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第8章 松本から奥飛騨へ

作者:日-竹下義朗 当前章节:6930 字 更新时间:2026-6-23 02:02

松本バスターミナル

 松本バスターミナルからバスに揺られる事およそ1時間半。嘗ては奥飛騨(おくひだ)の秘湯と呼ばれた平湯温泉へと着いた。時刻は既に午後3時を回っている。今夜はどこかの温泉宿へ泊まり、藍沢の宿泊先を調べるのは明日になってからだ。

 濃飛(のうひ)平湯バスセンターとは道を挟んで向かい側にある旅館組合の案内所を訪ねる。事前の宿泊予約等していない飛び込み客、ましてや初めて訪れた温泉街で右も左も全く分からない俺にとっては、ここで今夜の宿を世話してもらうしかない。幸い、空室のある温泉宿が数軒あった。俺は、その中から合掌造(がっしょうづく)りで古民家風の宿『平湯の森』を紹介してもらう事にした。

 木の香(か)ゆかしい館内は休憩室はおろか客室すらも合掌棟(むね)だ。奥飛騨へ来たと言う実感が湧(わ)く。飛騨地方の名物、朴葉(ほおば)味噌をふんだんに使った郷土料理と、自然に囲まれた露天風呂に浸かって、すっかり生き返った俺は、暫し休憩室で缶ビールを飲みながら寛(くつろ)ぐ。すると、宿の主(あるじ)らしき男性が近付いて来た。

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(不定休?要予約)

「お客さ、どっからおいでんさった?」

「俺ですか? 俺は東京からです」

「そりゃ、随分遠いとっからおいでんさったなぁ。ありがとうえなー」

「あ、いえ」

「ところで、奥様(ねさま)はまだ風呂かな?」

「いえ、俺はまだ独身で ?ここへも独りで来たんです」

「こりゃこりゃ、堪忍(かんに)な。俺(おり)は、てっきりここで奥様(ねさま)と待ち合わせでもしてんのかと思ったもんで ?そりじゃ、今流行りの『きままな一人旅』ってやつかな?」

「ええ、まあそうと言えば、そうなんですが ?人を探してるんですよ」

「人探(さが)いで、わざわざ平湯(ここ)までおいでんさったんか?」

「ええ。正確には、この温泉郷を訪ねた人が泊まった宿を探しに来たんですよ。ところで、おじさんは宿(ここ)のご主人ですか?」

「そやけど」

「あのー、ちょっとお聞きしたい事があるんですが、今いいですか?」

「あぁ、ええよ」

「それじゃ、ちょっと待っていて下さい」

 俺は客室へと戻り、藍沢と深山が槍ヶ岳頂上で撮ったと言う写真を手にすると、休憩室へと踵(きびす)を返した。

「10月10日、土曜日、ここに写っている男性は泊まられました? 俺と同じ東京の人間なんですが ?」

 主(あるじ)は俺が渡した写真を手に取ると、視線を写真へと落とし、程なくして答えた。

「あぁ、こん人なら憶えとる。うちへ泊まりんさった」

「エッ、ホントですか?」

平湯バスターミナル

 予定外の平湯温泉までやって来て泊まった宿で、あっさりと藍沢の宿泊確認が取れるとは、正直、俺自身思ってもみなかった。ダメ元で試しに聞いてみただけなのだが、やはり聞いてはみるものだ。

「ちょびっと待っててな。今、宿帳持って来(く)っから」

 暫くすると、帳場(ちょうば)へ宿帳を取りに行っていた主(あるじ)が戻ってきた。

「10月10日、10月10日 ?東京からおいでんさった人と ?あぁ、ありんさった。名前は ?」

「名前は藍沢俊英さんと言います」

「確かに藍沢俊英さんだわ。そやけど、お連れさんがおるね」

「連れ?」

「深山明夫さん言うて同(おな)い東京のお人ですわ」

「深山明夫?」

「そやさ。ここん予約は深山さんが取りんさったようやわ」

「 ?」

 前日の金曜日、10月9日に出社した深山が平湯温泉の宿を予約していた。そして、藍沢は深山が予約した宿に共に泊まった。これは一体どう言う事だ?

