お茶と花を後まわしにして、目黒から高田馬場まで、山の手線の電車にとび乗ると、雛子は再び杏子について想像を巡らせた。
それにしても何故、杏子姉さんはあんなにふたりを手玉に取るようなことをするのだろう。小柄で気弱な芸術家と、長身で愉快な数学者。確かに組合せとしては面白いかも知れないし、杏子姉さんが、この現実というものの上に描こうとする|絵画《タブロー》として考えるならば、なかなか興味ある素材と言えなくもない。あるいは彼女の|薬籠《やくろう》のなかには、ひそかにまだまだ多くの人物が予定されているのかも知れないのだが。
電車のなかには、通勤通学の|混雑時《ラッシュ·アワー》に遅れながらもやはり人数は多く、そんなことを考えながら、ひょいと反対側の扉の方を見ると、見慣れた背中が眼についた。
赤や青や黄の鮮かなカントリーシャツに、水色に脱色したジーンズ。猫背気味の恰好で窓の外を眺めているのはほかならぬ、現在行方不明の曳間了だった。
雛子は悪戯心を起こすと、そっと曳間の後ろに近づき、軽くぽんと背中を叩いてみた。
一瞬何やらこの世ならぬ者に呼びかけられたように身を伸ばすと、曳間はゆっくり振り返った。そんな筈はない、という言葉がありありと読み取れるような表情で、そのくせ顔色ひとつ変えず、まじまじと雛子の顔に視線を注いだ。そうして、ややあって初めて相手が雛子だと認めたらしく、
「やあ、雛ちゃん」
と|譫言《うわごと》めいて呼びかけるのだった。
悪戯っぽい表情を返すべく待ち受けていた雛子は、いささか面喰らいながら、
「どうしたの、曳間さん。最近ちっとも姿を見せないっていうので、みんな心配してたのよ。何処へ行ってたの」
と尋ねると、曳間は微かな笑みを浮かべつつ、奇妙なことを口にした。
「捜しものをしてたのさ」
「何なの、捜しものって」
「不連続線さ」
噛みしめるような口調ではっきりそう言うと、
「雛ちゃんも心配してくれたのかい。悪かったね」
「ううん、それはいいの。で、その捜しものというのは見つかったの」
「うん、見つかったのか、見つからなかったのか、それはもうすぐ判ることなんだ」
半ば照れたように、再び謎のようなことを言ってみせた。
「それじゃ、逃亡の旅――じゃなかったわ、追跡の旅はまだしばらく続くの」
「いや、それはもう終わりだよ。これから倉野のところに行くんだ。もう、何年も会ってないような気がするな。それにしても、最初に遇ったのが雛ちゃんだったとはね。どう。相変わらず探偵小説は読んでるの」
「ええ、まあ、ボチボチと」
「面白いの、あった?」
「そういえば、安部公房の『燃えつきた地図』が面白かったわ。あたし、あれを読みながら曳間さんのことを想い出しちゃった。さっきの捜しものの話を聞いても、何となく情況が似てるみたい」
「『燃えつきた地図』か。……ずいぶん前に読んだなあ。確か、探偵が行方不明になった人物を捜しているうちに、自分もその人物と重なり合ってゆくような話じゃなかったっけ。……そうだね。僕は思うんだけど、大体においてその結末で合理的に総ての謎が解決されて終わるような小説というのは面白くないよね。根本的な謎というのがついには解き明かされる|術《すべ》も持たずに、エピローグのその後にまで持ちこされてしまうような、そんな小説が僕は好きだな。だから僕がずっと考えていたのは、最初、小説の冒頭に総ての謎の解決があり、そしてそこから始まってゆくような小説は可能かということだったんだ。……夢野久作の『瓶詰地獄』なんてのはそんな感じだったけど、あれをもっとトリッキィに、しかも大長編に……。あっは、まあ、機会があれば書きたいけれども」
「わあ、なかなか面白そうだわ。ね、曳間さん、絶対書いてね。ナイルズもこの間、探偵小説を一本、ものにしてみせるなんて言ってたし」
「へえ、ナイルズがね」
曳問は、これはしたり、という顔で、
「そうか。とうとう、書こうって奴が出てきたか。そうでなくっちゃいけないんた。……で、どんなのを書くって」
「それが詳しいことは何にも教えてくれないのよ。ふれこみとしては密室を扱った本格長編。しかも登場人物は私達仲間うちそのままの実名小説ですって。題名は、『いかにして密室はつくられたか』なんて、なかなか食指を動かすでしょ」
