ウサコ、応接セットのテーブルの上に郵便物をおく。また、チューインガムをそれぞれに渡す。自分は郵便物のなかからデパートの広告のをひとつ抜きとり、ソファーの上に寝そべって眺める。亭主と夫人は、さっきからこのテーブルのそばの椅子にかけていた。郵便物をよりわけ、封を切ってつぎつぎに目を通す。ちょっとした一家だんらんの光景。しかし、三人ともチューインガムを口に入れているので、しばらく無言。
*
ウサコとともに、霊魂の老紳士も戻ってきている。昭一郎と春子とは、ずっと抱きあい、顔を見つめあっている。老紳士それを見て、さびしげな表情に、にがにがしげな表情をもつけ加え、ぶつくさ言う。
「おもしろくない。ああ、うらめしい。なにもかものろいたくなる。それに、なんだ、あの二人。ひまさえあれば、いちゃつきあっている。人目をはばからず、いい気なもんだ。いまどきの若い者ときたら、まったく、いい気なもんだ。節度というものをわきまえない……」
昭一郎の霊魂、それを聞きとがめ、春子と抱きあいながら、顔だけ老紳士のほうにむけて言う。
「また、それを言う。いいかげんにしなさいよ。この霊魂の世界においては、ぼくたちのほうがずっと古い。あなたは、ついこのあいだ、やってきたばかり。うまれたばかりの、ひよっこみたいなものですよ。つまり、新入り。新入りは新入りらしく、おとなしくしてなさい。ぼくたちの愛のじゃまをしないで下さい。あなたの声、現世の人間たちには聞こえなくても、ぼくたちの耳には入るんですよ」
「いや、たしかにそうでした。ここでは、あなたがたのほうが先輩でした。失礼おわびします。なにしろわたし、死んでまもないもので、時どき、自分が生きてるんじゃないかとの錯覚にとらわれる。なんだか、まだ死んだという実感がしないのです」
「その点はわかりますよ。だれでも最初のうちは、そういうものです」
「死んでからうろうろしていると、だれかが、あいている人物をみつけてとりつきなさいと教えてくれた。あたりを見ると、ウサコとかいう、この少女がいた。かわいらしい子だ、しめたとばかり飛びついた。しかし、ちっともいいことがない。江戸小話を思い出しましたよ。ある美しい女にほれこんだキツネ、とりついてみたはいいが、どうってこともない。しまった、となりの家の若旦那にとりつくべきだった。そんなのがありましたねえ。もっとも、この子、まだそれほどのお色気のある年齢でもないが。お色気があったところで、しようがないわけか。まったく、つまらない。悲しく、うらめしい気分、わたしは死にたいくらいです」
ぐちをこぼしつづける老紳士を、昭一郎はなぐさめる。
「死んでしまったのですから、はらをきめなくてはいけませんよ。元気をお出しなさい。われわれ霊魂はキツネとちがうんですから、となりの若旦那にとりついたって、どうってこともありませんよ。現世の常識から、早いところ脱却するよう、努力することですね。未練をいいかげんで捨ててしまわなければいけませんよ。いずれ、いいこともありますよ」
「そうですかねえ」
「われわれ霊魂とは、自分の意思でハンドルをまわせない自動車に乗っているようなもの。行先不明のトラックの荷台に乗っているようなもの。そわそわしたって、どうしようもありません。あいている車をみつけたら、近くにいった時に、さっと乗りかえればいいんです。あるいは、だれかにとりついている霊魂に交渉し、相談ずくで、かわってもらうかすればいいでしょう」
「そういうことができるのですか。じゃあ、機会があったら、さっそくそうするかな」
「ご自由に、と言いたいところだけど、ゆっくりかまえたほうが賢明ですよ。そのウサコの休暇が終り、学校がはじまれば、そこであなたも、いろんな霊魂と毎日顔をあわせることができるわけです。その連中と話しあってからにしたらどうです。どうせ時間はたっぷりあるんですから」
「そういうものかもしれませんね。さまざまなご忠告、ありがとう」
老紳士はお礼を言う。春子、すこしいらいらしはじめ、昭一郎の顔を手で自分のほうにむける。
「ねえ、昭一郎さま……」
紳士、あやまる。
