男は金を出した。占い師は何本かの線香に火をつけ、男のまわりに立てた。マス
クをし、息をひそめながら、その煙の流れをもっともらしく、じっと観察する。
「ふうん。なるほど……」
「なにかわかったか」
「しかし、どうも、それが……」
「かまわん。なんでも言ってくれ。運命には従わざるをえないのだ」
「お気に召さないかもしれませんが、あなたの悪業も、まもなく終りです。警察に
調べられ、なにもかも発覚するでしょう」
「そうか。そういう運命なら、覚悟しなければならぬようだな」
男の帰ったあと、占い師は警察へ電話をする。秘密の賭博場のためにあけ渡せと
、子分におどされていた。そのしかえしのつもりだった。警察は男を呼び出し、取
り調べる。
「さあ、なにもかもしゃべってしまえ」
「はい。すべて申しあげます」
「念のために言っておくが、自己に不利なことに関しては、|黙《もく》|秘《ひ
》|権《けん》というものがあるのだぞ」
「いえ、運命にさからってはいけないのです……」
男はあらいざらい説明した。これには警察もびっくりした。こんなに大がかりな
犯罪組織があるとは、まったく予想していなかったのだ。|妄《もう》|想《そう
》患者かと思いながらも、ためしに名前の出た子分たちを調べてゆくと、事実とわ
かった。
裁判となる。男は弁解しなかった。これが占いによる運命なのだから。懲役八年
の刑となった。本来ならもっと重刑のはずなのだが、取り調べに当って、きわめて
警察に協力的だったため、この程度ですんだ。
刑務所へ送りこまれる。そこの囚人のひとりに、もと占い師だったというのがい
た。男は聞いてみる。
「ここに何年ぐらいいることになるのか」
「足の裏を見せてくれ。そこを見て占うのだ。人間は歩くことで生活している。す
なわち大地との接触部分。地磁気の変化が、そこに形となって残っているのだ」
「なるほど、そういうものかもしれぬな」
男は足の裏を見せる。差入れの品を、その礼として渡し、解答をたのむ。相手は
のぞいて言う。
「ずいぶん、いろんな仕事をやってきたな。最後はよからぬことをしでかした」
「すごい、ずばりだ。で、これからは」
「この足の裏のぐあいと、ここの地磁気とは、うまく一致している。だから、ここ
でまじめにしていれば、五年くらいで出られるだろう……」
「そうか。運命がそうあらわれているのなら、きっとそうなる」
男は信じて疑わなかった。模範的な囚人として、年月をすごした。たちまち五年
がたつ。はたせるかな、仮釈放の許可が出た。刑務所の所長室へ呼ばれる。
「おまえは出所していいことになった。ふたたび悪事をおかすなよ。出ても、すぐ
舞い戻ってくるのが多くて困る。もっとも、そのおかげでわたしが給料をもらって
いるわけだがな」
「はあ」
「出所してから、なにをするつもりだ」
「まったく、あてがありません。なにをしたらいいのか考えつかないのです」
「妙なやつだな。たいていの者は、あれをやりたいこれをやりたいと、一応は考え
ているはずだが。そうだ、わたしは趣味でトランプ占いをやっている。それで調べ
てみるかな。よく当るぞ。大きな声では言えぬがね、出所の者について、それぞれ
占って統計をとっている。戻るという占いの出たやつは、ほとんどまたここへ舞い
戻ってくる」
「すばらしい占いもあるものですね」
「おまえのために、特別にここでやってみせる。さあ、順番に五枚のカードを抜い
てくれ」
「はい」
男はそれをやる。所長は机の上にそれを並べ、ほかのカードをまわりにつなげ、
あれこれ指で押さえて考えこむ。
「ううむ……」
「どうなるんでしょう、わたしは……」
「こういう例は珍しい。社会事業につくすと出ている。ここを出所して、そんな人
物になるとは信じられぬ……」
「そう占いに出ているのなら、それがわたしの運命なのです。必ず、そうなります
。では、さようなら……」
男は出所した。老人病専門の病院の下働きとなって、献身的に働いた。これが運
命と信じこんでいるので、決していやがらない。そのうえ才能もあるし、過去に多
くの体験をつんでいる。それらがものをいいはじめる。
組織を作るこつも知っているし、寄付金を集めるこつも知っている。友人だって
、けっこういるのだ。男が本心からまじめになったとわかると、協力者がたくさん
