――十枚。きついなあ。ほかのことを何もしないで、これにかかりっきりになったとしても、はて、書けるかどうか。
倖い昨日から夏休みが始まり、彼らの高校は夏休みの宿題は一切出さないという方針をとっているので時間だけはあるが、それにしてもナイルズは、この一ヵ月をまるまる潰してしまいそうな予感に多少の後悔を感じていた。それでもまず、とにかく書き始めなくてはという想いもあって、原稿用紙に向かい、鉛筆を握ったのではあったが、書き出しの一文が出てこない。
まだ細かい隅ずみの部分まで構想を練った訳ではない。しかし、いちばん大きなトリックには自信があった。どうせなら今までにない独創的なトリックを使いたい。そしてしかも――ナイルズがぼんやりと、しかも執拗に想い描いていたのは、増殖するトリック、物語全体がトリックになっているような小説だった。そしてナイルズには奇妙な自信があった。その上、設定も登場人物も、何もかも現実そのままの親しい仲間うちを舞台とした実名小説だから、いざ書き始めれば割合早く書けるような気もしていた。しかし、書き出しの一文が出てこない、というのには参った。
何時問か、真白の原稿用紙の前で|呻吟《しんぎん》していると、左隣のホランドの部屋からこつこつとノックの音が聞こえ、「ちょっと出かけてくるぞ」という声がした。
「ああ」
と返事をして、ナイルズは机の上の置時計を見る。ややあってホランドの部屋の扉が鎖される音が聞こえた。
十一時二十分、部屋のなかにいてさえ蒸し暑いこの日に、一体何処に出かけるというのだろう。ナイルズはそう思いながら枯草色の壁に眼を滑らせた。
――まあ、どうでもいいけどさ。
とにかく、何とか書き出しの一文を考えなければ。そうだ。最初に死ぬのは曳間さんなんだから、まずとっかかりに、曳問さんのモノローグから物語にはいることにしようか。昨日羽仁さんに妙なことを言われてから、何となく後ろめたい気分もあるし、せいぜい魅力的に描写してあげないと。しかもその独白の内容は、飽くまで曳問さん本人らしく。さてそうすると、その舞台はちょっと変わった雰囲気にしてみたいな。例えば……。
ナイルズは鉛筆を握り直すと、原稿用紙の白い|枡目《ますめ》のなかに、一字一字、次のように書きこんでいった。……その時まで彼は、こんなに深い霧を経験したことがなかった。……と。
曳間には様ざまな話を聞かされていたが、殊にナイルズは、世界というものが連続してあるのかどうかという幼い頃からの妙な疑問に関する話に、ひどく心を動かされていた。だからその話を応用してひとつの小景を描くことは、割合に簡単だと言えた。書き出しの一文が出来ると、比較的楽に筆は進んだ。そうして何時間か、ナイルズは暑さも忘れて正真正銘の処女作である長編小説を書き進めていった。一日のノルマである十枚には少し足りぬ、七枚か八枚目で一段落つき、この調子なら何とかなるかも知れないといささか気をよくする。さて、ひと休みするかと鉛筆を置き、椅子から離れた矢先、階下の方で電話が鳴り始めた。
電話は甲斐からだった。母親に替わって受話器を取ると、いつもの弾むような口調が伝わってきた。
「やっ、ナイルズ。ホランドは出かけてるんだって。まあいいや。こっちへ来ないか。いいものを見せてやるからさ」
「なあに、いいものって」
「まあ、いいからさ。来てのお楽しみだ。真沼に羽仁も来てるから」
受話器の向こうで、面白そうににやにやしている甲斐の顔が、手に取るようだった。ナイルズもひどく興味を覚え、急いで柱時計を見ると、三時十分前。じゃあ、すぐ行くよ、と返事をしておいて、取るものも取りあえず家を出た。
街には、太陽の光が乱反射していた。
甲斐の部屋に着いたのは、三時二十分だった。
赤坂にある甲斐の兄の経営する『黄色い部屋』とは別に、甲斐良惟は日本橋の横山町にあるアパートに住んでいた。
一階にある甲斐の部屋の扉をノックすると、すぐになかから返事が返ってきた。
「やっ、来たか。はいって、はいって」
甲斐は四角い木椅子に座って、ニヤニヤと手を|拱《こまね》いている。
「あれ、真沼さんと羽仁さんは」
「さっき、暑いからって本屋に行った。すぐ帰って来るだろ」
「そうか。本屋には冷房があるものね。で、何なの、いいものって」
