同僚はニヒリスティックに笑った。死んだ者の自業自得を笑い、同時に、命がおしく、いくじなくやせている自分を笑ったのだ。
「そんなに地球人はうまいのだろうか」
「やつらにとってはそうなんだろう。だからこそ、それだけの手間をかけてやっているんだ。えさがこれだけうまいんだから、われわれの肉はその何倍かなんだろうな」
「ゼビア星人たち、どれだけ食えば満足するのだろうか」
「さあね、やつらはなんにも言わないから、総人口はわからんがね。しかし、問題は人口より食欲さ。やつら、まったく豚みたいに貪欲な感じだからな。満足するなんてことはないんじゃないだろうか」
雑談をしていると、小包がとどいた。差出人は書いてない。あけるとミート?パイが出てきた。ほかほかし、いいにおいが鼻に飛びついてくる。
「うまそうだ。ちょっと味をみるかな」
「やめろ。一口だけではすまなくなるぞ。せめてお昼の食事時間まで待て」
「そうだな」
同僚はうなずいた。がまんできる性格だからこそ、いままで生きてこられたのだ。私たちは雑談をつづけ、タバコを吸った。べつに仕事がそうあるわけではない。食料が完全に保証された世の中なのだ。なにも働かなくったっていいのだが、せめて仕事でもしていないことには、時間を持てあましてしまうのだ。無為の時間は食欲を育てる。
といって、仕事に熱中もできないのだ。かりに他人をだしぬいて昇進をしたとする。出世欲というか、支配欲、名誉心とかいったものに生きがいをみつけ、それへの集中でみたされない欲望を満足させようとする。それもひとつの生活の方法なのだが、やりすぎることはいけないのだ。
いつのまにか消されてしまう。いつのまにか消すぐらいは、やつらにとって簡単なことなのだ。危険思想の持主との判定が下されてしまうのだ。当然のことだ。そんなのを放任したりしては、反乱をたくらむのがふえると心配なのだろう。
私たちは、そのような欲望をも押えなければならない。助けあい、欲望の高まるのを注意しあい、かばいあい、その日その日をすごすのだ。知りあいが地下にのまれたり、消されたりするのは悲しいことだ。
やがて、待ちに待った昼食の時刻になる。なにを食べようか。会社の廊下には、さまざまな料理が並んでいる。やつらの食料係ロボットが運んできたものだ。
あれこれ迷ったあげく、私はニンジンのたくさん入ったサラダにした。好物だからではない。なるべくきらいな料理のほうがいいのだ。うまいものだと、つい食べすぎてしまう。しかし、このニンジンのサラダも悪くない味だった。やつらはわれわれをふとらせるため、研究をおこたらないようだ。私は心のなかで理性と争ったあげく、パンのひときれを口にした。だが、飲みこむのは半分にし、あとは吐きすてた。
こうして控え目にしておいて、ちょうどいいのだ。どこでなにを食べてしまうかもしれない。たとえば、エンピツをなにげなく口にくわえたとたん、その味のよさでついに一本を食べてしまうこともある。やつらが巧妙に作ったハッカ入りの菓子だったのだ。こんなことのつみ重ねが、からだをふとらせ、身をほろぼすもとになってしまうのだ。
べつに退社時間のきまりもないが、四時ごろに仕事をやめる。さわやかな気候。会社の近くの公園には、やつらの作った運動場がある。私はそこでテニスをした。ふとるのを防ぐには運動がいいのだ。汗をかいてから、私はプールで泳いだ。水をなるべく口に入れないようにした。プールの水には味がついており、飲んだりするとカロリーになってしまう。なんのために運動したのかわからない結果になってしまうのだ。
適当に泳ぎ、そこでやめた。あまり運動をしすぎるのもよくない。ほどほどにしておかなければならないのだ。だが、若い連中はそれをやりすぎたりする。筋肉がたくましくなり、いかにも強そうな男性的な体格となる。そうなると、やはり消されてしまうのだ。連れていって肉体労働用のどれいとして、他の星の開拓に使う。当然考えられることではないか。もっとも、そういうのを戦わせて見物するのだろうとか、肉がかたくて好ましくないからだろうとかの推測もあるが、どっちにしろ同じことだ。
