幕がおりてしまったのだ。青年は三日ほど無断で会社を休んだ。出勤する気にもなれない。どうにでもなれだ。
心配してたずねてきた部長に、彼はいきさつを話した。どこまで信じてくれたかはわからないが、会社にいづらくなった点だけは理解してくれた。部長は青年の才能を買っており、知人の会社に責任をもって就職の紹介をしてあげると約束した。それに従う以外にないだろう。
なにもかも新規まきなおしだ。青年がそうあきらめると、京子のことが心のなかに浮かびあがってくる。なにかのまちがいなのだろうが、こうまで思いつめてくれた女だ。たしかに純情で、このドライな世に珍しい存在かもしれない。
結婚するしないはべつとして、こんな時に話しあうと、気分がなぐさめられるかもしれない。会いにいってみようかな。
青年はいつか行ったマンションを訪れた。京子の室のベルを押そうとし、住人の標札の名が変っているのに気づいた。管理人室で聞くと、越していったという。となりの美江もそうだった。ふたりとも越した先はわからないという。
京子と美江と女医とは、豪華な邸の応接間のソファーにかけていた。テーブルをあいだにした反対側には、亜矢子とその母親、つまり社長夫人がいる。ここは社長の邸宅なのだ。社長夫人が言った。どんなことにもあわてることのない、貫録のある中年の婦人。
「ごくろうさまでした。みなさんには、ほんとうにお手数をかけましたわ。あの青年、もう少しみこみがあるかと思ったけど、失格となったようね。まじめで仕事熱心の点はたしかだけど、新しい事態に対処する能力がまるで欠けているわ。ただ、おろおろするだけでしたね」
京子が口を出した。
「でも、あたし気の毒でならなかったわ。会社にもいにくくなってしまったわけでしょ。ああまでテストしなくてもと……」
「そんな人情に負けてはいけません。企業の維持とは冷酷なものです。あたしがいまの主人と結婚する時、つまり会社をまかせる養子をきめる時ですけど、これと同じようなテストをして、あの人が合格して残ったのです。いまの社長のことよ。だからこそ、充実した一流企業としていままでつづいているわけです。亜矢子だってそうするのです。一時の愛情に溺れて企業が倒産してはいやでしょう」
亜矢子は笑いながら言った。品のいい明るい笑い声とともに。
「それはそうよ。会社がつぶれてお金がなくなったら、どうしようもないわ。まっぴらね、そんなことは」
社長夫人は京子と美江と女医とに封筒を渡しながら言った。
「最初のお約束どおり、みなさんに充分な謝礼をお払いします。はい、これがお金。それから、ごくろうですけど、さっそくつぎのテストにかかっていただきたいの。この写真の青年。経歴書はこれ、そして住所は……」
ねずみ小僧六世
第一日。
花咲き、鳥歌い、澄んだ水のなかでは美しい魚が泳ぎ、気温はほどよく、やわらかな音楽がどこからともなく流れてくる。といって、春の野辺のことでも極楽のことでもない。
ここは街なかの、ある銀行。新築されたばかりの建物なので、なにもかもスマートで上品で光っていた。花が適当な位置に飾られ、隅には小鳥を入れた|籠《かご》があり、派手な色彩の熱帯魚の水槽もあった。冷暖房完備で、窓口の女の子たちは微笑をもって客を迎える。
中央の奥寄りのところに大きく立派な机があり、支店長の席だった。彼は背の高いやせた男で、身だしなみがよかった。典型的な銀行員のタイプである。ちょっと神経質そうな感じがした。一銭もおろそかにできない業務の責任者ともなると、のんびりした気分にもなれないのであろう。
開店時間からしばらくたった頃、窓口の女の子が机のそばへ来て言った。
「あの、お客様がご面会したいとか……」
「ここへご案内しなさい」
支店長は軽く答えた。この商売はいつもあいそよくしなければならない。腹のなかでは面白くなくても、表面だけはにこやかに努めなければならないのだ。それに、この席は見通しであり、来客中との口実も居留守も使えない。
やがて、案内されて一人の男がやってきた。五十歳ぐらいで、身なりは悪くなく、ちょっとふとっていた。品のいい業種の中小企業の経営者といったところだろうか。支店長は推察した。
「まあ、どうぞ、おかけ下さい」
