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第2章 二人の「藍沢俊英」

作者:日-竹下義朗 当前章节:5264 字 更新时间:2026-6-23 02:02

前穂高岳と涸沢カール (平成19年10月10日 著者撮影)

 北穂高小屋をあとにした俺がまず立ち寄ったのは涸沢小屋である。

 涸沢カールには二軒の山小屋がある。一軒はカールの真ん中、「池の平(たいら)」と呼ばれる地に建つ涸沢ヒュッテ。もう一軒は北穂高岳南陵の直下、岸壁に寄り添(そ)うように建つ涸沢小屋だ。この内、涸沢小屋に10月9日、藍沢は泊まっている。

 北穂高小屋でバイトをしていた関係で涸沢小屋のスタッフとは顔見知りだ。俺は、当日の宿帳を見せて欲しい旨(むね)告げると、涸沢小屋名物のソフトクリームに舌鼓(したつづみ)を打ちながら、ページを繰(く)った。

 10月9日の宿泊者の中に藍沢俊英の名を見つけ出すのは、さほど難しい事では無かった。まあ、これは既に確認されている事なので当然と言えば当然なのだが、俺が知りたいのは別の点だ。俺は胸ポケットからオリンパスμ795SWを取り出した。耐寒温度-10度、多少の落下衝撃にも耐えるこのタフなコンパクトデジカメはアウトドアには持ってこいである。俺は藍沢自身が書いたその部分を数枚撮影し、涸沢小屋をあとにした。

 次に向かったのは上高地バスターミナルの隣にあるインフォメーションセンターである。ここには登山者が出した登山届が集められている。

 俺は10月9日に出された登山届の内、藍沢のものを見せてくれるよう頼んだ。普通なら、アポ無し、ましてや警察関係者でも何でも無い俺あたりが頼んだ所で門前払いを食らうがオチだが、北穂高小屋の主人、小山が機転を利かして、俺が小屋を出た直後に話をつけておいてくれたらしい。待つ事五分。藍沢が出した登山届が俺の目の前に差し出された。

「違う!」

 俺は北穂高小屋をあとにする際、小屋の宿帳に書き残されていた藍沢の筆跡をデジカメに収めて来ていた。涸沢小屋に残されていた藍沢の筆跡は北穂高小屋のものと全く同じ。紛(まぎ)れもなく同じ人間が書き残したものだ。しかし、今、俺の目の前にある登山届の筆跡は二つの小屋に残されていたものと違う。微妙に似てはいるが、別人が無理して筆跡を真似(まね)て書いたように見える。

「なんで、登山届と小屋の筆跡が違うんだ? だとすると、登山届と小屋に残された筆跡、どちらが藍沢本人のものなんだ?」

 俺は早速、北穂高小屋の小山の元へと電話を入れた。

「もしもし、小山さん? 漢波羅です」

「ああ、漢波羅君。今どこ?」

「上高地インフォメーションセンターです。それより大変な事が分かりました」

「何? 大変な事って?」

「筆跡ですよ」

「筆跡?」

「登山届と小屋に残されていた藍沢さんの筆跡が違うんですよ」

「エッ?」

「北穂高小屋と涸沢小屋の宿帳に残されていた筆跡は同じだったんです。だから、10月9日、涸沢小屋に泊まった人間と、翌10日、北穂高小屋に泊まった人間は同一人物なんです。でも、登山届に残されていた筆跡は微妙に違うんですよ」

「それってどう言う事?」

「考えられる事は二つ。一つは藍沢さん本人が登山届を書いて上高地インフォメーションセンターに提出したものの、小屋に泊まったのは別人。もう一つは誰かが藍沢さんの名前で登山届を出したものの、小屋に泊まったのは本人。どちらが真実にしろ、疑念が深まった事だけは確かです。やはり、藍沢さんの死には何かありますよ」

「で、漢波羅君。これからどうするんだい?」

「とりあえず、藍沢さんの勤めていた会社を訪ねて、藍沢さん本人が書き残したものを見せてもらおうと思っています。そうすれば、登山届と小屋の筆跡のどちらが藍沢さん本人のものなのかがはっきりしますから。それと、ついでに誰か同僚をつかまえて、藍沢さんの事を聞いてきます」

