美と健康サロン YOSHINO
山梨県富士吉田市のアットホームなエステティック?サロンです。
yoshino-salon@venus.sannet.ne.jp
富士急行線 寿駅近く
電話 090-2537-3405
(不定休?要予約)
東京へと戻った俺は、八重洲ブックセンターへと足を運び、山岳地図の中から「槍ヶ岳?穂高岳」を買い求める。この山岳地図には、表(おもて)に槍ヶ岳と穂高岳を中心に上高地から北アルプス南部山域をカバーする五万分一の地図が、裏に二万五千分の一の槍?穂高詳細図が載(の)っている。信州側の上高地から明神、徳沢、横尾、涸沢(からさわ)を経て穂高の稜線へと至るルートは頭の中に入ってるので地図等無くても全然平気だが、飛騨側の新穂高からアプローチするルートは俺自身一度も登山経験が無い。途中、ルートに迷って時間をロスするのはゴメンだ。ここは素直に山岳地図に頼る事にした。
帰宅した俺は、早速、山支度(やまじたく)を始める。10月の東京は、まだまだ暖(あたた)かいから、着る物一つ取っても、そうそう気にする必要は無い。しかし、これが山、とりわけ標高3000メートル級の穂高ともなると話は違ってくる。この季節、一度(ひとたび)、天候が崩れれば、たとえ平地が雨であっても稜線には雪が降る。そう言う時季なのだ。3年前の事だが、10月上旬、紅葉真っ盛りの涸沢にまとまった雪が降った。涸沢は降り積もった雪で一面銀世界となったのだが、稜線はと言うと当然、こちらも真っ白だ。前穂高岳から奥穂高岳、涸沢岳、そして、北穂高岳へと連なる穂高の大岸壁が陽光(ひ)に照らされて白く輝き、雪の中にはナナカマドが燃えるような赤で彩(いろど)りを添える。今でも目に焼き付いてるが、実に美しい情景だ。そんな事を思い出しながら、俺は、アイゼンにピッケル、ワカンと言った冬山装備も準備する。
平湯温泉から松本、更に東京へと戻ってきた俺は、山支度をととのえると、再び、新宿発松本行きのJR特急スーパーあずさへと乗った。日に2度も乗車し、東京と松本を行き来するのだから、何ともせわしない。しかし、今度の目的地は平湯温泉では無い。新穂高だ。松本から新穂高までは、松本バスセンターから再びバスに揺られていくのだが、あいにくと松本に着いた時には既に最終便が出発した後(あと)。やはり奥飛騨は遠い。今夜は松本駅近くのホテルへと泊まり、明日一番で新穂高へ向かうとしよう。
10月20日、火曜日、午前7時50分── 。
俺は松本バスセンターから高山濃飛バスセンター行きのバスへと乗車した。夏山シーズンには、ここから新穂高への直通バスが走っているのだが、今は登山シーズンも終盤の10月。松本から新穂高へ行くには、平湯温泉でバスを乗り換えねばならない。平湯温泉で乗り換え待ちをする事25分。結局、新穂高バスターミナルに着いたのは午前10時を回っていた。
バスを降りた俺は、バスターミナルの隣、新穂高ロープウェイ駅構内のレストランへと入り、とりあえずコーヒーを一杯注文する。八重洲ブックセンターで買ってきた地図をおもむろに取り出し、熱いコーヒーを啜(すす)りつつ、新穂高から穂高の稜線までのルートを改めて確認するのだが、見れば、ここから白出沢出合(しらだしさわであい)まで2時間、白出沢出合から重太郎橋(じゅうたろうばし)まで2時間、更に重太郎橋から荷継小屋跡まで1時間半、そして、荷継小屋跡から穂高岳山荘の建つ白出のコルまで3時間半。結局、新穂高から穂高の稜線に立つまで9時間はかかる事になる。腕時計に目をやれば、まもなく午前10時半。今すぐ発(た)ったとしても、稜線に辿り着く前に日没を迎えてしまう。しかも、その間、泊まる事の出来る山小屋は1軒も無い。途中で幕営しようにもテントは持ってきていないし、地図を見た所、設営可能な場所も無さそうだ。焦ってもどうにもならないと観念した俺は、今夜は新穂高温泉に泊まり、明日の早朝、出発する事にした。
