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掃除当番で少し遅れてしまった。クラブ棟の階段を一気に五階まで駆け上がる。
筋肉痛で全身が痛い。昨日、リンを背負って随分歩いたからだ。
弥生が無事なのを確認して、屋上に戻った。
リンが倒れているのを見て、さすがに驚いた。
慌てて駆け寄ってみると、眠っているだけ。相変わらずなマイペースぶりだ。
放置しておく訳にもいかないし、病院に連れて行くのも、前もって釘を刺されたので、危ない。
仕方がないので、リンの家まで運ぶ事にした。
住所を見る限り、学校の近く。すぐに着けるはずだったのに。
道に迷って一時間以上うろついた挙句、急に意識が遠くなって、目が覚めたら自室のベッドで眠っていた。
狐や狸だって、人を化かすという。魔女はその延長線だろうか。
狸の着ぐるみや、狐耳のアクセサリーを身に着けて笑うリンを想像する。不思議な程、違和感がない。
一番奥の部屋、『フシギ売ります』のプレート。
しかし、あれほどの怪我が一晩で治るとは考えられない。リンはまだ居ないだろう。
ノブに掴んで、回した。予想に反して鍵は掛かっていなかった。
ぶっちゃけありえない。
「ノックしろって言ってるでしょ」
キツイ言葉が上座から飛んできた。
ノートパソコンの前に座る小柄な身体。
清潔感のある純白のシャツにリボンタイ。目尻の上がったアーモンド型の目。整った鼻と上品な唇。
邪悪さと愛らしさを兼ね備えた、小悪魔のような顔。
血の跡が消えた肌は柔らかそうな淡い色に戻っていた。
内出血していた手も、青紫に晴れ上がっていた手首も。すべてが元通り。
「ぼけっとすんな。ほら」
リンが紙コップを投げてよこす。コンビニで売ってる十個セットのやつだ。
慌ててキャッチ。指に当たって、ちょっと落としそうになったが辛うじて掴んだ。
「えっと」
「いちいち指示しないといけないの。お茶入れろって言ってんの」
「あ、うん。わかったよ」
相変わらずの暴君ぶり、それにしっかり順応している自分に苦笑を漏らした。
パックを破って紙コップを取り出す、数は三つ。
ペットボトルを開けて、注ぎ込む。
上座に座るリンの前に一つ。そしてその右横に一つ。
「あ、ありがと。ナルミくん」
赤い留め金のループタイが、控え目な淡いシャツの前で揺れた。
大きな瞳がナルミに向けられ、わずかに細められる。健康的な唇から並んだ白い歯が覗く。
優しそうな微笑にとろけそうになる。
「どうかした?」
思わず見とれてしまった。
「あ、ううん。なんで春日さんが居るのかなって」
「それって何かの冗談かな」
当惑した表情に変わる。
「春日さんなんて、呼び方するし」
「えっと」
状況が理解できない。
さっき、ナルミと呼ばれてなかったか。それほど親しくなかったはずだけど。
はっと視線を移動させた。
嬉しそうなリン。
明らかに鳴海の当惑を楽しんでいる。
「弥生ちゃんは春から、ずっと蛇の目屋に居たでしょ」
「え」
「ナルミくん、大丈夫?」
「あ、うん。そうだよね。ちょっとぼけっとしててさ」
「なら、いいんだけど」
怪訝そうな色を浮かべたが、手元の本に視線を戻した。
真剣な表情で本を読む弥生に、見とれてしまう。
と、そんな場合じゃない。
後ろ髪を断ち切って、リンの近くに移動する。
「リン、これはどういうこと?」
「なにが?」
「春日さんのことだよ?」
「弥生ちゃんがどうかしたの?」
「どうして、ここに居るかって聞いてるんだけど」
「弥生ちゃんがここに居たらダメなの?」
質問に質問で答える。これは絶対にわざとだ。からかって楽しんでいるのだ。
どう聞くといいんだろう。思考を巡らせるが、こういう知恵比べは苦手だ。
「どう答えて欲しいの?」
鳴海の思考を先回りして、リンがくすくすと笑う。
「弥生ちゃんにも助手になってもらう事に決めたの」
「そんな!」
「あの子もオカルト好きみたいだしね。丁度、いいかなって」
猟犬との戦いを間近で見た鳴海には妖怪の怖さ、魔女の助手という立場のリスクがどれ程の物か漠然と理解できる。
気軽に部活に誘うのとは違う。
「でも」
「アタシが決めたんだけど。モンクあんの?」
ギロリと睨む。暴帝の貫禄十分だ。
うっと反論を飲み込んでしまった。
「そうそう、蛇の目屋はオカルト関連の謎を研究する不思議探究クラブって設定にしたから」
設定って何だよ。
「ま、この議論はおしまいっと」
冷たく言い残して、ノートパソコンに目を戻した。
整然と並んだキーの上で、ほっそりとした指が踊る。液晶の画面にいくつもの図が表示され、切り替わっていく。
鳴海も仕方なく自分のパイプイスに腰を下ろす。
この部屋では一番下座。なんとなく落ち着く。
弥生を見た。素直に可愛い。リンみたいに性格が破綻してるわけでもない。
鳴海の視線に気づいたのか。弥生が顔を上げた。
「ね、ナルミくん」
物は考えようか。
弥生のような可愛い女の子が近くに居てくれるのは、健全な男子であれば魅力的な状況である。
「ナルミくん?」
「えっと、なにかな。その、えっと、弥生ちゃん」
リンの設定とやらがどうなっているのか解らない。こんなに親しい関係じゃないかも。嫌われたりしたらどうしよう。
そう考えると、最後の呼称はちょっと勇気が要った。
「あのね」
どうやら問題なかったようだ。
「チュパカプラと河童の同一存在説って、どう思う?」
「はい?」
一瞬、間が開いた。
「チュパカプラと河童の同一存在説って、ナルミくんはどう思う?」
もう一度、同じ質問。
意味が解らない。
「ちゅぱ?」
「チュパカプラ」
弥生のトーンが半音下がる。
「ちゅかぱら……ってなに?」
バン!