私はプールのそばで椅子にかけて休む。目をなかばとじながら。目を完全にとじると、食欲がわいてきてしまう。また、完全にひらいていると……。
水着姿の若く美しい女がそばへやってきた。身をくねらせながら、なまめかしい声で話しかけてくる。
「ねえ、お話でもしない……」
「ほっといてくれ。疲れてるんだ」
「あたしが元気づけてあげるわよ。あそこの建物へ行きましょうよ」
飛びつきたくなるような美人で、じつは私も腰をあげかけた。だが、まだ私には理性があった。この女はゼビア星人のスパイなのだ。なにかを代償にもらい、魂をやつらに売り渡し、その手先になっている。ふらふらついて行くと、いっしょに飲みましょうとカロリーの高い酒をすすめられる。命をちぢめることとなるのだ。また、ベッドをともにしたりすると……。
子供ができるかもしれない。うまれた子はべつな星にすぐ運ばれ、そこでやつらに育てられ、ふとらされるのだろう。そんな運命になるのが自分の子かもしれぬとなると、いい気持ちではない。
かりに、そこを冷酷に割りきったとしても、女遊びにいい気になっていると、むくいが当人に及んでくる。いつのまにかみなのあいだから消されるのだ。タネウマ人間といった形で、べつな星に連行されるのだろう。
「またこんどにしよう」
私は首をふった。女はウインクして言う。
「残念ね。じゃあ、またね……」
あっさりとしていた。そのほうが魅力的と知っているのだろう。私は追いかけたくなったが、なんとか思いとどまる。これぐらいの誘惑に負けるようでは……。
しかし、誘惑をはねかえしつづけるのもいいが、心のなかの争いを持てあまして狂う者もある。それらしい青年がむこうを歩いてゆく。おぼつかない足どりで、なにか変な歌を叫んでいる。同情しながら目で追っていると、彼は消えた。やはり道にのみこまれたのだ。
悪い品種は処理しなくてはいけないのだろう。やつらにとっては当然のことだ。しかし、人類の身になると……。
よくこれまで無事に生きてこられたなと、自分でもふしぎなくらいだ。これだけ多くのワナのなかで、いままでひっかかることなく、なんとかやってきたのだ。この生活がはたして安全なのかどうかはわからないが、いままでのところはよかったのだ。これからも注意をおこたってはいけない。
そんなことに思考を使い、しばらく食欲も女性のことも忘れた。しかし、いつのまにかそばにグラスがおかれてあり、私はそれを半分ほど飲んでしまったことに気づき、はっとした。無意識になると、そのすきをのがさず誘惑の手がのびてきているのだ。
私はふたたび食品の林のような道を通って、家に帰りついた。そして、妻に言う。
「坊やはどうした」
「ずっと見張ってたわ。食べたいとわめいているけど、あなたが帰ってからと言ってがまんさせておいたわ」
坊やは室内のサクのなかで、悲しそうな顔をしていた。かすかな声で私に言う。
「なにか食べていい……」
「よし。少しだけだぞ。しかし、その前に賛美歌を五つ歌え。それからだ」
坊やはそうした。熱心に歌う。
「これでいいんでしょ」
「よし。おっと、手を洗ってからだぞ」
少しでも時間をのばさなければならない。坊やのためなんだ。おまえをふとらせ、若くして死なせたくないからだよ。もっと成長し、世を支配するしくみがわかってから、おまえの意志と判断とで食うのならかまわない。しかし、それまでは親の責任なんだ。
坊やはやっと食べ物にありつけた。カロリーの少なそうなのをえらんでやったが、たちまち食べ終って、また賛美歌をうたいはじめた。いじらしい。しかし、そんな感情に負け、ここで気をゆるめてはいけないのだ。
テレビをつけ、チャンネルをまわしてみる。クラシック音楽をやっていた。しばらくそれをながめる。ドラマはあまり見ないほうがいいのだ。食欲をそそるシーンとか、おいろけのシーンとか、支配欲をそそるストーリーとかが多いのだ。そうでなければ殺気にみちたシーン。そんなのに影響され、欲求不満のはけ口を求めてそとであばれると、やはり消される。他の家畜を傷つけるようなのは、除かれるにきまっているのだ。
私は書斎に入って、本を読む。その前に、あたりにほうりこまれている食品をそとに投げすてる。近くにあったら気が散って本が読めないからだ。