出てきた。
男は、恵まれない人たちのための旅行会社を作り、子供のために遊び場を作り、
さまざまな施設を作っていった。悪に強きは善にもといったところだが、事実は、
当人がこれこそ運命と信じこんでいるだけのことなのだ。
大変な活躍ぶりだった。寝食を忘れてといった形。そのせいか、年齢のせいか、
男はからだに疲れを感じはじめた。
ふと目をやったところに、占い師の看板がある。そこへ入ってゆく。
「ひとつ、たのみたい」
「なんでもお答えできますよ。あなた、ご自分の健康が心配なのでしょう」
「その通りだ。せっかくここまで仕上げたものを、いつまでつづけられるか……」
「占いましょう。わたしは数字の占いです。といって、よくあるいいかげんなもの
ではない。コンピューターを導入したものです。ですから、くわしいデータが必要
だ。費用と時間がかかります。あなたの過去をくわしくお聞きしたい。それにもと
づいて、あなたの運命指数を知る。いや、よくあるような単純な数ではない。うち
のは、小数点以下、三十けたまで算出します。さあ、ゆっくりうかがいましょう。
データが豊富だと、それだけ未来像が正確になる……」
男はすべてを話した。これまでやってきたことについて。占い師は、それらをコ
ンピューターに入れながら言う。
「あなたは占いが好きですなあ」
「そんなことまでわかりますか。さすが、最新式だけあって……」
「それぐらい、すぐわかりますよ。ここにまさる占いはない。占い師連盟の会長の
役を押しつけられているぐらいです。判断に迷った占い師が、よくここへ聞きにく
る」
「そんなにすぐれた占いなんですか。で、あとどれくらい生きられそうですか。正
直におっしゃって下さい。決してうらんだりはしませんから」
「まあ、お待ちなさい。そのうち解答が出てきます」
やがて、金属的な音がし、穴のたくさんあいたテープが流れ出てきた。占い師は
それに目をやり、首をかしげる。
「ふしぎなことも……」
「早く教えて下さい。正確な答がそこに出ているんでしょう」
「そのはずなのだが、あるいは故障したのではなかろうか……」
「故障しているようには見えませんでしたよ。まず、その結果を教えて下さい。あ
と何時間の命ですか。それとも、わたしはすでに死んでいる……」
「これによるとだな、あなたは当分のあいだ死なないと出ている。十年や二十年ど
ころか、もっとずっと長く……」
占い師連盟の会長のコンピューターは、正確にその本心を告げたのだった。こう
いう人に死なれては、占い師たちの損失となる。これこそ、最もいいお客の見本の
ようなもの。見本はずっと存在しているべきである。
そこを男は出る。まさに占いへの信仰のかたまりだった。これが運命なのだ。指
示は正しい。確信ある足どり。
一歩あるくと、ひとつ若くなる。二歩あるくと、二つ若くなる。みるみる若がえ
っていった。これまでずっと、占いの通りだった。だから、今回だって、これが当
然のことなのだ……。
男はふと足をとめる。さすがに、なんとなくおかしいと思う。なぜ自分は、こう
若くて、ここにいるのだろう。考えてみる。しかし、考えたってわかることではな
い。これからどうしたらいいのかも……。
道ばたに、占い師が店を出していた。男はそこへ行って聞く。
「あの、ぼくはこれからどうしたら……」
命の恩人
その男はひとり、山の小道を歩いていた。といって、こういうところを歩きたく
て、わざわざ出かけてきたわけではなかった。
彼は三十歳ぐらいの会社員。社の仕事で、地方の小都市へ出張でやってきた。こ
みいった商談が意外に早くまとまり、時間があまってしまった。となると、なにも
町なかにとまることもない。少し行けば、ちょっと名の知れた温泉地が、山ぞいに
ある。たまには、そんなところへ一泊するのもいいものだ。大都会では味わえない
静養をえられるだろう。
そんなわけで、ここへやってきたのだった。|平《へい》|日《じつ》であるた
め、宿泊客は少なかった。男は旅館に着いたはいいが、べつにすることもなかった
。ぼんやりしていればいいのだが、たえずなにかをやっているという都会生活者の
習性は、なかなか捨てきれない。男は旅館の主人に聞いてみる。
「時間のつぶしようがないな」
