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作者:日-星新一 当前章节:15436 字 更新时间:2026-6-16 01:47

「しかしだね、そのまま逃げたっきりにならないという保証はないじゃないか」

 まったくのはだかで、金も身分証明書もなにもないのだ。最近は盲点をつく知能犯がうようよいる。こういうきわどい詐欺を考え出すやつがいないとは断言できない。計画的にやられたら、たいていひっかかる。

「信用していただけないのは残念です。といって、このままでは帰れない。じゃあ、こうしましょう。電話を使わせて下さい。恥をしのんで友人に連絡し、服を持ってきてもらいます。あの、ここは何号室になるんでしょうか」

「わかった。きみを信用しよう。ズボンとシャツとスリッパと、タクシー代を貸そう。万一かえしにこなかったら、となりのご亭主に言いつけてやる」

「ご迷惑はおかけしません。ありがとうございます」

 三郎はべつに信用したわけではなかった。言いつけようにも、この男の名前すらわからない。間男が逃げてきたという証拠は、あとにはなにひとつないのだ。

 それにもかかわらず服を貸す気になったのは、はだかの男にここに腰をすえられては困るからだ。いいかげんで追払わないと、こっちの仕事にさしつかえる。つまり、押入れのなかの連中のことだ。ひとりずつ出し、それぞれに一応つじつまのあう説明をし、帰さなければならない。やっかいなことだが、やらねばならない。ひどいことになったものだ。なんという悪日だ。

 そんな三郎の内心におかまいなく、ベランダからの侵入者は、最上級の感謝の意を表明した。むりもない。やっと危機をのがれることができたのだから。それにしても、大の男がはだかで喜んでいる光景というものは……。

 だが、その表情もすぐにこわばった。チャイムの音がし、それだけではたりぬかのように、ドアが激しくたたかれた。ベランダからの侵入者は、飛びあがった。

「た、たのみます。奥さんの言いわけでは、ごまかしきれなかったのでしょう。ベランダから逃げるところを見られたのかもしれない。亭主がさがしに来たのです。嫉妬ぶかく、かっとなりやすいやつなのです。だからこそ、ぼくも足をふみはずしたら死ぬと知りながら、こっちのベランダへ飛び移ったのです。物わかりのいい亭主なら、ぼくはその場であやまっていたはずです」

「そんなぶっそうな人の奥さんと、なんで浮気なんかするんだ。前後の見境いのないやつだな」

「恋は盲目とかいうじゃありませんか。すばらしい女性なんですよ。しかし、亭主はひどい。見つかったら殺されます。かくまって下さい。だれも来なかったと言って下さい」

 ドアをたたく音は、あけてくれるまでやめないという勢いだ。目の前で殺人がおこなわれてはかなわないし、巻きぞえで傷つけられるのもまっぴらだ。三郎は言った。

「じゃあ、話してみるから、ベランダにでもかくれていてくれ。ベランダというかくれ場所には気がつかなかった。もっと早く知っていたら……」

「なにをぶつぶつおっしゃっているのです。ベランダはだめですよ。ご亭主が入ってきたら、まっさきにそこを調べます。ほかにありませんか。かくれるところは」

「仕方ない。そこの押入れだ。もう、どうにでもなれだ」

 三郎が指さすと、男は感心した。

「なるほど、そんなところがあったのですか。むこうの部屋にもあったわけですね。それなら、そこへかくれてもよかったのだ」

「そうしてもらいたかったよ。しかし、いいか。絶対に声をあげないでくれ」

「わかってますよ。死にたくはありませんからね。キジも鳴かずばうたれまいです。だけど、気をつけて下さいよ。[#電子文庫化時コメント 「気ちがいに刃物のような」を削除。星夫人の電話での了解 2002/7/12]すごい人なんですから」

「きみのせいで、亭主が狂犬のようになったんじゃないか。さあ、早く……」

 三郎は男を押入れに追いこんだ。だが、今回は服をベッドの下にかくす必要がなく、その点だけは助かった。

 それから、玄関のドアを開ける。とたんになにかが飛びこんできた。予期していたとはいうものの、その勢いはすさまじかった。

 しかし、どうもようすが変だ。いかり狂った男ではなく、入ってきたのは女だったのだ。その女は言った。

「早くドアをしめちゃって。助けて。いやな男に追いかけられているの」

「ははあ、となりの奥さんですね」

 と三郎は言った。浮気を問いつめられ、なぐられて逃げ出してきたのかと思ったのだ。しかし、その女は三十歳ぐらいで、和服が身についた、水商売かなにかのような感じだった。ベッドから出てきたふうではない。それならドアをあけて入れなければよかったと思ったが、あとのまつり、女は三郎の口を手で押え、ささやいた。

