饭饭TXT > 海外名作 > 《匣の中の失楽(日文版)》作者:[日]竹本健治【完结】 > 【《匣の中の失楽(日版)》@txtnovel.com.txt

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作者:日-竹本健治 当前章节:15344 字 更新时间:2026-6-23 02:20

 笑いながら奥の書斎へ逃げこむようにはいると、真沼はばたんと扉を閉じた。何秒もたたぬうちに、ベッドのそばのステレオをつけたのだろう、微かなバロックの調べが布瀬の耳を|擽《くすぐ》った。バッハの『小フーガ』だった。

 パイプオルガンの壮麗な旋律を自分でも口ずさんで、布瀬はこちらも本棚から一冊の本を取り出した。昨日から読みかけの魔法書が、あと数十ページの処まで来ているのだ。

 占星術、錬金術、黒魔術·サバト·グノーシス、|新《ネオ》プラトン主義、隠秘哲学、悪魔学、薔薇十字、フリーメーソン等々、西洋の秘教的な系譜のなかで、布瀬が殊に興味をそそられるのは、カバラと呼ばれる不思議な術だった。それはユダヤ教の聖典の研究より端を発した、記述の裏側に隠された真理を読み取ろうとする、|恣意《しい》と教条に|充《み》ちた学問である。語句の綴り変えや文字と数字の置き換え、その数字の操作等といった様ざまな方式を駆使したあげくに、彼らは全世界の組織や神の名、天使の名を発見し、天使軍の総勢を三億百六十五万五千百七十二名とまで|弾《はじ》き出している。布瀬は、この言葉と数字の操作に費された夥しい量のエネルギーを思う時、何か|啻《ただ》ならぬものを覚えて戦慄しなければならなかった。それはまさしく、|晦冥《かいめい》に|捧《ささ》げられた、狂おしくそして|静謐《せいひつ》な祝祭と言えなくもない。

 布瀬はそうして本を膝の上に開いたまま、何ページも読み進まぬうちに、自分達ファミリーのことを考えていた。そうだ、静謐な祝祭。それは『いかにして密室はつくられたか』を読む以前から、布瀬の脳裡にもつき|纏《まと》っていたイメージだった。それにしても、あのナイルズの小説は我々ファミリーの未来に投げかけられた黒い影と、どのような関係を持つというのだろうか。ナイルズに先を越されて、後から彼の提出した謎を解かねばならぬ立場は、布瀬の自尊心にとってはあまり好ましくないものだったが、とまれ、彼としてはその解き難い謎を解かねばならないのだ。そうだ。それこそカバラ的にであれ何であれ、とにかく解き明かさなくてはならない。

 ――あの小説のなかで、いちばん確固とした不在証明を持たされていたのは、ほかならぬこの吾輩だったようだが、まさかそのことが何かを暗示しているのではなかろうな。

 そういった、妙な|虞《おそ》れのようなものを感じる一方、布瀬には、何を馬鹿な、と冷笑したい衝動もやはりもう一方にあって、どだいナイルズのような若僧に、未だ起こらざる犯罪の真相を先取りするようなまねができる筈もなし、さすればあれはやっぱりただのフィクションでしかないのかも知れないと、ひそかに頷いてもみるのだった。だいたい先日のあの小説を読んだ時には差し控えたのだが、幾つかの不満もやはりあって、さかさまの密室などと偉そうに|能書《のうがき》だけはたれているが、結局のところ、犯人にとってはやすやすと出入りのできる情況であれば、最早密室でも何でもないではないかという点もそうである。しかもそれ以前の、肝腎|要《かなめ》の、登場人物も設定も現実そのままの実名小説であるというふれこみからして不審な点が多く、布瀬には納得できなかった。だいいち、自分がいかにもぎすぎすとした小悪人ふうに描かれていること自体気にくわない。メフィストフェレス並みの風格で描けとまでは言わぬにしても。

「ふむ。その点、甲斐などは随分現実よりよく描かれていたな。あの小説では杏子が根戸に寝返ったかの如く書かれていたように思うが、はな[#「はな」に傍点]っから相手にされてないに決まっているものを。ナイルズの奴、さすがにありていに書くのは|憚《はばか》られたのか。……それとも、何か理由があっての脚色でもあるまいに」

