「やはり、なにか知っているのだな」
「いかがでしょう。この店の宣伝担当の相談役になっていただけませんか。ほんの
形式的なものです。メニューやコースターのデザインについての、ご意見をのべて
いただければいいんです。そのかわり、お食事は無料といたします。毎日おいでい
ただいても、けっこうです。味にご不満はございませんでしょう」
「こんなおいしい店はほかにない」
「決して悪くないお話でしょう。あなたのために申し上げているのですよ。つまら
ないことは、お忘れ下さい」
「うむ……」
「よくお考えになってみて下さい」
「考えてみるよ」
そう言って、若い記者は帰った。店の主人の攻略法を考えるためだった。もはや
金はない。あったとしても、金の力では動きそうにない。藤川についてしゃべらせ
る、適当な方法は思いつかなかった。
久しぶりに新聞社へ行く。そこの資料室で調べると、あった。十五年ほど前、食
中毒で死者を出した店があった。その主人の名と同じではないか。彼は勢いづいた
。ふたたびレストランへ出かけ、主人に言う。
「十五年前に、とんでもないことをしたな」
「どこで、そんなことを……」
「新聞記者なのでね」
「あの事件以後、二度とくりかえすまいと誓った。人びとを味で楽しませ、つぐな
いをしようと、外国で必死になって修業し、出なおしたのです。そして、やっとこ
こまで来たというのに……」
「表ざたになっては困るだろう」
「新聞社の人が|恐喝《きょうかつ》をするのですか」
「そうなってはよくないと思ってね。さっき、辞表を社へ郵送しておいた。つまり
、もはや記者ではない。ぼく個人の立場でやることなのだ。さあ、藤川のことを教
えてくれ」
「驚きましたなあ。そんなに夢中になっているのですか。職を辞してまで……」
「そうなのだ」
「それでは、つぎの勤務先をさがさねばなりませんね。いまでしたら、ここの店で
、このあいだの条件で……」
「ごまかさないでくれ。ぼくの知りたいことを、早く話してくれ」
「あなたには負けました。お教えしましょう。しかし、手がかりだけですよ」
そして、主人はある実業家の名を言った。その人が藤川の居所を知っているはず
だと。
彼も名を知っているほどの、有名な実業家だった。いくつもの会社を経営してい
る。彼はそれらの会社に関する資料を取りよせ、日数をかけ調べてみた。どれも業
績がよかった。
「かなりの利益をあげているようだ。その利益の、資料にはのっていない裏の事情
について、藤川はなにかをつかんだにちがいない。ひとつ、乗りこんで、直接に聞
き出すか」
大きな邸宅だった。彼はその門を入ろうとしたが、近くに警察のあったことを思
い出し、そこへ行ってこう言った。
「これから、あの実業家の家を訪問します。帰りにここへ寄らなかったら、なにか
があったと思って下さい」
「ふしぎな人だね。なにが起るというのだね。しかし、まあ、いいでしょう。記憶
しておきましょう」
そして、彼は覚悟をきめ、門を入った。面会を申し込むと、若い男が出てきて言
った。
「社長は自宅でも忙しいのです」
「お時間はとらせません。五分でけっこうですから、お目にかからせて下さい」
応接間に通される。やがて社長が出てきた。
「わたしになんの用かね。簡単に言ってくれたまえ」
「そういたします。じつは、藤川という男がいまどうしているか、それをうかがい
たいだけです」
「その名を言ってくれるな。わたしは胸が痛くなるのだ」
「しかし、わたしは藤川の消息を追って、ここまで来たのです。その苦心は……」
「それはわかる。きみはまじめで、あくまで目標につき進む性格のようだ。みどこ
ろがある。どうだ、わたしの事業を手伝ってくれぬか。きみなら、きっと成績をあ
げるだろう。手腕を示せば、会社をひとつまかせてもいい」
「はあ……」
「わたしには、あとつぎの子がないのだ。だから、きみの実力いかんによっては、
わたしの後継者にもなれるよ。ここをよく考えてみないかね」
「はあ……」
彼は考えた。事業を手伝うことについてでなく、藤川についてだ。やっと、ここ
までたどりついたのだ。もう少しではないか。
「……しかし、やはり……」
「そう早くきめることはあるまい。一晩ゆっくり考えてからにしたまえ。わたしは
逃げもかくれもしない」