「ふむ、実名小説か、なかなか旨いことを思いついたな。果たして、現実と架空とを巧妙にすり替えてしまうようなものが書けるかどうか。……まあそこはナイルズの才能を信じるとして……」
今まで人と話をしたことがなかったように、曳問はよく喋った。殊に探偵ら小説の話になると、頬を|朱《あか》らめるようにして熱心に語り続けるのだった。しかしそうするうちに電車は新宿から新大久保、そうして高田馬場のプラットホームに滑りこんだ。
「ああ、高田馬場ね。あたし、ここで降りなきゃ」
「そう。それじゃ。杏子さんにもよろしく」
「ええ」
曳間がよくしていた敬礼ふうの挨拶を交わし、雛子は客車からホームに降り立った。彫の深い、温かい顔がにこやかに微笑みをよこしていて、雛子はその前面で扉が閉まる一瞬、ふと、曳間さんはこれでまた再び行方不明になってしまうんじゃないだろうか、という不安のようなものが脳裡を|掠《かす》めるのを感じた。しまった[#「しまった」に傍点]、という感じでもあった。これはひとときの幻で、曳間さんという人間は、もうこれっきり戻ってこない……。
プアンという響きと共に、ゆっくり電車は動き始め、見る間に駆け抜けて走り去った。
釈然としないままに雛子はその場を離れ、そうして、まあとにかく、と胸を張り、そんな馬鹿なことってあるもんじゃないわ、と呟いてみせると、改札口への階段を一段とばしで降りていった。
「ちょっと、雛ちゃん」
雛子がそこまで語ると、倉野はいきなり手を上げて話をさし止めた。
「その時、曳間はバスケット·シューズを履いてたかい」
「ええ、確かにそうだったわ」
「曳問と別れた時刻は?」
「ええっと、家を出たのが九時半前だったから、十時前後じゃないかしら」
「十時か……。すると、それからすんなり僕の処に来れば、遅くとも十時半に着かなきゃいけないな。……しかし、布瀬の話だと、十一時二十分頃に僕の下宿に来た時は鍵は閉まっていたということだった。……これはちょっと変だな」
「大いに変だね」
布瀬もそう相槌を打って、
「まあしかし、どこかに寄り道したとも考えられるのではないかな。例えば飯を食ったとかね。……それなら解剖で判る筈なんだが、一体、警察からそういうことは聴き出さなかったのか」
そう言われて倉野は指を鳴らすと、
「想い出した。警察で事情聴取された後、ちょっと刑事と雑談みたいなふうになって、その時、死亡推定時刻のことが話題になったんだ。『死亡時刻を推定するにはいろんな方法があるが、いちばん重要なのは体温による推定でね、人間が死んだ瞬間から下がってゆく体温を測定し、それと周囲の気温を考慮に入れて、ある公式にそれぞれの温度を代入して割り出すんだ。一般に、体温の測定は直腸の内部が対象とされる。そのほかに死斑とか、死後硬直の状態とかが、推定の対象となるし、もうひとつ重要なものに、食いものの消化の状態がどうかが問題になる。尤もこいつは今度の事件の場合、君の友人の胃袋のなかはからっぽだったそうだから関係ないんだが』そう言ったよ。だから、寄り道したとしても食事のためではないな」
「ふむ」
布瀬は腕を組んだまま首を傾げたが、
「まあそのことは後で推理するとして、とりあえず雛子君に最後まで語って貰うとしようじゃないか」
「ええ、でも、これから先は簡単なの」
そう言うと傍らのエナメルのバッグから、何やら小さい黒いものを取り出した。
「『古成堂』さんからこれを受け取って、すぐ下目黒に帰ったの。勿論買いものもしてね。そうしたらやっぱり、杏子姉さん、もう出かけてたわ。それが十一時ちょっと前で、お手伝いのふみさんに訊いたら、十時半頃に家を出たんだって」
雛子の話を聞きながら、一同は彼女の差し示す風鈴を見た。青黒の、恐らく青銅で造られたそれは、四方にそれぞれ少しずつ異なった姿の鬼どもが描かれていた。|奮迅忿怒《ふんじんふんぬ》の形相とでもいうのだろうか、その恐ろしい表情は周囲のもの|悉《ことごと》くを睨み殺さんばかりに向けられていて、眺めるうち、ふと倉野は微かな|怯《おび》えを感じていた。
