そう再び謎のようなことを呟いて、
「それで倉野さんはどうなの」
「それが、まだ、さっぱりさ」
倉野はそう言って、鼻の頭を掻いてみせた。
「ホランドと布瀬だったな、もう既に事件の真相を見破ったと言ってたのは。僕はびっくりしてしまったよ。本当に、僕には事件の真相どころか、一本の鍵さえも見つけ出せないでいるんだからね。いや、本当は情なかったんだ。偉そうに、この犯罪は頭脳を絞りつくした上での計画殺人でなくちゃならないなんて言っておきながら、その実、言った本人が五里霧中もいいところなんだから」
「ほんとなの。倉野さんのことだから、もうとっくの昔に見破ってるだろうと踏んでたんだけどなあ」
「いや駄目さ。探偵小説なら自信はあるけど、実際の事件となるとからっきしだよ」
「そうかあ。倉野さんもまだなのかあ」
そう言って、ナイルズはしばらくぼんやり黙想に耽っていたが、大通りからはずれて小さな路地に曲がった時、敷石も煉瓦塀も境なく塗りこめてしまっている闇に怯えるように、再び急に早口で喋り始めた。
「布瀬さんとホランドが、もう既に推理がついたと言ってるけど、僕は正直言って、あんまり信用できないんだ。布瀬さんのなんか、だいたい想像できるよ。僕かホランドのどちらかを犯人と考えてるに決まってる。僕ともホランドともつかない、真昼の幻影。……あのひとの発想の核はそこなんだよ。でも僕は僕が犯人でないことを知ってるから、残りはホランド。だけど、はっきり言って、ホランドは曳間さんを殺したりはしないよ。これは双子の僕が断言するんだから間違いない。さて、ホランドの方の推理だけど、まだ内容の方は聞いていないからともかくとして、どうも納得いかないのは態度の方なんだ」
何を言いだそうというのか、ナイルズはそこでほっと息をつくと、再びせっつかれるような口調で後を続けた。
「もしホランドが本当に確信を持ったとしても、あんなふうにそのことを口に出すなんて、僕にはどうしても頷けないんだよ。ホランドの性格として、自分の推理に関しては、いつもなら最後まで黙ってる筈なんだ。まして、悉くの証拠がたったひとりの人物を名指しているだなんて、みんなを挑発するような大時代的な言い方、どう考えても不自然だよ。きっと何か訳があるんだ。……僕にはそうとしか思えない。そうだ。きっとホランドの奴、何か謀んでるに違いないよ」
「謀んでる? 何を……」
振り向くと、ナイルズの髪の輪郭を|仄赤《ほのあか》く浮かびあがらせて、やはり赤い満月があった。血みどろの月。わらわらと走る雲影を従えて、それは何事かの前兆のようにも思われる。とすると、本当の惨劇とは曳問の死などではなく、あれを単なる幕開けとして、これから後にまことの全貌を展開してゆくというのだろうか。倉野は、ほんの一時間ほど前、ホランドが口にした言葉を、ある種の戦慄と共に想い起こさずにいられなかった。
犯行は連続殺人でなければならぬ。
ホランドははっきりそう言ったのだ。そうして、先刻のナイルズの言葉――ホランドが何事か策略を抱いているということを考慮にいれるならば、そこには自と不思議な方程式が導き出されるではないか。探偵の側としては第二第三の悲劇が起こる前に殺人者を指摘することに意義がある、などというのは言い訳に過ぎず、ホランドの胸のうちにある思惑は、ただひたすらに殺人者への凶行の奨励であるとしたら。
そこまで考えると、倉野は再び強烈な戦慄を覚えねばならなかった。それは幾度も倉野の|脊髄《せきずい》を駆け抜けて、彼の想いを凍りつかせた。彼自身にとっても不思議なほどの、得体の知れぬ恐怖だった。
赤い満月。それがどのような凶兆であるのか知れぬにしても、|禍毒《かどく》らは避けようもなく彼の身に降りかかってくるだろうことを、倉野はその一瞬に予感していた。刻一刻、こうして彼自身の住むこの現実世界には起こり得べくもない、似て非なる別世界の出来事の渦中にひきずりこまれてゆくのだろう。いやもう既に、ほんの一滴の赤を滲み展げただけの深い闇に、電柱も煉瓦塀も用水槽も生垣も呑みこまれたこの路地が、この現実とはほんの少しずれたあちらの世界だとしたら。そうだ。あの赤い赤い唐突な月こそが別世界へのひそかな案内者で、現実の世界では、ひょっとして今夜は、満月でない夜に当たるのかも知れない。そうして、この赤い月は、未来における血みどろの惨劇へと、ふたりを誘なっているのだろう、倉野は何とも居たたまれぬ気持ちに襲われた。
