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賭け(一)
四月、高校に入学してそろそろ一ヶ月が経とうとするある日の放課後。貴彦は学校の側にある川沿いの道を歩いていた。桜並木が続く。
北国では桜の開花が遅い。やっと芽が赤く染まり、来月には咲き始めるだろう。
ひときわ太い幹の陰で待っていたのは同じ学年の少女。クラスは違うが貴彦はこの少女の顔と名を知っている。並外れた美人はあっという間に生徒達に知れ渡るものだ。
少女は貴彦がやって来るのに気がつくと、頬を染めてうつむいた。
お待たせ、用って何?
相手の言葉は既に予想がついている。貴彦も並外れた容姿の持ち主であり、このようなシチュエーションは小学校時代から慣れたものである。
少女は意を決した様子で顔を上げ、貴彦の思った通りの言葉を告げた。そして彼はもう何遍も繰り返してきた返事をする――。
翌日の放課後、貴彦は新聞部の部室へやって来た。本当は帰宅部にするつもりだったのだが、入学してすぐクラスメイトに誘われたのだ。特に断る理由もなく軽い気持ちで入部した。入ってみると部員は彼を含めて十数人、しかも半分近くが幽霊部員の小さな部。先輩達は偉そうにせず、和気あいあいと活動できるところが気に入っている。
部室は中央には大きなテーブル、丸椅子が十数脚あり、壁は戸棚と印刷機が占めていた。貴彦が入ると今日はまだ一人しか来ていない。彼を入部に誘ったクラスメイト、相馬広夢である。
「よう、一番乗り」
声をかけると広夢は顔を上げた。大人びた顔つきに黒い瞳が印象的な少年だ。
「おっ、掃除終わったのか」
「ああ。ゴミ捨てはまわってこなかった」
貴彦は掃除当番だったのだが、最後のゴミ捨てはじゃんけんで決めることにしている。
「今日は先輩達遅いの?」
「三年は補習あるってさ。受験生は忙しいもんだ。二年は修学旅行のミーティング」
「じゃあ一年坊主だけでのんびりとってわけ」
「そのとおり」
二人は目を見合わせて笑った。貴彦は同じ部ということもあり、入学してからは広夢と一番親しくしている。中学は別々だったが入学式の日に話しかけられ、何となくウマがあって新聞部にも誘われたのである。貴彦は彼を初めて見たとき、子どもの頃図鑑で見た黒ヒョウを思い出した。
テーブルには鞄の他に筆記道具とノートがあった。広夢は次の新聞に載せる記事を書いていたようだ。一年の初仕事は先生達へのインタビュー。内容をなるべく簡潔にまとめていたらしい。
「もう終わりそう?」
貴彦は広夢のすぐ横に立ちノートをのぞきこむ。
「ああ。あとでチェックしてくれ」
「センセイは誤字脱字はなさそうだけど」
「その呼び方はやめろって」
広夢はじろりと横目で睨んだ。「センセイ」というのは広夢の中学の同級生が使っていたあだ名である。廊下で他のクラスになったその生徒と話しているのをたまたま聞いたのだ。
「相馬に似合ってると思うけど」
広夢はフンと鼻を鳴らして抗議する。昔の同級生には気にせず呼ばせているくせに、なぜ自分は駄目なのか。貴彦には合点がゆかない。
広夢は顔だけでなく話し方や態度も落ち着いていて、あまり一年生らしくは見えない。「センセイ」というあだ名はうまくつけたなと感心していたが、貴彦が使うと本人は嫌がるのである。
「ところで蜂屋くん」
貴彦がむくれていると、ちょっとおどけた調子で広夢が言った。
「何だよ、なんか気味悪い」
「昨日、A組のマドンナを袖にしたらしいな」
「なっ……」
貴彦は一瞬で赤面した。
「そのへんのところ、今日はインタビューさせてもらおうか」
「お前がなんで知ってるんだよ」
「俺の情報網を甘く見るなよ」
広夢は勝ち誇ったようににやにやしている。
「ゴシップ記事でも載せる気か」
「記事にするわけないだろう、阿呆」
「そんなのわかってるよ」
貴彦は仏頂面で壁の方を向く。その様子を見ながら広夢は楽しそうに続けた。
「で、断った理由は? 他に好きな子でもいるとか?」
「……」
「中学から付き合ってる子がいる?」
「いや」
「じゃあ何で」