欲望を刺激するような内容の本はさけねばならぬ。哲学書か高等数学といったものがいい。おもしろいものではないが、じっくり読み、心を集中して時間をすごすと、なんとかおもしろさが奥のほうからわきあがってくる。そして、食欲も忘れられるのだ。
きょうは宗教の本にした。欲望を静め、心をなごやかにする役に立つ。なごやかにならなくても、一種のなぐさめにはなる。
人間は罪を重ねているのだ。あまりに利己的だった。そのために家畜をいじめ、自分勝手にあつかってきた。エサをどんどんやってふとらせ、あつかいにくいのや凶暴なのは処理し、好ましいのをそろえ、牧場でふやしてきた。そのむくいを、いま受けているのだ。罪ほろぼしなのだ。そう思えば、いくらか心が救われる。
その時、本のあいだからにおいが立ちのぼってきた。計略だ。食べられる紙で作られた本だった。よく調べてからにすればよかった。あわてて投げすてる。それを平然と読みつづけられるほど、私は強い性格の人間ではない。
ああ、苦しい生活だなあ。人間とはこうも手におえぬ存在だったのかと、つくづくなさけなくなる。死ぬこともできぬ、生きる本能が強すぎる。そのくせ、生きたいとの意志や理性は、欲望を押えるには弱すぎるのだ。ひとかけらのケーキを撃退するために、意志と理性とを総動員しなければならぬとは。
これから人類はどうなるのだろう。私はどうなるのだろう。いつまで生きられるのか。いや、負けてはいけないのだ。絶対に生きてみせるぞ。しかし、こんなことがいつまでつづくのだろう。この状態が、あとどれくらい……。
「あとどれくらいこの状態をつづけるんだ」
駐留支部の建物のなかで、ゼビア星人が仲間に言った。
「やっと計画が軌道に乗ったばかりじゃないか。この仕事がいやなのか」
「しかしね、この地球人というやつら、どうも虫が好かん。貪欲そうで……」
「そういうな。貪欲だからこそ、こうしてやらなければいけないんだ。それでも、いい方向には進んでいるじゃないか。慈善事業なんだ。あのままほっといたら、地球人は遠からず滅亡だった。おれたちがこんな荒療治でもやってやらなけりゃ、やつら自身にはどうにもできないのだ。やがてはみなの性格が変り、欲望をコントロールする性質が身につき、いい未来へ移行し、よかったと気がつき、われわれに心から感謝するよ。そう年月もかからないんじゃないのかな。大食いとか、好色とか、名誉心とか、われわれのいう七つの大罪のはびこりかたが、だいぶへってきている……」
はだかの部屋
三郎はまだ独身の青年。ひとがよく、行動はいささか単純だが、それは年齢のせいでいたしかたない。
彼はいま、豪華なマンションのなかにいる。やわらかく大きなダブルベッドにねそべり、大型画面のテレビをながめていた。しかし、うらやましがる必要はない。ここが彼の住居でないことは、いうまでもない。ありふれた会社に入って二年ほどの男が、こんな家に住めるわけがない。
正確にいえば、ここは三郎の|叔《お》|母《ば》の住居。その叔母は四十歳ちかいが、栄養がいいせいか、美容体操のせいか、愛用の高級化粧品のせいか、若々しく見える。女性のくせになかなかのやりてで、都心で画廊を経営し、けっこう利益をあげている。だからこそ、このような生活ができるのだ。
それにくらべると、彼女の亭主のほうはいささか見劣りがする。画家なのだが、まあなんとか小遣いがかせげるていど。それも妻のおかげで絵が売れるからだ。こんな組合せで、子供もないのになんとかうまくいっているのは、いつも亭主のほうが譲歩しているからだろう。
三郎がこの部屋にいるのは、留守番をたのまれたからだった。叔母は彼にこう言った。
「あたしたち、一週間ほど旅行に出るの。旧婚旅行というわけね。三郎さん、できたら留守番として、夜だけでいいからとまりに来てちょうだい。電話がかかってきたのをメモしといてもらうだけでいいのよ。部屋は自由に使っていいわ」