しかしひょっとして――と、倉野は思った。こういうふうにも考えられるのではないだろうか。つまり、ナイルズは否定するが、それが単なる感情論でしかない以上、実はホランドが真犯人であってもいい筈だ。そうとも、連続殺人云々の発言は、自分が真犯人であることへのカムフラージュだとしたら。……
しかし、その考えはナイルズに喋る訳にいかず、倉野の胸の奥に|嚥《の》み下された。
赤い月。それだけが真実を知っているのだろう。笑うように、瞶めるように、鮮明な闇のそこだけ朧なまだら雲のなかを走ってゆく。そういえば、その蒼褪めた暈は、倉野には白内障に冒された眼球そっくりに思われた。
「みんな、それぞれ頭のいいひとばかりだけど、そのなかで、とびきりだったのは曳問さんじゃない? その曳間さんが殺されちゃって、残った者のなかで、布瀬さんもホランドも信用できず、倉野さんも見当がつかないとなると、一体、どうすればいいの」
ナイルズは呟くように問いかける。倉野はその深い視線に、奇妙な戸惑いを感じていた。そうして、その|凜冽《りんれつ》な視線をゆっくり倉野の方に向けると、ナィルズは再び謎めいた微笑を薔薇の脣に立ちのぼらせた。
「いちばんいいのは、死んだ曳間さんに推理して貰うことなんだ」
「曳問自身に?」
思いもよらぬ言葉に、倉野は慌てて訊き返した。
「そうだよ。二週間後の僕らの推理較べに、死者の推理が加わるとしたら、これは一体、どういうことになるのかな。――死者の推理。なかなか面白いと思わない?」
「ちょっと待てよ。そりゃあどういう意味だい。推理較べをやってる僕らのなかに、いつの間にか死んだ筈の曳問が紛れこんでて、生者である僕らには及びもつかない、鮮やかな解決を披露するとでもいうのかい。それとも、さっき君の言った、変格探偵小説的になら一応の解釈がつけられるというのは、そういう意味なのかな。確かに、実際死者の推理なんてことがなされるなら、ちょいと破格で面白いとは思うけど……」
「さあ、どういう意味なんだろう」
別に勿体をつけるふうでもなく、ナイルズはそう呟いたが、倉野は次第にその考えに夢中になったらしく、
「と、すれば、そうだ。もしそんなことが起こったとしたらどうなる? 推理較べの席上に、曳間が現われるとしたら。無論うみんな驚くだろう。でも、そのなかでいちばん恐怖に打たれるのは、ほかならぬ曳間を殺害した殺人者自身なんだ。そうだ。それによって真犯人が判るとしたら、その席上に曳間が現われてしかるべきなんだな!」
「倉野さん!」
弾けるように振り返ると、ナイルズは貫くような視線を向けた。
「僕が考えてたのはそんなことじゃないけど、倉野さん、それはつまり、推理較べの最中に、曳問さんがそこに現われたように錯覚させるような、何らかの細工をするってことなの」
「おや、そういうことじゃないのかい。なあんだ、考え過ぎだったかな」
倉野は息を抜くように苦笑してみせた。
「確かに、こいつは本格ものとしての推理法からいくと、ちょっと|狡《ずる》いやり方だものね。あはは、せめてあんな十戒を持ち出す前ならまだしも、なにしろ提唱者はこのふたりなんだから仕方がない。まあ、今の話は聞き流してくれ」
そうは言ったものの、再び途切れた会話は、何かしら妙なしこりを残したまま、なかなか戻ってこなかった。
オレンジ色の街灯が並ぶ通りを横切り、そのあたりで新宿区から豊島区へと移るらしかった。木造のごみごみとした感じの街筋と大きなビル街が重なりあい、そのまんなかに、中天につき刺さるようにして伸びあがったクレーンが、黒ぐろとした不気味な影を映し出している、そんな場所だった。
透き通った闇のなかで、オレンジ色の光線をぶちまけたように浴びて、総てのものがいつも見せている|貌《かお》とは全く異なった、別の本性を思いがけず剥き出したまま静まり返っていた。
倉野はふと、ナイルズにもそれを垣間見てしまったような気がした。
オレンジ色に濡れたナイルズは、闇のなかにぼっと浮かびあがっていて、こうして黙っている限り、ホランドとは区別しようもない一卵性双生児というものを、倉野は恐ろしいものとして再認識せずにおれなかった。
そうなのだ。寄りそうように、滑るように闇のなかを抜けてゆくこの少年は、本当にナイルズなのだろうか。
