「じゃあ、これを手伝っていただけるかしら……」
いやにあっさりとした承諾だった。あっさりしすぎているし、また予想外の申し出でもあった。かなりの額の金銭の用意もしてきたのだが、こんな答をするとは。青年は好奇心にかられ、そばへ近よってのぞきこんだ。
「なんなのですか、それは……」
「こういうふうにやるの。簡単なお仕事よ」
机の左には二つの|籠《かご》があった。それぞれに金属製のプレートのようなものがたくさん入っている。一方はかすかに金色をおび、一方の籠のは銀色だった。女は手をのばし、その一枚ずつを取って重ねあわせた。机の上にはホッチキッスを大型にしたようなものがあり、その重ねた二枚をはさみ、押す。書類をとじるのと同じように、音がして二枚がくっつく。それを机の右にある籠に入れるのだ。右の籠にはそんなのがたくさん入っていた。
「ちょっとやらせて下さい」
と青年は言った。自分にもできそうな気がした。しかし女は、初心者がやりそこなうといけないと心配してか、籠のなかをさがし金色をおびたプレートを一枚つまみあげた。それから、自分のポケットから銀色のを出し、青年に渡した。
「これでやってごらんなさい」
青年はやってみた。やりそこなわないよう注意し、さっき見た通りにやってみた。重ねあわせ、ホッチキッスを押し、右の籠にそっと入れる。重ねあわせる時、ホッチキッスを押す時、ちょっとした快感が手に伝わった。なまなましく、なにか生き物に触れたような気がした。
「こんなぐあいでいいんでしょうか」
彼が聞くと、女はうれしそうに言った。
「いいわ、その調子よ。本当にお上手だわ。つづけてやっていただけないかしら」
「いいですとも」
青年は女のきげんを損じないようにと、二、三回それをくりかえした。お気に召しましたかと聞こうとふりむくと、女の姿はなかった。部屋から出ていったらしかった。しかし、青年はそれをつづけた。いまは大事な時なのだ。女が帰ってきた時に、仕事がはかどっているかどうかで、首をたてにふるか横にふるかがきまるかもしれないのだ。たてにふらせなければならない。作品ができるかどうかの境目なのだ。
彼は熱心につづけた。わけはわからないが、おもしろみも感じられる作業だった。女はなかなか戻ってこなかったが、青年は空腹ものどのかわきもおぼえなかった。どれくらい時間がたったのだろう。腕時計はとまっていてわからなかった。ねじを巻き忘れていたようだ。地下室なのであけがたになったのかどうかはわからなかったが、かすかにねむけが襲ってきた。彼はドアのそばの長椅子にねそべり、少しまどろんだ。
目がさめると、胸のなかでなにかが燃えるようにうごめいていた。いや、胸のなかで熱いかたまりが大きくなり、それが彼を目ざめさせたというべきだろう。青年はその異常な感じに驚いた。からだのなかからわきあがる衝動なのだ。なにへの衝動なのかは、すぐにわかった。説明なしにだれにもわかる感情。恋への衝動なのだ。
あの、恋の女が戻ってきたのかな。青年はあたりを見まわしたが、そうではなかった。しかし、女からたのまれた作業のことを思い出し、また内部で燃えはじめた恋への衝動を持てあまし、気をまぎらそうと、プレートを重ねてホッチキッスを押すことをやった。
カメラマンには、こういった仕事はつきものなのだ。いつだったか、農家のがんこな老人の写真をとるため、田植えを手伝ったことだってある。
いくつかやっているうちに、さっきのたえがたいほどの恋への衝動はいくらかおさまっていった。ほかにすることもなく、青年はその作業を進めた。しかし、それにしても、なんに使う品なのだろう。電気製品の部品とも思えなかった。輸出むけのクリスマスの飾りとも、子供むけのオモチャとも思えなかった。
なにかもっと意義のありそうな感じがするのだが、それがなにかはわからなかった。よくながめると、プレートの表面には微細な彫刻で抽象的な模様が描かれている、それは、それぞれちがっているようだ。高度な電子計算に使うパンチカード、厳重な部門での身分証明書。そんな感じ。多くの意味がその表面におさめられているようだった。