「散歩でもなさったらいかがです。谷川ぞいの道の眺めは、悪くございませんよ」
「では、出かけてみるか……」
男は教えられた道を、ぶらぶらと歩いた。けわしいがけの中腹に作られた、細い
道。しかし、さくが完備しており、安全で適当な散歩道だった。
そろそろ夕ぐれ、山の上部はまだ明るいが、谷底のほうはすでにうす暗く、川の
流れの音が、さわやかに激しく響いていた。
その時、あたりの美しい風景にふさわしくない音が、少し先から聞こえてきた。
女の悲鳴。男は耳をすました。たしかに女の悲鳴だ。
「だれか、助けて……」
悲鳴といっても、大声ではなかった。ずっと叫びつづけたためか、かすれたよう
な弱々しい声だった。男はその方角に急ぎ、そして、見た。
道にそって谷川の側に作られている、さくのそと。そこの木の枝に、若い女がつ
かまっている。足は宙に浮いていた。つまり、疲れて手をはなすか、木の枝が折れ
るかしたら、からだはたちまち谷底へ落下し、おそらく命は助からないだろう。
ためらったり考えたりしているひまはない。男はかけより、さくを片手でにぎり
、身を乗り出し、もう一方の手で女の手をつかみ、引っぱりあげた。かなりの力を
必要としたが、こういう場合には、思わぬ力が発揮されるものだ。
助けあげられた女は、しばらく道の上に横たわり、ぐったりしていた。かなりの
時間、木にぶら下り、疲労や恐怖と戦いつづけだったためだろう。しかし、やがて
、自分は助かったのだとの実感がよみがえってきた。それはまず、声となって出た
。
「ありがとう、ありがとうございます。おかげで死ななくてすみました……」
平凡な感謝の言葉だったが、口調には心からの感謝がこもっていた。若いが、ど
ことなく古風で、まじめそうな女だった。美人と呼んでいい顔だちだった。男はな
んとなく照れくさく、こんなことを言った。
「なんで、あんなことをなさっていたのです。人さわがせもいいところですよ」
「すみません。散歩をしているうちに、きれいなお花の咲いているのを見つけたの
。それを取ろうとして、身を乗り出した時、からだの重心がさくを越え、あんなこ
とになってしまいました。思わずなにかをつかんだら、それが木の枝で……」
女は息をはずませながら、とぎれとぎれに話し、男はうなずいた。
「木の枝がちょうどそこにあって、よかったですね。あなたは運のいいかただ」
「いいえ、あの枝だけでは助かりませんでしたわ。自分ではいあがることもできず
、ただつかまっているだけがせい一杯。いくら叫んでも人通りはなく、これであた
しの一生もおしまいかと……」
「さぞ心細かったことでしょう」
「そこへ、あなたがいらっしゃって、引っぱりあげて下さった。もう数分間おそか
ったら、あたしは力つき、落っこちて……」
女は谷底をのぞきこんだ。下は岩ばかりで、やわらかなものなどない場所にちが
いなかった。あらためて生存している喜びをかみしめ、女は言った。
「……あなたは命の恩人です。どうお礼を申しあげたものか、なにをお礼にさしあ
げたらいいのか……」
女の目は、うれし涙のせいか、輝いていた。男は手を振って言った。
「いや、偶然ですよ。ちょうど通りがかっただけのことです。あんな光景を見れば
、だれだって助けますよ。なにも、あらたまってお礼をおっしゃることなど……」
「でも、現実に、あたしはあなたに助けられたんですわ。ぜひ、お名前を……」
「名前なんか……」
「命の恩人のお名前をうかがわずにお別れしては、あたしの気がすみません。どう
ぞ、お教え下さい……」
女として、当然の心境だろう。真実のこもった、すがりつくような目つきであり
、声だった。それをことわっては、かえって気の毒かもしれない。男はポケットか
ら自分の名刺を出して渡し、こう言いそえた。
「これがぼくの名前です。しかし、こんなこと、早くお忘れになって下さい……」
「そうはまいりませんわ。あなたは命の恩人なんですもの……」
男は旅館の自分の室に帰る。そして、複雑な表情でつぶやく。
「やれやれ、まただ……」
ほぼ月に一回の割で、彼をめぐってこのようなことが起るのだった。どういうわ
けか、若い女の危機を助けてしまう。この前はどんなふうにだったろうか。そうだ
……。
男が踏切りを通りがかり、安全確認のため横を見ると、少しはなれた線路ぎわに
