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角川e文庫
ごたごた気流
[#地から2字上げ]星 新一
目 次
なんでもない
見物の人
すなおな性格
命の恩人
重なった情景
追 跡
条 件
追究する男
まわれ右
品種改良
門のある家
ごたごた気流
インタビュー 星 新一 戦後·私·SF
なんでもない
その青年は、ある会社の社員だった。順調で活気にみちた企業だったが、青年そ
のものは、おとなしく平凡だった。精力的に動きまわるとか、なみはずれた才能を
あらわすことなどないかわり、大失敗をやらかすこともなかった。
しかし、会社において彼と机を並べている同僚は、やや性質がちがっていた。く
だらない冗談が好きで、時には度を越した悪ふざけに至ることがある。
そのたびに青年は腹を立てるが、絶交状態にはならず、仲はそう悪くないのだっ
た。二人の性質のちがいが、一種の調和となっているせいかもしれない。共通点が
多すぎると、ライバル意識ができ、かえって対立することにもなる。しかし、そん
なことはどうでもいい……。
その時も、そうだった。
机にむかって青年が書類を作成していると、となりの同僚が、しきりになにか話
しかけてきた。週刊誌をにぎわせている有名人の離婚事件をたねに、あくどい笑い
話に仕上げたものだった。青年は適当に聞き流していた。
同僚の話し声が、ふと、とぎれた。うるさいのも気になるが、不意に静かになっ
たというのも、これまた気になる。青年はそっちを見た。同僚が電話の受話器を戻
すところだった。応答をした声は聞かなかったようだが、短い用件だったためだろ
う。少し顔が青ざめ、だまってしまったままだ。異様な空気がそこにあった。青年
は声をかけた。
「どうかしたのか」
「いや、なんでもない」
「知りあいに、なにかが起ったのか」
「ちがう」
「女性関係のことか」
「そんなことじゃない」
いままではしゃいでいたのがうそのように、同僚は沈んだ表情になっていた。答
える気力もないといった感じだった。あまり突っこんで聞かないほうがいいように
思えた。青年はなぐさめの意味で言った。
「急用ができたのなら、帰ったらどうだい。仕事なら、かわってやるぜ」
「いや、急用なんかじゃないんだ」
さっぱりわからなかった。同僚は退社までの時間、机にむかって考えこんだまま
だった。青年は気になってならなかった。
それは、つぎの日にも持ち越された。その同僚はめっきり口数が少なくなり、青
年のほうから話しかけることになった。こうなると、かえって気の毒になる。
「なんだか元気がないようだな。しっかりしろよ」
「ああ」
「帰りに、どこかで一杯やろう」
「ありがとう」
まったく、たよりなかった。バーに寄っても同様だった。グラスを重ねても、い
っこうに陽気にならない。ついに青年は言った。
「なにか心配ごとがあるのなら、打ちあけてくれ。ぼくにできることなら、なんと
か力になるよ」
「いや、なんでもないんだ」
だが、なにかあることは確実だ。ほっとけない気分。青年は同情した。しかも、
事情がよくわからないとくる。話したがらないのは、きみひとりの手におえないこ
となのだ、という理由からかもしれなかった。
周囲の者たちが、彼の気をひきたたせるようにしなければならない。青年はそう
思った。まず、部長の耳に入れておくべきだろう。また、悩みをかかえこんでいる
人間に、微妙な仕事をまかせてはことだ。それは一時的に、こっちへまわして下さ
い。そんなことを申し出るつもりだった。
しかし、なかなかチャンスがなかった。部長が席にいて、その同僚が席をはずし
た時でないと、話がしにくくなる。それを求めて、青年は少しいらいらした。
やっと同僚が外出した。しかし、部長のほうは、忙しがってさかんに電話をかけ
ている。このままではしようがない。青年は部長の机のそばへ行って待つことにし
た。その電話が終る。部長は、立っている青年のほうをむいて言った。
「なんだ……」
だが、その時。部長の机の上の電話が鳴った。それを取って耳に当て、なにも言
わず、部長はもとへ戻した。それは、ほんのわずかな時間だった。しかし、変化が
おこっていた。部長の顔は青ざめ、深刻そうな表情だった。そばに人の立っている