金色がかったのと銀色のプレートとを重ねあわせる時、磁性でもおびているかのように、さっとくっつく。その感触は微妙で弾力にみち、くすぐったいような、ほっとするような快いものだった。ホッチキッスでとめる時も、しびれるようなものが伝わってくる。やっていて、つまらないことではなかった。
時間がたっていった。しかし、女は帰ってこず、だれかが訪れてくることもなかった。青年の心に不安がめばえた。だまされたのかもしれない。彼は立ちあがった。そして、ドアに手をかけた時、恐怖めいたものを背中に感じた。ここにとじこめられてしまったのかもしれない……。
しかし、ドアは開いた。階段をあがり、地下一階の廊下に出て、アパートの出入口まで行ってみる。時刻は夕方だった。彼は道を歩き、バーに急いだ。あそこに行けば、女のようすがわかるかもしれない。だが、バーに近づくにつれ、からだのなかで、さっきの恋への衝動がまたも高まってくる。それを押えつけながら急ぎ、バーへ飛びこむなり言った。
「ウイスキーをくれ。あの、それから、あの女の人はどうしたか知らないかい。いつもカクテルを一杯飲んで、さっと帰る女のことだよ」
「あ、あのかたでございますか。きのうでしたね、あなたがあとを追って出ていかれたのは。あれからまた戻っておいでになり、珍しくゆっくりお飲みになりましたよ。あんなこと、はじめてです。そのうち、男のお客さんが話しかけてきて、意気投合なさったようで、楽しげに笑いあっていましたよ。育ちのよさそうな、品のいい男のかたでした」
「それからどうした」
「ごいっしょに出ていかれました。あとは存じません。想像はできますがね……」
「そうか……」
青年はウイスキーを口にほうりこんだ。酔い心地にはなったが、からだのなかで大きくなりつづける衝動は、それをはるかにうわまわっていた。そして、それを押える方法はあれしかないことも感じていた。あの地下室に戻り、作業をつづけることだ。
青年は金を払い、かけだした。地下の部屋に飛びこみ、プレートの作業をいくつかやる。気分はしだいにおさまってゆく。そのかわり、女への怒りが高まってきた。勝手な女だ。この奇妙な仕事をひとに押しつけ、遊びまわっているらしい。しかし、それにしてもおかしい。バーで知りあった男性と仲よくなるとは。いままでの、恋にあふれた表情はなんだったのだろう。
青年はアパートの管理人室をたずねた。少し待たされたが、会うことはできた。
「じつは、この建物に住んでいる女の人についてなんですけど、背の高さは普通で……」
青年は特徴を説明した。しかし、管理人は首をかしげて言う。
「そんなかた、いないようですな」
「住んでいるのではないかもしれません。この建物の地下二階で……」
「地下二階ですって。そんなもの、ありませんよ。地下は一階だけです。なにかのまちがいでしょう」
むりに引っぱってゆくこともできず、どう説明したものかもわからない。そのうち、例の衝動が高まり、青年は室にかけもどらなければならなかった。プレートを重ねる作業をはじめると、気分はおさまる。
地下二階などないと、管理人は言っていた。どういうことなのだろう。ここはなんなのだ。青年の頭のなかでしだいに疑問が形となってきていた。ここは特殊な空間なのかもしれない。ずっと食事をしていないにもかかわらず、空腹感はおこらないのだ。現実とはべつな世界なのかもしれぬ。
青年はおもしろくない気分で、籠のなかのものをぶちまけた。部屋じゅうにまきちらし、長椅子の上で眠る。しかし、やがてあの衝動によって目ざめ、あたりを見まわすと、すべてはきちんと元通りになっていた。ひとつの籠には金色のプレート、もうひとつには銀色のが、机の右のには重ねあわされたプレート。そして、机の上にはホッチキッス。いつでも仕事がはじめられるようになっており、それをうながしているようだ。また、うながされなくても作業をやらないことには、衝動は解消しない。
異常であるばかりか、しゃくにさわる事態だった。青年はすなおに従う気がなくなった。金色のプレートどうしを重ね、ホッチキッスでとめることをやってみた。この仕事はなぜかやりにくかった。銀色どうしもやはり同じ。まぜこぜにして六枚ほど重ね、むりやりホッチキッスにかけてもみた。こんなことが反抗になるかどうかは、さっぱりわからなかったが。
警察に連絡し助けてもらうとするか、と青年は思った。外へ出て公衆電話をさがし、ダイヤルをまわす。しかし、彼が説明すればするほど、警察は不信の口調になるのだった。