沈黙を続けながらも話そうかどうか考えていた。もし話しても広夢なら自分を馬鹿にしたりはしないだろうと思い、貴彦は口を開く。
「……誰にも言わないでほしいんだけど」
「オッケー」
「好きとかそういうの、よくわからないんだ」
「ふーん」
昨日告白してきた彼女はクラスが違うので一度も話したことはない。なのに自分のことを好きで付き合って欲しいなどと言う。貴彦にはそれが全然理解できなかった。理解できない相手と付き合うなど無理な話である。
そう話すと広夢は壁の上方に目をやりながら答えた。
「で、今まで誰とも付き合ったことないのか」
「ああ」
「お前、顔がいいから昔からもてたと思うけど」
「ああ」
広夢はぷっと吹き出す。
「正直なやつ」
「真面目に話してるんだぞ」
「悪い悪い。でも告白してきた子の中で、お互いよく知ってる子とかいなかったのか」
「いたさ。でも友達みたいだったのに急に好きだって言われてもな」
「……」
壁を見ていた広夢は貴彦の方へ向き直る。そして真剣な表情になった。
「要するに、モテモテの蜂屋くんは恋とは何か知らないわけだね」
「……相馬は知ってるって言える?」
「ああ」
「じゃあ教えてくれよ」
広夢はふっと目を細め告げる。
「電気」
「は?」
電気と聞いて雷やナマズが貴彦の頭に浮かぶ。
「恋とは体中を駆けめぐる電気のこと」
「……物理じゃないんだから」
「本当だぜ。試してやろうか?」
「試す?」
広夢はぱっと貴彦の手首を掴み自分の方へ引き寄せた。「何をする」と言い終わらないうちに、手の甲へ口づけされた。
その瞬間、手から全身に痺れが走った。
脈拍が一気に上がる。
広夢はゆっくりと手を離すと、にっこりと笑みを浮かべた。
「どう? わかったかな」
賭け(二)
それから貴彦の苦悶の日々が始まった。部室での一件の後、広夢を常に意識してしまう。しかし彼の態度は今まで通りで何の変化もなかった。
朝教室で顔を合わせるところから始まり、授業の間の休み時間、体育館や他の教室への移動、昼休み、放課後の部室、自分は常に広夢と一緒だったことに気づかされる。
話は普通に出来ているつもりなのだが、まともに目を合わせられない。肩や背中をちょっと触れられるだけでもどきりとする。それを相手に気づかれないようするのが一苦労で、貴彦は家に帰ると入学したばかりの頃より疲労感でいっぱいになった。
一人になるといろんな考えが襲ってきてはそれらに悩まされた。
あの痺れは本当に恋をあらわしていたのか、自分に恋が理解できなかったのは男に興味があるためなのか、広夢はふざけただけなのに何か気づいたらどうしようか……。
しかし何一つ答えが出ることはなかった。
数日が経ち、黄金週間の真っ只中の五月一日。貴彦と広夢は新聞部の三年から、今日と明日中に新聞を印刷し、各教室へ配布するよう命じられた。印刷は一年坊主の役目と伝統的に決まっているのだ。B4の紙の表裏に印刷するため、上下逆にならないように特に注意された。あとは各教室の配布物を入れる戸棚へ分けておくだけ。
広夢は中学でも新聞部だったので、大まかに説明されただけで手順を理解し、貴彦はその手伝いをするだけであった。
新聞部の部室に二人きり。どんな会話をしようか困る貴彦であったが、広夢はさっさと終わらせてしまいたいようで、ちょこちょこと指示を出す以外は黙々と機械的に作業を続けた。
印刷が終わり、クラスの人数分ずつ数えて仕分けする。付箋を目印に貼り二階の職員室へ二人で持って行った。職員室の入り口にある戸棚に、新聞を軽く二つ折りして入れていった。
「はー、終わった」
貴彦は軽くため息をつく。
「あとは先生たちの分。これは顧問に渡したらいいのかな」
広夢は独り言のようにそう言うと、顧問の教師の机まで行った。貴彦も後を追う。教師の姿はなく当惑していると、二人の担任が声を掛けた。
「どうした、お前ら」
「俺たち新聞部なんですけど、先生達の分をどうしたらいいかわからなくて。顧問の先生はいないみたいだし」
広夢は持っている新聞を示す。
「ああ、それなら預かってやるからもう帰っていいぞ」
「え、いいんですか?」