という次第の第一日目。大型ベッドの上から、大型テレビをながめてみたくもなるというものだ。三郎のいつもの住居ときたら、小さな一部屋のアパートで、マイクロテレビを足をちぢめ顔を近づけて見るといったせまさなのだ。それにしても、このマンションは大きい。浴室や台所はむろんのこと、広々とした部屋が四つもある。三郎はベッドからおり、あたりを歩きまわった。壁にドアのあるのを見つけ、なにかと思ってあけてみたら、押入れ兼物置とでもいった、一畳半ほどの場所だった。電気掃除機がひとつしまってあるだけだ。
「すごいものだな」
三郎はわが家とひきくらべ、スペースの余裕に感心し、電気掃除機に|嫉《しっ》|妬《と》した。
そとに面したほうにはベランダがついており、ここは三階なのでながめは悪くなかった。夜の街がひろがっている。遠くの高架道路の上を、自動車のライトが流れていた。三郎はベランダに出てみようとガラス戸をあけた。とたんに寒い風が入ってきて、彼はあわててしめた。そして、この室内が快適な暖房完備であることに、あらためて気がついた。ひとわたり見てまわると、三郎は少し退屈になり、やがて思いついて、ガールフレンドに電話をかけた。
「あ、礼子ちゃん。ぼくだよ。いま豪華なところに住んでいるんだ。もちろん一時的だがね。どうだい、とまりにこないか。場所は……」
わりない仲の女友だちがあり、時たま安ホテルでひとときをすごすのが、経済的にせいぜいの男。それがこんな室の使用を許されたとなると、三郎ならずともこう考えるところだろう。
礼子は承知し、あとで行くわと答えた。三郎は口笛を吹きながら浴室でシャワーをあびた。からだをきれいにしておくのはいいことだし、また、なんとなく高級な気分になれる。|叔《お》|父《じ》のオーデコロンを借りて少しつけ、ガウンに着がえた。それから、室の棚にあったウイスキーを一杯口に入れ、ベッドに横たわった。
三郎は照明を薄暗くし、待った。やがて触れあう礼子のからだのことを頭に描き、目をつぶって深呼吸した。血液がムード音楽をかなでながら循環している。彼は少しうとうとした。幸福と酒との酔心地が、あまりにこころよすぎたためだろう。
気がつくと、女の匂いがただよっていた。いや、女の匂いで目ざめたというべきだろう。その方角へ手を動かすと、ベッドのなかの女の肌にふれた。礼子が来てくれたのだ。彼は心のなかで叫び声をあげた。三郎の体内で、欲望の電圧が急にあがった。
ドアのチャイムを聞かなかったのは、鍵がかけ忘れてあったせいかもしれない。礼子は入ったあと、ちゃんとしめてくれただろうか。起きて確認に行くべきだとは思ったが、あがりつづける電圧の前には、あとまわしにせざるをえない。
三郎は手をのばし、毛布のなかで女の胸に当てる。呼吸の激しさがよくわかる。電圧は放電寸前まで高まってきた。礼子も興奮しているようだ。
「ねえ……」
残雪をとかす春風のような甘ったるい声を聞き、三郎は返事の意味で手に力を加えた。彼女の声はつづく。
「ねえ、約束した宝石のブローチ、いつ買ってくれるの……」
「そんなこと話したかなあ……」
そのとたん、女は叫び声をあげた。
「あなた、だれなの……」
「そっちこそ、だれなんだ」
三郎は相手の声のおかしいのに気づき、ベッドの枕もとのスタンドを明るくした。礼子ではない。見知らぬ若い女の、驚いた顔がそこにあった。
三郎は自分のはだかをかくそうとし、急いで毛布を引っぱった。すると、身を起しかけた女の胸がむきだしになる。白く肉づきのいいからだだった。充満する若さが皮膚を外側へ押しあげているかのように、はりきっている。
女はあわてて毛布を引っぱりかえす。三郎としても、正体のわからぬ女性に裸体をさらすのはためらわれ、また引っぱる。しばらくそれがくりかえされ、やっと二人は毛布の両端を使いあう形で一段落した。
「さて……」
と三郎が言うと、女はまた聞いた。
「あなたはだれなの。なんでここにいるの。あたしはてっきり……」
「ぼくはこの家の持主の|甥《おい》さ。留守番をたのまれている。盗難でもあるといけないからな。しかし、こんなふうに盗賊が侵入してくるとは、想像もしなかった」
「失礼ね。あたし、泥棒なんかじゃないわよ」
はずかしそうに顔を赤らめながら、むきになって抗議をする表情は、ちょっと魅力的だった。
「しかし、部屋をまちがえたのでもなさそうだ。第一、鍵がかかっていたはずのドアを、勝手にあけて入ってきた。これをどう説明する」