「お楽しみのおじゃまをし、申しわけございません。どうぞ、おつづけ下さい」
昭一郎と春子、むかいあって立ち、両手をにぎりあい、仲のいい光景にもどる。老紳士、目のやり場に困ったような表情になり、それじゃいかんのだと考えなおし、そのうち首をかしげて、小声でつぶやく。
「霊魂に時間はたっぷりある、あせることはないなんて言っておきながら、あの二人、時間を惜しんで、あつあつムードにひたっている。どういうことなんだ……」
*
大きな机の上の電話のベルが鳴る。夫人、チューインガムのかすをくずかごに捨て、受話器をとって言う。
「はい、こちら、現代人生設計相談室でございます。で、ご用件は……。はあ、至急にお金を借りたいと……。ご予約なさっておいでですか……。ご予約なしですか。あらかじめご予約の上でないと、うちは……。え、この電話をご予約と思って下さいですって……。それも理屈ですわねえ。では、ちょっとお待ちを。所長のつごうをうかがってみますから……」
夫人、受話器の口を手のひらで押え、亭主に言う。
「……カモが一羽、じたばたしながら飛んで来たいってよ」
「きょうは、さしあたっての来客予定もない。おまえのほうはどうだ」
「まだ来るには時間があるわ……」
夫人は受話器に言う。
「……そちらのごつごうは……。え、近くまで来ている……。それはそれは、ご熱心なことで……」
夫人、腕時計をのぞきながら話しつづける。
「……所長は、すぐおいで下さいと申しております。場所はおわかりですか。このマンションは……。それもご存知……。では、お待ちしていますわ」
夫人は電話を切り、ウサコに言う。
「さあ、お仕事よ。ウサコちゃん、むこうの室にいってらっしゃい」
「はあい。そのドアのむこうの机で、本でも読んでるわ」
とウサコ、小さなドアから別室へ去る。
*
老紳士の霊もウサコについて動くが、ウサコは壁のむこう側の机の|椅《い》|子《す》にかけたわけ。そのため、老紳士は限度内の距離をたもって、この広い部屋のなかにとどまることができる。ウサコによって小さなドアがしめられるが、老紳士はこの部屋の壁ぎわに立っているという状態。
*
亭主、椅子から立ち、読み終った郵便物をくずかごに捨て、チューインガムのかすも捨て、にこにこ顔となって言う。
「さあ、仕事だ、仕事だ。カモが来るぞ。人生、日々これ戦い。かせぐに追いつく貧乏なし。沈黙は金、雄弁は銀、この格言は関係ないな。社会のジャングルは弱肉強食。食うか食われるか。同じことなら、食うほうにまわるべし。カモを料理する、わが腕前を見よ……」
体操のごとき身振りになる。夫人は言う。
「窮鳥を焼き鳥にする金融業、ってとこね。現金な人って、あなたみたいな存在ね。すっかり張り切っちゃって、いそいそして。あたしにも、たまにはそんな態度を示したらどうなの」
「なにいってんだ。借金と金貸しに依存する家庭生活には、自由もなければ、美しさもありません。これは、イプセンの作品『人形の家』に出てくるせりふだそうだ。となると、わが家には自由と美しさがみちみちてることになるぞ。お金とはふしぎなもの、いくら長くつきあっても、|倦怠《けんたい》期がこない。これはわたしの作った名文句だ。そのうち格言集にのるかもしれない。おっとっと、こんなものが机の上にあっちゃ、お客さんが目をまわす……」
亭主、大きな机の上のチンパンジーの頭蓋骨を引出しのなかにしまう。かわりに電子計算機を机の上にのせる。夫人は大机のそばの、受付用のごとき事務机に付属した椅子にかける。亭主は大きな机の椅子に。いつお客が来てもいい態勢。
*
霊魂の昭一郎と春子も、少しはなれざるをえなくなる。二人はなごり惜しそうなようす。悲しげな表情があらわれる。それをなぐさめるつもりか、老紳士が春子に話しかける。
「その、この家のご主人、いやにお金にご執心のようですな。死後まで持ってこられるわけでもないのに、どういうつもりなんでしょう」
「あたくしにはそのような経験ございませんけど、生きているかたには、こんなのが多いようでございますわ。あなたさまは、生きているあいだ、どうでございまして……」