「もう六時近いだろ。ご苦労さん」
じゃあお願いします、と新聞を担任に渡した。教師はそれを自分の机に置き、ごそごそと白衣のポケットを探る。
「これやるからジュースでも飲んでいけ」
百円硬貨が三枚、広夢の手に渡される。
「わ、ありがとうございます」
「先生、どうも」
二人でお礼を言って職員室を出た。そのまま一階に下りて自動販売機で飲み物を買い、部室に戻って飲んでいくことにした。
広夢は仕事が終わったためか機嫌良くひょいひょいと階段を上がる。一方の貴彦の足取りは重い。飲み物を片付ける間の数分間、一緒にいなければならないのだ。
部室に着くなり広夢は散らかった紙や付箋をさっさと片付けた。そして印刷機の電源が切れているかチェックする。そういうところがさすがに慣れてるなと貴彦は感心した。
作業が終わると広夢は貴彦の隣の丸椅子に座り、缶の蓋を開けた。
「これで初仕事が終わり。お疲れさん」
乾杯するように缶を貴彦の目の前に掲げた。反射的に自分の缶を軽く当てる。広夢は満足そうににっこりとした。貴彦もちょっと微笑んでからすぐジュースに口をつけた。
「どうだ? 部は続けられそうか」
「ああ、うん。まだ記事を書く自信はないけど」
今回の新聞では一年では広夢だけ記事を書くのを任された。
「そんなの慣れだ、慣れ」
そう言って広夢も飲み物を口にする。
しばらく二人は沈黙した。この沈黙が貴彦には重たい。
なあ、と先に口を開いたのは広夢の方だった。
「ん?」
と返事をした途端、机の上に置いていた手の甲をつねられた。
「いてっ。なんだよいきなり」
「痛かっただろう」
「当たり前だ」
不意の攻撃に憤慨していると、広夢は缶をテーブルに置いて体ごと貴彦の方へ向いた。
「知ってるか? 痛みを感じるのは皮膚に分布する痛点の役目だ」
聞いてもいないのに理科の講義でも始めるつもりだろうか。貴彦は彼の意図がわからず眉をしかめる。
「痛点は体の場所によって分布密度が違う。手の甲は多い方だから、ちょっとつねられてもかなり痛い」
「……」
「だからちょっと唇が触れただけで、電気が走ったように感じてもおかしくないのさ」
「お前、俺のことからかったのか!」
貴彦は椅子から立ち上がって睨みつけた。苦悶の日々を思い出すと、広夢が憎らしくて仕方ない。
しかし貴彦の迫力に相手は少しも動じた様子はなかった。
「からかう? とんでもない。これは自分に賭けをしたんだ」
「賭け? 何言ってるんだ?」
広夢は微笑んで、まあ座れよと言った。貴彦は怒りがおさまったわけではなかったが、彼の話に興味をつられて言うとおりにする。
「せっかくの高校生活三年間、恋人がいた方が楽しいだろう」
話が飛びすぎて全然わからない。貴彦は賛成も反対もせずただ黙っていた。
「それで好きになった相手にもし少しでも脈がありそうなら追いかけることにした。全然駄目ならきっぱり諦めて他を探す。その方が効率がいい」
恋をしたことのない貴彦だが、まあそれはそうかなと思う。
「あのキスからずっと俺を意識していただろう、貴彦。賭けは俺の勝ちだ」
広夢はすっと人差し指で貴彦の胸を指さした。言われたことを理解するのにかなりの時間が掛かった。そして――赤面する。
「な、な、なにを……」
にやにや笑う広夢の顔を見て、貴彦は我に返る。
「お前、俺は男だぞ」
「そんなの見たらわかるって」
広夢はおかしそうにははっと笑った。貴彦は全然笑えない。
「そんな冗談つきあってられない」
「冗談を言ったつもりはないけど。まあ、わかってもらえるまで追いかけるよ。俺はこう見えてけっこうしつこいんだ」
余裕たっぷりにそう言うと、広夢は机に肘を載せて頬杖をついた。その目は普段より数倍も優しげに見える。本気なのかからかっているだけなのか。貴彦はなおさら彼のことがわからなくなった。
「冗談じゃないとしても何で俺なんだ? ほら、あの中学の同級生とけっこう仲いいだろ」
「あれはただの友達。俺は一方的に尊敬してるけど。――あ、焼きもち?」
「誰が焼きもちだ!」
話が全然噛み合わない。混乱は落ち着いたが、貴彦はうんざりしてきた。
これは果たして告白なのだろうか?