こう声をかけて椅子をすすめ、女の子にお茶を運ぶよう合図した。しかし、男は立ったままあたりを見まわしている。なにかにおびえているような、警戒心にあふれた動作だった。ただならぬ感じがしないでもない。また、手に持った大きなふろしき包みを気にしている。なかは大きな箱のようだ。
「どんなご用件でしょう」
ふたたび支店長にうながされ、男はわれにかえったように頭を下げた。だが、そばの椅子にはすわろうとせず、顔を近づけて小声でささやいた。
「内密で重要なお願いがあるのです。ひとに見られない部屋がありましたら……」
「では、応接室のほうへ……」
支店長はさきに立って案内しながら、ちょっと|眉《まゆ》をひそめた。なんとなく妙な客だ。多忙とか会議を理由に部下に押しつけようかとも思った。だが、その重大な話とやらを聞いてみたい気もした。聞いてみてくだらなければ、いんぎんにお帰り願えばいい。それはなれている。応接室に入りドアを閉め、支店長は言った。
「さあ、ここなら大丈夫です」
「のぞかれるとか、盗み聞きされるようなことは……」
「そんなことがあっては、銀行の信用にかかわります。ご心配なく」
男はやっと安心したらしく、やっと普通の口調になり、名刺を出してあいさつした。
「私はこういうもので、機械関係の商事会社をやっております。こちらの銀行とも取引きさせていただいております」
「それはそれは、ありがとうございます。当行といたしましては、お客様本位、サービス第一の方針でございます。今後ともご利用のほどを……」
支店長はきまり文句を口にし、話のつづきを待った。
「じつは、申しあげにくいことで……」
「どうぞ、ご遠慮なく。当行にできることでしたら、ご相談に応じましょう」
「順序をたててお話しいたします。数日前、私のところへ脅迫状がとどきました」
「それでしたら、警察へいらっしゃるべきでしょう」
支店長はいやな気分になった。銀行は犯罪関係には極度に敏感で臆病だ。しかし、男はかまわずにポケットから手紙を出し、机の上にひろげた。恐怖のためか手がふるえており、声もまた同様だった。
「こんな文面なのです」
この種のものには、だれしものぞいてみたい誘惑を感じる。文面はこうだった。
〈拝啓。いいお天気でございます。さて私、本日の夜、そちらの会社から電話機を一台、盗み出してごらんに入れる予定でございます。ねずみ小僧六世〉
読み終った支店長は、複雑きわまる表情になった。噴き出したいのだが、銀行員として許されないことだ。といって、黙ったままでは、ますます変な気分になってくる。それに、見せられたからには、意見ぐらい述べなければならない。彼はまじめな口調で言った。
「このような子供のいたずらは、当行とは関係がないと思いますが……」
「まあ、もう少しお聞き下さい。その予告の夜、本当に電話機が盗まれました。そして、つぎの日また手紙が来ました。こんどは花瓶を盗むという予告です」
「むかし読んだ少年探偵団の物語に、そんなのがあったようですな」
支店長は当惑した。相手は時間つぶしに来たのだろうか。あるいは、頭がおかしいのかもしれない。しかし、話の先を聞きたくもなる。男は言った。
「もちろん、私もばかばかしいと思いました。しかし、気になります。いちおう警察にとどけ、パトロールの巡査にそれとなく注意してもらうようたのみ、社の警備員にも念を押し、私自身も当夜は宿直しました。それなのに、やはり盗まれました」
「どうやって盗み出したのでしょう」
「いくら調べてもわかりません。こうなると、ねずみ小僧六世というのも本当かもしれません。あまりにもあざやかでしょう」
「そういえば、この手紙の文字は上品ですな。名のある家柄の子孫といった印象を受けます」
「そんなことに感心なさっては困ります。私の気持ちにもなって下さい」
「だが、被害は|僅少《きんしょう》だったのでしょう」
「ええ、それはそうですが、問題はこれからです。けさになって、また手紙が来ました。こんどの指定は大変な品です」
「なんです」
「設計図です。精密で複雑で高価な機械の設計図です。ある大会社に納入する品で、秘密を要する貴重なものです。これを盗まれたら、社の信用が丸つぶれです」