それはこの部屋の人形達から覚えるそれとはまた違った、もっと根深いもののように思われた。この世に誕生する以前から持っていた恐怖。遺伝によって無意識の|襞《ひだ》のそのまた奥に継承された|虞《おそ》れ……。
「それから四時頃まで、ずっと宿題をしていたの。ナイルズ達が羨ましいわ。あたし達の学校では相変わらず宿題があるの。まあそんな具合でアリバイらしいアリバイはないわね。ただ、十一時過ぎにふみさんと昼食を|摂《と》ったから、それをアリバイとして認めて貰えるなら……」
「昼食以外、一度もお手伝いさんには会わなかったの」
と不審そうに尋ねる羽仁に、
「ええ、あたし、いったん集中すると、途中で邪魔されるのって、我慢できないんだもの。……それで結局、四時からふみさんと何やかやと話をして、杏子姉さんが帰って来たのは、かれこれ十時過ぎだったと思うわ。さて御退屈様。これで本当に不在証明に関することはおしまいよ」
そう語り終えると、ちょこんと頬杖をついて皆の顔を見まわした。
「この瞬間から、我々は次の推理の段階へ移ってゆく訳だ。はてさて、最後にみんな、推理の材料として確かめておきたいことはないかな。……なかったら僕から訊くけど、一体、このなかで何人がデザート·ブーツを持ってるの。僕はあんまりそういうこと、普段から頓着してないものだから」
倉野が尋ねると、ナイルズが真先に、
「僕とホランドは持ってるよ。ホラ、今日も履いて来てるから」
と、脚を挙げてみせて、
「それから真沼さんも、さっき、履いて来てたね。あと、甲斐さんも持ってたよ。それだけかな。……あ、そうそう、影山さんはどうだろう」
布瀬はしばらく首を|捻《ひね》っていたが、諦めたように、
「ううむ、吾輩の記憶の限りでは見たことはないが、実際どうかは判らんな。……それよりも、倉野。お前が見たデザート·ブーツの大きさでもって、大体その持ち主の見当がつくのではないかね」
「いやあ、それがお|羞《はずか》しい次第なんだけど、実はさっぱり憶えてないんだよ」
「何だって!?」
思わず合唱のように問い返されて、頭を掻くと、
「何しろ、ほんの一瞬のことだったから、大きさのことなんかまるで注意していなかったんだ。そりゃあ、上で曳間があんな死に方をしてるなんて判っていれば、もっと注意して観察もしただろうけど」
「そうすると結局は、ナイルズ、ホランド、真沼に甲斐か。……でも、やっぱり決め手にはならないなあ。だって靴なんて、買いもできれば誰かに借りられもするじゃない。……そうだね。僕はこの事件はそういった意味で、何かが足りないという気がするんだ。まだ表面に現われていない、決定的な鍵が」
「それはどうかなあ」
組んでいた脚を、ぴょこんと跳ねあげるようにして崩すと、ホランドはにっこりと紅い脣を|綻《ほころ》ばせた。黄色い光のなかで、それは倉野にとって、極めて印象的な瞬間だった。羽仁の言葉にあった決定的な鍵[#「決定的な鍵」に傍点]を、一瞬、彼は確かに見てしまったような気もした。
「逆らう訳じゃあないけど、探偵ともあろうものが、証拠が足りないなんて泣きごと言ってても仕方がないよ。僕に言わせりゃ、むしろそんなものはあり余るくらいあるのであってさ、それらのもの|悉《ことごと》くがたったひとりの人物を名差ししてるんだよ。それを皆さん方は、まだお気づきになっていないようだけども。……ありゃ、根戸さんは全然聞いてないな」
さっきから雛子の持って来た風鈴を調べるのに夢中になっていた根戸は、そう言われて初めて我に還ったように、
「いや、その、面白いんだ、これ。これは……」
そう言いかけて、
「雛ちゃん、これは杏子さんのだろ。どうして」
「それがね、杏子姉さん、最初はちょっと気にいって買ったものの、やっぱり趣味じゃないなんて言いだして、あたしにくれたの」
「へえ、じゃあ今は雛ちゃんの所有物か。それじゃ、ちょっと貸して貰えないかなあ。調べてみたいんだ。例えばこれ……」
そう言って根戸は、風鈴から垂れ下がった古びた短冊を示した。
[#ここから2字下げ]
※[#「口偏+庵」、第3水準1-15-6]蘇婆濔蘇婆吽蘖哩訶拏吽蘖哩訶拏
波耶吽阿那野斛婆訶梵縛日羅吽※[#「さんずい+牛」、第3水準1-86-63]※[#「口偏+モ」、第3水準1-14-85]