今夜の宿を求めて観光案内所を訪ねた俺は、ここからバスで来た道を少し下(くだ)った所にある一軒の温泉宿を紹介された。弓折岳(ゆみおりだけ)、槍ヶ岳、穂高連峰に源(みなもと)を発する左俣(ひだりまた)、右俣(みぎまた)の流れが、丁度、新穂高で合わさり蒲田川(がまたがわ)となる。その清流に掛かる吊(つ)り橋を渡りきった所に今夜の宿「深山荘(しんざんそう)」はあった。
今日はもう何も出来ないし、折角、奥飛騨温泉郷の最奥(さいおう)にある新穂高温泉までやって来たのだ。太陽(ひ)はまだ高いが、この宿自慢の源泉かけ流し露天風呂へと浸かる。蒲田川河畔(かはん)にある露天風呂は、川上(かわかみ)に抜戸岳(ぬけどだけ)、川下(かわしも)に焼岳(やけだけ)を望み、周囲には丁度始まったばかりの紅葉が彩りを添える。川の潺(せせらぎ)に耳を傾けながら浸かる露天風呂は最高だ。普段、都会のスーパー銭湯で溜飲(りゅういん)を下げている俺にとっては、この上も無い贅沢(ぜいたく)だ。夕食に出された飛騨牛のステーキも旨かったし、正に言う事無し ?と部屋で寛(くつろ)いでいると、やおら携帯電話が鳴った。木村未来からだ。
「もしもし」
「響資さん? 未来です」
「どうしたの?」
「どうしたのって ?一昨日(おととい)、昨日と2日間、電話が無かったから、ひょっとして響資さんの身に何かあったんじゃ無いかと心配になって電話したんじゃないですかぁ」
「それは、ゴメンゴメン」
「ところで、今どこですか? 響資さんさえ良かったら、これからどこかで食事でもと思ったんですけど ?あ、2回もおごってもらっちゃったから、今回は私がおごりますよ!」
「ありがとう。気持ちは、とてもありがたいんだけど、それはちょっと無理なんだな。実は ?今、岐阜にいるんだよ」
「岐阜?」
「うん、藍沢さんの足跡を追って松本を訪ねたんだけど、そこから、平湯温泉、そして、新穂高温泉へと辿り着いちゃってね」
「て言うか、本当は誰か『いい女性(ひと)』と一緒に温泉旅行でもしているんじゃ無いですか?」
電話越しだが、どうやら彼女はふくれているようだ。思わず目に浮かぶ。
「本当だって。君に嘘ついても仕方ないだろ?」
「信じてますよ、私だって。平湯と新穂高だなんて ?秘湯巡りしている響資さんが羨(うらや)ましかっただけですぅ」
「おいおい ?俺だって遊びで来ている訳じゃないんだよ」
俺は、松本を訪ねてから今日までの経緯(いきさつ)を彼女に話した。
「それじゃ、深山係長が藍沢課長を殺したって言うんですか?」
「いや、まだ深山さんが藍沢さんを殺したって決まった訳じゃ無い。今の所は、その可能性が高いって言うだけだよ」
「でも、響資さんは深山係長を疑っている訳でしょ?」
「まあね」
「で、これからどうするんですか?」
「明日の早朝、宿を出発して、新穂高から藍沢さんの遺体が見つかった涸沢岳沢へと登ってみるよ」
「それじゃ、明日はまだ戻ってこられないんですか?」
「ああ。新穂高を早朝出発するけど、日帰りは無理だろうから、明日は稜線の山小屋へ泊まるよ。そっちへ戻れるのは明後日(あさつて)か ?明明後日(しあさつて)になるかなぁ」
「分かりましたぁ ?」
彼女は淋(さみ)し気(げ)な声で答えたが、こればかりは仕方がない。ここは彼女に我慢してもらうしかない。
「ところで、未来さん、一つ約束して欲しい事があるんだけど」
「何ですか?」
「深山さんが藍沢さんを殺した可能性が高いとは言え、まだ『クロ』と決まった訳じゃないし、会社では深山さんに、ごく普通に接してもらいたいんだ」
「普通に?」
「そう、普通に。何事も無かったかのようにね。それと、未来さんが俺と会ったり、電話で連絡取り合ったりしている事も一切伏せておいて欲しいんだ。約束してくれるかな?」
「それは、響資さんの頼みなら何だって聞きますよ。でも、何故ですか?」