「そういうことは、病院へおいでになってお話し下さい。こちらはいそがしいのです。いま、同性愛が急にふえ、乱交がはやりその問題で大変なのです。なんで、こう変な現象が発生するのか……」
電話は切られ、かけなおしても相手になってくれなかった。また、例の衝動も高まり、それを静めるため地下の部屋へ戻らねばならなかった。青年は作業をつづけ、つづけながら考えた。事情が少しずつのみこめてきたようだった。あの女は本当に恋の女神であり、これがその仕事だったのかもしれぬと……。
この金色のプレートが男、銀色のが女。逆かもしれないが、なんとなくそう思った。それをホッチキッスでとめる。これが恋の作業なのだ。ここでこれをすることによって、そとのどこかで男女が恋におちいる。
愛するか愛さないかは、われわれの自由にはならない。恋をこのように断じた人があった。人間の自由にならないとすれば、だれのしわざなのだ。すなわち、ここだ。
恋はハシカのごとく、かからねばならない病気である。恋は人間の最大の愚行である。恋は偶然であり奇跡である。古人はいろいろと形容した。意志や理性から恋はうまれない。友情や利害からも恋はうまれない。どこからうまれるのだ。そんなことを考えてもみなかったが、いま、その問題と答とがいっぺんに理解できた。すなわち、ここなのだ。
ほうっておいても人間はいつかは死ぬ。いちいち殺してまわる死神などは存在しなくてもいいのだ。富は才能と努力の集積である。だから、福の神なども存在しなくてもいいのだ。しかし、恋の神だけは必要なのだ。どこかでせわをやいてやる者がいなければ、どうにもならぬ。人間には、恋を自分でコントロールするハンドルがついていないのだ。
籠のなかのたくさんのプレート。それらが早くせわをしてくれとの要求をしている。恋を、恋を、恋をと。それが熱気となり、エネルギーとなり、念力となって、むりやり作業にかりたてるのだ。
かりたてられて、青年は作業を進めた。金と銀のプレートはうれしそうにくっつきあい、ホッチキッスでとめられ、とめられる瞬間にはよろこびの声のようなひびきをたて、右の籠のなかに空中で踊りながらほうりこまれる。だれかがやらねばならないのだ。いいことをしているのかもしれないなと、青年はちょっとだけ思った。
しかし、あまりいい仕事でないことは、すぐにわかってきた。いかに作業をすれども、左の二つの籠のなかのプレートはへらないのだ。それはそうだろう。恋への欲求が世から消えることはないのだ。
また、ホッチキッスのとめ方がいいかげんだったりして、右の籠のなかでプレートがはなれると、いつのまにか左の籠に戻っている場合もあるらしい。ホッチキッスの穴のあるプレートが、左の籠から出てくることもあるのだ。終ることのない作業。
恋の支配者なんだ、と思ってみる。たしかに支配はしている。しかし、だれも恐れてくれない、感謝もしてくれない。みな自分の力でなしとげたことと思いこんでいるのだ。こんなむなしいことってあるだろうか。みなおれのおかげをこうむっていい目にあっていながら、ここにこうやってせわをやいている者が存在していることを、考えてもみないのだ。死神にとらえられ、いやおうなしにこき使われるという物語があったようだ。そのほうがまだいい。
これが恋の作業でなく、破局の作業だったらどんなにいいだろう。みなもつらいだろうが、おれもつらいのだという、均衡みたいなものができてくれる。しかし、これは、みながうまいことをやっており、こっちだけがだれに知られることなくひとり苦しむのだ。
青年は単調に作業を進めた。同性愛や乱交を製造するのは、手数ばかりかかって、こっちにいいことは少しもない。それでも、腹が立つたびにいくつか作りだしてもみる。
あの、恋の女神はどうしたのだろう。ここへ戻ってきてくれないものだろうか。彼はそんな期待を抱き心から祈りさえもしたが、戻ってきてはくれなかった。最初に押させられたプレート。あの一枚が彼女のぶんだったのだろうな。思いあわせると、それ以外に考えられなかった。