のが、目に入らないようすだった。青年は軽くせきをしてみたが、反応はなかった
。思い切って言う。
「いまの電話は、なにか重大なことだったのでしょうか」
「いや、なんでもない」
「仕事に関することでしたら、打ちあけて下さい。どんな努力でもします。それが
社員としてのつとめです」
「そんなことではないんだ。気にしないでくれ」
しゃべるのさえつらそうだった。さっきまでの勢いが、どこかへ消えてしまった
かのようだ。こうなると、れいの同僚の件を切り出すどころではなかった。
青年は席へ戻る。どういうことなのだ、これは。部長はなにを聞いたのだろう。
気にしないでくれと言われたが、そうもいかない。あれは、ただごとではない。ま
るで、そう、先日の同僚の場合とそっくりだ。青年の感情は、同情からもうひとつ
進んだものへと変化した。それは好奇心。
いろいろと考えたあげく、青年はひとつの仮定にたどりついた。いずれも|恐喝
《きょうかつ》のたぐいではなかろうかと。二人とも、なにか個人的な弱みをにぎ
られ、おどされたのかもしれない。他人に話したがらないのは、そのためかもしれ
ない。
となると、難問だ。警察へ行って相談すべきだろうが、弱みのたねによっては、
へたをすると当人のためにならない場合だってある。どんな弱みで、どうゆすられ
ているのか、まったく見当がつかなかった。
青年は、学校時代の同級生で、いま弁護士になっている者のあることを思い出し
た。そういえば、優秀なうえに迫力のあるやつだった。彼に相談し、恐喝対処法の
要領とでもいったことを聞き、それを、それとなく部長や同僚に話してみるとする
か。
会社の帰りがけに、青年はその弁護士事務所へ寄ってみた。あるビルのなかの一
室で、かなり景気がよさそうだった。助手らしいのを二人ほどおいていた。お客も
多かった。しかし、べつに急ぐことでもないので、青年は待つことにした。
かなり待たされた。青年はやっと面会することができた。友人の弁護士は、大げ
さな身ぶりで言った。
「いやあ、待たせてすまない。しばらくだな。なにしろ忙しくてね。もっと大きな
部屋に移らなければならなくなりそうだ。おかげさまでと言いたいところだが、こ
ういう商売、それを喜んでいいのかどうかだね。しかし、そんなこと考えはじめた
ら、どんな仕事も成立しなくなってしまう。で、なにか事件かい。きみのことだ。
大サービスでやってあげるぜ」
貫録のある笑い方が、言葉の各所にちりばめられていた。青年は口ごもりながら
、話しはじめた。
「ぼくについてのことじゃないんだ。よく説明しにくいんだが、じつは……」
その時、机の上の電話が鳴った。それから先は、なにもかも同僚や上役の場合と
同じだった。受話器を戻した時には、人が変ったようになっていた。青年は聞かず
にはいられなかった。
「なにか急用でも」
「いや、なんでもない」
と答えたきり、じっと考えこんでいる。これ以上は話しかけないでくれ、そんな
印象を受けた。
「じゃあ、また来るよ……」
青年は引きあげることにした。相手は別れのあいさつもしなかった。青年は帰る
途中で考えるのだった。弁護士なら、社会の裏を見つくしていて、たいていのこと
には驚かなくなっているはずだ。
それなのに、あのただならぬようす。いったい、なにを聞かされたのだろう。い
まの世の中に、そんな重大なことがあるのだろうか。青年はふしぎでならなかった
。
気のせいか、青年の周囲に、そんな目に会ったと思える人がふえているようだっ
た。これまでと、どことなく印象がちがうのだ。そして、原因はいっこうにわから
ない。弁護士でさえもああなるのだから、恐喝なんかではなさそうだ。
残された仮定は、健康に関することぐらいだった。このところマスコミが、健康
診断を受けるよう、さかんにすすめている。それを受け、悪い結果を知らされたの
ではないだろうか。それならそれで、なぐさめる方法だってあるのではないか。
青年は演技をした。まちがい電話のかかってきた時を利用し、受話器を戻すと同
時に急に沈んだ表情を作り、となりの同僚に言ってみた。
「いま、このあいだ受けた健康診断の結果の連絡があったんだが、どうも、それが
……」
「ふうん」