|謂《いわ》れのない危惧ではあったが、いったん気にし始めると、それはなかなか頭を離れようとはしなかった。
その気になれば、ナイルズのまねをすることぐらい、ホランドにとってはさして困難ではないだろう。一人二役や人間交換といった双子のトリックは、探偵小説の世界ではまるで陳腐なしろものになってしまったが、それが身近で実際に、あちらからこちらへ、たやすく、そしてひそかに行なわれているとしたら。『黄色い部屋』を出た時にも、いくらでも機会はあっただろうし、ましてナイルズとホランドの交換が、彼らの間にひとつの遊戯として行なわれていたとすれば、最早ふたりの区別というものまで、その意味を根本的に疑ってみなくてはならないだろう。そのことを否定もできぬまま、倉野は少年を瞶めるのだった。
「――ナイルズ」
問いかけるともなく囁くと、ナイルズは、え、というようなあどけない顔を見せる。倉野は苛立たしい混乱を覚えながら、急いで次の言葉を考えねばならなかった。
「いや、ほら、つまり、肝腎なことを訊くのを忘れてたんだよ。そもそもこの事件は君の、初めに曳間が殺されるという予言から始まった訳だけど、君の『いかにして密室はつくられたか』では、最初に曳間が死ぬことには何か必然性があったのかな」
「いやあ、それが、あんまりないんだよ。はっきり言って、誰でもよかったんだ。だから全く偶然なんだよ」
「ふうん。じゃあ、構想上の曳間の殺害と実際の事件とは、やっぱりかなり違ってるのかい。君の小説では〈さかさまの密室〉を使うって話だったけど、今度の事件も、僕が思うに、ある意味での〈さかさまの密室〉にほかならないと思うんだけどね」
「うん、僕も倉野さんの話を聞いててそう思ったよ。でも、使われるトリックとか現場の設定とかは、やっぱり違ってたけどね。……そうなんだ、僕がぼんやり感じてたのは、今度の事件そのものが、何かしら〈さかさま〉じゃないかってことなんだ。密室の情況ばかりじゃない。だいたい小説の構想を事件が先取りしたような情況からしてそうだし、犯人が犯行現場に三時間近くもいたと思えることが、ほかでもない、犯人はその時ほかの場所所にはいなかった[#「犯人はその時ほかの場所所にはいなかった」に傍点]んだという、逆の不在証明になって訳でしょ。それから来たるべき推理較べでは、多分、犯人自身の推理が聞けることになるし、もしもその推理が見かけ上一分の隙もないってことになったら、これまたひとつの逆説じゃない。倉野さんは、殺された曳間さんのために最高の殺人者を用意しなくちゃならないって言ったけど、これも普通の考え方からいくと〈さかさま〉ってことになる。おまけにホランドは、犯人に向かって連続殺人を勧めるしね。もっとあるかも知れないけど、この事件はとにかく、大きな〈さかさま〉によって貫かれているとしか、僕には思えないんだ」
頬を紅潮させてそう言いきったナイルズの言葉は、倉野の立っているこの世界をもくるりとひっくり返してしまったように思われた。
赤い、さかしまの月のようでもあった。
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二章
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1 死者の講義
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「ねえ、どうかなあ」
最後の一枚を読み終わった頃を見計らって、ナイルズははにかんだように声をかけた。
白木の机に原稿用紙の束をどさりとばかりに置くと、その相手は回転椅子をぎしぎし鳴らしながら振り向いた。
「まいったね、どうも」
バリトンがかったよく通る声で、これまた照れくさそうに言葉を返したのは、その小説では最初の殺人の犠牲となって冷たい|骸《むくろ》を|晒《さら》した筈の、曳間了そのひとだった。
『いかにして密室はつくられたか』と題されたその二五○枚ほどの小説は、長編の第一章として「第一の屍体」から「さかさまの殺人」までの十の小見出しを添えられ、おまけに「序章に代わる四つの光景」と銘うったプロローグから始まるという、いかさま本格長編らしい体裁を備えていた。