あの恋の女神、いつからこの作業をしていたのだろう。それを想像すると、うんざりした気分になる。遠い遠いむかしからにちがいない。その長い長い時間ずっと同じ仕事のくりかえしだったのだ。休みをとりたくもなり、人間なみに恋をしたくもなるだろう。しかし、気も遠くなるほどの長い時間ののちの休暇だ。ひと月やふた月ではすまないだろう。一年や二年でも。へたをすると……。彼はその先を推察するのがこわかった。
恋の女神の手助けをするキューピッド。かわいらしい子供の姿でおなじみだ。背中の翼で飛びまわり、金色の矢でハートとハートをぬいあわせる。ほほえましいものだったが、おれがそれにされてしまったのだ。実体はこれ。あわれな救いのないキューピッド。そして、あわれな無報酬の作業。孤独と絶望のなかの、ばかばかしくてもやめられない作業。
それでも、青年は時どき部屋から出て、バーに行った。もっと近くにあればと思うのだが、ないのだった。行動半径ぎりぎりにあるバー。往復をいかに急いでも、落着いて飲むひまはほとんどなかった。なにもしらぬバーテンが声をかけてくる。
「なにか楽しそうなご様子ですね。お客さん。恋をなさっておいでなんでしょう……」
「まあね」
くわしく話すひまはないのだ。バーの壁にある鏡には、自分の顔がうつっている。恋の表情に輝いている顔だ。ここへ来る途中恋への衝動が高まりつづけ、ここで最も強くなる。グラスを急いであけ、酔いで衝動をごまかしながら、席を立ってあの地下室へと帰らなければならないのだった。
だれかが好奇心を持ってあとをつけてきてくれないかなと思う。しかし、被写体をさがして血まなこになっている女性カメラマンらしいのが店にいたことはなかった。
また、無意味で残酷な恋の仕事をつづける。いったい、他人の恋が、おれにとってなんだというのだ。なんの価値もありゃしない。ばかばかしいしろもの。うぬぼれとエゴイズムのかたまり、この色きちがいのプレートどもめ。青年は時たま腹を立て、籠をひっくりかえす。だが、そんなことをしても役に立たず、ひと眠りするとすべてはもとに戻り、強い情欲で彼を仕事にかりたてるのだ。
思い出したように外出し、警察へ電話をしたりもした。だが、声をおぼえられており、話しはじめただけで、笑いを押えたいいかげんなあしらいになってしまう。バーへ寄った時に新聞をもらってきて読んだりもした。しかし、それもまもなくやめてしまった。恋だの愛だのの文字を見ると不快になる。いい気なものだ、おれがこれだけ苦しんでせわをしてやっているのに、やつらは自己の力による成果と思いこんでいるのだ。
むかむかすると、わざとぞんざいに仕事をしたりする。右の籠にほうりこむとまもなく、プレートがはなればなれになるのだ。そとの世界のどこかで、とたんに恋が終るのだ。ざまあみろと思うが、そんな感情が当人たちに通じはしない。やつらは、やはり自己の判断で恋を終らせたのだと思っているのだろう。そう想像するとばかばかしくなり、あらためてホッチキッスでしっかりとめなおしたりもするのだ。
すなおに仕事を進め、立腹し、ささやかな悪趣味を満足させ、また人びとの幸福を祈り、そんなくりかえしがつづいた。時どき心の底から叫ぶ。これが終ってほしいと。しかし、そんなことはないのだった。いかに数をこなしても、プレートはどこからともなく補充され、なくなることがない。そして、能率が落ちると、大ぜいの恋への欲求が彼を容赦なくむちうつ。
そのつらさに青年はなれることがなかった。なれるどころか、苦痛は徐々にふえていった。左の二つの籠のプレートのふえかたがしだいに大きくなってきたようだった。一方、彼の処理する能率の限界というものがあった。さばききれない。おれは人間なのだ。女神とはちがう。女神なら能率をあげ、なんとかする法だって知っているだろう。このような分工場をどこかに作れもするだろう。早く帰ってきてくれ。しかし、恋を楽しんでいる女神は、こっちのことを忘れているのだろう。依然として戻ってこなかった。
青年は外出もしなくなった。ほとんど眠らなくなった。特殊な空間にいるため体力はおとろえなかったが、それはいいことではなかった。倒れて気を失うこともできないのだ。機械がうらやましい。機械ならある限度以上はやらなくてもいい。
うつらうつらしても、すぐ情欲の嵐のむちでたたきおこされる。必死になってさばいても、プレートはふえつづけ、籠からあふれはじめている。数えきれぬプレートたちの要求は、すさまじい勢いだった。