「ははあ、それね」
長髪を頭の後ろで|括《くく》った甲斐は、一呼吸置くと、同じようにもうひとつの木椅子に腰かけたナイルズに、大きな眼を悪戯好きな子供がするようにくりくりさせてみせたかと思うと、小卓の下から何やら取り出した。
「これなんだ」
そう言って甲斐が差し出したのは、一冊の古ぼけた小冊子だった。表紙には、『花言葉全集』という書名が銀色に|燻《くす》んでいた。そしてそれを見て取るなり、ナイルズは眼をぱちくりさせて喜びとも驚きともつかぬ表情|顕《あらわ》した。
「どうしたの、これ」
「近くの古本屋にあったのさ。前からこの本がほしいって言ってたろ。案外安かったから買ってきたんだ」
「くれるの」
と、ナイルズが身を乗り出すと、
「あはあ、そんな無邪気に言われると弱いな。しかし、こちらもあまり財政状態がよくないんでね。プレゼントするのは御免|蒙《こうむ》って、|元《もと》金の八百円だけはお払い願いましょうか」
そう言って、|侏儒《こびと》でも座りそうな小さな木椅子を|揺り椅子《ロッキング·チェア》のように後ろに傾けてゆらゆらさせた。
このふたつの木椅子は、何ヵ月か前のある晩、闇に|紛《まぎ》れて近くの小学校に忍びこみ、失敬してきたという戦利品だった。探偵趣味が昂じて、現実のスリルを求めてのことなのだろう。とかく最近の彼らの間には、こうしたちょっとした危険な遊戯に、望んで首をつっこみたがるところがあった。
ゆらゆらと規則正しく揺れる青く塗られた木椅子を眺めながら、ナイルズはふと、微かな胸苦しさに襲われていた。それは訳の判らない、奇妙な予感のようなものだった。
この規則正しい揺れは何なのか。
「……さてと、何か飲まなくていいかい。アイスココアかなんかつくれるけど」
「あ、それがいい。|咽《のど》が渇いてカラカラだよ」
甲斐が立ちあがって炊事場の方へ向かうと、何故かナイルズはほっとして、青い色調の部屋のなかを見まわした。
三時を四十分ほど過ぎた頃、真沼がひとりだけでふらりと帰ってきた。
「あれ。羽仁は?」
甲斐が訝しそうに尋ねるのに答えて、真沼はながい睫毛を眩しいものでも|瞶《みつ》めるように閉じかけた。
「……レコード店……」
「一体どうしたんだ」
想わず甲斐が覗きこむように訊き返したのも無理ない話で、その時の真沼は何かしら、離人病患者のような、呆然とした雰囲気に包まれていた。真沼がこういった状態に陥ることはナイルズが知る限りでも一、二度あって、そういう時の真沼はいつも、今いるこの現実から何ミリか、あるいは何秒か、不意にずれてしまったとでもいうふうな印象を抱かせた。見ているこちら側でさえそうなのだから、当の本人の感覚としては恐らくミリや秒どころの|躁《さわ》ぎではないのだろう。その時の真沼は確実に、この現実というものの処どころに仕掛けられているエア·ポケットに落ちこんでいるに違いない、とナイルズには思えるのだった。
この時の真沼もまた、ここならぬあちらに足を踏みしめながら、甲斐の言葉が聞こえたのかどうかもはっきりしないまま、ぽつぽつと語り始めた。
「変なんだなあ……。根戸の奴は気のせいたなんて言ってたけど、やっぱりおかしいんだ」
「だからさ、何がなんだよ。根戸と遇ったのかい」
じれったそうに|急《せ》きこむ甲斐に、相も変わらず眼だけはこちらを瞶めながら、
「いや、そうじゃない。根戸にこのことを言ったのは、ずっと前のことだよ。そうた。影山と待ち合わせをして、根戸も一緒に連れていった時だ。結局影山は来なかったっけ。あれ以来会う機会がないが……」
真沼は|訥々《とつとつ》とその経緯から説明した。
「そうなんだ。あの時は根戸にはぐらかされてしまったけれども、……ふふ、根戸はああいうのが巧いからな。……だけども、断じてあれは気のせいなんかじゃない。さっきも同じことがあったんだ。僕は積み重ねられた単行本やら雑誌やらを眺めながら店のなかを歩きまわっていた。その時僕はふと、雑誌棚の向かいのふたり連れが、何とはなしに気になって立ち止まってしまったんだ。一瞬、ああ、それが何故なんだか判らない、ただ、僕にはそう確信できたんだ。この女の人は、こう言う。『ねえ、この本、魔法の特集ですって。買わない』と。……二、三秒あとにその女の人が喋った言葉は、まさにその通りだった」