「お願い。声をおだしにならないで。つかまったら大変なの。ちょっとのあいだでいいから、かくまってちょうだい。どんなお礼でもするわ」

 耳をすませると、そとの廊下を行ったり来たりする足音がする。いやな男につきまとわれているのだろうか。この女もマンションの住人で、なにかから逃げてきたのだろうか。犯罪でもからんでいるのだろうか。三郎には見当もつかなかった。聞いたところで、はっきりとは答えないだろう。あるいは、長い長い話になるのかもしれない。

「だれが来ても、決してあけないでね」

 女は三郎を引っぱり、ドアからはなれた。ベッドが目に入り、女は言った。

「いっしょに寝ましょうよ……」

 かくまってもらって、ほっとしたらしい。その感謝の意味なのだろう。それとも、心細さが原因なのだろうか。

「しかし……」

「いいのよ。遠慮なさらないで。あたし、どんなに助かったことか。あなた、感じのいいかたねえ。親切で、男らしくて。ここには、ほかにだれもいないじゃないの。だったら……」

 とめるまもなく、女は着物をぬぎはじめた。帯が、着物が、下着がと進み、小麦色のほっそりしたからだがあらわれた。またもはだかだ。

 三郎としては、もはや興奮どころではない。|呆《ぼう》|然《ぜん》としていると、女は積極的になった。せっかく着物をぬいだのに、それを無視されたのかと思い、いじになったようだ。三郎をうぶな青年と感じ、熱意が燃えたようでもある。

 なやましげな身ぶりをし、挑発的だ。追いかえそうにも、こうなっては手がつけられない。それが作戦だったのかと、三郎はやっと気がついた。女の着物をむりやりぬがせることは可能でも、いやがる女にむりやり着物をきせることはむずかしい。

「ねえ、ベッドに入りましょうよ……」

 男をあしらいなれている女性らしく、声と視線と体臭という見えぬ糸を縦横に使い、三郎を引きよせはじめた。さっきからの事件で、三郎の頭は疲れはてている。そこへまとわりつく、しなやかなはだかの女。彼はふらふらと……。

 また、チャイムが鳴りだした。

 女はびくりとし、三郎を力をこめて引き寄せ、両手と両足とでしっかりとつかまえた。ベッドからドアへは、どうあっても立たせないつもりらしい。

「とうとう来たわ。絶対にあけないでね」

「そうするよ」

 変なさわぎに、これ以上かかわりあいたくない。そもそも、ドアを開けるたびに、なにかしらやっかいなものが入ってくる。もうたくさんだ。警官だろうが、執行令状を持った裁判所のやつだろうが、火事を告げる消防夫だろうが、百万円の当選を知らせに来た人だろうが、知ったことか。

 チャイムの音はつづき、そのあいまに男の声がした。

「おい、おれだよ」

 叔父の声だ。つづいて、叔母の声。

「気象条件が悪くて、飛行機が引きかえしちゃったのよ。それであたしたち戻ってきたの。ねえ。三郎さん、いるんでしょ……」

 これは知らん顔もできない。ここの本来の住人なのだ。追いかえせない唯一の人だ。鍵も持っているだろうし、持ってないとしても、返事をしないでいたら管理人にたのんで合鍵であけてもらうだろう。

「おかえりなさい。でも、ちょっと待って下さい。いま、シャワーをあびたのではだかなんです」

 とりあえず三郎は答え、いやもおうもなくベッドの女をせきたて、着物はベッドの下へ、女は押入れへと、さっきからの手なれた作業をおこなった。

 それと同時ぐらいに、叔母たちはドアをあけて入ってきた。叔母は言う。

「すまないわねえ。留守番のお礼とタクシー代をはずむから、三郎さん、自分の家へ帰ってよ。あしたの晩からにお願いするわ」

「しかし、ベッドをお借りしていたので、シーツがとても乱れていて……」

「いいわよ。あたしがなおすから。べつになにもなかったようね。さぞ退屈だったでしょう」

 と叔母はあたりを見て言う。

「はあ」

「じゃあ、これはお礼」

「じつは、その……」

「不服そうね。だったら、もっとあげるわ」

 紙幣の何枚かが手渡された。服を着て出ていかねばならない成り行きとなった。もはや、運命はつきたようだ。三郎はなにか言おうかと思ったが、押入れのなかについては、どうにも説明のしようがない。