まるで手ごたえがなかった。じつは、ぼくも、と話が発展するかと期待していた
のだが、そうはならなかった。健康とは関係のないことのようだ。
そういえば、同僚も部長も、あれ以来べつに休みもせず、薬を飲んでいるようす
もない。ますます気になってしまう。
ついに青年は、勇気を出して新聞社へ寄ってみた。こういうことははじめてだ。
かなりの勇気と決心がいる。
「ちょっと、ある事件について……」
と受付に言うと、小さな応接室へ案内された。しばらく待っていると、社会部の
記者というのが入ってきて、名刺を出した。活動的というのか、せかせかした動作
と口調だった。しかし、なまじっかな話には驚かないぞという、冷静さのようなも
のも持っていた。
「なにか事件をお知らせにみえたとか……」
「はい。ふしぎでならないことなのです」
「よくおいで下さいました。事件があってこそ、新聞が成り立っているのです。読
者も喜ぶ。このところ大事件がとぎれ、社会面がさびしくなっている。ふしぎなこ
ととなると、ますますぐあいがいい。で、どんなことです」
「このところ、不幸の電話とでもいうべきものが、はやっているようなのです」
「なんですか、それは」
記者は身を乗り出し、関心を示した。青年は言う。
「幸運の手紙とか、不幸の手紙とかいうのが、一時はやったでしょう。電話を使っ
たそれというわけです」
「なるほどねえ。そういえば、そんな手紙が流行しましたな。あの時、その対処法
を紹介したのは、うちの新聞でしたよ。鏡の前で、レフレクトと三べんとなえて、
そのハガキを破くのです。すると、のろいが発信人のほうへ戻ってゆくと。イギリ
スの有名な心霊術者が開発した方法でしたよ。なんという人だったかなあ……」
記者は青年の気分をほぐそうとしてか、そんな話をし、タバコに火をつけ、さら
につづけた。
「……それ以来、流行がおさまった。あの対処法、どこまで本当かわかりませんが
ね。流行とは、そんなものですよ。その電話の一件も、うちの紙面でとりあげ、話
題にし、静めることにしましょう。で、不幸の電話って、どんなことを話すのです
」
「それがわからないのです」
説明に困る青年に、記者は言う。
「しっかりして下さいよ。その点がわからないと、記事にしようがない。たしかに
、電話とは新手だ。あっという方法だ。しかし、これはハガキとちがって、いやな
らすぐ切ることができる。その気になれば、逆探知で調べることも可能。録音にと
れば、声紋を調べることもできる。だから、それだけ発覚しやすいことにもなる。
そこがどうなっているかですよ」
「すぐに電話が切れてしまうらしいのです。ほんの短い時間。そのあいだに話がす
み、聞かされたほうはショックを受け、人が変ったようになってしまうのです」
青年は自分でも、もどかしさを感じた。記者のほうはそれ以上だった。
「よく思い出して下さいよ。その電話を聞いた連中、そのあとすぐに、たとえば三
十分以内にとか、どこかへ何回も電話をしましたか。短い言葉をしゃべって……」
「そうですね。そういえば……」
「ありましたか」
「そんなことは、しなかったようです」
「どうも困ったことですな。せっかく興味ある事件なのに。社会部の記者は、事件
を大衆に伝える責任がある。提供する義務があるんですよ。なんとしてでも、うま
く作り上げなくてはならない。その衝撃的な短い言葉。それを紙面に大きくのせた
い。ヒントになるようなこと、なにかありませんか……」
その時、室のすみにあった電話が鳴った。記者は受話器を取り、耳に当て、すぐ
に戻した。記者の顔は青ざめ、いままでの調子のよさがなくなり、沈黙だけが残っ
ていた。
青年は聞かずにいられなかった。
「なにか事件でも……」
「いや、なんでもない」
ぶあいそな返事だった。しかし、青年は立とうとしなかった。気になるのは当然
だし、これこそいい機会ではないか。おそるおそる口にしてみる。
「もしかしたら、いまの電話が、わたしのお話したものかも……」
しかし、それもむだだった。
「いや、ちがう。べつなことだ」
記者はそれ以上、口をきかなかった。青年はもっとねばってみようと思い、そこ
にいた。すると、記者はやがて力なく立ちあがり、応接室を出ていってしまい、戻