「そういわれると、その男と大差ありませんでしたな。わたしはある会社の社長をしてましてな、事業の鬼と言われたものですよ。死ぬ数日前まで、会社に出勤し、事業計画にとりくみ、利益率の向上のため、社員たちを督励していたものです。ばかげたことですな。いま考えると、お恥ずかしい」
「そんなことございませんわ。生きている時は生きている時のこと、いまはいま。比較すべきことではございませんでしょう。それでも、そんな感想をおっしゃるようになられたのですから、こちらの世界に、いくらかおなれ遊ばしたみたいでございますわね」
*
やがて、廊下に面した大きなドアの上のブザーが鳴る。夫人、立ってドアをあける。
五十歳ぐらいの男が入ってくる。経営不振の小企業の経営者といった感じ。使い古した書類|鞄《かばん》をしっかりとかかえている。夫人に名刺を出し、ぺこぺことあいさつ。
「こういう者でございます。なにとぞ、よろしく。お力をお貸し下さい。ここで助けていただければ、必ず立ち直れるので……」
「あらあら、あたしはただの秘書ですわ。所長はあちら。大きな椅子にふんぞりかえっていらっしゃるかた。さあ、どうぞ、こちらへ……」
夫人、その男を大机の前の椅子に案内し、亭主に事務的に引き渡す。
「さきほど、お電話で連絡のあったお客さまがみえました」
男は恐縮したようすで椅子にかけ、どう切り出したものかと、呼吸をくりかえす。
*
その男のあとにくっついてきた霊魂。ふとった中年婦人で、白い無地のガウンをゆったりと身にまとっている。そして、両手のてのひらを下にむけて前や横にのばし、ゆっくりゆっくり、波のうねりのように動かしつづけている。あまりの異様さに、老紳士はその女に視線をむけたまま。春子、老紳士に皮肉めいた口調で言う。
「現世の人より、霊魂のほうに目がむくようにおなりのようね。だんだんと、新しい境遇になれていらっしゃったわけですわ。いい傾向でございますわ」
「いや、こういうご婦人は、現世でもめったにお目にかかれませんよ。奇妙な女ですな。いったい、どういう過去を持ったかたですかねえ……」
*
来客の男は口ごもっていたが、やがてせきこんだような早口で、亭主にむかってしゃべりだした。
「じつはですね。わたくし、この名刺に書いてありますように、小さな工場をやっているものなんです。設備を買いととのえ、うまくいくはずだったんですが、いざ製造してみると、その製品は流行おくれ。そこで設備を改良しまして、製品のデザインを変えてみた。その最初の売行きはよかったんですが、売行きがふえるにつれ、流行おくれとなってきた。売行きが悪ければ、流行おくれになるのもおそかったんでしょうが……」
それを聞き、亭主は大笑い。しかし、憎めないところのある笑い方。
「いやあ、傑作ですな。それこそ、まさに矛盾の典型。売上げ増大は流行の終りを早め、売上げの低下をもたらす。さぞ残念なことでしょうな。それなら売行きを調節すればいいわけだが、そうもいかない。愛が深ければ深いだけ、倦怠期の訪れも早い。似てますな。世の女性たち、この原理を知らない。ここに意識革命が必要なわけですよ。倦怠期の来るのを防ぐには、愛なんかではだめだ、ばかばかしさで結ばれていなければならぬ。おい、秘書、そうじゃないかね」
亭主、夫人に声をかける。
「はい、所長さん、そう思います」
夫人はすました顔で答える。秘書ということになっているので、それらしい態度。亭主ふたたび工場主にむかう。
「あなたは、そのことを身をもって体験した。これは貴重なことですよ。値段をつければ大変な額になる財産。事情がわかったということは、もはや克服したも同様です。さあ、元気を出して、元気を出して、前進あるのみ。もう少しちゃんとしなさいよ」
「元気は出してますよ。わたしの顔つき、しゃべり方、これらはうまれつきのもので、仕方ありません。この服装、あわれっぽいかもしれませんが、じつは税務署へ寄った帰りなんでして……」
「それは、おみそれしました」