 三郎はドアから出た。あのベッドに、これから叔父と叔母とが入ることになるのだろう。ふたりのむつごとはすさまじいそうだ。それは押入れのなかの連中の耳にもとどくだろう。どんな反応をするだろうか。絶対に声を立てるなと念は押してあるが、あの暗くせまいなかでの、はだかの若い男女だ。それに、みんな発火寸前の状態にある。精力剤なんかを飲んでいるやつもいる。いつまで静寂がつづくだろうか。

  手 紙

 夜。豪華な室のなか。上品な照明がやわらかい。広い床に敷かれたじゅうたんは厚く、壁を飾る絵も高価そうだ。重い材質の、がっしりと大きな机。

 その机にむかって、ひとりの人物が椅子にかけ、考えごとをしていた。五十五歳ぐらいの男。服装も立派でととのっていた。彼は考えこみ、時どき無意識のように手をポケットに入れ、ふたたび出す。その動作をくりかえしていた。

 ここはある官庁の官邸。すなわち、男は政府のきわめて重要な地位にある。彼は政治家として、思いきった施策をつぎつぎに打ち出し、大衆的な人気と支持もあった。その支持があるからこそ、思いきったことができたともいえる。

 しかし、派手な行動というものは、ゆきづまりやすい。この男の場合もそうだった。無理押しの矛盾が少しずつつみ重なり、いまや苦しい局面におちいっていた。一方、世人の彼への期待は依然として強い。すぐにも、少なくとも数日中には、なんらかの打開案を発表しなければならない立場にあった。しかも、奇跡のような案をだ。だが、なんの名案も浮んでこない。

 男はタバコをくわえ、二、三回ほど吸って、灰皿でもみ消した。なんということもなくメモ帳を開き、意味のない記号を書いて、それから破って捨てた。またポケットへ手を入れ、出した手を顔の前でひろげて、ぼんやりと見つめる。

 彼はいらいらしていたのだ。といって、対策の案が思いつかない絶望のためではなかった。男は待っているのだ。手紙を待っている。通信文を待っている。それが救いであり、希望であり、たのみのつななのだ。

 その手紙が来さえすれば、いまのいらだちはたちまち消える。待つ。それは絶望そのものより、はるかにいらいらする。

 手紙を待っている。それは手紙と称していいものかどうか、断言はできない。どこから送られてくるのかも、どうやって送られてくるのかも、なぜ送られてくるのかもわからないのだ。

 だが、必ず来るのだし、必ず彼の目にとまることになっている。それは確信となっていた。いや、確信というよりも、顔のひげがのび、太陽が東からのぼり、枯れた木の葉が落ちるのと同じく、疑いようのない当然のことなのだった。

 おちついて待てばいいのだ。男は椅子の背にもたれ、目を閉じ、手紙のことを回想した。彼の人生において、その手紙に最初に接した時のことを……。

 ……あれは大学を受験する半年ほど前のことだった。いまでも、なつかしく、はっきりと思い出せる。

 そのころの彼は、頭はさほど悪くはないが、個性のない少年だった。将来への野心とか自信とかいったものもなかった。ずっと遠くまでが見えてしまうような気持ちになる。

 自分の前にひらけているのは、平凡な一本の道しかない。一生とは、これを歩きつづけることだけなんだ。そこを歩いている、将来の自分の姿が見える。平穏ではあるが、なんの感激もなく、惰性で歩きつづけている。そして、はるか道のはてには、とし老いて倒れている自分の姿さえ見える。

 人生とは、それだけのことなのだろうか。それなら、この道を歩きつづけるのは、なんのためなのだろう。

 少年はこの思いを持てあました。これを振り払いたいと願った。だが、頭をふったぐらいではどうなるものでもない。こういうものなのだと悟った心境になることもできず、奮起して心のなかで野心を爆発させることもできなかった。平凡な少年だったのだ。