「それ、一種の|既視感《デジャ·ヴュ》現象じゃない?」
ナイルズが耳慣れぬ言葉を使うと、やっと真沼も我に還ったように、不思議なものを瞶める面持ちで、この無邪気な様子そのままの少年に|首《こうべ》を向けた。
「ほら、よくあるでしょ。この光景、確かに何処かで見たことがあるってやつ。あれのことだよ。デジャ·ヴュてのは。……その時の光景を構成する幾つかの条件、それはほんのひとつかふたつの時が多いんだけど、それに共通する過去の光景を想起し、総ての構成条件まで全く同じだと錯覚してしまうんだ」
甲斐が感心したようにナイルズの背中を突いた。
「やあ、ナイルズ。よく知ってんな」
「あはあ、実をいうと、これ総て曳間さんの受け売りなんだけどね」
「何だ。そういやあいつは心理学畑の人間だったな」
真沼もぽつりと呟くように、
「曳間だったら、この妙な感覚も納得いくように説明できるのかな」
「まあ、何にせよ、気にするほどのこともないだろう」
「僕もそうは思うさ。ただの偶然であればいい。……そうであればいい。……うん、もうよすよ。どっちみち、たいしたことじゃあないものね」
そう言って、ようやくに快活さを取り戻した真沼は、窓の|框《かまち》にその|華奢《きゃしゃ》な腰をおろした。袖の大きい青いシャツの肩口が、ナイルズにはいつもより一層透けて見えるような気がした。
陽気な雰囲気をつくりながらも、ナイルズはふと、不吉なにおいをこの時嗅ぎ取っていた。あるいはそれは、真沼ひとりに限ったことではなく、この仲間うち全体に関していえるところの、何かしら巨大な影のようなものであるのかも知れなかった。窓の外を瞶める真沼の、まだ少年のような驅の輪郭を、仄青い真珠色に浮かび上がらせる逆光のなかに、一秒の何分の一か、何十分の一かは知れぬが、その影は確かに通り過ぎたようでもあった。
甲斐と真沼がぽつぽつと別の話をし始めるのを待って、ナイルズはぱらぱらと手にし続けていたままの『花言葉全集』のページを捲っていた。
|月下香《げっかこう》……危険な快楽
|葉薊《はあざみ》……復讐
|酸漿《ほおずき》……偽り
虫取|撫子《なでしこ》……罠
…………
そういったものばかりが、いやにナイルズの眼についた。
裏表紙の見返しには、古本屋の価格用紙がはぎとるのも忘れられたように|糊《のり》づけされたままだった。それは半分取れかけて、黒い地紙にぶらぶらと揺れている。
その揺れは、ナイルズの胸の奥の動揺めいたものと同調するように思われた。あるいはまた、先程心にひっかかって離れなかった、木椅子の規則的な揺れとも重なり合って、ナイルズの頭に執拗にこびりついた。
あの規則正しい揺れは何だったのか。
様ざまのものが絡み合い、捩れあいながら、ある時ふと糸が切れるように|滝壼《たきつぼ》の底へと崩れ落ちてゆく。ナイルズには、そういった危険なヴィジョンがありありと見えるような気がした。それも、そんなに遠いことではなく。
そして、それが単なる思い過ごしであれ、僕達はこの錯雑した様ざまの想いを抱きながら、この想いが飽和状態になるまで、そしてそれを越えてしまうまで進んで行かなくてはならないのだろう。
何のために。
その問いに対しての答もないままに、ナイルズは飽くまで陽気に振舞っている自分が、ふと不思議なものに思えた。そしてそれは、奇妙にしあわせなことではあったのだが。
「そうして」
軽く息を吸いこむと、
ナイルズは続けた。
「羽仁さんは帰ってこなかった。五時過ぎに僕は甲斐さんのアパートを出て、家に着いたのは六時前だったよ。ホランドはもう家にいた。以上、天地神明にかけて偽りなし」
そう結ぶと、ナイルズはちょっぴり不安そうに周囲を見まわした。それを引き取るように、待ってましたと言わんばかりに口を開いたのは布瀬だった。
「ほほう、で、十一時二十分から二時五十分までの不在証明は」
ナイルズはちょっと口籠もると、
「うーん、厳密に言われると困るなあ。階下にいた母親に立証してもらうってのは駄目なんでしょ。肉親の証言ってのは確証になりにくいものね。うん、だからまあ、不在証明なしってことでもいいよ」