曳間の不連続線に|纏《まつ》わる回想を皮切りに、|既視感《デジャ·ヴュ》、三劫、暗号と、何やら勿体をつけた導入から、曳間の死、『黄色い部屋』での不在証明提出、十戒の取り決め、そうして最後に倉野とナイルズの対話が、この事件の主導音は〈さかさま〉にある、となったところで枚数は尽きていた。途中でそれとなく連続殺人を|仄《ほの》めかしているし、一章とあるからにはまだまだ二章、三章と書き続けられる予定なのだろう。一応の段落のところで小休止ということか、この奇妙な実名小説は、未だ登場人物達の推理らしい推理も行なわれないまま、一刻も早く謎を解かれたがっているとでもいうふうな恰好でそこにあった。
探偵小説趣味が昂じていよいよ自分でも小説を書き始めたということで、その一章まで仕あがったという作品を読ませて貰ったのだが、実名小説と聞いてはいてもまさか自分が殺される役柄にふりあてられているとは思いもよらず、ましてや冒頭からどこかしら謎めいた人物として登場しているとあっては、曳間の洩らす苦笑も無理からぬことだろう。
「しかしまあ、殺されるとはいえ、なかなか魅力ある人物として描かれている点には好感が持てますな。いやいや結構結構。探偵小説としては、現時点では批評しにくいけど、なかなかいい雰囲気じゃない。ナイルズにこんな文才があったなんて知らなかったけどね。……冷たい屍体となった僕の、その安らかな表情を見て、倉野が不意に涙を落とす|件《くだり》なんぞ、我ながらホロリとさせられちゃったな」
「あはは、本当だね。そのあたりを読んでる時、曳間さん、心なしか眼をしょぼしょぼさせてたもの」
惜しみない笑顔を見せながら、ナイルズは革椅子のなかにそっくり返った。それは子供達が時折り見せる、最上級の悪戯が成功した時の笑顔だった。
「それはそれとしてさ、曳間さん自身は何らかの推理がついた? ほら、小説のなかにもあったでしょ。いちばんいいのは、死んだ曳間さんに推理して貰うことなんだって。そういう点では、これは一種の挑戦状にもなってるんだからね」
「こいつはいよいよ参ったことになったな。……だけどこいつは今の時点では、これから後、どういう解決でもつけられるんじゃないか。だから、真相というものとはちょっと違った視点からだったら、いろんなことが想像できなくもないんだけどね……」
「というと、どういうことなの」
そう尋ねるナイルズに、曳間は切れ長な眼を窓の外に向けると、
「うん、いろいろとね。まあこれは言わぬが花ということにしておいて、……そうだなあ、面白いながらも、この小説にはひとつだけ不満があるから、そのことを言わせて貰おうか」
「なあに」
ぴんと脚を跳ねあげて起きあがると、ナイルズはもうはや、真剣な顔になっていた。
「いや、たいしたことじゃないけど、やっぱり個人的な趣味があるからね。つまり、この小説にはあまり小道具が出てきてないだろう。それがちょっと惜しいと思うんだよ。……せいぜい面白いのは、鬼どもを描いた風鈴って奴だね。でもあれは直接事件とは|拘《かかわ》ってこないだろう。そういう点が、もうひとつだと思うよ。細かいところまで追究すれば、そりゃあいろいろあるかも知れないけど、まあ総ては完成しての話だからね。……ああ、そういえば鬼で思い出したけど、もうひとつひっかかる点があった。つまり、ホランドが根戸の部屋へ行って話をする部分があっただろう。そこで呪符に関することで、〈鬼〉の字が黒魔術的なことに、上に点のない〈※[#「鬼」、上の点無し]〉の字が白魔術的なことに使われるっていう話があるけど、知ってるの? 〈※[#「鬼」、上の点無し]〉は〈鬼〉の古字、もしくは異体字なんだよ」
「あッ、そうなの」
ナイルズは、へえ、というような顔をして、
「いや、あそこの会話は、根戸さんの実際に持ってる『加持祈祷秘法』を読んでて、それで思いついたそのままを書いているから、詳しい裏づけは殆どないんだ」
「ふうん、そうか。でもそういう字体によって用途が異なるってことは、本当にあるかも知れないよ。だって、実際、鬼というものの概念は、時代に沿ってかなりの変遷があるからね」
「へえ、そうなの」