[#ここで字下げ終わり]
黒く薄汚れてしまった紙に細かい文字で書かれてあるだめに判読しにくい処もあったが、注意してみれば確かにそう記されている。しかし、勿論読み方も意味も判らない。
「まさか暗号じゃないだろうね。僕はどうも、暗号ってやつはニガ手だ。ついでに言わせて貰えば、今日僕らがクドクドやってたようなシチメンドウなアリバイものってのは、もっと嫌いでね。やっぱり探偵小説は密室ものに限るよ。そもそも――」
「まあまあ、羽仁の探偵小説論はあとでゆっくり聞かせて貰うさ。ともかく、こいつは暗号らなんかじゃない。詳しいことは言えないが、こいつは真言密教に伝わる呪文だよ」
そう言いきると、根戸は宙空へ|翳《かざ》すように風鈴らを掲げた。その勢いで黒ずんだ短冊が、眼に見えぬ手に巻きあげられて微かに|戦《そよ》ぎ、くるくると|独楽《こま》のように回転したかと思うと、チリリリンという澄んだ音をたてた。それは|肖《かたど》られた鬼の姿とはおよそ似つかわしくない、しんと心に|沁《し》みいる|清冽《せいれつ》な音色だった。
一同は、故知らず、息を呑んでその風鈴を|瞶《みつ》めた。それは全く、奇妙な|闖入者《ちんにゅう》だった。
「――誰が風を見たでしょう――か」
その沈黙を引き取るように、ぽつりとホランドが呟いた。
[#ここから3字下げ]
9 殺人者への荊冠
[#ここで字下げ終わり]
「何だか妙に鬼が絡んで来るが、まあ、どうあれ、こいつは事件には関係ないだろう」
何をくだらんことをとばかりに、布瀬が口を挿んだ。
「まあ、そうだ」
何か言いたそうなのを苦笑に置きかえると、根戸は風鈴らをテーブルに戻した。
「よし。それではここで、来たるべき推理較べの予定を立てようじゃないか。ホランドは今、既に解決がついているようなことを言ってたが、ふむ、吾輩もだいたいの推理はできている。何なら明日にでも集会を開催してもいい。しかし、それでは不都合な者もいるだろうから、どうだろうね、二週間の準備期間を置いて、今日が七月十七日の火曜だから、三十一日にどうかな。その時は何とか影山も連れて来る」
鼻息荒い布瀬の提案に、羽仁は答えて、
「そうして貰うよ。だいたいが、僕は君達直観的探偵法と違って、論理的探偵法を信条とするんだから。一分一厘の隙もない綿密なる推理を重ねるには、それ相応の時間が必要というものさ」
「論理的だろうと直観的だろうと、それが優れた推理であれば文句はないさ。ただ、僕にはどうしてもまだ羽仁が言ったように、隠された鍵があるような気がしてならないんだよ。……曳問は捜しものをしてたんたってね。それでは僕もそれに|倣《なら》って、その鍵を捜してみる。二週間以内に見つかるかどうか、まあ乞御期待というところだね。……はてさて、こうなってくると、この事件、ある探偵小説に似てると思わないかい」
誰にともなく尋ねた倉野の問いに、自身もひそかにそう思っていたのだろう、すぐさま反応したのはナイルズだった。
「中井英夫の『虚無への供物』でしょ。判ってるんだ、倉野さんが何を言いたいか。あれと同じに、各々の推理に幾つかの戒律を課そうって言うんでしょ」
「……図星だよ。いつ読心術を習ったの」
いささか慌てた様子の倉野に、ナイルズはくすっと笑って、
「ボーの『モルグ街の殺人』だね。デュパン探偵が一緒に歩いている友人の考えごとを次々に当ててゆくってのは。……あはは、要するに倉野さんの考えそうなことは、僕だって考えてるってことさ」
「そういえば、例の君の小説は、こうして現実に事件が起こってしまった以上、もう書けなくなってしまったね」
ナイルズはその言葉にふと笑いやむと、意味あり気な口調で宣言した。
「書くよ」
「本当かい。……でも、実名小説なんだろう」
「だからこそ、書くのさ。まあ、それはそれでいいとして、戒律の問題に移ろうよ。あまり多くても|煩《わずらわ》しいだけだから、やっぱり十戒くらいが適当じゃない?」
「賛成。それがいいわ。推理較べのための十戒ね」