「そういたしましょう。では、あす……」
彼は引きあげた。警察へ寄り、あしたもよろしくとあいさつをして。
いままでだってそうだった。ここまできて決心の変るわけがなかった。翌日、彼
はまた邸を訪れた。
「藤川のことを教えて下さい」
「だめかねえ。きみのような人間に、ぜひ手伝ってもらいたいのだ。その気になら
んかね。いまからでもまにあうよ」
「そんなことより、早く藤川のことを教えて下さい。ごまかしては困ります」
「その名を聞くと、心が痛むのだよ」
「きのうも、そんなことをおっしゃった。あなたは、部下に藤川を消させたにちが
いない、企業の秘密かなにかを知られたので……」
「そんなことはない」
「しかし、藤川の消息はここで絶えているんです。生きているのなら、だれか会っ
ているはずなのに、そんな話は聞かない。いったい、どこにいるんです」
「それを言わせようと言うのか」
「そうです。ぜひ知りたい」
彼は身を乗り出した。社長は壁の地図を指さして答えた。
「この小さな島にいるよ。わたしの会社のひとつが、将来のレジャー産業用にと買
った島だ。そこの小屋で、見張り番をしている。未開発だから、まだ定期船は出て
いないが、そのへんの漁船にたのんで乗せてもらえれば行ける。しかし、思いなお
して、わたしの仕事を手伝う気にはならないかね。最後のチャンスだよ」
「申しわけありませんが、わたしにはわたしなりの生き方があるのです」
彼は島に渡った。空気もいいし、悪いところではなかった。開発されれば、いい
保養地になるだろう。もっとも、そうするにはかなりの年月がかかるだろうが。
粗末な小屋があった。彼はそこへたどりつく。なかに、ひとりの男がねそべって
いた。声をかける。
「こんにちは。あなた、藤川さんですか」
「いや、ちがうよ」
「じゃあ、どこにいるんです。教えて下さい。もったいをつけられたり、変な条件
を出されるのは、もうたくさんだ」
「そんなことはしないよ。藤川なら、そのへんの岩の上で釣りをしているはずだ」
「どうもすみません」
たしかに、釣りをしている男がいた。
「あなた、藤川さんですか」
「そうだよ」
と男は気の抜けたような表情で答えた。
「あなたは、消えた刑事のあとを追ったまま、消息を絶ってしまいましたね」
「そうだよ」
「で、みつけたんですか、その刑事を」
「ああ、あの小屋のなかにいるやつがそうさ」
「その刑事が、なぜここに……」
「だれかをさがして来たらしい。そいつをここで見つけたってわけさ。しかし、そ
いつはまもなく、海へ身を投げて自殺してしまったそうだ。あるいは、そいつの前
にも、だれか自殺しているかもしれない」
「なぜ、自殺なんかを……」
「おれには、よくわかるがね」
「しっかりして下さいよ。藤川さん。あの小屋にいる刑事もだ。帰りましょうよ。
ばかばかしい。こんなところにいるなんて。苦労してここまで来たんでしょう」
「そうさ。きみと同じような苦労をしてな。ばかばかしい苦労をだ。で、いったい
、帰ってなにをするんだね。帰れば、なにがあるというんだね」
「人生というものがあるじゃありませんか」
「そうかね。ここも悪くないぜ。あの社長が、最小限の必要品をとどけてくれる。
まあ、一晩ここで考えてからにしてみたらいい」
「そうでしょうか。考えてみましょう……」
彼はその島で一晩をすごした。波の音で眠れぬまま、ひとり考えた。ここにたど
りつくまでのことを回想した。
そのうち、ここで自殺したやつ、戻る気にならぬ藤川や刑事、その心境がなんと
なくわかってきた。
社会へ戻って、どんな人生があるというのだ。人は、めぐり会うかもしれぬ幸運
を期待しながら、なんとか生きている。それなのにおれは、現実に何回もめぐり会
いながら、それを全部みずから拒絶し、捨ててしまった。おれに残されたものは、
後悔しかない。
まわれ右
医者のところへ、ひとりの男がやってきた。五十歳なかばぐらい。どことなく表
情がおかしかった。もっとも、おかしいところがあるからこそ、人は医者をおとず
れるのだ。男は思いつめた口調で言った。
「先生。わたしの話を聞いて下さい」
「聞きますとも。病人を治療するのが商売なのですし、どうぐあいが悪いのか話を
聞かないことには、診断のしようがありません。で、お名前は……」