「ふん、と、まあ、こういうことだぜ。どうだい。ナイルズとホランド、ふたり仲良く不在証明なしときた。つきあいのいいことだが、これでどうやら、吾輩の目撃したものが白昼夢でも何でもないと認めて貰えるだろうな。そこで吾輩は、君達ふたりに、今、この場で忠告するものなのだよ」
そこまで来ると、布瀬は急に身を|屈《こご》めるように前につき出して、内緒話でもするふうに声をひそめた。
「いいかね、どうせ君達には不在証明はない。正直に、十四日の十二時半頃、目白駅から倉野の下宿までの道を歩いていたのがどっちなのか、告白した方が得だよ。別に、あの時間にあそこにいたからといって、その人物が犯人とは限らないのだから。いっそその方が、妙な疑いをかけられたままにしておくよりもいいのではないかね。え?」
どちらからも返事がない。
布瀬の金縁眼鏡がキラリと光った。
「あっは、まあいいさ、吾輩は既に君達の証言から、ひとつの鍵を見つけ出すことができた、ふふん、まあ何にせよ、あとは推理するだけなのだからな。そうだろう」
布瀬が言い渡すと、一同は一瞬、底冷えのする沈黙を意識していた。そうだ。こうして証言をしてゆくに従い、何かが急速にほぐれだそうとしている。この今、『黄色い部屋』に|集《つど》う者達のなかにひそみ、紛れこんでいた不気味な影が、朧げながらもその姿を現わしつつあるのだ。一同が黙りこくりながらも納得し合っていたのは、このことだった。尤もその影の正体は、依然、|杏《よう》として掴めぬのではあるが。
「何かが見えてくるような気もするが、実際は謎が深まるばかりか。いやはや、頼もしいことだね。まあ、それはそれとして、さっきのナイルズの話で想い出したんだけど、影山は今日も来てないんだね。どうしたんだい、布瀬。影山のことは、君がいちばんよく知ってるんだろ。大体、影山が妙ちきりんな手紙を送って来たこと自体、何かそれらしい匂いがするし、彼を欠いて集会をするってのはやはり片手落ちだよ。それに僕はまだ、影山に会ってないしね」
重苦しい空気を払いのけるように羽仁が尋ねると、布瀬は、
「あいつはここのところ、ずっと忙しくてあちこちとびまわってるそうだ。ただ、昨日電話で聞いたところによると、例の物理学の研究サークルの連中と、正午から三時までは、|喧々囂々《けんけんごうごう》の大議論をやっていた最中だと言っていたがね」
「一体、何がそんなに忙しいのかな。曳間が殺されたことは、さすがに奴さんも知っているんだろう」
「無論だ」
ぶっきらぼうに答える布瀬に、羽仁は肩を竦めてみせた。
「どうにも仕方がないってことか」
それに加わるように根戸も、
「さっきナイルズの話にあったけど、俺も依然、影山には会ってないよ。一体、影山に会ったのは何人いるんだ」
むっつりと何ごとかを黙考し始めた布瀬の方をちらりと見ると、ナイルズがそれに答えた。
「僕達ふたりと、真沼さん、布瀬さん、それに甲斐さんと、ああ、曳問さんも会ってるよ」
「曳間に? それじゃあ、尚更顔を見せないというのはけしからんな。よし、今度あい|謁《まみ》えたら、ひとつとっちめてやるか」
先程から、段々と情勢が険悪になってきて、おどおどしていた雛子は、そこでやっと、緊張が解けたように肩を落とした。
不意に真沼が席を立ったのはその時だった。
「僕は帰るよ。とても、こんな集まりには居られない」
「おい、どうしたんだ」
慌てて根戸が呼び止めるのに振り返ると、垂れ落ちた髪を耳の上に掻き上げ、真沼は少し照れたように形のよい歯を覗かせた。集会が始まる時、倉野の観察したところの蒼白さは既になく、ぽっと頬に朱でもさしたように上気しているのが、何とも印象的な魅力を浮かびあがらせていた。
「僕は厭なんだ。こんなふうにして、互いに疑い合い、個人的なことまで|暴《あば》き合って、そうして結局のところ意味もない蟷み合いだけが残るような、そんなためだけの集会なんて、僕はそんなの、我慢出来ないよ。本当にこのなかに犯人がいるかどうかも判りゃしないのに。一体みんな、何のために集まってるの」
静かにそこまで言うと、ふと呼吸を呑みこみ、
「そうそう、念のために言っとくけど、十二時から十二時半までは、僕は甲斐と一緒だったよ。これはアリバイじゃなくて、単に僕の証言さ。じゃあね」