「元気があるからこそ、こうしてやってきたのですよ。元気がなければ、やけ酒を飲んでるか、首つりをしてるとこでしょう。失敗は成功の母、必要は発明の父、これまでの経験をいかせば、こんどこそ絶対に大丈夫。わたしの頭のなかでは、進軍ラッパが鳴りひびいています。そこで、なんとか資金の融通を……」
「なんだか話しにくい人だね。そう急に元気になられては、こっちのほうが心配になってくる。あなた、暗示にかかりやすい性質じゃないのかな。しかし、わたしは、人間に対して金を貸すのでなく、確実な担保に貸すのだから、人柄など関係ない。で、なにかお持ちですか。この元気を担保に、なんて言わないで下さいよ」
「それぐらいの常識はあります。手形を持ってきました。ビー?エル特殊日用品販売商事のものです。むこうじゃ、こっちを子会社と思ってるのかもしれないが、こっちはむこうを親会社などと考えてやしない。製品を扱わせてもうけさせてやってると……」
「はったりはおよしなさい。問題はこの手形が期日に落ちるかどうかです……」
亭主は手形を受け取り、見つめる。
*
その工場主にくっついて入ってきた、ふとった中年婦人の霊魂、あたりを見まわし、手をゆっくりとふりつづけながら、ほかの霊魂たちに話しかける。
「みなさん。いっしょうけんめいにやってますか。まじめに毎日をすごしなさいよ。お祈りをおこたってはいけませんよ。お祈りをつづければ、やがて昇天し、天国に行けます。おこないがよければ、それだけ昇天も早くなるのですよ……」
昭一郎と春子は興味のなさそうなようすだが、老紳士は目を輝かす。
「もしもし、あの……」
婦人に話しかけ、声を高めて自分のほうに注意をむけさせ、言う。
「……それは耳よりなことですね。じつはわたし、死んでまもないんですが、こんな状態にどうもなじめないのです。これがいつまでもつづくのなら、いっそ死んでしまいたい思いです。だが、霊魂にはそれもできない。となると、たのみのつなは昇天だけです。くわしいお話を聞かせて下さい」
「昇天ということは、説明や理解でできることではありません。信仰です。ひたすら信じることです。それが唯一の道です」
「それはそうでしょうが、もっと具体的なことをうかがいたいものです。で、あなたは、いったいどなたなのですか」
「あたしは天なる神の使い。天使です。こんな具体的なことはないでしょう。ですから、あたしの言葉にうそはありません。信じなくてはいけません」
昭一郎、口をはさんで老紳士に言う。
「その女の相手になっちゃだめですよ」
「なぜです。いいことを言ってるじゃありませんか。霊魂になってまで、うそをつくこともないわけでしょう。この女がこう言うからには、なにか根拠があるからでしょう」
「根拠はありますよ。それはですね、その女、生きている時に頭がおかしかったということです。自分が天使であると思いこんでいる気ちがい。珍しい種類かもしれないな。自分を神と思いこむのはよくあるが、遠慮して天使と称するのは。まあ、そんなことはどうでもいい。死後、霊魂になっても、まだその状態がつづいている。だから、うそをついているわけじゃないけど、真実でもない。この世界じゃ、ちょっとした名物女。新入りの霊魂は、よくひっかかる。ひっかかったからといって、なにも損することもないけど、つまらないでしょう。そう知った上でなら、なにをなさってもけっこうですが」
「なるほど、そうでしたか。がっかりさせられましたな。しかし、いずれにせよわたしは、現状に不満なのだ……」
老紳士はつぶやく。中年婦人は、昭一郎の言葉が聞こえたのか聞こえないのか、べつに怒らない。自分を天使と思いこんでいるので、怒ることもないのかもしれない。老紳士、思いついたように中年婦人に言う。
「……いかがでしょう。天使さま、エンジェルさま。わたしと人物を交換しませんか。わたしのは、となりの部屋にいますが、あどけない少女なんです。天使のような少女。それこそ、あなたがとりつくのにふさわしい人物と思いますが……」
交渉しはじめるのを見て、昭一郎あわてて老紳士に言う。
「待って下さい。待って下さい。それは困りますよ。あなたはいいでしょうが、ぼくたちの身にもなって下さい。そんな気ちがいにこの家に来られては、ぼくたち、たまったものじゃない。そばで説教をされては、愛のささやきのじゃまになります」