と聞く医者に、男は名を告げてから言った。
「おかしくなったのは、会社を停年でやめて、しばらくしてからでした」
「なるほど。停年退職というやつは、たしかに、生活のリズムを大幅に変えますか
らな。からだにも影響がおよびますよ。急にふけこんだりしてね。しかし、あなた
は見たところ、非常にお若い。とても、停年退職をした人には見えない」
「ええ、問題はそこにあるのですよ。わたしも、まさかこんなことが、わが身の上
におころうとは。いったい、こんなばかげたことになろうなどと……」
わけもなくしゃべりつづける男を、医者はなだめた。
「まあ、そう興奮なさらずに。その問題点をお話し下さい」
「その先を話すと、精神異常と思われ、それで終りです。ここだって、どうせそう
にきまっている」
「そんなことはありません。わたしは医学の各分野について、まんべんなく学んだ
。だから、総合的な診断と手当てができるのです。精神的な障害なら、それなりの
手当てをしてあげます。ご安心下さい」
「そうでしたか」
「さあ、気を楽に、なにもかもお話しになって下さい。いったい、いつごろからお
かしいと思うようになったのです」
「おかしいと思うでなく、事実おかしくなったのです」
「そう、表現は正確なほうがよろしい。で、いつごろからですか……」
しばらくの緊張した沈黙ののち、男は言った。
「じつは、五年後からなのです」
「なんですって……」
「ほら、先生もほかの医者と同じだ」
「いや、確認のための質問ですよ。何年です。もう一回おっしゃって下さい」
「五年後から、ずっとなのです」
と男は言った。医者も、いまとなっては笑うわけにいかなくなっていた。内心は
ともかく、職業的な冷静さを示して言った。
「では、その発病の時のもようを、もう少しくわしく話してくれませんか。まだ病
気ときまったわけではありませんから、発病という言葉が適当かどうかわかりませ
んが」
「会社を停年退職し、しばらくたった、ある日のことです。いつものように、自宅
でひとり夕食をとり、そのあと、ラフラを食べた。栄養をつけておいたほうがいい
と思いましてね」
「なんです、その、ラフラというのは。聞いたことがない」
「そうでした。先生がご存知ないのも、むりはない。いまから五年後に流行する食
品ですからね。しかし、その副作用ということはないはずですよ。味とかおりはす
てきですが、べつに特殊な成分が含まれているわけではありませんから……」
「で、食後どうなさったのです」
「二時間ほど読書をし、眠りました。朝までぐっすりです。その眠りの途中、変な
夢を見ました。あんな変な夢は、はじめてだ」
「どんな夢です」
「正体不明なのです。ぼんやりとはしているが、たしかに存在している。ようする
に、わけがわからないものです。しかし、言うことははっきりしていた」
「なんと言ったのです」
「まわれ右と、わたしに言ったのです。そこだけは、いまでもはっきりおぼえてい
る。それから、目がさめ、朝になっていた。だが、なにかおかしい。そのうち、気
がついたわけです」
「なにがどうなったというのですか」
と医者は好奇心をもって聞いた。
「いいですか。何回も話すのはいやですから、はっきり、ゆっくり申しあげますよ
。普通ならですね、夜に眠って、目がさめて朝になると、翌日です。しかし、その
、わたしの場合はちがったのです。目がさめてみると、前日になっていたのです」
「ううん……」
「作り話をしにきたわけじゃありませんよ。他人をだまして面白がる性格など、わ
たしにはありません。新聞の日付け、曜日、すべて一日前になっていた。その新聞
の記事も、すでに読んだものでした。天気も同じ、前日をふたたび体験させられた
というわけです」
「気のせいだとは思いませんでしたか」
「思いましたとも。夢の延長か、幻覚のようなものだろうとね。ほかに考えようが
ありません。その日はずっと、そう思いこむようつとめました。そして、夜になっ
て眠り、朝になって目がさめた。すると、さらに前の日になっている……」
「ううん……」
医者は、またうなった。ほかに言いようがなかったのだ。男はつづけた。
「それから、ずっとなのです。つまり、夜になって眠ると、前の日の朝につづいて
しまうのです。しかし、こんな話、信用して下さらないでしょうね」