ふと窓の外を見る。遠くに川沿いの桜並木が見える。あのときとは大違いでムードもへったくれもない。
貴彦はさっきと同じ質問をした。
「……何で俺なんだよ」
「この前教えたばかりなのにもう忘れたのか? 仕方のない奴」
広夢は顔を寄せそっと囁く。
「入学式でお前を初めて見たとき、体中に電気が駆けめぐったのさ」
(終わり)
バレンタインの賭け(一)
帰りのホームルーム、教壇に立つ教師はインフルエンザが流行し始めているから手洗いなどして予防するようにと話している。机の上に置いた鞄の上にだらりと頭を載せる者、隣同士でひそひそ話をする者、生徒達は放課後を目の前にして落ち着かない様子である。
その中でただ一人、膝の上でぎゅっと拳を握り必死の形相をしている生徒がいた。
その生徒の名前は深鷺(みさぎ)ちひろ。生まれて十六回目のバレンタインのこの日、初めて男の子にチョコレートを渡す用意をしてきた。しかしもうすぐ学校の一日が終わろうとしているのに、いまだチョコの箱は彼女のポケットに収まっている。
このままでは「賭け」に負けてしまう。
深鷺は日直の終礼の声を聞きながら、決心を固めていた。
深鷺ちひろ、十六歳。天は二物も三物も与えた、とはこの少女にぴったりの言い回しである。くっきりした二重の目とすっと通った鼻筋、ふっくらした赤い唇、幼い頃から誰もが認める美少女だ。そして天性の歌声を持ち、今は軽音部でバンドのボーカル兼ギターとして活躍している。しかしそれを鼻にかけることもなく、さばさばとした性格で同性からも異性からも好かれる人気者。
そんな彼女は高校に入ってある同級生の男子に恋をした。相手の名は蜂屋貴彦。その顔は神がその技術を駆使して作り上げたとしか思えないほどの完成された造形美を持っている。しかし本人はそれに無頓着なようで、いくつもの愛の告白を「恋がわからないから」という理由で断っている。深鷺は彼の容姿はもちろんだが、その素朴な性質に何より惹かれている。
そしてやって来たのが年に一度のバレンタインデー。義理だの本命だの自分に御褒美だの、いろんな意味のチョコが日本を飛び交う日だ。深鷺が貴彦に贈るチョコに込めた意味は「お礼」。昨年のクリスマスに自分のライブに来て貰ったお礼の代わりとして渡すつもりだった。
もちろん愛の告白をしたいところだが、あっさり断られるのはわかりきっている。それにせっかく友人の位置まで近づいたのだからその立場をふいにしたくはなかった。
今朝登校してから、深鷺は教室前の廊下で彼が来るのを待っていた。貴彦が一人で歩いてきたのでチャンスを逃すまいと彼女は一歩出ようとした、そのときである。
「おはよ、貴彦」
そう言って小走りで後を追ってきたのは彼の友人、相馬広夢だった。百八十センチはありそうな長身で、漆黒の髪と大人びた鋭い目つきを持っている。広夢が軽く貴彦の肩に手をかけると、貴彦も笑顔で彼に挨拶を返した。そして二人は教室に向かって歩いてきた。
「あ、深鷺、おはよう」
貴彦が彼女に気づいて声をかけた。深鷺はさっとチョコの箱をポケットへ仕舞い「おはよう」と返す。照れ隠しに作り笑いを見せた。
広夢は彼女に微笑み、先に教室に入った。と思ったらその長い足が貴彦の膝裏を蹴る。バランスを崩した貴彦は「うわっ」と声を漏らしてドアに頭をぶつけた。
「何するんだよ、朝っぱらから」
「ぼけっとしてるから目を覚ましてやったんだよ」
けたけた笑う広夢の後を貴彦が追う。じゃれ合う二人の後に続きながら、深鷺は軽くため息をついた。
一時間目の授業が終わった後、深鷺は広夢に「ちょっと」と声をかけられ、二人は西の端にある階段の踊り場まで行った。そこで広夢は驚くべきことを提案してきたのである。
「深鷺、今日は貴彦に渡すつもり?」
広夢は数歩離れた場所からそう話しかけてきた。深鷺は以前貴彦への恋心から愚かな事件を起こしたことがあり、それを知っている広夢にはまだ負い目の気持ちを持っていた。