らなかった。青年は帰らざるをえなかった。
そのあと一週間ほど、青年はその社の新聞を、たんねんに読んだ。とくに社会面
を。このあいだの記者が、あれを記事にするのではないかと期待したからだ。
事件を報道する義務があるとか言っていた。それなら、ショックから立ちなおっ
て、記事にしてくれてもいいはずだ。しかし、いくら待っても、それらしきものは
紙面にのらなかった。
とてつもないことのようだ、と青年は考える。なんなのだろう。あれだけの短い
時間で、あれだけのショックを受けるとは。そんなにまで強烈なものが、いまの世
にあるとは……。
電話を聞いた連中に対しての、青年の感情は大きく変っていった。最初のころは
同情だった。つぎは好奇心。それが、いまやあこがれともいえるものとなった。
そんなにすごいものなら、一度は味わってみたいものだ。となりの同僚だって、
その後、不幸な目にあったようすもない。命には別状のないことのようだ。
あの電話、どこからかかってくるのだろう。なぜ自分のところにかかってこない
のだろう。その資格がないのだろうか。なぜ、のけ者にされているのだろう。
すごいショックのようだな。だれもが青ざめる。しびれるような感じになるんじ
ゃないだろうか。それから、沈黙してしまう。口をききたがらないのは、その快感
をかみしめるためではないだろうか。しばらくのあいだ、ひとりで楽しみたくなる
もののようだ。
そして、他人には絶対に話さない。この貴重な体験を、簡単に話したりできるも
のか。そんな心境になるらしい。体験者たちは、しばらく仕事が手につかなくなる
。あの時の体験を思い出して、仕事どころではないというわけなのだろうな。他人
に話すと、思い出が薄れるのかもしれない。
あれは不幸の電話なんかじゃなく、幸運の電話にちがいない。青年はそう思うよ
うになった。
そうとしか思えないではないか。どうして自分のところへかかってこないのだろ
う。平凡な男だからだろうか。
それならば、と青年は決心した。他人にかかってきたのを、横取りしてやる。
電話が鳴ると、だれよりも先に手をのばす。いままでなら、少しはなれた机の上
だとほっておいたのに、いまではそれに飛びつくようになった。しかし、いつも仕
事に関する普通の電話だった。
どうやったら、あれにありつけるのだろう。あきらめないことだろうな。そう自
問自答しながら、青年はそれをつづけた。
やがて、くせになった。レストランで食事をし、会計をしようとし、そこで鳴る
電話にも手をのばしてしまうのだった。おせっかいなのか親切なのか、わからない
人。そんな変な目で見られても平気だった。もし、それがあの電話だったら、後悔
しきれないことになるではないか。
電話の鳴るのがすべて気になった。遠くのほうで鳴っているのも気になった。そ
れが鳴りつづけていると、ああ、もったいないと思う。かけ出していって、手にし
たい衝動にかられる。
夢のなかでも電話の鳴るのを聞くようになった。しかし、それを手にしたとたん
、目がさめ、夢は消えてしまうのだ。
ある夜、帰り道で、青年はそばで電話の鳴るのを聞いた。
小さな商店の店先の赤電話で、たまたま店の人がいないためか、鳴りつづけてい
る。その店の人がいたとしても、同じことだったろう。もはや、青年の反応は習慣
となってしまっているのだ。
どうせだめだろうとは思いながらも、期待に胸をときめかせて、そっと耳に当て
て待つ。
ついに青年は声にめぐりあった。理由も説明もなく、それはあきらかに自分への
語りかけだ。そうわかるものが、その声にふくまれていた。
ほんとに短い内容だった。ただ「あなたは狂っている」とだけ告げて、そして切
れた。
青年は青ざめ、口をきく気にもなれなかった。そのうち、店の人が出てきて言っ
た。
「どうかなさいましたか。おみうけしたところ、ご気分でも悪いのでは……」
その質問に、青年はうるさげに答えた。
「いや、なんでもない」
見物の人
午前十時ごろ、その男はゆっくりと目をさました。きょうは出勤しなくてもいい
日なのだ。つとめ先の会社に自由休日制ができてから、ずいぶんになる。月に一日
、あらかじめ届け出れば、きまった休日のほかに、好きな日に休んでいいのだ。彼
にとって、きょうがそれだった。
