたようだった。ホランドは身を乗り出すように、

「へえ。じゃ、これを使えば、曳間さんの行方も知れるかしら」

「ウム」

 そう|唸《うな》って、しばし腕組みをしていた根戸は、

「興味ある実験だな。やってみるか?」

 長身をぴょこんと弾けあがらせると、こちらが何も答えないうちに、瞬く間に紙と筆を用意してきて、その呪符を写し始めたのだった。全く、何か面白そうなことがあると、脇目も振らずやってのけるのが彼の特徴で、その紙を柱に釘で打ちつけ終わると、

「さあ、これで今日じゅうにも曳間の行方は判る筈だ。『必ず知れること妙である』と、ちゃんと太鼓判を|捺《お》してくれてるからな」

「まあ、いいけどね」

 呆気にとられたていでそう返すと、肩を竦めながら書物の方に眼を戻した。やはりいちばんホランドを魅了したのは|調伏《ちょうぶく》の呪符、それによって人を殺し、あるいは狂気に陥れる法だった。

 取りとめのないことを喋りあいながらそれらを見較べるうち、ふとホランドは、使われている文字に共通しているものが多いことに気がついた。殊に、『|※[#「口偏+急」、該当無し]急如律令《きゅうきゅうじょりつれい》』という語句は頻繁に使われている。

「ねえ、この※[#「口偏+急」、該当無し]急如律令って言葉、どの呪符にも殆ど使われているようだけど、何か特別の意味があるのかな」

「ああ、それ。その言葉は中国の漢の時代の公文書用語なんだ。|律令《りつりょう》って言葉は知ってるだろ。つまり、急いで法律の通りにせよって意味だ。それが後に転じて、|呪《まじな》いの言葉になるんだな。

「そもそも中国から日本へ、初めて密教といえるものを紹介したのは、かの弘法大師空海先生なんだ。まあそれ以前にも『孔雀王呪経』などという密教的な経典が輸入されていて、|役小角《えんのおづぬ》――所謂|役行者《えんのぎょうじゃ》だが――彼はそれを研究してついに神通力を得たというけど、本格的な密教を伝えたのは、やはり空海先生の功績なんですな、これが。それでもって、空海、最澄両先生が唐に留学するのが九世紀はじめの頃、漢の時代から六百年以上たっている。その『※[#「口偏+急」、該当無し]急如律令』という言葉が加持祈 示偏に_Zに使われるようになったのも、それだけの年月を考えれば、何となく頷けるんじゃないかな」

「成程ね」

 と、ホランドが|相槌《あいづち》を打つと、

「その呪符をいろいろ見較べていると、ほかにもいろいろと面白いことが判るよ。例えば〝おに_っていう字だ。どうだい。調伏の符とかっていう、所謂黒魔術的な悪しきことに使われる呪符には〈鬼〉という普通の字が使われているけど、疫病封じとかいう白魔術的なことに使われるのには〈※[#「鬼」、上の点無し]〉という上の点をとった特殊な文字が割合に多いだろ。これなんかも調べてみると面白いんじゃないかと思うけど、残念、そこまで詳細に解説してある資料がまだ手にはいらないんでねえ。やはりどうしても、言語学やら民俗学とかに繋がっちまうんだなあ。多少そちらにも手を伸ばしてはいるんだが」

 ホランドはそれで想い出し、昨日の影山の手紙のことを説明して、

「そういえば、あの暗号のような手紙にも、図案の方に四鬼という言葉が出てきたよ。赤鬼青鬼の二種類は知ってるけど、四鬼ってのは、そういった種類のことを指すのかな」

「さあ。四鬼ってのは、よく知らないなあ。|四波羅蜜《しはらみつ》のことなら、少しは判るが」

「何なの」

「うん、密教の方では|専《もっぱ》ら、何百といる菩薩のうちの四人を指すんだな。金剛界|曼荼羅《まんだら》のなかの、中央の大日如来の周囲に描かれている金剛波羅蜜、宝波羅蜜、法波羅蜜、業波羅蜜の総称だよ。それぞれ|阿悶《あしゅく》仏、|宝生《ほうしょう》仏、|阿弥陀《あみだ》仏、|不空成就《ふくうじょうじゅ》仏の母親なんだ。そう、だから当然、四人共女性だ」