「俺が考えているように、もしも、深山さんが本当に犯人だとしたら、色々嗅ぎ回っている俺や未来さんに、どんな危害が及ぶか分かりゃしない。それに元はと言えば、未来さんをこの件に引きずり込んだのは俺だし、万が一、未来さんの身に何かあったりしたら、俺 ?」
「響資さん ?ありがとう ?」
電話越しだが、彼女の声が震えているのが分かる。どうやら、泣いているようだ。
「未来さん ?大丈夫?」
「ええ、大丈夫。嬉しかったんです。響資さんが私の事、心配してくれて ?」
普段、女心なんて丸きり分からない鈍感な俺でも、流石にこの一言(ひとこと)には心が揺れる。初めて、彼女の事を心の底から愛(いと)おしいと感じた。
電話を切った俺は、彼女の声の余韻を胸に布団へと入る。それにしても、ヌーベルバーグで彼女と初めて出会ったのは、ほんの5日前の事だ。にも関わらず、お互い、こうも早く惹かれ合うようになるだなんて。それもこれも藍沢の死がきっかけなのだから、正に人の縁とは不思議なものだ。
10月21日、水曜日、午前7時── 。
宿の主(あるじ)に頼んで用意しておいてもらった弁当を受け取り、俺は深山荘を出発した。空はどこまでも蒼(あお)く澄み渡り、蒲田川の流れが上流から冷風を運んでくる。空気は凛(りん)としていて多少肌寒い。
「なあに、歩き始めれば、どうせ汗ばむんだから、これくらいで丁度いいや」
今日は朝から夕方まで、みっちり歩く事になる。長い道中を前にして、自らに気合いを入れる。
新穂高を出発した俺は、右俣谷左岸の退屈な林道を行く。左俣谷沿いの林道を行けば、双六岳(すごろくだけ)、三俣蓮華岳(みつまたれんげだけ)、鷲羽岳(わしばだけ)、水晶岳、黒部五郎岳(くろべごろうだけ)と言った、いずれ名だたる北アルプスの名峰へと至るのだが、今回は単なる物見遊山(ものみゆさん)が目的では無い。あくまでも、藍沢、そして、深山が歩いたであろう足跡(そくせき)を辿るのが目的だ。右俣林道を歩くこと1時間。最初の休憩地、穂高平(ほたかだいら)へと着く。山の中の一軒宿と言った風情(ふぜい)の穂高平避難小屋が建っているが、あいにくと人っ子一人いない。入口横の案内板をよく見ると、この時期は土日しか営業していないと書かれている。道理で誰もいない訳だ。俺は小屋の前に広がる放牧場で、鳥が囀(さえず)る中、長閑(のどか)に草を食(は)む牛達を眺めつつ、暫し休息を取った。
穂高平を出て1時間。白出沢出合に着く。この儘、林道を進めば、槍平(やりだいら)を経て「日本のマッターホルン」とも称される名峰、槍ヶ岳へと至るのだが、林道歩きはここでお仕舞いだ。ペットボトルに湧き水を補給し、右側の樹林帯へと足を踏み込む。ここから次のポイント、重太郎橋までは白出沢左岸の獣道(けものみち)の如(ごと)き細い登山道を行く。陽光(ひ)を遮(さえぎ)るものが無かった林道とは打って変わり、木陰(こかげ)の中を歩くので、とても涼しい。とは言え、新穂高を出発してから、ここまでで出会った登山者は一人もいない。共に穂高の稜線を目指すルートであるにも関わらず、上高地、新穂高と起点が異なるだけで、これほどまでに差があるとは思わなかった。これが、逆に上高地からだったら、他人(ひと)と出会わないようにする事の方が難しい。これなら、このルートを深山と藍沢が歩いたとしても、他人に見られた可能性はとても低かった事だろう。
午前11時過ぎ、重太郎橋に着く。「重太郎橋」なんて言うと、さぞや立派な橋が架(か)かっていると思われるかも知れないが、実際には角材を番線で束(たば)ねたものが白出沢の流れの上に渡されているだけだ。しかも、大雨の時や雪解けで沢の水量が多い時には橋は水没。ここを渡るのが困難になると言うのだから恐れ入る。幸い、ここ数日晴天続きで、雪解けの時期でも無い事から、沢の水量はそれ程でも無い。何の苦も無く渡れたのはいいが、一難去って又一難。橋の次は回廊だ。左側は垂直な岸壁、右側は切り立った断崖。幅1メートル程の狭い回廊が暫く続くのだが、所々に設置された標識には、「落石注意、速(すみ)やかに通過せよ」等と書かれている。実際、比較的新しい崩落跡にも遭遇した。ここではゆっくり休む事すら出来ない。腰を下(お)ろして休みたいのは山々だが、先へと進む。