「それじゃ、その日は藍沢さんと深山さんの二人でチェックインしたんですか?」

「いんや、それが藍沢さんが先においでんさって、予約した深山さんは夜になってからやったね」

「それじゃ、二人はいつチェックアウトしていますか?」

「次ん日の朝5時前やね」

「10月11日の朝5時前?」

「そやさ。朝食(めし)は食(く)いよらん言うて、代わりにむすびを二食分持たせとるね」

「で、どこへ行くと言っていましたか?」

「さあ、聞いとらんけど、山行く格好やったね。お二人さん、車で一緒に出よりんさった」

「タクシーを頼んであったんですか?」

「いんや、深山さんの車で出よりんさった」

「 ?」

平湯温泉

 随分と早い時間の出発だ。山登りの支度(したく)をして宿を出たそうだが、二人はどこへ向かったのだろう? 藍沢は10月11日の午後、穂高連峰を縦走中の登山者により滑落遺体として発見された。場所は涸沢岳の飛騨側斜面、涸沢岳沢だ。いくら早朝に平湯温泉を出発したとて、その日の午後、登山届に書かれていた上高地、涸沢、北穂高岳を経るルートを通っては、涸沢岳の稜線に立つ事は絶対に不可能だ。どう頑張っても涸沢泊まりがいい所だ。しかし現実に、藍沢の滑落遺体が涸沢岳沢で発見されたのは、彼が平湯温泉を出発した日の午後なのだ。一体、藍沢はどうやって涸沢岳の稜線へと辿り着けたのだろう? 又、深山は、前日、平湯温泉に藍沢と同宿し、翌日早朝、彼と共に宿を出ている。その後(あと)もずうっと藍沢と行動を共にしていたのだろうか? だとすれば、藍沢の死の真相を知っている筈なのだが、警察はおろか、藍沢の妻、雪恵にすら何も話してはいない。それは何故なのか? もしも、深山が藍沢を涸沢岳へと誘い、彼を事故死に見せかけて殺害したのだとしたら、どんなトリックを使ったのだろう? 考えれば考えるほど、益々分からない。

 昼間の疲れも手伝ってか、今夜はやけにビールの回りが早い。どうやら、これ以上は考えようにも思考回路が働きそうに無さそうだ。俺は主(あるじ)に礼を述べると部屋とへ戻り、早々(はやばや)と布団にもぐり込んだ。東京の喧噪とは対照的な奥飛騨の閑(しず)けさの中、遠くで微(かす)かに鳴く虫達の声を子守歌代わりに、いつしか夢の世界へと落ちて行った。

10月19日、月曜日── 。

 俺は改めて宿の主(あるじ)に礼を述べると、「平湯の森」を出た。地元の年寄り達で活気溢(あふ)れる朝市(あさいち)を横目で見ながら、東京とは違う奥飛騨の澄んだ空気を存分に吸い込む。濃飛平湯バスセンターへと着き、待合室で松本行きのバスを待つ時間を使って、俺は久しぶりに北穂高小屋の小山へと電話を掛けた。

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(不定休?要予約)