弥生がいきなり立ち上がって、机を強く叩いた。
ぶっちゃけありえない。
思わず身を引いてしまった。
「信じられない」
低く押し殺した声。伏せられた顔。小さく震える肩。
ぶっちゃけありえない。
怒っている。自分の言葉がそれほどの物だったのか。
「チュパカプラも解らないなんて有り得ない! 不真面目にも程があるわ!」
弥生が顔を上げた。
頬が赤い。こめかみが微かに痙攣している。丸い大きな瞳が、今は鋭く細められていた。
助けを求めて、リンの方に目を向けた。心底楽しそうな表情。
「だから、オカルト関連の謎を研究する不思議探究クラブって言ったでしょ。
ちゃんと勉強しとかないと、怒られちゃうわよ。弥生ちゃんって、こっち方面にはかなり真剣な子だから」
「そんな」
更に強く机を叩いた。
ひいっと小さく悲鳴を上げて、視線を弥生に戻す。
ぶっちゃけありえない。
怒りのボルテージが上がっている。
「どうして、余所見してるのですか。ナ?ル?ミくん!」
「あわわわ」
なかなか面白い二人だ。
軟弱な鳴海と芯の強い弥生は良いコンビになるとリンは思う。
人の寿命は長くて百年くらい。
自分にとってはわずかな時間だ。この百年くらい、二人の為にちょっぴり魔力を裂いてやるのも悪くない。
魔力が繋ぎとめる偽物の命であっても、当人達が気づく事はないのだから。
「ま、一回くらい怒られてみるのもいいんじゃない」
パタリとノートパソコンを閉じて、立ち上がった。
鳴海の生命を維持する為にも、鳴海の心臓というリアリティを早く取り返さないといけない。
「アタシはちょっと用事があるから、先に帰るわね」
すがりつくような鳴海の視線を振り切って外に出る。
妖気を感じた。空腹に耐え切れず動き出したか。
猟犬に比べると小物だが、放っておく訳にもいかない。
「リン、待って!」
鳴海が飛び出してきた。
「ん」
まっすぐな瞳。
「僕も」
「余計な心配すんな」
台詞を先回りした。
「必要になったら、ちゃんと呼ぶから」
「約束だよ」
「あのね……」
軽口を叩くのは止めた。鳴海が真剣だったから。
「解ったわよ」
「じゃあ、指きり」
右手の小指を出してきた。
くだらない。まったくガキっぽい。バカらしいにも程がある。
「気をつけてね」
「はいはい。アンタ達も適当に帰るのよ」
部室から弥生の怒鳴り声が聞こえてくる。
このコントを最後まで見れないのはちょっと残念だ。
「じゃ、またね。明日は遅刻すんなよ」
空間座標を書き換える。
妖気を感じた付近に瞬間移動。
それにしても、ほっそりと柔らかい鳴海の指は女の子みたいだった。
軟弱に育ちすぎてるんじゃないか。
今のガキは幸せだ。
建設途中で放置されたこのビルに化け物が出る。
最近の話題だった。
この時代に有り得ない。根も葉もない噂話。
でも、もしそれが本当で、写真の一枚でも撮れれば。
マスコミに送ればテレビにも出れるし、お金だって貰えるかもしれない。
学校が終わると同時に使い捨てカメラを買って、やってきた。
夕方だというのにビルの中は信じられないくらい暗かった。
シートが日光を遮っているだけ。そう信じた。
用意しておいたペンライトを頼りに奥に進んだ。
本当に化け物だった。それ以上の表現はない。
人の頭をした巨大な芋虫みたいだった。
伸縮する緑色の身体に無数の触椀がうねうねと動いている。
「なんだ。ガキか。しかもオスとはついてねぇ」
粘り気のある声だった。醜悪な顔に生理的な不快感を覚える。
ぐいっと身体を伸ばした。
大柄の自分より遥かにデカイ。五メートルくらいはあるんじゃないか。
「メスなら喰う前に楽しめたのによ」
蝕椀が周囲から迫ってくる。怖くて動けない。
蛇に睨まれた蛙ってこんな気分なんだろうか。
「まあ、久しぶりの飯だ。ゆっくり時間を掛けてバラしてやるよ。ひひひひ」
自分はここで、こんなとこで死ぬのか。
「食事中にお邪魔すんのは無粋かな」
甲高い声だった。反射的に視線を向ける。
紅い奇妙な衣装に黒いマントが、闇の中で浮かんでいるように見えた。
小学生に思える小柄な身体。
「アンタもさ、喰われるの待ってないで、ちょっとは逃げようとか努力しなさいよ」
見下したような視線。
「ったく、最近はクズばっかりね」
大袈裟に溜息を漏らした。
「さて、イモ虫野郎」
びくっと跳ねた。
「真紅の魔女か」
絞り出した声は震えていた。
この化け物が、これほどの化け物が、どう見えても小学生にしか見えない女の子を恐れている。
「真紅の魔女か」
噛み締めるように呟く。
少し考えて、顔を上げた。勝気な笑みを浮かべる。
「残念ながら人違いね。アタシはリン、蛇の目屋のリンよ」
?完?
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