 そうこう考えを巡らすうちに、第二の訪問客が到来した。不意に、微かな扉の|軋《きし》みが聞こえて、うっそりとはいってきたのは倉野だった。

「おや、今日は僕がトップ·バッターなのかな」

「いやいや、とっくの昔に真沼が来とるよ。あちらの部屋にいる」

「なあんた。やっぱりね。……おや、チューナーからプレイヤーに切り換えたようだな」

 いかにもその時まで流れていた人の声がぶっつりと途切れ、ややあって聞こえてきたのは、パッヘルベルの『カノン』だった。

 それから十分もたたぬうち、雛子と杏子が、さらにしばらくして四時前には影山もやって来て、都合六人が集まった。そのうちの最後に訪れた影山は脇に大きな紙包みを携えていて、はいってくるなり、その太い黒縁眼鏡を押し上げながら、

「皆さん皆さん、手にはいったんですよ。これ。日本で手にはいる恐らく最も詳細な数表」

「スウヒョウ? 何だいそりゃあ」

「何だいそりゃあじゃないでしょう。数表と言ったら数表ですよ。ホラ、たとえばその、対数表とか乱数表とか円周率の数値とか、あるでしょう」

 小さい体を急がしく動かして、いとも焦れったそうにことの重大さを説明しようとするのだが、いかんせん、特殊な人間には宝石よりも価値のある本としても、ほかの者が興味を持たねばならぬ道理もなく、反応は影山にとって|甚《はなは》だ不本意なものだった。

「数表は判ったけど、一体それがどうしたというんだね」

 |訝《いぶか》しげに尋ねる布瀬に、

「ああ、何てこったい、この面々とはお話もできませんなあ」

 と、地団駄を踏んで、

「そういえば、数学者の根戸氏はまだ来られてないんですか」

 そうやって尋ね返すさまは、どう|贔屓眼《ひいきめ》に見ても未来の大物理学者と言うよりは喜劇役者の風貌が強い。

「ああ、まだだよ。残念だったねえ、興味をわかちあう者がいなくって」

「あら、それは失礼よ。あたしだって見てみたいわ。……ねえ、影山さん、それどういうの」

「ウム、さすがは雛子さん、布瀬氏や倉野氏とはひと味違う。まあひとめ御覧あれ」

 そう言って紙包みを解き、なかから厚ぼったい紙綴りを取り出した。

「これはさっきも言った通り、日本で手にはいる最も詳細な数表の複写なんですよ。しかも抜粋ではありますけども、小生にとって興味深い処は洩らさずに集めてありますからして……そう、こいつは小生にとって、それこそウィチグス呪法典よりも貴重な|稀覯《きこう》本なんですよ。なかでも圧巻は、円周率の百万桁数値でしてね。ホーラ、見てくださいな、この数字の行列。小生はもう、こいつを見ているだけでゾクゾクしちゃうんですよ。それからこちらは自然対数の底eの百万桁。それから……これが小生の最も興味ある部分なんですが、完全数の表、そして根戸氏が知りたがっていた友愛数の表。……いやあ、たまりませんなあ」

 そう言いながら、さもいとおしそうに数字の上を撫でまわす様は、どうもほかの者の理解を越えていて、雛子でさえもがこれでは話にならぬとでもいったふうに、ちょっと呆れた顔をしてみせた。その時、

「何だ、あの音は」

 真先にそれに気づいたのは倉野たった。漆黒に封じこめられた|匣《はこ》とも見える『黒い部屋』のなかに、その奇妙な音は微かに響いていた。何千何万という白蟻が一斉に木材を|食《は》むような、あるいは同じくらいの羽虫の大群が|蜚《と》びかうような、わーんという、高い、絶え間のない唸りだった。それは隣から流れている『悪魔のトリル』のバイオリンの音に混じって、確かにはっきりと聞こえて来る。

「書斎からじゃないの」

 こともなげに言う杏子に、布瀬は、

「どうもそうらしいな。しかし、何の音だろう」

 半ば呟くように言って、首を傾げながら扉の方に近づいたら

「おい、真沼、だいぶ集まったから、そろそろ顔を見せてもいいだろう。――オヤ、鍵までかけてやがる。オイ、真沼。真沼!」

 二、三度扉を叩いて返事がないのを確かめると、

「変だな。ほんの十分前にレコードをかけ換えたんだから、眠っちまった訳でもあるまいに。しかし、それにしても鍵までかけるとは……」

 ぼんやりこちらを振り返ると倉野も、

「ぼくもさっきノブをまわしてみたんだ。やっぱり鍵がかかっていたよ」

「あら、あたしの時はかかってなかったわ」

 意外なことを言い出したのは雛子だった。

「何。雛ちゃん、向こうの部屋にはいったのかい」

「ううん、覗いてみただけ。真沼さん、雑誌を読んでたわ。ほんのついさっき、影山さんがはいって来た時よ」

「何だって。僕がまわして開かなかったのは十五分ほど前だよ。そうすると、真沼の奴、いったん鍵をかけておいて、はずし、またかけたってことかな。妙だね。そんなことってあるのかなあ。……おや、そういえば、さっきの変な音も、もうやんだみたいだね」