 少年は街に出た。人ごみのなかをあてもなく歩きまわった。もしかしたら雑踏にまざっているうちに、この悩みをだれかが持っていってくれるかもしれない。そうでなくても、悩みがすりへってくれるかもしれない。このような思いつきだったのだが、あまり効果はなかった。

 少年はさびしさにたえかねたかのように、なにげなくポケットに手を入れてみた。紙片が指にさわる。出してみると、字が書いてある。少年は人ごみからはなれ、ものかげに行ってそれを読んだ。その紙片には、なにか秘密めいた感じがともなっていたからだ。

 十センチ四方ぐらいの、かすかに灰色がかった目立たない紙。やわらかい感触だった。

 ある大学の名がしるしてあり、そこを受験せよと簡潔に書いてあった。少年はしばらく|呆《ぼう》|然《ぜん》とする。その大学への受験は、自分の才能を越えたことだと思い、これまで考えてもみなかったことなのだ。

 もう一回、紙片に目を落す。やはり文面に変りはない。そして、付記のようなもののあるのを知った。読んだらすぐに焼きすてよ、このことをだれにもしゃべるな、だれにも気づかれるな、と。

 少年はそれに従った。さからってはいけないようなものを感じたのだ。火をつけると紙片は音もなく、かすかな煙をあげて燃え、灰は微細な粉となって散った。

 紙片は消えたが、少年の心のなかには変化がおこった。指示された大学を受けてみよう。ものはためしではないか。やってみよう。

 それにしても、と少年は考えた。あの手紙を、だれがぼくのポケットに入れたのだろう。それはもはや調べようがなかった。なにかあたたかく力強いものにさわられたような気もする。その時に入れられたのだろうか。だが、はっきりはせず、それは気のせいかもしれなかった。

 なんのために、どんな理由で、どうしてぼくのポケットに。それもまたわからなかった。謎の手紙。だから、とても神秘的な感じがした。

 少年は決心をし、志望校を口にした。家庭でも、友人たちも、みなふしぎがった。むりだからよせ、と忠告する者もある。なんでまた、そんな気になったのだと、質問をくりかえす者もある。少年はそれには答えなかった。紙片の付記にあった指示だ。秘密にしなければならないことなのだ。そして、ぼくはそれを守る約束をした。

 少年には目標ができた。はりあいのある日々がもたらされた。それにむかって努力をし、その大学に入学することができた。うれしさはもちろんだった。と同時に、前からきまっていたことのような気もした。だが、あの手紙に接しなかったらと思うと、説明のしようのない複雑な感じにもなる。

 大学時代、学年が進むにつれ、彼の心のなかでは、かつての手紙の記憶がうすれていった。あれは錯覚だったのだろう。幼い頃に暗闇のなかに見たと思った怪物のようなものかもしれない。そんなふうに考えたりもするのだった。

 卒業が近づき、就職をきめなければならぬ時期となった。そのようなある日の夕方、彼はポケットのなかに、またも紙片を見出した。だれに入れられたのだろう。心当りはなかった。注意の空白の瞬間をねらってなされたのだろうか。いや、泉がわき出すように、大地から芽が出るように、ごく自然にポケットのなかに出現したという感じだった。

 ある企業の名がしるされ、そこへ就職せよと書かれている。例によって、すぐに焼きすてよとの付記も。

 以前のことが鮮明に頭によみがえり、彼は反射的にそれに従った。他人に見せることが大変な裏切りであり、|冒《ぼう》|涜《とく》のように思えたからだ。これはいい手紙なのだ。そんなことをしたら、この通信はこれきりになってしまうのではないかとの恐れも感じたのだ。

 彼はその企業の入社試験を受け、合格し、青年社員となった。そして、順調だった。働きがいのある月日が流れる。

 順調な日々の連続は、また彼に手紙のことを忘れさせる。現在の状態はすべて自分の実力なのだ、才能なのだ、と。ほかからの指示のおかげなんかではない。あの手紙は、自分の決意のあとだったような気もする。自分がなにげなく書いたメモを、自分でポケットから出して読んだのにちがいない。

 |傲《ごう》|慢《まん》ともいえた。たが、それは青年期の特性であり、順調さの示す特性でもあった。それでいいのだ。

 やがて、青年は恋をした。これまでにも女友だちは何人かおり、恋愛めいたことの経験はあった。だが、こんどのはとくに激しく燃えた。相手の女性の家庭が上流階級に属し、そのことが彼をためらわせ、ためらいが恋の炎をあおる形になったのだ。