「渡すって?」
「もちろん、バレンタインのチョコだよ」
「答えないと駄目?」
「……それがもう答えだな」
広夢の鋭さは以前の事件でよくわかっている。深鷺は隠しても無駄だと腹をくくった。
「相馬くんの言う通りよ、悪い?」
「悪いことなんかないさ。照れくさかったら代わりに渡してやろうか」
「冗談。それくらい、自分でできるわよ」
「それはどうかな」
からかうようにそう言うと、広夢はふっと口の端をあげた。深鷺は心中を覗かれているようで落ち着かなくなる。彼の言うとおり、貴彦に直接渡せるかどうか自信がなかったのだ。
深鷺が眉根にしわを寄せると、広夢は気楽な口調で言った。
「なあ、深鷺。俺と賭けをしないか?」
「賭け? なにそれ」
「深鷺が今日中にチョコを渡せたらあんたの勝ち。渡せなかったら負けだ」
「……何を賭けるの?」
「勝ったらこれをやるよ」
そう言って広夢は制服のポケットから一枚の写真を取りだし、深鷺に見せた。それに写っている姿を彼女が凝視しようとしたところ、広夢はそれを再びポケットにしまい込む。その写真は貴彦の寝姿だった。
「合宿の時、ふざけて撮った一枚。本人は全部回収したと思ってるようだけど」
深鷺は今見たものが頭に焼き付いてすぐに口を開けなかった。写っていたのは意中の彼が目を閉じて無防備に眠る顔。
「どう?」
「わたしが、負けたら?」
「そうだな……今日から一週間、貴彦と口をきくなっていうのは?」
「それ、相馬くんに何か得になるの?」
「別に。ただ、面白そうだから」
広夢はにやにや笑いで深鷺の顔を見る。からかわれているとわかっているものの、深鷺はさっきの写真をどうしても手に入れたかった。
「どうだ? 賭けに乗ってみるか?」
その言葉にこくっと頷く。
「じゃあ期限は今日中、必ず校内で渡すこと。健闘を祈るぜ」
ふふっと笑って片手をズボンのポケットに突っ込み、広夢は教室へと戻って行った。
そうして深鷺ちひろの波乱万丈の一日が始まった。
授業が終わるたびに深鷺は貴彦の席へ行こうとした。しかしその度になんやかんやと邪魔が入る。
二時間目の後は他のクラスの女子が集団で押しかけてきた。貴彦はあれよあれよという間に黄色い声に包まれ、一人ひとりにぺこぺこと頭を下げていた。そして女子たちは嵐のように去っていった。後に残ったのは色とりどりの包装紙に包まれたチョコレートの箱。彼の机の上は他に物を置く隙間がないほどであった。
三時間目の後、今度こそと意を決して立ち上がった深鷺はいきなり男子生徒に話しかけられた。相手は犬飼茅(かや)。級友でもあり演劇部員でもある彼は、深鷺より数センチ背が低く、顔も子どもっぽくて遠目には女の子に見えないこともない。彼もまた以前の事件の関係者で、深鷺にとっては頭の上がらない存在である。
「深鷺、ちょっと頼みがあるんだけどいい?」
「なに?」
「今度演じる役でさ、ギターを使わなきゃいけないんだ。もちろんほんとに弾くんじゃなくて振りだけど。だからいろいろ教えてもらいたくって」
「……今日じゃないと駄目かな?」
「ごめん、明日からいろいろ練習とか始まるし」
犬飼は手を合わせて懇願している。そこまで頼まれると断れない。深鷺は心の中でため息をつきつつも、笑顔で答えた。
「わかった。じゃあうちの部室で放課後練習しよ」
「あのさ、昼休みでもいい?」
「……うん」
「やった! じゃ、よろしくな。ほんと感謝するよ」
犬飼は嬉しそうににっこりし、深鷺の肩をぽんぽんと叩いた。そういう無邪気なところは可愛いのだが、少し大袈裟なようにも見える。彼の得意の演技も入っているのかなと深鷺は思った。
授業の始まりを告げるチャイムが鳴り、深鷺はふと後ろの席を見た。貴彦は彼女の視線に気づくこともなく教科書を用意している。さらに後方にいる広夢と目が合った。彼は口だけでにやりと笑う。深鷺はむっとして前を向いた。あの笑いは完全に馬鹿にしているとしか思えない。さっきの彼の言葉を思い出した。