青年のからだじゅうで、花火がはじけつづけ、熱湯があばれまわり、無数の虫がうごめき、なにかこまかく鋭いものがぶつかりあい、巨大なドラムが大きな音をたててふるえつづけた。すべては凶暴化し、にくしみとなり、爆発を求めて……。
狂うのではないかと青年は思った。いや、狂いたいと祈った。特殊な空間であり、体力のおとろえぬごとく、狂うこともできないのだろう。だからこそ祈ったのだ。
そして、ある時、彼はばったりと倒れた。なにもかも投げ捨てた眠り。しかし、その眠りも長くはつづかなかった。情欲のむちのためではない。あれだけつづいた情欲のむちを感じないことへの不審さのためだった。なぜだろう。
おそるおそる籠のほうを見る。あれだけあったプレートがからになっていた。どの籠もからだった。数分ののち、彼は思った。のろいから解放されたようだ。きっと、どこかよそでもっといいキューピッド役が作られ、工場がそっちへ移されたのだろう。すばらしいことだ。
青年は籠に近より、ひっくりかえしてみた。金色のプレートが一枚だけあった。それを拾いあげた時、彼はそれが自分のプレートだと直感した。そして、もうひとつの籠。そこにも銀色のプレートがあった。その感触も好ましいものだった。いままでいじったどの銀色のプレートよりも好ましい。
青年はそれを重ねあわせた。いつくしみながら、ていねいにホッチキッスでとめる。そして右の籠に入れる。右の籠もからだったが、その一組を静かにうけとめた。これで終ったのだ。
軽い足どりで、彼は階段をのぼる。口笛を吹きたくなるような気分だった。アパートの出入口。あかるい陽ざし。だが、そこで彼の足はとまり、口笛もやんだ。
そとにはなにもなかった。廃墟[#電子文庫化時コメント 底本「廃虚」単行本の表記に従って訂正]がひろがっているばかり。すべてが崩れ、焼けこげ、むざんなながめがつづいている。
「ついにやりやがった」
青年はつぶやき、気の抜けたように歩きはじめた。歩いたところで、行くあてはなにもないのだが。
どこからともなく呼び声がする。近くの崩れたビルのかげから、女がひとり歩いてきた。弱りきった力をふりしぼり、やっと歩いているという感じだった。青年はかけより、倒れかかる女を抱きとめた。胸が高鳴る。恋なのだ。これが自分自身の恋なのだ。
「お会いしたかったわ」
女が言った。青年を見つめる目。やはり恋にあふれていた。そして、それには見おぼえがあった。ずっとずっと昔、バーで会い、こんなはめになったきっかけの女。恋の女神だった。
「きみだったのか」
「あなたには悪いことをしたわね。でも、あたし、あなたのおかげでやっと、恋というものがどんなものなのか知ることができたわ。あの長い年月の末に……」
女の呼吸は弱くなった。青年は言う。
「おい、しっかりしてくれ。どんなに会いたかったことか。きみを忘れたことはなかった」
「でも、だめなの。人間の生活をつづけたためか、からだが弱くなってしまって、いままで生きのびたのがせい一杯なのよ」
「死んじゃだめだ。唯一の女。きみを愛している」
「あたしもよ……」
しかし、彼女の声はそれで終った。
しばらくののち、青年は立ちあがり、ビルの地下へ戻ろうとした。
いまとなると、あの作業もなつかしい。階段をおりる。地下二階への階段へ通じるドアを開く。しかし、そこにはコンクリートの壁があるばかり。階段もなく、ゆきどまりなのだ。地下二階のあの部屋は、もう存在の必要を失ったのだ。彼はたたずみ、目をつぶる。そこにはなつかしい室がみえる。右側の籠、そのなかで銀色のプレートが、いま消えてゆく。そして、ただひとつ残ったもの、自分のである一枚の金色のプレートが、まもなく訪れる消える瞬間を待って……。
牧場都市
悪い夢はそのさめぎわが最も悪い。むかしの詩人がこんなことを書いていたようだ。私の場合、おそらくほかの人びともそうなのだろうが、あけ方ちかくなると苦痛ともいえるほどひどくなる。いつものことなのだ。こんな時代になってしまったからなのだ。
料理の夢。美しく盛りあわせたオードブルとか、スープとか、魚や肉の料理とかが、つぎつぎとあらわれる。色はもちろん、においさえついている。時には温かさとか触感までともなっている。リアルなのだ。夢のなかでもアイスクリームはつめたく、マシュマロはふわふわしている。こうなると病的なのだろうか。