男はおろおろ声で、ふろしき包みを胸に抱えた。それが図面らしい。だが、こう泣きつかれても、支店長としては紋切り型の答しかできない。
「やはり警察へご相談すべきでしょう」
「さっそく行ったのですが、どうもたよりなく、真剣さがありません。このねずみ小僧六世という署名のせいです。にやにや笑うばかり。敵もそれを計算に入れているのかもしれません。実際に盗難にあえば乗り出してくれるのでしょうが、この程度ではだめのようです」
「そうでしょうね。街のチンピラに覚えていろと言われたからといって、その人を保護しつづけるわけにもいかないでしょう。また、被害妄想の人につきっきりでいなければならなくなります。なかには、自分で脅迫状を出し、警察を門番がわりにやとおうと考え出す人も……」
「冗談じゃありません。私はそんなことはしませんし、するわけがないでしょう。警察で粘っていると、署長さんがこちらへの紹介の名刺を書いてくれました」
男はポケットからそれを出した。支店長はそれを手にしてながめた。本物のようだし、電話でたしかめれば真偽はわかる。
「それを早くお出し下されば……」
「しかし、順序だててお話ししたほうがいいと考えたからです。署長さんのお話では、こちらの金庫室は完全無欠だとかで……」
「新築|披《ひ》|露《ろう》の時、署長さんに特にお見せしたので覚えておいでなのでしょう。自慢するわけではありませんが、これだけは自信があります。なにしろ必要以上に念を入れて作りました。銀行の金庫室は人間の心臓にも相当するという考え方からです。外国|諜報部《ちょうほうぶ》の本部には及ばないかもしれませんが、民間のものとしては世界で最高と申せましょう。これだけのものは、よそさまの銀行には……」
「そこでお願いです。一晩でけっこうですから、設計図を保管していただけませんか」
支店長はしばらく考えてから、うなずいた。
「けっこうです。預金者サービスの保護預りとして、私の一存で取りはからいましょう。署長さんの紹介でもあります。長期間となると困りますが、一晩だけなら……」
「助かりました」
男はほっと息をつき、百万の味方を得た表情になった。こうたよりにされると、支店長はさらに得意になった。
「この金庫のすばらしさについては、関係者のあいだで評判です。犯罪者たちのなかではこの金庫室に侵入できたら泥棒界のチャンピオンだ、とささやかれているそうです。当行の宣伝になるようなうわさです。いかにねずみ小僧六世でも、手の出せるわけがありません。金庫室の評判に一段とはくがつくだけです」
「そんなに万全なのですか」
男の声には、心配げな響きが少し残っていた。だが、支店長はそれを一笑に付すように説明した。
「まず、定時にならないと絶対に開かない時間錠がついています。周囲は特殊金属でできていて、どんな衝撃にも耐えられます。地下に穴を掘って侵入する映画がよくありますが、これは突破できません。ドリルや高熱ガスはもちろん、ダイナマイトでもびくともしません。小型原爆でも大丈夫とかいう話です。たとえ水爆戦がおこっても、当行の預金者だけは絶対に損害を受けません」
「しかし、薬品でとかせば……」
「それには五種の薬品を使い一週間はかかるそうです。第一、不審な者が近づいただけで警報が鳴ります。警報器に故障がおこれば警報が鳴ります。その警報器がこわれた時、停電の時には、自動的に扉が閉り、決して開きません……」
支店長はあらゆる場合への対策をそなえた設備であると強調した。男は全面的に信頼した声になった。
「わかりました。ぜひお願いします。この箱に入っています。秘密の図面ですが、支店長さんにはお見せしましょう」
男はふろしきをとき、ボール紙の箱を出し、ふたをとった。細かい図面の青写真が見えた。男がその説明をはじめようとするのを、支店長は制した。
「拝見しても私にはわかりません。それより、箱に封印をなさって下さい」
「この銀行のなかに、ねずみ小僧の手先がいる可能性でも……」
「とんでもありません。あとで一部なくなっていたなどとおっしゃられては困るからですよ」