、若い女がひとりたたずんでいた。普通でないものが感じられる。
遠くから列車の走る音が響いてくると、彼女の表情は、それまで絶望にみちてい
たが、決意のようなものに一変した。これは、なにかある。近づいて声をかけよう
とすると、女が先に言った。
「とめないで……」
「やはり、自殺するつもりで……」
男は反射的に女の手をつかみ、力をこめて引きもどした。列車が音をたてて勢い
よく走り去っていった。それを見送りながら、あらためて質問する。
「……いったい、なぜ自殺などしようと考えたのです。若くきれいで、これからが
人生だというのに」
「その人生が、あたしにはないのよ。どっちにしろ、長くない命なの……」
女は、自分が現代医学をもってしてもなおらない病気にかかっているのだと言っ
た。これには男も、なぐさめようがなかった。こんなふうに言う以外には。
「そう診断されたのですか」
「お医者が患者に、そんなことを直接に告げるわけ、ないでしょ。でも、あたし帰
りがけにドアのそとで、医者と看護婦の話すのを聞いてしまったの。もう、手当て
のしようがないんですって……」
「べつな医者にもみてもらったら……」
「むだよ」
「しかし、念のためということもあります。だめだったとしても、もともとではあ
りませんか。死ぬのはそれからでもいい。ぼくの知っている病院があります。そこ
で精密検査を受けてみたらどうでしょう。そうすべきですよ」
男はむりやり女を引っぱっていった。診察がなされ、心配するような病症はなに
もないと判明した。しかし、すぐにはなっとくできず、女は疑問を口にした。
「でも、前にあたしを診察した先生は……」
「ふしぎです。たしかめてみましょう」
医者は、女のいう病院へ電話をし、問い合わせてくれた。医者どうしなら、患者
についての情報を交換できる。その結果、医者と看護婦の会話の「手当てのしよう
がない」というのは、べつな患者に関することだったとわかった。
「まあ、そうだったの……」
女の顔には、たちまちのうちにうれしさがひろがった。いっしょに病院を出て、
男は女に言う。
「ひと安心というところですね」
「あたし、変に思いつめてしまっていた自分のそそっかしさが、はずかしくなりま
したわ。はずかしいなんてものじゃない。あの時、列車に飛びこんでいたらと思う
と、ぞっとしますわ。死神にみこまれていたのかもしれませんわね」
「しかし、もう大丈夫ですよ」
「これというのも、あなたのおかげですわ。無意味に命を捨てないですんだんです
もの。あなたのためなら、なんでもいたします。命の恩人、このことは一生、忘れ
ませんわ」
「それは大げさですよ。そこにいあわせただけのことですよ」
「あなたはそうお思いかもしれませんけど、あたしにとっては重大なことですわ。
ぜひ、お名前を……」
このまま、だまって別れることのできない形勢。男は名刺を渡さないわけにはい
かないのだった。
その前はなんだったかな。男は回想する。
そうだ、倉庫での出来事だった。会社の仕事で、倉庫会社へ出かけた時のことだ
った。ひとつの倉庫の前で、男は足をとめた。なぜだか気になる。男は、そばの倉
庫会社の社員に言った。
「ちょっと、この戸をあけて下さい」
「だけど、ここには、あなたの社に関係した品など入っていませんよ。あけるには
、それだけの手続きが……」
「いや、品物を持ち出したりはしない。さわりもしない。ちょっとのぞくだけでい
いんだ。あなたはカギを持っている。かたいことを言わずに、それであけて下さい
よ」
「困りましたね。しかし、なかを見るだけなら……」
戸はあけられた。なかから、疲れはてた若い女がふらふらと出てきた。まぶしげ
な表情で少し歩き、助かったと知ってほっとしたためか、くずれるように倒れて気
を失った。倉庫会社の社員は男に言う。
「とじこめられていたんですね。しかし、そのことがあなたによくわかりましたね
。わたしには、悲鳴も聞こえなかった。声を出す力も残ってなかったようだ。あな
たは、なぜわかったのです」
「どう説明したものかな。第六感、いや、それとも少しちがう。形容できないな。
そんなことより、早く手当てを……」
あとでわかったことだが、女が品物の点検のためになかに入っている時、そとか
ら戸をしめられてしまった。こんな場合、内部に非常ベルがあるのだが、たまたま