「よし。それなら真先に、例の戒律を適用しようじゃないか。つまり、トリックは古今東西の小説等に使用されなかった、全く新しいものであること。全く新しいもの、なんてのは難しいかもしれないけど、これは各人探偵小説通であるから、その|蘊蓄《うんちく》と良心に任せよう。第二に、その解決は万人を納得させるだけの説得力のあるものにしてほしいな」
根戸が言うと、羽仁もそれに加わって、
「うん、それは言えるね。とってつけたような、あまりにこじつけくさい解決の小説なんてうんざりするものね。それに加えて、第三に、その解決にはまず、面白さがないといけない。とにもかくにも、面白さだよ」
細い髪をうるさく掻きあげて、熱っぽく面白さを強調すると、倉野も負けずに、
「それじゃ、僕からも言わせて貰うよ。犯行は、殺人者が考えに考え、練りに練ったものであること。……これが探偵小説の醍醐味だからね。偶然の重なり合いでもって、その犯行現場らができあがったなんてのはまっぴらだよ。それはまさしく曳間のためでもあるんだ。曳間が、単なる偶発的な殺人などで殺されていい訳がない。殺人の計画性。これも頭に入れてほしい。……だって、そもそもこの推理較べは、探偵自身のなかに殺人者がいるというところから出発してるんだからね。いかにも善人|面《づら》した……と言えば失礼になるが、少なくとも現実の殺人者たり得ようとは思いもよらないこの連中のなかに、仮面を|覆《かぶ》った凶悪なる殺人者がひそんでいる。そうだよ。それがそもそもの大前提なんだ。……そういう人間が殺人を犯すのに、いい加減なトリックを使用する筈がない。雛ちゃん、例えばきみが誰かを殺そうとして……どうだろうか。やっぱり、探偵小説通を自負する者としては、かってない、練りに練ったトリックを使うんじゃない」
「そりゃ、勿論よ。どんな名探偵にだって見破れない、完全犯罪を目論むわ」
瞳の大きい二重瞼をぱちぱちさせて、愛くるしく凄んでみせるところは、さも将来の女傑ぶりを|髣髴《ほうふつ》とさせる。
「そういうことだよ。よって、偶然などを持ち出すのは厳禁。それともうひとつ、五番目に、共犯者がいるってのはなしにしよう。概して、共犯者のいる殺人は面白くないからね」
そこまで述べると、ホランドが黄色い翳のなかから屈まるように首をつき出してきて、|揶揄《やゆ》するように口を挿んだ。
「偶然嫌いの倉野さんらしいね。でも、あはあ、だんだん難しいことになって来たなあ。探偵小説としては理想的な条件だけど、現実的な事件でそう何もかも旨くいくかどうか」
「それをいかせなくては。そうでないと、曳間の死が全く無意味なものになってしまうじゃないか。これらの条件が満たされないなら、こんな推理較べなんか、真沼の言った通り、最初っからやらない方がいいんだ。それともホランド、既に君の頭のなかにある推理は、これらの戒律に反してるのかい」
「いや、そういう訳じゃないよ。別に異議を唱えてる訳じゃないもの」
ホランドは手を振った。急いで打ち消すその様は、黄色い翳のなかで、催眠術師の手つきのようにも思われた。陽光の届かぬ海底のなかで手を振れば、こんなふうに見えるのではないだろうか。倉野はその時初めて、自分達のいるこの部屋が、知らず知らず海の底へと沈みこんでゆくような、不思議な幻覚に冒されていたことに気づいた。
そういえば、七つの海という言葉は、その色によって分けられる、というようなことを聞いた憶えもある。黄海というのはどこの海だったかしら。紅海と共に、海にはあり得ない筈の色を持つ海というのは、一体どんなものなんだろう。黒海というのは、本当に真黒な色をしてるのだろうか……。
――この部屋は、まさに黄色い海そのもののような気がする。
倉野はもう一度、茫洋ととりとめもない不吉な予感に充たされた、水底のような光景を虹彩に映すう例の人形に眼をやった。これら総ては、あの人形の網膜の上に投影された出来事なのかも知れない。だからこそ、海の底に沈みこんだような幻覚が、こんなにも抵抗なく受け入れられるのではないだろうか。
そうであれば。
影絵らの世界の出来事ならば、まだ取り返しがつくかも知れないのだが。
けれども、そんな倉野の想いも知らぬ気に、ホランドはゆっくり次の言葉を口に出した。
「そういうことであれば、僕からもひとつつけ加えたいな。今、五つだから六つめだね。それは――」