「分かった。でも、漢波羅君、くれぐれも無理しないでくれよ」

「分かっていますって」

 10月15日、木曜日、午後3時40分── 。

 俺は六本木ヒルズ森タワーにオフィスを構える広告会社「ヌーベルバーグ」を訪ねた。ヌーベルバーグはネット事業を中心に展開し、この不況下にも関わらず業績は堅調、社員の平均年齢も比較的若く、活気が漲(みなぎ)っている。

 受付の女性に来社の用件を伝えると、間もなくヌーベルバーグの女性社員が現れた。彼女の案内で会議室へと通され、待つ事五分。俺と、さして年齢が変わらないであろう男が入ってきた。スーツの上からとは言え、見た所、筋肉の付き方が良さそうだ。何かスポーツでもしているのだろうか?

「お待たせ致しました。企画第一課の係長をしております深山明夫(みやま-あきお)と申します」

「初めまして。漢波羅響資(かんばら-きょうすけ)と申します。お忙しい中、時間を取らせてしまい、すみません」

俺は名刺を深山(みやま)に手渡した。

「漢波羅響資さん ?ですか。名刺に社名や肩書きが何も書かれておりませんが、失礼ですが、お仕事は何をされておられるのですか?」

「ああ、それがその ?フリーランスでして ?」

「と申しますと、フリーライターやフリーカメラマンと言ったお仕事をされておられる訳ですか?」

「まあ、そんな所です」

「ところで、今日はどのようなご用件で? 受付の者からは藍沢の事で訪ねて来られたとしか聞いておりませんので」

 この深山と言う男、何とはなしに警戒してるように感じるのだが、何故だろう? 俺は、深山の質問には答えず、逆に質問を返した。

「失礼ですが、深山さんは亡くなられた藍沢さんとはどのような関係だったのですか?」

「藍沢は私の所属する企画第一課の課長でした。私は係長ですから、藍沢とは上司と部下の関係でした」

「深山さんは藍沢さんと仕事以外でお付き合い等、されていましたか?」

「いいえ。でも、何故そのような事をお聞きになるんですか?」

「いえ、直属の上司と部下でしたら、例えば仕事帰りに一杯飲んでいくとか、休日、一緒にゴルフへ出かけるとか、そう言った事は無かったのかなぁと思ったまでの事です」

「いいえ、そう言う事は一切ありませんでした。あくまでも仕事のみの付き合いでした」

 深山の言葉は機械的と言うか事務的で冷たさを感じる。どうやら、藍沢の事を良く思っていなかったようだ。

「ところで、深山さん。今日、お訪ねしたのは藍沢さんが生前書き残した書類、メモでもなんでも良いのですが、何か拝見出来ないかと思いまして」

「藍沢が書き残したもの?」

「ええ、藍沢さんの筆跡を拝見したいんです」

「それは一体どう言う意味ですか?」

「実は気になる事がありまして ?藍沢さんが10月9日、上高地インフォメーションセンターに出した登山届と、同じ9日に泊まった涸沢小屋の宿帳、10日に泊まった北穂高小屋の宿帳の筆跡が違うんですよ」

「 ?」

「ですから、登山届と二軒の小屋に残された筆跡のどちらが、藍沢さん本人が書いたものなのかを確認したいのです」

「しかし、藍沢の死は滑落事故だった訳でしょう? 警察からはそのように聞いていますが。第一、今更(いまさら)、あなたに藍沢の書き残した書類を見せなくてはならない理由が分からない。何の権限があって警察の捜査のような事をしておられるのですか?」