「もしもし、小山さん?」

「やあ、漢波羅君。あれから、どう?」

「はい、亡くなった藍沢さんの会社を訪ねたり、奥さんにあったり、色々と ?」

「それで、何か掴(つか)めたかい?」

「それが ?藍沢さんの部下の深山と言う男が浮かび上がったんです。俺は彼が藍沢さんの死に関係していると睨(にら)んではいるんですが ?」

 俺は今までに調べて分かった事を、順を追って小山に説明した。

「それで、どうしても行き詰まってしまって ?」

「僕で役立つ事が何かあるかも知れないよ。話してみて」

「それが、藍沢さんの滑落遺体が涸沢岳沢で発見された日の早朝、彼はまだ平湯温泉にいたんですよ」

「平湯温泉かあ ?」

「10月11日の朝5時前に平湯温泉の宿を出発したとしても、上高地から涸沢、北穂高岳を経て、その日の内に涸沢岳の稜線には立てませんよね?」

「まあね。それはどう転(ころ)んでも無理な話だなぁ」

「でしょう? でも、その日の午後、藍沢さんの遺体が発見されたのは事実だし。このトリックを解き明かさない事には、どうにも先へ進めなくて ?」

「 ?」

 会話に暫し間が空(あ)いたかと思うと、小山は、はたと閃(ひらめ)いたと言う風にやおら呟(つぶ)いた。

「漢波羅君、別の手があるよ!」

「別の手?」

「藍沢さん本人が書いた登山届が上高地インフォメーションセンターに出されていた。そして、宿帳の筆跡に疑いがあるものの、涸沢小屋と北穂高小屋へ泊まった事になっていたから、僕達は藍沢さんが上高地から入山し、涸沢、北穂高岳を経て涸沢岳の稜線に立ったのだと思い込んでいたんだよ」

「 ?」

「でも、涸沢岳の稜線に立つルートは何も上高地からだけとは限らないよ」

「と言うと?」

「新穂高だよ」

「新穂高?」

「藍沢さん達が平湯温泉に泊まったのなら、わざわざ安房(あぼう)トンネルを通って上高地へ戻ったりするよりも、新穂高へ向かった方が俄然(がぜん)早いし近い」

「小山さん、俺は新穂高って行った事が無いんですけど、そこから涸沢岳まで、どれくらいの時間で辿り着けるんですか?」

「うーん、僕はもっぱら上高地からしか登らないから詳しい所要時間までは、あいにくと分からなくてね ?でも、新穂高を早朝に出発すれば、その日の内に穂高の稜線に立つ事は可能だった筈だよ」

「それじゃ、10月11日の朝、平湯温泉を出発した藍沢さんが、その日の午後、涸沢岳の稜線に立てた可能性がある訳ですね」

「まあ、そう言う事になるね」

 これで、何とか藍沢の東京から涸沢岳までの足跡が繋がりそうだ。

「あぁ、漢波羅君。それと今思い出した事があるんだけど」

「何ですか?」

「実は、君が山を下(お)りた後(あと)、穂高岳山荘のご主人の今田さんから気になる話を耳にしたんだよ」

「それは、どんな話ですか?」

「それがね、藍沢さんが遺体で発見される前日の10月10日、新穂高から穂高岳山荘へ登ってきた人から、荷継小屋(につぎごや)跡にあるルート案内板が間違った方角へ向けて設置されていたって言うんだよ」

「 ?」

「でも、その日はあいにくと穂高岳山荘の方も満員御礼で、とても人員を割(さ)く余裕は無かったし、第一、その話を登山者から聞いたのが夕方4時過ぎだったとかで、次の日の午後、スタッフが確認しに行ったそうなんだ。でも、現地に着いてみると案内板には特段、異常は無かったって言うんだよ」

「その話に何か不審な点でもあるんですか?」

「穂高岳山荘の今田さんが言うには、新穂高から荷継小屋跡まではルート的に特に迷う箇所は無いらしいんだけれど、問題はそこから先だって言うんだよ」

「と言うと?」

「荷継小屋跡から稜線まではガレ場の登りなんだそうだが、そこには涸沢岳南西尾根を挟(はさ)んで左右に二つのガレ場がある。穂高岳山荘の建つ白出(しらだし)のコルへ登るには、手前の荷継沢(につぎさわ)ではなく、必ず奥の白出沢(しらだしさわ)を登らないといけない。でも、初めての人は、一見登りやすそうな手前の荷継沢をついつい登りたくなってしまう。だから、わざわざ、そこにルート案内板を置いたって言うんだ」