 いかにも『悪魔のトリル』だけは、依然その妖しい調べを伝えてはいるが、虫の唸りのような高い音は、いつの間にかなりをひそめていた。奇妙な音が聞こえていたのは、ほんの一分くらいのものだろう。

「変だ。変だぞ。あんな音を立てるものなぞ、吾輩の部屋にはない筈なのだが。どうも厭な予感がする」

「鍵はないんですか、布瀬さん」

 影山もそろそろ不吉な空気を感じ取ったのか、オドオドと声をかける。

「家の方に合鍵がある。よし、では取って来るか」

 そう言って|蒼惶《そうこう》と立ち去ろうとした布瀬の鼻先に、その時甲斐が扉を開いて現われた。不意の睨み合いに面喰らった甲斐は、その醜悪な面貌をさらにくしゃくしゃにして、ぶつぶつと訳の判らぬことを呟いた。

「どうしたというんだ」

 布瀬が姿を消した後、ようやくそう尋ねる甲斐に、自分だけ椅子に腰かけたままの杏子が、

「甲斐クン、あなた達の大好きな殺人事件が起こったのよ。それもどうやら密室殺人とやららしいわ。今からその現場検証なの。運が良かったわよ、あなた」

「サ、サ、殺人だって、冗談だろ。誰が殺されたっていうんだ」

 倉野は手短かに事情を語って聞かせた。説明し終わった頃に布瀬も戻ってきて、一同はざっと扉の方に集まった。

 杏子が殺人という言葉を口にのぼらせたために、皆、不思議な昂奮に包まれていた。布瀬が鍵を鍵穴にさしこみ、ガチリとまわすその一瞬一瞬に、金属と金属が噛み合い、牽引し、互いに滑走する、そのひとつひとつの動きが手に取るばかりに伝わった。

 ピンと掛金がはずれ、急いで開け放たれた扉の先は、聖書に描かれるゲヘナの炎に映し出されたような圧倒的な光に包まれていた。

 無論それは、『黒い部屋』に慣らされていたために起こった錯覚だった。その明るい輝きのなかに踏みこんだ布瀬達は、最初、ことの事情がよく呑みこめずにしばらくぼんやりしていたが、彼らが想像していたよりもはるかに不可解なその事態に気がつくと、|驟《にわ》かに異様などよめきに包まれた。

 部屋のなかには、誰もいなかったのである。

 誰もいない部屋。

 ただそれだけのことが、こうまで恐ろしい意味を持つとは、布瀬は思ってもみなかった。部屋の西方に据え置かれたベッドの上にほんの今の今まで読まれていたかのように開かれている『新青年』。扉の真向かいに配置されたステレオで、たった今演奏を成しとげ、静かに自動装置によって空を滑ってゆくトーン·アーム、ベッドの先にある窓は嵌めこみ式で壁にしっかりと固定されており、斜めに開く空間も、決して人間の出入りできる余裕がなく、おまけに内側からぴったりとかけられたロックは、到底外側から細工ができるようなしろものではない。もう一方は本棚のある東側だが、こちらに至っては窓とも言えないようなもので、ぶ厚い硝子がそのまま|漆喰《しっくい》に埋めこまれているだけの明かり取りだった。そんな文字通りの密室のなかで、真沼は|忽然《こつぜん》と消え去ったのである。

「おい。血だ!」

 倉野がいち|迅《はや》くその異常を発見して叫んだ。全員が振り返って倉野の指差す先を見ると、そこには大きな方形の鏡が立てかけられてあり、その鏡面には真赤な血|飛沫《しぶき》が美しい模様を描いて流れていた。

 無惨な、しかし魅惑的な血模様。

 これら総てが悪戯な|牧神《パン》の仕業としても、それはあまりに静かな恐慌だった。

 そうこうするうちに根戸も遅れて訪れ、事情を説明した後、これからどうするか話し合い、取りあえずファミリー全員を緊急集合させることになった。そうして甲斐が書斎にある電話で、ナイルズ達と羽仁の処に集合令をかけたのだが、説明の仕方がまずかったらしく、後は呼び出された四人達の知る通りだった。……