と、言いかけて、不意に何やら奇妙な笑みをたちのぼらせると、
「いや、やめとくよ。後にする。最後の十番目の戒律として言わせて貰うよ。だってこれはちょいとほかの戒律とは違うんだ」
「ほほう、それは一体。……まあ最後でも何でもいいがね。それでは順番として、この吾輩にも言わせて貰うとしようか」
うずうずしていたように話の主導権を奪らうとう布瀬は勢いこんで喋り出した。
「十戒、その六、|煩瑣《はんさ》なアリバイトリックは不可。先程羽仁も喋っていたが、吾輩はチマチマしたアリバイものが大嫌いでね。おっと、判っているとも。お前さん達が何を言いたいか。ひとのところを訪ねる時などは、最短距離を捜してみたりして、割合時間のことに細かいくせにと、そう思っとるんだろう。しかしまあ、それは日常生活のことであってね。小説の上の好みとはまた情況を異にするさ。解決されたあとでも、すぐには、おお、そうであったか、と頷くことができぬゴチャゴチャしたアリバイものなんぞ、よく考えてある苦労は認めるが、|畢竟《ひっきょう》、面白さを感じられんからね」
「大賛成だよ」
羽仁も、珍しく布瀬の意見に賛同した。
「だいぶ、嗜好的偏向性が出てきたね。じゃあ僕からもひとこと。十戒、その七、だね。トリックだけでなく、犯行に至らしめたその動機も、今までにない新しいものであること」
ナイルズがそう言えば、倉野も、
「そうそう、僕もそれを忘れてた。勿論、動機も問題になる。じゃあ、その八として、その動機には、充分な深刻さがあるということにしよう」
「何だか凄いことになって来たね。まるで解決そのものが定型詩のような観を呈してきて……それも、俳句や短歌どころじゃない、漢詩の|平仄《ひょうそく》に匹敵するよ、この戒律は」
溜息まじりに羽仁が吐き出すと、それを引き取って、このままでは出番がなくなるわ、といったふうに、
「あたしもそれじゃあつけ加えるわ。ええっと、九番目になるのね。それはね、それぞれの解決が、必ずある暗示を含んでいなければならないってことなの。こんなことを言うのは、あたしの探偵小説観に由来してるんだけど、すぐれた探偵小説は、必ず不思議な暗示を含んでいて、視点を変えればその探偵小説自体がひとつの寓話になっている。……そんなふうに思うの。旨く言えないけど、だから、その暗示というものの解釈は皆さんに任せるとして、ただ、そのことを考慮に入れてほしいと思うの。ちょっと、取りとめのない意見だけど……」
ふと語尾を濁す雛子に布瀬は、
「いやいや、なかなかどうして、今までで最もユニークな意見ではないかね。それこそこの戒律自体に、ある暗示が含まれているような……。ふむ、いや吾輩は賛成だね。さて、最後の十番目はホランドの約束だったな。何でも、ほかのとはちょいと違うという話だが……」
そう言って、顎をホランドの方にしゃくりあげると、
「違うというのは、探偵に課す戒律じゃないってことなんだ。つまり、それは犯罪自体への、さらに言えば、このなかに紛れこんでるかも知れない殺人者への戒律なんだ。尤も今までの九つも、殺人者が担った戒律には違いないけどね。だけど、これだけは探偵側には課せられない、殺人者だけが担う戒律なんだ、そういう意味で、僕は殺人者に呼びかけるよ。即ち――」
ホランドはそこで大きく息を呑むと、
「犯行は、連続殺人でなければならぬ」
|撲《う》ち据えるように言うとうきらきら不思議に上気した瞳を泳がせた。
皆、最初の数瞬その意味を理解できぬまましんとしていた。そして、それが取りも直さず殺人者への連続殺人の教唆であることに気づくと、その沈黙は、|自《おのず》と別の意味あいを濃くしていった。
「どう。倉野さん。あなたの論法でいくと、どうしてもそういうことになるんだけど。つまり、理想的な殺人者なら、必ず連続殺人を行なうだろうという……」
呼びかけられた倉野は、苦い表情で脣を|窄《すぼ》めた。しかし、そういうふたりを見較べていた羽仁は、
「しかし、それは〈理想的〉という言葉の解釈の違いじゃないのかな。むしろ動機を重要視するなら、そう何人もぽんぽんとひとを殺すとは考えにくいだろう」
そう倉野に助け舟を出したが、ホランドは脣の端をきゅっと結んで、