それっきり、|蒼惶《そうこう》と部屋から立ち去ってしまった。
この時、部屋の扉が後ろ手に鎖された瞬間、雛子はふと、ナイルズの証言のなかに幾度か語られた〈影〉が、眼の前をちらと通り過ぎたような気がした。あるいはそれは、この部屋に飾られた夥しい人形達の与える錯覚かも知れなかったのだが。
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7 非能率なアリバイ
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「詩人は怒って帰っちまった、か」
根戸はぽつりと呟いた。
「どうしたって言うんだよ」
と、羽仁も口を尖らせながら、
「彼の言いたいことも判るけど、少なくともこのことで僕ら全員が|啀《いが》み合うなんて、そりゃあちょっと人間不信じゃないのかな」
そう言って同意を求めるように周囲を見まわした時、
「いや。これはいい機会だと思うよ」
低い声で倉野が口を|挿《はさ》んだ。
「いいかい。僕達は今、殺人犯の正体をつきとめようとしているんだよ。それもこのメンバーのなかにだ。真沼は言ったね。疑いあい、暴きあい、啀みあう……そうさ。それが本当なのかも知れない。そしてまた、それを恐れていては何も出来ないこともまた事実なんだ。遊び半分ならそれでもいい。実際こいつはなかなかスリリングな遊戯でもあるからね。しかし、これから僕達が行なおうとする犯人捜しには、ひとつの覚悟が必要なのも確かなんだ。……そうとも、犯人をつきとめるために、どんなことが起こるか予測されても、あるいは予期できない破局が待ち構えているにしても、僕達はどこまでもつっ走らねばならない。そのことを胆に銘じておいて、……さて、なおかつ真沼のように立ち去らず、闇の底への疾走に、それでもみんな、加わるのかい?」
当然だ、あたり前じゃないか、と一同は口ぐちに答え、そういった勇ましい有様を眺めていたホランドも、くっくっと笑い出しながら、
「なかなか面白いよ。倉野さん。何となく、あなたの探偵法がどういう類いのものなのか、一端を覗かせてもらった気がする。……ふふ、勿論、ここまで来た以上、僕としては最後までつきあわせて貰わなくっちゃ」
全員の反応を確かめ終えると、倉野は殆ど聞きとれぬくらいの溜息を|吐《つ》いた。
彼らは確かに、今始まろうとしているものの、|模糊《もこ》としたかたちを感じとっていた、そよとも空気を乱すことなく、静かに緩慢に巻きあげられてゆく|緞帳《どんちょう》の、しかしそのほんの微かな気配のようなもの。そしてそれは恐らく悪を裁くものとしてではなく、悪を悪としてあらしめるもの、この世ならぬ毒に満ちた悪を成立させるためのものとして進められてゆくのだろう。現実世界の時間の流れとは、最早全く|拘《かかわ》りを失っているこの『黄色い部屋』という小宇宙のなかで、かってない|畸型《きけい》な祝祭が今、何十と知れぬ人形達の観劇のうちに幕がすっかりあがり終わるのを眺めると、一同は宙空から視線を落として互いの表情を確かめあった。
|仮面《ペルソナ》を覆っている者は誰か。
俳優にもそれが判らぬ、不思議な劇。……
頭上に何かきらきらと輝くものがあった。様ざまな色彩がかちあい、弾きあって、四方の|晦冥《かいめい》のなかに、いったん収束されたプラズマのように散ってゆく、その果てしない繰り返しが続けられているようだった。赤は青に、黄は紫に、緑は金に、そうしてそのなかで根戸はそこだけ|無彩色《モノクローム》の|圄《ひとや》に囚われているのだ。|鈍色《にびいろ》に輝く見も知らぬ金属が縦に横に斜めにうち重なり、その僅かな隙間をぬって根戸は何処へ進むともなく歩き続けていた。あるいはそれは密生した|孟宗竹《もうそうちく》の藪だったのかも知れない。脂汗が後から後から吹き出して、時どき根戸はそのひんやりとした柱に額を押しあてては汗を拭ったようでもあった。|杳《はる》かに伸びあがった柱の向こうでは、ひっきりなしに色彩の闘争が繰り返され、あるものはしばし水面のようにきららに揺らめき、またあるものは虹色の軌跡を描いて|迸《ほとばし》る湯玉のように|墜《お》ちていった。