回廊を抜け樹林帯の急登(きゅうとう)を進む。次第に沢の流れる音も遠ざかり、突然、見渡す限り一面のガレ場が目の前に現れた。横には、いつ頃、うち捨てられたのかも分からない朽(く)ち果(は)てた小屋がポツンとある。腕時計に目をやれば、正午はとうに過ぎている。荷継小屋跡へと到着したのだ。
深山荘で用意してもらった弁当を食べ終わった俺は、ルート案内板を確認する。なるほど、涸沢岳の南西尾根を挟んで左右に似たような二つのガレ場が稜線へ向かって続いている。穂高岳山荘の建つ白出のコルへは右奥の白出沢のガレ場を登らなくてはならないが、ここへ初めて来た者にとっては、左手前の荷継沢のガレ場を登りたくなる道理も良く分かる。ルート案内板が無ければ、恐らく俺ですら何も考えずに、手前の荷継沢を登るだろう。ましてや、案内板に細工がされていたとすれば尚更(なおさら)の事だ。とは言え、今日は白出のコルへ向かうのが目的では無い。藍沢の滑落遺体が発見された涸沢岳沢へと向かわねばならないのだ。
荷継沢を登り始めて、そろそろ1時間。右側に別のガレ場が現れた。荷継沢自体、一般の登山ルートでは無いから、周囲を見渡してもルート案内板等、どこにも見当たらない。取り出した地図を見れば、どうやらこれが涸沢岳沢のようだ。俺はこのガレ場を登る事にした。
涸沢岳沢を登る事、2時間。見上げれば穂高の稜線と正面に一つのピークが見える。恐らくは、あれが涸沢岳なのだろう。更に14分ほど登ると、ガレ場に赤いペンキで何やらマーキングがされている。近付いてみると、「×」印と「200X.10.11」と日付が書かれている。
「ここだ!」
遂に辿り着いた。ここに藍沢の滑落遺体が横たわっていたのだ。暫く周囲をうろついてはみたが、遺体発見から既に10日。警察の実況見分も終了し、事故死として処理されてしまった後(あと)の事だ。現場には何も残っていない。そこで俺は更に先へと進み、何とか涸沢岳頂上から伸びる支稜の一つへと登り詰めた。
「藍沢と深山がこのガレ場を通ったとすれば、よくも登ったものだ ?」
一般の登山ルートでは無いのだから、全く整備等されていない。ルート案内板も何も無く、ここまで上がるには勘を頼りにせざるを得なかった筈だ。
俺は休憩がてら周囲を見渡してみる。南には涸沢岳頂上から続く南西尾根が伸び、穂高岳山荘からは死角になっている。北には鳥も通(かよ)わぬと称される大岸壁、滝谷(たきだに)へと合流する幾つもの沢筋が深く刻まれ、人の侵入を頑(かたく)なに拒(こば)んでいる。更に東はと言えば、涸沢槍をはじめとする険(けわ)しい岩稜(がんりょう)帯が幾重(いくえ)にも連(つら)なり、往来(いきき)する登山者にしてみれば、とても余所見(よそみ)等している暇は無い。とすると、深山にとって藍沢に危害を加えるには、ここは最高の場所だったに違いない。恐らく、深山は先にこの支稜へ辿り着き、下から続いて上がって来た藍沢を稜線に登り詰める直前で突き飛ばし、ガレ場へと滑落させたのだろう。あとは藍沢が落ちた場所まで再び下(くだ)り、身動き出来ないでいる藍沢の後頭部を岩へと打ち付けトドメを刺せば、稜線から滑落し斜面の岩に頭を強打しての事故死にしか見えない。場所が場所だけに目撃者の心配も無い。藍沢の絶命を確認した深山は、その儘、涸沢岳沢から荷継沢を下(くだ)り、あらかじめ荷継小屋跡で細工しておいたルート案内板を元に戻して新穂高へと下山。乗ってきた自分の車で東京へと戻れば、週明けの翌日、何食(く)わぬ顔で出社出来た筈だ。