「いや、信じますよ。じつに興味がある。もっと先を聞きたい気分ですよ」
医者は内心、相手にさらにしゃべらせ、つじつまの合わなくなる点の出るのを待
つつもりだった。
「そう言われると、話しやすくなります。たしかに異常にはちがいなかった。しか
し、決して悪い事態じゃありませんよ。いやおうなしに老いや死にむかって流され
るのとは、逆なのですから。速度はおそいが、確実に若くなってゆく……」
「なるほど。停年退職したあとにしては若く見える。そのせいでしたか。うむ。こ
れはすばらしい研究テーマだ。うまくゆくと、若がえりのワクチンの完成が……」
「かんちがいなさってはいけません。若がえっているのではない。時をさかのぼっ
ているのです」
「未来から戻って、ここにやってきた、そういうところですな」
つぶやきながら、医者は首をかしげた。男はうなずく。
「そうなんです」
「だったら、未来のことをおぼえているわけでしょう」
「理屈の上ではね。いや、事実おぼえてはいますよ。しかし、先生、あなたはどう
ですか。きのうなさったことを、一週間前、一年前になさったこと。それをはっき
り思い出せますか」
「ううん。それはむりだな。しかし、メモをつけておけば……」
「だめですよ。つぎの朝は、メモを書いた前の日になっているのですから。メモは
白紙になってしまっている。そうだ。メモといえば、わたしの気分は、日記帳をお
わりのほうから読みかえしているようなものです。読んだあと、破り捨てながらね
。ある日、ふと外出して、デパートに行ったりする。そこで気がつくのです。そう
いえば、前にこれと同じことをやったっけなと……」
「そういうものでしょうかね。わたしには想像もつかないが……」
医者は考えこみ、男は話しつづけた。
「やがて、わたしは就職しました。変な顔をなさらないで下さい。停年退職前の自
分に戻ったわけです。会社へ出勤する毎日となりました。いいものですな、毎日、
仕事にうちこめるというのは。また、のんきなものです。なにしろ、一般の人にと
っての翌日のことを心配しなくていいのですから」
「その、会社での仕事は、うまくやれるのですか」
「かつての、その日の自分に戻るわけですよ。からだのほうが、しぜんに動き、そ
の日にふさわしいようなぐあいになるのです」
医者は質問をひとつ思いついた。
「たしかに奇妙な現象です。しかし、さっきからのお話だと、あなたはそれに適応
なさっているようだ。老化もせず、死からは遠ざかりつつある。発病、といってい
いのかどうかわかりませんが、五年もその生活をつづけている。なにか困ったこと
になったのですか」
「ええ……」
「ははあ、普通だったら昇進のところを、時がたつにつれて格下げになるとか……
」
「それは平気です。前の日へ、前の日へと戻ってゆくのです。格下げになっても、
だれもばかにしません。格下げになった日など、まわりでお祝いをしてくれます。
あしたは昇進だといってね。うらやましがられもする」
「それも理屈ですな。それなら、それでいいじゃありませんか。ただならぬ感じで
、ここへかけこまなくても……」
医者はその点をふしぎがり、男は話した。
「じつは、申しおくれましたが、わたしは妻に先立たれたのです。それが大変な悪
妻でしてね。正直なところ、死んでほっとした。そんな女でしたよ。それを思い出
したのです。日、一日と、妻の命日が近づいてくる。ほどなく、その日が来ます。
となると、あのいやな日の連続がはじまるわけでしょう。それを考えると、死にた
くなる。だから、あわてて、一大決心をして、ここにうかがったのです」
「そんな事情があったとはね。しかし、どうしたものか。あなたは、運命というか
、時間|軸《じく》というか、それが百八十度、変ってしまったわけですな」
「そんな、説明とか解説などは、どうでもいいのです。早くなおしていただきたい
だけなのです。ゆっくり研究して、なんて言ってるひまはありませんよ。あしたに
なれば、わたしは、先生にとってのきのうに戻ってしまうのです。だから、一刻も
早く……」
男にせかされ、医者はしばらく考えこみ、それから言った。
「療法となるとねえ。強力な電磁場発生装置がある。それを使用すれば、あなたを