「どうもピンと来ないなあ」

 言いながら何気なく腕時計を見た時、根戸もつられたように自分のそれを確かめると、

「あ、もう二時半過ぎか。悪いがちょっと人と待ち合わせでね。もう出かけなきゃ」

 根戸の口調に、ホランドは何となく含みを感じ取った。

「僕も、そろそろ帰ろうと思ってたとこさ。根戸さんとこは、マンションとはいっても冷房もなし、うちに帰った方がまだしもだものね」

「ははん、地獄に堕ちろ」

 一応の平穏は保っているものの、彼らのあいだにはひとつの気まずい事態が持ちあがっていた。即ちそれは、雛子の年若い叔母久藤杏子を巡る|経緯《いきさつ》だった。

 甲斐が、その年美大を卒業してそのまま教授助手となった久藤杏子と知り合ったのは、昨年の春のことだった。富裕な家庭に育った杏子は、高飛車な美しさとでもいった、西洋でも北欧系に近い美貌に恵まれた女性だった。それでいてひどくどこかしら肉感的な感じのするこの二つ年上の女性に対しての甲斐の熱のあげようは相当なものだったらしい。が、杏子の方は彼に対して、ただの男友達、よくて自分の弟のようにとる態度を、いっかな崩す素振りを見せなかった。

 それは|羸弱《るいじゃく》な小動物をいたぶり、|翻弄《ほんろう》するのが面白くてたまらないといったふうだった。

 今年にはいり、杏子は甲斐を袖にしたまま、彼に紹介されたファミリーの面々のうち、根戸へ大っぴらに親しみを向けた。これが口の悪い布瀬によると、羽虫が蜘蛛の巣に|擒《とら》われるのに似ているそうだが、ともあれ、根戸は忽ち杏子の|虜《とりこ》となったようだった。そうしてここに、甲斐と根戸を軸とした、気まずい空気が漂い始めたのである。

 しかし、杏子の|齎《もたら》したものは決して悪い情況だけではなかったと言える。可愛い探偵小説狂の姪である雛子が、彼女の仲介でファミリーに加わったことである。この魅力的なアリスの介入を、一同は無条件に歓迎した。殊に、ナイルズにとっては|欣快《きんかい》の至りだったろう、と、ホランドには受け取れた。

 つけ加えるならば、雛子と布瀬が、十年ほど前は近所どうしのよき遊び友達だったという偶然が明らかになって、皆を驚かせた。

 とまれ、そういう経緯もあり、根戸の言いまわしと素振りから、ホランドは敏感に待ち合わせの相手を察していた。

 ふたりはエレベーターで一階に降り、そこでふた手に別れた。ホランドは駅の方角へ、根戸はそれと逆方向に。コンクリートは|暾《しろ》く焼けつき、

 再び、燃え盛る日照りのなかへ。

 そうして、家に着いたのが四時半頃だったという言葉でホランドの話は終わった。一同の興味は、専らホランドを時計台まで連れ出したという、呼び出し状の一点にかかっていたようだった。

「惜しかったな。呼び出し状とやらを棄てたのは。それにしても、あの時君は、そんなこと、|曖気《おくび》にも出さなかったぜ」

 と、根戸が妙に|苦汁《にがり》っぽい口調で言うと、

「おや、それは誰かさんも同じだよ。走人足留の呪術のことなど、昨日は曖気にも出さなかった……」

 すかさず羽仁がまぜっ返した。

 ホランドは、

「何しろ、あの時はこんな事件が実際に起こるなんて、夢にも考えていなかったし、つまらない悪戯だと思ってね。まあ結局のところ、僕が根戸さんの部屋を訪れたのが、一時半頃として、アリバイは無きに等しいってことだね。やれやれ、これはどうも、僕が白昼夢っていうことにされちまいそうだなあ。……で、今度はナイルズ、お前の番だぞ」

 その言葉に微かに躯を|戦《おのの》かせると、ナイルズはようやく重い口を開いた。

「不思議だね。全くのところ、厭な話だよ。足留法で姿を現わした途端に、曳間さんは屍体となっていただなんて……」

 いかにして密室はつくられたか。それが問題なのだ。

 緑色の部屋のなかでナイルズは鉛筆を苛立たしく机に打ちあてた。昨日が初めての集会だか総会だかは、毎月一回、十三日に行なわれることになった。ということは、約束してしまった自称長編本格探偵小説の締切りは、あと一ヵ月になった訳である。

 無論、ナイルズは今までに小説らしい小説など書いたこともなかった。今度がぶっつけ本番。しかも長編とくる。長編と銘うつからには、少なくとも三百枚は書かなければいけないのだろう。しかしナイルズには、現在想い描いている構想が果たして何枚になるものなのか、全く見当もつかなかった。まあ、仮に三百枚としても、三十日で割って、一日十枚。

目录
设置
设置
阅读主题
字体风格
雅黑 宋体 楷书 卡通
字体大小
适中 偏大 超大
保存设置
恢复默认
手机
手机阅读
扫码获取链接,使用浏览器打开
书架同步,随时随地,手机阅读
首 页 < 上一章 章节列表 下一章 > 尾 页