男はその提案に従った。ポケットから紙と印とを出し、銀行のノリと朱肉を借りて支店長の指示で、箱の各所に封印をした。それを手伝いながら、支店長は箱を持ってみた。紙がつまっている感触と重みとがした。仕事が終ってから男は言った。
「よろしくお願いします。で、その金庫室をちょっと見せていただけませんか」
「それは困ります。安全のために、特定の者以外は近づけない規則にもなっています。私と当行とをご信用下さい」
支店長は銀行の名誉に賭けて断言し、預り証を書いて渡した。
「では、おまかせいたします。おかげで安眠できるでしょう。ありがとうございます」
男は胸をなでおろすように言い、帰っていった。あまり安心したためか、ねずみ小僧の脅迫状とやらも置き忘れていった。支店長はしばらくきつねにつままれたような顔をしていたが、やがてベルを押して部下を呼び、問題の品を金庫室に運ばせた。直接に利益になることではないが、サービスであり、また話の種にもなるというものだ。
第二日。
つぎの日の昼ちかい時刻、男はまた支店長の席にあらわれ、あいさつした。
「昨日はまことにお手数をかけました」
「いえ、それぐらいはサービスです。で、いかがでしたか」
「手もとにないのですから、とられるわけがありません」
「それはそうでしょうな。当行の金庫室の品は絶対に大丈夫です。さっそく、出してきてお渡しいたしましょう」
「それが、じつは……」
男は元気のない声だった。そういえば、昨日はあんなに元気な足どりで帰っていったのに、いまは弱りきっている。
「どうかなさいましたか」
「けさになって、また手紙が来ました。これです」
男はポケットから出した。支店長は昨日のつづきなので、興味をそそられた。読んでみると、こう書いてある。
〈拝啓。銀行の金庫室へ預けるとは、|卑怯《ひきょう》な行為でございましょう。思い知らせるため、こんどは機械そのものを盗んでごらんに入れる。ねずみ小僧六世〉
やはり昨日と同じ風格のある筆跡だった。論理の乱れは仕方ない。なにしろ相手は泥棒なのだ。支店長は首をかしげた。
「どこまで本当で、どこまで冗談なのか、私にはわからなくなってしまいました」
「しかし、私にとってはただごとではありません。機械を盗まれたら、私の社は倒産です」
男は泣かんばかりであり、支店長は持てあました。
「それは警察の問題ですよ」
「行ってたのんだのですが、やはりたよりない感じです。昨夜図面が盗まれたという実績があればべつなのでしょうが……」
「しかし、といって当行としても……」
「お願いです。あと一日だけでけっこうです。設計図とともに機械を置かして下さい。大きなものではありませんから」
「本当に一日だけなのですか」
「本当です。明日になれば機械と設計図とを納入し、それで一切の責任はなくなるわけです」
男は書類を出した。大会社との契約書で、納入期日は明日になっている。
「しかし、こうなると私の一存ではお答えできません。本店の了解を得てからです」
支店長は電話をかけ、要点を伝えた。もっとも、ねずみ小僧六世の件は省略した。話がややこしくなるばかりだ。そして、支障がないと判断できれば応じてもいいとの了解をとった。
「いいでしょう。例外的にみとめましょう。ただし、一日だけですよ。明朝には必ずお引取り願います」
「あ、ありがとうごさいます。なんとお礼を申していいかわからないほどです。あとで持って参ります」
男の帰ったあと、支店長は警察へ電話をしてみた。署長は話をみとめ、そうしてもらえれば警察も助かると答えた。支店長は念のため、さっきの契約書の相手会社へも電話した。担当の者は精密機械納入の件を裏付けた。これなら、べつに問題もなさそうだ。
三時少し前、男は社員らしい者に手伝わせ、その品を運んできた。大きな旅行かばんを二つ重ねたぐらいの大きさで、銀色の金属製の箱だった。ダイヤル錠と鍵穴がついている。貴重な機械の容器ともなると、こうも堅固にしたくなるのだろうか。
支店長は目を丸くし、扉にさわってみた。もちろんびくともしない。
「丈夫そうないれものですね」
「ええ、なにしろ大切な機械ですから」
「当方もていねいに取扱いましょう。しかし、くどいようですが、明朝はぜひ取りに来ていただきたいと思います」