故障していて、助けが呼べない。のどのかわきと空腹のため、発見がもう少しおく
れたら、そのまま死んでしまっただろう。
不安と恐怖のため、女はしばらく錯乱状態にあった。しかし、やがてそれも全快
し、命の恩人の名をたずねた。倉庫会社の社員は、男の名とつとめ先とを教えた。
その前にも、さらにその以前にも、そんなたぐいのことがあった。男はほぼ月に
一回の割で、若い女の危機を救ってきたのだった。
彼に助けられた女性たちは、男を会社にたずねてくる。なにしろ、命の恩人なの
だ、高価なおみやげを持ってくるのもある。また、夕食への招待を申し出たりもす
る。感謝と尊敬にみちた熱っぽい視線。
もちろん、男は悪い気分ではない。しかし、同僚たちにとって、これはまことに
奇異に見えるのだった。
「なぜ、あいつが、ああもてるんだ」
と、だれもがふしぎがる。男はぱっとしない外見。洗練されたところなど、まる
でない。高級な会話の才能も持っていない。身だしなみがいいわけでもなく、とく
に金まわりがいいわけでもない。それなのに、彼のところへ美女がつぎつぎにやっ
てくるのだ。
「おい、ひとりぐらい紹介してくれよ」
「してもいいけど……」
男はそうするが、同僚たちのお気に召すような結果になるわけがない。なにしろ
、女性たちにとって、彼は命の恩人なのだ。それと同じような態度を、ほかの男性
たちにとれるわけがない。
時たま、男はふとこう思い、つぶやく。
「おれだって、ふしぎだよ。なぜこうもつごうよく、ことが運ぶのだろう。なにか
特殊な幸運が、おれにとりついたのかもしれない。ほかに考えようがない」
かくのごとく、男は女性たちにもてた。いずれも若い美人ばかりだった。しかし
、残念なことに、思う存分それを楽しむというわけにもいかないのだった。
男には妻があった。多美子という名だが、美しいところはまるでなかった。鼻が
低く、まぶたがはれぼったく、くちびるが厚く、足が太く、どう見てもはるかに水
準以下だった。しかし、こっちも高望みできる立場にはないのだと、身のほどを知
っていた男は、多美子と結婚したのだった。
多美子には、なんのとりえもなかった。いや、ひとつだけ特徴があった。|嫉《
しっ》|妬《と》ぶかく、男から女のにおいをかぎとることについては、水準以上
の才能の持主だった。
男が帰宅すると、多美子が言う。
「きょう、だれか女の人と会ったでしょう」
「いや、その……」
男はずばりと指摘され、どぎまぎする。
「あたしの目はごまかせないのよ」
「じつは、仕事の上でちょっとだけ……」
「うそおっしゃい……」
ごまかしようがないのだった。さんざん文句を言われるという結末になる。罰を
受け、苦しむのだった。同僚たちからうらやましがられるほど、そとではもてる。
しかし、帰宅すると、そのことで多美子にいじめられる。その差がはなはだしいだ
けに、一層みじめな形だった。
しばらくして、またも例のたぐいのことが発生した。山道で女を助けてから、一
か月ほどたった時だ。
夜ふけの裏通り。刃物を持ったやつに、若い女がおどされている。通りがかった
男は、それを見てしまった。事態は切迫しているようだ。ほっておくわけにもいか
ない。といって、警察へ電話をしているひまもない。
しかし、かけつけて助けようにも、刃物の持主が相手では、勝目がない。どうし
たものだろう。あせりながらポケットに手を入れると、なにかがさわった。引っぱ
り出してみると、笛だった。乗り物ごっこの好きな近所の子にやろうと思って買っ
た、おもちゃの笛。
男はそれを口に当てて、強く吹いた。ピリピリピリ……。
静かななかで、高らかにひびいた。女をおどしていた人物は、警官が来たのかと
錯覚し、あたふたと逃げ出していった。女はほっとし、男にお礼を言う。
「おかげさまで助かりましたわ。一時はどうなることかと。いらっしゃるのがおそ
かったら、あたし、ぐさりとやられていたかも……」
「よかったですね」
「お礼の申しようもありませんわ」
「いえ、当然のことをしたまでです」
「とおっしゃると、あなたは刑事さんなんですの」
「ちがいますよ。たまたま、ポケットに笛があったというわけで……」
「まあ、そうでしたの。かかわりあいになるのがいやで、他人の危難を見て見ぬふ