「ふうむ、すると、真沼は消えたんだね」

 あたり前のことを言って、羽仁は腕を|拱《こまね》いた。それをひきとって倉野は、

「そうなんだ。確かに、殺人があったかどうかは判らない。しかしいずれにせよ、まさに眼の前で、こんなにも鮮やかにやられるとは……。全く、あまりにも鮮やかすぎて、本当のところ、まだ信じられない。夢を見ているような、いや、眼醒めたくせにさっきまで見ていた夢をまだ信じてるような、変な気分だよ」

 そう言いながら、しきりに額に手をやったり眼を押さえたり、落着かない様子である。

「倉野までがその有様か。ふうむ。真沼の奴、ホフマンを読んでいて自分でもちょいと何か――風のようなものに変身したくなった訳でもあるまいに。僕は心理学は心理学でも超心理学という奴の専門じゃあないんだよ。……ふうむ」

 曳問はそう言って、もう一度書斎のなかを見まわした。縦一·五メートル、横一メートルほどの大きな鏡に付着した血糊は、既に赤黒く変色している。

「布瀬。この血痕のほかには、何か異常はなかったのかい。何かなくなっているとか。……僕達が来るまでにたっぷり時間はあったんだから、当然調べ終わってるんだろう」

 本棚の前を歩きながら尋ねると、布瀬は|苛々《いらいら》と髭を撫でながら、

「ああ、なるたけ細かく調べてみたよ。別に異常はない。真沼と一緒に消えちまったものもないし、どこからか突然に降って湧いたものもなしだ」

「真沼は|鞄《かばん》か何か持っていなかったかい」

「特に何もね」

 ふうむ、と再び唸ってみせて本棚の方から戻って来ると、

「勿論、そのベッドの下も……」

「どれ」

 曳間が床まで垂れた毛布を|捲《めく》ってみせると、ナイルズと羽仁も一緒に覗きこんだ。青緑の|毛氈《カーペット》が木製の寝台に遮られた薄暗がりのなかにのびて、充分に人ひとりがはいれるだけの空間があることは判ったが、勿論真沼の姿などどこにもない。

「秘密の抜け穴なんてのがある訳もなし、全く完璧な密室だね。ああ、何だか寒気がしてきちゃった」

『黒の部屋』の方に戻りながらそう言ったナイルズは、ホランドの方を振り返ると、実際にぶるっと体を顫わせた。その日は、ナイルズとホランドは色違いの同じサマー·セーターを着こんでいて、ナイルズが赤茶、ホランドが青緑という対照になっていた。薄暗い『黒い部屋』のなかでは、どちらかといえば、今、視線を返されたホランドの方がより目立った。

 曳問は今度は現場に居た者達をひとりひとり見まわした。皆どことなく夢見心地で、ぼんやり立ちつくしたまま、あるいは『黒い部屋』の方で椅子に沈みこんだまま、じっと一様に押し黙っていた。倉野は前述の通り、根戸もどことなく落着かず、杏子に至っては、自分が口にした密室殺人がどうやら冗談ではすまされなくなった恰好なので、やはり相当のショックを与えられたのだろう、椅子に|凭《もた》れこんだまま|俯《うつむ》き、時どき気弱そうに根戸の方を見上げるだけだった。面白くなさそうにその杏子と根戸を見較べる甲斐は、しきりにぶつぶつと呪文のような独語を呟いて、うろうろと歩きまわっている。そんななかでいちばん平静を保っているのは意外にも影山と雛子で、椅子を向かい合わせて、ぶ厚い数表を抱えこんだまま、ぼつぼつと事件のことを話し合っていた。曳間の眼には、この眼鏡猿のような影山と、アリスのような雛子とのコンビも極めて捨て難い味があった。

「どうだい、根戸。心理学からは解釈のしようもないが、数学者先生としては、この1=0の数式をどう説明するね」

 曳間に呼びかけられて、根戸は短い髪をばりばりと掻き|※[#「手偏+少+毛」、第4水準2-78-12]《むし》ると、

「1=0か。ううむ、参ったなあ。……数式に限って言えば、1-1=0の後の方の1が我々には見えないのだ、と、そんなことしか言えねえな。……それよりも影山に訊いてみろよ。現実世界を扱うのは数学よりも物理学者の領分だろ」

 お鉢を向けられてぴょこんと顔を上げた影山は、もじもじと困ったように、

「とんでもないですよ。小生は飽くまで見習い探偵ですからね。名探偵方をさし置いて、そんな。……そうですねえ、物理学的見地から見れば強引に解釈づけられなくもないですけど、どうしてもSF的にしかなりませんよ。例えばさっき雛子さんと話していた、ちょっと面白い見立て[#「見立て」に傍点]なんか……」