「必ずそういたします。それから、よろしければ今夜、私もこの銀行の警備に参加いたしたいのですが……」
「お気持ちはわかりますが、かえって統制がとりにくくなります。安全の点は決してご心配いりません」
「それでは、なにぶんよろしく……」
男は頭をさげた。支店長はすぐ部下に命じ、金庫室へと運ばせた。
第三日。
開店時間をすぎてまもなく、男は社員をつれてやってきた。
「本当にお礼の申しようもありません。おかげで難をまぬかれました。ねずみ小僧も手が出ませんでした。助かりました」
男はあらゆる謝辞を並べたてた。支店長はうなずいた。
「当然のことです。で、お持ち帰りになるのでしょうね」
「もちろんです。さっそく出していただきます」
二つの品が運ばれてきた。設計図の箱の封印は完全だったし、機械の箱はこじ開けようとしたあともない。男は確認した。
「ダイヤルの番号も、お預けした時のまま、だれも手を触れた形跡もありません。さすがは銀行の金庫室です。謝礼のほうはいくらでもお払いいたします」
「いえいえ、サービスです。今後とも、せいぜい当行をごひいきに……」
「それでは……」
男はまたお礼文句をくりかえし、二つの品を運んで帰っていった。
そして、自分の社の部屋に入ると、ダイヤルを回して扉を開いた。なかから出てきた小柄な青年に、男は感嘆の声で話しかけた。
「さすがはねずみ小僧六世。あなたの指示どおりやり、なにもかも成功しました。いかに精密な人工頭脳よりも、あなたの天然頭脳のほうがすばらしい……」
しかし、ネズミ色のセーター姿のねずみ小僧六世は、のびをして言った。
「なにはさておき、まずトイレだ。水が飲みたい。腹がへった。タバコも吸いたい……」
それが一段落し人心地がついてから言った。
「金庫室の扉の閉じるのの待ち遠しいことといったらなかった。鍵穴を通しての呼吸も、練習したとはいえ楽でなかった。しかし、扉が閉じてからあとは簡単。内側から鍵をはずして箱から出れば、札束は取りほうだい。設計図と称する箱のなかの紙の束と、札束とを入れかえるだけでいい。つめ終ってから青写真を上にのせ、封印をやりなおした」
「居心地はどうでした」
「広い金庫室なので、呼吸の心配はなかった。しかし、退屈なのには参ったな。それと、へたに眠れないことだ。扉の開く寸前に箱に戻らなければならないのだから。その程度だ。銀行員たちはていねいに扱ってくれて、痛さは味わわなくて助かった」
「しかし、それだけのことはありましたよ」
男はこう言い、設計図の箱のほうを開けた。高額紙幣がぎっしりつまっている。だが、ねずみ小僧六世はあまり関心がなさそうな口調だった。
「こんなことは私にとって朝飯前だ」
しかし、男は興奮がおさまると、気になったような声を出した。
「しかし、私はどうなるのでしょう。共犯でつかまるのではないでしょうか」
「こんな方法とは気がつかないだろうし、つかまるにも証拠がないではないか。本物の機械と設計図のほうは、現実にきょう納入するのだろう。それに、銀行もあの金庫室から盗まれたとなると信用上発表もできない。訴えたとしても、署長の紹介となると、警察の威信にかかわる。銀行も警察もたよりにならないというニュースが流れると、社会が混乱してしまう。なんなら私が自首してみようか。口止め料として、いくらかくれるかもしれない」
男はため息をつきながら、ねずみ小僧六世の顔と札束の山とを見くらべた。そして、ふと思いついたようにつぶやいた。
「それにしても、あの支店長は気の毒ですね。開店そうそうのサービス熱心のあまり、こんなことになった。わけのわからないうちに、大金が金庫室から消えてしまった。神経質そうなところのある人でしたから、責任を感じて首でもつるかもしれません。気の毒なものです」
「よし、では、この金をそっと支店長にとどけてこよう。早くやれば、そんな不幸を食いとめるのにまにあうだろう」
ねずみ小僧の意見に、男は驚いた。
「なんですって。本気ですか」
「本気だ。祖先から伝わる性格だからしようがない。気の毒な人という言葉を聞くと、反射的に金を恵まずにはいられなくなってしまうのだ。これから、ちょっと行ってくる。盗むのとちがって、ひそかに恵むほうは簡単だ」