「それは……」
「そうだ。さっき、てっきりとか言いかけたが、だれだと思ったんだい。それを言わないと、なっとくするわけにはいかない」
女は困ったという顔をしたが、観念したようだった。盗賊でない説明をしなければならぬ。それに、知らずにとはいえ、はだかで肌をふれあってしまったため、親近感みたいなものもわいてきた。彼女は小声で言った。
「打ちあけるけど、秘密にしといてね」
「約束するよ。きみが不法侵入の悪人とは思えない。なにか事情があったんだろう」
「あたし、ここのご主人かと思ったのよ。暗いし、オーデコロンの匂いも同じだし。夕方、画廊のほうで奥さんが旅行に出かけたって話を聞いたので、いつものように忍んできたっていうわけよ。ここの鍵は、ご主人が複製を作って、ひとつあたしに預けてくれたの」
「ふうん。そうだったのか。叔父のやつ、叔母の留守にはいつもこんなふうに|間男《まおとこ》を引き入れ……いや、逆だ。しかし、間女というのも変だな。女性上位時代にあらわれたこの現象、なんと呼ぶべきか……」
三郎はもっともらしくつぶやきながら、女のほうをちらちら見た。毛布が透明だったら、どんなにいいだろうと思った。
「でも、叔父さんにも同情しておあげなさいよ。叔母さん、ベッドですごいんですってよ。大声をあげたりして。そこで、あたしのような、おとなしくかわいらしい女性が……」
「そんなことより、ぼくのほうに同情してもらいたいね。きみのおかげで、ここまで興奮させられて、いまさら……」
三郎は力をこめて毛布を引きよせた。それとともに、彼女が近づいてくる。反抗するけはいもない。なにしろ、とんでもない弱味をにぎられてしまったのだ。奥さんに報告でもされたら、まわりまわって別れさせられてしまう。その報告の口を封じておかなければならない。
理屈で考えればそんな結論になり、感情の点でもからだが燃えはじめたところだ。といった気分をたたえた大きな目が、三郎のそばへ迫ってきた。
発火点をめざしてふたたび上昇しはじめた水銀柱に水をかけるかのように、ドアのほうからチャイムの音が響いてきた。
だれか来客らしい。三郎は飛びあがった。
「すっかり忘れていた。大変だ。礼子がやってきた……」
そばの女も同様にうろたえた。
「冗談じゃないわよ。あたしがここに来たことがほかの人に知れたら、男の人とベッドにいたなんてうわさが立ったら、どうしようもないわ。あなただけでも持てあましているっていうのに。しらん顔して帰しちゃってよ」
「ところが、そうもいかない来客なんだ」
「じゃあどこかへかくしてよ」
「そうだ。あの押入れのなかに入っていてくれ」
三郎はさっき見た押入れのことを思い出した。鳴りつづけるチャイムにせき立てられながら、彼は女をそこへ押しこんだ。そして、念を押した。
「いいと言うまでは、絶対に出ちゃだめだ。声も立てちゃいけない。感づかれたら、なにもかも破滅だ。どんなことがあっても、静かにしていてくれ」
「わかってるわ、だけど、あたしのことはだれにも黙っててね」
「ああ、もちろんだとも」
「あ、服をとってよ……」
三郎はベッドのそばに戻った。しかし、ほかにもなすべきことがあるのに気がついた。ベッドの乱れをなおさなければならぬ。彼は急いでそれをした。また思いついて浴室にかけこみ、防臭剤のスプレーを持ってきて、あたりにまく。女の匂いを消しておかなければならないからだ。チャイムが鳴っている。礼子をこれ以上待たせるわけにいかない。
彼は椅子の上にあった女の服とハンドバッグを抱え、ベッドの下に押しこんだ。それから、ほとんどずり落ちそうになっているガウンをまといながら歩き、歩くついでに押入れの戸を閉め、やっと玄関にたどりついた。
ドアをあけると、礼子が入ってきて不満そうに言った。
「なかなかあけてくれなかったのね」
「ごめん、ごめん。じつは、ベッドでうとうとしていたんだ。チャイムで飛びおきたはいいが、勝手がわからずうろうろし、足をなにかにぶつけちゃったんだ。ああ痛い……」
三郎は言いわけをしながら足をなでた。
「大丈夫なの」
「たいしたことはない。まあ、遠慮しないで奥へおいでよ」
「すごいお部屋ね……」