「そう。だって、〈鬼〉という字が作られたのは中国だけれども、日本人はその〈鬼〉という字に〝おに_という言葉を宛てて、それを読み方とする訳なんだから、そもそもそこから、日本での語意と中国での語意の相違はあった筈だしね。……いやあ面白いんだよ、そういう関係の本を読んでるとね。〝おに_という言葉の語源としては、|源《みなもとの》順《したごう》っていう人が『|倭名類聚鈔《わみょうるいじゅしょう》』って本を書いているんだけど、そのなかに、『於邇者隠音之訛也』とあって、それはつまり、鬼というものは物に隠れて形を|顕《あら》わすことを欲しないが故に、〝|隠《おん》_という言葉の〝ん_が〝に_に通じて〝おに_となったということが書いてあるんだ。今でもその『倭名類聚鈔』に従う通説、〝隠_あるいは〝陰_などの転音とする考えが勢力を持ってるんだけど、その漢音語源説に異議を唱えたのが、かの|折口信夫《おりくちしのぶ》先生なんだよ」
「ふうん、折口信夫って――あの、|釈迢空《しゃくちょうくう》って名で短歌を書いてたひとじゃない」
|朧《おぼろ》げな記憶を辿るように呟くナイルズに、
「うん、よく知ってるね。国語の授業で習ったところなんだろう」
「あッ、そりゃあひどいな。それくらいは知ってるよ。……と、いいたいけれど、実はその通り、夏休み前に覚えたところなんだ。全く、曳間さんにかかっちゃ、何でもお見通しなんだからなあ」
「どうやら僕は、かのファイロ·ヴァンスの|末裔《まつえい》かも知れないな。……折口先生の話だが、彼は、〝おに_は正確に〈鬼〉でなければならないという用語例がないところから、外来語説、漢音語源説に疑問符を与えて、全く新しい視点から、この〝おに_という言葉を眺めたんだ。つまり、古代において、〝おに_と〝かみ_とは、非常に近しい言葉であったということを提唱するんだよ。彼の言うところによれば、〝おに_という言葉は中国で生れた〈鬼〉とは全く別の、日本独自の性格を持って存在していたということになるんだ。それが後になって、彼の書いた『鬼の話』の言葉を借りれば、『おには「鬼」という漢字に飜された為に、意味も固定して、人の死んだものが鬼である、と考へられる様になって了うたのである』といった事態にまで陥るんだね。……それ以前の〝おに_がどういうものであったかはよくは判らないけど、〝かみ_と同じに、非常に|畏《おそ》ろしいものであったことは確かだろうね。それは民間伝承としての様ざまな鬼のなかへと投影されてるんだけど、面白いのは、それらの鬼は|蓑《みの》や笠を|被《かぶ》っている、というひとつのイメージがあることなんだ」
「蓑笠だって」
一体何か故あってのお喋りなのか、果てしもなく発展しそうな〈鬼〉の話が、ここに初めて行き当たった鬼の具体的なイメージに、ナイルズは思わずそう反覆して、
「頭に角をはやし、虎の|褌《ふんどし》をしている鬼の姿が、鬼門――つまり|丑寅《うしとら》の方角――の連想から発生したってことは僕でも知ってたけど、そのイメージよりは、蓑笠に隠れた鬼っていう方が、よっぽどいいんじゃない。本当の姿を決して見せないってところがいいよ。そういう鬼ならば、この探偵小説に現われてもいいな。……ねえ、『隠れ蓑願望』って言葉を使いだしたのは乱歩だったけど、このなかの真犯人が、まさに探偵という隠れ蓑を被って、堂々と推理較べの席上のなかに|紛《まぎ》れこんでいるってのは、ちょっと使えそうじゃないかしら」
常に自作の探偵小説のことが頭から離れぬらしいナイルズは夢中になってそう言い、しばらく何やら熱心に考えごとをしていたが、ふと、
「ああ、そういえば、なまはげ[#「なまはげ」に傍点]ってのがやっぱり蓑を|纏《まと》ってたよね」
「そうだね。『日本書紀』にも、やはりそういう記述があって、斉明天皇の喪の|儀《よそおい》を、朝倉山の上から大笠を着た鬼が|臨《のぞ》み|視《み》ていた、というんだ。また現在まで残っている唄として、土佐の『ぜぜがこう』というのがあって、
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|向河原《むかいかわら》で、|土器《かわらけ》焼けば
いつさら、むさら、ななさら、やさら
やさら目に遅れて、づでんどっさり
其こそ、鬼よ
蓑着て、笠着て来るものが鬼よ
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これなんかはその典型だろ。それにしても、童謡ってのは意味がよく判らないだけに、何かしら不気味な魅力を持ってるよね。最近|流行《はやり》のマザー=グースにしたってそうだし。