そして、札束を新聞紙にくるみ、気軽に立ちあがった。そのうしろ姿にむかって、男は尊敬の念をこめた声をかけた。
「さすがはねずみ小僧六世。ご立派な精神です。お手伝いさせていただいた私も、なんだかすがすがしい気分になってきました」
キューピッド
その青年はフリーのカメラマンだった。独身できままな日常だったが、いいかげんな生活ではなかった。いい作品をものにしたいとの意欲に燃え、それが万事に優先していた。仕事が一段落した時にはバーに行って酒を飲むのが楽しみだった。ほどよい酔いは神経の疲れをもみほぐし、新しい活力をもたらしてくれる。
その日の夕ぐれも、青年は一軒のバーにいた。はじめて入った店だった。繁華街からはなれた静かな裏通り。たまにはこのようなところで飲むのもいいなと思い、また店のつくりがしゃれていて、そんなことが気をひかれた理由だった。なかでは数人のお客が、それぞれ品よく飲んでいた。
青年は奥のほうの椅子にかけ、グラスを重ねた。そして、つぶやくのだった。いい作品をとりたいものだな。いい被写体にめぐりあって、存分にシャッターを押してみたい。人びとがあっというようなものを作りあげてみたい……。
いいことが近づいてくるようなけはいを感じた。もう少し酔おうかな。青年はからになったグラスをバーテンに押しやろうとしたが、その手をとめた。とまってしまったのだ。彼の目は一点にむかって静止した。入口にちかいカウンターの席に。
そこにはひとりの女がいた。若い女だった。さっきまでいなかったのだから、ほんのいましがた入ってきたのだろう。赤みがかったカクテルのグラスを口に運ぼうとしていた。二十歳をちょっとすぎたぐらいの年齢だろうか。
青年の目は彼女に吸いつけられ、つづけざまに何回もまばたきをした。連続してシャッターが切られているような感じだった。事実、彼は心のなかのフィルムに、その姿を鮮明に残そうとしていたのだ。これなのだ。彼は自分に言いきかせていた。これなのだ、さがしつづけていた被写体は……。
美しくはあったが、とびきりの美人というわけではなかった。美しいだけの女なら、いくらでもある。プロのモデルなどがそうだ。整形美容と化粧技術とで、かなりのところまで作りあげることができる。
しかし、いまカクテルを口にしているその女には、美しさ以上に重要なものがあった。表情。心の底からこみあげ、顔からあふれだしている表情。それがあったのだ。そしてその表情の示すものは、恋。
恋そのものがそこにあった。なんの説明もいらない。咲きかけの花、暗やみにただよう香水のかおり、月光の噴水、ほのかな雨。火のようで、波のようで、やわらかく強く、やさしく苦しく、美しく緊張して、はげしさといらだちが……。
どちらかといえば地味な服装が、女の表情をいっそうきわだたせていた。目がうるんでいる。押えようとしている息づかいさえも、はっきりこちらに伝わってくるようだ。
青年はまぶしげに目をつぶった。普通だったら、彼女がああも熱烈に恋をしている男性はどんな相手だろうと想像するところだろうが、この青年の場合はちがう。どう作品にしあげるかを確認する気分だった。いや、確認もなにもない。もうすでに完成しているではないか。あとは人びとから賞賛の声をあびるだけだ。それが目に見えるようだった。
最も原始的で、いつも新鮮な感情、恋。それを完全に表現し、とらえた写真。国内のみならず世界中で評判になるだろう。
青年はふたたび目をあけた。しかし、女の姿はさっきの席から消えていた。見まわしてみたが、店のなかにもいない。幻覚だったのだろうかと、青年は思った。こころよい酔いのうみだした一瞬の夢だったのだろうか。あんなにさっと飲んで出てゆく女客など、ありえないんじゃないだろうか。待合せの時間を思い出したのだろうか。いやいや、いかに恋に|呆《ぼう》|然《ぜん》としていても、その恋人の待合せの時間を忘れるなどということはないだろう。
青年は残念がった。画家だったら、いまのイメージを絵にすることができるだろう。しかし、カメラマンとなるとそうはいかないのだ。彼はくやしがり、やけぎみになってさらに酒を飲んだ。