りをする人が多い世の中ですのに、あなたはなんと勇気のあるかた……」
「いや、勇気なんかじゃありませんよ。笛があっただけのことです……」
「じゃあ、頭の回転がすばやいと申し上げるべきかしら。いずれにせよ、あたしは
助けていただいた。これは事実ですわ。あなたは命の恩人、ぜひ、お名前を……」
またもだ。ことわりきれるものでないことを、男は知っている。名刺を渡して別
れることになるのだった。
二、三日して、その女は男の家へやってきた。お礼にと高価な品を持って。
「いただいた名刺の会社へ問いあわせ、おたくの番地を知りました。先日は、本当
にありがとうございました。こんな程度の品では、とうてい感謝の気持ちはあらわ
せませんけど、とりあえずごあいさつに……」
「わざわざいらっしゃることなど……」
「それでは、わたくしの気がすみません。そのうち、会社のほうへもおうかがいい
たします。わたくしにできることでしたら、なんでもお望みのことをいたします。
あなたは命の恩人なんですから……」
熱っぽい目で男をみつめ、そして、帰ってゆくのだった。
そのあとで、妻の多美子がおこる。
「あなた、どういうつもりなのよ。女が家にやってくるなんて……」
さっきの女の美人である点が、いっそう多美子のお気に召さなかった。男はしど
ろもどろで弁解する。
「どうもこうもない。運命のせいか、超能力のせいか、マスコットのせいか、おれ
にもわからないんだ。つまり、こうなったのも、偶然のことで……」
「偶然なんて言いわけが通用するんだったら、世の中、平穏か大混乱かどっちかよ
。信用できないわ。いまの女の人と、そとでいつも会っているんでしょう」
「ちがうよ。そとで会っているのは、べつな女だ」
「まあ、何人も女がいるっていうわけね。あなたがそんな人だったとは。結婚する
前は、まじめな人のようだったけど、あれはごまかしだったわけね」
「そんなことはないよ」
男がいかに弁解しても、多美子の口調は激しくなる一方だった。もっとも、冷静
に事情を説明できたとしても、多美子のみならず、だれも理解はしてくれないだろ
う。
「もう、がまんできないわ。あたし、ここから出て行くわ。二度と戻ってこないか
ら」
多美子は全財産、つまり預金通帳を持って出ていってしまった。しかし、男はし
いてとめようとしなかった。戻ってこないほうが、かえっていいのではなかろうか
。
なにしろ、おれには幸運がとりついているのだ。超能力がめばえてきたというべ
きかもしれない。あるいは、なにかマスコットのたぐいのような神秘的な作用のお
かげかもしれない。
あわやという時に出現し、美女を助けるということができるのだ。ふしぎなこと
だが、事実ずっとそうだった。
「さあ、これからが本当のおれの人生なのだ……」
うれしさがこみあげてきて、男は笑いを押えられなかった。これからは、気がね
することもない。美女たちの感謝と尊敬の視線にかこまれた日々がつづくのだ。お
れのためならば、なんでもしてくれる女たち。気がむいたら、そのなかから、これ
はというのをえらび出し、結婚すればいい。それも、急ぐことは少しもないのだ。
期待のうちに月日がたった。しかし、一か月、二か月とすぎても、なぜか、いま
までのような事件にはめぐりあわなかった。また、これまでひっきりなしに会社に
たずねてきた美女たちも、やってこなくなった。
「どういうことなのだ、これは。恩知らずめ。こっちからたずねていって……」
そこまで考えて気がついたのだが、男は女性たちの住所や姓名を聞いていなかっ
た。いつもむこうからやってくる。そんなものを知る必要がなかったのだ。
美女たちとの縁は、まったく切れてしまった。つまらない平凡な毎日となった。
一方、出ていった多美子と再婚した男があった。ぱっとしない、とりえのない平
凡な男だった。そんな男ぐらいが、彼女とつりあうのだった。
しかし、その男はやがて、平凡でない偶然にめぐりあう。かけ足で踏切りを渡ろ
うとした時、不注意で女にぶつかり、女を突き倒す。その瞬間、電車が通りすぎて
ゆく。踏切りの係がうっかりし、|遮《しゃ》|断《だん》|機《き》をおろし忘
れていたのだった。突き倒されていなかったら、その女はひき殺されていただろう
。