病的でもなんでもかまわない。私はそれを手当りしだい口に押しこむ。かみしめる。歯と歯とがむなしくこすりあわされ、歯ぎしりとなる。そのいやな鋭い音で、いつも目がさめるのだ。
「ああ、また夢を見た……」
私は自分にいいきかせてから、両手を腹にあてる。あわれな、やせた腹部。そのあたりを、やせた手のひらでそっとなでまわす。空腹感をまぎらそうとするのだが、内臓は承知してくれない。芸のない鳥が鳴くような、単純で悲しげな音を出す。
となりの部屋からは、四歳になる坊やの飢えに泣く声がひびいてくる。それをなだめようとする妻の声は、なかなか効果があがらないため、ヒステリックな調子を高めてゆく。これもいつものことなのだが、やはりいいものではない。
それらの物音によって、私は眠りから少しずつ抜け出す。なんだか胸のあたりが苦しいのに気がつく。毛布から出した手で、そのあたりをさがす。あった……。
|籠《かご》にはいった鶏の唐揚げ。私は手でつまんで口に入れる。反射運動とかいうのだろう。やわらかく、塩味の、微妙な歯ごたえ。ひとつではとてもがまんができない。三つほど口に入れてしまう。
私の指先はさらになにかを求めてあたりをさまよい、やわらかなものをとらえた。甘いブランデーで味をつけたケーキ。それは口のなかでとろけ、舌の上で踊り、のどをやさしくなぐさめ、幻の音楽をかなでながら食道をとおり、胃を訪れる。胃壁は歓声をあげて、それを押しつつむ。もみくちゃ。痛いほどの快感。食べ物が胃に入ったのだ。そのショックで、私の目ははっきりとさめる。
食ってしまった。食ってしまったのだ。とんでもないことをしてしまった。後悔の念が頭のなかをかけめぐり、理性がめざめ、私は飛びおきる。毛布の上にあったさまざまな食品が、ばらばらと床に散る。ベッドの枕もとの台の上には、濃いミルクがあり、新鮮なオレンジがある。
私はそれらをひっつかみ、半開きになっている窓から、庭へつぎつぎと投げ捨てる。にくしみをこめて投げ捨てるのだ。腹が立ってくる。もっと腹を立てなくてはいけないのだ。胸がむかむかすれば、食欲がそれだけごまかせるのだ。
しかし、そんなていどのことで食欲を完全に追い払えるものではない。いったんは退いても、食欲はすきをみて逆襲してくる。捨て残した食品が、ベッドの下とか室のすみなどで、まだそのへんににおいをまきちらしている。ホットケーキの蜜とバターのにおい、肉料理の油っこいにおい……。
これらのものを、ゆっくりと味わって食べたいものだなあ。そうしたら、ああ、どんなに楽しいだろう。空想すると、つばが口のなかにわき、それはむなしく胃へと消えてゆく。しかし、だめなのだ。食べてはだめなのだ。
さっき眠りからさめかけの、理性が朝もやに閉ざされている一瞬、その時にわれを忘れて口に食べ物を押しこんでしまったからだ。
それさえしなければ、いま好きなものをゆっくりとえらび、時間をかけて食べることができるのだが。後悔をかみしめながら、さっき口にした食品のカロリーを暗算してみる。食べていい余裕は残されていない。だめなのだ。
私はパイプにタバコをつめ、火をつけて吸う。ニコチンが空腹にしみこみ、胸がむかつく。からだによくないにきまっているが、食欲だけはちょっと逃げていってくれる。それに、パイプを口にしているあいだは、なにかを口に入れようという気にならないですむ。パイプの口にくわえる部分には、深くきざみ目がついている。無意識のうちに私が歯でかんでしまうからだ。
となりの部屋からの坊やの泣き声は、さらに高くなっていた。狂ったように火がついたように、全欲望をそれに集中させて泣きわめいている。私はそこへ行く。坊やは細い手でキャンデーの入った透明な袋をしっかりとにぎっている。もはや妻の手にはおえないらしい。私は言った。
「おい。そのキャンデーを捨てなさい」
「いやだ、いやだ。どうしてなの。ぼく、食べたいんだ。食べたいんだよ……」
ほっぺたの肉のない坊やの顔。涙をあふれさせつづけている目が、うらめしそうに私を見あげる。しかし、ここで妥協してはいけないのだ。私はどなる。