あれは幻覚だったのだと思いこもうとしても、なかなかあきらめきれるものではない。つぎの日、青年はなにも手がつかずむだに時間をすごしたあげく、夕方にまたそのバーを訪れた。幻覚でもいい、もう一回だけ見たいものだと。
そして、また見ることができたのだ。恋の表情を持つあの女を。女が入ってくるのには気がつかなかった。ふと目をやると、このあいだのように、いつのまにかそこに出現していたのだ。
こんどは見のがさないぞ。煙のごとく消えるのかどうか、たしかめてやる。青年は見つめつづけた。グラスに口もつけず、タバコに火をつけるのもやめて。目をそらせたすきに消えてしまうかもしれないのだ。
女の表情はすばらしかった。恋のすべてがそこから発散している。それはいきいきとしたメロディとなって、空気を限りなくふるわせつづけているようだ。しかも、しだいに強く、はげしくなり……。
女はカクテルを飲み終った。そして、しとやかだがすばやく立ちあがり、金をおき、ドアから出ていった。つばめが風をくぐって飛び去っていったという感じだった。あ、出ていった。青年は頭の片すみでそう思った。バーテンが金をしまい、グラスを片づけている。とすると、幻覚ではない、現実の女だったのだ。
しかし、そう気づいた時には、もはや追いかけてもむだなほどの時間がたっていた。青年は立ちあがるのをやめ、酒の注文をしながらバーテンに聞いてみた。
「いまの女の人、どういう人なんでしょうか」
「さあ、なんとも申しあげられませんね。お客さんのせんさくはしないことにしております。しかも、いつもひとり。お客さんどうしの会話から推察することもできませんしね」
「ここにはよく来るんですか」
「時どきですね。しかし、カクテル一杯ですぐお帰りになってしまいます。ですから、ほかの男のお客さんも、話しかけるひまがない。それに、なんだかすごい恋人がいそうな感じでしょう。とても割り込めそうもないと、みなさん、ためらってしまうんですねえ。考えてみると、ふしぎな女の人ですよ」
その話で、青年は元気づいた。やはり実在の女なのだ。写真をとらせてもらうことはできるだろう。その交渉には彼も自信があった。商売柄なれていることでもある。べつに服をぬいでもらうこともない。表情だけとらせてもらえばいいのだ。また、恋の相手になってくれというわけでもない。なんだったら、相手の男性の了解を求めてもいい。簡単なことだし、順調に進むにちがいない。
それから三日ほど青年はバーにかよったが、女にあうことはできなかった。もうあえないのではないかとの不安。しかし、待ちつづけるうちに、また女があらわれた。人の心を迷わせる夕ぐれの空気が凝縮し、バーのドアから形となって入ってきたかのようだ。女はカクテルを注文する。青年はそばの席に移った。近くで見ると、印象はさらに強かった。恋はまつげの一本々々の先にやどり、白い歯の表面に結晶し、口もとにも、髪の毛にも、いたるところに恋がひそんでいるかのようだ。
どう話しかけたものかと、彼はためらった。いざとなると、うまく言えない。だが、急がなくては。時間はあまりないのだ。見つめてばかりいるわけにはいかない。ためらったあげく、彼はやっと言った。だが、はっきりした言葉にはならなかった。
「あのう……」
「なんでしょうか」
女はカクテルを半分ほど飲み、こちらをむいた。なにか遠くを見つめているような目つきだった。恋に燃えている目つきだ。青年はそう思い、また時間が少し流れた。
「ぼくはカメラマンです。こんなことをお聞きするのは失礼なんでしょうが、あなたはどんなお仕事を……」
「あたし、あたしは恋の女神……」
女は言った。答えるのがめんどくさそうな、あっさりした口調だった。しかし、その言葉に青年は驚いた。こっちがつぎに言おうとしていたおせじの文句を、さきに言われてしまったからだ。彼はうなずく。そう。そうとしか言いようがないではないか。恋の女神。
「あたし、もう行かなくては……」