――これは何かの罰なのか。
根戸はふと気がついて埃と汗にまみれたズボンのポケットに注意を向けた。掌に握れるくらいの、何か堅いものの感触。
――俺はこれを盗んできたのだ。
急いでポケットから取り出してそれを見ようとした瞬間、ぐらりと金属柱の林が揺れたかと思うと、一斉に|雪崩《なだ》れうつように倒れ始めた。かちあたり、押しひしゃげながら、何処まで伸びあがっているかも知れぬ幾万もの柱が、そしてその時、向こうにちらと一瞬同じように押し潰されようとしている者の人影が眼にはいる。
圧倒的な力が肩にのしかかってきた。
叫んだと思った。同時に、根戸は弾けるように眼醒めていた。
押し潰されようとした暗いひと握りの空間から、 挙に広漠とした世界へ抛り出されたような、それは奇妙な感覚だった。根戸はしっかりと、今しがた|転寝《うたたね》をしていたのだろう籐椅子の肘当てを握りしめていた。六階のベランダからすぐ眺め渡せる風景は、白く眩しい光の下でからんと静まり返っている。
ふつふつと湧いて玉を結んだ汗は、その日差しを浴びてのものか、それとも先程の悪夢のせいなのか。根戸には確かに、崩れ落ちる柱の感触がまだ抜けきれず残っている。ちらと一瞬見えた、向こう側で同じく柱の下敷きになろうとしていた人影もまた。
――杏子。
あれは一体、何だったのか。あのジャングル·ジムのような|檻《おり》は、一体何だったんだろう。俺は、何を盗んで、そして、なぜあんな裁きを受けたんだろうか。根戸は部屋のなかを見渡した。クリーム色の壁と絨毯を中心に清楚な色調で配色された室内には、さっきの悪夢の名残りはかけらさえなく、夏の光線のせいでやけに明るく輝いて見えた。大きな|碧《あお》い壜にさした、ひとかかえもあるほどの|霞草《かすみそう》のドライフラワーが、白く、|焔《ほむら》たつように眼に灼きつく。
――まあ、いいさ。どうせ夢なんだから。
根戸は白い小卓の上にとぐろを巻いている、長い鎖のついた懐中時計を手に取った。十二時六分前。ほぼ一時間、彼は眠っていたのだ。
読みかけの『加持祈祷秘法』を開き直すと、ぼんやりページの上に眼を落とす。しかし文字は頭のなかに一向はいろうとせず、根戸は何度も眉間を指で|抓《つま》んだ。
唐突に、けたたましく電話が鳴った。
杏子だった。
根戸が受話器を取るなり、|鞣皮《なめしがわ》のような耳触りの声で、お元気、マリオン、と囁くように呼びかける。一瞬根戸は、いつも杏子のつけているサフランの香水の|揺蕩《たゆた》うような香りさえ嗅いだような気がした。
「ねえ、マリオン。何してるの。また探偵小説でも読んでいるのかしら。あたし、今、何処にいると思う?……ふふ、東京じゃあないの。旅行してるのよ。と言っても、北海道や軽井沢じゃあないわ。東京であって、東京ではない処……」
と、謎のようなことを言ってみせる。いつものお遊びだ、と根戸は思う。他愛もない、無意味な遊び。そうなのだ。ただ相手を翻弄するためだけの、とりとめもない冗談なのだ。何処かって。東京にいるに決まっている。
根戸は押し黙ったまま考えていた。つきあい始めの頃は、いつもこいつに振りまわされていたのだ。何だというのだろう。この、意味も脈絡もなく放たれる、冗談とも謎々ともつかぬ言葉は。沈黙したままの相手に、杏子はふと不安になったように、
「ね、ね。マリオンじゃないの」
「そうだけど」
「何黙ってるのよ」
怒ったように言って、
「ま、いいわよ。知りたくないんだったら。そうね。あなたは整数論と探偵術と呪符だけを食べて生きているんですものね」
「杏子さん」
根戸はふと、|顫《ふる》えるような苛立ちに捉われた。思いきり受話器を壁にでも打ちつけて壊したい。そんな衝動だった。全身の体毛がざわざわとちりけだつのを意識しながら、根戸は電話というものを激しく憎んだ。尤もそれは今に始まったことではない、いつもの習慣のようなものではあったにしても。
三時に本郷の喫茶店で逢う約束を取り交すと、せわしなく打ち切られた電話を前にして、根戸はしばらく|竚《たたず》みつくした。まだ微かに揺蕩う残り香のなかに、それはひとつの罰のような気がした。