ふたたび未来へはねかえせるかもしれない。強力な新しい薬品がある。潜在意識に
作用するやつです。それを注射し、まわれ右の暗示をかけるのも、ひとつの方法か
もしれない。しかし、へたをすると……」
「その心配はしないで下さい。きのう、わたしは生きていた。つまり、先生にとっ
ての明日、わたしは生きているわけです。すなわち、生命は保証されている。とこ
ろで、先生にとってのきのう、ここでわけのわからない死者が出ましたか」
「そんなの、出ませんでしたよ」
「それなら、治療のかいなく、わたしがここで死ぬということもない」
「わけがわからない気分だが、そういうものかもしれませんな。やってみるとしま
すか」
どっちへころんでも大丈夫らしいと、医者は治療をこころみた。思いつくかぎり
の、ありとあらゆる方法がとられた。医者のほうも疲れたが、男もさすがにぐった
りとし、ついにベッドの上に横たわったままとなった。
翌日、医者は病室をのぞいた。消えているか、死んでいるかと、好奇心と不安を
もってのぞいた。
男はベッドの上にいた。医者はゆりおこし、声をかける。
「おい、目をさませ……」
「あ、先生。きょうは何日です」
医者はカレンダーつきの腕時計を示して言う。
「きのうの翌日だ。わしにとってのな」
「あ、すると、わたしはなおったわけだ。ありがたい。お礼の申しようがない。で
、治療代はどれくらいでしょうか」
「それを気にすることはないよ。たのみがある。思い出せる範囲のことだけでいい
。未来のことを、少しずつ教えてくれ。それだけでいいし、それが|唯《ゆい》|
一《いつ》の望みだ。そのために、手をつくしたようなものだ」
「いいですとも。ご要望にそいましょう」
男は数日の入院ののち、退院し、ふたたび会社へ通勤するようになった。医者は
未来を知る期待で胸をおどらせながら、一日おきぐらいに、男の会社へ出かけて聞
く。
「教えてくれよ。あした、どんな事件がおこる。一週間後でもいい。なにしろ、あ
なたは二回も同じ体験をしているのだ。予想のたたないはずはない」
「あいにく、わたしは株式や競馬に興味がなかったのでね。それに、どうも少しお
かしいところがあるのです」
「ごまかしちゃ困るよ。なにも、わたしにかくすことはないじゃないか。自分だけ
、うまいもうけをしようというのだろう。けち。この恩知らず。だれのおかげで正
常に戻れた……」
口論にもなる。男はやがて、|閑職《かんしょく》へおいやられた。へんな客が
一日おきぐらいにやってきて、わけのわからない会話をし、言いあいになっている
。ほかの者たちの、仕事のさまたげになる。それが理由だった。
医者はそこへもたずねてくる。
「なにか思い出して、教えてくれ」
「どうも未来がうまく思い出せない。なにかおかしい。第一、こんな閑職へ移るは
ずじゃなかったのに。やはり、過去を変えたのがいけなかったのかもしれない。治
療していただいたことは感謝していますよ。しかし、それで先生との関連ができた
。わたしの人生に、先生という要素が加わったのです。だから、わたしの人生も変
ったものになったのです。つまり、べつな未来へ進んでいるというわけですよ」
「こっちのせいにしやがる。こんなことなら、苦心してなおすんじゃなかった。ば
かをみた」
医者はもう行く気にならなくなった。一か月ほどし、反対に、男のほうが医者を
訪れた。
「ごぶさたしました。じつは、あれからいろいろと考えてみたのですが……」
「なにか未来を思い出したか」
「それについては、だめです。きょううかがったのは、べつなことで……」
「なんだ」
「人体に寿命というものがあるからには、人生が変っても、よほどの不運にあわな
い限り、それまでは生きるわけでしょう」
「まあ、そういっていいだろうな」
「すると、わたしは、まだ五年は確実だ」
「けっこうなことだよ。いいじゃないか」
「しかし、発病しやすい体質というものもあるわけでしょう。五年ばかりのちに、
また夢のなかで、あの“まわれ右”の声を聞くのではないでしょうか。それを考え
ると、心配で、心配で……」
「勝手に心配するんだな。もう、わたしは知らないよ。知ったことか」
品種改良
ある日の夕方。エヌ博士の研究所に、アール氏がたずねてきた。アール氏とは、