女は金を払い、いつものようにすばやく出ていった。またも青年はあとを追いそこねた。恋の女神という言葉を、あれこれ考えていたのだ。結婚を受付ける役所の窓口の係だろうか。デパートの異性へのおくりものコーナーにでもつとめているのだろうか。それとも恋愛のカウンセラーかなにかだろうか。しかし、どうもちがうようだ。そんな職業に恋の表情は必要ない。では、なんなのだろう……。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。問題はカメラの前に立ってもらえるかどうかなのだ。いやいや、ぜがひでも立たせなくてはいけないのだ。このつぎには必ずそうしてみせる。たとえ、地の果てまであとを追いつづけてでも……。
そのつぎの日、決意をかためて待っていると、恋の女はまたあらわれた。そして、動作はきまっていた。ドアに近いカウンターの席に腰をおろし、カクテルを三口ほどで飲みほし、高まる恋の表情とともに、またすばやく出てゆくのだ。
青年はあとを追った。好奇心と仕事への熱意が彼をかりたてた。あの女、どこへ行くのだろう。どんな男と会うのだろう。どんな家に住んでいるのだろう。また、バーから急いで帰るわけは。いずれにせよ、それらの謎がとけるのだ。
女の足は意外と早かった。歩きなれた道のせいだからか夕ぐれのなかを泳ぐ魚のように軽やかで、青年は時どきかけ出さないと見失いかねなかった。女は商店街からはなれ、住宅地にむかい、さあ十分ぐらい歩いただろうか。アパートの入口に入っていった。コンクリートの五階建てで、そう高級でもなければ、そう安っぽくもない。新築でもないが、古びてぼろぼろというわけでもない。そんな感じの、あたりの風景と調和した目立たないアパートだった。
青年はさらに足を早めた。道路とちがい、建物内だと見失いやすい。ここの住人なら管理人に聞くという手もあるが、訪問者だったら、どうしようもないのだ。入口で待ちつづけ、徹夜になってしまうことになりかねないのだ。
青年は女のすぐうしろに迫った。だが、女はまったく気がつかない。急ぐのに熱心なのだ。恋に盲目になっていて、ほかのことには注意が及ばないという感じだった。この女、何階に住んでいるのだろう。
女はアパートの入口をはいったが、そこにある階段をあがらなかった。おりていったのだ。地下への階段をおりたのだ。コンクリートに足音が反響する。地下は廊下をはさんで、上の住人たちのための倉庫や、道具置場や水道のメーターの室などが両側にある。こんなところで、なにをするのだろう。うすぐらく人影はないが、ランデブーの場所としてはロマンチックでなく、ふさわしくない。青年は首をかしげたが、すぐにやめた。あくまで押しきらねばならないのだ。
女はドアのひとつをあけ、くぐり抜け、うしろ手でしめた。それがしまる寸前、青年はあとを追ってあけて入った。そこにはさらに下への階段があり、それをおりたつきあたりの部屋に女は飛びこんだ。
青年もつづく。ノックをしたが返事がないので、勝手に入った。殺風景な室だった。壁にはなんの飾りもない。入口のそばには長椅子があった。天井には照明があり、やわらかな光がまんべんなくあたりにとどいていた。
女の姿もあった。彼女はこちらに背をむけ、机にむかってなにかをしていた。小さな金属的な音が何回かつづけざまにした。あせった感じのこもった音だった。ほっとしたように息をするのが、そのうしろ姿からわかった。青年の驚きはつづいていた。なぜこんな部屋があり、なぜ彼女が作業のようなことをしているのだろう。しかし、いまさら引きかえす気もない。彼は言った。
「あの、こんにちは……」
「なんでしょうか」
女はゆっくりとふりむいた。不意の侵入者をとがめる口調でもなかった。それに元気づけられ、青年は話をした。
「ぼく、少し前にバーでお会いした者です。カメラマンなのです。失礼とは思いましたが、ぜひお願いしたいことがありまして、あとについてここまで来てしまったのです」
「そうでしたの。で、どんなご用でしょう」
女はすなおに聞きかえした。青年には質問したいことがいろいろあったが、まず用件を言った。
「じつは、写真のモデルになっていただきたいのです。お顔だけでもいいのです。あなたはすばらしい。本当に恋の女神そのものですよ。あなたの写真は世界中の人の目にふれ、永遠に残るでしょう。ぜひ、とらせて下さい。お礼はどのようにもいたします。もし、ご希望があったら、遠慮なくおっしゃって下さい」