もっとも、それだけ会社での仕事は忙しくなっている。彼は二日がかりの出張旅
行に出かけ、商談をまとめ、きのうの夜に帰ってきたというわけだった。
男はトーストとコーヒーの簡単な朝食をすませ、タバコを一服し、|長《なが》
|椅《い》|子《す》にねそべってテレビをつけた。これが休みの日の彼の習慣と
いってよかった。
画面があらわれる。主婦むけらしい討論番組をやっていた。司会者がしゃべって
いる。
〈では、これからの流行はどう変ってゆくか、どうあるべきかについて……〉
スタジオには評論家らしき男女が、もっともらしい顔つきで並んでいる。
「あい変らずだな。どうせ、ああでもない、こうでもない、みなさん、おたがいに
よく考えてみましょうで時間となる筋立てだ。流行なんか、予測できるわけがない
。くだらん企画だ。どうってこともない……」
男はつぶやき、チャンネルを回した。画面では映画をやっていた。若い連中が犯
行計画を相談しているシーンだった。
「ふん、犯罪物か。あの計画も途中まではうまく進行するが、やがて警察側がやつ
らの手ぬかりをうまく突き、二、三回はらはらさせる場面があるが、犯人たちのう
つ弾丸はいっこうに当らず、最後にはみな逮捕。めでたしめでたしというしかけに
きまっている……」
またチャンネルを回す。西部劇だった。馬にまたがったガンマンが、砂漠のなか
の街へやってくるところ。
「あの顔つきと身だしなみからみて、こいつは善玉だな。そのうち、うまいぐあい
に美女と仲よくなり、それから街のボス一味との対決になる……」
チャンネルを回す。
連続メロドラマらしかった。男は少し眺める。妻子ある男と、若い女、その女を
ほのかに恋する少年。その三者の組合せで進行していた。
「なるほど、ちょっと新手だな。これでしばらく気をもませようという手法だな。
時間かせぎだ。本当の展開は、彼女にふさわしい青年が出てきてからだ。しかし、
出てきたらきたで、型にはまった話になってしまうのだろうな。その青年に恋人が
くっついているといったぐあいで。男と女の組合せ。そうそう変ったものなど、あ
るわけがない……」
またダイヤルを回す。派手な身ぶりで、若い歌手が声をはりあげていた。しかし
、男はそんなのに熱中するほど、年齢がおさなくなかった。
興味のある番組は、ひとつもやっていなかった。しかし、男はべつにがっかりし
なかった。こういうものなのだ。与えられる番組というものは、こんな程度。やむ
をえないものなのだ。
男はテレビを消さなかった。指をのばして、スイッチを切換える。いままでは〈
一般放送〉だったが、それを〈有線放送〉へと。
画面には、へいがあらわれた。コンクリートの高いへい。刑務所のへいなのだ。
脱走にそなえて、監視塔にテレビカメラがすえつけられている。それのとらえてい
る光景なのだ。単調そのもの、変化がまるでない。へいの上にスズメがとまり、し
ばらくして飛び去っていった。いくら待っても、それ以上のことは起らない。
男は〈有線放送〉のほうのダイヤルを回した。
デパートの内部の、ある階がうつった。オモチャ売場。色とりどり、大小さまざ
まなオモチャが動き、幼児を連れた婦人たちが大ぜいいた。子供の声がきこえる。
どのデパートにも、店内監視用テレビがそなえつけられている。万引などの犯罪
防止。火災など事故の早期発見。人のこみぐあいや流れの統計をとり、効率のいい
陳列法の資料とする。それが本来の目的だった。
最初は店内管理用だけのものだったが、あるデパートがそれを〈有線放送〉の回
線にのせ、一般に公開した。宣伝に役立つかもしれないと考えてだ。つまり、だれ
でもそれを見ることができるようになった。一時的、実験的なつもりだったが、意
外に人気が出て、それにならうデパートが続出した。
〈オモチャ売場でございます。安全で教育的、お子さまの興味をひく品々がとりそ
ろえてございます。ダイヤルを一つお回しになれば、この上の階がごらんになれま
す。そこは家具売場、新しいデザインのものが入荷しております……〉
と、時どきテープによる声が入る。ダイヤルを回してゆけば、このデパートの各
階を見ることができるのだ。もっとも、絵画展のような催し物は見られない。それ
を見せてしまっては、客足がへってしまう。