春子も老紳士にたのむ。
「おねがい。この自称天使にそばにいられては、あたくしたち、気が散ってしまいますわ。ね、おねがい。思いとどまって下さいまし」
春子は手をあわせ、昭一郎もまた老紳士に言う。
「あなたがどうしても人物をかわりたいのなら、そのうち、もっといい人物があらわれた時に助言しますよ。ですから、その女だけはやめて下さい。先輩の忠告と思って、がまんして下さい」
「それに従うとしましょうか。あなたがたお二人の、うらみを買ってまで強行するつもりはありません」
「ありがとう」
そんな会話におかまいなく、婦人は手をゆるやかに動かしながら、しゃべりつづけている。手の動かしかたから察するに、天使となって空中をはばたいているつもりらしい。また、いささか耳が遠いようでもある。
「神の存在を疑ってはなりませんよ。神の存在をみとめることは、天使の存在をみとめることです。天使とはあたしのこと。それはつまり、あたしの言葉が正しいというわけで……」
その表情には、人のよさがある。
*
亭主、手形から目をはなし、客の工場主に言う。
「問題はこの手形ですよ。この診断をしなければならない。秘書とも相談したい。あとでまたいらっしゃって下さい。結果をお知らせしますから」
「じつは、急いでるんですよ。急患あつかいでやって下さい。そとの廊下で待ってますから、早くきめて下さい」
「熱意のあるかたですな。感心しました。しかし、それと金を貸すのとは別問題。あまり期待なさらないように。世の中、熱意があるからといって、医者が喜ばしい診断をしてくれるものでなし、熱意があるからといって、頭がよくなるわけでも、美人になるわけでもない。熱意というもの、なくても困るが、あっても、どうってことありませんな。ビールの|泡《あわ》のようなものですかな。あはは……」
夫人、客をドアから廊下に送り出す。
「所長がお呼びになるまで、しばらくそとでお待ち下さい」
工場主は出てゆく。ドアはしめられる。
*
しかし、その工場主は廊下で待っているので、ついている霊魂の、自分を天使と思いこんでいる婦人は、そのままドアのそばの壁ぎわに残っている。そして、手を前や横に動かすという、妙なしぐさをつづけている。老紳士はいささか退屈でもあり、そのまねをする。婦人、それを見て満足げにうなずき、さらに動作をつづける。
*
亭主は手形を、日光の明るさにすかして見ながら、つぶやく。
「この手形、大丈夫かなあ。予言能力の欲しいところだね。しかし、わからんところがいいわけで、いいか悪いか百パーセント確実にわかっては、金融業者としての楽しさはまるでなくなってしまう。ばかにもできる単純労働となりさがる。それが可能となったら、わたしも転業するだろうな。ということはだなあ、医者にしろ裁判官にしろ、誤った判断を下すかもしれないという可能性があるからこそ、その職業に熱中できるということなんだろうな。いや、こんなつまらんこと言ってる場合じゃない。あっはっは。この手形の診断のほうがさきだ……」
亭主は電話をかける。
「……あ、エイ?オー企業調査所ですか。こちらは会員番号七七二五。ある会社の信用度をうかがいたい。会社名はですな、ええと、ビー?エル特殊日用品販売商事という……。すぐわかる……。では、このまま待ちましょう……」
亭主は電話のそばのメモを開き、記入する用意をする。
「……わかりましたか。うん……。大丈夫でしょう……。信用していい手形金額の限界は……。うん、なるほど。しかし、大丈夫でしょうね、でしょうは気になるね。こっちはね、高い金額の入会金を払って、そちらの会員になり、安くない会費を毎月はらっているんですよ。情報は、正確でなくては情報といえない。万一の際には、損害をいくらかしょってもらいますよ……。うん、うん。そうこなくちゃいけません。いやあ、あなた、いい仕事をなさっておいでだ。大いにもうけて下さい。ご指示ありがとう」
亭主は電話を切る。
「あっはっは、だね。まあ、よさそうだ。しかし、念には念をということもある……」
そして、また電話をかける。