礼子はあたりの豪華さをよく見物したいらしかった。しかし、三郎としては、そのへんの戸をむやみにあけられては困る。
ベッドの乱れは完全になおってはいなかったが、あわてて飛びおきたという説明でなっとくしてくれるだろうか。三郎はその心配をなくしてしまおうと、スタンドの灯を薄暗くし、ベッドの上に横たわってころがりながら言った。
「やわらかくて気持ちがいいよ。早くここへおいでよ」
「そうせかさなくたっていいじゃないの。お部屋のムードを味わってからでもいいでしょう」
礼子がベッドの乱れやぬくもりや、かすかに残る匂いなどに不審を抱かず、ムードのほうに熱心らしいので、三郎はほっとした。
「そんなことは、あとでいい。きみをドアのそとで待たせたのはたしかに悪かったが、ぼくはそれよりずっと長い時間、ここで待ちかねていたんだよ。待ちくたびれて、眠りかけたくらいだ。さあ……」
三郎は必死の口調で言い、礼子の手を引っぱった。もちろん、彼女もそのつもりで来たのだ。やがて、礼子のはだかがそこへ出現し、ベッドのなかへとすべりこんできた。彼女は三郎のひたいだの首すじだのに口づけをしながら、うきうきした声で言った。
「三郎さん、なぜだか、きょうとても情熱的ね。なぜなの」
「部屋のムード、いや、きみへの愛情の高まりのせいさ……」
三郎はごまかした。さっきの女ですっかり興奮させられている。そして、その女は、すぐ近くの押入れのなかの暗がりに、はだかでじっとかくれているのだ。
そのことを想像すると、三郎の体内で刺激の妖精が勢いよくかけまわりはじめた。なめらかな礼子の肌の触感。刺激の妖精はかけまわるばかりでなく、二倍、四倍と数がふえ、押しあい、やがて臨界量に達し、連鎖反応がはじまりかけて……。
その時、チャイムの音が響きはじめた。
このやろう。こんな時にやってきて、ひとの恋路をじゃまする犬は、どこのどいつだ。三郎は腹を立てた。だれがなんと言おうと、応対してやらないぞ。
絶対に応対しない決心をかためたが、ドアのそとの声はこう言った。
「ぼくですよ、おばさま。入りますよ……」
つづいて鍵をあける音。はて、来客はおれのいとこなのだろうか、と三郎は考えた。しかし、声に心当りはない。とすると、叔父のほうの親類なのかもしれない。ここの合鍵を持っているところから察して、親しいやつのようだ。
だが、いずれにせよ、こんなところを見つかってはまずい。留守番をたのまれたのをいいことに、温泉マークがわりに使っていたと報告されては、ろくな結果にならない。叔母の耳に入ったら、もう小遣いをもらえなくなる。三郎は毎月のようにもらっていたのだ。定収入の一部といってもいい。その財源がなくなると、身動きがとれなくなる。この礼子ともつきあえなくなる。
礼子が三郎にささやいた。
「だれなの」
「だれだかわからないが、弱ったことになったようだ。たのむ。ぼくを信じてちょっとかくれていてくれ」
「でも、どこへ……」
「そこの押入れだ。いいかい、なにが起っても、決して声を立てないでくれ。きみといたことがばれると、きみとの結婚はおろか、これからの交際も不可能になる。あとで事情は説明するから」
三郎は礼子の服や下着をベッドの下にかくし、彼女を押入れのなかに押しこんだ。なれない部屋で、ほかに適当な場所を知らないのだ。先住者は驚くかもしれないが、背に腹はかえられない。あとでうまく説明すれば、なんとかなるだろう。いま問題なのは、すでに入ってきた来客なのだ。
三郎の大奮闘とは反対に、入ってきた男はいい気になってしゃべっている。声の調子から、まだ若いようだ。
「ぼく、やってきましたよ。ご主人、旅行なんですってね。だからぼく、それを知って急いできたんです……」
三郎はそっとのぞいた。玄関のほうは明るく、ベッドの室のほうは暗くしてあるので、さとられることなく相手の顔をよく見ることができた。しかし、叔父の親類にしても、まるで見覚えのない顔だ。
かなり若く、眼鏡をかけている。どことなくペット的な印象を受ける。そして、甘えたような声でしゃべりながら、服をぬぎはじめている。
「おばさま、ぼく、さっき精力剤とかいうのを飲んできたんですよ。本当にきくかどうか、ベッドの上でためしてみましょう」