というわけで、〈有線放送〉によって、各地のデパートの各階を見ることができ
るのだ。
なにもデパートだけに限らない。いまや、企業、官庁、そのほかあらゆる方面で
のテレビカメラが、この〈有線放送〉に連絡されている。情報時代のひとつの成果
。
いながらにして、たいていのところを見ることができるのだ。たとえば、さっき
の刑務所のへいのようなところでさえ……。
テレビセットには〈有線放送〉用として、チャンネル切換え用のダイヤルが六つ
ついており、それぞれ、〇から九までの数がついている。その数を適当に合わせれ
ばいいのだ。〈一般放送〉とちがって、その点いくらか手間がかかるが。
例をあげれば、〇〇〇〇〇一に合わせたとする。大気圏外の静止衛星のカメラが
うつしているわが国を見ることができる。気象庁の担当者にとっては重要な資料。
しかし、その映像を官庁だけが独占しているというのは、どうであろうか。大衆
の気象への関心を高めるため、広く開放すべきではないか。そんな要求によって〈
有線放送〉へ流されるようになったのだ。
〈高気圧が本土の上空を横切りつつあります……〉
ある時間をおいて、テープの声が入る。しかし、最初のうちはともかく、いまは
もう退屈きわまる眺めとなった。気象マニアでない一般の人は、三十秒と見ている
気になれない。変化がなく、つまらないのだ。
こんなふうに、六つのダイヤルの数字を組合わせれば、各地各所にあるテレビカ
メラによって、なんらかの映像を見ることができる。つまり、何十万種類だ。近く
ダイヤルがひとつ追加されるという。そうなると百万単位の数となる。
電話なみといえないこともない。もっとも電話とちがい、やはりテレビの宿命で
〈有線放送〉も一方通行、こっちの意志は伝えられない。ただ見物するだけ、告げ
られるだけ……。
しかし、その男にとっては、これがけっこう面白いのだった。〈一般放送〉にく
らべ、選択のはばがある。
「ねそべって画面を見ているのもいいが、これでは、からだがなまってしまうかも
しれないな。たまには車で、郊外へでも出かけたほうがいいのかも……」
つぶやきながら男は、〈有線放送〉のガイドブックを開いて調べ、六つのダイヤ
ルをいじって、高速道路の出入口の光景を画面に出した。
このテレビカメラ、もともとは高速道路の関係者と警察のためのものだった。料
金不払いで逃げようとする車、積荷の状態の不完全なトラック、盗難車、それらを
発見するためにそなえつけられたカメラだったが、〈有線放送〉に開放され、一般
の者も見ることができるようになった。
「道路はそうこんでいないようだな……」
そう言いながら、男は六つ並んだ右はじのダイヤルを一つ進めた。高速道路のあ
る個所がうつった。これももとはスピード違反、事故、路面状況を監視するための
ものだった。現実にもその目的で使用中なのだ。
「渋滞もなく、車は順調に進んでいるな。出かけてもいいが、目的地のモミジの色
づきぐあいはどうなのだろうか」
そこにダイヤルをまわす。山と谷川のある景色が画面にうつった。これは、その
地方の観光協会が宣伝用にそなえつけたもの。
〈お遊びにお出かけ下さいませ。本日は、旅館もまだ部屋があいております。温泉
におはいりになり、休養なさるのも、たまにはよろしいのでは……〉
テープの声がくりかえして告げている。宣伝用のため、演出効果を考えてか、湯
けむりが画面を左から右へと流れつづけている。
「温泉か。悪くないな。さぞ、のんびりするだろう。しかし、湯けむりのため、モ
ミジの色のぐあいがよくわからない……」
男はダイヤルを一つ進めた。けわしい谷川が画面に出る。モミジの色が美しかっ
た。かつて、この場所から身を投げる自殺者のつづいたことがあった。その発見防
止用にと、役場がとりつけたテレビカメラで、ついでにと〈有線放送〉の回路につ
ながれたものだ。
男はしばらく、その画面を眺めていた。川の流れ、飛びかう鳥、がけの草花、そ
れにモミジといった光景を味わっていたのだ。また、数名の観光客の歩いている姿
も見ることができた。
「飛びおり自殺をしてくれるやつはいないかな。それを現実に見ることができたら
、強烈な印象だろうな……」