「見立て[#「見立て」に傍点]だって」

「ええ、つまり、この『黒い部屋』をひとつのブラック·ホールに見立ててみるとすんなり解釈できるでしょう。いったんそこにはいると二度と出てこれないという、あのブラック·ホールにですね……」

[#ここから3字下げ]

3 第四の扉

[#ここで字下げ終わり]

 その時『黒い部屋』のなかで、ゆるゆると時間はその歩みを留め始めたようだった。この世界を内側から動かし続けている時計仕掛けが毀れ、発条が、歯車が、リンクが、テンプルが、わらわらとほぐれてゆく、そんなイメージだった。強い重力場のもとでは、弱いそれに較べて時のたつのは遅くなるということだが、この部屋がブラック·ホールそのものであるならば、そして彼らはそのことを知らされぬままに、この不可侵領域に踏みこんでしまったのだとするならば、それもあながち幻想とばかりも言えないだろう。尤もそういう効果が観察できるのはこの部屋の外にいる第三者の眼から見た場合に限られるのであって、その場に居あわせている曳問達自身が時間の遅れを感じることなどあり得ないにしても。

「ブラック·ホールってのは終末論なんかと結びつけられて、妙に誇張されて流布されたおかげで、今や一般常識にまでなってるようですから、小生がここで殊更に講義することもないと思いますが、念のため簡単に説明させて頂きますと、要するに物質が極端な高密度に圧縮された場合、あまりに強い重力のためにそこからなにものも――光さえもが抜け出られなくなってしまうんですが、そんな、総てのものを呑みこみ続けて、しかも決してそこから外に出られないような面妖な空間をブラック·ホールと呼ぶんですね。こいつは理論的には、アインシュタインが一般相対性理論を発表した直後に、シュヴァルツシルトという学者がその重力方程式の厳密解というのを発見し、その解によって予想されたんですが、いやはや、この重力方程式を解くことがまた大変なのでしてね。よくある二次方程式の解法なんてのと訳が違う。このなかでは根戸氏のほかにはちょっと理解できるひとがいないと思うんですが、重力方程式ってのは数式で書けば、

<img src="img/hako_05.jpg">

というんですが、この10個の独立成分を持つ関数gijに対する連立偏微分方程式は非線型の方程式なので一般的な解法はできないのですよ。シュヴァルツシルトはそこで、〈真空中での場の方程式〉を〈時空が球対称でかつ時間的に変化しない〉という特別な場合を条件として解いたんですね。結局その厳密解は、

<img src="img/hako_06.jpg">

……なんだか解を求めると言って、わざわざ数式をややこしくしているだけのようですけどもね。そうして厳密解はこのシュヴァルツシルトのもののほかにも、与える条件によってワイル解とかカー解とかいうものがありまして、それに応じて当然ブラック·ホールにもいろいろ種類があるとされているんですが、――あは、こいつはどうもちょっと専門的に過ぎたかしらん。閑話休題、この妙ちきりんなブラック·ホールというのが、理論ではともかく、それでは実際に存在するのかどうかという点ですが、現代の天文学の強力な武器である電波望遠鏡等の発達によって、どうやらそれらしいのが見つかったんでしてね。それは白鳥座の方向にあるCygX――と呼ばれるX線星で、別のBO星HDE226868という太陽の二〇倍ほどの質量の青い星と連星をなしているんですが、はあ、どうもこいつが質量の関係とかX線の反射の変動のぐあいから、ブラック·ホールに違いないだろうと考えられているんです。勿論、光さえ離さないブラック·ホールのことですから、眼には見えませんよ。……はてさて、この『黒い部屋』が一時的にそういったブラック·ホールのような状態になったとするならば、真沼氏は光さえ戻ってこられない領域のあちら側に踏みこんでしまって、もう二度と姿を見せることはないと考えられるんですが。どうでしょうかね」

 ながながと――しかし影山にとっては、まだまだ語り足りぬ皮相的な解説なのだろうけれど――続けられた講義がひと段落つくと、布瀬はすかさずいちゃもんをつけ出した。

「『|黒い部屋《ブラック·ルーム》』をブラック·ホールに|喩《たと》えたのはなかなか面白い発想だが、しかし、それにしてもちょいと不都合な点があるぜ。お前の言によれば、真沼はこちら側の部屋で消えねばならんが、実際に蒸発しちまったのはあちらの書斎の方だったではないか。向こうは決して『黒い部屋』ではないのだがね」