「もしもし、キュウ?アイ信用調査研究所ですか。こちらは会員番号九六三。特別会員ですぜ。回答をお願いします。エイ?オー企業調査所についてです。最近のあそこの調査が正確かどうか、その調査結果が知りたいわけです……。え、すぐわかりますか……。うむ、うむ、なるほど。しばらくは大丈夫というわけですな。こっちも高い会費をあなたのとこへ払ってるんですから、回答に責任もって下さいよ。そうでなかったら、あなたのとこの信用がめちゃめちゃになる。万一の際は、損害を分担する覚悟でやってるんでしょうね……。うん、なるほど。ご立派です。あなた、いい仕事をなさっておいでだ。なるほど……。テレビ視聴率の調査会社の、その調査の信用度についての調査も計画中と……。えらいもんですな。社会のうその横行が激しくなるほど、そちらはもうかる……。目のつけどころがいい。資金が必要なら、お貸ししますよ。大いにがんばって下さい……」
亭主は電話を切る。
「あっはっは、だな。しかし、資金を貸すっていっても、その時には、どこへ信用度を問いあわせたらいいんだろう。まあ、そんなことはどうでもいい。現金を用意するか」
亭主は手形をながめ、机の上の電子計算機をなれた手つきであやつり、椅子から立ちあがる。壁のほうへ行き、絵を横にずらす。そこにはめこみ式の小型金庫がある。さきほど、亭主が絵にむかって手をあわせたのは、この金庫にむかってのあいさつだったというわけ。
金庫のダイヤルをまわし、|扉《とびら》をあけ、札束をとり出し、必要分だけかぞえ、あとはしまいこむ。扉をしめ、絵をもとにもどす。札束は封筒に入れ、机の上に。
*
老紳士の霊魂は札束をながめ、感無量といった表情。
*
「まだ、なんとなく不安だが、その不安さがあるからこそ、良心の|呵責《かしゃく》なく利息がとれるというものだ。あはは。さあ、さっきのお客さんをお呼びしてくれ」
と亭主、夫人に声をかける。夫人はドアをあけて廊下の工場主を呼ぶ。
「所長が、いらっしゃいって」
工場主は待ちかねたようすで、また大机の前の椅子にかける。
「いかがでしたか。入学試験の合格発表を待つような気分です。そういえば、あの気分、なつかしいものですなあ。もしかしたら、人生のなかで、最も人間らしいひとときかもしれませんな。胸がわくわく、口は勝手に、わけのわからないことをしゃべりつづけ……」
「わかった、わかりましたよ。さっきの手形ですが、いちおう合格です」
「そうですか。ありがたい……」
ほっと息をつく工場主に、亭主は言う。
「合格とは発表しましたけど、入学決定とはまだ言ってませんよ。手続きがいります。入学金、月謝の前払い、なんとかの費用、かんとかの費用。それを納入するかどうかです。つまり、利息をいただくわけです。わたくしども、これが営業ですのでね」
「それはいたしかたありませんな。で、どういうことになりましょうか」
亭主、机の上の電子計算機のキーを器用にたたき、相手に言う。
「これが金利。金融業にみとめられている率です。これが手形の落ちるまでの期間。それに額面をかける。これが調査料、あなたは急患なので、割増しぶんが加算されています。というわけで、お渡しできる現金がこうなります」
「調査料ってのが、ばかになりませんな」
「いやあ、ほんと、ほんと。わたしもそう思いますよ。しかしねえ、調査してみて、お貸しできない場合もあるわけでしょう。そんな時、そのぶんをその人からは取れない。うらむのなら、その人たちをうらんで下さい。わたしも手伝ってうらんであげますよ。不公平なもんですよ。しかし、手形の不合格者をうらむのは、死者にむちうつ行為。あなたのような、合格者が負担してあげなくちゃあ。貧しい人たちのぶんぐらい、しょってあげなさいよ。あはは。あなたはお金持ちなんだから……」
亭主、封筒のなかの札束を出したり、ひっこめたり。工場主、それと計算機をみくらべながら言う。
「げんなまをちらつかされると、思考が乱れますなあ。空腹の|魚《さかな》の前で、えさを動かすようなものですよ。それに、こういう計算機の普及、いやですなあ。ソロバンだったら、ちょっと手にとり、せめてこれぐらいにまけて下さいと交渉もできるんだが、これだとできない。科学の成果というやつは、人間をいじけさせてしまう」