「親にむかって文句を言うな。食ってはいけないから、食ってはいけないんだ。これが理由だ。わかったろう。さあ、それをよこしなさい」
「いやだよ。食べさせてよ……」
必死の表情で哀願する坊やの手をねじあげ、それを取りあげた。その時、私は手をかみつかれた。痛い。
「口で言ってもわからないのなら、こうしてやる」
私は手のひらで何回もひっぱたいた。こうやって、坊やのからだにおぼえさせてやるのだ。痛いだろう、坊や。うらむのなら、うらむがいい。うらめば食欲をしばらくは忘れるだろう。坊やは一段と高く泣き叫びつづけていたが、やがてぐったりとなった。疲れたのだろう。このさわぎで私もまた、食欲をしばらく忘れた。妻が言った。
「どうしましょう、坊やを」
「このまま、そっと眠らせておきなさい。目をはなすんじゃないぞ、かくれて盗み食いをするかもしれない」
「ええ、よく見はってるわ」
妻はうなずく。私は家じゅうをくまなく見まわった。ほうぼうに食品が投げこまれている。このごろは、やつらの投げこみかたがうまくなった。灰皿の形をした砂糖菓子とか、電話機型のチョコレートなどが、机の上にさりげなくのせられたりしているのだ。ゆだんはできない。
それらを拾い集め、私は庭の穴に捨てる。その上に小便をかける。そんなことをしたって、しようがないんだ。やつらはすぐに補充として、すきをみて食品を投げこむのだから。
妻がコーヒーをいれてくれた。砂糖は入っていない。しかし、かすかにまざる甘味で、私の神経は少しおちつく。コーヒーのかおりはいいものだ。私は妻に言う。
「じゃあ、仕事に出かけるかな。子供への注意を忘れないようにな」
「いってらっしゃい。あなたも気をつけてね」
「ああ」
家のドアから出て、私は道を歩く。バスも動いているが、それには乗らない。歩いたほうがいいのだ。からだのためだし、長寿のためだ。
こまかい雨が降ってきた。傘をさすことも、雨やどりすることもない。ほどよいしめりけをもたらすといった程度の雨なのだ。雨は街路樹の緑をさらにあざやかにし、ビルや道路のよごれを落し、すべてを美しくいきいきとさせる。すがすがしさ。
健康感があたりにみなぎる。いいにおいがほのかに残る。雨の成分のせいなのだ。オゾンやらクロロフィルやらがまざっている。やつらがそのような操作をしているのだ。やつらは天候をコントロールし、一年中を初夏のようにしてしまい、毎日、定期的にこのような雨を降らす。消毒作用を持った雨を……。
やつらが地球へやってきてから、もうどれくらいになるだろう。思い出そうとしても頭に浮んでこない。日をかぞえるどころのさわぎではなかったのだ。その時以来、生活のぜんぶが欲望との戦いだった。毎日がその同じくりかえしなのだ。苦痛と単調のくりかえしのなかで、年月だけがいつのまにか流れ去っている。
やつらはゼビア星からやってきた。高度の文明と科学とを持ち、はじめは友好的だった。あまり好感の持てる外見ではなかったが、外見で判断するのもどうかとためらっているうちに、ずるずるとやつらの手中におちいってしまった。ゼビア星人たちはあらゆる点ですぐれており、強力だった。これに反し地球側は、あらゆる点で統一がなく、ひとがよかった。あがいてもだめだったし、どうあがいていいのかもわからなかった。
やつらは地球を占拠し、その好む体制にしあげてしまった。そして、運営が軌道に乗ったとみとめると、少数の人員を残して引きあげていった。つまり、現状なのだ。食料にあふれ、いつもいい気候で、殺菌作用を持つ雨が降るといった……。
各都市にあるゼビア星人の駐留支部の建物の前を通ると、やつらの姿を見ることができる。何回みても好きになれない。やつらの意図が察知できた今となっては、なおのことだ。やつらの足にはヒヅメがあるのだ。牛のような尻尾もある。顔は馬に似ている。ウサギのような耳がある。そして、受ける印象には豚のようなところがある。どことなく|貪《どん》|欲《よく》そうで……。
なにも直接に目にしなくても、その姿を頭に思い浮べるだけで、私は不愉快になる。不快感で頭が一杯になるのだ。しかし、それを頭から追い払うと、かわりに食欲を思い出してしまう。この矛盾を持てあましながら、私はつとめ先への道を歩く。うしろから声をかけてきた人がある。