「あっはは。こりゃあいけません。そう言われると一言もない。……うーん、じゃあ逆に考えたらどうかしら。ブラック·ホールに呑みこまれたのは真沼氏ではなく我々のほうだったと……」

「ふふん。まあ、喩え話はそれくらいでいいではないか。問題は常に、現実のほうにあるのだからな」

 影山の話をいともあっさりと一蹴しておいて、布瀬は次のように言葉を続けた。

「とにかく、真沼があれだけ見事に消え去ったのならば、犯人が出はいりしたと考えてもおかしくない。あたり前に考えれば、総てが真沼の悪戯だったと解すべきなんだろうが、しかしあの真沼がそんなことをするとも思えんし、だいいちあいつはそれほど探偵小説狂でもなかったからな。吾輩はそもそも『一人二役』とか『首なし屍体』とか、それから今度の『消えた屍体』とかは、類型的になるからあまり感心しないのであってね。……が、まあ既に起こってしまった事件に文句をつけても|詮《せん》なきことか」

「ちょ、ちょっと」

 再び口を出したのは影山だった。相変わらずぶ厚い数表を抱きこんだまま、えへえ、と笑って、

「ブラック·ホールじゃあないですけれど、犯人の出入りに関しても、現代物理学からの解釈が成り立つんですよ」

「ほほう、というと」

「出入りできる筈のない密室のなかに、ちゃんと形も重みもある肉体の|具《そな》わった人間がやすやすと侵入する。これは我々の眼に見えぬ索粒子の世界では、似たことはしょっちゅう起こってるんですね。物質のなかに封じこめられているべき電子がその表面にぽろぽろ温れ出たりするのはその二例で、これは素粒子ほどの小さいものはその位置と速度とを同時に測定し得ない、言い換えれば素粒子の振舞いは確率的にしか記述できないという〈不確定性原理〉に由来するんです。つまり、Aの点に居るかと思えばBの点にも居るという不確定性をそもそも素粒子はその性格として持っているということなんですね。ですから当然、その素粒子によってつくられたもっと大きな物質も、ごく眼立たぬほどながらも不確定性を具えている訳なんですよ。はい」

「おいおい、何だと思えば、また喩え話かね。それでは先刻のブラック·ホールとたいして変わらんではないか」

 そう布瀬に攻撃されてひるむかと思えば、影山は眼鏡を押しあげて照れ笑いを見せながらも、意外な反論を展開した。

「いやあ、でも、これは比喩でも寓話でもないんですよ。ちゃんとした量子力学というものに裏付けされた話でしてね。さっき言った電子が物質の表面を通り抜けるような現象をトンネル効果というんですが、勿論、人間がそういうトンネル効果でもって壁を通り抜けるという場合には、その確率はほとんど|零《ゼロ》に近いほどの小さなものになるとしても、やはり確率的に起こり得る[#「起こり得る」に傍点]ことなんですよ。あの部屋くらいの壁なら、まあ小生程度の体の持ち主がどれほどの確率で通り抜けられるかというと、数字で表わせば1/10^24/10つまり1のあとに0が10の24乗個くっついた数字だけの回数壁にぶつかってゆけば、そのうちの二回だけは通りぬけられるということなんですよね。これは全くたいへんな数字で、この数字は普通の十進法で表わそうとすると、今までに世界中で発行された本という本総ての活字を0に直したとしても到底追いつかないというとてつもない[#「とてつもない」に傍点]ものなんですよ。ですからしてこの文字通り桁はずれの数字が表わす数というのも当然べらぼうなもので、それはこの全宇宙をあの小さな電子でびっちり埋め尽くしたとしても、その場合の電子の個数など、もう全く比較にならないほど|莫大《ばくだい》なものなんです。あっははは、宇宙論的スケールからも大きくはみ出してしまったこういう話もなかなか面白いでしょう? 1/10^24/10というたったこれだけの数字が、こんなにも、宇宙にも納まりきれぬ数を表わす――ってところが、小生の覚える、何とも言えぬスリルである訳ですよ。そうしてこれだけの回数壁にぶつかってゆけば、そのうちのたった二回だけはするりと壁を通り抜けられるだろう、というのが現代物理学の結論なんです。……尤もそれだけの回数ぶつかるうちに、宇宙は忽ち滅亡しちゃいますけどもね。しかし、そのたった二回が、さっきのあの書斎で起こったとしても不思議でない。これは数学的に許されることなんですよ。ねえ、根戸氏」