「まあとにかく、そういった訳で、鬼という概念も、既にここから変化し始めるんだ。蓑笠を纏った鬼は、ほかの文献の上にもいろいろ現われ、『枕草子』では『蓑虫は鬼の子にて』という面白い一文が見られるし、『堤中納言物語』中の『虫めずる姫君』では、『鬼と女は人に見えぬそよき』ということが書かれてあるが、これも蓑笠を纏った鬼のイメージがあってのことだろう。それから『|躬恒《みつね》集』にも、
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鬼すらも都の内と蓑笠をぬぎてや今宵人にみゆらん
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という一首があるし、さらに――」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
抛っておくとどこまでも続きそうな傍証を|遮《さえぎ》っておいて、
「そのことは判ったけど、それじゃあ、死者やその魂を意味する〈鬼〉字を得たその鬼は、どうやって今の姿になってゆくの」
「うん、つまり凶悪な形相を鬼が持ち始めるのは、仏教の影響なんだよ。仏教には|邏卒《らそつ》という概念があって、こいつはまた地獄卒とも呼ばれる、非常に恐ろしい|族《やから》なんだ。確か、小栗虫太郎の『失楽園殺人事件』のなかにも登場して来たね。とにかく、|牛頭馬頭《ごずめず》といったそういう地獄の獄卒どもと混合されて、鬼のイメージは次第にその恐怖の面を増していったんだよ。……さっき君が言った、角と虎皮を鬼門、つまり|艮《うしとら》からの連想とするっていうのは、実は俗説なんだけど、確かに説得力はあるようだね。鬼門というのは仏教ではなくて、陰陽道から来る考え方だけど、そういった、仏教とか陰陽道の影響を受けながら、鬼は見るも凶悪な外観を獲得していくんだ。……どうだい、鬼の概念にも、こういった変遷があるんだ。だから〈鬼〉と〈鬼〉にも、概念的な差があってもおかしくないと思うんだよ。うん、まあ、結局これが言いたかったんだけどね」
「ふうん。曳問さん、詳しいんだなあ。そのぶんだと、ほかにもいろいろ文句をつけたいところがあるんでしょう。……それにしても、この小説においては死者である筈の曳間さんが、こうやって小説の内容に関することを話している、それも鬼の話をするってのは、何となく奇妙で、面白いよね。いわば、死者の講義ってことになるのかな」
いつの間にか部屋のなかにじりじりと伸びていった日差しに、白く顔を輝かせながら、ナイルズはのんびりと受け答えた。
緑色の|毛氈《カーペット》にくっきりと影を落とし、このナイルズの部屋にも、めくるめく夏の日の傾きは差しこんで来る。枯草色の壁が、ぱっと一瞬、|焔《ほむら》たつように明るくなったと思われたが、よく眼を凝らして見れば、その何かの|兆《きざ》しででもありそうな乱反射も、すーっと壁紙のあちらに吸いこまれでもするかのように溶けてなくなるのたった。そういえば、隣の部屋に居る筈のホランドは昼寝でもしているのだろうか、最前から物音ひとつなく、ひっそり|閑《かん》と静まり返っている。聞こえて来るのは、窓の外のずっと遠くからの、微かな微かな、小学生達らしい一団の、遠雷のようなどよめきだけだった。
それはナイルズがひそかに|逢魔《おうま》ヶ|刻《とき》と名づけている、|静謐《せいひつ》なひとときだった。大気の上層と下層の、その温度や湿度の具合によるのだろう、驚くほど離れたところにある小学校からの喚声が、その時間には街の上の見知らぬ空間をひととびに越えて、引き潮のような気配として降り伝わって来るのだった。昼から夕方へと移りゆく、その街が一瞬息をひそめる時間に、言葉が言葉と重なりあい、最早言葉でなくなってしまったもやもやとしたさざめきを聞くのが、ナイルズは好きだった。それはひどく|牧歌《ぼっか》的なひとときでもあった。
「まあ、それはそれとしておいてだね、この小説のなかにも現実と架空との関係式のようなことが暗示されていたけど、僕の興味は常に現実にあって、一体、こういった小説が描かれたからには、この現実にも何らかの影響があってしかるべきじゃあないのかな」
「と、いうと?」
「それはこの小説のなかでいみじくも君自身が予言していることさ。つまり、この現実の世界においても、殺人が起こるという……」
「あれえ、それは曳間さんの言葉とも思えないな。僕がこの小説を書いた、本当の意味が判んないかなあ」