それを聞いて、三郎はうなずいた。ははあ、おばさまという言葉で、かんちがいをしてしまったが、こいつは親類でもなんでもない。叔母のペットとでも称すべき存在だったようだ。最初に入ってきた女と、|対《つい》をなすものといえる。叔母夫妻が|倦《けん》|怠《たい》|期《き》にもならずなんとかやっていたのは、こんな裏があったためか。
しかし、感心している場合ではなかった。その若者は着ているものを全部ぬいでしまい、眼鏡をはずしてそばのテーブルの上にのせ、こっちへやってくる。すなわち、人工の製品はなにひとつ身につけていない。
三郎は目のやり場に困った。興奮した男性の姿というものは、異性にはいざしらず、同性の目にはあまり魅力的にうつらない。しかも、遠ざかって行くのならまだしも、近づいてくるのだ。
うろたえざるをえない。若者は近視の度が強いせいか、あたりが薄暗いせいか、胸の|動《どう》|悸《き》で見さかいがつかなくなっているためか、三郎に抱きついてきた。
死体でも倒れかかってきたほうが、まだましかもしれない。三郎は声も出せず、腰を引き、反射的に押しかえした。それなのに、相手はまだ気がつかない。
「どうなさったの、おばさま。さあ、早くベッドへ入りましょうよ。ぼくをかわいがって下さい……」
そして、ベッドの上にあおむけに寝た。三郎は目をそらせながら、毛布をかけてやった。
「おい、いいかげんにしろ。冗談じゃないぞ。ぼくの顔をよく見ろ」
とスタンドを明るくする。三郎が顔を近づけると、やっとわかったらしい。相手は青ざめた。急にふるえ声になる。
「あ、あなたはだれです」
「そっちこそ、だれだ。まあ、聞かなくてもおおよその見当はつくがね」
「すると、あなたはやとわれた人ですか」
「まあ、そういうことになるな」
「ああ、なにもかも終りだ。そこの窓から飛びおりて死のう……」
泣き声をあげはじめた。三郎はふしぎがりながら言った。
「そりゃあ、たしかに、ていさいのいい話じゃないだろう。しかし、これぐらいのことで人生に幕をおろすこともないと思うな。ぼくは留守番にやとわれてここにいるわけだが、きみを自殺させるつもりはないよ。まあ、元気を出せ。事情を話してみろ」
「お留守番のかたと聞いて安心しました。なにもぼく、来たくて来たんじゃありません。じつは、ぼくの父が商売上、ここの夫人から多額の金融の世話をしてもらったのです。ですから、ぼくがここへサービスにうかがわないと、その金融は停止され、父は破産、一家離散なんです」
「これはひどい。なんという世の中だ……」
商売がここまでせちがらくなったのをなげくべきか、性の解放を喜ぶべきなのか、三郎にはわけがわからなくなった。金策のために娘に因果を含める話は昔からあるが、ついにそれが息子に及んだらしい。この若者は孝子と称すべきなのだろうか。それとも、父の苦境をみかねて自ら志願したのだろうか。それとも……。
「お願いです。だまって見のがして下さい」
「どこまで真実なのかわからないが、オーバーなような気もするな。さっきの言葉では、いやいやながらという感じじゃなかったぜ」
「だって、まさか、あなたとは知らなかったんですから、ああ言うのが当然じゃありませんか」
「そういえばそうだな。まあ仕方がない。すべては胸におさめてだまっていてやるから、服を着て早く帰れよ」
「はい。ありがとうごさいます。なんとお礼を申しあげたものか……」
その時、窓のほうでなにかがガラスにぶつかる音がした。人がノックしたようでもある。それを耳にし、叔母のペットである若者は、のどの奥で悲鳴をあげ、毛布にかくれた。
「あ、やってきた。大変なことになってしまった。あいつに見つかったら……」
「なんのことだ。あれがなんだか知っているのかい」
「ぼくを尾行しているやつにちがいない。ぼくとここの夫人とのあいだをさぐり、スキャンダルにしようというのです。そのためにやとわれたやつにきまっています。だからぼく、さっき、あなたをかんちがいしてあわてたのですよ」
「きみの話はどうも大げさなようだな。まさか、そんなことが……」