「ああ、そういうことだね」

 根戸の返事を待ってぐるりと周囲を眺めまわした影山は、既に眼鏡猿どころではなく、科学的な思考法でそれまでの錬金術の流れを変えたというパラケルススの風貌さえ窺われた。

「しかしだね、そのことは逆に言えば、密室に人間が出入りできる可能性がいかに少ないかという反証にほかならないとも取れるだろう」

 と、すかさず曳間が返した言葉にも、

「あはは、その通りですよ。勿論小生も、実際に犯人がトンネル効果によって、するりとコンクリートの壁をすり抜けたのだ、なんてことは信じてませんから。これは|飽《あ》くまで可能性だけの問題です。はい」

 こともなくそう言ってのけると、影山は深ぶかと滑らかな革貼り椅子に体を沈めこんだ。彼はそうやって話の主導権をすっかり預け渡し、これからは皆の会話を聞く側にまわるのだというふうに、眼鏡の奥で眼を細めた。

 物理学を楯に執った|眼眩《めくら》ましに幻惑され、皆、一瞬言葉を失っていた。影山がこのように自らの|造詣《ぞうけい》の一部を披露するのは初めてだったが、それも眼の前に黒ぐろと影を落とした不可解な事態からくる昂奮の成せる|業《わざ》なのだろう。

「影山さんのトンネル効果は別にしても、あの部屋に何か信じられないようなことが起こったことは確かだろうね。この『黒い部屋』との間の扉と、ふたつの窓のいずれでもない、言わば〈第四の扉〉が、あの部屋のどこかにぽっかりと口を開いたんだよ。みんなが聞いたっていう奇妙な音が、それとどんな関係があるのかは判らないけど、少なくとも全く無関係じゃあないだろうし」

 そう言い出して、とにかく、と言葉を続けたナイルズは、

「影山さんの話でようやく僕にも、何でもないところに不意に|陥穽《おとしあな》が開くという、この宇宙の横顔が見えてきたような気がするよ。さて、問題はその〈第四の扉〉が、いつ、どのようにして開いたかだけど」

 勿体ぶってそう言葉を切った時、堪えきれぬように胴間声を張りあげたのは甲斐だった。

「オイオイ、お前達!どうにも気に喰わんなあ。ブラック·ホールはまだいいにしても、重力方程式だの、トンネル効果だの、あげくの果てに〈第四の扉〉だと。……ヘッ、お前達、何か勘違いしてやしないかね。近頃流行のオカルティズムの研究でもあるまいし、非合理な発端とやらも結構だが、あんまり度が過ぎるとゲップが出る。探偵小説狂も間違った方向に|赴《おもむ》くと現実を無視して勝手な妄想に|耽《ふけ》りがちだという、こいつはいい見本だぜ。だいたいからして俺は、ナイルズの書いた小説から気に喰わないんだ。ありゃあ何だい。アリバイ較べの場に俺が登場してないのはまだしもだったが、登場人物達の交す会話の勿体ぶったことといったらないね。〈さかさまの密室〉とやらも至って貧弱なものだし、おまけに現実を封じこめる小説などと大層なことをおっしゃる割には、どうだい、現にこうやって事件が起こっちまってるじゃあないか。そういうことはドストエフスキーかバルザックくらいの文オを身につけてから言って貰いたいね。それなのにさっきの話でも、みんな、まるでナイルズの小説の口振りをそっくり猿真似してるようだぜ。探偵小説狂が十人も揃っていて何てこった。あッというまに立ちどころに解決して見せようという気が、まるでないんだからな」

 気に喰わないのはそれだけの理由ではないのだろう。

 ナイルズの小説にまで手ひどい|罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせておいて、甲斐は苛々と肩を揺すらせた。布瀬は、そんな甲斐を瞶める杏子の冷やかな視線に気づくと、ひそかに肩を竦めずにいられなかった。ナイルズの小説と現実との最も大きな相違点というのが、ほかならぬこういった甲斐の人格なのである。

「解決する気がない訳じゃあないわ。そのためにはもう一度、事件の時間関係をはっきりさせなくっちゃあ。あたし、表にしてみたの。これで間違いないかしら」

 先程から何やら紙に書いていた雛子は、そう言って表を彼らの前に差し出した。

 午後1:00 『黒い部屋』に真沼来る

 2:00 真沼書斎ヘチューナー(『小フーガ』)

 3:30 倉野来る プレーヤー(『カノン』)