「いやあ、あなたは目のつけどころがすばらしい。ソロバンのよさを残した計算機、その改良をおやりなさいよ。おたがいに人間味をかわしうる商談用の計算機。いいアイデアだ。きっともうかりますよ。いまでこそ、ただの町工場だが、将来は世界的な企業。その光景が目に浮ぶ。うらやましい」
「くすぐったい気分だ。そう言われると、憤然と席を立てなくなってしまう。よろしい、承知しました。お金をお貸し下さい。この屈辱をいかし、いじでも工場をたてなおしてみせる。いまにみていろ。そっちが金に困って泣きついてきても……。そういうことは起りそうにありませんね……」
「あっはっは。ほんとに、あなたはにくめない人ですね。またいらっしゃい」
亭主、お金を渡す。工場主は鞄に入れる。
「金を借りに来て、たくさん利息を天引きされ、にくまれちゃ、たまったものじゃありませんよ。どうも、おじゃましました……」
工場主はあいさつをして立ちあがり、夫人の机のところで足をとめ、話しかける。
「二度と高利の金を借りない決心ですが、あなたとは、またお会いしたいものですね。こんなところの秘書なんて、つまらないでしょう。そのうち、どこかで……」
亭主、工場主に声をかける。
「用がすんだら、早く出てって下さいよ」
「お金を借りてしまえば、こっちのものだ。あとはこっちの自由でしょう」
「だめだ、だめだ。ここは忙しいんだ。つぎの来客もあるし」
「わかった。ははあ、この女の人、所長の二号さんかなんかでしょう」
「いいにくいことを言う人だね。まあ、そんなとこだ」
「うまくやってますね。秘書を二号にするとは、趣味と実益の一致ですな。一号さん、本妻のほうはこのこと知ってるんですか」
「よけいなせんさくをするなよ。わたしには弱味なんかないから、ほじくってみてもむだだよ。一号は、ちゃんとあの絵のむこうに……」
絵を指さしながら亭主は立ちあがり、工場主をドアから廊下に押し出す。
*
工場主とともに、自分を天使と思いこんでいる婦人の霊魂、部屋の霊魂たちに手をふりながら出てゆく。
「みなさん。またお会いしましょうね。天国に早く行けるよう、正しい毎日をすごすようにして下さい……」
廊下へのドアしまる。昭一郎と春子、ほっとする。
「昭一郎さま、よかったわねえ。あんなのにそばにいられたら、困ってしまいますわ」
「助かった……」
昭一郎は老紳士のほうをむき、礼を言う。
「……どうもありがとうございました」
「相対的にみて、わたしの価値が上ったようですな。しかし、あんな変なのをうろつかせといてもいいんですか」
「われわれは霊魂なんですから、これ以上よくなりっこもないし、悪くなりっこもない。べつに被害を受ける者も出ないんですから、かまわないでしょう。もっとも、ぼくたち二人は愛しあっているので、べつです。ああいうのにじゃまされたくないんですよ」
*
亭主はキャビネットから帳簿を出し、いまの手形取引きの件を記入、手形とともにキャビネットにしまう。
「これで一仕事おわりだ。あっはっは、だね。ゆかいなやつだったな。天引きされた利息をいくらかでも回収しようと、おまえをくどきはじめた。外見ににあわず、抜け目のないところがある。いまに事業を大きくするにちがいない」
「そうじゃないのよ。あたしの魅力にひかれ、いまの人がふらふらっとなったのよ。いい気分だわ」
「みな、三者三様に満足をした。これにて一件落着。めでたいことである」
「いまの手形が偽造じゃなかったらね」
「おどかすなよ。なにか、それらしい点でもあったのか」
「あたしの予感よ」
「それなら安心だ。おまえの予言の当ったためしがない。あの手形に保証がさらに加わったようなものだぞ」
亭主にこにこ。夫人はなにか言いかえそうとするが、腕時計をのぞいてあわてる。
「あらあら、まもなく、あたしへの予約のお客さまが来る時間だわ。用意をしなくっちゃあ。あなた、マントとってきてくれない」