電話というものを嫌いぬいている彼が、部屋にそれを置いた時から、罰は|予《あらかじ》め決定されていたのだろう。決して彼からは受話器を取ることはなかったが、その奇妙な|居候《いそうろう》は常にこの部屋の主を見据えてやまなかった。眼に見えぬ触手はいつしか彼に絡み、|纏《まと》いつき、そしてそれもがある日、不思議な悦楽として感じとられる一瞬が訪れるとしたら。
根戸はその想いを抱き、抱き続け、そして絶えず担わされる裏切りを背に、結局のところこの奇妙な|共棲《きようせい》をぬきさしならず続けているのである。
密教の神符や呪文どころではない、もっとやすやすとしかも大規模に呪法はなされている。根戸は受話器を置くと、ゆっくり籐椅子の方に戻った。クリーム色の部屋のなかに、霞草はいちだんと燃えたつように輝きを増したようだった。……
「そうして、一時頃ホランドがやって来て、後はホランドの話の通りさ。これでいいかい」
「あっはは、何だか、誰かさんの小説の一節を切り抜いてきたような話だね」
真先にホランドが言った。それにはとりあわず、羽仁は、
「その電話のあった時間ってのが微妙だな。正確には十二時何分とは判らないのかい」
「それは杏子さんに確かめた。十二時十分から十五分の間だったそうだよ」
「そうか。その時だったのか」
ぽつりと呟くように言ったのは倉野だった。皆の視線が集まると、ちょっと手を挙げて弁解するように、
「いや、今想い出したんだ。事件当日の十二時頃、『アルファ』で杏子さんに遇ったことはさっき話したね。その時、途中で彼女が電話をかけに立ったんだけど、あの時に君の処へ電話したんだなあ」
「おかげでふたり同時にアリバイが成立したって訳か。言わば、能率的なアリバイってことかな」
しかし、羽仁の言葉尻を捕まえて布瀬が、
「いや、そうとばかりも言えないぜ。なぜならば、だいたいにおいて、電話のアリバイというのは、いちばん信用のならぬしろものだからな。こいつは決して能率的とは言えんよ。むしろ非能率なアリバイと言っていいだろうな」
「あはあ、いいさいいさ、アリバイなしならなしで。さあて、おあとは羽仁だけだな。手っとりばやくやってくれ。アリバイの報告会ってのは、俺が言い出したことには違いないが、実際、これほど七面倒だとは思わなかった。正直言って、さっきから退屈気味なんだ」
「仕方がないなあ。昨日はえらく張りきっていた癖に。でもまあ、とりあえず僕のは簡単だよ。十一時から一時半までは中野のY*大のチェス研のサークルに行ってたんだ。合宿のうちあわせなんかで全員集まったから、これは確かだよ。サークルの連中に訊いてみたらいい。それが終わってから甲斐の処へ行ったんだ。それが二時前後かな。真沼は前の日から来て泊まってたんだそうだ。朝にふたりして高田馬場へ出かけたんだけど、あんまり暑いので一時頃に帰ってきてたらしい。……そこで僕らはまあ、例によって探偵小説の話なんかしてね。僕が最近読んだドロシー·セイヤーズの『ナイン·テラーズ』を甲斐も読んでいて、それから暗号の話に発展したりして。……その時甲斐が、花言葉を利用した暗号小説なんかもできるんじゃないか、なんて言いながら取り出したのがナイルズの話にあった『花言葉全集』さ。甲斐はそれで想い出したように、ナイルズへ電話をかけに行くというから、僕と真沼も本屋の冷房の恩恵を|蒙《こうむ》ろうと、一緒に部屋を出てね。それが二時半をだいぶ過ぎた頃かな。……そうして真沼は本屋へ行き、僕はちょいと気が変わって、レコード店にはいったんだ。そこで、例の、僕の病気が出ちゃったんだよ。――月に一回ほど、突然に来るんだ。それは皆の知っての通りだけど、まあ、そいつが急にやって来て、どうにも居たたまれなくなっちゃってね、高校の頃には、あれが羽仁の月のもの[#「月のもの」に傍点]だなんてよくひやかされたんだけど、本当に自分でもどうしようもないんだから仕方がない。……こう、頭のなかに煙幕みたいなものが流れこんで来る感じで、そりゃあ厭な、何とも言えない気分なんだ。それで、家に帰ったのさ。悪いとは思ったけど、……いや、正直言えばそんなことに気を使う余裕もなかったんだけどさ。そして、家に着いたのは四時ちょっと前だったように思うよ」
「何だ。そうだったの」