眼を丸くして、|栗鼠《りす》のように体を屈めると、ナイルズは素っ頓狂な声を上げた。曳間はこの言葉にちょっとたじろいで、こちらは|浣熊《あらいぐま》のように口を|窄《すぼ》める。
「そうすると、きみは実際、現実の殺人を封じこめることを考えていたのかい」
「勿論だよ。やだなあ。それ以外に、僕がこの小説を書く動機なんて何があるっていうの。総て、この僕らのフアミリーのうちに|蟠《わだかま》る、何かしら黒ぐろとした空気のせいなんだ。そうだよ。殺人とまでは言わないにせよ、このままいけば近い将来、必ず不吉な事件が突発するに違いないんだ。僕にはその、得体の知れない影のようなものが見えるのさ。……この『いかにして密室はつくられたか』は、全くのフィクションには違いないけど、実際にあったことも|処《ところ》どころ使ってるんだよ。無論、多少の調味料は加え、組立て直して、フィクションのなかに織りまぜてはいるけどね。そうやっていろいろ仄めかしてるけど、心理学者――いや、小説で使ってるように、黒魔術師と呼ばれている曳間さんの眼には、そんなことはお見通しじゃないかと思ってたんだけど」
後半の調子はやや告発めいて曳間に向けられた。刺し貫くような白光を背中に意識しながら、こちらはほっと溜息を吐くと、
「いや、これはどうも失言だったな」
頭を掻きながらそう言って、
「正体までは判らないけど、その存在だけは僕も感じてはいたよ。それで、だけれども、この小説がそういった未来の殺人の封じこめの役割を果たすものとして作られたにせよ、それは完成しないことには意味がないだろう」
「どういうこと」
ナイルズはぴくりと体を|顫《ふる》わせた。成程そうした一瞬ナイルズはホランドとの見分けがつかなくなる。
|炯々《けいけい》と瞳を輝かせる少年は、一種|蠱惑《こわく》的な|夢魔《スクブス》のようで、その時曳間は、そもそも双子というもの自体、この世に在り得べくもない、何か奇妙な存在なのだと考えていた。何から何まで、全く同一の遺伝子から成長したふたつの個体。……そっくり同じの分身どうし。
「つまりだ。……その殺人は、君のこの小説が完成する以前に起こるかも知れないってことだよ。一体、その影の正体は判らないけど、もしもそいつが、今すぐにでも犠牲者を欲しがるほど強大なものになりおおせているとしたら……」
「すると」
間髪を容れず口を|挿《はさ》んだナイルズは、何故かそう言い澱んだまま席を立つと、ついと窓の方に足を運んだ。折りしも西陽は、何処からともなく|滾《たぎ》り昇った暗雲に鎖され、窓外は不意の薄闇に包まれた。乱歩ふうにいえば、オドロオドロとした魔物のような雲とでもいうのだろうか、それは|框《かまち》に手をつっかけたナイルズの上半身を主題とした、一枚のテンペラ画のようにも見てとれた。
「今日が七月二十四日だね。……本当にいつ完成するのかなあ」
そうやって黒雲が|蒼穹《そうきゅう》を埋めつくしてゆくにつれて、ナイルズの胸にも不安の色が塗りこめられてゆくのだろう。存外に早く惨劇は起こると踏んでいるらしい曳間の言葉は、小説中のナイルズのお株を奪って、確とした予言とも取れるのではないか。
その時、階下で電話が鳴り出した。すぐに誰かが出たらしく、ややあって聞こえてきたのはナイルズの母親の声だった。
「なある[#「なある」に傍点]。お電話よ」
とんとんと階段を登りながら呼びかける。
「誰からあ?」
「甲斐さんからよ。急用ですって」
ナイルズが扉を開けると、曳間の眼に、ぽっと青い色が燃え立った。
「成程、こういうふうにして、甲斐から電話がかかって来たんだね」
「そうだよ」
「まあ、何のお話」
ナイルズを見送りながら、母親は溢れるような微笑みを見せた。三十五をふたつみっつ越してはいる筈だが、はっとするほど若く美しい婦人だった。曳間はこれほど美しい家族を、ほかに見たことがなかった。久藤杏子が北欧的な美女というのなら、彼女の方はギリシア的なそれとでもいうのだろうか。今、白い薄絹でも|纏《まと》えば、そのままスパルタの王妃レダあたりにいともたやすく変貌してしまうだろうとも思われた。ナイルズ達に受け|嗣《つ》がれた、日本人にしてはやや灰色に近い瞳を扉の方に送り、再びその乾いた視線をこちらに向けて、
「曳間さん、いつも蘭や成のお相手をして貰ってすみませんね」