 傲慢さはしりぞき、|煩《はん》|悶《もん》がとってかわった。自分の家柄がもっとよければなあ。あるいは、それをおぎなうだけの図々しさが自分にもあったらなあ、などと思う。いや、図々しさがあって、明確にはねつけられる結果になったら、さらに悲しい。このままのほうがいいのかもしれぬとも考える。閃光と闇とが交錯したなかにいるような、おちつかぬ日々だった。

 自分を持てあまし、心が疲れはてた時、青年のポケットからまた例の手紙が出現した。その女性をめざせと書かれた紙片だ。

 彼は見つめた。いったい、だれがよこす手紙なのだろう。個性のないような、それでいて、ものすごく強烈な個性を押しかくしているような筆跡。こんな字を書けるような人がいるのだろうか。その神秘さが、なにかさからえない力となって迫ってくるのだ。

 それに、この紙質。こんな紙は見たことがない。やわらかく、目だたぬような色で……。

 だが彼は、そのせんさくをやめた。黄金の卵をうむ鳥の腹をさくようなことになりかねない。それに、調べることは非礼に当るように思える。この手紙の差出人は、ごく身近にいて、自分を見つめているのかもしれない。よけいな好奇心を起すと、それはすぐに察知され、もはや二度と……。

 一瞬そんなけはいを感じ、青年は紙片を焼きすてた。あとにはなにも残らない。恋に苦しんだあげくの、うたたねの夢だったような気もする。だが、夢とはちがう。夢ならさめてから五分もすると忘れるが、この場合、彼の心のなかで決心がめばえはじめていた。

 青年は勇気を出してその女性との交際を進め、結婚へとそれは結実した。いい妻であり、その親類は有力者が多かった。やがて子供もうまれる。彼は満足だった。

 こういうのをエリート?コースというのかもしれぬ。夢のようなことだなとも思う。だが、実力あってこその幸運ではないかとも考える。才能への自信感が高まり、気分のはれやかな夜など、ウイスキーでも飲みながら、例の手紙のことを妻に冗談めかして話したいという誘惑にかられる。

 しかし、それは口に出す寸前に思いとどまるのだ。すべては他言しないという誓いのおかげではないか。この契約にそむいたら、どうなるだろう。現在の幸運が、音をたてて一挙にくずれ落ちるかもしれない。そうはならなくても、手紙のおとずれは永遠になくなるだろう。やはり、言うべきではないのだ。

 幼いわが子を抱いてあやす時にも、男はそれを口に出さなかった。まだ言葉のわからない幼児が相手でも、約束を破る行為であることに変りはない。自己に課したきびしい戒律なのだ。

 めぐまれ充実した生活がつづき、つとめ先でも失敗をせず、男は昇進をした。

 しかし、ある日、またポケットに手紙があらわれた。転職せよ、とある。ある業績不振企業の名がしるされ、そこへ移れとある。

 例によって、男は読んだあと、それを焼きすてた。読まずに焼きすてたかった。こんどは悪夢のような気分だった。なぜ、いまの順調さを捨てなければならないのだ。へたをしたら、破滅への道をたどることにもなりかねない。

 これはなにかのまちがいだ。しかし、いまの文は目の底に、頭の奥に、心の壁にすでに刻まれてしまっている。もはや消しようがない。

 聞きかえし、わけをたずね、確認したかった。だが、郵送された手紙とはちがうのだ。こちらから連絡をとる方法がない。無視するか、従うか、二つに一つしか道はない。

 男は親しい友人に事情をうちあけ、相談したくてならなかったが、それもやめた。他言しないという戒律を破ることになる。あれこれ迷ったあげく、男は指示に従うことにきめた。従わなかったら、これからずっと気がかりな人生を送ることになるだろう。

 男はその決意を発表した。もちろん、妻は反対した。結婚してからはじめての反対だった。強い反対だった。なぜなの、どうして、なぜそんなばかげたことを。

 しかし、男は説明をしなかった。説明は誓いを破ることであり、それは許されないことなのだ。

 決意の言葉をくりかえすだけだった。

 つとめ先の関係者も忠告した。あの企業はどう調べても回復不能の会社だ。そこへ移ろうなど、頭がどうかしたのじゃないのか。因縁も義理もない。悪いやつにそそのかされたのか。しかし、ここでも男は決意をくりかえすだけだった。