 深山は冷静を装ってはいるが明らかに神経質(ナーバス)になっている。藍沢の事で詮索されたくないと言った感じだ。

「確かに私には捜査権限なんてありません。でも、調べる必要があるんですよ」

「それはどのような理由ですか?」

「僕は藍沢さんが泊まった北穂高小屋の従業員でして」

「それがどう関係しているのですか?」

「宿帳に偽名を書くのがいけない事だと言う事は深山さんもお分かりですよね」

「まあ、それはそうでしょうね」

「ましてや、泊まった客が翌日亡くなった訳ですから、当然、警察が小屋へも来たんですよ」

「 ?」

「で、宿帳を確認した所、藍沢さんが泊まった事は確かだった。でも、筆跡が違う」

「 ?」

「となると、小屋に泊まったのが本当に藍沢さん本人であったのかを確認する必要があるんですよ」

「 ?」

「もし、小屋に泊まったのが筆跡確認の結果、藍沢さん本人で無かったとしたら、僕達はその事を警察へ報告しなくてはなりません。何しろ、偽名による宿泊だった事になりますからね」

「でも、そうだとしても何故、一従業員のあなたが訪ねて来られたのですか? 第一、小屋の責任者からは何の連絡もありませんでしたし、アポイントメントも無しに、いきなり来社されるとは ?」

「事前にアポイントメントを取っておかなかった事は素直(すなお)に謝(あやま)ります。でも、小屋の主人は会社で言えば社長です。社長本人が直々(じきじき)にアポイントメントを普通取るでしょうか?」

「まあ、いいでしょう。ご用件は分かりました。今、藍沢が書いた書類を持ってきますから、少々お待ち下さい」

 漸(ようや)く深山は折れてオフィスへと書類を取りに戻った。それにしても、深山と言う男、どうも藍沢について何かを隠している気がしてならない。そうでなければ、たかだか筆跡確認一つで、ここまで渋ったりはしないだろう。

 10分後、深山は書類を片手に戻って来た。

「お待たせしました。これが藍沢の書いた書類です」

「ありがとうございます。それでは、失礼して拝見します」

 俺は深山が持ってきた書類、登山届、そして、二軒の山小屋に残された筆跡を注意深く較(くら)べてみた。

「お持ち頂いた書類と登山届の筆跡は同一ですね」

「はあ」

 深山は気の無い返事を返してきた。

「つまり、上高地インフォメーションセンターに出された登山届は、藍沢さん本人によって書かれたものだった事になりますね。しかし、そうなると二軒の山小屋の筆跡が違うのは何故でしょうね?」

「全く別人の筆跡なのですか?」

「微妙に似てはいます。でも、素人(しろうと)考えですが、藍沢さん本人の筆跡を無理して真似たように思えるんですよ」

「しかし、山小屋と言うと高い所にある訳ですよね。空気が薄くなって体調にも変化が現れるんじゃありませんか? それで、筆跡にも変化が現れたとか ?」

「いえ、そんな事はありません」

「 ?」

「これが8000メートルを超えるエベレストの頂上ならいざ知らず、穂高連峰はせいぜい3000メートル級です。余程(よほど)、体調を崩さない限り、他人から見ても明らかに分かる程の筆跡の変化は生じません。それに藍沢さんは涸沢小屋で既に筆跡に変化が現れています。もし、涸沢小屋で体調に変化が生じていたのなら、それより更に高い北穂高小屋へは登ってこないでしょう」

「そうですか」

 これ以上、問答を続けると墓穴を掘ると見たのか、深山は口を噤(つぐ)んだ。

「これで、小屋に泊まったのが藍沢さん本人で無かった事がはっきりしました」

「 ?」

「この事は一応、後日、警察にも報告しておきます」

「 ?」

「それでは、失礼致します。お忙しい中、貴重な時間をお割(さ)き頂き、ありがとうございました」

「いえ、とんでもありません。お役に立てて良かった ?」

 深山は再度、力の無い返事を返し、オフィスへと帰っていった。

 これで、はっきりした事がある。それは、登山届を出した藍沢と、二軒の小屋に泊まった「藍沢」。二人の藍沢がいたと言う事だ。そして、藍沢と同じ職場で働く深山の存在。彼は何かを隠している。その何かは、まだ分からないが、どうも、他人には詮索されたく無いと言った風だ。

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