「いえ、とんでもない。お相手をして貰っているのは案外僕の方かも知れないし……。あはは、それよりも、成君はたいした小説家ですよ。先程、今までの部分を読ませて貰ったんですが」
「まあ、このところずっと部屋に閉じ|籠《こ》もっていると思ったら。……それじゃあ、あの子達のことだから、きっと探偵小説に違いないわ。そうでしょう」
「その通りです。……あはは、お母さんもなかなかの探偵なんですね」
「あら、いやだわ」
彼女は涼しい声で笑った。
しばらくして戻って来たナイルズは、どうしたのか妙にうわの空な様子で、訝しげに向けられた曳間の視線も一向に意に介さないふうだった。
「どうしたんだ」
曳間が訊いて、ようやくぼんやり顔を上げたナイルズは、何かがゆるゆると崩れ出してゆくように見えた。|嗄《しわが》れた声だった。
「曳間さんのいう不連続線ってのは、こんなふうに訪れるのかしら」
「どういうことだい」
「小説が無駄になっちゃったんだ。殺人が起こったんだよ。……真沼さんが、殺されたって……」
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2 ブラック·ホールのなかで
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「青天の|霹靂《へきれき》とはこのことだね。一体何がどうなってこうなったのか、とにかく最初から説明して貰わなくっちゃあ。だいたい、殺人者も死者もいない殺人って、そんな馬鹿なことがあるもんじゃないよ」
羽仁がそう尋ねたのも無理ない話で、情勢はまことに奇妙なものだった。緊急の集合令で、その場に居なかった曳間、ナイルズ、ホランド、羽仁が駆けつけ、ここ、目黒区は緑ケ丘の布瀬邸にファミリーの全員が揃った訳ではあるが、現場に居た者達が口ぐちに事情を説明しようとするその内容が、密室殺人が起こった、殺されたのは真沼だ、だがしかしその屍体はない、と、要領を得ないこと|夥《おびただ》しい。ついに業を煮やした羽仁がそう尋ね返したのだが、すると布瀬が勿体ぶった咳ばらいをひとつしてみせて、
「それでは不肖、この吾輩が御説明致しますかな」
部屋履きに愛用している白のモカシンをちらつかせるといった、いつもの|気障《きざ》ったらしさを隠しもしないまま、そう前置きして語り出した事の顛末は、次のようなものだった。……
七月二十四日、火曜。夏休みも一週、二週と日がたつと、皆それぞれに暇を持て余し始め、毎日のように誰かの部屋に集まって他愛もない会話を交わすというのが彼らの習慣となっていた。この日もその例に洩れず、布瀬の『黒い部屋』を借りて集会が持たれた訳である。
といっても、集まりの時刻も決めぬまま寄り合うのがいつものことで、最初の客である真沼が布瀬邸を訪れたのが午後一時、最後の訪問者である根戸より三時間前だった。
布瀬邸は羽仁のお屋敷ほどの豪邸ではなかったが、布瀬の部屋が本棟からは五メートルばかりの板敷の通路に隔てられた離れになっているので、友人達が集まるのには都合がいいのである。そこには部屋がふた間あり、一方が壁から絨毯から一面黒で塗り潰された、所謂『黒い部屋』で、そこを通り抜けると、寝室を兼ねた書斎があった。どちらの部屋の本棚にも、ずらりと夥しい量の書物が並んでいて、事実、布瀬はこのファミリーのなかでもいちばんの蔵書家だった。
ほかの者がまたまだ訪れる気配もなく、真沼はつと立ち上がると、所在なげに本棚の一角に向かった。
「ねえ、ここには何か、ホフマンのものがある?」
「ホフマン?……さあてと、本はないが、書斎の方には昔の『新青年』が並んでいるから、そのなかから捜すなら遠慮せずにやって貰いたいね。ちょいと読みづらいとは思うが……」
「そう。それじゃあひと捜しするか。……それにしても『新青年』が揃ってるってのは凄いね。僕はそれほど探偵小説マニアではないからいいけど、ほかの奴はさぞ羨ましいことだろうな」
「そのようではあるな。死んだ|祖父《じい》さんが我々に負けぬ好き者であったのは、全くの|僥倖《ぎょうこう》というほかないね。吾輩はどうもその祖父さんの血をいちばん強く受け|嗣《つ》いだらしいのだよ。……あっは、尤も、おかげで彼の|狷介固陋《けんかいころう》な気性をもバトンタッチしちまったらしいんだがね」
「あっははは、言えてるね」