――それはどうかな
絶対に負けないんだからと深鷺は士気を高めるのであった。
昼休みが始まると深鷺はすぐに立ち上がり後方を振り向いた。そして他の生徒たちをかき分けて貴彦の席へと向かおうとしたとき、後ろから腕をぐいっと引っ張られた。顔だけそちらへ向けると、にっこり笑っている犬飼がそこにいる。
「さ、行こうぜ、深鷺」
「え、あの、ちょっと……」
「時間が惜しいんだ。弁当食べながらいろいろ聞きたいし」
彼の頼みを承諾したのだから仕方がない。それでもほんのちょっと時間をもらって貴彦のところへ行きたかった。そして深鷺が再び目を向けたところ、貴彦は広夢と連れだって教室から出るところだった。
「あ……」
声をかける間もなく二人は出て行ってしまった。廊下へ出る瞬間、広夢がちらりとこちらを見たことに深鷺は気づく。あれは完全に妨害しているに違いない。
「どうした?」
「ううん、じゃあ部室に行こう」
機嫌の良い犬飼とは対照的に、深鷺はがっくりと肩を落としながら軽音部の部室へ向かうのだった。
「……ピックは親指と人差し指ではさむように持って、手首のスナップをきかせて鳴らすの」
「うんうん」
五階の軽音部部室、深鷺は約束どおり犬飼にギターの弾き方を教えていた。深鷺がストラップを肩にひっかけギターを持ちながら説明を始めると、犬飼は目をきらきらさせ興味深そうに聞いていた。
「深鷺、何か弾いてみてくれよ」
「うん、じゃちょっとだけ」
深鷺はギターとアンプをコードでつなぐ。あまり大きい音が出ないように調節し、作ったばかりの曲のイントロを弾いて聞かせた。コードを押さえる左手とピックを握る右手の両指が目まぐるしく動いた。
「こんな感じ」
「……すっげー、かっくいーよ、深鷺」
犬飼は頬を染めて褒めちぎる。深鷺は「そう?」とはにかむ。褒められて悪い気持ちはしない。
次は犬飼にギターを持たせ、いろいろ基本的なことを教えてゆく。深鷺の説明を彼は素直に聞いた。あっという間に予鈴が鳴り、犬飼は壁の時計を見上げる。
「あれ、もうこんな時間」
「終わろっか。これくらいで大丈夫?」
「ああ、サンキュな」
「うん、犬飼くんは呑み込みが早くて良かった」
深鷺にギターを返しながら、犬飼は微笑む。が、すぐに真顔になった。
「またライブやるの?」
「うーん、今のところは未定」
「そっか。実はまだ一回も聴いたことなくて。文化祭はうちも舞台やるから忙しいし」
犬飼は両手をあげて伸びをした。
「今度ライブやるとき、俺にも教えて。都合良ければ行きたい」
「うん、ありがと。演劇部の公演も観たいな」
深鷺がそう言うと、犬飼はちょっとばつが悪そうな顔をした。
「……次のは無理、ごめん。市内の演劇部が集まってやる舞台で、平日なんだ」
「そっか、残念」
二人が教室に戻るとちょうど授業の開始を告げる本鈴が鳴り響いた。犬飼とのギター練習は楽しかったが、またも機会を逃したと深鷺はがっかりする。しかしまだ一日は終わっていない。次こそ、と心に誓いながら教科書を開いて頭を切り換えるのであった。
バレンタインの賭け(二)
チャイムが鳴り五時間目の授業が終わった。深鷺は席を立ちすたすたと貴彦の席へと歩いていった。今回は何も邪魔が入らず少し拍子抜けする。しかし彼の目前に立つと否が応でも深鷺の心臓が高鳴った。
貴彦が彼女に気づいて顔を上げる。
「なに?」
にっこりと微笑むその顔を見ると、深鷺の視界は一気に鮮明になる。世界に自分と彼だけだったらいい、そんな夢想をしそうになる自分に喝を入れた。
「あ、あ、あのね」
「うん」
ここでポケットから箱を出して、そう思うものの手が緊張で動かなかった。
「その……今度、CD持ってきていい?」
「また何か貸してくれるの?」
なに言い出すのと自分に突っ込みを入れながら、深鷺はそのまま話を続けた。
「うん、ジャズなんだけどどうかな」