この研究所の最大にして唯一の応援者だった。ていねいに応対しなければならない
。
「これはこれは。わざわざ、おいで下さるとは。ご用でしたら、こちらから出かけ
ましたのに……」
とエヌ博士が迎えると、アール氏は早口でしゃべりはじめた。だいぶ興奮してい
るらしい。
「いったい、研究のほうは、どうなっているのだ」
「はい。順調でございます」
「そんな、のんびりしたことでは困る。いいか、きみはわたしと約束した。不老長
寿の分野の開発については、確信があると。また、研究を十年間だけ応援してくれ
れば、必ず完成してごらんにいれますとも。わたしは期待し、きみを信用し、必要
だという品の購入を、すべて無条件で許してきた。放射線照射器をはじめとする各
種の装置から、さまざまな実験用の動物、植物、薬品などだ。いままでに相当な金
額をつぎこんだことになる」
「はい。わかっております」
「さっき、とつぜん気がついたのだが、その十年がたった。そこで、急いでやって
きたのだ。さあ、結果を知らせてもらおう。成功だったら、いくらでも報酬を払う
。しかし、だめだったのなら、この研究所はただちに廃止だ」
エヌ博士はすぐには答えず、ちょっと首をかしげた。すると、どういう順序で告
げるべきか、最も適切な発表の方法が頭に浮かんできた。
「ごもっともです。わたしも約束をはたすべく努力してきました。そして、しばら
く前に完成いたしました」
この簡潔な言葉に、アール氏は目を丸くした。彼は深い息をついてから言った。
「そうだったのか。さすがはきみだ。わたしが見こんだだけのことはあった。しか
し、ひとが悪いな。すぐに知らせてくれればいいのに」
「わたしの立場では、軽々しい報告はできません。作用の確実なことをたしかめて
みる日時も必要でした」
「それもそうだな。いかに不老長寿の薬でも、有害な副作用があっては困る。いや
、それがないからこそ不老長寿というべきなのだろうな。まあ、いい。その実物を
早く見せてくれ」
「お待ち下さい」
とエヌ博士は立ちあがり、そばの戸棚からビンを出してきた。なかには、茶色っ
ぽい粒がいくつも入っている。アール氏はそれを見つめ、感想を口にした。
「なんとなく、うすぎたない丸薬だな。しかし、外観で判断すべきものではあるま
い。問題は効果だ。はたして役に立つのか」
「わたしの理論にまちがいはありません。また“事実の裏付け”もあります。一年
ほど前、わたしが研究に熱中しすぎたため、からだが弱ってしまった時のことをご
記憶でしょう。いまのわたしとくらべて見て下さい」
アール氏は、さっきの興奮から、いくらかさめていた。彼はエヌ博士をしげしげ
と眺めながら言った。
「うむ。たしかに、見ちがえるようだ。血色もよく、体重もふえたようだ。若々し
くなっている」
「あのころは血圧も高く、心臓や消化器をはじめ、いたるところ故障だらけでした
。医者の診断だと、そう長くはもつまいとのことでした。それでわたしも、一部の
検討を省略し、大急ぎで服用したのです。はじめて飲むまでには、大変な勇気と決
断がいりましたよ。しかし、みるみる回復にむかいました。医者に診察させたら、
信じられぬ現象だと考えこんでしまいました。これが立派な証明になりましょう」
エヌ博士は医者の診断書を二枚、机の上に並べた。ひとつは服用前、ひとつは服
用後のだった。
「よくわかった。さっそく、わたしも飲むとしよう。きみの身をもっての実験のお
かげで、わたしはべつに勇気も決断もなしに、楽しく飲むことができる」
アール氏はビンの|栓《せん》をはずし、その一粒を口に入れ、コップの水で飲
みこんだ。さらに何粒かを飲もうとしたが、エヌ博士はそれをとめた。
「一粒でおやめ下さい」
「なぜだ。たくさん飲んだほうが、効果も強いわけだろう。また、副作用はないと
いう説明だった。それとも、服用法でもあるのか」
「いえ、一粒だけ飲めばいいのです。あとは永久に飲む必要がありません」
「わけがわからん。不老長寿の秘薬なら、もっとありがたみのある服用法となりそ
うな気がする。あまりに簡単だ。いったい、どんな作用なのだ。くわしい説明をし
てくれ」
エヌ博士の頭には、この場ですぐに説明しないほうがよさそうだ、との考えが浮
かんだ。
「もちろん、ご説明いたします。しかし、長くなりますし、今夜は時刻もおそくな