 決意の言葉をくりかえしているうちに、彼の心のなかでも本当に決意がかたまった。それは表情にもあらわれ、なにか確信ある信念のように他人の目にはうつった。それほどまでに考えているのなら、できうる限りの協力はするよ、との言葉をかけてくれる人もあらわれてきた。

 かくして、男はまた新しい道を進みはじめた。それは苦難の道だった。不振の企業を向上させるのは容易でない。前任者たちはこれ幸いと彼に責任を押しつけ、去っていった。

 不眠不休、何年かをそれに捧げたが、依然として不振はつづく。財産はへり、知人には迷惑をかけ、からだも弱る。もうだめだ、力はつきた。これ以上はつづけられない……。

 その時、ポケットに手紙があらわれた。あきらめるな、の文字。神秘にみち、力強く、反対を許さない通信。

 やけともいえた。不合理への熱狂ともいえた。男は肉体と精神に残るすべてをそそいだ。そのうち、産業界の思いがけぬ変化により、突然の好況がもたらされた。いままでの不振をいっぺんにうめあわせるように、急速に利益があがりはじめたのだ。長い乾季が終って雨季に入ったように、利益はふりやまぬ雨のごとく、限りなかった。

 たちまち業界の上位にのしあがり、世の注目を集める。普通ならこのような場合、|嫉《しっ》|妬《と》や|羨《せん》|望《ぼう》が強く当るものだが、彼の長い苦労が知れわたっているために、称賛と祝福だけが集中する。協力者もふえる。

 さらに海外への進出。男は海外旅行へ出発すべく、空港の待合室にいた。なにげなくシガレット?ケースを出そうとした時、また例の手紙が指先にさわった。予定のに乗るな、とある。

 航空機の変更にはてまがかかり、金もむだになった。しかし、男はそれをやり、事故をまぬかれることができた。

 企業は加速されたように発展し、順調さはむかし以上のスケールとなった。政界への進出をすすめる者もある。男はあまり関心を持たなかったが、やがて、彼はその決心をかためることとなった。

 いうまでもなく、ポケットに手紙があらわれたのだ。政治の分野で力をふるえと。彼は従った。ためらうことはない。従うことで高みにのぼり、より高くのぼることで、つぎの通信があらわれる。

 政界に入ってからも、進退に窮するような場面に何度かぶつかった。しかし、そのたびにポケットに手紙が出現し、簡潔な指示がある。そして、それによっていつも道が開け好ましい状態になるのだった……。

 そして、いま、国政の大きな部分を左右できる、重要な地位についている。だが現在、大きな壁にぶつかっているのだ。

 ここ数日、男はこの官邸にもどると、自分の室にとじこもり、他人を近づけず、このように考えつづけている。

 考えているのは、もちろん手紙のこと。待っているのだ。しばらく前から、彼は例の通信を心待ちしていた。しかし、それはいまだにとどかず、周囲の情勢は引きのばしを許さないものとなってきた。

 手紙の指示が必要なのだ。いまこそ、来なければならないはずなのだ。これまでずっと、重要な転機には手紙が来ていた。だから、いまこそ来なければならないのだ。

 男はポケットに手を入れた。しかし、そこにはなにもなかった。ついでに、シガレット?ケースもあけてみた。そのなかもからっぽ。机の引出しをあける。だが、めざす紙片は入っていなかった。来ていていいはずなのだが……。

 男は椅子から立ちあがり、口をかたく結びながら、室を歩きまわる。壁にはめこんである洋服ダンスをあけ、なかの服のポケットをさがす。ひとつ残らず、どんな小さなポケットまでもさがしたが、手紙はなかった。

 ふたたび歩きまわり、室のすみの床の上、机の下までさがした。もしかしたらポケットから落ちたのではないかと考えたのだ。追いつめられたように、視線でたんねんに床の上をなでまわす。だが、どこにもなかった。