 3:35 倉野扉のノブ回す 鍵がかかっている

 3:40 杏子·雛子来る

 3:50 影山来る 雛子書斎を覗く 鍵はかかっていない

 3:55 書斎から奇妙な音 プレーヤー(『悪魔のトリル』)鍵がかかっている 甲斐来る 布瀬合鍵を取りに出る

 4:00  書斎にはいる 真沼消失 鏡に血模様

 4:05  根戸来る 曳間·羽仁·ナイルズ·ホランドに集合令

 5:00  四人来る

 …………

「だいたいこんなものだと思うんだけど」

「ふむ。いや、なかなかよくできてるじゃない。うん、これで非常に推理がしやすくなる」

 曳間が言うと、甲斐もそれにひっかぶせるように、

「そうそう、これこそ探偵的態度というべきだよ。ひとつひとつ解決に向かって進む。意味もない物理学談義などとは大違いだぜ」

 |完膚《かんぷ》なきまでに|貶《けな》しつけられた影山は、ウェーブのかかった頭を掻きながら、

「あっははは、こりゃあどうもいけませんなあ、ついつい調子に乗って余計なことを喋りすぎちゃって……。それでは名誉回復のために、ちょっとは建設的なことでも述べておきますか。……雛子さんのこの表には不完全なところがあると思うんですよ。この表の午後一時以前のことも、なかなか重要だという気がしてならないんですが。はい」

「ふむ、とりたてて怪しいことは何もなかったが、お望みとあらば……」

 布瀬が説明し始めたのは、次のようなことだった。

 八時頃眼を醒ました布瀬は、十一時近くまで書斎にいて読書に耽っていた。窓を僅かに開いて、その|秋霜《しゅうそう》たる外気を楽しみながら――とは布瀬の弁であるが、確かにその頃の平均気温を大きく下まわったその日の空気はすがすがしいもので、そのためにか読書も|捗《はかど》り、十一時までに一冊読み上げて、さて、昨夜からの読みかけの、|手強《てごわ》い魔法書の方にとりかかるかというところに、母親からの昼食の報せがあった。

 中庭の|石持草《いしもちそう》がなかなか見事だということで、母親が鉢に植え換えたのを持って帰ったのが十二時半、その時も書斎にも『黒い部屋』にも別に異常はなく、一時頃に入口の脇のトイレに用をたしに出て、戻った時にはもう既に真沼が『黒い部屋』の革貼り椅子のひとつに座を占めていた、ということだった。それからそのまま『黒い部屋』でふたりは話を続け、一時間ほどして真沼が書斎にはいっていったのだが――。

「へえ、あの妙な草、イシモチソウっていうの。ひょろひょろっとした、面白い花だとは思ってたけど、なかなか見事だからって鉢に植えるほどとは、さすがに布瀬さんのお母さんだね」

「おっ、そりゃあ、どういう意味だい」

 眼を|剥《む》いてみせる布瀬をまあまあと|宥《なだ》めておいて、羽仁は思い至ったように、

「そうそう、表を見ていて想い出したんだけど、あの扉の普段使っている鍵はどこにあったの」

 そう言うと、相手もはっとしたように、

「おう、そうじゃ、肝腎なことを説明するのを忘れとったわい。鍵はいつもベッドの上の|抽斗《ひきだし》にしまってある。合鍵で我々がはいっていった後にも、やはりそこにあった」

「合鍵はほかにないの」

「この鍵はそこいらのものとちょいとでき[#「でき」に傍点]が違うんでね、合鍵を造るといっても簡単にはいかないぜ。人に貸した憶えもなし、まあないといっていいね」

 そう言いながらポケットから取り出した黄金色のそれは成程複雑なもので、直線の上に重ねてアール·ヌーヴォー風の曲線がいり乱れるという、いかにも迷宮めいた装飾が施されていた。まさしくこの鍵自体が、今度の事件の謎の深さを象徴しているのではないかとさえ思わせた。

 その時、不意に今まで黙りこくっていたホランドが、

「それ、ちょっと貸して」

 と言いだした。何気なく布瀬が鍵を手渡すと、皆の怪訝な視線のなかで、さっと隣の書斎の方に走っていったかと思うと、瞬く間に扉の陰に隠れ、ピンと錠をおろしてしまった。

「おい、ホランド?」

 全くそれはあっという間の出来事で、二同は呆気にとられたまま、どうすることもできずに鎖された扉を眺めた。

 何を演じてみせるというのか。またもや眼の前で、現実に起こり得べくもないことが起こるとでもいうのか。

 そんな不吉な戦慄が背中を走り抜け、甲斐さえもが、ナイルズのいう〈第四の扉〉が部屋の向こうにありありとその姿を現わす様を見たような気がして、ぞくっと体を顫わせた。そうして、

「あの音よ!」

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