「やあ、おはよう」
顔みしりの四十歳ぐらいの男。私の近くに住んでいて、小さな美術品店を経営している。血色がよく元気そうで、ふとっている。口を動かしてチューインガムをかんでいた。私は顔をしかめて話しかけた。
「あなたは、からだにもっと気をつけるべきですよ。元気そうにふとっている。ご自分の身がかわいくないんですか。注意なさるべきですよ」
「それはよくわかってますがね。わたしは意志が弱いんですよ。うまい物には、つい手がのびてしまう。ええ、もちろん注意はしてますよ。だから食べたいのをがまんして、チューインガムをかんでるんです」
彼としばらくいっしょに歩く。道ばたには、ところどころに食品が配置されてある。ポストのそばにおいてある果物の籠。街路樹につり下げられた籠のなかのサンドイッチ。どうぞ召し上って下さいという形なのだ。
それらを配置して行くのはゼビア星人のロボット。丈夫にできていて、ちっとやそっとではこわれない。初期の頃には破壊してしまうとの動きがあったが、こわすのは大変だし、こわしてもはじから補充されてしまう。そうわかってからは、だれもあきらめてしまった。家庭のなかに食品を投げこんでゆくのも、そのロボットたちなのだ。私は話題にした。
「あの、やつらのロボットたちを見ると、スコットランドの伝説を思い出してしまうんですよ。人が眠っている夜中に、小鬼がひそかに料理を作ってくれるとかいう。むかしは、そんなことになったらどんなに便利だろうなあと空想したものですが……」
「はあ……」
彼は気のない返事をした。私が見ると、彼は道で立ちどまり、消火栓の上にのっているケーキに手をのばしていた。私はあわててとめた。
「おやめなさい。食べたいという気持ちはよくわかりますが、ここです。がまんなさって下さい。よく考えて……」
「いや、ほっといて下さい。わたしは食べたいんです。この美味の林のなかにいて、それを拒否する生活なんて、もうたくさんだ。がまんをつづけて、なにが人生です」
「なにをおっしゃる。そんなだらしのないことで、どうなさるんです。負けてはいけませんよ」
いったんは私もひきとめるのに成功したが、長つづきはしなかった。つぎに彼は道ばたの花壇で足をとめた。花のあいだに、味のいい甘い酒のびんがおいてあったのだ。彼は私をつきとばし、それを飲む。
「ああ、うまい。あなたも飲んでみませんか。これが生きているということでしょう。そうじゃありませんか」
彼は満足の笑いを浮べ、歩きかけた。そして、それが最後だった。一歩ふみだしたとたん、その足の下の舗道の石がはずれ、穴となり、彼をのみこんだのだ。石はふたたびもとにもどり、なにごともなかったかのように舗道となった。
その手前の石の下に重量計がしかけてあり、それが彼の体重を測定したのだ。規定以上の重量に達していることを確認し、その連動作用でつぎの石がはずれ、おとし穴としての役目をはたしたのだ。
いまの石の場所をおぼえておこうかと私は思ったが、それはやめた。ここだけではないのだ。こういうしかけは至るところにあるのだ。いちいちおぼえきれるものではないし、時には場所も変る。そんなことをするより、体重をふやさないほうが安全で確実な方法なのだ。
それをおこたり、いま、ひとりの知人が消えた。私は暗い沈んだ気分になり、ちょっと手を合わせた。しかし、それ以上にどうしようもない。救出は不可能なのだ。私の責任ではない。また彼の責任とも言えないだろう。
これがさだめなのだ。
つとめ先につく。小さな出版社だ。私の職場は経理部。同僚たちにあいさつをする。
「おはよう。いま出勤の途中、いっしょに歩いてたやつが地下にのみこまれてねえ。いやなものだな」
「ふとっていた人か」
「そうさ。あの地下にのみこむしかけの体重計は、正確そのものだ。しゃくにさわるくらいにね」
「それなら仕方ないさ。当人も覚悟の上だったんだろう」
同僚は簡単に片づけたが、私の頭にはさっきの印象が残っており、聞くともなくつぶやいた。
「苦しいものだろうか、あの時は」
「たいしたことはないんじゃないかな。高圧電流で一瞬のうちにおだぶつ。それから地下のコンベアで運ばれ、洗われ消毒され、処理され、冷凍され、ゼビア星に送られる。おまちかね、清潔で美味の冷凍肉、いっちょうあがりだ」