 こんなはずはない。男は見おとしているのかもしれぬと、室内を何度も調べなおす。

 いくらか疲れ、男は椅子にもどる。待つのだ。手紙とは求めるものでなく、待つものなのだ。あせってはいけない。きっと来る。心をおちつけて、静かに待つべき時なのだ。

 男はむりに目をとじ、時の流れを迎えては送り、また迎えては送り……。

 なにかの物音がした。目をあけると、椅子のそばにひとりの青年が立っている。帽子をまぶかくかぶり、服のえりを立てている。そのため顔つきはよくわからないが、若者らしいことは想像できた。

 男は思わず、その青年に言った。

「待っていたよ」

 手紙をもたらしにおとずれてくれたのかと思ったのだ。それ以外に考えられない。持参とは異例だが、いまは急を要する場合だ。

 しかし、目の前の青年は小声で言った。

「待っていたとは、なんのことです。ぼくの来た目的もご存知ないはずです」

「うむ、これは勘ちがいだったかもしれない。で、取次もなく入ってきて、用はなんです。どなたです」

「あなたを殺しに来た。それが用件のすべてです……」

 青年は服の内側から拳銃を出した。銃口の先についているのは、消音器というもののようだ。それをむけながら言う。

「……声をおたてになろうとしても、その前に弾丸が口をうちぬきますよ」

 カチリと音がした。銃の安全装置をはずしたのだろう。男は恐怖と驚きを押えながら、かすかに言った。

「まってくれ。大声は出さない。また、この室にはだれも入るなと言ってある。私は武器を持っていない。だから、せめて事情ぐらいは聞かせてもらいたい」

「いいでしょう。しかし、思いとどまることはしませんよ。あなたを暗殺する。この行為はぼくにとって、しとげねばならぬことですから。慎重に計画をたて、この家の間取りを調べ、人目にふれぬよう時間をみはからってしのびこんだというわけです」

「侵入の経路など、どうでもいい。聞きたいのはべつのことだ。ところで、タバコを吸ってもいいかね」

「どうぞ……」

 青年はうなずき、男はポケットに手を入れた。しかし、そこには落胆しかなかった。祈りをこめたにもかかわらず、紙片はあらわれていなかった。男はむなしくタバコだけを出し、口にくわえて火をつけた。

「私の知りたいのは、なぜ殺されなければならないのかの点だよ。政治家としての私に対する、世の人びとの期待は大きい。これまでみなを裏切ったこともない。また、現在ゆきづまっている問題点がないこともないが、それだってちかく解決できるはずだ。他人からうらみを受けるおぼえはない。もっとも、うらみとは、おぼえのないところにひそんでいるものなのだろうが……」

 男は誠意を示す口調で言った。話の内容も事実そのとおりだ。しかし、青年はなにか困ったような声で言った。

「そういったようなこととは、ちがうんですが……」

「教えてくれないか。それを知らないうちは、死んでも死にきれない」

「申しあげてもいいんですが、とても理解していただけないでしょう。理屈もなにもないと、あなたはさらに不快になる。話すことはむだです」

「いや、ぜひ知りたい。たのむ。最後のお願いだ……」

 男は無意識にポケットに手を入れた。だが、そこにはやはりなにもなかった。青年は油断なく銃のねらいをつけたまま言った。

「では、お話しいたしましょうか。言ってはいけないことなんですがね、いや、だれにとめられているというわけでもありません。ぼく自身の掟のようなものなんです。しかし、あなたに話したとしても、あなたはまもなく死ぬ。だから、申しあげようかという気になったんです。じつは、一回でいいからだれかに話したくてたまらなかった。ちょうどいい機会です」

「よくわからないが……」

「つまり、ぼくの人生とか運命とかいったことになるのでしょう。ぼくの子供のころのことですよ。ある時、ふとポケットのなかに手を入れると、紙片があった。自転車を盗め、と書いてある。なにか、さからえないような感じのものでした」

「ふん、それで……」

 男は身を乗りだして先をうながした。

「少しはなれて、だれのともわからない自転車が道ばたにある。それへ乗り、動かしたのです。うしろで叫ぶ声がしたが、追いかけてくるのをふりきって遠くまで走り、そこへ乗りすてたんです。ちょっとしたスリルでしたよ」