「じゃ、お願い。深鷺の貸してくれるものはハズレなしだから」
「それじゃ、明日ね」
深鷺は軽く手を振って貴彦の席から離れた。そして自分の席に着く前に軽くはあっとため息をつく。ふと後ろを見やると、教室の隅にいる広夢の姿が目に入った。彼は片手で腹を押さえ笑いを噛み殺している。悔しくてきっと広夢を睨みつけ椅子に座った。
そしてもうすぐホームルームが終わろうとしている。深鷺にとってこの日最後のチャンスだ。これを逃すと広夢との賭けに負けてしまう。
終礼を済ませると生徒達はがやがやとざわめきながら教室から出始める。掃除当番の生徒は用具入れに集まってゆく。深鷺が後ろを向くと、貴彦と広夢が廊下へ出て行こうとしていた。深鷺はあわてて後を追いかけるが、他の生徒に進路を阻まれてなかなか進めない。彼女はさらに焦り出す。そしてお腹の底から声を絞り出して叫んだ。
「蜂屋くん、待って!」
深鷺の声は教室の隅々まで響いた。生徒達は一瞬しいんとなり、何事かと彼女に視線が集まる。貴彦も立ち止まり深鷺を見つめた。
しかしそんな周りの様子に気づくこともなく、深鷺はつかつか歩いて貴彦の目の前まで近づいた。他の生徒達は聖書の一篇のごとく左右に避けた。
深鷺の頭にあるのは一日中ポケットに入れっぱなしだったチョコレートの箱のことだけ。今、その箱をやっと取り出すことができた。
「あの、これ……」
「えっ、俺に?」
深鷺が箱を差し出すと貴彦の頬に朱がさした。それを見て深鷺は我に返る。
「ち、違うの。これはね、義理チョコだから。それ以外なんでもないから!」
「ああ、そう。……どうもありがとう」
貴彦は少しがっかりした様子を見せる。その伏した目にかかる長い睫に一瞬見惚れ、それから深鷺は貴彦の横をすり抜けるようにして慌てて教室を出て行った。
廊下に出るとにやにやと笑いながら広夢が待っていた。
「賭けはあんたの勝ち、おめでとう」
そう言って広夢は深鷺のポケットになにかを滑り込ませた。深鷺は顔を真っ赤にさせながらくるっと踵を返し、廊下を早歩きで去っていった。
いつものように新聞部の部室で貴彦と広夢は雑談をしていた。ヒーターが温まってきたころ、こんこんとドアをノックする音が聞こえる。貴彦が椅子から立ち上がってドアを開けるとそこには思いもよらない人物がいた。
「犬飼、なんか用?」
彼は仏頂面をしながら「相馬はいる?」と聞いて部屋をのぞく。広夢は犬飼に気づいて軽く手を挙げた。
「ちょっと入るぜ」
犬飼は貴彦の脇をすり抜けて部屋に入った。そして広夢の前までやって来て、ポケットから漱石を一枚出しテーブルに叩きつけるように置いた。
「賭けはお前の勝ち」
「ああ。サンキュ」
広夢はにやりと笑って札を自分のポケットに仕舞い込んだ。
「それにしても、ギターの練習に付き合えなんてうまいこと思いついたよな」
「それは本当。こんな賭けに部活を利用するかよ、馬鹿」
犬飼は眉をしかめたまま部屋を出て行った。貴彦はわけがわからず見送る。振り向いて広夢に尋ねた。
「賭けってなんの話?」
広夢はくくっと喉の奥を鳴らしながら笑い、彼の質問に答える。
「今日のバレンタイン、貴彦がチョコをもらうかどうか犬飼と賭けをしたんだよ。相手はもちろん深鷺」
「……ひどいな」
貴彦は不快な顔つきになる。しかしそれを気にする風もなく広夢は彼を指さして言った。
「貴彦はチョコをもらえて良かったじゃないか」
「それは嬉しいけどさ……あんなにはっきりと『義理』って言われたらちょっとな」
「贅沢者。これだからもてる奴はいやだね」
からかい口調でそう言うと、広夢はふっと鼻で息を吐いた。
「今回こそ、本当に一石二鳥だったな」
「なにが」
「いや、こっちの話」
広夢はさっきの深鷺の様子を思い出す。
(賭けには負けたけど今回の勝負は俺の勝ち。なあ深鷺?)
(終わり)
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