「まあ、それこそ動機の種類によることだろうけど。でも、羽仁さんがそう言ったところで、実は、殺人者はひそかに次の被害者を|屠《ほふ》るために牙を研いでるかも知れないよ。何しろ、まだ最初の殺人から三日しかたってないんだ。明日にでも、いや、今、この場にでも、第二の殺人が起こるかも知れない。……そういう訳で、僕はその、〈起こるかも知れない〉ってのを、〈起こさなくてはならない〉とするだけなんだ。言わばこれは、犯人に課する|荊冠《けいかん》なのさ。いったん殺人を犯した者は、その|呪縛《じゅばく》を受けねばならない。そうさ。殺人者は走り続けねばならないんだ。……もっとも、探偵の側としては、起こるべき第二、第三の殺人が勃発する前に犯人を指摘する、という点に意義があるんだから、そういう意味では探偵側への戒律ともなり得なくはないんだけど。あっはっは、何だか理屈っぼくなっちゃったけど、そういうことなのさ。ところでだね、ナイルズ」
え、と呟いてナイルズが振り向くと、寸分と違わぬ同じ顔が『黄色い部屋』のなかで向かい合った。
「『いかにして密室はつくられたか』のことだけど、あれを書き続けるってことは、現実にこうして事件が起こった以上、事実そのまま、曳間さんが殺されたという発端から書き進めなきゃならないってことにほかならないだろう。どうなんだい」
「勿論そうするつもりだよ」
「ふん、するとナイルズ、お前はほかの探偵達と違って、もうひとつ余分な戒律を担わなくちゃならないんだよ。判ってるんだろうね。それは、この現実を先取りした小説を書かなくちゃならないということさ!」
ホランドが言い放つと、その言葉は部屋の周囲に|弾《はじ》き返されて、再び宙空の一点で、はっしとかちあったようだった。それは不思議な、美しい|瞶《みつ》めあいだった。そうしてひき|搾《しぼ》られた|発条《ぜんまい》がゆるゆるとほぐれだすようにナイルズが口を開こうとした途端、再びホランドは厳しい口調で畳みかけた。
「それがナイルズ、お前への荊冠にほかならないんだ。あはは、これくらいの|鞭《むち》のあった方が、お前も書き易いんじゃないのかな。つまりそれは、犯人の意図というものを、この現実ごとひっくるめて、予め壺のなかに封じこめてしまうことだよ。これから先に起こる筈の事件の|悉《ことごと》くを含めてね」
「判ってるよ、それくらい!」
突然にナイルズは荒々しく叫んだ。
「あったりまえじゃないか。そんなことも考えないまま書こうとしてると思うの」
そう言ってのけると、ぷいと背を向けて、ふくれっ面を組んだ腕の上に落とした。そこで仕方なく根戸が、
「まるで|拗《す》ねた小学生そのままだな。まあ兄弟喧嘩だけは遠慮して貰おうか」
「別に、喧嘩のつもりじゃあないんだけどね」
ホランドはそう言って、ほっと息を抜くと脚を組み変えた。
その一瞬倉野は再び何かを見たような気がした。何やら黒い影のようなもの。ラメのように光沢の流れる髪、黒曜の瞳、あかい脣、ぴったりした黒いTシャツから惜し気もなく伸ばされた手、不可思議な交錯を見せるコールテンのジーンズ、そしてグレーのデザート·ブーツ。それらの何が倉野の眼を惹いたものか、彼自身にもよく判らなかった。ブーツの底に何か|染《しみ》のようなものがついていて、それが脚の動きにつれて規則的に揺れ、振り子のように倉野の眼に映る。規則的な揺れ。
誰かの話に出て来たような。
そんなことを思い続けながら、倉野はぼんやりとホランドを瞶めていた。
[#ここから3字下げ]
10 さかさまの殺人
[#ここで字下げ終わり]
でも、と言いかけて、ナイルズは不意に口を|鎖《とざ》した。
月のせいかも知れなかった。
赤い赤い月。鈍い薄墨に朱をぽとりと落としたような、唐突な月だった。憂鬱そうな|牽《かさ》だけが|蒼《あおざ》褪めた男の膚のように透きとおって、その向こうに朧な翳がわらわらと通り過ぎてゆく。滲み展がるような、
満月。