「ふん……」

「心のときめくような、からだの血液の濃度がぐんと高くなったような、べつな力が加わったような感じ。それまでのぼくは、おとなしく平凡な子供。そんな盗みなど、考えたこともなかった。それが、こうも急に一変してしまった。心理学者は衝動とかなんとか言うでしょうが、本当はポケットの手紙がはじまりなんです。でも、こんなこと話してもむだでしょう。あなたに信じてはもらえないにきまっていますから……」

「いや、信じるよ。そのさきを聞かせてもらおうか」

 男は本心から言った。青年は秘密を話す楽しさに酔いながらつづけた。

「そのうち、またポケットに手紙があらわれる。その指示によって、さらに大きな盗みもやった。ひとを傷つけたこともある。そのたびに高まるスリル。いや、生きがいのようなものが目ざめさせられたんです。こうなると、ひきかえせない」

「その手紙はもっているのかね」

「いいえ、読んだら焼きすてるようにと書きくわえてあったんです。命令されているような気分ですよ。焼きました。とっておけば発覚のもとでしょう。とっておいて、犯行はこの手紙のせいで、自分のせいではないなんて言っても、警察だって信じてはくれませんよ」

「それはそうだろうな」

「それに、秘密にしておく快感もあるわけですよ。秘密は神聖さをおびてくる。秘密にしておくことで成功がもたらされ、それでつぎの通信が来るような……」

「うむ……」

 と男は大きくうなずき、同感を示した。しかし、それは青年の目には、時間かせぎのあがきとしかうつらなかった。

「数日前に、またポケットに手紙があらわれた。あなたを暗殺せよとの文です。ぼくはそれまで、あなたへの憎しみどころか、不満さえ抱いたことはなかった。しかし、例の手紙のあとは、その理由が頭のなかで組立てられたのです。あるいは、手紙で決意がかたまり、それが理由を結晶させたのかもしれませんが……」

「そうだったのか……」

「その理由をくわしくお話しすることもないでしょう。反論によってゆらぐものではないのですから……」

「うむ……」

「だから、決心は変えられません。あなたを暗殺することで、どんなにすばらしい快感が味わえるか。それは過去の例から、はっきりしているのです。あの手紙はいつわらない。これは成功する。そのあと、また手紙がさらに強烈な指示をもたらしてくれるでしょう。といったようなわけです。信じられないことでしょうが、これがすべてです。笑われるのはいやだし、笑いはぼくへの手紙の主をけがすことです。そろそろ覚悟をなさってください」

「ああ、そうすべきだろうな……」

 男は言い、またポケットをさぐったが、なにもなかった。もう手紙はあらわれないのだろう。男はそう思い、あとひとつだけ聞いてみたい心を押えられなかった。

「笑ったりはしないよ。しかし、その手紙なるものは、どこから送られてきたのだろうか。考えたことはないのかね」

「信ずる対象ですから、追究してみようとしたことはありませんよ。そうすべきではないような気がして。しかし、コンピューターなんてものでないことはたしかでしょう。そんなものの存在する話は聞いたことがない。未来のいつの日かそんなたぐいのものができたとしても、こうはいかないでしょう」

「うむ……」

「また、社会をあやつる裏面の組織。そんなものでもないと思いますね。人間の能力では予想できない、偶然のようなものをも織りこんだ指示もあったようです」

 青年の話に、男はうなずいた。いつだったか、手紙の指示で飛行機事故をさけられたことを思い出したのだ。

「いったい、どこからの手紙なのだろう。最後に、その心当りだけでも言ってみてくれないかな」

「わかりませんねえ。第一、ぼくはそうだと思いこんでいても、本当にそんな手紙がポケットのなかに出現していたかどうかとなると、断言するのにためらいを感じるのです。つきつめると、幻覚か幻影だったのかもしれないと、ぼんやりしてきます。しかし、それによってぼくの現在があるのだし、またやがて手紙が来れば、疑うことなくその指示に従うでしょう。これははっきりしていますよ」

「運命の神からだとは思わないかね」

 と男は聞いた。だが、青年は首をかしげながら答えた。

「ええ、そうも考えます。しかし、運命の神ともちょっとちがうようだ。といって、悪魔からでもないようです。じつはね、歴史の神じゃないかと、時どき思ったりするんですよ。そう呼べるものがあればの話ですが。もしかしたら、ナポレオンなんかも、こんな手紙をもらいつづけていたのじゃないかなってね。それで内ポケットが気になって、絵でみるように手をさしこんでいたのかもしれない」

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