りました。明日ゆっくり、ということでは、いかがでしょう」
「それでもいい。研究は完成したのだし、もう、あわてることはないわけだ」
アール氏は承知し帰っていった。
そして、つぎの朝。待ちかねたようにやってきて言った。
「昨夜は、うれしくて眠れなかった。けさも早く目が覚めた。さあ、早く教えてく
れ」
「そうでしたか。いかがでしょう、ご気分は」
「気のせいかもしれないが、非常にぐあいがいい。気のせいだけでないと知れば、
さらにさっぱりするだろう」
エヌ博士はうなずいた。もう説明に移ってもいいだろうとの判断が、頭に浮かん
できたからだった。
「では、順を追ってお話ししましょう。人間の腸内には、役に立つ働きをする微生
物が存在しています」
「そんな話は聞いたことがある。というと、乳酸菌製剤のようなものか」
「まあ、先走らずにお聞き下さい。わたしはそれにヒントを得て、品種改良を試み
たのです。放射線を当てたり、薬品で刺激したりして、完全な新種を作るのに成功
したわけです」
「どんな微生物だ」
とアール氏は質問した。エヌ博士はためらいを感じた。だが、発表すべきだとい
う意志が高まり、それに従った。
「微生物ではありません。回虫です」
「なんだと」
アール氏は顔をしかめたが、ここで叫んではいけないとの考えが、それを押さえ
た。
「ええ、そうなのです。いままでの回虫は人体に害のみを与え、ろくなことはしな
かった。これは回虫にとって損な、じつにおろかな行為です。わたしはかしこい回
虫にすべく、品種改良をやったのです。犯罪者を更生させ、社会に参加させた偉大
な教育者といった気分は、こんなものでしょう」
「まあ、感想はそれくらいでいい。で、そうすると、どうなるのだ」
「利口になれば、気がつくはずです。人体に害を与えて共倒れになるのは、結局は
自分に不利だと。それどころか、できるだけ長く生かすための努力をするはずです
。人体に故障した部分があれば、それを修理するために、適当な液を|分《ぶん》
|泌《ぴつ》したりするはずです。いや、はずでなく、事実、それでわたしはこう
若々しくなったのです」
「なるほど。われわれ人間が、自分の果樹園に肥料や殺虫剤や植物ホルモンなどを
与えるようなものだな。いいアイデアかもしれぬ。その分泌液を|抽出《ちゅうし
ゅつ》し、集めて丸薬にしたというわけか」
「そうも考えましたが、それだと飲みつづけなければならず、不便です。もっとよ
い方法がありました。つまり、あの丸い粒はその卵です」
「なんだと……」
アール氏は大声をあげようとしたが、思いとどまる力のほうが強かった。自分が
果樹にされるという、|屈辱感《くつじょくかん》も、それほど高まってこなかっ
た。彼はこう聞いた。
「……ひとつ、どんな回虫なのか見たいものだな」
「これです。成長が早く、卵は一晩でかえり、すぐこれくらいになります」
エヌ博士はアルコールづけの標本を持ってきた。なかにはそれが入っている。細
長く、みにくく、しわが表面をおおっていて、細かい|触手《しょくしゅ》のよう
なものが多く、うすぎたない色をして、グロテスクな形だった。静止していてこれ
だから、これがうごめく時の姿を想像したら、ふつうではとても正視できるもので
はない。アール氏の頭に、反射的に血がのぼってきた。しかし、その血は、これを
|嫌《けん》|悪《お》してはいけないとの考えを運びあげてきたのだ。彼は言っ
た。
「そう悪くないな」
エヌ博士のほうは、もっと度が進んでいた。
「いまに、もっと好きになりますよ。美と完成の極致です」
「まもなくわたしも、そう思うようになりそうな予感がする。いずれにせよ、すば
らしい発見だ。われわれだけの秘密にしておくことは許されない。その卵をふやし
、できるだけ多くの人びとに広めなければならない」
アール氏は目を輝かせて、力強く叫んだ。それはまさに心の底から、いや、腹の
底からこみあげる衝動が、言葉となってあらわれたものにちがいなかった。
門のある家
午後の五時半ごろ、ひとりの青年が落胆したような足どりで歩いていた。三十歳
。順一という名で、つとめ先からの帰宅の途中だった。正確にいうと、会社の帰り
に|伯《お》|父《じ》の家に寄り、そこを出てきたところだった。