それは本心でもあった。そのうち、若い女がひとり画面にあらわれた。男は期待
する。あれが失恋したばかりの女性であって、その心の痛みを忘れようとひとり温
泉へ来たのだが、孤独感はかえって高まるばかり。そして、思いつめたあげく……
。
だが、そううまくはいかなかった。女は足をとめたが、小型カメラをかまえ、シ
ャッターを押し、楽しげに歩きつづけていってしまった。まあ、それが当然なのだ
。うまいぐあいに自殺を見物できる確率など、ゼロに近い。
男はダイヤルを動かす。川の流れだけという、なんということもない光景が出た
。大雨による増水を知るための、テレビカメラからの映像のようだった。
「山の上の眺めはどうだろう」
男はガイドブックをめくって、その画面を出した。霧が出ているかどうかを見る
ため、旅館組合がとりつけたカメラだった。お客から「山の上へ行って、遠くが見
られるだろうか」と何度も聞かれるので、正確にそれに回答するためのもの。いま
はこれも〈有線放送〉に入れられ、こうしてここで見ることができる。
きょうは晴れていて、遠くまで見渡せた。
「いい景色だなあ……」
男はうなずく。霧のぐあいを見るためのものだから、カメラは一方向を向いたま
ま。だから、この存在によって観光客のへることはなかった。この地の自然をすべ
て目にするには、そこへ出かけ、あちらこちらに首をまわさなければならないのだ
。
旅行の好きな人は、時間と金を使って出かけて行くものだし、さほどでもない人
は容易に腰を上げない。男は後者のほうだった。
さっきから、高速道路、谷川、山の上など、少しずつ眺めているうちに、なんだ
か行ったような気分になってしまった。
「わざわざ出かけるのも、めんどくさいな。きょうはやめておくか」
そろそろお昼だった。男は六つのダイヤルをいじり、別なところへ合わせる。
あるレストランの光景があらわれた。本日のメニューとして、各種の料理が並べ
られ、その値段がうつっている。外食する人にとって、どこでどんなものを食べら
れるかの情報は、ありがたい。その要求と、店の側の宣伝との一致で実現したもの
だ。
男はダイヤルを、さらに一つ進める。そのレストランの調理場がうつった。当店
は清潔であり、入念に料理を作っているのだということを示す、お客むけのテレビ
回線。それも〈有線放送〉に流されているのだ。
それを眺めながら、男はねそべったまま簡単な食事をし、それで満足した。彼に
はそんな性格があるのだった。画面を見つめていただけで、旅行をしてしまった気
分になる。それと同じく、料理と調理場を見ているだけで、いい味を楽しんだよう
な気分になるのだった。
食後のタバコを吸いながら、男はまたダイヤルに手をのばす。これは玉石のいり
まじった鉱脈なのだ。衝動というべきか好奇心というべきか、掘ってみたいという
気分は押さえきれない。なにか面白い光景はないだろうか……。
画面にスーパーマーケットの店内があらわれた。かなり混雑している。なにげな
く見ていると、お客のなかに挙動のおかしいのがいた。
「店の監視係め。いねむりをしているのかもしれない。ひとつ知らせてやるか」
男は受話器を取り、画面の右下に出ている電話番号にかけてみた。
「もしもし……」
「はい。スーパーマーケットでございます。毎度ご利用いただき……」
「そんなことより、注意が第一ですよ。いま万引をしている人がいるぞ。みどりの
服を着た四十歳ぐらいの女だ」
「ご通報、ありがとうございます。あなたさまのようなかたがおいでなので、この
店もおかげさまでなんとか……」
「あいさつより、早くつかまえるほうが……」
「しかし、あの女はちがうのでございます。テレビカメラを意識し、わざと不審げ
な動作をし、店員にとがめさせ、そこでいなおり、金をゆするのです。その常習犯
……」
店の人も店内監視テレビを見ているようだった。男は少し驚く。
「そんなのがいるのですか」
「ええ。各マーケットで連絡をとりあい、その手にひっかからないよう、警戒して
いる人物のひとりです。もっとも、こういうのは例外でございますが、もし本当に
万引の現場を発見なさったら、ご連絡ください。当店の監視係の発見よりあとでも
、謝礼をさしあげます。当店での万引は不可能との評判がひろまるというわけでご