「それじゃ、もし、白出沢ではなく、誤って荷継沢を登ったら、どうなるんです?」

「最初は白出沢と同じようなガレ場なんだそうだが、そのうち、険(けわ)しい涸沢岳沢へと変わる。そこから稜線に出るのはかなり厳しいそうなんだ」

「涸沢岳沢? それって藍沢さんの遺体が発見された場所じゃないですか?」

「そうなんだよ」

「と言う事は、藍沢さんが新穂高から穂高岳山荘の建つ白出のコルへと登る途中、荷継小屋跡から先、本来進むべき白出沢ではなく、間違ったルート案内板にしたがって荷継沢へと迷い込み、更にその先の涸沢岳沢の斜面から滑落して亡くなった ?いや、深山が行動を共にしていたとすると、彼が藍沢さんを人気(ひとけ)のない涸沢岳沢へと誘い込み、そこで殺した可能性も出てきますね」

「それと、もしも荷継小屋跡にあるルート案内板を、その深山って言う男が細工てしいたとしたら?」

「! そう言えば、深山は平湯温泉へ車で来たし、チェックインは夜。その日の日中、ルート案内板の細工も兼ねて事前に新穂高から涸沢岳沢まで下見で登り、翌日、藍沢を伴って再度同じルートを登った ?深山は藍沢を殺した後(あと)、下山ついでにルート案内板を元通りに ?小山さん、ひょっとしたら、藍沢さんは深山に計画的に殺されたのかも知れませんよ!」

「漢波羅君、話が大変な事になってきたね。これはもう僕らの手に負えるレベルの話じゃ無いよ。どうだい? 奥飛騨署の仁科さんに事情を話して、あとは警察に調べてもらうと言うのは?」

 確かに殺人事件の可能性が大きくなった以上、素人の俺がこの儘「捜査」を続けるよりは警察に委(ゆだ)ねた方がいいに決まっている。でも、不審な点があったにも関わらず、警察が事故死として処理したのが事の発端だし、第一、俺自身、折角(せっかく)ここまで調べ上げたものを、この先、警察に委ねるのは何とはなしに釈然としない。

「小山さん、この件、もう少し俺に調べさせてもらえませんか?」

「でも、もし藍沢さんを深山と言う男が本当に殺したのなら、その事を嗅ぎ回っている君に深山が危害を加えないとも限らない。何しろ、既に一人殺している事になるんだからねぇ。危険過ぎるよ」

「それは分かっています。でも、警察に話を引き渡すにしても、もう少し調べたいんです」

「でもなぁ ?」

「小山さんのご心配はよく分かります。俺もその分、今まで以上に気をつけますから」

「分かったよ。君の性格じゃ、僕が留(と)め立(だ)てしても無理だからなぁ。本当に気をつけてくれよ」

「はい、ありがとうございます」

「ところで、これから何を調べるんだい?」

「とりあえず、一旦、東京へ戻って山支度(やまじたく)をととのえ、自分の足で新穂高から登ってみようと思います。そうすれば、何か見えていなかったものが見えてくるかも知れないですし」

「分かった。それじゃ充分気をつけてね。何かあったら、いつでもいいから電話をくれよ」

「はい」

 当初、平湯温泉から松本へと戻った後(あと)、自殺した深山の妹、節子の夫だった北村康隆を訪ねようと俺は考えていた。北村は節子の自殺後、東京から郷里松本の実家へと帰り、今は父親の経営する建築設計事務所で働いていると聞いていたからだ。だが、小山と電話しているうち、俺は藍沢が登ったであろう新穂高から涸沢岳への道程(みちのり)を辿ってみたくなった。古い諺(ことわざ)にも「百聞(ひゃくぶん)は一見(いっけん)に如(し)かず」と言うのがある。実際に現地を自分の足で歩き、自分の目で見た方が、何かを得られるかも知れない。なあに、まだ接触していない北村の事だ。逃げたりはしないだろう。

 俺は濃飛平湯バスセンターからバスに乗り、再び1時間半かけて松本バスターミナルへと戻った。松本駅へと入り時刻表を見れば、5分後に新宿行きのJR特急スーパーあずさが発車する。俺は急ぎ乗車券を買うと飛び乗り、一路、東京を目指した。

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