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作者:日-星新一 当前章节:3723 字 更新时间:2026-6-16 01:47

 舞台でのドラマは、いかなる状況にあるのか、なんとか理解するまで時間がかかるということも、原因のひとつである。もっとも、芝居好きの人は、その過程がいいというのだろう。開演してしばらく、ざわつきのため、せりふがよく聞きとれない。しかし、しだいになんとかわかってきて、ひきつけられてゆく。たしかに魅力のひとつだ。そのへんのこつが、私にはまるでわからない。

 開演して五分以内に状況ののみこめるような芝居があったらと思うが、最初のうち静かでなかったら、かえってわかりにくくなるかな。そこへゆくとテレビのドラマは、あんまり見ていないが、なにがどうなっているのか、早い段階でわかるようになっている。

 私の小説について、読みやすいと評されることが多いが、それはなるべく早く状況をあきらかにしようという書き方をしているからである。文章の問題ではないのだ。読みにくい小説というのは、事態がどうなのか、なかなかのみこみにくいせいなのである。これに関しては、いずれくわしく論じたい。

 考えてみると、私の友人のなかには、広い意味で言っても、演劇関係者はほとんどいない。いかにそっちに無縁かである。

 小学校の同級生に、藤浪光夫君というのがいた。彼はやがて家業である芝居の小道具の仕事をつぎ、四代目藤浪与兵衛となった。研究熱心で、小道具についての本を出版し、長谷川伸賞を受賞した。その出版記念会が開かれ、私も出席した。盛大で、演劇関係者の有名人が何百人と集った。あいさつをかわしたのは、戸板康二さんと、当時、東京新聞の芸能担当だった|槌《つち》|田《だ》満文君だけ。槌田君は中学で同学年という関係である。

 まあ、つまり、そんなしだいなのだ。

 そこへ、戯曲を書かないかである。どういうつもりなのか、わけがわからん。自信がない。それを断わらなかったのは、二つの理由からだ。

 そのひとつ。もともと私の短編は、主人公があまり動きまわらない。ある部屋のなかだけのような、限られた場所で完結しているのが多いのだ。戯曲と、その点は共通している。

 それと、もうひとつ。こっちのほうが重要なことだろう。たまたま、この『にぎやかな部屋』の人間と霊魂というアイデアが浮かんでいたのである。小説にしようとしたが、どうもうまくまとまりそうにない。しかし、戯曲の形にすれば……。

 そこで、ふたたびその気になってきた。舞台を想像しながら読んでもらえれば、この設定の話も進展するのではないか。

 読んでもらう。そう。上演しようなど、まったく念頭になかった。くりかえすようだが、芝居の作り方など、なにも知らないのだ。読んで楽しんでいただければ、それでいい。

 珍しいしろものと呼べるのではないか。既成の演劇への挑戦にもいろいろあるらしいが、こういうのはあまりないだろう。

 いや、書きながら、一回だけ考えた。テレビでやれないものかと。もちろんカラーだが、霊魂たちだけが白黒テレビのようにうつるのである。すぐ、そんなこと出来るわけがないと気づく。しかし、そんなイメージで読んでもらえると、わかりやすいと思う。

 そのうち、テレビ怪談というのがはやるかもしれない。画面の一部がぼやけ、そこに色つきでない人の顔があらわれるといった……。

 参考のためにと、戯曲集を何冊か買ってきた。しかし、なんと読みにくいこと。

 なれの問題である。友人に小説より戯曲のほうが読みやすいというのがいるが、なれればそうなるのかもしれない。

 かつて私も、三島由紀夫の戯曲をいくつか読み、小説よりもいいのではないかとの読後感を持ったことがある。作者が小説家で、読みやすい形を頭において書いた。また、読む側も、その作風を知っている。それらによって、すんなり入れたのだろう。しかし、すぐれているとはいえ、三島の戯曲が彼の小説を上まわって売れ、読まれているとは思えない。

 とにかく、とっつきにくいのだ。たぶん私の唯一の戯曲となるはずのこの作品に、読者になれを要求するのも本意でない。

 ずいぶん前になるが、私はどこかの出版社の人に、内外の名作戯曲を小説形式にして本にしたらと提案したことがある。会話のカッコの上の名前とト書きを、地の文に移すだけの手直しである。それだけでずいぶん読みやすくなり、売れるのではと思ったのだ。

 子供のころ「少年講談」というシリーズを愛読した。たしか、会話のカッコの上に、発言者の名がついていたはずだ。また、そのころに好んで読んだ落語の本も同様で、熊とか八とかがついていた。

 しかし、そのごずっと、そういうのを読んでいない。なれていたとしても、忘れてしまったのだ。

 そのご、ある文庫で古典落語を出し、驚異的な売れ行きを示した。なにが原因でと現物に目を通したが、会話のカッコの上の名をはずしたせいのようだ。大変な冒険だったはずだ。落語を活字にするのに、こういう前例がない。だれの発言なのか、わかりにくくなる可能性もある。しかし、冒険なくしては、なんの進歩もない。編者、編集部、いずれの判断によるものか知らないが。

 やってみると、意外にすっきりである。会話の多い小説は読みやすいといわれるが、その典型である。現代的だ。

 そもそも日本語は、男言葉、女言葉、敬語、謙譲語、微妙な使いわけがあって、登場人物が少なければ、だれの発言か説明不要で通じるのである。その他大勢の発言は、ほっといていい。

 多少の混乱も、とっつきやすさのプラス面のほうが大きく、結果的に売れたというのだろう。内容は面白いのだから。

 というわけで、私は『にぎやかな部屋』を、このような表記で書いた。文庫の古典落語を見たからではない。書いたのは、こっちのほうが早いのだ。読みやすさを優先させたわけである。上演するために書いたのではないのだ。

 それなのに、三年前の夏、関西のあるプロデューサーが各方面から俳優を集め、上演したいと言ってきた。正直な感想は、よせばよいのにである。自由に手直しして下さいとも言った。いま思えば、手なれた脚本家に手伝ってもらえばよかった。

 余談だが、私の短編『賢明な女性たち』を桂米丸さんが落語にし、時どき口演している。落語というものは、客席との交流で、試行錯誤がおこなわれ、少しずつ変化し、面白い形へと移行する。笑いとは関係のない部分だが、美人の形容で「だれだれさんみたい」の名前の部分が、時の流れとともに変ったりするのである。

 そんなことが頭にあったのだ。しかし、望むべくもない。ラジオでの放送の場合、私はなるべく原作どおりにと念を押している。安易な改変は困るのである。しかし、これらを論じたら横道にそれる。

 大阪で、二回上演され、私は二回目のを見た。稽古不足で第一回目はひどかったらしいが、私の見た第二回目は、わりとよくなっていた。舞台の大道具にくふうがあって、気のきいた部分もあった。演出家、出演者の苦労は、大変なものだったろう。しかし、より多くの人に見せたい、見てもらいたいという出来ではなかった。そのつもりで書いたのではないのだ。

 だから、理想的な上演とは、読者の頭のなかでなされるもの以外にありえない。それがすばらしい出来でありますように。

昭和五十四年十一月

[#地から2字上げ]星 新一

この作品は昭和四十七年四月新潮社より刊行され、昭和五十五年一月新潮文庫版が刊行された。

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にぎやかな部屋

発行  2001年3月2日

著者  星 新一

発行者 佐藤隆信

発行所 株式会社新潮社

〒162-8711 東京都新宿区矢来町71

e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp

URL: http://www.webshincho.com

ISBN4-10-861066-0 C0893

(C)Kayoko Hoshi 1972, Corded in Japan

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