羽仁が語り終えると、ナイルズがそう言って微笑んだ。
「ちっとも帰ってこないから、どうしたのかと思ってたんだ」
「余計な心配かけちゃって、御免御免。全く、こいつには悩まされるんだ。倉野なんかにゃ、高校の時から相当迷惑をかけたものね」
「さあてと、これでようやく終わったか」
やれやれと言わんばかりに根戸が伸びあがった時、あら、と声をあげた雛子が、
「まだあたしがいるわよ」
根戸は半ばうんざり顔ながら、
「おっとそうか、雛ちゃんも我々と同等の資格を持つんだからな。飽くまでも平等に扱わなくっちゃ。じゃ、簡単にお願いするよ」
何となくつけ足しのような恰好になって、ちょっと不服な様子を見せたものの、根戸にそう言われると瞼を|栗鼠《りす》のようにぱちぱちさせながら、先生に指された生徒のように思わず腰を浮かせそうになった。その様子に二、三人の者が吹き出すと、雛子はますます不服な表情でいっぱいになる。
しかし、あるいはそれは、雛子の巧妙な計算だったのかも知れなかった。ちょっぴり|拗《す》ねたように頬を膨らませながら、投げやりな口調で語られた最初の一語は、そんな皆の態度を一変させるだけの効力を充分に持っていたのだから。
「実はあたし、あの日に曳問さんに遇ったの」
[#ここから3字下げ]
8 鍵と風鈴
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それは静かな恐慌状態だった。
言葉にならないどよめきが人形達の私語と重なりあい、彼らの耳の奥で|谺《こだま》したようだった。そしてその反響の中心に、紛れもなく雛子がいる。彼女はそれを存分に味わいつくすと、にっこりと会心の笑みを洩らした。
「どうお。ちょっと聞き棄てならないでしょ」
そこで再びひと呼吸置くと、
「ほんとに偶然だったのよ。でもまあ、最初っから説明しないと判らないでしょうから、まあ、そうね、皆さんの頭のなかの時計を十四日の朝九時に合わせて|頂戴《ちょうだい》……」
文字盤に鼠から猪までの絵模様を描いた大きな柱時計が、九時を打った。雛子はゆっくりと振り返る。応接室ふうの広間の向こうに、階段の|鳥賊墨《セピア》の手すりに肘をかけ、仄明るい磨硝子を背にして杏子が立っていた。半透明のネグリジェに、杏子の肌が|暈《かさ》のかかったようにぼんやりと透けている。|水面《みなも》のような淡い色調に包まれた、すらりと伸びた硬質の躯を、雛子は美しいと思った。
「どうしたの、雛ちゃん。今日は早いのね」
眩しい笑みを投げかけて、杏子は口を開いた。雛子は棒のようにつっ立ちながら、これがおとなの笑みなんだわ、と考えていた。
下目黒のこの邸宅には、父親も母親も今は旅行中でいない。半ば行き渋る両親を、晶婚旅行と名付けてプレゼント代りに海外へと送り出した雛子は、その日からこの家が、唐突に杏子の所有物へと変貌する様を見たのだった。杏子は姉夫婦が旅行中のこの夏休みいっぱい、羽根を隠していた|妖精《ニムペ》が大っぴらに飛びまわるように、この家を、この夏を、思いきり抱きしめて過ごすのだろう。
やや開き加減にして片脚に重心をかけた恰好の、今日もまた羽根をいっぱいに|展《ひろ》げようとしている杏子を見ながら、それは雛子にとっても不思議に心地よい誇らしさとして感じられた。
「買いものをしておきたいの。お茶とお花やなんか……。今日は何だか暑くなりそうなんだもの。早いうちにと思って」
「そうなの。……ああ、それじゃあついでに頼んでもいいかしら。……高田馬場の『古成堂』さん、知ってるでしょ。古道具屋の。頼んでおいた風鈴を貰って来てほしいの。お金はもう払ってあるから。……行ってくれる。御免なさいね」
体よく追っぱらわれた恰好で、雛子は下目黒の邸宅を出た。恐らく戻ってみれば、杏子は既に行方不明の外出中という段取りである筈だった。
お相手は甲斐さんか、根戸さんか……。
仮舗装のアスファルトが既にゆるくなって、雛子の靴の下で練ったうどん粉のようにのびていた。それは|擽《くすぐ》ったいような不安ら定感で、雛子はふと、この世のなか総てのものを可食的なものと不可食的なものに分けるダリの論法でゆけば、夏は可食性そのものだ、などと考えたりもした。