「いいえ、本当です。そうでなかったら、時間をみはからったように、こううまく窓のそとに出現するわけがないでしょう。あいつにフラッシュをたかれ写真でもとられたら、ここの夫人はおしまいです。そして、ぼくも……」
若者は歯を鳴らしていた。錯乱状態の少し手前といった感じだ。こいつ、頭が弱いんじゃないだろうか。それとも、テレビでも見すぎて自分を悲劇の主人公に仕立てて酔っているのだろうか。三郎にはわからなかった。叔母もペットを選ぶのなら、もう少しましなのにすればよかったのに。
もしかしたら、精力剤の副作用かもしれない。若いのにそんなのを飲むと、過敏になるばかりだろう。
しかし、まさかとは思っても、事実としたらことだ。叔母の没落は三郎にとっても好ましい事態ではない。そこまで至らないとしても、ここが同性愛のクラブだとうわさがながれたり、こっちまでその愛好者と思われたりしたら、一生うだつがあがらなくなる。
ガラスをたたく音には、早く開けろとの感情がこもってきた。幻聴ではない。だれかがそこにいるのだ。三郎は若者に言った。
「そんなに心配なら、早くドアから出て行けばいいじゃないか」
「ドアのそとにも待ちかまえているにきまっていますよ」
三郎は覚悟をきめた。
「えい、仕方ない。まったく手数のかかるやつだ。よし、ぼくが応対して、うまく撃退してやる。ちょっとのあいだ、その押入れにかくれていてくれ。しかし、そこになにがあろうと、そとではなにが起ろうと、決して声をあげたり、出たりしないようにな」
「わかってますよ。どうぞよろしく……」
三郎はまかせておけとうなずき、また例のことをくりかえした。すなわち、はだかの本人を押入れに、散乱している服や下着をベッドの下に押しこむという行為を。もっとも、テーブルの上の眼鏡までは手がまわらなかった。
それから、カーテンをずらし、ガラスのそとをのぞいた。こんな時に他人の住居の窓をたたくなど、非常識もはなはだしい。ひっぱたかれたって、文句も言えないはずだ。第一、この三階のベランダまで、どうやってのぼってきたのだろう。そんなことを考えながら、三郎はにらみつける目つきをした。
しかし、そのとたん、彼はきもをつぶした。まっぱだかの男が、そこにいるではないか。そいつは、ガラスのむこうで手を合せ、目で必死に訴えている。こうなると知らん顔もできず、あまりの異様さへの好奇心もあり、三郎はガラス戸をあけた。
「なんです、あなたは。どこから来たのです。まるで夢遊病だ。しっかりして下さい。ここは三階のベランダで、温泉の浴場じゃないんですよ」
「しっ。小さな声で。なにもおっしゃらず、早くなかへ入れて下さい。事情はお話しします」
「事情のあることは、見ただけでもわかるよ。しかし、そんなかっこうで、よく尾行の仕事がつとまるな」
あきれている三郎にかまわず、はだかの男はなかへ入り、自分でガラス戸をしめた。
「なんのことですか、尾行とは。決してそんな怪しい者ではありません。哀れな者なのです。同じ男性なら、きっと同情してくれるはずです……」
「気を落着けて、早く話せ」
「じつは、となりの部屋の奥さんとベッドに入っていたら、急に亭主が帰ってきたんです。これからという時にね。|小話《こばなし》や漫画ならアハハですが、自分がそうなると大変です。とるものもとりあえずベランダへ出て、命がけでこっちへ移ってきたというわけです」
「なるほど、そう説明されるとそのようだな。どう見ても強盗ではない」
三郎はほっとして笑った。たしかに、当人にとっては絶体絶命の立場にちがいない。ほっといたらどうなっただろうか。戸外の寒さに耐えたとしても、明るくなったらどうするつもりだったのだろう。
見ればちょっとした二枚目で、たくましいからだつきだ。それがまっぱだかで手を合せている図は、三郎でなくとも笑いたくなる。
「お願いです。助けて下さい」
「いいとも。通してあげよう。玄関はあっちだ。そっと出ていってくれ。こっちも事情があって、いそがしいのだ」
「しかし、このなりでは、どうも……」
「人に見られないよう階段をおり、そっとタクシーへ乗れば家まで帰れるだろう」
「そんな無茶な。タクシーが止ってくれません。どんなお礼でもします。なにか着るものと、はくものを貸していただけないでしょうか」