その長く暗い街の底を、ナイルズと倉野が寄りそうように歩いてゆく。『黄色い部屋』での熱気がまだ醒めやらないのか、ナイルズの頬はぽっと上気したままで、そのことが倉野の胸に、ずいぶん以前からつき刺さったままだった。それは細かな|棘《とげ》のように、微かな痛みさえ感じさせる。でも、と言いかけたまま、ナイルズはまっすぐ前を|瞶《みつ》めていた。宵闇の大通りは依然人通りが多く、瞬くネオンサインやよそよそしく走り去る車のテールランプが、赤に青に、やけに鮮明に|煌《きらめ》いていた。鮮やかな闇。そしてそのなかで赤い満月だけが、何かしらこの世のものとも思われぬ異様な気配を漂わせて、宙空に|懸《か》かっている。
どうしても一度、殺人現場を見届けておきたい。それもなるべく早く。そういうナイルズを軽い気持ちで誘って、あとはアームチェアディテクティブを決めこんだ連中と『黄色い部屋』で別れ、とっくに夕暮れも過ぎてしまった街なかに出てきたのである。そしてこれは単なるふたりの気まぐれで、赤坂から倉野の下宿のある目白へと歩いて帰ることにしたのだった。
先刻の会合のことやら、来たるべき推理較らべのことやらを取りとめもなく喋っていた最中に、不意に、でも、と言いかけて黙ってしまったナイルズに、倉野は不可解な胸の痛みを一層強く意識させられていた。
相変わらず、月はわらわらと暈のなかを滑ってゆき、どこまでもふたりとの鬼ごっこをやめなかった。
「――でも、何だい」
予想もしない宙空の一角で、赤い月影にふと姿を浮かびあがらせては、ありありとその模様を変化させてゆくはぐれ雲を眺めながら、倉野はぽつりと、相当の時間を置いて尋ねた。すると、今までむっつりと歩き続けていたナイルズは、ほんの僅か戸惑ったふうに首を曲げると、不安定な表情で笑ってみせた。
「……でも、今度の事件は……そう、そのことを考えていたんだよ。旨い言葉が見つからないんだけど、例えば仮に、今度の事件のことを小説として描くとするでしょう。そうすると、その小説は僕達の希望通りの純然たる本格探偵小説になるかというと……うん、どうもそうじゃないような気がするんだ。何となく、|所謂《いわゆる》変格ものになってしまうような……」
「それは」
と答えて、倉野は後を続けることができなかった。細密に描かれた油絵に、そこだけ水彩で描かれた月。それとナイルズとをぼんやり見較べながら言葉を探していると、
「ということは、僕の書いてる『いかにして密室はつくられたか』も、それ相応の影響を受けなきゃいけないんじゃないかなあ。とにかく、どうなるか判んないよ。さっきの会合では言わなかったけど、どうもやっぱり、何か欠けてるという気がするんだ。事件の本質的なデータが、足りないっていうんじゃない。うん。それならどうってことはないんだ。むしろ、本質的なところとは全く無関係な地点で、しかもはっきりとした意図もなしに様ざまのトリックが仕掛けられているような気さえするんだよ。言わば、それは無意味なトリック、無目的なトリックならんだ。だいたいからして、この事件の最も奇異なところ、つまり、犯人はなぜ犯行時刻からその発覚まで、ずっと倉野さんの部屋に留まっていたのかという、そこがそもそも、犯人にとっていかなる利益もあったとは思えないでしょ。きっと、こういった余分にしか見えないものは、僕の感じる欠落の裏返しなんだ。はっきり言えば、夢遊病者が殺人を犯したとすれば、こんな具合じゃないかしら。無目的な犯行計画――それがしかも、全く気まぐれな倉野さんの不在の時間内にすっぽり|嵌《は》まりこむだなんて、|辻褄《つじつま》が合わない部分と合い過ぎる部分がごっちゃになってて、やっぱり何かが狂ってるとしか思えないんだ。そうだよ、これが本当に入念に綿密に計画された殺人だとすると、その犯人の頭の構造は、どこかしら骨組みを間違えたところがあるに違いないよ。考え方の根本的な部分が一箇所欠けてて、そのほんの一部分の狂いが、事件全体の構図を歪めてしまってるんだ」
熱心に語り続けるナイルズに、倉野は何と答えていいものか迷っていた。
そうかも知れない。でも、それは一体、どういうことなのか。倉野の胸中を、言いようもない混乱が襲った。
「それでナイルズ、君には結局、今度の事件の真相が見えてるのかい」
ナイルズの言葉の意味を半ば理解できぬままに、何気なく問いかけると、ナイルズは妙な顔をして、
「だからさ、変格探偵小説的になら、一応の解釈がつけられるということなんだよ」