亭主は小さなドアから別室へ行く。夫人は大きな机の上の計算機を引出しにしまい、かわりにチンパンジーの頭蓋骨を出す。それから、壁の絵を裏がえす。絵は古代エジプト風の、なにやら神秘的なものとなる。戻ってきた亭主、それを見て注意する。
「気をつけてくれよ。その金庫のダイヤルには非常装置がついてるんだから。へたにまわすと、強力な催眠ガスがふき出すことになっている」
「わかってるわよ。さあ、そのマントをまといましょう……」
裏の赤い、黒くゆったりとしたマント。夫人、それを亭主より受け取って身につける。
「……これを着ると、なにやらミステリアスなムードがただよってくるわね」
「わたしには、子供むけ漫画の登場人物としか思えないがな」
「そこがいいのよ。常識人の典型みたいなかっこうだったら、身上相談の担当者になっちゃう。常識的な回答をお望みのかたは、身上相談のほうへ行けばいいんだわ。だけど、身上相談所って、どこにあるのかしら。聞いたことないわね。新聞、雑誌、テレビ、ラジオなんかじゃさかんにやってるけど、現実には存在してないみたいね。投書欄で採用にならなかった、たくさんの人、どうなっちゃってるのかしら」
「どうだい、ためしに投書してみたら。ばかげた亭主に、ほとほと手を焼いております。いろいろな新聞の身上相談欄に投書をつづけてますが、どこもとりあげてくれません。いっそ、死のうかと思ってます、って書いてさ」
*
老紳士つぶやく。
「死のことを、軽々しく口にするなあ」
*
夫人は言う。
「ああいう欄の担当者、死のうかと思ってますなんて文章があるのから、まずとりあげてるんでしょうね。ああいう欄や番組で採用や出演になると、いくら謝礼をもらえるのかしら。本来なら当人が相談料を出すべきでしょうにね。謝礼をもらうってことは、商品価値が生じるってことでしょ」
「つまらんことを気にするなよ、占い師さま。そういうののおこぼれが、おまえのところへお客となって来るのだから」
「失礼なこと言わないでよ。あたしのとこへ来るのはね、そういうことをいさぎよしとしない、もっと上のクラスの人たち。それにね、精神的なものを求めておいでになるのよ。だから、こちらも神秘なムードをもってこたえなければならない。そのために異様ないでたちが必要なのよ。勲章、警察手帳、いれずみ、デモのプラカード、そういう一種のシンボルがね。普通と異なることを示す特徴がいるわけ。もっと異様にしたほうが、お客さんは喜ぶかもしれないわ。こっけいと神秘は紙一重。見る人をぞくぞくさせる、悪魔の使者のような服をデザインしてくれるお店はないかしらん」
「おまえって、ほんとにばかげたことが好きだなあ」
「趣味のちがいよ。それに、男にはわからない女の心理。衣服がいかに重要なものかという点ね。主義や主張のために身を捨てる女なんて、めったにいないけど、衣服やアクセサリーのためにとんでもないことをしでかした女は、歴史上かずしれない。男性においては主義主張、女性においては衣服、アクセサリー。あたしもあなたの金銭主義をみとめてるんだから、あなたもこれぐらいみとめてよ。ほんとに、このマントを着ると、身がひきしまってぞくっとするわ。人が衣服をえらび、衣服が人をつくる。このぞくっとした思いが、お客さんに伝わるのよ。さてと、用意、用意……」
夫人はカーテンをしめる。そとの光がさえぎられ、部屋のなかが暗くなる。スイッチの音がし、青っぽい光の電灯がつく。夫人、大きな机の椅子にすわり、もっともらしい姿勢をする。
「どう、ちょっとしたものでしょ」
「まったく、この世の人とは思えない」
*
老紳士の霊魂、うなずく。
「まったく、現世の人間とは思えない」
*
亭主、こんどは受付用の椅子にかけている。いつ来客があってもいい態勢。やがて、ブザーが鳴る。
「どうぞ」
亭主が応答をすると、二十七歳ぐらいの和服姿の女が入ってくる。普通の家庭の主婦といった外見。胸のなかに心配事をいっぱいかかえこんだような表情。受付机の亭主のところへ来て、あいさつ。
「あのう……」
「わかっています。お待ちしていました。電話でご予約なさったかたですね。よくいらっしゃいました。お名前はひかえてあります」