「ああ、あぶなかった。あなたのおかげで、命びろいしましたわ。命の恩人ね。こ
のことは決して忘れませんわ。あたしにできることでしたら、どんなお礼でもいた
します。ぜひ、お名前を……」
「いや、名前など……」
そう答えながらも、まんざらでもない気分。こんな美女に感謝されることになる
とは。幸運とやらがおれにもまわってきたようだ。それとも超能力だろうか、ある
いはなにかマスコットのたぐいか……。
美女を助けて感謝されるという幸運のマスコットは、多美子。それがセットにな
っているなど、気づくわけがない。
重なった情景
夢というものは、見るのが当然なのだそうだ。それが正常。夢も見ないでぐっす
り眠ったという人も、めざめた時に忘れているだけで、やはり見ているのだという
。
もっとも、眠れればのことだが……。
その青年は、その夜、なぜか寝つきが悪かった。ベッドの上で何度も寝がえりを
くりかえすが、いっこうに眠くならない。なぜだろう。あれこれ考えてみるが、こ
れといって原因が思い当らない。彼は独身の、平凡な会社員だった。健康も、まあ
まあ。
なにか会社で失敗をやっただろうか。きょう一日をふりかえってみたが、べつに
なかった。眠れないのにまかせて、ここ一週間を反省してみたが、文書に誤字を書
き、それを注意されたぐらいだけだった。
自分はなにか不快な心境にあるのだろうか。しかし、それもなかった。新聞には
いろいろな事件がのっている。これは許せない、さあ腹を立てろという調子の文章
だが、それは毎度のことで、なれっこになっている。また事実、このところさして
刺激的な事件はなかった。不快さはない。
健康上で気になることもない。老後の設計の心配など、まだ先の先の話だ。独身
であることの欲求不満か。そうでもなかった。青年はバーの女性たちと、適当に交
際していた。
なにもなしだ。となると、気候のせいかもしれなかった。夕方ごろから、急に暑
くなりはじめた。といって、冷房を入れるほどでもない。中途はんぱな暑苦しさ。
彼は毛布をかけたり、はずしたりした。
むりに眠ろうとするからいけないんだ。そう考えてもみた。あす、特に重要な仕
事があるわけでもない。たまには遅刻したって、どうということもない。それでい
いんだ……。
気は楽になったが、眠くならない点は、さっきと変りなかった。青年はベッドか
らおり、ウイスキーを水で割って飲んでみた。酔ってくる。ねそべったまま、雑誌
を読む。そのうち酔いがさめてしまった。
「ああ、あ……」
むりにあくびをしてみる。しかし、ねむけを呼び寄せる役には立たなかった。な
んだかんだで、やがて夜があけてしまう。しかし、睡眠不足の疲労感という気分は
なかった。
「変な気分だが、出勤するか……」
欠勤する理由はなにもなかった。青年は朝食をとり、ひげをそり、出社した。仕
事をしながら、となりの同僚に言う。
「きのうは眠れなくてね」
「きみもか。じつは、ぼくもだ」
「すると、やはり気候のせいのようだな」
青年はほっとした。仲間がいたとなると、気が落ちつく。どうやら、ほかにも不
眠だった人が何人もいるようだった。それでいて、勤務中にいねむりをする者もな
かった。青年もまた同様だった。どういうわけか、いっこうに眠くない。
帰途、バーへ寄り、昨夜の不眠を話題にしながら酒をいくらか飲み、青年は帰宅
した。きのうはまるで眠っていない。きっと今夜は、ぐっすり眠れるだろう。彼は
そう高級でないアパートの一室に帰りつく。着がえて、ベッドに入る。
しかし、またも昨夜と同様だった。眠りの精に見はなされたかのように、あくび
すら出ない。いったい、これはどういうことなのだろう。考えてもわからなかった
。そんなことを考えるからいけないんだ。そこで、考えるのをやめてみる。目をつ
ぶって、ぼんやりとしている。しかし、やはり眠くならないのだった。
目をつぶっているのが、無意味に思えてくる。なにげなく目をあけてみると……
。
ひとりの若い女が、そばに立っていた。それがだれかは、すぐにわかった。彼の
よく行くバーの、ちょっとした美人。時どきくどいてみるが、いい反応はなく、そ
のため青年はかえって気をひかれていた。
「なんだ、きみか。来てくれたのか……」
思わず声をあげ、青年は自分の目を疑った。信じられない。まさかという思い。